こう-ごう【媾合】性交。交接。交合。(広辞苑第四版)
「媾合陛下ご懐妊の報を受けてセッティングされた今日の記者会見、いったいどうなるんだろう」
「あの媾合陛下のことだ、何事もなく会見が終わるとは思えないな」
「みなさま、たいへん長らくお待たせしました。媾合陛下がお着きになりました」
「申し訳ありません。行きつけの産婦人科で膣内と子宮口の触診を行っていたのですが、薄紫色に靄のかかった陰部の穴を医者が探り当ててじょうごを差し込むのにずいぶんと時間がかかりまして」
「さすがは媾合陛下、やんごとなき理由ですな」
「それでは順に質問をお受けしたいと思います。なにぶんこのようなお身体ですし、万一のことがないとも限りません。みなさまがいつも相手にされるような、母親のへその緒で自慰を覚えてよちよち歩きをする前におしゃぶりを下の口でくわえこんで処女膜を裂いたようなあばずれ女優たちへするのと同じようにはなさらず、各人が理性を持った一個の責任ある人格として品位あるご質問をどうか願います。なお、途中で媾合陛下のご気分がすぐれなくなったりした場合、質問の途中であっても会見を中断することがありますのでご了承下さい。では、逢坂スポーツさんから」
「まずはご懐妊、おめでとうございます」
「どうもありがとう」
「さて、今回の媾合陛下の妊娠は自然妊娠であったと報道されましたが、自然妊娠とはいったいどういう意味でしょうか」
「いかがいたしますか、媾合陛下」
「お答えします。つまり体外受精などの人工的な手段を取らず、卵子が排出される週に男性器を女性器内部へ招聘し膣内深部に精子を放出させる作業を数ヶ月にわたって定期的に執り行った結果妊娠に至ったということです。蛇足ながら付け加えるなら、ゴム製の精子受けなどは一切使用しませんでした」
「媾合陛下は現在の夫と29歳で結婚なさってから数年の間、周囲の無言の期待にもかかわらず、ずっと妊娠なさらないままでした。このことについては様々の口さがない噂や怪情報が飛び交いましたが、真相のほどはいかがなのでしょう」
「いかがいたしますか、媾合陛下」
「お答えします。数年の間私が妊娠しなかったのは、私の側というよりもむしろ夫の側に責任の所在があったということをこの会見の席で公にしておきたいと思います。最初に断っておきますが、それは主婦の方々の井戸端会議で邪推するような夫の精が薄かった、つまり彼が精薄だったということでは残念ながらありません。私には現在の夫と結婚する以前、様々の週刊誌に書き立てられたように、定期的に性交を行う程度に親密なつきあいのある男性がいました。その男性とは大学在学中からになりますから、そうですね、十年ほど交際が続いておりましたでしょうか」
「では現在の夫の妻となるはるか以前に媾合陛下は清い乙女ではなくなっていたということですか」
「いかがいたしますか、媾合陛下」
「お答えします。私の子宮口と外界を隔てる文化的な意味を付加されることの頻繁な不可逆の薄膜を屹立した男性器でもって内部方向へ引き裂いたのは確かにその男性です。男性と女性の交錯するときに生まれる快楽を教えてくれたのもまたその男性です。私はこのような過去の経歴から性に対する少なからぬ経験を持っていたのですが、夫は私と出会うまで女性と経験をまったく持っていませんでした。訂正しましょう。少なくとも現実の女性とは交渉を持っていませんでした」
「それはいったいどういう意味でしょう、媾合陛下」
「いかがしますか、媾合陛下」
「お答えします。話が前後するとみなさまの混乱を招くと思います。順を追って話しましょう。私の意味するところもその過程で自然と理解されるかと思います。現在の夫と結婚してからの数年は、絶望的な苦闘の年月だったと表現することができるでしょう。はじめ夫はことに際して男性器をまともに屹立させることすらできなかったのです。それは屈辱的な事実でした。私の戦いは、まずその事実を受け止めることからはじまったのです。他の誰でもない自らの夫が、妻たる私の肉体を見ても欲情できないという冷酷な事実を受け止めることから」
「しかしこのたびご懐妊に至ったのは、最終的に成功に性交したということの証左ではないかと思うのですが、どうでしょう」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。その通りです。私はまず手や口で夫の男性器に刺激を与えることから始めました」
「待って下さい。それは尺八と解釈してよろしいのですか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。そのように考えられてよろしいと思います。以前の男性との関係から女性器以外の部位を使って男性に男性性を達成させる技術を文字通り身をもって修得しておりましたので、屹立しない男性器にその技術を流用するのは当然の流れでした。しかし以前の男性を大いに悦ばせたこれらのやり方も、現在の夫の男性器にはほとんど効果を持たず、挿入が可能なほど硬化させるには及びませんでした」
「その段階で夫が不能者であるとは考えなかったのですか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。当然その可能性は真っ先に考慮しました。ですが夫は私との性交に失敗すると決まって漫画かアニメーションでもって手淫を行っていました。妻たる私の目の前でそれはもう本当に気持ち良さそうに口の端からよだれを垂らして手淫を行っていました。妻にとってこれほどの屈辱があるでしょうか。嫉妬の対象が現実に存在すらしないのです。ただの現実の肉である私がどうしてそれに対抗できましょうか。夫が手淫によって放出したものを指の腹にすくいとって膣壁に塗りつけたりもしてみましたが、結局私の身体には何の変化も起こらないままでした」
「要約すると、あなたの現在の夫は平面的な媒体に描かれた女性にしか興奮できない特異な体質の持ち主であるというわけですか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。現実にも性の対象はあったようですが、それはごくごく限られていました。現実のものとは思えないほど整った造作をした少女の裸体などがその例外に当たります。女性の女性性を切り売りする女性の助成で成立する商業ビデオを使っているのを見たこともあります。モニターを通じて二次元に変換するという行程が必要だったのかも知れません。そんなわけで私は妻として、女性としての満足を与えられないまま最初の二年間を過ごしました。水でもどる干し椎茸のような夫の代物を口に含んで湿しては吐き出し、吐き出しては含む虚しい作業を毎夜繰り返しながらです」
「媾合陛下、もうその辺で」
「続けます。決定的な転機が訪れたのはそう、一年ほど前のある晩のことでした。いつものように性交に成功しないまま夫が手淫を始めるのを私は麻痺した心でぼんやりと眺めていました。瞬間、私の中に天啓のような閃きが訪れました。考えるよりも先に私は動いていました。成人向けの漫画に鼻を埋めるようにして手淫に没頭する夫の生殖器を夫自身の手から奪うように口に含んだのです。するとみるみるうちに夫の生殖器は膨れ上がり硬度を増してゆきました。もっとも、その大きさについては私とおつきあいのあった以前の男性のものと比べるとエノキと松茸くらいの差があったのですが、それは関係ありませんのでおくとしましょう。夫は私へは一瞥もくれず、ただただ成人向けのしかし成人が一人も描かれていない漫画だけを食い入るように見つめながら、私の口腔内で果てました。これが夫が私との交わりにおいてした初めての射精でした」
「媾合陛下、もうその辺で」
「続けます。口腔内での射精を膣内での射精に置き換えるのはあっけないほど簡単でした。言ってみれば夫は私の生殖器を使って自慰をしているようなものです。最近は目にかけるバイザー状のモニターで成人向けのアニメーションを見ながら私の生殖器を使って自慰するのがお気に入りのようです。こうして、私たちの間の夫婦の問題は穏便な解決をみたのです。もっとも夫が雨に濡れた子犬のようにわずかに痙攣しただけで毎回果ててしまうので、夫が眠った後に私は自分で自分を慰めなければならなくなってしまったのですけれど」
「媾合陛下、もうその辺で」
「続けます。聞けば夫の家系にはこんなふうに現実の人間に興味を持てない人物が実際たくさんいたそうです。牛馬としか交わりたがらずに座敷牢に閉じこめられた女の話だってあるくらいです。現に夫の妹は商業ベースでない冊子に二次元の男性の肛門性愛を主なテーマとした作品を描き続けています。現実と隔離されたところで珍獣のように生かされている彼らにはそれも無理もないかも知れません。その性質が現代に固有の病巣と結びついたというだけの話だと私は思っています」
「ときに媾合陛下はどのような母親になりたいと思われますか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。現代は母性の喪失した時代であると言うことができるでしょう。私は赤ン坊が腹を下したその始末を毛先ほどの躊躇もなく口と舌でするような、人間が集団を維持するために作り上げた方便であるところの矮小な知恵による社会規範に浸食されない獣の母性を持ちたいと思っています。同時に、カマキリの雌が交尾の最中に雄を頭から喰ってしまうような、親猫が生まれたばかりの目も開かない子猫たちのうちの特別に生きていくに不向きな虚弱なものを歯牙に捕らえて喰ってしまうような、そういった野生と人間の感覚を超越した不合理さを私の中に共存させなければならないと考えています。これが私の母親としての在り方です」
「ときに媾合陛下は妊娠何ヶ月であられるのですか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。六ヶ月になります。もう少し早くお知らせするつもりだったのですけれど、母子にとって大切な時期を不特定の大衆という雑音にわずらわされたくなかったのです」
「その割には媾合陛下の腹部に膨らみを感じないな。どういうことだろう」
「媾合陛下、その口の端から垂れ下がっている血の付着したヒモ状のものはいったい何なのですか」
「いかがいたしましょう、媾合陛下」
「お答えします。これは昼間食べたうどんです。ただのうどんの切れ端に過ぎません。それ以外の何物でも、げぇぇッぷ」
「媾合陛下のおみ足つたいに流れて床に水たまりを作っているその液体はいったい何なのですか」
