猫を起こさないように
年: <span>2001年</span>
年: 2001年

イマジン

 何もない日々。穏やかな日々。(閉め切った薄暗い室内のじめじめした布団の盛り上りが画面に映る)。大手サイトのリンク集に名前を連ねることもなく、ネットワナビーの経営する弱小サイトの掲示板で非難や中傷の的になることもない。ネット社会での私は完全にいないものと同じになっていた(布団の盛り上がり、画面に映る。さきほどと比べ、窓から差し込む陽光に室内の様子が明るくなっている)。まるで、個人日記サイトなどというネット上のカテゴリを知ることもなく、ただガツガツと心を飢えさせていた十代のあの頃に戻ったかのようだった(布団の盛り上がり、画面に映る。窓から差し込む陽光、弱まってきている。盛り上がり、微動だにしない。間。室内は再び暗闇に包まれる。布団の盛り上がりがわずかに揺れる)。食卓で愚息の余分な薄皮を弄びながら、。おたくとは一番遠い人のように、まるでおたくを人ごとのようにして談笑する自分を見つけたとき、私は愕然とした(湯気を立てる食事を前に、ズボンを半ばずりおろしてチンポの皮を引きつのばしつしている男が、対面に座った女性に強く叱責されている写真が挿入される)。私がいるいないに関わらず、ネット社会の時間は変わらずに流れてゆく。だが、それを知って、気が楽になった。『サクラさん』は、朝の用便の最中に着想してから1時間で書き上げた。(軽快な音楽とは裏腹な、薄暗い部屋の中で分厚い眼鏡に背中を90度に丸め、 モニターから10センチの距離に顔面を接近させた鬱陶しい図柄の写真が、何枚もスライドのように画面に挿入される。最後の写真は、”笑いの演技の練習中”としか形容できない男の顔面の様子がアップで写される)
 (映画館の座席に腰掛けた男の姿が映し出される。股ぐらにポップコーンの大きな器を抱え込んで、ぼろぼろと盛大にこぼしつつむさぼっている) 「ア、アニメはいいね。アニメはとてもいい。だってそれは本当のことじゃないからね。本当のことじゃないってことは、覚悟をしなくていいってことだよね。だからとてもいい(スクリーンの映像の光が男の顔面に照り返し、一種異様な雰囲気を作り出している)」
 ――あなたはアニメの中で、何が一番好きですか?
 「小さな女の子だね。生まれ変わって、まず何になりたいかって聞かれたら、小さな女の子だって答えるよね。だって、そうすれば、ずっと誰からも後ろ指さされることなく小さな女の子といっしょにいられるわけだよね。いや、ちがうんだ、もちろんアニメの方の小さな女の子だよ。だって、現実の小さな女の子は、まァ悪くはないけど、泣くし、臭いし、わがままだし、じきに小さな女の子じゃなくなってしまって、ただのイヤな女が残されるだけでしょ。それはとても残酷だし、ぼくにとっても、女の子にとっても辛いことだよね。ね。(男の隣に座っていた女性、もうたまりかねたといった様子で席を立ち上がり、その場を立ち去る。湿度が高まった女性器を指で擦るときの擬音に、甲高い声で”アイアムゲイカ”という歌詞の連呼が加わる曲が流れ始める)」
 (ひどいせむしの男と女性が、第三者が見たならばお互いが知り合いであるとはとうてい思えないような距離をおいて歩いている) ”ぼくはホームページを更新するとき、自分と同年代の人々を思いながら、彼らに語りかけるように更新するんだ。『やあ、小鳥猊下だ。最近調子はどうだい。元気でやってるかい。80年代、90年代はガンダムとかエヴァンゲリオンとか、大作化するRPGとか、ジャンプの衰退と復権とか、ひたすらおたくで、さんざんだったな。21世紀はお互いいい時代にしようぜ』”
  
 「(小太りの男が、ほとんど両足を動かさないまま、左右に跳びはねるように近寄ってくる。フェンスに飛びついて)なあ、小鳥猊下、あんた小鳥猊下だろ。信じられねえ! 今日ここで会えるなんて! なあ、握手してくれよ! おれ、あんたの大ファンなんだ。(せむしの男、尊大にフェンス越しに手をさしのべ、握手をする)信じられねえ! 信じられねえよ! なあ、聞いていいか? nWoはいつ更新を再開するんだ?」
 「明日だ(せむしの男、フェンスから歩み去る)」
