猫を起こさないように
虚構日記 -時空の探求-
虚構日記 -時空の探求-

新宿オフ始末書

「包茎チンポ?」
ビールの中瓶を撫でさすりながら弱々しくつぶやいて右隣をうかがうも、ファンだと名乗ったはずの婦女子2名はベネズエラの描く春画に嬌声を挙げており、すでにこちらへ心を残していません。左隣ではぼくに対しては終始不機嫌だったガンジャが「ええッ、じゃあ“くろのだんしょう”(クロノ男娼? 時をかけるBL話と推測するも、詳細は不明)の作者なんですか!」と身を乗り出し、「いや、いまは猊下のいちファンとしてここにいますから」とまんざらでもない表情のオーツキが中指で眼鏡の位置を直しながらぷくぷくと小鼻を膨らませています。顔を上げると正面には小首をかしげた子鹿が子鹿のような黒目がちの瞳でこちらを見ており、ぼくはいたたまれなくなってそっと視線を外した。これは何の集まりでしょうか。小鳥猊下を歓待するオフ会ではなかったのでしょうか。十年という歳月に過去の失敗を忘れ、浮かれたネットハイで再びオフ会などを企画した一ヶ月前の自分を殺してやりたいです。いや、――うつむいて噛んだ臍から生暖かい血がアゴを伝うのを感じながら――その前にこいつらは全員まとめて呪殺だ。
◇登場人物紹介
小鳥さん……テキストサイトというムラでは大いばり、最近ではほとんどの管理者が現世での成功を手に入れて卒業していったがゆえの長老的な位置に複雑な気分。もはや新規のファンを呼ぶ力も無く、流行りの炎上でアクセス数が回復することを夢見る過去の人物。
オーツキ……プラズマとは関係ない。目の下に黒々と隈が浮いており、能条純一の某漫画に登場した「見える見えるおまえが見える」の人を想像すると近いかも知れぬ。蛍光色の頭髪にグラサンアロハ、体表はピアスで埋めつくされている、くらいを想像していたので逆にフツウで驚いた。
ベネズエラ……南米からやってきたカポエラの達人で、日本語がひどく堪能。本邦での職業にはなぜか萌え系の春画描きを選択しており、nWoにトップ画像を寄贈するなど外見を裏切らぬ精力的な活動ぶりである。既婚者らしいので、おそらく特別帰化を申請したと推測される。
黒子……ホクロではない方で読む。ブログ形式以降のnWo運営担当であり、俺が大臣なら事務次官に相当する。オフ会でさえ、事務方に徹した。「ニコニコ動画はワシが育てた」「酔わないと話ができない人もいるから」の2つを、彼がキャラクターの片鱗をうかがわせた台詞として記録したい。
どどめ鬼……百目鬼ではない。手入れの行き届かないアゴヒゲにどどめ色の上着という、外見だけで正気を疑われる逸材。それを証拠に、ガンジャと職質談義で盛り上がっていた。つごう8時間、どこから金をもらったのかという勢いでnWoを褒めまくり、逆に俺の肛門を警戒で狭くさせた。
BL学園……男子間肛門性愛話をこよなく愛するにも関わらず、nWoのファンだという矛盾を体現する謎の婦女子その1。男子と男子が正常位を行う際、肛門と男性器の位置関係はどうなっているのかという質問を準備して個人的に胸をワクつかせていたが、二次会の途中であっさり帰った。
子鹿……思想系のブログを開設し、喧々諤々の議論を展開する人物。きっと俺のペニスをSuckせんばかりの勢いで議論をふっかけられると脅え、理論武装のため開いた思想書を顔面に乗せて睡眠しながら上京したが、その心配はたちまち霧消した。1時間しかいられないと言いつつ、結局8時間いた。
県知事……似ているわけではないが、そのアクションがなぜか俺に宮崎県知事を想起させた。十年前の東京オフ会で参加を表明したにも関わらず、当日連絡なしに欠席した前回のA級戦犯。理由を尋ねると、「友だちと遊んでて、気がついたら時間を過ぎてました」。俺の怒りは有頂天である。
