もう一度くらいエンクレイヴ・ラジオネタでいこうかと思っていたが、労力のわりにレスが一向につかないので普通に書くことにした。全く貴様らは「望みが絶たれた!」や「ハハッ、ゲイリー!」くらいの軽妙な返しをさえできない、瞬発力に欠けたネット耽溺者どもである。
さて、長らくnWo更新への障壁となり続けていた少女保護特区であるが、あとひとつエピローグ的な話をアップすればおしまいである。納得のいかない向きも多かろうが、今回の更新の大部分は二年前にすでに書いてあった。その結論を覆すだけの反応が無かったというのが実際のところである。反応の無さで言うならば、かけた労力に全く見合わぬ更新群であり、むしろ少女保護特区が更新されると来場者が減るくらいの勢いだったので、半ばくらいから本当に嫌気がさしていた。もっと早く終わらせることもできたはずだが、ここまで長引いたのは、ひとえに君たちの無言の行のおかげである。これからは、もう少し積極的に不平不満を表明してよい。付け加えるまでもないが、そのメールに萌え画像を代表とする貢物が添付されていなければ、扱いはスパムと同様になる。もしかすると諸君は今回の寄贈画を見、nWoへする貢物のハードルがイシンバエワほども上がったと考えているのだろうが、ここでひとつ霊的な引用を。「いかなる萌え画像も決してnWoを汚さない。だが、時として諸君の躊躇いがnWoを汚す」。
少女保護特区後の更新について、例えば“閉経おばあさまへ”を見たいとかパロディ短編が読みたいとかの希望を諸君は表明してよい。意見が少なければ、萌え萌えのライトな学園ファンタジーを大長編で更新し続けることを約束する。それもまた、世界の選択か。では、また会おう。インターネットの片隅から、さようなら。
nWo at mixi
破
過去の日記を見返したのだが、前作については何も触れていないようだ。しかし、今回は言わずにはおれない。ネットの片隅で細々と書き継がれておる少女保護特区という更新は、旧作が与えた命題を極めて私的な形で解消したいという願望に端を発している。十余年を繰り返していれば、圧倒された体験は時間へ風化するし、同時に己の、主に精神面での力量が向上するため、完全にそれを無化する段階に達したと、直近の更新では感じることができた。読み手の感想はおくとして、個人的には確かにある種の克服にたどり着いたと思った。しかし、実のところ、またしても先回りされていたのだ。少女保護特区最新の更新で提示された、世界よりも手の届く一人の少女を、という構図である。誰にも求められないという点で究極に内的な作業を経て同じ場所にたどり着いていた、同時代性への嗅覚を内輪褒めする気には到底なれない。なぜなら、相手方のそれは結論ではなく、未だ途上に過ぎないからだ。そして、旧作で最後までもつれた個人の内面を精算する段階を早々と終えて、物語は世界の謎へと飛躍してゆきそうな気配である。追い越したと思えば、また先にいる、実体を伴う蜃気楼の如き、時代を象徴する化け物としか形容できない作品である。少女保護特区のエピローグを更新しようとしていた手が完全に止まったことは事実だ。無論、蟻が象へ向ける執着との指摘に反論する言葉はない。だが、少なくとも私にとって、少女保護特区は旧作と完全に等価だったことだけは記しておきたい。
日記的な蛇足を少々。第17話から第19話までの流れがコンマ秒刻みで身体に染み付いているため、後半、旧作と同じ構図の絵が多用されるあたりで、生理的な違和感が没入を妨げる格好になった。そして、Quickeningは胎動初感の意であり、次回予告に知的な背負い投げを感じて驚いた。あと、次はアカペラバージョンになると予想した。
関係性の履歴
帝政ローマの下水道を思わせる石組みの莫大な空間を、一艘のいかだが流されてゆく。空間はわずかに傾斜しており、行き先は黒く霞んで見えない。
いかだの中央には和装の老婆が正座をしている。いずこからともなく老婆を中心に照らすスポットライト状の明かりが、唯一の光源である。
――蛆虫、飯粒、塵芥、蛆虫、飯粒、塵芥……
老婆、喪失した歯に窄まった口をもごもごと動かし、何事かを呟いている。形容するならば、男声と女声によるホーミーを思わせる声色である。だが、空間を満たす「ごーっ」という水音に、ほとんど掻き消されている。
老婆、突如括目して喉をそらし、絶叫する。
――蛆虫!