 「(跳びはねて近寄ってくる小太りの仲間たちに向かって)なあ、小鳥猊下だ。小鳥猊下と握手しちまった! おれ、信じられねえ! 信じられねえよ!」
 (黒い服に身を包んだ女性が背中を向けて座っている)
 「いま思えば、いくつか事件の暗示はありました。発売日にジャンプを買って来なかったり、以前はあれだけむさぼるように執着していたし、批判の言葉もものすごかったのに、最近では1時間ほどでゲームをプレイすることをやめてしまったり。何のコメントも無くです。ああ、でも、これらはすべて後付けの理屈なのかもしれません。本当のところ、かれの内側で何が起こっていたのかは、どんなに近しい人間にもわからない。かれにしかわからない、かれだけの世界なのですから」
 (プリントアウトしたものらしい紙束を胸に抱えて、数人の女性が泣きじゃくっている)
 「私たちにとってnWoは特別なの。私たちは小鳥猊下とともに成長してきたわ。猊下は私たちがなんとなく感じていた生きにくさに指をさして、”それはおたくだ”ってはっきりと言ってくれたの。私たちは初めて自分たちのおたくに胸を張ることができた。学校にいても、会社にいても、どこにいてもnWoがそこにあるってわかったから。おたくじゃない猊下のnWoなんて考えられないわ(紙束に顔を埋めて号泣する)」
 早朝の駅前ロータリー。低く流れるキーを外した不安な音楽。とある量販店の前で、某有名大作RPGの路上販売の声が響く。遠くからふらふらと歩いてくる男。男、香港の路地裏の屋台に裸にむかれて吊された鶏の死骸を連想させる様子でネクタイに緊縛されている。高まる不安な音楽。路上販売のあげる威勢のいい声。ふらふらと白昼夢の中の人のように、そこへ歩み来る男。突然の突風に揺れる某有名大作RPGのロゴを染め抜いた旗。路上販売のまさに前にさしかかる男。音楽はもはや耳をおおわんばかりの音量と不安定さで流れている。一瞬写真のネガのように反転し、停止する風景。男、路上販売に一瞥もくれずに通り過ぎる。叩きつけるピアノの音。男、人混みの中を駅のエスカレーターへと呑み込まれてゆく。駅前に行き交う老若男女、男の姿が見えなくなると一斉に地面に倒れふし、大声で泣きわめきながら、”オールユーニードイズオタク”という歌詞を、互いに肩を組んで即席のウェーブを作りながら歌い始める。
 ぼくは自分の中のおたくがわかりすぎるぐらいにわかってしまっていた。例えば”12名の血のつながらない妹による乱痴気騒ぎ”といった断片的なキーワードから、自分がどのくらいの笑いとエロと批判と自虐とを含んだ更新をすることができるか、やる前からもうすでにわかってしまっていたんだ。生来の内罰性と無気力が、互い自身の歪んだ相似からくる際限の無い自己嫌悪の螺旋を作り出す平穏な日常という名前の地獄。ぼくとぼくの中のおたくはいつも、とても苛立っていた、お互いのすべてが見えてしまっていた。創造の魔法は終わったんだ。
 (明らかに日本人では無いが、国籍の特定できない顔立ちの男が、正面を向いて座っている。心地よいと感じる抑揚をわずかに外した日本語で、男、話し始める)
 「それは最初はほんの気まぐれな思いつきだったのかもしれません。きっとお互いの中にあった閉塞感に何か、風を入れることができたらと思ったのでしょう。実際かれらの様子はとても陽気で、何もかもうまくいっているように見えました。でも、そのとき、そこにいた誰ひとりとして、それがnWo最後の更新になるなんて、想像すらしていなかったのです」
 ビルの屋上に置かれた雨ざらしのスピーカーから、突如”ドントレットミーゲイカ”という歌詞で始まる曲が、薄曇りの夏の夕空に向けて大音量で流れだす。スピーカーより遠ざかっていく視点。最初、耳を覆わんばかりのすさまじい音量で、スピーカーの音割れからか、何か人外の獣の吠え声のような、悲鳴のような切迫感を伴っておんおんと周囲に鳴り渡っていた曲も、カメラの視点がわずかに遠ざかるだけできれぎれとなり、すぐに何も聞こえなくなる。

サクラさん

 「あ、宅急便。暑い中えらいご苦労さんです。ハンコおまへんねやけど、サインでよろしいですか」
