猫を起こさないように
日: <span>1999年1月10日</span>
日: 1999年1月10日

降臨

 小鳥さんは言いました。「今日という日付をもって世界は私という存在の持つ妄想とエロティシズムによって虚構化されます」
 どんな夢見る少年もどんな理想を抱いた革命家もみんな最後には現実にたどりつきます。ここから先はありません。ここが世界の最果てです。ピーターパンはラッシュアワーの電車に揺られながら眉をしかめ、『このオッサン口臭たまらんな。うしろの高校生はアホみたく騒ぐし、ガキは泣くし。どいつもこいつもクズばっかりや。少なくともこの車両の中では俺が一番上等な、価値のある人間やな』と、口の端をゆがめながらくたびれたスーツ姿で根拠の無い優越に満たされ、ウェンディは自分の三歳になる息子が泣きわめき、必死で彼女の袖をひっぱるのに気づこうともしないまま手の中のワンカップをすすり、「このままでいいのかしら。わたしはもっとちがう何者かであるべきよ。少なくともこんなのはちがう」と苦悩を眉間に浮かばせて幾度も幾度もつぶやいて、陽が落ちて息子がぐったりと動かなくなり、夜風が身を切る冷たさで周囲を切り裂いても、公園のベンチから一歩も動こうとしません。そうして敗北感に満ちたホモセクシャルで無職の私はと言えば、徹夜明けの便器に腰掛け大便をひりだす朝の作業の中で、ヨイトマケを連呼しつつ襲いくる熊のような大男に背後より青痣の浮くくらい抱きすくめられ、その発酵した体臭をすぐそばに感じるという甘い夢想をふくらませつつ、中学時代の卒業アルバムの集合写真の右上の中空に一人いるような人間に特有の不気味な半眼と半笑いで、墜ちていく退廃に羞恥と快楽のうめきをあげ、官能に身を震わせながら失禁するところをついうっかり家人に発見されてしまい、
 「お、おかん。これは違うんや」
 「何を違うことがあるんや。あんたのせいで私は田舎にも帰られへん。友だちにも会えへん。『おたくの息子さんどうしてはります、今年大学卒業でしたやろ』って聞かれたときの私の消え入りそうな恥ずかしさとくちおしさがおまえにわかるんか。『はぁ、無職です、昼間ずっと寝てます、夜中はパソコンいじりながらときどき便所で失禁してますわ』言えいうんか。おまえのようなんはおらんほうがマシや。死んでもうた言うほうがまだかっこがつくわ。死ね、死ね、おまえなんぞ死んでしまえ。今すぐ死んでしまえ。ああ、ああ」
 「おかん、泣かんとってえや。まじめになるから。就職もするから。おかん、ほんま泣かんとってえや」
 「もうええんや。死ね。今すぐ死んでください。それが私の望みです、それが孝行いうものです。なんで死んでくれへんのや。なんで朝起きたらいつもおまえがおるんや。おまえがやるこというたら、うちらが必死で働いた金を便所でうんこにしとるだけやないか。うあぁぁぁぁ死んでくれぇぇぇぇ」
 と、現代の家族ではまれな心の底からの包み隠しない会話をほがらかにかわすこともまったくしばしばです。
 この割に合わない人生の埋め合わせをするために、私は私を取り巻くくすんだ現実世界を、日記によって虚構化することをここへ高らかに宣言します。誰にも見返られない、誰にとっても重要でない私の実存は虚構によりたちまちのうちに、
 「小鳥くん、君はバーボンが好きだったね」
 「ええ」
 「これがなんだかわかるかい」
 「とうもろこしです」
 「バーボンの原料さ。君のアヌスにぴったりフィットすると思って持ってきたんだ」
 「ああ、何をするんです、部長。ああ、ああ」
 「いつもの凛々しい君はいったいどこへ行ったんだ。快楽をむさぼるだらしなくゆがんだその顔」
 「ああ、部長」
 「ふふ、君の唾液はバーボンの味がするよ」
 「ああ、それ以上は堪忍、堪忍どすえ、姫奴どすえぇぇ」
 と、果てる京都出身のヤングエグゼクティブへと昇華され、革命されます。私は惨めな現実を変えてくれるかもしれない美しい虚構の気高い存在をただ信じるのです。嘘です。人間の脳髄から言語を介して発信された時点で、それはすでにつくりごとだということを忘れてはいけません。現実とは、瞬間瞬間改変不可能になってゆく過去の蓄積に過ぎないのです。
 現実は結局、変わらなかった。