――おまえは道化だ。
老婆の左後方から、声がする。背後に誰か立っているようだが、年恰好や性別は判然としない。この暗闇に、両脚をシルエットとして確認するのがやっとである。
老婆が再び絶叫する。莫大な空間を己の音声のみで満たそうとしているのか。それは絶望的なまでに滑稽な試みであった。
――飯粒!
シルエットがみじろぎするように、わずか立ち位置を変える。
――おまえは人間ではない。
老婆の右後方から、声がする。投げられた言葉へ呼応するように、老婆の喉元から鳩尾にかけて刃物で切り開いたような裂け目が生じる。内側から、発光する極彩色のビー玉が次々に零れ落ちる。かちかちと音を立てながらはずむと、いかだの進行方向とは逆に転がってゆく。だが、背後の人影へもたどりつかないうちに、みるみる褪色し、形象を喪失し、灰色の粉となって風に吹き散らされる。
――塵芥!
――おまえは善人だ。
失笑のような気配を残して、背後の人影は消えた。老婆は気づかない。あるいは、知らないのか。その音声はますます高まってゆくが、伝達は生じない。
ゆえに、意味もまた生じない。
老婆の胸元からは、発光する極彩色のビー玉が零れ落ち続けている。もはや明らかに、老婆自身の容積を超える量である。
帝政ローマの下水道を思わせる石組みの莫大な空間を、一艘のいかだが流されてゆく。空間はわずかに傾斜しており、流れの行き先は見えない。老婆を中心に照らすスポットライト状の明かりは、いまや切れかけた電球のように不快なタイミングで明滅を繰り返している。
――蛆虫、飯粒、塵芥、蛆虫、飯粒、塵芥……
水の流れは、わずかに速まってゆくようである。「ごーっ」という水音は、もはや耳を聾せんばかりだ。
瀑布が近づいているのか。すべてを呑みこむ、あの瀑布が。
ぼくと君たちのすれ違い通信
ぼくは反省をした。反省をしたので、みんなが読みたい更新をするべきだと思った。なので、時流におもねった卑屈な微笑を凹凸の激しい顔面へ貼り付けながら、上唇より前歯を十センチほどはみださせながら更新をしたのです。狂ったように笑いながら今回の更新を読み返し、これだけ時流におもねったのだからリンクとか張られてたいへんなことになったらどうしよう、とか食事中に期待へ胸と鼻腔とか膨らませて、家人にたいへん気味悪がられたりした一週間であったが、諸君もすでにオチは読めていると思うが、反応は全くなかった。むしろ、例によって更新の翌日には来場者とweb拍手ががくんと減った。いよいよ何を更新しても同じだという徒労感が募り、更新により欝が昂進する例の精神状態になり、更新の元ネタになったゲームへの没頭がますます深まったりした。ぼくはあんな更新をして君たちにまるでぼくは更新の元ネタになったゲームを嫌っているみたいな印象を与えたかもしれないが、それは素人考えとゆうものです。今回のやつがぼくはすごく好きなのだった。なぜかとゆうと、どこまでレベル上げしてもレベル上げが終わらない感とか、どこまでボスを倒してもまた強いボスが出てくる繰り返し感が最高だからです。大人になると現実の毎日の積み重ならない感ってちょっと絶望的でしょう。自分の子どもとか、外的なものさしがあると事情は変わってくると思いますが、昨日と今日の違いとか、一年前と今日の違いとか、ときどきすごくわからなくなる。だから、単調な繰り返しが積み重なって、するとレベルが積み重なって、そいでボスを倒すとか、宝が手に入るとか、具体的な形で報われるとゆう当たり前の希望のようなものを大人になっても体験できるところがすごい好きです。