 「あなたが注文購入したのが某有名RPGの最新作でなくて幸いでした。もしそうなら、なんとひとりよがりな、もはや比喩表現による婉曲的な揶揄の意味ですらない”一本道”RPGを愛好する輩と、泣きじゃくって許しを乞うまで、玄関先であなたをキツくキツく殴りつけてしまっていたかもしれませんからね」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「兄さん、真顔でえろう怖いこと言いますなあ。そんなガタイとサングラスで言われたら冗談に聞こえへんわ。サインでよろしいですな? あ、なんやなんや。ハンコ無い言うとるやないか。いま嫁さん外に出とって」
 「ステキな玩具だ……わたしに遊ばせなさい」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「それ、嫁さんが買ったプレステ2やから絶対触ったらアカンで。わしも勝手には、ってちゃうがな。勝手に人ン家あがりこむなや。ハンコ嫁さんが銀行持ってっとんのや。聞こえとんのか。せめて靴脱げや。おい、そこはトイレやぞ。トイレにハンコなんかあるかいな」
 「人体というものはね、何かを排泄するときはすべからく気持ちのいいものです。小便、大便、精液、反吐、汗。オナニー好きのわたしはね、ことに精液を人の20倍膣外に排泄してきた」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「なに悠然と人ン家のトイレ使ってんねん。ええ加減にせんと、あ、こら。ゴミ箱にハンコ隠したりするかいな。おい、なにを嗅いどるねん」
 「相変わらず安物の同人アンソロジーばかりでマスをかいているようですね」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「ほっとけや。嫁さん腹ボテなんじゃ」
 「ティッシュに残されたスパームの濃度と匂い、量から判断すると、おかずに使用した同人誌の含む性嗜好は、ペド60近親相姦30放尿10のブレンド…見えた! 良き同人誌です」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「すごいな。そんなとこまでわかるんか。ってちゃうがな。なに感心しとるねん、わし」
 「君たちは非童貞であるという現実に目がくらみ、童貞のわたしよりもチンポが見えていない。マスをかくという行為に真剣ではない。マスをかく行為がなっちゃいない。膣で得られる感触に安心してしまい、真の精神的屈従を脳が捕らえない」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「なんや兄ちゃん、童貞なんか。まさかそれがいまこんなことしとる理由とちゃうやろな。よ、嫁はんも娘も出払っとっておれへんぞ」
 「だが、哀しみがない――日本橋の同人ショップで見つけたというこの本にではなく、読み手の君にだ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「話そらすなよ。おい、待て、それどっから見つけてきてん。あ、このガキやな。返せや、おい。貴重品やねんぞ。こら、極太マッキー取りだしてどうする気や」
 「職業漫画家でなくても絵は描けます。チンポの角度とティッシュのスレ音が世俗的な倫理観へのアンチとしての背徳の分量を、家人の露骨な嫌悪の表情がその背徳を社会的な許容の範囲に止めさせる判断基準となる――できた!」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「できた、やあらへんがな。返せ、返さんかい。あ~あ、ばかでかいおめこマーク描きやがって。何しに来てん、おまえら。何がしたいねん。ええ加減にせんと警察呼ぶぞ。おまえら二人とも家宅侵入罪やぞ」
 「誰が決めたのかね。他人の家に土足で侵入しちゃいけないと、いったい誰が決めたかを尋いているのだよ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「警察や。警察が決めとんのや。はりたおすど」
 「ワァ~オ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「バカにしくさって。わしは本気やからな。ほれ、もうダイヤルするで。出ていくんやったらいまのうちやど。あ。あいた、痛いがな。ちょお、これシャレならんって。強盗やがな。ここまでやったら強盗、あいた、痛い痛い。やめてくれ」
