猫を起こさないように
日: <span>1999年7月17日</span>
日: 1999年7月17日

ペニスの王子様

 「(煙草の煙で黄色くなった壁にかかる時計に目をやって)しかし遅いですね」
 「(コーヒーのしぼりかすが盛られた灰皿に半分も吸っていない煙草を神経そうにつきたてて)なァに、いつものことさ。自分に箔をつけるために必ず約束より二時間ばかり遅れてくるんだ、あの人。気長に待とうや(ソファにのけぞり天井をあおいだまま動かなくなる)」
 「(しばらく組んだ両手を見つめているが沈黙に耐えきれず)ねえ、松岡さん」
 「(気のないポーズで)なんだ」
 「ぼく、一度もお会いしたことないんですけど、許斐先生ってどんな人なんですか」
 「(目に宿る光の種類が明らかに変わる。だが表面上は気のないポーズを崩さず)まァ、簡単に言っちまえばどうしようもない俗物だな」
 「(怪訝そうに)俗物、ですか。お金の支払いにうるさいとか、そういう?」
 「おまえね、(上体を起こして)そもそも漫画なんか書こうってやつがそんなわかりやすい屈折の仕方してるはずないだろ。うまく行かない現実の差分を自分で作った物語で、それも漫画なんていう(唇の端をふるえるように歪ませながら)低劣な物語で埋め合わせようってんだ。この職場でまともな人間に遭遇できるなんて期待はハナっから捨てたほうがいいぜ…(身を乗り出す)で、許斐のことだがな、放送禁止用語だとか世間一般でタブー視されている言葉を公衆の面前でことさらな大声を張り上げて口に出してみせることで無頼きどり、自分は破格の革命者だとふんぞりかえれるようなおそろしいまでの単純な精神の持ち主の類だ。先日も許斐とふたりで満員電車に乗り合わせる機会があったんだが――接待の帰りでな、おれはタクシーを使おうって言ったんだぜ。今の時間は混んでますからってな。だがやつは経費節減だとかもっともらしいことを言って、そもそもあれが伏線だったんだな…へぼネーム書きめ!――文字通り寿司詰め状態の車内でやつはこう切り出してきやがった『なあ、松岡くん。先日おれは儒人症の女と寝る機会を持ったんだが、そいつのヴァギナはどうなってたと思う?』。おれはそのあまりの無神経さにぎょっとなってそんなことを言う意図がわからず許斐の顔を見返したんだが、やっこさん、にやにや笑ってやがるんだ。それがうちの五歳になる息子が”うんこ”とか”ちんぽ”とか言うときとまったく同じ笑顔なんだよ! おれはもうぞっとして一刻も早く許斐のそばから離れたかったが、無視するわけにもいかない、わずかに許斐の顔から視線をそらして極力くちびるを動かさないように適当に相づちを打っていたんだ、同類だと思われたくねえからな。そうしたら許斐のやつ、またニヤーッと笑ってさ、『なぁんだ、松岡くん、ビビッちゃったの? 案外××社の編集者もだらしがないんだねえ!』と大声で言いやがった! おれはよっぽどぶんなぐってやろうかと思ったし、事実ぶんなぐりかけたんだが、そうならなかったのは満員電車が災いしてか幸いしてか両手とも動かせない状態にあっただけのことだ。(徐々に息があらくなる)そのあとも許斐の野郎、”目盲滅法”やら”片手落ち”やら”おし黙る”やら”カントン型”やら”雲竜型”などの単語をやつの降車駅まで連発し続けた。自分の駅に降りて窓越しにおれを見送るやつの心底楽しむような表情といったら! そのあとおれが電車内にどんな心持ちでどんな顔をして残ったかわかるか!? 許斐の野郎め!(両手でテーブルの上を思いきり叩く。灰皿がはねあがり、ひっくり返る)」
