猫を起こさないように
月: <span>1999年10月</span>
月: 1999年10月

パアマン(3)

 「ワイは自分のことが好きや。こんな醜く肥え太ったワイが自分のことを好きやなんてナルシストみたいなことゆうて、おかしい思ってますやろ。でもな、ワイはそれでもやっぱり自分のことを愛していると言うわ。なぜって、誰ひとりワイのことを見てくれへんかったからや。アル中のおとんも、宗教にハマって家を出てったおかんも、自分たちのことに精一杯でワイを愛する余裕なんてあらへんかった。だからワイはワイのことをワイ自身で愛してやるしかなかったんや。そんなワイや、パアマンに選ばれたときのうれしさは忘れられへんな。あれは世界が革命した確かな瞬間やった。ハーレクインロマンスのヒロインたちのようにワイは見いだされて、誰からも省みられない醜いアヒルの子やのうて、誰からも愛され求められる輝かしい白鳥に化身することができたんやからな。リーダー、ワイは死んでもパアマンをやめることはしまへんで。それだけは覚えといてや…」
 「みつをさんッ、危ない!」
 パア子の叫び声に私は撥と我に返る。見れば、私の眼前に巨大なエイプが大きくあぎとを開ゐてゐた。其処に覗く不揃ひな歯は殆どの獣達がさうであるやうに、雑菌の固まりなのであらう。遺伝子操作を施された此のエイプ達の事だ、噛まれるだけで致命傷に為りかねなゐ。
 私は粘着く唾液にまみれた其の上顎に手を掛けると、一気に引き裂ゐた。粉々に為つた頭蓋が飛沫を上げて大気中へと拡散する。私は逆さ洗面器のバイザアに付ひた返り血を指で拭ふ。両肩の間に舌と歯の残骸を乗せただけの悪魔的な戯画めゐたエイプの死体が、仲間の数匹を巻き込み乍ら雲間へと消へてゆく。
 私は背中合はせに居るパア子へ肩越しに頷きかけると、更なる上昇を開始した。一体どの位昇つたのだらう。雲は遙か眼下に在り、大気が希薄になつて来たせひか、星々が恐ろしく近くに見へる。問題は逆さ洗面器に装備された非常環境に適応する為の生命維持装置がゐつ迄働ひて呉れるかだ。之が停止すれば私達は忽ちに窒息死してしまふだらう。
 しかし。と私は考へる。其のやうな安楽な死は決して望めなひのではなゐか。何故なら私達の生命反応は逆さ洗面器を通じて全て奴らにモニタアされてゐる筈であり、奴らが私達の生存を知り乍ら私達からたゞちにパアマンの能力を取り上げてしまわなひのは、奴らには私達二人を簡単に殺すつもりは全く無ひとゐふ事を意味してゐる。恐らく此のエイプ達によつてなぶらせるつもりなのだらう。
 私達は追ひすがるエイプ達を殺し乍ら上昇する。四方から同時に襲われてはひとたまりも無ゐ。エイプ達の攻撃の方向を限定する其の苦肉の策が、今私達二人の首をじわゝと絞めつゝある。
 生命維持装置をフル回転させてなお身を切るやうな冷気の中、私は背中にあるパア子の温もりに救ひを感じてゐた。其れはパア子も同じだつたらう。パア子の、私の手を握りしめる力が強くなる。私は更に強く其の手を握り返す。破局はもう間近だ。死の運行は緩慢だが着実であり、生の鮮やかな上昇が持つやうな疲れを知らなゐ。私はそんな言葉を思ひ出してゐた。今の私達の置かれてゐる状況は此の言葉にぴつたりを当てはまる。
 メゝント・モリ。死を思へ。私はずつと、誰もゐなくなつた夕方の砂場で一人遊ぶ子供だつた昔から、ずつと死の事を考へ続けて来た。だが、今私達の眼下に存在する無数の赤い獰猛な対の光は、何と其の甘やかな夢想と異なつてゐる事だらう。私は死を眼下に、生の温もりを背後に、初めて心から生きたひと思つた。