 「ママの味わった苦しみ、あなたも知りなさい。息子がおたくで、もうじき30にもなろうかというのに定職にもつかずふらふらしているという現実から受ける社会的痛み、あなたも知るのです」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「わけがわからん。勘弁してくれ。痛い痛いよう。そ、そこの引き出しや。カネはそこの引き出しの中にある煎餅の空き缶に入っとる。全部持ってけ」
 「与えちゃいけないッッ! いいですか、わたしに現金を与えられるのはまっとうな社会的生産性を持つ労働だけ。あなたは資本家じゃないでしょ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「もうどないして欲しいねん。わけがわからんわ。いた、痛い。死ぬがな、死んでまうて。げほげほ。ごほ。死ぬかと思た。おい待て、なんやかんや言うといて、カネ持っていくんかいな」
 「宅急便の配達夫などという、他人に与えられた人足まがいの仕事に甘んじることなく、奪うことで猶予期間の持つ鬱屈からの脱出を完璧にした。幸福だ」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「うわあ、最近流行りのモラトリアム犯罪やがな。どうりで理屈がわからんと、おい、なんやその手つき。今度はなに優しく触っとんねん」
 「君の手が温かい…」
 「サクラさん、素敵ですわ」
 「だ、男色やがな! あ、おい、なにカメラ回してんのや。それネタにゆする気か。貸せ、このガキ。あ。耳元で息ふきかけるのやめえ。あ、こら、マジか。ズボンを、ぎゃあ、ぎゃああ」
 「サクラさん、素敵ですわ」 

渚にて(2)

 「世界にとって本質的に無意味であるという絶望的な確信から逃れるために、人間は資本主義を創り出した。それはカネという明快な価値基準にのっとり、勝者と敗者を分かち、勝者イコール有意味・敗者イコール無意味の図式を、神のいない荒野に打ち捨てられ、存在の価値を求めて発狂する人間の心の部分にぴったりと当てはめるシステムである。このシステムの中で勝者が勝利において意味性を得るためには、必ず敗者が存在しなければならない。一昔前の日本においてそれは明らかな生活破綻者を指し、社会において勝者の意味性を強調するコントラスト足り得たが、現代社会においては余剰の富がすみずみまで漏れ広がり、敗者の破綻が彼らの社会生活の終焉に直結しないことが勝利者たちにとって不満を抱かせる要因となっている。明確な、システムに迎合しないものの断罪の様子を市中に見つけ出すことのできなくなった資本主義社会の勝利者たちの求めた新たな敗北の有様、新たな有り得べき必然、それが我々おたくであると言えよう。そしておたくは、資本主義社会においてしか生まれ得ない存在である。なぜならおたくとは、世界という際限のない無意味性の広がりから、同族内に比較対象を設定することでかろうじての意味性を切り取る絶望のシステムの内に、あらかじめ組み込まれた予定調和的劣等因子であるからであり……」
 ちがう、と叫びたかった。
 かれの目は私を通りぬけて、私ではないどこか遠くを見ていた。言葉をさしはさむ隙も与えず、その意味もわからないまま、絵本に書かれた文字を目で追って読み上げる小さな子どものように、かれの言葉は私の上を滑っていった。テレビモニターの中の人のように、かれは私に関係が無く、そして私はかれに関係が無かった。それがかれの望む交わりだったのか。
 ちがう、と私は叫びたかった。だが、心が拒否するとき、言葉に何の意味があるというのだろう。
 それまで誰にも気づかれないまま、ひっそりと部屋の隅に座っていた小太りの男が立ち上がった。薄くなった頭頂部に、突き出た腹を抱えて、その男は奇妙に存在感を漂わせない歩き方で部屋から出ていった。最初、私はこの男のことを寺の関係者なのだろうと勝手にひとり決めしてしまっていた。だが、閉じられる障子の隙間からのぞいた背中に、私は突然思い当たった。
 私はあの男を知っている。