 「(どう返答してよいかわからず視線を宙にさまよわせる)あっ、先輩、あれは(立ち上がり部屋の入り口を指さす。おそろしいせむしの小男が肉感的な西洋美女ふたりを両手に抱き、ほとんどぶらさがるようにしてやってくる)」
 「(床に唾を吐いて)許斐だよ。見間違いようもなく許斐だ」
 「あの女性たちは許斐先生の恋人なんでしょうか?」
 「タレント事務所に金払って雇ってんだよ。あの顔面見てものを言え」
 「(作られた鷹揚さで周囲を眺めながら、二人のそばでいまようやく気づいたという演技で)おや! そこにいるのは松岡くんじゃないか!」
 「(ぴょんと跳ねあがりソファの横に直立不動で)先日は先生との夢のようなひととき、本当に楽しゅうございました。そしてまた今日先生にわざわざお運びいただけるなんて、不肖松岡正、随喜の涙を禁じ得ません(スーツの袖に顔をうずめて泣くまねをする)」
 「(後ろを振り返り二人の西洋美女にひらひらと手を振って)あ、君たち帰っていいよ。ヴァギナ、バック、アヌス、エレクト、オーケー?(二人の西洋美女、顔を見合わせ肩をすくめて立ち去る)」
 「(手のひらで額を打ち)いやぁ、さすが許斐先生! 英語もご堪能でいらっしゃる!」
 「(気にしたふうもなくソファに横柄に身を投げ出して)あいかわらずうっとおしいね、君は。(片方の眉をつりあげて)で、この子だれなの。見ない顔だけど」
 「ばばば馬鹿っ。(青年の後頭部をひっつかまえるとテーブルの上にがんがん叩きつける)聞かれる前にちゃんと自己紹介しないか! (床に頭をすりつけ平伏して)申し訳ございません、すべては私の不徳の致すところ。こやつめは今度うちに入社しました新人でございます。許斐先生に是非お顔を覚えて頂こうと同席させた次第でして。ははっ」
 「あっ、そう。どうでもいいけど。(片手をあげて)許斐です、よろしく。それじゃ、さっそく次回連載の打ち合わせを始めようじゃないの」
 「はっ。それでは先生の御企画、拝見いたします(両手を前にうやうやしく突き出す)」
 「馬鹿か、おまえは(テーブルの上にあったガラス製の大きな灰皿を取り上げて松岡の額へとしたたかに打ち付ける)」
 「(額が割れ、血が噴き出す)ぎゃっ。(傷を押さえながら)せ、先生。何かお気にめさないことでも」
 「(とたんにやさぐれた口調で)何年編集やってんだよ。新人の持ち込みじゃねえんだから、おれくらいの大家がわざわざしこしこアイデアを紙にしたためて持ってくるとでも思ってんのかよ、ああ?」
 「(とめどなく流れる血に視界をふさがれながら)申し訳ありません、申し訳ありません。(揉み手で)先生のお言葉は常に私の上に天啓のように響きますです」
 「わかりゃいいんだ、わかりゃ。今からしゃべるぜ。おい、チンポ面のおまえ」
 「ぼ、ぼくのことでしょうか」
 「他に誰がいるってんだよ、ボケが。学校の授業じゃねえんだ、二回は言わねえからちゃんと書きとめとけよ」
 「(大慌てで机をひっくり返して)か、紙、え、鉛筆」
