猫を起こさないように
日: <span>1999年4月13日</span>
日: 1999年4月13日

小鳥猊下講演録

 「もうタってま~す」
 「あっ。小鳥猊下が授業はじめの挨拶のときに立ち上がらず、それを国語科の女教師に指摘されるのに反抗してみせているぞ」
 「なんてへだらなビーバップなのかしら。私のヴァギナが挿入を求めて小刻みに蠕動しはじめたわ」
 「もうタってま~す」
 「はぁ。うん、ちょっと落ち込んでてね。聞いてくれるかな。もし、もしだよ。僕たちを創り出した神のような存在があって、そのかれの影響を僕たちがはっきりと受けるとしたら、かれの本業が忙しくなったりしたら――もちろんこれは例えで言っているんだよ――僕たちは完全にほうっておかれるんじゃないだろうかね。なんだか最近僕たちのまわりを取り巻く愛のムードが希薄だと感じるんだ。それが僕の気持ちを沈ませる…ああ、ちょっと抽象的すぎる話だな。いや、いいよ。忘れておくれ。心が弱くなっているときは何もしゃべらないほうがいいね。そろそろ時間だ。行かないと。
 「……みなさんはいつも私の講演を聞きに来て下さる。人生の限られた時間で限られた豊かさをできるだけ多く現実という場所から切り取るために…いや、失礼。どの人間をも無理矢理巻き込もうとする、人生のありかたに対する脅迫的なこのような言い様は私の中にこそ問題があるのでしょう。私は恐怖しています。私はつねに次の瞬間自分の足下が崩れ去るのではないかと恐れている。すべては時間の流れの中で色を失いくすんで、鈍くなり、そして消えていく。消えていった者たちの中には私より明らかに優れている者も多くいた。ここでは力あることが生き残るための条件ではないのです。私にはわかりません。私がなぜ選ばれて、選ばれ続けてここにいま在るのか。私は大勢のうちの、ただ自分が大事な、自分をしか見ない、世界に広がる視点も持たない、小心な、本当に小心な一人に過ぎなかったのに。私がこの場所にいることでこの場所にいることを許されなくなった無数の人間たちのことを考えると、その意味の重さに私はすくんでしまう。流す涙は常に傲慢であり、私は進む一歩の歩みごとに味方を失って孤独を増していく。私はそうして、一人でやるしかなくなってしまう。みなさんはどうぞそれぞれの場所で見ていて下さい、私がどこでつっぷして動かなくなってしまうのか、その行方を。私の破滅があなたたちを何かの形で楽しませるのならば、それは無数の道化たちの一人として、至上の喜びであるでしょう(沈黙。ためらいがちな拍手がまばらにおこる)。
 「よくなかったね。よくなかった。いや、いいよ。こういうのは自分が一番わかるもんなんだ。妙な嗅覚だけが発達してね。いやらしいね。ハイヤー? うん、今日はやめとくよ。ちょっと歩きたい気分なんだ。それじゃ、お疲れさま。本当にいつも君たちはがんばってくれるね。(何かの感慨にとらわれたかのように見回して)いったい僕の何を気に入って集まってくれているのかわからないけれど、君たちの奉仕に応えられる日がいつか来るといいね…」
 「(ふと空を見上げて)ああ、春雨じゃ。濡れてまいろう…(果てしなく続く曇天の下、都会の雑踏へと消えていく)」