「いかがしましょうか、媾合陛下」
「ああ、気分がすぐれません。どうやらお昼を食べ過ぎたみたいです。ちょっと横になりたい気分がします」
「みなさま、ご気分がよろしくないようなのではじめに断りましたように、媾合陛下がご退場なされます。今日の会見についての記事は掲載の前段階に一度こちらの委員会を通して頂きます。どうか各社ご理解のほどを願います」
「ああ、気分がすぐれません。どうやら調子にのってお昼を食べ過ぎたみたいです。なぜって思いもかけず三つ子、げぇぇッぷ」
年: 1999年
ホーリー遊児(1)
ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
「(正気を疑う顔面のサイズの倍ほどもの高さに結い上げた頭髪で)みなさん、こんにちは。”nWoの部屋”の時間がやってまいりました。ホステスをつとめさせて頂きます、破裏拳逆巻です。本日はゲストとしてゲーム作家のホーリー遊児さんをお招きしております」
「(二十年前のトレンドを思わせる薄い茶系統のグラデーションがついた、明らかに度の入っていない伊達メガネで見た目泰然と)どうも。ご紹介にあずかりまして。ホーリー遊児です」
「ホーリーさん、今日はお忙しい中、わざわざありがとうございます」
「(苦笑しながら)いま”トラ喰え7”の最終の追い込みにかかってまして、本当に忙しいんですよ」
「ここでご存じのない方のために、少しホーリーさんの経歴を紹介させていただきましょう。ホーリーさんは老人介護問題を題材に扱った有名RPGシリーズ”トランキライザー、喰え・喰え!”のシナリオをメインで担当されており、普段まったくゲームをすることのないような大人たちをも感動させるその巧みな語り口は、”ゲーム界のトラさんシリーズ”と高い評価を得ています。”トラ喰え”欲しさに殺人強盗を働いた中学生の事件はみなさん記憶に新しいところではないでしょうか。”トラ喰え無ければゲーム無し”という言葉があるそうなんですが、”トラ喰え1”の発売当時、まだほとんど正式な企業としてすら見られていなかったゲーム制作会社の地位を向上させ、認知度の低かったゲーム市場の裾野を飛躍的に拡大したというホーリーさんの業績は、もはや伝説と化していると言っても過言ではないでしょう」
「(見せかけの謙遜で片手を振りながら)そんな大げさなものじゃないですけどね。”トラ喰え”の第一弾が発売されたのが、そうね、まだ昭和の頃だったんじゃないかしら。ファミコンが全盛の時代だね」
「(手元の資料に目を通して)昭和61年5月27日となっていますね」
「へえ、そんなになるのか。(膝の上で手を組んで目をつぶり)あれから十余年、思えば遠くに来たものだね。当時はずいぶんと週刊誌やらマスコミに叩かれたものだったけれど」
「あまりにセンセーショナルな内容でしたから。(手元の台本を見ながら棒読みで)当時私はまだ小学生だったんですが、友人に借りてなにげなくはじめた”トラ喰え1”にわけもわからないまま強い衝撃を受けたのを覚えています」
「いまでこそ億単位の制作費で動いている”トラ喰え”だけど、当時はまだ何の知名度も無かったからね、あちこちの銀行に頭下げて金を借りにまわったものさ。社長以下――といっても当時まだ小さな会社だったから、名ばかりのことだったけれどね――みんなして駆けずりまわってさ」
「(わざとらしく驚いて)そんなことがあったんですか。いまでは到底考えられませんね」
「(下手な節まわしで)そんな時代もあったねと。×○銀行の受付嬢に小銭を顔へ投げつけられたことや、□△銀行の支店長に罵倒されたこととかね、昨日のことのように鮮やかに思い出すことができるよ。(女性の裏声で)『いつまでもいられちゃ仕事の邪魔なんだよ。これでもくれてやるからとっとと出ていきやがれ、この物乞いどもが!』、(したたるような悪意を込めた声音で真似て)『学生のサークル遊びの延長みてえなクソやくざ商売にどこの誰が金出すと思ってんだ、アァ? 来るとこ間違ってんだよ。ゲームだと? 金が欲しけりゃ腎臓でも売りやがれ、この社会の最底辺のダニめらが』…(握りしめた拳を震わせて)あの頃の屈辱を忘れたことは無いね。そう、一瞬たりともね」
「(困った顔でスタッフに助けを求める視線をやりながら)ええっと、それは何と言いますか、その、たいへん哀れな、その」
「まァ、いまやあの連中もこぞってぼくのところに日参してくるがね。ぼくに幾ばくかの金を融資するためならケツ毛に付着した大便の欠片をも競って舐めとりたいといった様子でね。実際に今日は△×銀行の頭取にぼくの靴を舐めさせてきてやったよ。どうだい、顔が写るほどにピカピカだろう?(ガラス製のテーブルの上へ音高く右足を投げ出してみせる)」
「(スタッフの指示で強引に話題を変えて)あの、長いシリーズですけど、私は”トラ喰え1”が一番面白くて好きなんですが、あの」
「へえ、そうなの。天下の破裏拳逆巻さんにお褒めを頂けるとは光栄ですね(ちっともそう思ってないぞということを誇示するような殊更な鷹揚さでテーブルの上のジュースのグラスを取り上げてみせる)。これはシナリオ書きとしての興味から聞くんだけど、どんなところが一番印象に残ってますか?」
「ああ、ええっと、それはその…(スタッフの差し出すボードの助け船を横目で確認して)それはやっぱりエンディングでしょう。確か、こんな感じでした。『仁科教授の脂肪質の生白い腹部にぱっくりと縦裂きに開いた裂傷から…』」
「(ドサ回りの演歌歌手の執着で強引に後を引き取って)『…大量の血液が吹き出すのを和男は呆然と眺めた。女性器は縦に開いているのか横に開いているのかに毎夜煩悶する思春期の男子学生の迷いを具象化したようなその傷口は、圧倒的な男性性で無理矢理破瓜を迎えさせられた処女のそれのようでもあり、和男はそのあまりの非現実的な淫猥さに軽い眩暈を覚えた。今自分の眼前で一人の人間が死なんとしている。和男はどうすることもできない自分を痛いほどに、強姦の如く無理矢理に自覚させられた。無力感が、救ってやれるという傲慢な思い上がりを塗りつぶしていくのを絶望的な気持ちで眺めるしか、和男にはできなかった。噴出し続ける血液は、和男の真新しい白衣を次第に真っ赤へと染め上げた。和男はこの世で最愛の女の貞操が自分ではない男のペニスで奪われるのを想像する時のような、やるせない切なさを感じた。そうして、その切なさこそが、この世界にある絶望の正体だと知った』」
「(鼻白んで)ええっと。あの、もしかしてご自分の書いたものをすべて覚えてらっしゃるんでしょうか」
「(軽蔑した調子で、鼻で笑って)わからないだろうけど、これくらいは当たり前にできないとシナリオ書きはつとまらないんだよ」
「(スタッフの差し出すボードに目をやって)あ~、(棒読みで)いま聞いてもすばらしいですね。十年経っても色あせないどころか、違う種類の感動を我々に与えてくれるなんて」
「(一瞬だけ、ほんのわずかに小鼻を膨らませる)他の人はどうだか知らないけど、ぼくはシナリオを書くときクラシックを想定するんだ。ぼくのシナリオにはたとえ最初の印象は強くなくとも、年月に聞き減りしないそれらの音楽のような濃度を持たせるようにしたいといつも思っている。古くさいだとか時代錯誤だとか、的の外れた批判もたくさん耳にするが、それはぼくがシナリオに込めたこの崇高な精神を読みとることができていないんだね。白痴、そう白痴という言葉がぴったりくる愚かさだと思うよ。(ソファの背に片手を乗せ、尊大な態度で卓上のジュースを取り上げて)まァ、結局はぼくがはるかに時代を先取りしていたということなんだけどね。コペルニクスの例を挙げるまでもなく、すべからく先駆者というのは大局的な視点を持たない近視眼の大衆に、その先進性ゆえに忌避されるものだとわかってはいたのだけれどね。ようやく時代がぼくに追いついてきたという感じがするよ。十数年かけてのろのろとね。そうは思わないか、君(狂信的な、焦点のわずかに外れた目でのぞきこむ)」
「(聞こえないふりで目をそらしつつ、いつも他の芸能人達に接しているときとは異なった明らかなやっつけ仕事のテンションの低さで)ホーリーさんはシナリオをお書きになるとき、どのようにして、その、インスピレーションを得られるのですか」
「いい質問だね。いい質問だと思います。最近のゲームのシナリオを描いている若い連中にありがちなところなんだけど、アニメや漫画なんていう、それ自体がすでに二次的な文化であるものからほとんどそのまま受け取って、極端には固有名詞を変更したくらいのニュアンスでアウトプットして、これがシナリオでございとふんぞりかえっている。これはもう、お話にならないね。シナリオだけにね。そうは思わないかい、君(狂信的な、焦点のわずかに外れた目でのぞきこむ)」
「(困惑した微笑で)ええっと、あの」
「要するに言っちまえば、パクりだね。コピー文化のコピー、何度も使ったティーバッグにまた熱湯を注ぐみたいなものだ。まったく効果をあげないことに執着することのできる気狂いめいたその熱意だけは認めないこともないがね。これじゃ、ゲーム文化がいつまでも向上しないわけさ。別に老大家のやっかみや嫌味で言ってるんじゃないんだよ。ただ、(カメラを睨んで挑発的に)いつまでもぼくの一人勝ちじゃどうしようもないんじゃないの?」
「(テーブルの下で小指のささくれを引っ張りながら)手厳しいお言葉です。それではその後輩達のためにホーリーさんのシナリオ作法を少々でも開帳願えませんでしょうか。これは本当に、(あくびを噛み殺しつつ)興味のあるところだと思います」
