猫を起こさないように
nWo at mixi
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はじめまして! 仲良くしてね!

私の日記を読もうと思う人物は私のホームページのファンであるだろうので、それらの人々を喜ばせる記述を心がけたい。もっとも、私のホームページを訪れる大半はメールアドレス取得のための自動巡回ロボットプログラムなのだが! そのせいもあってか、一日30通ほども受信するメールは「今夜も濡れ濡れ」系のものばかりである。私の枕が濡れ濡れである。

10月27日の更新をいま読み返し、少しやりすぎた感を抱いている。長い欝と短い躁を繰り返す私の精神は、後者だった場合、文章に関西人的小ネタを挟みすぎるきらいがある。前回の更新は欝のときに書き、今回の更新は躁のときに書いた。

裏話的に、さすがに理性が止めたネタを以下に2つ記述しておく。どの部位に挿入される予定だったかは、すぐに理解されるであろうと思う。

「外ほと=外性器」

「いやだなあ、”王様の耳はロバの耳”ですよ。卑猥な想像に何を膨らませておるのか」

”外性器”がミクシィ管理者によって検閲されたちまち村八分、の想像に煩悶しながら記述を終える。

マイミク登録しようよ!

「更新頻度が昔ほど頻繁では無くなって、残念だ」という感想を頂くことがある。当たり前の話である。私は売文を生業にするどころではない、一介のサラリーマンなのだ。私の文章内容と更新頻度に文句をつけていいのは、私に金を払う人物と私に萌え画像を送付する人物だけだと、つねづね真面目に考えている。”真面目”の意については、私のプロフィールを参照するとよろしかろう。つまり、諸君は私に「残念だ」と言う前に、金か画像を寄越さねばならないのである。

半ば冗談だが、冗談で言っていない部分もある。年齢を重ねるにつれ、社会的責任は等比級的に増大し、それに耐え得る労働とスキルアップの時間を考えれば、ネット上でいい気な文章を記述する隙間など物理的に存在しないのである。それでも時々誰にも頼まれもせぬのに、人々を不快にさせる文章をアップロードするのは、私の内的衝動のせいだろう。もちろん、それは何か崇高なものどころではなく、単純に、普段は用いないような卑猥な単語や異常な想念を記述したいという欲求である。

今回の「生きながら萌えゲーに葬られ」についても、どのように終わるかまで、書くべき内容はほとんど決まっているのであり、時間さえ充分にあれば明日にでもすべてアップロードできるのだ。無論、時間という観点から諸君が私を助けることはできない。諸君はきっと資本家ではないからだ。しかし、モチベーションを刺激することはできよう。それはすなわち、金か萌え画像である。冗談だが、もちろん冗談で言っていない部分が大半である。

愚痴と脅迫ばかりではなく、裏話的な要素を盛り込んでおく。次回の連作タイトルは『閉経おばあさまへ』である。

”閉経”がミクシィ管理者によって検閲されたちまち村八分、の想像に煩悶しながら記述を終える。

今日、素敵なことがあったよ!

「あなたのホームページでは、”おたく”という語の定義が非常に曖昧なまま使われてはいないか」という批判は、私の差し出すこのちり紙で、秋にもかかわらず肉と肉の隙間から滴るその腹部の汗をぬぐってから行って頂きたいものだが、定期的に寄せられる質問のひとつではあるので、この機会に回答しておきたい。ほんの思いつきではなく、次回以降の「生きながら萌えゲーに葬られ」ともリンクする話題であり、裏話を求める諸君の出歯亀的性向を同時に満足できると考えるからである。

結論から言えば、当ホームページにおける”おたく”とは世界という真理を得る際に各人が代入すべき「n項」を表しているのである。つまり、そこへ諸君の執着する何を代入して読んでもらっても構わないのだ。改行無しの文章は「ネット向きではない」などとして読まない姿勢を持った、抽象思考のできない諸君にもわかりやすく例を挙げることにする。実のところ、親でも恋人でも配偶者でもない私が、金も萌え画像も送付しない諸君にここまで優しくする義理なんて、露助ほども無いのだが! ”おたく”という単語を含んでさえいれば、どのフレーズでも構わない。しかし、あの感動的な7月の国”エバーラスティング”から引用したい。原文はこうだ。