マコリ……nWoをほとんど読んでいないにも関わらず参加を表明した謎の婦女子その2。指輪で人妻を偽装することで小鳥猊下との対話を性交なしで成功させるも、実は現在彼氏募集中とブログで表明しており、オフ会参加男子全員の性を著しく去勢した。俺の怒りはすでにヘヴン状態である。
ガンジャ……某新興宗教の教祖にそっくりの麻薬密売人風デイトレーダー。終始不機嫌なのはリーマンショックの影響か。毛糸の帽子がお気に入りで、オーツキの大ファン。“生きながら萌えゲーに葬られ”のエンディングに対して批判的なメールを送信した人物であり、今回のA級戦犯。
ちなみに、この並びはアイウエオ順ではない。nWoへの貢献度に基づいたもので、何の恣意も無く公明正大であることをあらかじめ付け加えておく。
ぼくは極太マッキーでnWoと大書きした画用紙を掲げながら、新宿駅の東に位置する交番の前にひとり立ち尽くしていました。日はすでに暮れはじめており、都会の寒風は身を切るようにぼくへ吹きつけます。「アルタビル前は人が多いので」とのアドバイスを受けて設定した集合場所でしたが、駅からは続々と大量の人たちが吐き出されて続けています。おそらく人口過密地帯の東京では、このくらいの数は多いうちに入らないのでしょう。誰もがぼくの薄ら笑いに一瞥をくれると、足早に、まるで競歩のような速度で左右に分かれてゆきます。お笑い番組の企画か何かとでも考えているのでしょうか。あるいは、精神薄弱と思われているのかもしれません。交番を目の前にして、相当に奇矯な行為に及んでいるのではと恐れを抱いていましたが、この程度のエキセントリシティでは淫獣都市・新宿において少しでも己の存在を際立たせることはできないようです。
集合時間のちょうど15分前に、ネット耽溺が形成した何かが顔面の多くを占拠している男たちが「猊下ですね」「猊下ですね」と双子のようなツープラトン攻撃で問いかけてきたので、すっかりうろたえたぼくは右手の小指と薬指と中指と人差し指を口の中に入れて「アワ、アワワ」といった音声で返事をしたが、意外に通じたみたいで安心した。よくよく見るとネット臭以外の共通点はそんなになかったので、落ち着きを取り戻したぼくは、宮崎県知事を思わせるほうへ「どちら様ですか」と質問したのですが、すごい早口で返事をされたので「え、何?」と言うとまたすごい早口で返事をしたので、その場では神妙にうなづいてなんかわかったふりをした。のちにこの男が前回のオフ会へ参加を表明し、表明してから懇切丁寧にブッちぎるという父殺し的行為で精神的愉悦を得た人物だと判明しますが、わかってたらその場で秀でた額にワンパンくれて「ひぎぃ」と声をあげさせていた。もう一人はnWoの管理者でドメイン名とか自腹でとってくれてるファビュラスな人材だったので、周囲には後光が差し両肩には裸の天使がとまっていた。ぼくは抱きしめてチュウしてやろうかと意気込みましたが、値踏みするかのような眼光がグラッスィーズの下で異様にするどかったのでぼくはブルッてしまい、チュウはやめることにした。いずれにせよ、15分前に到着したという事実はぼくのオフレポをきっちり読みこんできたという証拠なので、2名の偏差値は飛躍的に高まりぼくを1万とすると35くらいになった。