「そうね。ぼくはやはり文学作品にインスピレーションを与えられることが多い。よく尋ねられるんだが、三島? ハ、いじましい国産の文学になんざ毛ほどの興味も感じないね。人間が人間として存在するためには不可避であるこの世の不条理たちとの対決という意味において真に政治的な世界の巨匠たちの作品は、ぼくにすばらしいアイディアを閃かせてくれる。各方面からの指摘がすでにあるように、ぼくのシナリオは確かにそれらへのオマージュの形をとることが多いと言えるかもしれない。最も顕著な例が、”トラ喰え4”だ。この頃は”嘔吐”にイカれていてね、主人公の猿捕佐助(さるとるさすけ)の妹である和子の過去が密教の予言者の秘儀によって回想される、物語上極めて重要な場面なんだが、この部分だ……(陶酔しきった表情でオペラ歌手のように朗々と)『牛の胸部より丹念に絞り出した白濁液をふんだんに使ったたっぷりとした肉汁の中には背筋のぞっとするような恐いくらいの太く長い肉詰と、馬鈴薯をしなやかな葉で包んだものが暗示的にプカリプカリと浮かんでいる。和子はおそるおそるフォオクの先端を、肉食獣の檻に手を差し入れるときのようなおびえようで、肉詰の表皮へと触れさせる。危うい均衡で辛うじて肉汁の表面に荒々しい全身の半面を見せていたその恐ろしい太く長い肉詰は、一旦肉汁の海へと沈み込むと一瞬間後、色合いの異なった反対の側面を和子の方へと回転させた。その動きは、肉詰の持つずっしりとした質量がさせたせいだろう、肉汁のうちのいくらかを和子へと跳ね上げた。牛の胸部より丹念に絞り出した白濁液をふんだんに使った、しかし馬鈴薯のせいだろうかわずかに黄味がかった液体は、和子の平板な顔面をねっとりと伝い落ちた。最初はその突然の熱さに驚くしかできなかった和子だったが、額を伝い、鼻を伝い、頬を伝い、唇へ流れ落ちる液体をおそるおそる長い舌で舐めとってみた。美味しい。和子は味蕾の全てを破廉恥にも開放させるその官能に思わず我を忘れた。和子は襟元からナプキンを引き抜くと、丸々とした太く長い馬鈴薯を鷲掴みにし、歪により太くなっている側の先端から上唇と下唇を押し割るようにして喰らいついた。その勢いに和子の口の中で縛ってあった肉詰の先端がほどけ、熱い汁がビュビュとほとばしった。見る者が見たならばそれは”貪欲”とでも名付けたくなる一枚の絵画のような光景だったろう! 熱さに喉の奥を焼かれながら、和子はふと馬鈴薯を包んだレタスがつるりと剥けるのを眼の端に捉えた。次の瞬間、肉詰が肉詰という名前ではなく肉詰そのものを表す実存のように、馬鈴薯が馬鈴薯という名前ではなく馬鈴薯そのものを表す実存のように、レタスがレタスという名前ではなくレタスそのものを表す実存のように、人間の意識という夾雑物による認識阻害を超えた現実感で和子の脳髄に溢れた。恐ろしい墜落感覚と崩壊感覚が和子の精神を余すところ無く蹂躙した。それは狂いだった。和子は肉詰を上唇と下唇の間に右手を添えてくわえたまま、残った左手で隣のテエブル席に座っていた客の頬を力任せに殴りつけた。それは狂気という名前をした完全な、生まれて初めて和子の感じる文字通り完全な自由であった。あまりの衝撃に折れた骨が皮膚から突きだしてしまっている左手を気にも留めたふうもなく、和子は突然カウンタアの向こう側に並ぶ高価な洋酒の瓶めがけてテエブルの上から水泳の選手がやるような要領で飛び込んだ。凄まじいガラスの破砕音と共に和子は立ち上がった。口腔にある肉詰はもう既に冷めてしまっており、中に包まれていた熱い汁も全て散逸してしまっていた。和子は嫌悪感に頬を漲らせ、かつて肉詰だった残骸を音高く吐き捨てた。和子はそこでふと首筋に違和感を感じた。手をやると、割れたバアボンの瓶の破片が深々と突き刺さっている。和子は何の躊躇もなく忌々しげに、冬のセエタアについた毛玉にやる無頓着さでそれを引き抜いた。瞬間、和子の首筋から驚くほど大量の鮮血が吹き出した。血流の勢いによろめいて仰向けにひっくり返りながら、和子は自分の知っている限りの猥褻な言辞を呪詛の言葉に混ぜて吐き散らしたのだった…』(空中に高く手を差し伸べたポーズで滂沱と涙を流す)」
「(スタッフの一人に小突かれて目を覚ます)あ、あふ。(わけもわからず拍手して)素晴らしいです。素晴らしい。あの、お時間も差し迫って参りましたので、視聴者のみなさんもやきもきしていると思います、最新作である”トラ喰え7”について少しお話をうかがいたいのですが」
「(途端に不機嫌にソファに身を投げ出すように座って)ぼくはたいへん怒っている」
「(とまどって)は?」
「(苛立ちを押し隠すように目を細めて)君は、旧弊社を知っているか」
「あ、はい。大手の出版社…ですよね?」
「大手かどうかは知らないが、そうだ。そこが発行している漫画雑誌に、”少年ザブン”というのがある。知っているか」
「はぁ、まぁ、名前だけは。駅のキヨスクなんかでよく見かけますね」
「連載されているどの漫画のストーリーもテーマもすべて同じ、ぼくなんかのシナリオとは本当にくらべるべくもない、ほとんど環境破壊に貢献するしか役目がないような、ポンチ絵をしか描くことのできない脳言語野に先天的疾患を持った連中を喰わせるためだけに存在する、言ってみれば社会福祉が主目的の三流誌なんだが、唯一の見所としてぼくの”トラ喰え”の紹介記事をずっと掲載しているんだね。1から最新作の7に至るまでずっとだ。宣伝としてザブンがまったく役に立たなかったというとそれは嘘になるが、今やこれだけ有名になり、会社も昔とは比べものにならないくらい大きくなってしまっているし、旧弊社から完全に引き上げて手下の出版部にすべて任せてもよかったんだよ。なぜそれをしなかったのかというと、独身時代に住んでいた風呂トイレ共同のボロアパートを、つい引き払うのを忘れていたようなものなのさ。それがこんなことになるとはね! まったく不愉快極まるよ(震える指でポケットから煙草をつまみ出そうとする)」
「(感情が無いことを隠すための微笑で)あの、いまひとつお話が見えないのですが」
「まったく君たちマスコミという人種は! こんな重大事を見ずによくのうのうと居座っておれるものだ!(片手で目を覆い天を仰ぐ)」
「(時計を気にしながら)あの、お時間の方が。手短にお願いできますでしょうか」
「ふん。他に競合相手がいなかったせいで偶然成立してしまった巨大媒体にふんぞりかえる、原始メディア風情めが。おまえたちにはゲーム業界の持つ比類無いかがやかしい進取性をほんのわずか理解することすらできまい。(突然火のように激しくテーブルを拳で殴りつけて)旧弊社めが! 他人の創造性に寄生することでかろうじてお目こぼしの人生を授かっていることにも気がつけない、最低の性病持ちの息子どもめが!」
「(わけもわからず平服して)申し訳ありません、申し訳ありません」
「やつらのやったことはぼくという破格のクリエイターに対するこれ以上は考えられない冒涜と言っていいだろう。”トラ喰え”は1,3,5の奇数シリーズにおいては男性器を、2,4,6の偶数シリーズにおいては女性器をテーマとした物語を展開してきた。今回の7では当然これまでのシリーズ構成を踏襲したもの、つまり男性器を物語の主体においたものとなるだろうと誰もが予想する。ぼくは受け手が当たり前のものとして訪れるだろう男性器をだらしなく口を開けて待ちかまえている弛緩しきったこの現状に一クリエイターとして我慢がならず、ある重大な決断に踏み切ったわけなんだが……(激しくテーブルをひっくり返す)旧弊社めが!」
「(失禁して床を這いずりながら)ひいいッ! ごめんなさい、ごめんなさい」
「ぼくはひとつの重大なポリシーとして、発売前のゲームのシナリオは例えそれが絶大な宣伝効果を持つとしても、極力内容を明らかにしないという態度をつらぬいてきた。旧弊社のやったことは、そのぼくの意志に対する裏切りであるし、何より人間の尊厳と信頼を手ひどく踏みにじる行為だと考えている。これはもうあの社会の最底辺のスノッブ共が明らかにしてしまったので仕方なく言うが、ぼくは”トラ喰え7”において周囲のしたり顔な期待を裏切って、男性器と女性器を同時に表現する矛盾を超克するやり方で臨もうとしていた。わかるかい、なんと両性具有をテーマに据えることにしていたんだよ! まさにこれは”トラ喰え”自身が作り上げてしまった一つのパラダイムの、抜本的な変革じゃないか。その、疲弊を見せ始めたゲーム業界全体にする至高の革命を、革命前夜のくだらぬ密告によって台無しにされてしまった気分だよ……(天を衝く怒髪がセットの天井を突き破る)旧弊社めが! (急に冷静に肩をすくめて)もっとも、旧弊社のやったことは”トラ喰え7”の与えるだろうほんの最初の衝撃を軽減するくらいの効果しか及ぼせていないのであって、”トラ喰え7”の持つ革命性そのものは少しも傷を与えられていないんだけれどね」
「(腰を抜かしたまま両手の力だけで元の椅子の上へはい上がろうとしながら)そ、それは災難でした。災難。飼い犬に手をかまれたというわけなのですね」
「まさにその通りだよ。人に危害を与える狂犬は、保健所で毒殺されるだろう? (危険なギラギラする目で)言っておくが、旧弊社もね、もう長くはないよ」
「(スタッフに促されて)そろそろ時間も無くなって参りました。最後に一言、視聴者のみなさんにお願いできますでしょうか」
「そうね。では、最新作”トラ喰え7”からの一節を引用することで一言に代えようか(立ち上がり、左手を胸に右手を中空へと差し伸べる)…『厳しく緊縛された亀頭はもはや男性器としての尊厳と能動性を喪失させられていた。尿道に爪楊枝を根本まで突き立てられ、それの引き起こす刺激に耐えかねて断続的にビクン、ビクンと痙攣する様はむしろ女性的であると表現しても過言ではなかったろう…』」
「(あわててさえぎって)今日のお客様はゲーム作家のホーリー遊児さんでした。それでは来週のこの時間までご機嫌よう(びっくりするような大音量で番組のテーマ曲が流れ出す)」
「(うっとりと陶酔した表情で)『わずかに顔をのぞかせた爪楊枝の握りの部分は、女性の乳首の如き受動的哀切を見る者に与えた。それは美と性のアンドロギュノスという形容さえ決して過分であるとは…』」
冬の別離
「(冬の大気に渇いた唇の荒れとその下にある悪い歯並びを一本一本確認できるほどのリアルな描写で、演壇に木製の槌を気狂いの暴力性でガンガン打ちつけながら)カフェインを多量に含んだ琥珀色の液体を穀類から抽出する作業に”煎れる”と漢字を当てる自意識の持ち主は死刑!」
「あっ。小鳥猊下が誰もいない傍聴席に向かって口角泡飛ばしているぞ」
「なんて肥大した自我領域と自尊心の持ち主なのかしら。私の愛想もそろそろ尽き果てたわ」
「(同心円状に渦を巻いた黒目で)女性器の内壁に男性器を密着させる作業に”挿入る”と漢字を当てる自意識の持ち主は死刑!」
白い壁に四方を覆われた、光源の特定できない不安定な小部屋の隅に、あばらの浮くほど痩せた一人の男が膝を抱えて座りこんでいる。その顔に生気はなく、目はうつろで焦点を持たない。両手足の先は紫に変色しており、指先にいたっては茶色く腐りはじめている。
男の上に人影が差す。
「猊下…」
「(わずかに眼球を動かす。ほとんど聞き取れないようなかすれた声で)……やぁ。真奈美、ちゃんじゃないか(頬の筋肉をわずかに痙攣させる)」