現実では最高レベルになった自分が雑魚を一蹴できなかったり、はるかに強いボスが次々と登場する無理ゲー感の中で、ただかろうじて死なないように毎日をしのぐだけだったりしませんか。ほいで、ネットでも更新するとホームページの文字数は確実に増えますが、文字数と経験値は違うのでレベルアップできない。すごい婦女子がぼくに欲情したメールを送信するとか、そうゆうステキはめったにありません。たぶんあらかじめ設定されているイベントの数が少ないのだと思った。だから、延々戦闘だけをして経験値をためてゆく終わらない感とのオーバーラップが、ぼくを今回の更新の元ネタのゲームへ駆りたてるのだ。すれ違い通信がすれ違いなのにすれ違わないのもなんかじんわりする。諸君のものすごい視線を合わせない感じに不安定な心情をやみくもにつらねたが、文字通りすれ違いのみの壊れたすれ違い通信であるところのここミクシィで、とりあえず次回にどんな更新が読みたいかなどの方向性をすれ違いざまぼくに示すと良いです。
コミケットとわたくし
盆に帰るべき故郷もなく、ブヒブヒ言いながら苛烈な肉体労働で日銭を稼ぐわたくしを尻目にして、貴様らはどうせコミケットとか行ったりしてたんでしょう? ナントカさん、久しぶりッス!とか裏返った声で右手を後頭部に乗せながら発話してたんでしょう? これ、今度の新刊なんで!とかハスキーとは別種の形容を与えられがちな甲高い声で広告の裏へ身体に悪いインクでガリ版刷りの紙束を誇らしげに交換していたんでしょう? 精細に膣の内奥を描写できる貴様らは、むしろ労基署の方へ顔を向けながら与えられるコンビニの自給より少ない日当を得るわたくしを尻目に、非課税の不思議な五百円玉や千円札をたくさん手に入れたんでしょう? 親世代となった親業無自覚のおたく共が連れまわす着せ替え人形と同義の女児がその意味を理解せぬまま取らされる扇情的なポーズに貴様らはカメラを向けたんでしょう? 汗をぬぐうふりでよだれをぬぐいながら貴様らは、コミケット参加者の低年齢化には社会的な義憤を感じますよ、ナントカさん! 薄布で擬似的に二次元キャラの表皮を形成することで快楽を得るという、未だ名付けられぬ精神疾患の持ち主どもが鏡の前で練習してきた薄ら笑顔を張り付かせるのに、貴様らは舌なめずりしてたんでしょう? 若者の性風俗の乱れ、有名人の顔面を精細に描写した長方形の紙片と交換にきっと彼女らとは交歓におよぶことができるのでしょう? 馬鹿にしないで! わたし知ってるんだから、そのくらい! そして、あの有名な、身体に悪いインクでガリ版刷りした売れ残りの紙束を投げ込むことで火勢を強める最終日のとんど焼に蝟集して行われる、擬似的二次元キャラとの大乱交大会を貴様らは楽しんだのでしょう? 常人を倍する脂肪を運送した肉厚の貴様らは頭髪と入れ替わりに前進した額を脂でてらてらと光らせながら、常人を倍する速度で次々と性的絶頂に達したのでしょう? 夜明けの電車を悪臭で充満させながら先端をちり紙でぬぐうときの、社会性を逸脱した貴様らの笑顔はさぞかし素敵だったのでしょう? そして貴様らは、毎年この時期にコミケットに行かなかった旨を記述するわたくしは、さぞかしコミケットに行った貴様らをうらやましく思っていると思っているのでしょう? うらやましくなんかないもん! 全然行きたくなんかないもん! 純潔のほうが大切だもん! 来年もぜったいにわたしを誘っちゃダメ! ダメなんだからね!