いきなり耳元で「土日は案外ここも人が多いな」というつぶやきが聞こえたのでぼくがハリウッド・ジャンプで飛びすさると、肩ごしに振り返った視界に白いジャケットの不健康そうな男が立っていました。それは、メールでぼくが衆人環視のうちに幾度も辱められた遠因をつくった人物のオーツキだった。そして、銀のピアスがネオンを照り返してぼくの目はするどく射られたのです。両腕を上下並行にして顔面を守るポーズで「想像と違いました」と正直なぼくが言うと、眼鏡の位置を神経に中指で直しながら「いま人生で一番ファティな時期でして」と言うオーツキの様子は健康を誇示する言葉の内容とは裏腹の有様で、サラリーマン二人組がまじまじと彼を注視しながら、「どうしたンですか…御気分でも」「いえね、先日知人が交通事故で死んだんですが、それとそっくりですわ…膚の色が。あなた知ってます!? 死んだ人間って“白い”というより、蒼く透き通ってるンですわ」と言葉を交わしつつ通り過ぎてゆくほどです。なので、雑踏で強要されたすごい廉恥をレンチの顔面殴打で難詰しようとする気持ちは急速に冷え、ぼくは後ろ手に鈍器を隠してできるだけ刺激しないよう、「そ、そうなんですか」と保身にかすれた声であいづちをうつ他に方法がありませんでした。
そこへ、公開の遅れている某福音漫画映画の監督にそっくりの風貌をした男が、ショッキングピンクのスウェットに身を包み、常軌を逸脱した者だけに許される確かな足取りでまっすぐにこちらへ向かって来るのが見えました。ぼくは「東京は怖いところじゃ」とつぶやいて視線を外しましたが、案の定その男はぼくの真ン前に立ち止まり、「小鳥猊下ですね」とすごく大きな声で言ったのです。ここはネットじゃないのに! ぼくはたぶん、殺される寸前の小動物が最期にあげる鳴き声と同じ弱々しさで「はい」と答えたのではなかったかと思います。
ほどなく、手首切っちゃいました、意図的に、といった風情の女子と、はいからさんが通った後を踏みにじった、といった風情の女子が順ぐりに現れ、ぼくにあいさつをしたりいきなり触ったりしました。周囲のネット男子たちはことさらに無関心を装い、装うことが関心を裏書きするという、当人だけが看過されていないと信じるあの状態に陥っていた。ぼくは状況へ羞恥するあまり思わず下を向いた。初対面とはいえ、きっとすぐにファン同士の会話が始まり打ち解けるだろうと期待したが、ぼくを囲んで楕円形になった人々はお互いに一言も発さず寒空の下でびっくりするほど無言だった。すごい人ごみの中でネット臭のする人材たちが車座になり、その中心が自分であるという事実に悶絶しそうになりました。ぼくは沈黙に耐えられなくなって、手首を骨まで切った方の女子に「えっと、あのピンクの上着の人、実はエヴァンゲリオンの監督ですよ」と冗談めかしてどどめ鬼を指さすと、「ええッ、本当ですか!」と意外に大きな反応が返ってきたため、ぼくはいまさら嘘だと言えなくなってしまい、「破ではアスカを殺すんですよね、監督?」とノリツッコミをうったえる視線でかぶせると、桃色の関東人が怪訝な表情で首をかしげたので、ぼくは自分の家が大金持ちだと自慢した小学生が次第にエスカレートする己の嘘に追いつめられてゆくような絶望に身をよじったのです。
そして、大きなラジカセをブレイクダンスの両足で蹴り上げながらやってきた明らかにDNAが南米の男により集りのグローバル感とサンバ感は強まり、唇を動かさないまま「ガンジャあるよガンジャあるよ」とつぶやきながらやってきた教祖風の男という加速装置を得て集りのアンダーグラウンド感とクライム感はいっそうに速まった。むしろ、ぼくがオフ会の実施を表明したことが早まっていた。
あと一人こないなー、と思っていたらこの都会の雑踏の中で、ボクとカレだけが天然色で、他の全員はみんな灰色とでもいうようにからみあう二つの視線。それがオフ会参加者最後のひとり、子鹿とボクの出会いだった。