 「(その様を尻目に土足のままテーブルの上に両脚を投げだす)さぁて、どこから話すか。まず今回の主人公はだな、精力絶倫の中学生だ。物語は電車の中で下半身を剥き出しにチンポの握りかたについて熱く議論している高校生に取り巻かれた女子中学生の顔のアップのコマから始まる。『あっはっはっ!! お前ら自分のチンポの握りも知らねぇのかよ!』、飛び散る男性の飛沫に困惑気味に顔をしかめる女子中学生。さすがに鈍いおまえらでも気がつくと思うが、この女子中学生が今回のヒロインだ。おれはこの女子中学生を『きゃん』という擬音をハートマークつきで臆面もなく公衆の面前に発話できるようなメンタリティの持ち主に設定するつもりにしてる。中学生の性を知らないままにやる無意識的な媚び、こいつはたまらなくおッ立つぜえ!(コーヒーを運んできたアルバイトの女子に人差し指と中指の腹で挟み込んだ親指を出し入れするのをにやにや笑いながらことさらに誇示してみせる。小さく悲鳴をあげ真っ赤にした顔を盆で隠しながら小走りに逃げていく女子アルバイト)全国の男子学生とサラリーマンのチンポわしづかみにしてやんぜ!」
 「(ハンカチで額をぬぐいながら)先生、なにぶんうちは少年誌ですので、どうぞお手柔らかに。(許斐の顔が不機嫌に曇るのをみてあわてて)あいや、しかし! アイデアのすばらしさについては数年来まれにみるものではないかと! さすが許斐先生、わかってらっしゃる!」
 「(自尊心をくすぐられた顔で小鼻をふくらませて)当たり前じゃねえか。で、続きなんだが、その窮地にさっそうと一人の少年が助けに入るわけさ! 台詞は例えばこうだ、『ピーンポーン、勃起したチンポを上から掴むように両手で持つのが正しいチンポの持ちかたさ。よくいるんだよね、利き手でつかんで根本からチンポ湾曲させてるヤツ』。主人公の名前は疥癬スペルマ、ちょっとしたレトリックをおれはネーミングで楽しんでみた…まぁ、低劣な知性の持ち主の○○○○読者になどは気づかれようはずもないからまったく無意味な遊びに過ぎないんだが、おれのプロとしてのちょっとした美意識というやつだ。(ことさらに声を張り上げて)まぁ、海賊漫画なんかに興味を示すような低劣な知性の○○○○読者になどはおれの漫画がわかろうはずもないんだが! (徐々に声がうわずり、ふるえ、それが全身に伝播する)海賊だって!? 馬鹿にするんじゃねえ! 海賊物語なんてのはスティーブンソンの昔にとうに終わってんだよ! 白痴が、おれの真価を理解もできない白痴めらがッ!(すぐそばに置いてあったパイプ椅子を取り上げ編集の窓ガラスをすべて破砕しにかかる)」
 「(後ろから飛びついて羽交い締めにし)先生、落ち着いて下さい、落ち着いて下さい!」
 「(血の混じった唾を床に吐いて)それもこれも松岡、てめえが無能なのが悪いんだよ。まぁいい。これが当たりゃ、それでチャラにしてやる。(椅子を放り投げて)そういやまだタイトルを言ってなかったな。タイトルはずばり”ペニスの王子様”だ。おまえたちの手間をはぶいてやるために表紙のアオリまで考えてきてやったぜ。『生意気。クール。失礼な奴。でもめちゃくちゃセックスが強い! いじわる。皮肉屋。あまのじゃく。だけどもめちゃくちゃセックスが強い! 無愛想。性悪。とっつきにくい。それでもやっぱりめちゃくちゃセックスが強い! 大胆。不適。負けず嫌い!だから めちゃくちゃセックスが強い! めちゃくちゃセックスが強い!”ペニスの王子様”』。どうだい。まったく作家にここまでさせやがって、おまえたち本当に楽なメシ食ってやがるよな、ええ?」
 「はっ。(ハンカチで額をぬぐいながら)まったく汗顔のいたりでございます」
 「けっ。ほんとに反省してんのかよ。ま、いい。でよ、これが今作品のイメージ画だ。いいアシスタント使えよ(取り出したくちゃくちゃのスーパーのちらしの裏にミミズがのたくったという形容が寸分たがわず当てはまるような筆致で身長の倍ほどもある魔羅をかかえた人物の絵が描かれており、その鈴口から直にのびた吹き出しには『イクイクー』という文字が踊っている。そのかたわらには縮尺のまったく正しくない髪型でかろうじて女性だとわかる人物がおり、不自然な位置からのびる吹き出しにはかろうじて『あぁん、エッチだよぅ』と判別できる殴り書きがある)」