 ……おれはずっとおたくだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた……

もし、君が怪奇小説に執着を持つなら、こう読むべきだ。

 ……おれはずっと怪人赤マントだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた……

もし、君が海外文学に執着を持つなら、こう読むべきだ。

 ……おれはずっと一匹の巨大な毒虫だった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた……

もし、君が歴史に執着を持つなら、こう読むべきだ。

 ……おれはずっとオクタウィアヌスだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた……

もし、君がブルマーよりもキャミソールに執着を持つなら、こう読むべきだ。

 ……おれはずっとキャミソールだった。傍観者だった。世界がかくあることの痛みを最終的に我が身に引き受けることをせずに、何ひとつ実感のない空理空論をふりまわしていた……

どこまでも続くから止めるが、要するに諸君のすべてが普遍性に到達できるように、わざと”おたく”の定義を甘く書いてあるのです。

”オクタウィアヌス”がミクシィ管理者によって検閲されたちまち村八分、の想像に煩悶しながら記述を終える。

友だち、友だち、嬉しいな♪

彼我の力量の差をここまで見せつけられてなお、マイミク登録を申し出ないチェリーボーイどもに私の文章意図の一端を開陳(カイチンと読むが、男性器のかゆみを沈めることとは関係がない)することで、だめ押しとしたい。昨日の日記の要点は、”オクタウィアヌス”と”キャミソール”の順序にある。これがもし逆だった場合、例のオチを今か今かと待ち構える諸君によって、”オクタウィアヌス”という語が秘し隠す「肛門」の暗喩はたちまち見破られ、諸君はしたり顔で私の意図を早々に看過した優越に浸っていただろう。しかし、オチの候補としては極めて有力な”キャミソール”の順序を最後に配置したがゆえに、諸君の意識は”キャミソール”に集中してしまったはずだ。しかし私の高邁な作為は、凡人でも鼻水を流しながら一生をかければたどり着けるようなこの段階では終わらぬ。更に”ブルマー”を並列したのである。ここに至って諸君は”ブルマー”か”キャミソール”かのどちらかにぶち込む、もとい、がぶち込まれる想像をしかできなくなっていたはずだ。そこに、濡れ濡れと輝くアヌスです。

前置きが長くなってしまった。ただ「みんな、愛している」と書きたいだけなのに、いつだって持ち前の羞恥心が言葉を増やし、最後にはほとんど韜晦のようにその中に埋もれてしまう……。おっと、こんな弱気な書きぶりじゃ、十代前半の婦女子くらいしか寄ってこなくなっちゃうよ!

あのですね、またホームページの話ですけど、公文書じゃないんだから、誰も客観性や整合性なんて求めてないと思うんですよ。少なくとも私は、歪んだ主観を読みたい。誰かの抱く主観が、つまり世界認識が歪んでいればいるほど、それはエンターテイメントに映る。間違っていれば間違っているほど、歪んでいれば歪んでいるほど、それは美しい。その破綻の面白さを客観性や整合性という観点から批評する人物とは、もう現実の位相そのものが異なっており、触れ合えない。主観と熱情に満ちた批評なら殴り合えるが、客観と冷静に満ちた批評はシースルーの半透明人間から当たらない半透明石を投げられるようなもの。不快ではあれ、効果は無い。持ち前の謙虚さがホームページに限定した書き出しを選んだが、以上はすべての物語に当てはまることでもある。辻褄合わせを放棄した人の作り出す主観をこそ、私は愛す。

誰に何を恥じることもない公明正大な私は、ほとんど上半身が直立するほど枕を高くしたまま、やすらかに記述を終える。

すっごいこと、見つけたんだ!

成人向けの商業目的ではない冊子などを閲覧する際、如何なる理由か頻繁に目に入る「ああッ、中に出てる…!!」や「熱ゥい!」という例の語群についてだが、おそそは入り口から奥へと向かうにつれて無感覚になってゆく器官なので、虚構内で男性を昂進させるためだけの、現実には不可能な様式美に過ぎぬ。震える指で挟んだ煙草の先端ではなく吸い口の方へ火をつけようとしている、そこの貴君に忠告申し上げているんですよ。

正直なところ、私の頭の中はいつもこういった小粋なピロウトークに満ちあふれている。更新が間遠になればなるほど、次の登場の際には諸君の高まりに高まった期待を裏切らないような大長編をぶち上げねばならぬと強迫する私の神経症的性向さえ無ければ、いつだって赤裸々な下ネタだけで、両手へ開いた日の丸扇子に下ばきをつけぬまま、顔面を覆い隠した両指の隙間から期待に視線をギラつかせる諸君の眼前へ、例のブツをまろびださせながらまろびでることができるのです。