 誰かが何の気持ちもない論理を打ち壊してくれるのではないかと、どこかで期待していた。自分がいつも自分のもののようではなくて、自分の発する言葉の意味も重さもわからなくて、誰かの泣き顔や、ひどく傷ついた表情を見るときにだけ、ぼくは自分の言葉の持つ力と、自分の中にある漠然としたものの形を知ることができた。
 ほんとうは、ぼくには誰かを傷つける価値なんてなかったのに。
 遠くから泣き声混じりの悲鳴が聞こえ、気がつくとぼくはあの病院のベッドの上にいる。うす濁りした白い膜にすべてが閉じこめられたようなその場所で、ぼくはただベッドにひとり横たわっている。指ひとつ動かすことさえできない深い虚脱の中で、ぼくを作った人たちのののしりあいが、かすかにぼくの鼓膜を揺らした。
 かれらの中にぼくはいない。ぼくの中にかれらはいない。
 傷つかないための無感動の上へ、受け入れられるためにする偽りの感情を永遠へと向かって積み上げ続ける煉獄。わけ知り顔な多くの理屈。ぼくを受け入れないための論理。表情を浮かべることを忘れた頬に、知らず流れ落ちる涙の温度を、ぼくは感じていた。
 そうだ。あのときはじめて、ぼくは孤独の意味を知ったのだ。
 気がつくと、目の前には小太りの中年男が座っていた。男はただ座って、こちらを見ていた。急速に現実へ焦点が戻ってくる。私はあわててわずかに顔を伏せた。自分はいま、どんなに無防備な表情をしていたろうか。
 「毎晩のビールがうまい」
 大きすぎず、小さすぎず、まったく主張のない声音で、男はそう言った。私は不安になった。私が知っている世界の言葉とはとても違って響いたからだ。人が、こんなに相手を脅かさずにしゃべれるものなのか。
 「ずっと特別でありたかった。誰も文句を言えないような何かでありたかった」
 それは不思議な、空気のようなしゃべり方だった。いったい自分が話しているのか、相手が話しているのか、ついにはわからなくなってしまうような、そんなしゃべり方だった。
 「妻の顔を見て、子どもたちの顔を見て、それから、自分の突き出た腹を見て、おれは少しも自分が特別じゃないってようやくわかった。うれしいんだ」
 目尻に深いしわを刻みながら、笑うと目の無くなる、人なつっこい笑い方で男は笑った。笑い声が途絶えると、部屋には沈黙が降りた。しかしそれは、あの狂躁的な、次の言葉を無理にも促す不安な沈黙ではなかった。それまで相手の言葉に身構えて硬直していた全身の筋肉から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じた。誰かと向かうとき、私はこんなにも緊張していたのか。私は眠りこむ寸前のような、あの安堵を覚える。
 「おれはどんどんみにくく、つまらなく、そしてやさしくなってゆく」
 男は私の目を正面から見た。それは、まるで私の一番奥を見ているようだった。いままで、誰も私をそんなふうに見たことはなかった。
 「戻ってこいよ。ここは、思ってたほど、怖い場所じゃないみたいだ」
 やがて、薄くなった頭頂部に手をやりながら、男は最初からそこにいなかったかのようにひっそりと、部屋を出ていった。
 突然、苦痛が全身を包んだ。心から死ぬつもりだったのに、あの男は、悪魔か何かのように忍びより、ささやきかけ、静謐な末期の悟りに迷いを生じさせたのだ。私は卓上に置いてあった赤い小箱を取り上げ、なかの小瓶をあけて、白い錠剤を手のひらの上にのせた。また、胸に痛みが起こった。それは遠くなつかしい、子どもの頃ような哀切な痛みだった。胸を押さえてうずくまると、ちょうど視線の先に大きな姿見があった。あばた面にじっとりと脂汗を浮かべた、ぼさぼさの髪の太った男が、痛ましい澄んだ目でこちらを見返していた。私が眉をしかめると、姿見の太った男は泣きそうな顔になった。「今度こそ、みにくいおまえを退治してやれると思ったのに」
 無意識のうちに強く握りしめてしまっていた手のひらを開く。ぼんやりと発光しているかのように見える白い錠剤。これを嚥下しさえすれば、数分のうちに安らかに死へと至ることができるだろう。私はかぶりを振ると、生じた迷いに時間を与えるため、錠剤を卓上へと置いた。私は椅子に背をもたせかけ、その錠剤をじっと見つめる。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 心に浮かんだその言葉は、ずっと長い長いあいだ押し込められてきた、初源の問いであるような気がした。生まれて初めて、自分の手を自分の手のように感じながら私はゆっくりと卓上へ手をのばし、純白の錠剤をひろいあげる。