 「(メモを取っていた手を止めて)あの、質問よろしいでしょうか」
 「(不機嫌に)なんだよ」
 「(ちらしに表記された二人のキャラクターのさらに後ろに立つ男とも女とも赤ん坊とも老人ともつかぬ、『さすがだね、スペルマ』という吹き出しを持つ不気味なクリーチャーをおそるおそる指さして)こ、これ、なんなんでしょう」
 「(ちらしを取り上げしばし凝視する。が、やがて放りだし)知るかよ。言ってみりゃ、それはおれの無意識の抽出だ。そこに凡人にも理解できるよう意味づけをして世界と天才との橋渡しをするのがおまえら編集者の役目だろうが。ガキの使いじゃねえんだ、いちいちおれに解釈を求めるんじゃねえよ」
 「しかし! たとえそうだとしてもこんな至極平凡なシナリオの断片と、便所の落書きみたいな紙ッきれ一枚でいったい何を作れっていうんですか! (興奮して立ち上がり)ぼ、ぼくはあんたみたいな漫画文化を喰い物にする芸術家気取りの高卒キチガイの尻をふくために青春のすべて捧げて有名国立大学に入学したんじゃないんだ! 血のにじむような、魂を削るような就職活動の末に××社に入社したわけじゃないんだ!」
 「ンだと、この野郎ッ! (激昂して鼻血を吹き、そばにあったパイプ椅子をひっつかむと止める間もあらばこそ、青年の頭頂部にむけて振り下ろす)てめえみたいなプライドだけは人一倍の受験社会の申し子みてえなのが作家の持つ狂気の自分たちが経てきたものとは違うおそろしいまでの独自性に嫉妬するあまり、それをなんのかんのと理屈をつけて希釈してチンポ抜かれた去勢漫画を世に送り出すんだよ! 自分大事の最低のビチクソがっ!(最初の一撃でぐったりとなった青年の倒れた後頭部に何度も何度もパイプ椅子を振り下ろす)」
 「先生、先生ッ!(後ろからとびついて羽交い締めにする)」
 「止めんなよ、松岡、止めんな!」
 「先生、もう死んでます。死んでますから!」
 「(肩で荒い息をしながらパイプ椅子を放り投げる。間。突如青年の割れた後頭部より流れ出すどろりと白濁した脳漿を指さしてげらげら笑いながら)見ろよ! こいつ、頭の中まで精液がつまってやがるぜ! 自分の想像の中の世間にしか興奮できないオナニー野郎め! 真実、世界と交わったこともないくせに理屈だけは一人前の無精子症め!(青年の側頭部を蹴りつける)」
 「(青年の血が付着したちらしを拾い上げて冷静に)アシスタントは一両日中には用意させていただきます。先生はいまある構想と思想をさらにお深めになって下さい。死体の始末はいつも通りこちらでやりますのでご心配なく」
 「(毒気の消えた顔で)悪いな」
 「いえ、それが編集者の仕事ですから。先生は我々ぐらいの生死ことなど気にとめず、ただよいお仕事をなさってくれればよいのです(指を鳴らすと全身白い服に身を包んだ男が数人やってきて青年の死体をかつぎあげ、いずこへかと持ち去る)」
 「(その後ろ姿をぼんやりと見送ってから、おもむろに片手をひょいと挙げて)それじゃ、今日はもう帰るわ。あとよろしくな」
 「(最敬礼で)お気をつけてお帰り下さいませ」
 「(先の乱闘でくじいたのか、片方の足をひきひき編集部を出ていく)…むか~しむかし、隣のびっこひきのバアチャンがよォ…」