裏話をする。「生きながら萌えゲーに葬られ」は上記のような持ち前の精神的疾患に促されてのこともあるが、それ以上に、当ホームページ内に記述されたすべてを総決算的にまとめてみようと意図した部分がある。その意味では多分にバイオレンスジャック的更新であると言うことができよう。しかし、またこうも考える。自分の中にあるすべてを解体しようと書き始めたものが、その果てに何か解体しきれぬものを残すのだとすれば、それはたぶん私にとって、「希望のように」映るのではないか。

ミクシィ管理者によって検閲されるべき単語を一語も含まぬ清純な内容に、困惑しながら記述を終える。

落ち込んじゃう……

私の書いた文章はすべてそらんじているという当ホームページのファンならば、むしろ一月の国の登場人物として認識しておるだろうが、今日、セルゲイ・パラジャーノフの「ざくろの色」をぼんやり視聴してから昼寝をしたら、ものすごい悪夢を見てしまい、しかもそこから抜けようとして抜けられず、たいへん怖い思いをした。ああいった、無意識に陰茎の如くスティマーを突っ込んで掻き回す類の作品を視聴する際には、厳重な覚悟をもってせねばならぬと再認識した祝日の午後。

ところで、掲示板を閉鎖した。もうずいぶんと前から本来の意味を無くしていたところ、ミクシィに来てみるとずいぶんと使い勝手がよい。ここでは相手の輪郭がある程度わかるのがいい。もちろん、自虐趣味の私としては現実で罵倒されるのが最も好みなのだが、「誰の」発言か見えないままでは、罵倒も賞賛も等しく重くないのだ。先の陰茎スティマーの例ではないが、感情の大切な部分がかき乱されないのである。

関連した裏話をする。今はローカルに保存してあるのみだが、以前「高天原勃津矢」という更新の回があった。あれは、「最近、猊下には昔のような怒りが無くなってしまった気がするのです」という感想を匿名に限りなく近くない形で、偶然見つけてしまったのが引き金となった。それは本当に腑に落ちた感想だったので、壁を殴りつけることで怒りを維持しながら更新した記憶がある。怒りを込めすぎて、鼻血も出た。

掲示板であるが、当初、今よりももっとアクセス数があった頃、頻繁に現れる荒し対策として築いた”人格”が一人歩きしてしまった感がある。曰く「傲慢」、曰く「不遜」。脊髄反射で書いた偏差値の低い書き込みを敬遠させるためだったのだが、次第にもらう感想もその一種の”プレイ”に乗ったものばかりになってしまい、新規参入者もそれに右ならえをし、あるいは二度目の来訪は無くなり、更新が間遠になるにつれ、閉塞感だけが高まっていった。思えば、いい潮だったのかも知れぬ。

さて、現在連続更新中の例のアレだが、今日、悪夢の後に整形してみたら、あと2回分だということがわかった。年内完結を目指したいので、諸君はぜひ金か萌え画像を送付されたい。

矮小心理劇「生きながら萌えゲーに葬られ」、完結までこれより2回! COUNTDOWN!

みんながんばろうねっ!

乳首を隠す意図を失うほど、胸襟をガバガバに開いておるのに誰も私のピンク色のつぼみへ接吻しに来ぬ。全く不条理である。

ホームページ上でも固有名詞を避ける態度を貫いている私が、ときどき尿漏れのようにそれを記述するのは、その裏へ「高尚なイメージを付与したい」など、読み手を誘導するための意図があることを常に疑って頂きたい。昨日もそうだった。調子に乗ってごめん。件の映画だが、何かを理解しているわけではない、「あまりに正気すぎて、心に狂う余地が一片も無い」ようなときに視聴することを決めているだけに過ぎぬ。

さて、リアルの階層が平屋建ての、勘違いしがちな向きに宣言しておきたいが、この日記における記述は読み手をエンターテインさせることを主眼においているのであり、現実の誇張や歪曲は当たり前に行われていると警戒して頂きたい。現実を現実のままに留める役は、「転向」や「変節」を文章中に多様するあの人々に任せておけばよい。例えば、昨日の日記の「壁を殴りつけることで怒りを維持しながら更新した記憶がある」という下りは嘘である。そもそも、パソコンを設置してある場所から手の届く位置に都合よく、殴っても隣人が怒鳴り込んでこない手ごろな壁があるはずはない。何より壁を殴っていては両手がふさがりタイピングできぬ。真相は、単にキーボードへ思い切り額を打ち付けていただけのことだ。それならば、隣人への配慮から壁を殴る力をセーブする気苦労がはぶけるし、両手を使える分、タイピングもはるかに容易である。流した体液も鼻からのような過激さではない、額の裂傷から顔面を垂れ流れた鮮血が衣類とキーボードを汚しただけのことである。おっと、こんな軟弱な更新風景を開帳したら、むしろ月経前の女子しか寄ってこなくなっちゃうよ!