「いったいどうしてしまったっていうの、猊下。(しゃがみこんで男の手を取る。蛆の浮いたそれに頬ずりしながら)ああ、なんてことでしょう! あの誰をもよせつけない、あなたの神々しいまでの邪悪な傲慢さはいったいどこへいってしまったの(むせび泣く)」
「(唇を歪めて)そんなものは、最初からどこにもありはしなかったんだ」
「(激しく首を左右に振って)嘘、嘘! じゃあ、わたしの見ていたものはなんだったっていうの。わたしの、何を捨ててもいいと思うまでに愛したあれはなんだっていうの」
「(目だけで見上げて)幻想さ。君の中の、君にしか見えない、ね」
「(悲鳴のように)言わないで! (弱く)…そんな残酷なこと、いまさら言わないで。わたしはもう引き返せないの。あなたがどう変わろうとわたしはあなたと心中するしか残されていないのよ」
「(皮肉に笑って)そうやって君はいつもぼくを追いつめていくんだよな。もうそういうのはまっぴらなんだ。真奈美ちゃん、君がまだ少しでも、君自身の自己愛の裏返しのようではなく、本当にぼくのことを想い、愛してくれるところを持っているのなら、どうぞこのままぼくを放っておいてほしい。ぼくがいま一番求めているのは、誰からもかえりみられることのない解放される死のような放埒さだけなんだよ…(目を閉じる)」
「(ぞっとする怨念とともに、強く)させないわ。そうやってわたしのすべてを奪っておきながら、わたしの世界を何の幻想も無い苦痛の場所へ無惨にも改変しておきながら、自分だけわたしをおいてまた一人の世界へ閉じていこうというの!(男の腕をつかむ)」
「(わずらわしそうに振り払って)うるさいな」
「お願い、もどってきて。(懇願するように両手をもみしぼり)ねえ、猊下、わたしはあなたじゃなくちゃダメなの」
「(悲しそうに)それが嘘だっていうんだよ。もう遅い。どうやら追いつかれたみたいだ(周囲の大気がゆっくりと動き出す)」
「きゃあッ! な、なに、これ…寒い。寒いよ、猊下。助けて、たすけ(両手で肩を抱いてガチガチと歯を鳴らしながら床へ倒れ込む)」
「(憐れみをこめて)ここは現実と虚構の狭間の部屋なんだ。完全につくられた実存である君が長くいられる場所じゃないんだよ、真奈美ちゃん(様々の悪意に満ちた嘲りが自我を圧迫する奔流のように、無意識を陵辱する強姦魔のように、原色に渦巻きはじめる)」
「(涙を浮かべ、震える唇から押し出すように)さむい、さむいよぅ……ねえ、わたし、死ぬの?」
「(少女の頬に手を当てて)ごめんよ。でもこれは、――胸をつかれたように一瞬沈黙し――君の罪じゃない」
「(首をわずかに持ち上げて)ねえ、猊下、わたし、生きたかったわ。春も、夏も、秋も、冬も、猊下といっしょにいようって。猊下がおじいさんになって、わたしがおばあさんになって、それまで猊下といっしょにいようって。猊下がわたしを見なくても、猊下がわたしを必要としなくても、それでも猊下といっしょにいようって……(力を無くして床に首を落とす)そう、決めてたのに」
「(苦痛に眉を寄せて)ごめんよ」
「猊下、死ぬまえにひとつだけわたしのお願いを聞いてほしいの。(涙にうるむ小動物の目でみつめて)わたしのこと、好きだと言って」
男、少女の目を見返す。だが、口を引き結んだまま一言も発さない。間。
「(理解を含んだ寂しそうな微笑みを浮かべ)さいごまで、まなみは、げいかを、こまらせてばかり…(少女の目に白く濁った膜がかかる。焼けた鉄板に水滴を落としたような音とともに少女の身体はかき消え、白い泡だけがその場に残される)」
「(床に残された白い泡のかたまりを見つめたまま立ちつくす。そして振り返り)君たちが殺したんだ。これで満足だろう?」
やがて男はすべてに興味を無くした瞳で再び元の位置へと座り込み、自分だけの王国にささやきかけるようにそっとつぶやく。
「君が尻軽な売女なら、まだぼくは救われたのに。それって、愛じゃないか」
十万ヒット御礼小鳥猊下基調講演
「……いつまでそんな片隅でやくたいもない繰り言を続けるつもりですか。誰も、誰ひとりあなたのことなんて見ちゃいないし、あなたのことを少しでも重要だと思う人間なんていないんですよ。もしいるとしたらそれはあなたと同じレベルのつまらぬボウフラのごとき生き物が、他人の位置を常に追い求めることでしか自己の立つべき場所を見いだせない生き物が、優越を満たすためだけに気のないふうに出歯亀の陋劣さでわずかにのぞき見ているにすぎないんですよ。天才を持たないあなたたちの語る世界への絶望は、完全に個人的な妄言の範疇に収まってしまっており、いかなる普遍性をも持ち得ず、ただただどこまでも不快なんですよ。あれえっ。どうなってんだい。静まり返っちゃったよ。おい、今日の演説の草稿書いたの誰よ。榎木谷くん。聞かない名前だなぁ。そんなのうちにいたっけか。え、何、ネットで拾ったの。ぼくが。はいはい。あのナントカいうサイトの運営者ね。思い出したよ。へえ、君がそうなんだ。もっとおたくっぽい外見かと思ってたよ。あのね、殺して。うん、そう、殺すの。何度も言わせないでよ。ショットガンで原形をとどめない肉片になるくらいずたずたに、文字通り完膚無きまでに殺してよ。まったく、おおよそ一万ヒット程度のサイト運営者の浅知恵が考え出しそうな内容だよね、これ。本当のことを何のひねりもなくそのまま言ってどうすんのよ。その程度までの視力ならね、誰でも持ってんの。自分だけがわかったツラでことさらに強調してみせて馬ッ鹿みたい。自分の矮小な能力と偏狭な世界観いっぱいいっぱいのシロウト人間分析で悦に入ってんじゃないよ。君らみたいのはぼくなんかと違って人としての根本の器がまず決定的に小さいから、自分の知ってること全部吐き出さなくちゃ相手の興味をひき続けることをやってけないから、見せちゃ自分が危ないとこまで自分を見せなきゃいけないはめになって、結果として身を守る裏返しですべてに対して攻撃的にならざるを得なくなるのよ。こんなのに一瞬でも期待をかけた自分が馬鹿だったね。ムカつくよ。いいよ、いいよ。おれ今からアドリブでやるから。あ、殺すまえにそいつにも聞かせてやってよ。ここから先は無いと諦めていた無明の闇の果てへ自分の進むべき未来への方向性を見いだした瞬間に死ななければならない絶望と無念は、それはもう格別だろうからね。けけけっ。
「……この世は残酷な場所です。神の視点においては人間もアメーバも区別が無い。ぼくたちはただ増え、そして空手で死ぬ。人の心は移ろう。 あなたは裏切られ、明日にはかれの中でまったく意味を失ってしまうでしょう。確かに永続するものは何ひとつとしてない。天上の愛もいつかは赤銅色に錆びつき、路傍にうち捨てられ、風化して朽ちることもままならず、その残骸を屈辱のうちにさらし続けるだろう。永遠に続くものがあるとすれば、それは朽ちた愛情の惨めさだ。愛される救済の瞬間はまたたきのうちに消え去り、やがて自己投影の幻想に気づいた象徴の両親たちは鼻をつまんで自らの失敗作から身を遠ざける。誰もあなたを本当に求めはしない。真実のあなたが認められるはずはない。だからあなたは誰にとっても都合のよいあなたをいつまでも演じ続ける。そうしてついには真実の自分と偽りの自分の落差に倦み疲れ、ひとり勝手な憎悪に身を焼いて、絶望も意味をなくす空虚さの中で完全に心を硬直させてしまう。無数の他人からの投影に道化師のように応え続けるあなたは、ついにはどれがあなただったのかすらわからなくなって、呆然と立ちつくしてしまう。この世は残酷な場所だ、でも。ぼくは安易な希望を語ることをしない。ぼくは希望を信じていない。それは人間が抱く自分以外の対象への身勝手さに他ならないからだ。けれど、この世が残酷な場所だと認識し、絶望に満ちていると確信し、その最悪の悲嘆の中でなおあらわれるかすかな”でも”という声に含まれた希望のひびきをぼくは信じる。すべてが様変わりし、あなたを見返らないそのときでさえ、ぼくはあなたの側にいる。心変わりした恋人がかつての両親のようにあなたを見捨てるそのときでさえ、ぼくはあなたを見捨てない。ぼくは決して変わらない。あなたがおそれるような、あなたを必要としないぼくにはならない。ぼくはいつでもあなたの醜悪さのすべてを受け止め、丸がかえする。あなたがわずかの時間でも傷ついた羽根を休め、また再び残酷な世界へと舞い戻って行くことができるように。ぼくはあなたの持つ虚しい現実の情報の蓄積ではなく、あなたの魂を愛している。ぼくには誰でもない、真実のあなたが必要なんだ。ただ時間を埋めるためだけのすべての意味の無い言葉の群れのうちで、ぼくがあなたに告げるこの言葉だけは本当だと信じて欲しい。”I need you.”(しわぶき一つないしんとした静寂が会場を満たす。やがて聞こえるかすかな嗚咽)
「ってな具合さ。人間は壊れやすいよ。だから心のいちばん敏感なひだに触れるように、そっとやさしくやるんだ。やつらが心底そのように理解されたがっているカタチに理解してやるんだ。人間は誰も飢えた野良犬と同じなんだよ。やさしくのどの裏を掻いてやりさえすれば、簡単にだらしなくよだれまみれの舌を突きだしながらひっくり返って腹を見せてくる、下品で簡単な赤犬なのさ。コートでかたく身をよろっているように見えても、ちょいとやさしく暖めてやればストリップよろしくたちまちコートも何も脱ぎ捨ててすべてを投げ出してくる。ごたいそうな心の傷へポルノビデオよろしく官能的に舌を這わせてもらいたがってるんだよ。その手管を知っている人間なら誰でもいいんだ。ぼくじゃなくてもいいんだ。金を持っていさえすれば誰にでも股を開く商売女と同じさ。なんて博愛的な平等精神にあふれた、この上なくつまらない連中なんだろうねえ! 死んじゃえ。みんな死んじゃえ。みんな残らず死んじゃえ。
「……うう、寒い。え。あ、そう。死んだの。破片はちゃんと全部かきあつめて肉ダンゴにして別荘のニシキゴイにやってよね。あれやるとさ、鱗の色彩の照りがずいぶん違ってくるんだよね。自然から出てきたものはちゃんと自然へと還元してやらないとね。これこそ大往生ってもんですよ。かれもあの世で喜んでるだろうね。涙流して地団太踏みながらね。けけけっ。それにしても、ハイヤーまだ来ないの。え。他のサイトの講演に全部出払ってる。気にくわないなぁ。え、百万ヒットの。ふぅん。ぼくを殺して。うん、そう、ぼくを殺すの。おい、目をそらすなよ。待てよ、どこ行こうってんだよ。離せ、チクショウ、触んな。おれの命令が聞けねえのかよ。殺せよ、早くおれを殺せよ。誰でもいい、誰かおれを殺してくれェェェェェ!