ディーセンシー
日々の労働の隙間に、ふと最近の更新などをつらつらと読み返してみて、ああ、人のいない方へいない方へと歩き続けた結果、本当に誰からの関心も理解もない場所にたどりついてしまったのだな、という寂寥を感じました。人の多い方へ歩いていかないから、ずっと何も起こらないとのだなと得心したのです。じぶんのナマの感情を油絵のように厚塗りで表現しても、結局できあがったものは絵画とも呼べない、暗号のごとき等高線状の隆起に過ぎないのです。それを芸術と称するのは、高慢なプライドがさせているか、気ぐるいであるかのどちらかでしょう。私の更新は、きっとそのどちらかでした。文章も、考え方も、生き方も、よりフラットで最大公約数的な共感を得られるほうを選択するべきなのです。もちろんそれに比例して、勘違いによる共感も増えるでしょうが、こちらが意図した解釈以外を拒絶するようでは、究極的な理解者はたった一人だけになりますから。
私の話には、文系・理系というくくりが良く出てくるように思います。受験のシステムから逆算された無意味な定義かもしれません。しかし、個人の生き方と関連する区分けとしてそれを考えるとき、私は己が従事する場所の曖昧さをうらまずにはおれません。仕事の成否や価値を判断する基準について、という意味でとらえてください。例えば、数学のある分野における論文には、この世に片手ほどの人しか内容を理解できないものがあるそうです。しかし、その論文の価値は世界を構成する法則や真理によって絶対的に担保されています。立証すれば、多数決や政治を個人がくつがえせるのです(最先端の分野ではまた、個人の哲学や宗教観に左右されるところへ戻ってゆくようですが、ここでは置きます)。理系の学者は、ただ一人で世界に君臨することができるという点で、神に近い存在です。
ひるがえって、文系の人々はどうかと申しますと、「多数の了解を得られるか」という点にすべてが帰着します。究極的に己の物語のレジティマシーを相対的多数に認めさせるという、支配・被支配の関係です。為政者としての作り手がいったん王国を維持するだけの民衆を得たならば、賞賛も不平もすべて彼の支配の下となります。王の出自の実際がどうかではなく、多数が彼の語る正統性を信じたかということが重要なのです。例えをわかりやすくするため、さきほどの数学の学者に対して、文系分野の学者を想定します。まず文学ですが、それはすでに滅んだ王国の歴史を紐解くのみで、原典の不変を信奉する点ではある種の宗教と変わりませんから、私が意図する現在進行中の物語の例えには不向きと言えるでしょう。くわしくありませんが、社会学あたりが適当でしょうか。さらにわかりやすくするために、王国の例としてアニメや漫画の作品を想定します。近年それらについて、いわゆる学者の方々がする文章を読む機会がとみに増えたように思います。しかし、注意深く見ていけば、ある規模を超えたヒット作に言及の限られていることがわかります。つまり、すでに多数によるレジティマシーを得た王へ、賞賛か不平かを言っているだけなのですから、彼は民衆のひとりであると定義できるでしょう。その知能に免じて情状酌量を与えるならば、臣下と言い換えてもいいかもしれません。
余談ですが、チョムスキーの生成文法が発表されたとき、とある英語学の権威が「これで我々は、あと十五年は食べていける」と発言したとの、まことしやかな逸話があるそうです。これまた余談ですが、英国の女王陛下が表敬に訪れた経済学者たちに「なぜ誰も世界不況を予測できなかったのですか」と無邪気に尋ねられたという話に胸のすく思いがしました。
もしかすると私は、王であろうとする気概を持たない誰かに苛立っているだけなのかもしれません。しかし、「より良い物語が他のすべてを飲み込み、駆逐する」という残酷なシンプルさを掣肘できる特権を自ら進んで放棄しているのですから、文系の仕事に従事する者たちはいまや優秀な物語作家へ完全な敗北を表明し、進んで隷属さえしていると言えます。つまり現代において、誰も知らぬ王に戴冠させる教皇の職責は、いずこからもすっぽりと抜け落ちているのです。