”胸襟を~”の後へ続く擬音に促されるように下ばきの中身を覗き込み、指先でもってためすがめつする婦女子たちの様子に、青ざめた横顔へ苦悩の翳りを浮かべながら記述を終える。

ドキドキしちゃう

気軽に更新できるこのミクシィというのは、全く憎いヤツだ。大きな妄想を小さく切り分けて提供できる、まるで検便の容器のようなヤツだ。この清潔さに比べれば今まで私がやってきたことは、一週間も二週間も溜めに溜めた大便を苦しみ、うなりながらひねりだし、大地に湯気と悪臭をはなつそれをショベルですくい、逃げ惑う諸君の方へ向けて投げつけていたようなものだ。まァ、そっちも好みではあるんだがね。

冒頭からビロウな出だしで、婦女子にのみ申し訳なく感じている。さて、私の交遊関係に敏感な出歯亀の諸君はすでに気づいているやも知れぬ。この度、天野大気氏と関係を結んだ。氏について不案内な向きは、私のマイミクを踏みつけるとよい。全く便利にできている。今回の登録は、私の方から申し出た。「万余の夜を経、残ったのは俺とおまえただふたり! その小鳥猊下とマイミク登録せんのかあ!?」という趣旨の内容を百倍ほどマイルドにして懇願し申し上げたのである。

振り返れば六年前、当時俺は駆け出しのチンピラだった。きらびやかなネット上の社交界、それは俺がホームページを開く前年にその全盛期を迎えていた。いま考えれば、既得権益を守ることだけに汲々とした、没落貴族どもの集まりに過ぎなかったが、当時の俺にはそこへ招きいれてもらうことが何か崇高な目標のように感じられていた(夜の窓の外に立ち尽くすボロを着た少年のイメージ)――だが、結果は、へへッ、ご覧の通りってわけさ。いい加減、このノリはもうやめることにするが、当時のことを思い返すにつけ、あの仲良しうんこコミュニティ(スカトロ愛好地域社会という意味ではない。念為)構成員の残らずを首まで埋めて砂浜へ並べ、ワニ皮の靴の尖端で片端からその頬へ思い切り、サッカーボールにするようなトゥキックをぶち込んでやりたい――奥歯が砕け、頬の肉が内側へ裂けるそのインパクトの瞬間を巻き戻しと早送りの要領で何度も何度も繰り返して味あわせてやりたい――そう本気で思う。そして私の怒りはあの頃からまだ少しも衰えていないのであり、例の界隈に所属していた経験のある諸君は私に和解の手を差し伸べようなどとはゆめ、思わぬ方がよい。差し出した手を無言で強く引き込んで、よろめき倒れる諸君の顔面へ膝を叩き込むこと、必定だからである。おっと、今のボクはずいぶんと怖い目をしていたね! メンゴメンゴ! ネットはみんな友だちでござるよ!

前置きが長くなるのが悪いくせだが、天野大気氏のホームページを見つけたのは、そんな折だった。毎日熱心に通いつめるファンでは無かったが、何ヶ月かに一度のぞいては、「ああ、まだいるな」とか「相変わらず巨乳が好きなのだな」とか、勝手な感想とともに、誰かが変わらずそこにいることへ安心感を抱いたものだった。食うためにする日々の労働がありながら、それとは全く関係の無い(むしろ支障のある)妄想を、誰が頼むでもないのに淡々と更新し続けるその姿に共感を覚えたのである。例の匿名巨大掲示板が誕生し、簡易更新式の日記が隆盛を誇り、照明が落ちるように次々と黎明期の個人ホームページが姿を消してゆく中で、彼だけがいつまでも留まっていた。nWoを閉鎖する機会はいくつかあった。しかし、彼のホームページを見る度に、「この人がやってるならもう少し続けるか」とここまで来てしまった側面が、多分にあるように思う。彼の方がどう感じているのかは知らない。しかし少なくとも私には、同志のように思えていのだ。今回、その「無言の連帯感」を形にすることができた。これだけで、ミクシィに来た意味はあった。