パアマン(3)
「ワイは自分のことが好きや。こんな醜く肥え太ったワイが自分のことを好きやなんてナルシストみたいなことゆうて、おかしい思ってますやろ。でもな、ワイはそれでもやっぱり自分のことを愛していると言うわ。なぜって、誰ひとりワイのことを見てくれへんかったからや。アル中のおとんも、宗教にハマって家を出てったおかんも、自分たちのことに精一杯でワイを愛する余裕なんてあらへんかった。だからワイはワイのことをワイ自身で愛してやるしかなかったんや。そんなワイや、パアマンに選ばれたときのうれしさは忘れられへんな。あれは世界が革命した確かな瞬間やった。ハーレクインロマンスのヒロインたちのようにワイは見いだされて、誰からも省みられない醜いアヒルの子やのうて、誰からも愛され求められる輝かしい白鳥に化身することができたんやからな。リーダー、ワイは死んでもパアマンをやめることはしまへんで。それだけは覚えといてや…」
「みつをさんッ、危ない!」
パア子の叫び声に私は撥と我に返る。見れば、私の眼前に巨大なエイプが大きくあぎとを開ゐてゐた。其処に覗く不揃ひな歯は殆どの獣達がさうであるやうに、雑菌の固まりなのであらう。遺伝子操作を施された此のエイプ達の事だ、噛まれるだけで致命傷に為りかねなゐ。
私は粘着く唾液にまみれた其の上顎に手を掛けると、一気に引き裂ゐた。粉々に為つた頭蓋が飛沫を上げて大気中へと拡散する。私は逆さ洗面器のバイザアに付ひた返り血を指で拭ふ。両肩の間に舌と歯の残骸を乗せただけの悪魔的な戯画めゐたエイプの死体が、仲間の数匹を巻き込み乍ら雲間へと消へてゆく。
私は背中合はせに居るパア子へ肩越しに頷きかけると、更なる上昇を開始した。一体どの位昇つたのだらう。雲は遙か眼下に在り、大気が希薄になつて来たせひか、星々が恐ろしく近くに見へる。問題は逆さ洗面器に装備された非常環境に適応する為の生命維持装置がゐつ迄働ひて呉れるかだ。之が停止すれば私達は忽ちに窒息死してしまふだらう。
しかし。と私は考へる。其のやうな安楽な死は決して望めなひのではなゐか。何故なら私達の生命反応は逆さ洗面器を通じて全て奴らにモニタアされてゐる筈であり、奴らが私達の生存を知り乍ら私達からたゞちにパアマンの能力を取り上げてしまわなひのは、奴らには私達二人を簡単に殺すつもりは全く無ひとゐふ事を意味してゐる。恐らく此のエイプ達によつてなぶらせるつもりなのだらう。
私達は追ひすがるエイプ達を殺し乍ら上昇する。四方から同時に襲われてはひとたまりも無ゐ。エイプ達の攻撃の方向を限定する其の苦肉の策が、今私達二人の首をじわゝと絞めつゝある。
生命維持装置をフル回転させてなお身を切るやうな冷気の中、私は背中にあるパア子の温もりに救ひを感じてゐた。其れはパア子も同じだつたらう。パア子の、私の手を握りしめる力が強くなる。私は更に強く其の手を握り返す。破局はもう間近だ。死の運行は緩慢だが着実であり、生の鮮やかな上昇が持つやうな疲れを知らなゐ。私はそんな言葉を思ひ出してゐた。今の私達の置かれてゐる状況は此の言葉にぴつたりを当てはまる。
メゝント・モリ。死を思へ。私はずつと、誰もゐなくなつた夕方の砂場で一人遊ぶ子供だつた昔から、ずつと死の事を考へ続けて来た。だが、今私達の眼下に存在する無数の赤い獰猛な対の光は、何と其の甘やかな夢想と異なつてゐる事だらう。私は死を眼下に、生の温もりを背後に、初めて心から生きたひと思つた。
「きゃああっ」
突然のパア子の悲鳴がそんな私の物思ひを永遠に切り裂ゐた。音もなく追ゐすがつて来た一匹のエイプの巨大な爪が、パア子の逆さ洗面器を真二ツに叩き割つたのだ。
逆さ洗面器の下にあつた初めて見る其の素顔は。嗚呼。
パア子は大きく目を見開くと、小さな音を立てゝ息を吸ゐ込んだ。其の吸気が吐き出される事はついに無かつた。代わりに吹き出した大量の血が、周囲に霧のやうに飛び散つた。
パア子は自失する私から手をもぎ離すと、浮揚外套を優雅な仕草で肩から外し、宙へと放り投げた。スロオモオシヨンのやうにゆつくりと落下してゆくパア子にエイプの群が殺到する。最後に見えたパア子の青白ゐ手も、ついにはエイプの群の中へと埋没してゐつた。
何とゐふ、何とゐふ、何と。パア子。パア子。パア子。
強ゐ衝撃を感じて我に返ると、先程のエイプが私の右肩に深々と爪を突き立てゝゐた。パア子を殺したエイプだ。生暖かな私の血が、私の身体を滴り落ちるのを感じる。
ギイゝ。エイプが嘲るやうに笑つた気がした。
私の視界が真つ赤に染まる。瞬間其のエイプが殆ど個体としての原形を留めぬほど激烈に、破裂するやうに四散する。私は手の中にある引きずり出したエイプの茶色ゐ心臓を握り潰した。
「このざんこくなせかいに / あなたをひとりのこしていくことが / それだけがしんぱい」
私の良く知つてゐるアイドルの歌がどこか遠くで聞こえたやうな気がした。其れはパア子の歌。
「あいされたいから / あいするの」
朧な月明かりの中、黒ゐ帯が羽虫のやうな音を立てゝ上昇して来るのが見えた。
人間の感情を。人間の尊厳を。人間の瞋恚を。
奴らに教えて遣る。
私はエイプ達を傲然と見下ろすと、身を翻し其処へと突入した。
魂消る咆吼が聞こえた。其れはエイプ達の上げたものなのかも知れなかつたし、或ひは私自身のものなのかも知れなかつた。
あらゆる方向から無数のエイプが憎悪其のもののやうに私に向けて殺到する。最初の十数匹の集団が、同時に粉々に破裂した。
一匹でも多く殺して遣る。
ぴるゝ、ぴるゝ。突如胸のバツジが高らかに、最も間抜けなタイミングを見計らつたやうに、鳴つた。
「やあ、聞こえるかい、リーダー。『鳥の男』こと、小鳥さんだ。君にまず初めましてを言っておこう。どうだい、圧倒的な力で他人を蹂躙するのは快感だろう? 君がいま戦っている猿どもは君自身が奇しくも看過したような死の象徴であり、私自身のトラウマの象徴であり、またコミュニケートの不可能な残酷な他人の象徴でもあり、こんな大仰な表現がお好みで無いならば満員電車でスポーツ新聞のポルノ記事越しにリポD臭い息を吐きかけてくるオッサンの象徴であるとも言えるだろうよ。いいかい、君はそれらに抗うことなんてできないのさ。君はそれらのすべてを諾々と、屠殺場へと引かれていく子牛のように静かにあきらめて受け入れるしかないんだ。そこにする君のアクションのすべてはもうなんというか、単なる自己満足的なポーズに過ぎない。ただ矮小な君自身をだけ納得させるための無駄なカロリーの消費であって、君を除くすべての場所、すなわち世界には何の痛痒も与えないんだ。現実を打ち破る理想なんてどこにも存在しないのさ。それでも君は」
私は胸のバツジを握り潰した。
世界の死の乱舞のなかからも、まわりの雨まじりの夕空を焦がしている陰惨なヒステリックな焔のなかからも、いつか愛が誕生するだろうか? (トーマス・マン、『魔の山』)
デ・ジ・ギャランドゥちゃん(1)
デ・ジ・ギャランドゥちゃんは23歳辰年生まれ、巨大企業のエゴに日夜翻弄される関西在住のしがないサラリーマン。インターネットでうっかり自己実現してしまうようなそこつ者。でもね、愛の本当の意味はまだ知らないの。
「どうして私のみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛は、そこに軟着陸したハエの脚をからめとり二度と再び離陸させないほど絶望的に密集しているのでしょう。永遠のロリータキャラクターを売りにしている私は毎月数十回の剃毛を試みますが、そのたびにますますこの体毛群は繁茂し、複雑に密集していくような気がします。そろそろ永久脱毛を考えてみるべきなのでしょうか」
「ねえ、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
「誰かと思えば猫科の小動物を思わせるその可愛らしい名前とは裏腹の青黒い血管が縦横に走ったその表皮が婦女子を本能的な恐怖から致命的に遠ざける私の実存内の下位人格、最も下劣な部分の忠実な投影であるところの、タマではないですか」
「名字はキンです。ところで、辞令を持ってきましたよ。本日付けで日本橋支店への異動が決まりました。一両日中にすべての身辺処理を完了し、現地での業務につくようにとのことです」
「ええっ。こまったにゃぁ。猫語尾です。日本橋と言えば関西おたく族のメッカではないですか。そんな業界の思惑が無尽に交錯する激戦区に私のような愛らしいクリーチャーが突如出現するなんて、毎朝の出勤だけで数十回はいいように視姦されそうです」
「まぁまぁ、そう言わないで。第一あなたはそういったおたく族向けのホームページを運営し、かれらの心の機微はまるであなたがかれら自身ででもあるかのように理解しているはずではないですか。上層部もきっとあなたのそういう資質を高く評価したのだと思いますよ」
「待ってください。しかしそれは大きな誤解というものです。なぜなら私は自分の中の、世間に言わせると”おたく的な”としか形容できない心の動きの部分を言語によって正当化するためにあのホームページを制作したのです。それが偶然ネット上を夜な夜な徘徊する現実に居場所のないおたく諸君に一方通行的なほとんど誤解とすれすれの共感を得ただけであって、私の本来意図したものとはまったく違うと言わねばなりません。あれはまったく個人的なお遊びに過ぎないんです」
「本質は問題ではないのですよ。深いところにある本質がどうであれ、表層に現象として浮かびあがってきたものがこの世の真実となるのです。デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたはまだそういった現世のカラクリを良くは理解していないようだ。たとえあなたがどんな最悪の妄想を抱いた潜在的犯罪者であろうと、あなたが現実において大きく成功しないまでも日々正しく労働し、組織にとってニュートラルからプラスの位置に居、抱く妄想を顕在化させようと思わぬ限り、あなたはいつまでも新たな企業的負荷を与えられ続けるのですよ」
「わかりました、わかりました。波打った部位によって幅の違う毛を表面に無作為にトッピングした脈打つ青筋をそれ以上わたしに近づけないで下さい。目に入るだけで妊娠しそうです」
