猫を起こさないように
日: <span>1999年2月19日</span>
日: 1999年2月19日

ハンサムな彼女

  「 ゆりあ に ちんぽ が 」
 泣いている。どんな物事にも動じない、あの気丈な彼女が泣いている。
 彼女の目に溜まった涙がぎりぎりまで張りつめ、クリスタルを思わせる透明な青の球となってその頬を転がり落ちる。
 ぼくは彼女をなぐさめる言葉をかけることも忘れて、その様子をまるでスクリーンの向こうにあるすばらしい映像ででもあるかのように眺めながら、ただ馬鹿のように呆然と立ちつくしていた。
 ぼくはそのときになって初めて、彼女がどんなにそれというそぶりは見せずに、ぼくというどうしようもない男を守ってくれていたかに気がついたのだった。
 ぼくと彼女が初めて会ったのは、その年はじめての雪のちらつく、ある寒い日のことだった。
 街灯に灯がともり、周囲のサラリーマンたちは冷気に肩をすぼめながら暖かい家と家族のことを思いつつ足早に通り過ぎていく。それぞれが帰る場所を持ち、その頃のぼくは一人で、そうして彼女と出会った。
 人波に逆らうように立ちつくし、舞い降りる雪の来し方を追うように空を見上げる彼女は、女性には珍しいほどのたくましい骨格や太い眉などにもかかわらず、そこにいる誰よりも小さく、誰よりも孤独に見えた。
 互いにふと目を合わせたぼくと彼女は、しめしあわせたように同じ方向へ歩きだし、その日のうちにセックスをした。震えながら唇を重ねるぼくに、彼女は少し頬を赤らめながら言った。
  「 おまえ の くち は くさすぎる じごく いきだな 」
 ぼくは恋に落ちた。まるでその言葉がぼくに魔法をかけたように。
 ぼくは彼女に夢中になってしまっていた。口数が少なくて、ほとんど思うところを言わない彼女だけど、ほんのときどきハスキーな声で語られるウィットにぼくはしんそこ魅了された。
 ある日ぼくたちは昼食をとるために二人で中華屋に入った。掃除のまったくゆきとどいていない店内を見た瞬間からいやな予感はしていたのだけれど、最悪だった。愛想悪く注文を取りにきた身の丈4メートルはゆうにあろうかという老婆が置いた水のコップには、小さなゴキブリの死骸が沈んでおり、店内に流れるBGMは初代ゲゲゲの鬼太郎のオープニングだった。
 席を蹴って立ち去るべきかどうか、うろうろと迷うぼくを目で制してから、彼女はそのコップを取り上げると老婆に向かって突き出しながらこう切り出した。
  「 ばばあ のんでみろ 」
 ぼくは彼女の生き方の誰にも真似できない軽やかな鮮やかさにぞっこん参ってしまっていた。
 でも今になって気づく。ぼくは、彼女を至高の偶像のように崇拝はしたけれど、本当の意味で愛してはいなかったことに。彼女はそのことでどんなにか傷ついていただろう。
 いつのまにか泣きやんだ彼女は立ち上がると、ぼくの脇を音もなく通り過ぎていった。背後で玄関の開く音と、閉まる音がした。
 不思議と涙は出なかった。ただ、極上の映画を見終わった後のような、物語のほうが自分を取り残して去っていったというような、透明な喪失感が胸にことりと落ちた。
 彼女が最後にぼくの耳に残した囁きは、もしかすると彼女のぼくに対する愛情だったのかもしれない。すべては、もうせんのない想像に過ぎないけれども。
 耳朶に残る彼女の熱い息の感触。こだまする優しい言葉。
  「 すまぬ ゆりあ の ちんぽ を 」

~ Fin ~