”関係を結んだ”の下りに肛門性愛愛好の婦女子たちがいらぬ妄想を膨らませるのではないかと煩悶しながら、記述を終える。

だれも傷つけたくないのに……

 ”マイミクシィへの追加リクエスト”の件名に胸を躍らせながら、盛り上がった上腕筋に壁が終始接触するほど狭い廊下を抜け、裸電球のひもを引っ張って、玄関の引き戸を開けた。すると、そこに立っていたのは、昔ネット上の社交界で影響力を発揮していた人物だった。件のうんこコミュニティが主催するパーティ会場の窓から、幾度かその姿を見たことがあったので、覚えていたのである。
 しかし、今ではもはや、あの頃の栄耀の残滓すらうかがうべくもなく、ムシロ一枚を身体に巻き付けたきりの、”お笑い漫画道場”の土管に住む貧乏人役のような風体だった。やせ細ったその人物は、もじもじと両手をひねりあわせて頬を赤らめ、卑屈な笑みを浮かべたまま、「あの、入れてほしいんです」と小声で言った。
 その表情を見、声を聞いた瞬間、私の頭の中は激甚な怒りで沸騰し、全身の筋肉は瞬時に青筋を立てて盛り上がり、身につけた一枚きりのTシャツを粉々の布片へと裂け飛ばした。
 「おまえ、どのツラ下げてきやがったッ!!」
 私の怒りは、まるで諸君がNHKの集金人にするような、もの凄まじい勢いで爆発した。ネット上でだけは超つよい私が丸太ほどもある右腕で顔面を殴りつけると、その人物はきりもみ状に回転しつつ、鼻血を漫画の効果線のように噴出しながら、人間の良識にセキュリティを委ねるネジで閉める式の薄い引き戸を破壊して、戸外へとスッ飛んでいった。
 薄い引き戸が象徴した乙女の部位については、ミクシィにおいて私が作り上げようとしている清純なイメージを壊さぬよう、ここでは更に言及しないでおく。
 廊下を立ち去ろうすると、足下に抵抗を感じる。振り返れば、長く血の跡を残しながら這いずってきた簀巻きのその人物が私の両足にすがりついていた。
 「入れてください、入れてください」
 ひしゃげ、軟骨を飛び出させた鼻から大量の血を流しながら、青紫に腫れあがるまぶたを開くこともできないまま滂沱と涙を流し、その人物はさらに哀願を繰り返した。
 「そんなに俺に入れてほしいのか」
 露悪的なキャラクターで売っている私だが、実のところ根はとても優しい。弱っている者を放っておけぬ、乙女のような性質を心の奥底に秘めているのだ。
 その人物の哀れな様子に私はしばし逡巡するが、ついには優しく抱き寄せ、ずっぽりと入れてあげることにしたのでした。
(絡み合う二人のシルエットから暗転する場面)

……涙が出ちゃう

(素裸の痩せた男が、盃を掲げるパントマイムで)へへッ、こうしてここで毎晩更新してると、まるで何もかもがいっぺんに昔へ戻っちまったみてえじゃねえか。あれからたくさんの奴らがここを降りていっちまったが、お前だけはきっと帰ってきてくれると信じてたよ。ああ、お前と膝をつきあわせて更新してると、まるで本当に時間が巻き戻ったみてえじゃねえか……(卓の上へ倒れ伏すパントマイム。突如無表情で立ち上がり一歩下がると、柔和な表情を作り裏声で)あらあら、この人もすっかり更新が弱くなってしまって。最近はね、もう昔みたいに怒ったりすることはあんまりなくて、いつもあの頃の話ばかりしてるわ。本当に幸せそうな寝顔……あなたが訪ねてきてくれたのが、よっぽど嬉しかったのね……(虚空に毛布をかけるパントマイムをする)

冒頭から持ち前の演技力を如何なく発揮して申し訳ないが、昨日の日記について注釈である。現在のこの清潔な、現実の日常と寸分変わらぬインターネットしか知らぬ向きには信じられないことだろうが、当時のうんこコミュニティでの交流は表向き、はるかにアナーキーを装っており、人間の真面目さとか日々の労働の尊さとか社会奉仕の喜びとかを順繰りに指差して嘲り笑う、鬼か悪魔のような有様だった。加えて、当時のサイト運営者どうしの交流はしばしば昨日の日記のように、偽りと暴力と肛門性愛に濃く彩られたものに記述される傾向があった。現実をそのままに描けば惨めすぎるし、頭がだめなら腕っぷしでというヤンキー的な思い切りも無く、今よりははるかに男女比率が偏った界隈だったので、そういうパラノイックな倒錯した表現で満たされぬ思いを充足していたのかも知れぬ。そして昨日の日記には、誰かを傷つけたり罵倒したりしたいという願望は正味のところ九割五分くらいしか存在せず、昭和の町並みの再現を見たい老人のような、懐古的な欲求が促したゆえと言っていいだろう。

山の頂にただ一人残された孤独な王は、鉤鼻のシルエットで「なぜ満ちぬ……」と独白しながら、記述を終える。