 そして――

逃避王(2)

 天井の高い部屋の中央に置かれたテーブルを挟んで二人の男がカードゲームをプレイしている。
 「(寝不足なのか隈取りなのかわからない両目を見開きながら)セメタリーに埋葬された三体のモンスターの魂を生贄にささげ、オレは新たにこのモンスターを召喚するぜ、猶予!(逃避王の本名”膣口猶予”の下の方の名前)」
 「(どんな整髪料が固めたものか、重力という物理を全く無視した髪型で)な、なに! バギナ(対戦相手の名前。尻上がりのアクセントで)がオレの攻撃を受けるままにしていたのは、このコンボをねらってのことだったのか!」
 「ダーク・ペドフィリア召喚!(数年来太陽に当たっていない引きこもりの未来人としか形容できない人型のクリーチャーが場に出現する)」
 「クッ…だが、まだオレの社会性の方がずっと上…このまま押し切ってやるぜ! 現在場にいるモンスターを生贄に捧げ、”赤ランドセルの小学生”を召喚だ!」
 「ケッ、そんな足りない脳味噌と足りない乳だけが特徴のキャラデザじゃオレのペド趣味はゆるがねーよ」
 「それはどうかな。おまえが罠カードではないかと警戒していたこのリバース・カード……その正体は、魔法カード”良識的コメント”だ!」
 「なんだと!?」
 「世間の最大公約数的良識にさらされ、窮地へと追いつめられた”赤ランドセルの小学生”のキャラデザはますます先鋭化する…!!(場の赤ランドセル小学生の頭身が下がり、胸がより薄くなり、もはや髪の毛のある赤ん坊としかいいようのない生き物へと変化を遂げる)」
 「バカめ、それを予想しないオレだとでも思ったのか! ”赤ランドセルの小学生”のキャラデザ先鋭化に応じて、”成立する幼女趣味規制法案”をキャストだ! ”成立する幼女趣味規制法案”は場にいるすべての幼女キャラをこのターン以降無力化し、幼女キャラ以外の攻撃力を倍増させる…ククク、猶予、墓穴を掘ったな」
 「(不敵な笑みで)ミスをおかしたのはおまえの方だ、バギナ。”赤ランドセルの小学生”を召喚する前にオレが生贄に捧げたモンスターのことをおまえは忘れていた……”幼女趣味規制法案”が影響を及ぼすのは、『場に存在するすべての幼女キャラ』だったな」
 「ま、まさか!(あわてて猶予のセメタリーからカードを拾い上げる)」
 「そう、オレが生贄に捧げたのは”設定上の矛盾”。世間からのごうごうたる非難を設定上の矛盾によって回避した”赤ランドセルの小学生”は、”18歳の小学生”へと化身した! いまや幼女趣味規制法案をかいくぐりつつ、ペド趣味者にはまごうことなき幼女キャラとして認識される……攻撃だ、バギナ!」
 「うおお…!!(赤ランドセルの小学生に腰抱きに抱きつかれた無表情の未来人が、全身から白濁した液体をとめどなく噴出しながら無表情のまま消滅する)」
 「”18歳の小学生”、”ダーク・ペドフィリア”を埋葬!」
 「ククク…ミスをおかしたのはおまえの方だ、猶予! おまえこそ忘れていたな、ペド趣味者は例え世間から弾圧され、どれほど社会より消滅したかに見えても、彼らは地下に潜伏し、その欲情と過激さを増して蘇るということを!(場に残された白濁した液体から陽炎が立ちのぼり、”18歳の小学生”の周囲を取り囲む)」
 「しまった、これがバギナの真のねらいだったのか! だが、バギナの社会性も残りわずかだ。”18歳の小学生”でバギナの本体に直接攻撃をしかければそれで勝負は決まる……このまま反撃の機会を与えず、最も卑劣な性犯罪者としての引導を渡してやるぜ! ”18歳の小学生”、攻撃だ!」
 「その攻撃に応じて、”18歳の小学生”につきまとっていたダーク・ペドフィリアの魂が、おたく的趣味の範疇に止まらない真の犯罪性を発露する!(ランドセルの小学生の短すぎるスカートの内側からエノキタケ状のものが猶予の顔面に向けて突出する)」