「すいません、興奮するとつい無意識的に様々の部位が隆起してしまうのです」
「要するに、自身の異常さに自覚的な人間が社会人であり、自身の異常さに無自覚な人間がおたく族ということなのでしょうか」
「うぅん、微妙にぼくの意味するところとは異なっているような気もしますが、ある点においてはそれは真であると言えるかも知れません」
「わかりました。しかし加えてかれらおたく族はわたしのような可愛らしい婦女子から、その黙示録的な容貌が主な原因なのでしょうが、決定的に隔離されています。そこに根を持つ鬱積した異性への劣情をアニメやコンピュータゲームを代表とする平面に記述された婦女子の記号へと転移しているわけなのですが、空気穴の空いたプラスチック製のボックスをかぶせた極上の料理の眼前へ両手を縛られて座らされるようなそのもどかしさの中で、青竹が積雪の重圧をついにはねかえして元へと復元するように、まっとうな人間へと立ち返るかえるために自分の持つ欲望を犯罪的な方法で一気に放出してしまおうと試みたりしないのでしょうか。だとすれば、わたしはとても恐ろしくておたく族の中を歩くことなどできないです」
「デ・ジ・ギャランドゥちゃん、あなたの間違いはおたく族の大きなお友だちのことを青竹というメタファーで捉えたところにあると思います。おたく族とは、人間の持つ生来の復元力を徹底的に封印ないし破砕されてしまった人間の群れのことを指すのです。あなたはそこで逆に安心できる。それは保障していい」
「けれど、なぜおたく族は人間の持つ素晴らしい魂の復元力を喪失してしまっているのでしょうか。かれらの容貌のあまりの醜さがかれらを絶望させるのでしょうか。そうして、自らの絶望に気がつかないようにいっそう絶望を深めてしまうのでしょうか」
「その考えは案外本質をついているのかも知れません。今までぼくたちがおたく族のことを語るとき、たとえば個人の生育史であるだとか、あまりに精神的な面にばかり目を向けすぎてしまっていた。しかし近年アトピーなどを代表とする心身症の問題が議論を提出したように、ぼくたちの心と体は簡単に分離して考えてしまえるものではないのかも知れない。おたく族になる要因として社会的に忌避される醜い容貌を条件として考えてみるのも面白い発想の転換ではないかと思う。もっとも、卵が先か鶏が先か、どちらかに偏向して断定してしまうのは慎重に避けなければならないけれど」
「わかりました。わたし、日本橋支店に行きます」
「わかってくれたようだね、デ・ジ・ギャランドゥちゃん」
「ええ。日本橋支店ではみぞおちから腹部を経過して下着の中へと消えていくどこの何とも指摘できぬ名状しがたい一連の体毛を完璧に処理し、おたく族を狂喜させるような夏向けのへそ出しルックで出勤することにします。それが、この世にありながらこの世のどこにもいない、生まれてくることのできなかった亡霊たちへの唯一の供養だと思うから」
「うん、それはとてもいい考えだと思うよ。親御さんもきっと今回のことを喜ばれる。おたく族の住処はある意味妙齢の娘さんにとってどこよりも安全な場所だからね」
パアマン(2)
「わかってまんのかいな! あんさんひとりの勝手な行動のせいでうちら全員が迷惑するんやで!」
激昂したパアやんがテエブルを拳で一撃する。私の前に置ゐてあつたグラスが跳ね上がり、重心を失つてくるゝと回転した。
店内の視線の気配が一斉に此方へと集中する。私はかうゐふとき、本当にどうしてゐゝのかわからなくなつてしまふ。相手の感情の鋭さが私の現実と大きくずれて、重ならなひのだ。パアやんはグラスの氷をぼりゞと噛み砕き乍ら続ける。噛むとゐふ動作で攻撃性を発散してゐるのだらう、と私は自分が全く当事者で無ゐやうに呆と考へた。
「自覚が無いんやな。リーダーとしての自覚が無いんや。あんさんには昔からそないなところがあったわ。ぜぇんぶ他人事なんや。ええか、わしらがやってるんはアホな女子学生のバイトがやるような誰にでもできる片手間の仕事やおまへんのやで。一人おりません、はいそうですかゆうて別の人間を連れてくるわけにはいきゃしまへんのやで」
私は右手の親指で左手の親指の爪をきつく押さへた。此の世に代替の利かなひ人間など存在しなゐ。私達とて其の例外では無ゐ。
「それにな、あんさん忘れとるかもしらんから言うけど、わしらは常に”鳥の男”に見張られとるんやで。力をおのれの利益のために使ったり、仕事で不誠実やったりしたらたちまち畜生に変えられてしまうんやで。”鳥の男”への忠誠心と仕事への使命感をだけ植えつけられた畜生奴隷にや! あんさんが今回やったことは、そのどっちにも当てはまるんや。ワイはな、あんなエテ公みたいになりとうない」
パアやんが目を向けた先には黄色い逆さ洗面器を被つた恐ろしく巨大なエイプがゐた。何処から取つて来たのかバナゝの房を胸に抱へて、店内をテエブルからテエブルへと跳び回つてゐる。エイプにハンバアグを日の丸の旗ごと踏み潰された子供が、火の点ゐたやうに泣き出した。
「ワイはあんなエテ公みたいになりとない」
パアやんが繰り返す。私の隣でずつと黙つて俯ひてゐたパア子が、だつたら止めてしまへばゐゝのに、とひつそりつぶやゐた。
後れ毛が一筋、パア子の頬に垂れかゝつてゐる。其の疲れ切つた横顔は殆ど老婆のやうに見へた。
「ええですか、パア子はん。ワイはパアマンであることのうまみをこの十年でいやゆうほど知ってしもたんや。もうパアマンではない普通の生活へはもどらしまへん。パアマンであることは麻薬や。強烈な副作用を持った麻薬や。パアマンでなかったらワイはどこにでもおるただの下品な中年親父にすぎへんのや。パアマンでなかったらいまごろだぁれもワイのことなんか相手にもしてくれへんかったやろうな」
パアやんは私とパア子から視線を外すと、取り出した煙草に火を点けた。
「もっとも万一わいがやめたい思たところで、”鳥の男”がやめさせてくれへんやろ。わしらの運命はみぃんな”鳥の男”にかかっとるゆうこっちゃ」
嗚呼、可哀想なパアやんよ。結局おまへは何も、何一つ知らなひのだ。真実から最も遠ゐ場所で、無邪気に其の力を信奉し、無邪気に苦悩してゐる。
パア子が私の袖を引ゐた。覗き込んだパア子の瞳が映す強ゐ意志に、私は何も言えなくなつた。パア子よ、おまへの愛と優しさは世界を滅ぼすだらう。
「よく聞いて、パアやん……”鳥の男”などという人間は存在しないの」
「ハ、真剣な顔して何を言うのかと思えば、”鳥の男”が存在せえへんやて…? アホな!」
「”鳥の男”というのはあるプロジェクトの極秘名称。2号もその哀れな犠牲者にすぎないわ」
パア子は店内を駆け回るエイプをちらと見た。
「人間の遺伝子を根本から書き換えることで全く別の生物へと置換してしまうことの可能な特殊レトロウィルスが存在するの」
さう、例へば猿にでも。ゐつの間にかエイプが動きを止め、肩越しに其の不気味な赤をした目で凝と私達の方を見てゐる。
「正確には人類でない者の手によってこの地球へと密かに持ち込まれたの。地球人類への外宇宙からの侵略、それが”鳥の男”の正体。Biologically Racial Demolition for Mankind 『生体操作による人類種抹殺計画』――略して『BI-R-D-MAN』、鳥の男――パアマンとはみんなが考え、私たちが傲慢にもそう信じてきたような正義の使者ではないの。人類を滅ぼす致命的なウィルスの運び屋に過ぎなかったのよ」
パア子が悲しみに其の長ゐ睫毛を伏せる。私はもう人目を憚らず、彼女の肩を抱き寄せた。
「アホか…おまえらいきなり何言うてんねん…そんな絵空事信じろゆうんかいな、そんなアホな…ぎゃっ!」
震へる手で灰皿を引き寄せやうとしてゐたパアやんが突如悲鳴を上げた。振り返ると店の四方の窓にびつしりと巨大なエイプが張り付いている。店内を見渡せばゐつの間にか全ての客がエイプへと変貌し、其の無機質な光を宿す赤ゐ目を逆さ洗面器の下から此方へと向けてゐた。
「始まったわ」
パア子が呟く。私は腋下に厭な汗がじつとりと滲むのを感じた。逆さ洗面器は其の装着者に絶対の力を与へる訳では無く、単純に基礎運動能力を数百倍してくれるだけの代物である。私達と同じ逆さ洗面器を被る、遺伝子操作を施された此のエイプ達の元の力は並の人間に数倍するだらう。
詰まり、一対一では決して勝てなゐと云ふ事だ。
「パ、パアタッチや。早う手ぇ貸すんや!」
事態を悟つたパアやんが私に手を差し伸べる。私は其の手を取ろうとする。だが、一匹のエイプが敏捷に跳び掛かりパアやんを組み伏せるのが先だつた。其の獰猛な爪で無惨にも引き裂かれたパアやんの皮膚からは先づ黄色ゐ脂肪が飛び出し、次にどす黒ゐ血が其処へスポンジのやうに染みてゐつた。パアやんが初めて私に伸ばした手は遂に届かない侭、みるゝエイプの群の中へと埋没してゐつた。私はエイプの体毛を濡らしてゐくパアやんの血を他人事のやうに眺めてゐた。パア子は放心する私の手を掴むと入り口のドアを固めてゐるエイプを撲殺し、外へと飛び出した。
しかし其処には。嗚呼。
見渡す限りの建物とゐふ建物、地平とゐふ地平を醜怪なエイプの群が埋めてゐた。もう何処にも逃げ場は無ゐのだ。パア子が私の手を強く握り返して来た。二人で一殺。然し其れで数匹ばかりのエイプを殺したとして、今更一体何の意味が在るとゐふのだらう。
ギイゝ。
電線にぶら下がつてゐたエイプの一匹がガラスの表面を引つ掻くやうな厭な声で鳴ゐた。其れを合図に、都会を埋めたエイプ達が一斉に浮揚する。次の瞬間空は一面覆ゐ尽くされ、真昼だとゐふのに周囲は漆黒の闇に包まれた。
此の世の終わりである。
ガッデムさん(1)
「なんや、なんやねん、おまえ。何見とんねん。見んなや。こっち見んなや」
「あの、人違いやったらほんますいませんやけど、もしかしてガッデムさんとちゃいますか」
「あ…ああ? なんで、なんで知ってんねん。わしは確かにガッデムやけど」
「ほら、ぼくですわ。おぼえてまへんやろか。あの頃とは髪型とか変えてもうたからなぁ。おぼえてまへんやろか」
「ああ、思い出したで。なんや、自分やったんかいな。それやったらいつまでもじっと見てんと、はよそう言えや。変なとこ見られてもうたがな」