ぼくがキリッとした表情と文体で「アングラサイトのオフ会なのだから、アングラ系の店で」とどどめ鬼に予約を依頼しておいたのに、案内されたのは極めて一般的な居酒屋だった。安普請に前後左右の音声は筒抜けであり、冒頭のような猥語を伝達するのに社会性の最高に高いぼくは小声になった。そこへ、場末の居酒屋特有の客層が織り成す低劣な雑音があいまって、ぼくの小声は最高に聞き取りにくい状態になって、ぼくは自己への嫌悪とどどめ鬼への憎悪で死にたいと殺したいが二重で同時に訪れたので目を白黒させました。
死体遺棄現場の刑事たちのようにテーブルを眺めたまま誰も座ろうとしないので、わざとらしく「どこが上座かなー」などと発話しますも、ネット臭ふんぷんたるチェリーボーイどもは薄ら笑顔を崩さないまま、誰もぼくに席を勧めようとはしません。すると突然ベネズエラが流暢な日本語で「シャチョサンノセキハマンナカネ」と発話したので、ぼくは非常に驚きながらも「ソ、ソリー、アイシットダウン(表記:”So sorry, I shit down.” 和訳:「とてもすいません、私はうんこをします」)」と流暢な英語で発話して真ん中に座りました。するとマコリがぼくからいっこ空けて座り、すかさずガンジャが太いのをぼくとマコリの間にねじこもうとして、そんな太いの入らないと拒否られ、ぼくの反対の隣に不機嫌に座りました。現実では気を遣う性質のぼくが傷心のガンジャをなぐさめる意味でそのたくましい膝を撫でさすりながら「見てくれ。nWoをどう思う?」と尋ねたら、まるで街頭で宗教的なアンケートを求められた人のような、一種異様な素っ気なさで「いや、面白かったですよ」と過去形で返答したので、本当のことを指摘されると人は怒るの法則でぼくのブレイブハートは怒髪天を突いた。表向きは「ハハッ、ワロス」などと巨大掲示板から仕入れた今風ヤングの発話で平静を装い続けたが、ぼくのブロークンハートは血と涙にてらてらと濡れていました。
いつのまにかぼくとマコリの間に細いのをねじこんだBL学園が、熱くたぎった密壺から良く煮えた貝を箸でつまんで「これ見て下さい」と言うので、相手の望むボケを裏切らない関西人のぼくは「イット、ルックスライク、膣」と流暢な英語で発話すると「共食いですね」と得意げに、金髪のわりには流暢な日本語で発話しました。そんな三次元世界から垂れ流される濃密な廃液、いわゆる萌えの原液にチェリーボーイどもで形成された戦線は乱れかけた。しかし、どどめ鬼だけが「きたない、さすが三次元の女きたない」と言わんばかりの心底不快そうな表情ひとつで戦線を維持してのけたので、ぼくは、こいつは本物だぜ、個人的に近寄りたくはないがな、と内心思った。
ビールでのまばらな乾杯と散発的な発話があったのみで、気まずいまま宴は進行していった。最初に気つけで空にしたマイグラスの底はすでに渇き始めていたが、誰も積極的にそれを満たそうとはしませんでした。隣の婦女子たちはもはやケータイ遊びに夢中ですし、対面の子鹿は子鹿のように黒目がちな瞳で小首をかしげ、ただぼくを見つめるばかりです。個人主義の押し詰まった魔都・東京では、手酌が基本なのでしょうか。ぼくを歓待するオフ会のはずなのに! ぼくは一縷の望みをかけて、弱々しい声で「秒速5センチメートルでー」と発話しながらビール瓶へ極めてゆっくりと手を伸ばしたのですが、誰も気づいた様子はありません。絶望的な気持ちになりながら必死に声を張りあげて、「秒速5センチメートルでー」と再び発話しますと、どどめ鬼が「ああ、あれ最悪ですよね」と非常な早口でかぶせて来、己の意図が正確に伝わらない絶望へ拍車をかけたのです。たまらなくなってうつむいたぼくは、眼球からの体液でしっとり濡れた卓へ影が差すのを見ました。顔を上げると、ベネズエラが「シャチョサン、イッパイイクネ」と浅黒い肌へのコントラストのせいか、ひどく輝いて見える真白な歯を誇示しながら、いささか乱暴なやり方ながらマイグラスへビール瓶を傾けました。なんという如才の無いガイジン、あるいは婿養子でしょう。しかし他人を見下さずにはいられないぼくの高貴な性向はその酌を受けながら、ラベルを下に向けて片手でつぐような礼儀の無さは、ぼくの最高に高まった社会性とつりあわないなと考えさせた。