 「(両手で顔をおおいながら)ぐわ…! く…”18歳の小学生”の膣内から何者かがオレに攻撃してきた!」
 「ククク、いま”18歳の小学生”の膣内にはダーク・ペドフィリアの魂が憑依しているのさ。行き過ぎた抑圧に居場所を失ったペド魂は、いまや幼女とみればところかまわずストーキングするぜ!」
 「内向的な最悪の部類のおたくの魂が、この世でもっとも弱い人類に対して初めての威力を発現しているというのか!」
 「さらに社会的に未だ発信を持たない幼女へする日々のちょっとしたイタズラは、他の側面におけるおたくの魂の社会性をむしろ増大させるのさ(小太りの青年がさわやかな笑顔で近所の主婦に挨拶をしながらゴミ置き場にゴミを捨てている光景が場に映し出される)!」
 「(驚愕の表情で)おたくが、社会性を増大だと…!? 犯罪に荷担することが、おたくの社会性を逆に増大させるというのか!」
 「その通りだ、猶予。社会の形を皮膚感覚で規定できないことがおたくの内向性の正体だ! 犯罪という反社会的行為は逆説的におたくに自分を取り巻く周囲の環境、すなわち社会を知覚させるのさ!」
 「バカな…!」
 「そして猶予、”18歳の小学生”が攻撃をしたとき、オレの場にある罠カードが発動したぜ! 罠・永続性嗜好、”パイ盤(パイパン)”!」
 「パイ盤…!?」
 「パイ盤とは、古来より幼女の無毛の土手を意味してきた……埋葬されたダーク・ペドフィリアの魂がおまえにメッセージを伝えたいとさ! (青白いおたくの指が、縦長の窪みを境に左右二つに分かれた肉の上を執拗に愛撫し、ついにはL字形のミミズ腫れを生じさせる)」
 「割れ目にLの文字が浮かび上がった!?」
 「そう、これはL・O・L・I・T・AのLの文字……この6文字が場にそろったとき、貴様のペニスははちきれんばかりに膨張して、このパイ盤を無惨に貫く! そして貴様は完全に抹殺される……社会的にな!」
 「なんだって!? オレは、その気は無いとは図々しい言いぐさながらも、このままでは幼女暴行を6ターン後には法的に立証されてしまうということか! くそ、させるものか! 手札から”胸の薄い26歳OL(童顔と言われがち)”を召喚! ”18歳の小学生”とともに攻撃だ!」
 「おっと、幼女の膣は狭いぜ! パイ盤が場にある限り、一度に1体のモンスターしか攻撃に参加することはできない!」
 「なんだと、幼女の膣はそんなにも狭いのか…!?」
 「そして”18歳の小学生”に憑依したペド魂の反撃があることを忘れるなよ! 普段の人間関係が希薄なおたくは、一度少しでも親しくなったら、その執着はスッポン以上だぜ(電信柱の陰から集団登校途中のランドセル少女を執拗に眺めるスーツ姿の小太りおたくの映像が場に映し出される)! 猶予、ペド魂の反撃によりおまえのペニスはまた膨張する!」
 「(膨らんだペニスに前屈みの姿勢をとりながら)ま、まさか…!! お、オレはペド趣味者だというのか!」
 「認めてしまえ、猶予! どれほどあがこうとも自分が現代的ガラス細工の自我の持ち主、おたくに過ぎないことを! 社会集団より断絶された個という寂しさを、幼女の柔肉から、そして続く法の裁きから癒し、この世界のどこにも存在していなかった亡霊としての自己を、1個の社会生物として新たに再生させるんだ!」
 「(がっくりと膝をついて)わかったよ……とりあえず幼女の膣に文字通りチン入することで一時的な快楽と背徳に身をゆだねることにするよ。そうして、その後に訪れるだろう冷たい手錠と幼女の両親からの悪鬼を見る視線にさらされることで、どんなに引きこもりの孤立を気取ったところで自分はやっぱり現実の社会にしか存在していなかったことを痛感して、成人式の見かけ無頼な若者たちのように国家や法という厳格さを目の前に、それまで鼻高々に唱えていた革命論もどこへやら、たちまち縮みあがって飼い主からの不条理な暴力に脅えた子犬の如く尻尾を丸めて腹を見せ、おろおろ泣きながら赦しを哀願し、国家というシステムに一生涯隷属することを本当に心の底から誓うことにするよ…」
 「(優しいが、一抹の寂しさを含んだ微笑みで)連綿と続いてきた人の倫理の一形態が持つ不条理ではなくて、その妥当性をこそむしろ積極的に汲み取ることこそが、すべての国民にとっての幸せなのさ」