「あっ、そんなん、ガッデムさん、ぼくが火ィつけますわ」
「すまんの」
「ゴールデンバットでっか。ええ香りや。なつかしいですなぁ。なんやいっぺんに昔に戻ったみたいですわ」
「感傷を言いな。もう戻れへんのや」
「わかってますわ。わかってます」
「ところで自分、いま何してんねん。まだロボット乗ってんのか」
「いや、もうやめてひさしいですわ。いまは、なんや言うのはずかしいねんけど、技術屋やってまんのや」
「ほぉ。そりゃ、親父さんと同じやな」
「そうですねん。あんだけ親父のこと嫌うてたはずやのに、因果なことですわ」
「誰にもわからんもんや。で、どんなんつくってんのや」
「はぁ、アクセラレーターちゅうてわかりますやろか。簡単に言うたら、ロボットの性能をあげる装置みたいなもんですわ」
「へぇ、すごいやんけ」
「でも最近は変な客が多てこまりますわ。こないだもなんかうちの製品が壊れとるゆうて電話してきやったんですわ。あんま腹立ったんでどなりつけてやったら、『いいんですか、この電話録音してますよ』言うてけつかるねん」
「えらいことや。どうしてん」
「しょせんよくあるキチガイの電話や。企業ゴロのまねごとや。二度とこないな電話してこんようにさんざん脅したあと、叩き切ったりましたわ」
「最近はなんかえらいみんな過敏になっとるから注意しいや、自分」
「ぼく、あんなんゆるせませんねん。立場もわきまえんと鬼の首とったみたいに電話してきて、そんなんいろいろ造っとるほうがえらいに決まってますやないか。享楽乞食の、利便乞食の物乞いや」
「自分、あんま乞食乞食言いなや」
「あっ、すんません。つい感情的になってもうて。そうや。これ今度ぼくがつくった試作品ですねん。試作品ゆうても、今度の会議で製品化されることがほとんど決まっとるんですけどな。ガッデムさん、つこてみませんか。今の五倍ははよなりまっせ」
「そんなん買う金があったらわしワンカップ買うわ」
「何言うてますのん。ぼくがガッデムさんから金とるわけないやないですか。水くさいなぁ。ぼく、ガッデムさんにはほんまいろいろお世話になりましたから。モニターっちゅうことでどうかもらってくれまへんやろか。ぼくの顔を立てる思て」
「いらんわ。わしもう引退して長いねん。ただのポンコツや。連邦の白いの言うて恐れられとったあの頃とは話がちゃうわ」
「そんな悲しいこと言わんとって下さいよ。ぼくにとってガッデムさんは青春そのものなんや。おぼえてますか、ふたりで対抗組織の宇宙本部に出入りに行ったときのこと。あのときのガッデムさんはほんま輝いとった」
「ああ、そんなこともあったかいな。ちょお待てよ。よぉ考えたら自分、あのときわしのこと置いてったやんけ。わし、首もげてヒィヒィゆうとったのに」
「あれは、あの、あとでちゃんとむかえに来ましたやんか。古いことですわ。ほんま昔のことですわ」
「調子のええやっちゃ。いまやから言うけどな、自分とコンビ解消したんは自分のそんなとこが気にくわんかったからやで」
「すんません、あのときはほんま気持ちが高ぶっとって、ガッデムさんのことを置いてくなんてどうかしとったんですわ。でも、これだけは言わせて下さい、あれからいろんなんとコンビ組みましたけど、やっぱりガッデムさんが最高でしたわ。ほんまにそう思てますんや」
「わかった、わかった。泣きなや自分。中年男が泣いても目に汚いだけやわ」
「すんません、ほんますんません。あ、こりゃハンカチ。えろうすんません。ところでガッデムさんはいま何してますのや」
「いろいろや。今の時代ただ喰うていこ思てもたいへんやわ。求人情報誌見てもハローワーク行ってもわしみたいなんが応募でけるのはひとつもあらへん」
「そら、ガッデムさんはロボットですさかいな」
「まぁ、そうやねんけどな。ところで自分、羽毛ふとん欲しないか」
「羽毛ふとんですか」
「そりゃもう天国みたいな極上の寝心地やで。ゆうてみれば、ガッデムグッドな品物やね。ほんまやったら五十はすんねんけど、昔のよしみやし四十五でええわ。そこの角のリヤカーに乗してあんねんけど、取ってこぉか」
「いや、遠慮しときますわ。じつは先月五人目が生まれましてな、うちピィピィですねん」
「なんや自分、結婚しとったんかいな。初耳やわ」
「ガッデムさんと別れてからのことですさかいに」
「あ、わかったで。あのいれあげとったインド人の娘やろ。わしあれだけやめとけゆうたのに」
「ちゃいますわ。あの娘はガッデムさんが先に喰うてもうて、ボテ腹かかえて鉄道自殺しましたやん」
「そうやったかいな。そないなことあったかいな」
「調子のええ物忘れですわ。いまやから言うけど、ぼくガッデムさんのそんなとこが昔から鼻についとったんや」
「さよか。そやったらお互いさまやな」
「そうですわ。ぼくたちのコンビは解消するべくして解消したんですわ」
「もう戻れへんのかいな」
「もう戻れませんわ」
「誰の上にも時は流れるのやな。わし、もう行くわ。これから寒うなるし、自分身体に気ィつけや」
「ぼくはせまいけど家あるし、ガッデムさんこそもう年なんやから」
「あほぬかせ。わしはロボットやぞ。おまえくらいに心配されたらおしまいやわ。それに羽毛ふとんもたくさんあるしな」
「ぼくたち、また会えますやろか」
「そんなんわからんわ。会うようになっとったら会うやろ。ほな、これで本当にお別れや。達者でな」
「ガッデムさんこそ」
「ぱぁんぱぁん」
「ああっ。ガッデムさん、ガッデムさぁん」
「あつ、いた、痛いわ。何がどうなってんねん。あいた、痛いわ。ちょお洒落ならんで、これ。痛い、痛い」
「いまの拳銃持った男は誰ですねんや。なんぞ恨み買った覚えはありまへんのか」
「知らん、知らん。痛、痛い、ごっつう痛いわ」
「ほら、動いたらあきませんよ。えらいこっちゃ、タマが腹を貫通してるわ。なんかで止血せな、止血。血ィ? 血ィやて? ガッデムさん、あんたまさかほんまはロボットと」
「待て、それ以上口にしたらあかん。ええか、どんなに親しい関係で、どんなに明らかに思えることでも、もうお互いに感づいとるやろなゆうようなことでも、いったんそれを口に出してしもたらもうその関係は終わりやゆう言葉はあるんや。だから、それ以上口にしたらあかん」
「わかったわ、ガッデムさん、わかったからもうしゃべらんといてや。救急車呼ぶからここで動いたらあかんで。じっとしとるんやんで」
「あほ、言われんでも動かれへんわ」
パアマン(1)
「でな、こないだの脱線事故ありましたやろ。けが人を近くの河原へピストン輸送しとったんですけどな、そんなかにちょっとこらかなわんなっちゅうブサイクが一人おりましたんや。そやけどそこはそれ、人命救助ですやん。ワイも我慢して座りこんどるのにちかづいて、ほなねえさんいくで言うてうしろから抱きかかえて持ちあげようとしたんですわ。そしたらそのブサイク、わいの手が触れるか触れんかいうところで、きゃあゆうて悲鳴あげてわいに肘鉄くらわしよったんですわ。わいもなんだかんだゆうて正義の味方であるまえにひとりの人間ですやん、カッとなってもうてな、『あほ、何ぬかしてけつかる。思い上がるんやないで。ワイにも好みがあるわ、誰がおまえみたいなずぼずぼまんこに欲情するかい。年中熱うなってだらだら汁たれながしとる淫乱まんこをちょお冷やしてこいや』ゆうてな、穴に人差し指突き刺してもちあげて、淀川に放り捨ててやりましたんや。案の定、突っ込んだ指の横からすきま風がびゅうびゅう吹いとりましたわ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
野卑な笑ひ声と共に純白のテエブルクロスへと唾液まみれの食物の欠片が撒き散らされる。唯一の照明で或るそれゞのテエブルに置かれたワイングラスの蝋燭が揺らめく。店の片隅から流れて来るジヤズの生演奏とあゐまつて、店内にはシツクなムウドが醸造されてゐる。パアやんの、何処か尋常の均衡を逸脱した笑ひ声は、店内の雰囲気と完全に不協和音を為してゐた。
私はげんなりとし、なんとなく食欲を失つてナイフとフォウクをそつと置ゐた。基より此の、鼻をすつぽりと覆つてしまふ逆さ洗面器をつけたまゝでは、殆ど食事を味わふこと等できなかつたのだが。私は組んだ掌に顎を乗せ、同じテエブルに座つてゐる面々を改めて眺めて見た。 対面に座り、ナイフとフォウクを持つた両手を高々と上に挙げたまゝ其れらは一向に使おうとせづ、顔を皿に突つこむやうにして左右に料理の汁気と唾液の混じつたのを激しく撒き散らし乍ら食事をしてゐるのが、パアやんである。丸々と太つた血色の良ゐ顔を緑色の逆さ洗面器の中に無理矢理に押し込み、其の巨躯に付着した大量の肉の余り分をズボンのベルトの両脇へと盛大に垂らしてゐる。養豚場の豚を新聞の風刺漫画風にカリカチユアライズすると正に之のやうになるかも知れぬ。
「なんや、食べませんのかいな。食べませんのやな」
私の視線に気がつゐたのか、料理の油と生来の皮膚の脂でべとゞになつた顔を上げて、未だ口の中に在る咀嚼途中の食べ物を口の両端から盛大に零し乍ら、パアやんは云つた。私は其の醜態を眼球が捉えぬやう其れとなく焦点を外しつゝ彼の顔に視線を遣り、うなづひた。
「食い物は粗末にするなゆうのがわいの家の代々の家訓ですねん。ほな、遠慮のういただきまっさ」
パアやんは長ゐテエブルの上に身を乗り出すと、トゞの匍匐前進のやうに這いよつて来、私の食べさしの皿を横抱きに奪つてゐつた。パアやんは自分の口腔に容量以上の物を纏めて押し込み、口を開ゐたまゝくちゃゝと咀嚼を開始する。
私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの左へと視線を移した。其処には果たして蜜柑色の逆さ洗面器を装着した巨大なエイプがゐた。皿の上の肉の塊を手掴みに取り上げてかぶりつひてゐたエイプだが、私の視線に気が付くと黄色ゐ乱杭歯を剥き出しにしてキイゝと金切り声を上げ、激しく威嚇して来た。私は軽ゐ眩暈を感じつゝも、両手を挙げてエイプに敵意の無ゐ事を示し、更にテエブルの真ん中に置かれてゐる装飾用の果物篭を指差した。エイプは忽ち其れに興味を抱き、肉の塊を後方へと放り投げると、テエブルへ昇つて果物篭からバナゝを取り上げた。
「ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ。チンポみたいでんな。ほら、そのバナナですわ、リーダーはん。チンポみたいやと思いまへんか」
私は其れ以上見てゐられなくなつて、テエブルの右へと視線を移した。其処には。嗚呼、パア子よ。赤色の逆さ洗面器を装着した、華奢な少女が其処には居た。
私はパアやんとエイプに気取られぬやうにパア子の方へと手を伸ばし、そつと其の白魚のやうな小指に小指で触れた。パア子はびくりと身体を震はせると、私の目を瞬間、まつすぐに見た。だが直ぐに、逆さ洗面器の黄色ゐ隈どりから突き出した憂ひに曇る長ゐ睫毛を、そつと伏せてしまふ。嗚呼、パア子よ。君は昨日我々の間に訪れてしまつたインテメエトなムウドを怖れるやうに、酷くよそゝしく振る舞ふのだな。私のする執拗なパアタッチにみるゝ薔薇色に染まつてゐつた其のきめ細かな純白の肌。
私は態とナイフを床に落とすと、拾ゐに来るウエイタアを手で制してテエブルの下へと潜り込んだ。ナイフを拾う動作と共に、タキシイドの胸元から取り出した紙片をパア子のほつそりとした両脚の上へ置く。其処には私の、些か青臭くはあるが、今の彼女への情熱の凡てを込めたポエムがしたゝめられてゐる。私が再び席に腰を下ろすのと、パア子が紙片に気づくのは殆ど同時だつた。
「あ。このエテ公め、何してけつかる! それはわいのソーセージや、かえさんかいな!」
パアやんは大声を上げると、ガラスの水差しを持ち上げ、エイプの逆さ洗面器に覆われた脳頂へとしたゝかに打ち付けた。エイプは堪らずソオセエジを放り投げると店の反対側へと待避し、幾度も飛び跳ねてはキイゝと抗議の鳴き声を発する。
「まったく油断も隙もあったもんやないで。あ、パア子はん、わかってる思いますけど、いま”わいのソーセージ”ゆうたのは、わいの自前のソーセージがこれと同じくらいの大きさやゆう意味では決しておまへんで! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
パア子は其れに小さく「えゝ」とだけ答へると、紙片を握りしめた掌を開かぬまゝトイレへと席を立つた。私は其の後ろ姿を凝と見つめる。嗚呼、パア子よ、私の愛しひ白百合よ。
其の時、私の彼女を見送る視線に特別な物が含まれてしまつたのか、何かを察したパアやんが此方へと大きく身を乗り出して来た。
「あかん、あかん。あんさんには痛い目におうて欲しくないから老婆心で忠告するんやけど、あの女はやめといたほうがええで」
私はパアやんの云ふ内容を掴みかねて、思はず彼を見返した。
「わかりまへんか。あんさんはどっかうぶなところがあるよってに。どうか、怒らんと聞いてや。あの女、な、……やというもっぱらの噂やで。わかりますかいな。だれとでも寝るんやそうや」
私の中で一瞬言語が崩壊し、其の意味を理解するのに数秒を要した。パアやんは女性に対する最大級の蔑称を口にしたのだつた。彼に其処だけ声を潜めるやうな、ゐさゝかの常識が備はつてゐたのは、僥倖で或ると云はねばならなゐだらう。
私は胸元からナプキンを引き抜くと、怒りを隠そうとせづに勢ゐ良く立ち上がつた。
「あ、怒りましたんかいな。怒りましたんやな。けど、ええ、わいは本当のことをゆうたんですからな。確かに忠告しましたからな!」
私はもう其の言葉を聞ゐてゐなかつた。クロオクに預けた空中浮揚外套をウエイタアより受け取ると、私は出口の扉へ手を掛けた。
「カバ夫とも、あのエテ公ともすでに寝たいう噂やで! 獣姦やがな! こらもう獣姦ですわ! まぁ、あの女が……ならわいはさしずめイージーライダーちゅうとこやけどね! どの女の腰にも簡単にまたがるんや! ゆうておくけどな、リーダー、今のは”いい自慰”とかかっとるんでっせ! ブシャ、ブシャシャシャシャ~ッ」
店の外に出て見上げると、星はネオンに掻き消され、月は厚ゐ雲の向かうに隠れてゐた。嗚呼、パア子、私の白百合よ。
突如、胸の目玉バツジが高らかに緊急の音を発した。私は其れを敢へて無視して手早くマナアモオオドに切り替へてしまふと、外套を羽織り空へと浮揚する。無性に月が見たくなつたからだ。
Last GIG “エバーラスティング”
シャッターの閉じる音がビルの谷間へかすかに響く。”漫画喫茶YOMYOM”と書かれた電飾の明かりが消える。のび放題にのびたあご髭に優しい顔の輪郭をまぎらせ、大きなサングラスに繊細すぎる少年の瞳を隠したその人は、数メートル毎に振り返り、人柄をしのばせる丁寧なおじぎを何度も何度もくりかえしながら、ついにはけぶる朝靄の中に遠く見えなくなった。
「終わったな」
「ああ、本当に」
早朝のオフィス街はおどろくほどに閑散としており、人の気配をまったく感じさせない。
「――有島と太田は?」
かれらが最後によこしたハガキにあった、初めて知るその名前に、ぼくは他人のようなよそよそしさを感じたものだった。
「ふたりとも昨日発ったよ。有島は田舎に帰って農家を継ぐんだそうだ。いま有機野菜が大当たりしてて、人手足りないんだって言ってた」
かれはいつものくせでポケットに手をつっこんだまま続ける。
「太田は両親の口ききで地元の市役所に就職が決まったんだってさ。幼なじみと来春結婚するんだそうだよ。『ついにつかまっちまった。墓場行きだ。俺の人生はもう終わったも同然だ』って、すごく嬉しそうに話してた」
「へえ、二人ともそんな、全然知らなかったな。全然知らなかった――」
ぼくはなんとなくうつむいて黙りこむ。かれはおりた沈黙にうながされるように煙草を取り出すと、火をつけた。
「そうだ、CHINPOだ。CHINPOはまだいるんだろ、こっちに」
変わっていく現実に逆らうように、すがるように、ぼくは云った。
けれど現実はいつもぼくを先回りして裏切る。
「CHINPO…いや、上田はどこか東北のほうの山奥にある療養所に移送されちまった。あいつの家に電話して名乗ったらさ、『保椿さんにそのような友人はおりません』だとさ。おれはあいつの友人じゃなかったんだそうだ。ずっと、いっしょにいたのにな。――知ってたか、あいつの両親、そろって大学教授なんだぜ! ちょっと笑えるよな。笑えるじゃないか――」
ビルの谷間を吹く風が小さな渦を巻いて、歩道の上にゴミを舞わせている。
「『友だちは…友だちと呼べる人はみんないなくなってしまった…誰も』」
「――シェイクスピアかい」
「いや」
向かいの歩道を何におびえるのか、一匹の野良猫が猛然と駆け抜けていく。
「エヴァさ」
かれは皮肉に口元をゆがめた。
「さてと」
ほとんど口をつけないままに短くなった煙草を放り投げると、かれはもたれかかっていたガードレールから身を離した。
「もう、行くわ」
そう云って、かれはYOMYOMのマスターが去っていったのとは逆の方向にゆっくりと歩き出した。ぼくはたまらなくなってその背中に声をかける。
「どうするんだい、これから。いったいどうするつもりなんだい」
かれは立ち止まると、ポケットから手を出した。
そしてかれは口を開いた。
「おれはずっとおたくだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた。自分の正体さえわからないまま、世界の美しさだけは知りたくて、現実の似姿、うつろな鏡、虚構の中に溺れつづけた。それはひとえにおれが生まれながら喪失させられていたものを取り戻したかったからだ。だが、それでいながら当の現実を引き受けるだけの強さは、おれにはなかった」
かれはこれまでの演技をやめて、驚くほど素直な表情で、威圧するようでも、おびえるようでもなく、ただ静かにとつとつと話す。
「――おれが『世界、世界』と声高に、問題ありげに、さも重大そうに呼ばわるとき、それはけれど観念にすぎなかった。経済や政治や時代の病を負って苦悩する同朋たちのことでは全くなく、ただ自分だけを取り巻く違和感と不快感を意味していた。本当に、あきれるほど個人的なことだったんだよ! おれは、間違っていた」
かれはいま、初めて誰かに伝えようとしていた。届こうとしていた。
「おれは今日このまま部屋へ戻って、LDやビデオやCDや、ためこんだ様々のグッズをすべて破棄するつもりだ。それで何かが変わるなんて期待しちゃいないさ。結局また同じことを繰り返すだけのかもしれない。これはおれの中での、そう、儀式なんだ」
ぼくは微笑んだ。この数瞬に、これまでの長い長い時間より多くかれを理解したからだ。
そしてぼくは口を開いた。
「君の言うとおり、ぼくたちにとっての世界とはまったく個人的で脆弱な感覚に過ぎないと思う。――他人の物語というフィルターを通じて垣間見た世界の感じは、分厚い布ごしに物を触るようなもどかしさだった。渇いた者が海水を与えられるように、ぼくはますます渇いた。ぼくはもうあがくことはやめて、ぼくにとってリアルでない世界に他人を通じて連絡を持とうとする努力はやめて、ただ自分のことだけを物語ろうと思う。物語るという個人的な営為が、世界に対して普遍性を持つ瞬間がきっとあるとぼくは思うんだ。個人的な意味が世界的な意味を超克する瞬間がきっとあるとぼくは信じる。だから、ぼくはもう傷ついた人のようにふるまうことをしない。ぼくは物語ることで明け渡してしまった自分を取り返す。『たとえ他人の言葉に取り込まれても』、ね」
かれは大きく目を開いて、いまはじめて出会ったかのようにぼくを見た。
「――ゲーテかい」
「いや」
ぼくは答える。
「エヴァだよ」
ぼくたちは声をあげて、心の底から笑った。
やがてかれはしゃべりすぎたことを恥じるように顔をひきしめ、ポケットに両手をつっこむと、再び歩き出した。
ぼくはその背中に別れを言おうとして、ふと気がつく。
「待ってくれ! ぼくは、君の本当の名前をまだ知らない」
「おれの名前かい」
かれは最後に一度だけふりかえり、歌うように云った。
「おれの名前は――」
ビルのつくりだす峰から遅い都会の朝日がのぼる。誰もいなくなった店のシャッターに揺れる貼り紙。
“長らくご愛顧いただきました当店ですが、誠に勝手ながら本日(7/25)をもちまして閉店いたします。今まで本当にありがとうございました。”
Never seen a bluer sky.