くだくだと長く書きましたが、何のために長く書いたかと言いますと、独自性の陽炎を目指して人の少ないほうへ私が歩き続けてきた歳月は、「この人を見よ」と杖をかざす老賢者のいない荒野をさ迷うがごとき不毛の行だったことを論理的に証明するためでした。もしこれ以後があるならば、せめて人のいるほうを目指して歩こうと思うのですが、手がかりのなさに途方に暮れる感じです。少女保護特区のエピローグ部分が更新されないのは、用意している内容が「虚構の高揚感に少し水をかけて現実と同じ温度にする」という、誰も望まない(しかし、いつもの)やり方だと自覚したからです。あのまま少々の尻切れトンボ感を残して放置したほうが、私自身の居心地の悪さをのぞけば、より多くの人がハッピーだろうなと考えたりしています。もしかすると、嫌悪を表明し続けてきたものに対して、無理に自分をそわせてみることがそろそろ必要なのかもしれません。
生きる希望を失うほど、弱くなりたい
学生風情とは比べ物にならぬ社会人の貴重な時間をいいゲームへ湯水の如く注ぐ季節が終わった。愉悦と後悔とが等分に訪れるこの玄妙なる心持ちは、正しい大人にしかわかるまい。そして、やはり学生風情とは比べ物にならぬ社会人の貴重な時間を湯水の如く注いだ更新を行ったのだが、更新後にネット界隈を一通り散策してみたところ、思いついた段階では旬を感じていた元ネタの作品がすでに賞味期限を切らしているような気配を感じたのである。ネットとリアルの二重生活を長く続けている俺様であるが、リアルの方は無理ゲーに近いイベントの連続で青息吐息の俺様であるが、ネットの方では本年冒頭のオフ会以外はあまりにイベントがなさすぎる俺様であるが、おたく界隈の作品消費速度が年々加速しているような気がしてならない。無論、俺様が馬齢を重ねすぎ、虚構に割ける時間が少なくなったため、相対的な割り増し感を得ているということは多分にあろう。客観的な実際がどうであるかは、置いておく。リアルにこれらのおたく的情報を交換する相手がいない俺様にとって、内面だけの問題に過ぎないとはいえ、取り残され孤立しているという実感は、いっそう強烈に胸へ迫ってくるのだ。いつもの繰言だと考えている諸君のしかめ面に結論を急がされるならば、諸君はネットでしか生きていない、しかし俺様の確実な魂の半分である部分を、もっと積極的に支援してよい。なるほど言葉は不確かだが、同時に人の持ち物の中で最も確かなものでもある。だから、諸君は、発したそれを裏切らないと念じて、ただ俺様へと投げればよい。俺様がここにあることへ脅える必要はない。諸君を脅えさせるものがあるとすれば、それはただ発した己の言葉のみとなる。
小鳥猊下慈愛のようす
小鳥猊下が耶蘇教的には不吉のナンバリングを施された某有名大作RPGのプレイングと語義的に正しい意味でのマンションをかけずりまわって行う大掃除を同時並行しながら、誰も誘ってくれないからコミケなんか行ってやらないというひねくれた小心を持て余しつつお送りする、慈愛のようすin年末年始。どんな書き込みにも優しく穏やかに対応します。
小鳥猊下年始のようす
おとそ気分の諸氏が初詣へ浮かれ騒ぐ傍らでドカチンの俺様だが、黄色いメットと無精ヒゲとタンクトップとニッカボッカで逆さにしたツルハシの柄に体重を預けながら、あけましておめでとうございます。今年もきっと諸君は小指から人差し指のミリ単位での上下運動さえ愉快でためになるnWoの文章群へは与えないのだろうが、それでも律儀に、涙に潤む瞳を土に汚れた手ぬぐいにまぎらせ、鼻腔へ真下から掌底を当てる格好で鼻水をごまかしつつ、年始の挨拶をする可愛らしい少女の土木作業員の俺様なのだった。
さて、昨年度末にうんこ忙しい合間を縫って二つばかり、パロディとパロディじゃない更新をした。無論、マンホールを開けて下水へ有り難い経を読んだり、粗大ゴミの引き出しに宝石を忍ばせたりする、努力が水泡と化すことで陰茎を屹立させるような幼少期のトラウマの持ち主ではないところの少女土木作業員なので、未だこのいじましい場末のテキストサイトへ澱のようにへばりつく諸君がいずれにより大きな反応を示すのか、今後の方向性をさぐるための試みであった。聡明な少女土木作業員である俺様は、その聡明すぎるスプレンディドな国勢調査に自意識の目眩を生ずるほどであった。
