「わかってまんのかいな! あんさんひとりの勝手な行動のせいでうちら全員が迷惑するんやで!」
激昂したパアやんがテエブルを拳で一撃する。私の前に置ゐてあつたグラスが跳ね上がり、重心を失つてくるゝと回転した。
店内の視線の気配が一斉に此方へと集中する。私はかうゐふとき、本当にどうしてゐゝのかわからなくなつてしまふ。相手の感情の鋭さが私の現実と大きくずれて、重ならなひのだ。パアやんはグラスの氷をぼりゞと噛み砕き乍ら続ける。噛むとゐふ動作で攻撃性を発散してゐるのだらう、と私は自分が全く当事者で無ゐやうに呆と考へた。
「自覚が無いんやな。リーダーとしての自覚が無いんや。あんさんには昔からそないなところがあったわ。ぜぇんぶ他人事なんや。ええか、わしらがやってるんはアホな女子学生のバイトがやるような誰にでもできる片手間の仕事やおまへんのやで。一人おりません、はいそうですかゆうて別の人間を連れてくるわけにはいきゃしまへんのやで」
私は右手の親指で左手の親指の爪をきつく押さへた。此の世に代替の利かなひ人間など存在しなゐ。私達とて其の例外では無ゐ。
「それにな、あんさん忘れとるかもしらんから言うけど、わしらは常に”鳥の男”に見張られとるんやで。力をおのれの利益のために使ったり、仕事で不誠実やったりしたらたちまち畜生に変えられてしまうんやで。”鳥の男”への忠誠心と仕事への使命感をだけ植えつけられた畜生奴隷にや! あんさんが今回やったことは、そのどっちにも当てはまるんや。ワイはな、あんなエテ公みたいになりとうない」
パアやんが目を向けた先には黄色い逆さ洗面器を被つた恐ろしく巨大なエイプがゐた。何処から取つて来たのかバナゝの房を胸に抱へて、店内をテエブルからテエブルへと跳び回つてゐる。エイプにハンバアグを日の丸の旗ごと踏み潰された子供が、火の点ゐたやうに泣き出した。
「ワイはあんなエテ公みたいになりとない」
パアやんが繰り返す。私の隣でずつと黙つて俯ひてゐたパア子が、だつたら止めてしまへばゐゝのに、とひつそりつぶやゐた。
後れ毛が一筋、パア子の頬に垂れかゝつてゐる。其の疲れ切つた横顔は殆ど老婆のやうに見へた。
「ええですか、パア子はん。ワイはパアマンであることのうまみをこの十年でいやゆうほど知ってしもたんや。もうパアマンではない普通の生活へはもどらしまへん。パアマンであることは麻薬や。強烈な副作用を持った麻薬や。パアマンでなかったらワイはどこにでもおるただの下品な中年親父にすぎへんのや。パアマンでなかったらいまごろだぁれもワイのことなんか相手にもしてくれへんかったやろうな」
パアやんは私とパア子から視線を外すと、取り出した煙草に火を点けた。
「もっとも万一わいがやめたい思たところで、”鳥の男”がやめさせてくれへんやろ。わしらの運命はみぃんな”鳥の男”にかかっとるゆうこっちゃ」
嗚呼、可哀想なパアやんよ。結局おまへは何も、何一つ知らなひのだ。真実から最も遠ゐ場所で、無邪気に其の力を信奉し、無邪気に苦悩してゐる。
パア子が私の袖を引ゐた。覗き込んだパア子の瞳が映す強ゐ意志に、私は何も言えなくなつた。パア子よ、おまへの愛と優しさは世界を滅ぼすだらう。
「よく聞いて、パアやん……”鳥の男”などという人間は存在しないの」
「ハ、真剣な顔して何を言うのかと思えば、”鳥の男”が存在せえへんやて…? アホな!」
「”鳥の男”というのはあるプロジェクトの極秘名称。2号もその哀れな犠牲者にすぎないわ」
パア子は店内を駆け回るエイプをちらと見た。
「人間の遺伝子を根本から書き換えることで全く別の生物へと置換してしまうことの可能な特殊レトロウィルスが存在するの」
さう、例へば猿にでも。ゐつの間にかエイプが動きを止め、肩越しに其の不気味な赤をした目で凝と私達の方を見てゐる。
「正確には人類でない者の手によってこの地球へと密かに持ち込まれたの。地球人類への外宇宙からの侵略、それが”鳥の男”の正体。Biologically Racial Demolition for Mankind 『生体操作による人類種抹殺計画』――略して『BI-R-D-MAN』、鳥の男――パアマンとはみんなが考え、私たちが傲慢にもそう信じてきたような正義の使者ではないの。人類を滅ぼす致命的なウィルスの運び屋に過ぎなかったのよ」
パア子が悲しみに其の長ゐ睫毛を伏せる。私はもう人目を憚らず、彼女の肩を抱き寄せた。
「アホか…おまえらいきなり何言うてんねん…そんな絵空事信じろゆうんかいな、そんなアホな…ぎゃっ!」
震へる手で灰皿を引き寄せやうとしてゐたパアやんが突如悲鳴を上げた。振り返ると店の四方の窓にびつしりと巨大なエイプが張り付いている。店内を見渡せばゐつの間にか全ての客がエイプへと変貌し、其の無機質な光を宿す赤ゐ目を逆さ洗面器の下から此方へと向けてゐた。
「始まったわ」
パア子が呟く。私は腋下に厭な汗がじつとりと滲むのを感じた。逆さ洗面器は其の装着者に絶対の力を与へる訳では無く、単純に基礎運動能力を数百倍してくれるだけの代物である。私達と同じ逆さ洗面器を被る、遺伝子操作を施された此のエイプ達の元の力は並の人間に数倍するだらう。
詰まり、一対一では決して勝てなゐと云ふ事だ。
「パ、パアタッチや。早う手ぇ貸すんや!」
事態を悟つたパアやんが私に手を差し伸べる。私は其の手を取ろうとする。だが、一匹のエイプが敏捷に跳び掛かりパアやんを組み伏せるのが先だつた。其の獰猛な爪で無惨にも引き裂かれたパアやんの皮膚からは先づ黄色ゐ脂肪が飛び出し、次にどす黒ゐ血が其処へスポンジのやうに染みてゐつた。パアやんが初めて私に伸ばした手は遂に届かない侭、みるゝエイプの群の中へと埋没してゐつた。私はエイプの体毛を濡らしてゐくパアやんの血を他人事のやうに眺めてゐた。パア子は放心する私の手を掴むと入り口のドアを固めてゐるエイプを撲殺し、外へと飛び出した。
しかし其処には。嗚呼。
見渡す限りの建物とゐふ建物、地平とゐふ地平を醜怪なエイプの群が埋めてゐた。もう何処にも逃げ場は無ゐのだ。パア子が私の手を強く握り返して来た。二人で一殺。然し其れで数匹ばかりのエイプを殺したとして、今更一体何の意味が在るとゐふのだらう。
ギイゝ。
電線にぶら下がつてゐたエイプの一匹がガラスの表面を引つ掻くやうな厭な声で鳴ゐた。其れを合図に、都会を埋めたエイプ達が一斉に浮揚する。次の瞬間空は一面覆ゐ尽くされ、真昼だとゐふのに周囲は漆黒の闇に包まれた。
此の世の終わりである。