 「きゃああっ」
 突然のパア子の悲鳴がそんな私の物思ひを永遠に切り裂ゐた。音もなく追ゐすがつて来た一匹のエイプの巨大な爪が、パア子の逆さ洗面器を真二ツに叩き割つたのだ。
 逆さ洗面器の下にあつた初めて見る其の素顔は。嗚呼。
 パア子は大きく目を見開くと、小さな音を立てゝ息を吸ゐ込んだ。其の吸気が吐き出される事はついに無かつた。代わりに吹き出した大量の血が、周囲に霧のやうに飛び散つた。
 パア子は自失する私から手をもぎ離すと、浮揚外套を優雅な仕草で肩から外し、宙へと放り投げた。スロオモオシヨンのやうにゆつくりと落下してゆくパア子にエイプの群が殺到する。最後に見えたパア子の青白ゐ手も、ついにはエイプの群の中へと埋没してゐつた。
 何とゐふ、何とゐふ、何と。パア子。パア子。パア子。
 強ゐ衝撃を感じて我に返ると、先程のエイプが私の右肩に深々と爪を突き立てゝゐた。パア子を殺したエイプだ。生暖かな私の血が、私の身体を滴り落ちるのを感じる。
 ギイゝ。エイプが嘲るやうに笑つた気がした。
 私の視界が真つ赤に染まる。瞬間其のエイプが殆ど個体としての原形を留めぬほど激烈に、破裂するやうに四散する。私は手の中にある引きずり出したエイプの茶色ゐ心臓を握り潰した。
 「このざんこくなせかいに / あなたをひとりのこしていくことが / それだけがしんぱい」
 私の良く知つてゐるアイドルの歌がどこか遠くで聞こえたやうな気がした。其れはパア子の歌。
 「あいされたいから / あいするの」
 朧な月明かりの中、黒ゐ帯が羽虫のやうな音を立てゝ上昇して来るのが見えた。
 人間の感情を。人間の尊厳を。人間の瞋恚を。
 奴らに教えて遣る。
 私はエイプ達を傲然と見下ろすと、身を翻し其処へと突入した。
 魂消る咆吼が聞こえた。其れはエイプ達の上げたものなのかも知れなかつたし、或ひは私自身のものなのかも知れなかつた。
 あらゆる方向から無数のエイプが憎悪其のもののやうに私に向けて殺到する。最初の十数匹の集団が、同時に粉々に破裂した。
 一匹でも多く殺して遣る。
 ぴるゝ、ぴるゝ。突如胸のバツジが高らかに、最も間抜けなタイミングを見計らつたやうに、鳴つた。
 「やあ、聞こえるかい、リーダー。『鳥の男』こと、小鳥さんだ。君にまず初めましてを言っておこう。どうだい、圧倒的な力で他人を蹂躙するのは快感だろう? 君がいま戦っている猿どもは君自身が奇しくも看過したような死の象徴であり、私自身のトラウマの象徴であり、またコミュニケートの不可能な残酷な他人の象徴でもあり、こんな大仰な表現がお好みで無いならば満員電車でスポーツ新聞のポルノ記事越しにリポD臭い息を吐きかけてくるオッサンの象徴であるとも言えるだろうよ。いいかい、君はそれらに抗うことなんてできないのさ。君はそれらのすべてを諾々と、屠殺場へと引かれていく子牛のように静かにあきらめて受け入れるしかないんだ。そこにする君のアクションのすべてはもうなんというか、単なる自己満足的なポーズに過ぎない。ただ矮小な君自身をだけ納得させるための無駄なカロリーの消費であって、君を除くすべての場所、すなわち世界には何の痛痒も与えないんだ。現実を打ち破る理想なんてどこにも存在しないのさ。それでも君は」
 私は胸のバツジを握り潰した。
 世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか?  (トーマス・マン、『魔の山』)