もはや様式美とさえ言えるが、結果を公表するならば、双方ともにゼロであった。150アクセスper24時間のうち、おそらく99%は大手検索エンジンの自動巡回ロボットなのに違いあるまい。でなければ、全員の親族か恋人が愛は残酷に奪うa.k.a.俺様の手にかかっており、ゆえにかくも迂遠なやり方で復讐を果たそうとしているかだ。こちらの実感で言うならば、「ヘヘッ、テメエら、殺る気だけは充分じゃねえか」である。正直、mixiにするこの種のエントリーを閲覧する際に諸君へ湧き上がる感情は、人差し指を付け根まで鼻腔へ押し込んでの「また言ってるよ、コイツ」なのやもしれぬ。しかし、「更新したらそれで終わり」ではなく、毎回毎回、息を潜めていずれかの経路で感想がやってくるのを待つ当方の身にもなって欲しい。更新が無い期間は、諸君が感じるような放置期間ではなく、その裏で日々の雑務を縫ってnWoの閲覧を繰り返し、臆病な子猫ちゃんたちが踏み折った小枝の音で逃走してしまわぬよう、じっと身を隠しているのである。
正月早々、猫の集会の中心で人語の演説をぶつような徒労感を味わわせてしまった少女土木作業員の俺様にだけ主に申し訳ないが、ブラウザの戻るボタンを断罪的にプッシュa.k.a.魂の劣化作業を日々繰り返すがゆえに短期記憶が3秒程度まで圧縮されてしまった諸君へ思い出させてやるならば、毎年恒例「慈愛のようす」が大閑散実施中である。明日いっぱいくらいまでこの社は開いている。気軽な年始の挨拶は元より、干支にちなんだ萌え画像を絵馬として奉納することも可能だ。もう二日ほども音信が途絶えているため、ついカッとなって長々と書いた。臆病な子猫ちゃんたちのために、再びトレンチコートを羽織って電信柱の背後へと戻ることにする。
亜神の住処
虚構の高揚感に水をかける行為は、交尾中の犬に水をかける行為と同じなのだろう。物語の自走性を読み手の興味に合わせてわずかでも曲げることができれば、もう少し人も集まるだろうにとも思うが、同時にそうなればホームページで書く意味は無くなるだろうなとも感じる。少女保護特区の結論はあらかじめ用意されていた。さらに言うなら、「両親が見ていたのは、この光景だったのか」という一行を書きたいがための更新であった。
最近、文章芸術とはすべて、主人公の心に宿っていたようなDemigodの産物ではないかという気がしている。幼少期に楽園を得なかった人々は、その神の空席へ己自身を昇格させるのだ。そして、絵画芸術の半分と、音楽芸術のすべてはGodに由来している。もちろん、この偏見に「アマデウス」が影響を与えているとの指摘を退けない。
長い更新を終えるのはこれで三つ目だが、終盤へ向かうにつれていずれも似たような表現が顔を出し始め、結局はいつも同じ場所へとたどりつく。毎回、意識して違う展開を心がけているにも関わらずである。己を掘り下げる書き方をすると、どの穴からも精神的な課題という鉱脈へぶちあたるようだ。ただ今回、半歩先へ進んだと思えるのは、「壊された魂はどうふるまうか?」というモチーフから「なぜ魂は壊されなければならなかったのか?」へと主観の角度が若干の変化を見た点である。
壊された誰かが子を得て、その魂を壊さなかったとすれば、それは人の成し得る最も偉大な成果のひとつであると私は信じる。残念ながら、私には少女保護特区のエンドマークの向こうを見通す資格が与えられていない。だが、nWoを閲覧する諸君がこの偉大な課題を得たならば、少なくとも一人が君を応援していることを忘れないでくれ。
さて、いよいよ節を曲げて、己の課題とは何の関係もない、全くの絵空事を虚構として書かなければいけない季節が訪れたのかもしれない。以前冗談めかして触れたが、もしかすると萌え学園ファンタジーなどがその良き題材になるのやもしれぬ。もちろん、nWoはホームページとしてのインタラクティブ性を最重要視していることを諸君へ伝えておく。