県知事が時折、てんかん発作を疑わせる激しい仕草で笑いながら倒れこみ、周囲へ多大な迷惑となっており、BL学園とマコリの向ける視線は明らかな生理的嫌悪と侮蔑に満ちていた。県知事の笑い声は黒ベタ白ヌキで「ギャヒーッ!!」であり、熱湯風呂から飛び出して床を転げまわっていた頃の宮崎県知事を想起し微苦笑を浮かべていると、県知事は黒い何かに覆われた太くて固いものをぼくにしきりと押しつけて、「この処女雪のような純白を汚すんだ、お前自身の手でな」と強要しました。ぼくがごめんね、ごめんね、と言いながら純白の表皮をわずかに汚すと、特殊性癖の県知事の興奮は最高潮に高まり、一度汚れればあとはいくら汚れても同じと言わんばかりにみんないっせいにそれを汚しにかかったので、ぼくは素面でいることが辛くなって店員に赤ワインを注文すると、黒子と子鹿が無言のまま「わかります、ルネッサンスですね」という表情を見せたので、ぼくの表情はたぶん曇りました。
そして、冒頭のやりとりに話は戻るのだった。加えて、ベネズエラがエルフと関わりがあった旨をさらに発話し、数名がどよめいて、わずかに漂っていたぼくへの関心の残滓は永久に虚空へと失われました。くやしいけど“かたあしだちょうのエルフ”は、ぼくも傑作だと認めています。三十年以上も前に亡くなった小野木学先生と面識があるなんて、嫉妬を通り越してむしろ羨望をしか感じません。詳しいことを聞きたかったのですが、瞬発力に欠けるぼくがおろおろしているうちに、ぼくの知らない小野木作品であるドウキウセイツウ(童貞精通? 同衾生活? 表記は不明)に話題が移動してしまっていたので、ぼくはただお得意の薄ら笑いを浮かべることしかできなかった。ぼくの大切なレゾンデートルはこの時点で死亡した。
しかし、まだだ、まだ終わらんよ。このままでは何のためにオフ会を招集したのかわからない。そう考えたぼくは、極限まで追いつめられた上京もとい状況で、なお尽きせぬ己のパロディ気質に励まされながら、万勇を鼓して参加者全員に問いかけたのです。それはびっくりするほど甲高い、この陰鬱な集まりでぼくが発した数々のうめきの中からようやく意味のある大きな声となって、みなさん、ぼくの更新の中で印象に残ったフレーズを教えていただけませんか、と響きました。それぞれの会話に没頭中だった人々はびっくりしたようにぼくを見、これがぼくを囲むオフ会であることをいまようやく思い出したふうな表情をした。
「あー、パーやんのエンディングの、『いつか愛が誕生するだろうか?』かな」
それ、ぼくじゃなくてトーマス・マンです。あとタイトルが間違ってます。パアマンです。
「祈りの海の最後の一節です。『それでは生きるのがあまりに辛くありませんか』」
グレッグ・イーガンです。それはグレッグ・イーガンが書きました。
「『君は激しく勃起したな』」
……大江健三郎からの引用ですね。
「うーん、じつはあんまり読んでません」
なんでここにいるんだ、オマエは。男あさりか。
全員がうんざりした、もういいですか、という表情をしたので、ぼくはうつむくことで、もういいです、という気持ちを表現しました。うなだれたぼくの後頭部の真上でオーツキとベネズエラが名刺交換を始め、この集まりに意味づけをしようと必死だったぼくの方寸にどよもす騒擾は、ようやくにして止むを知ったのです。ああ、今回のオフ会はエロ業界に生息するこの二人を出会わせた触媒としてのみ、後の世に記憶されるのだな、と。残念、ジョショ(徐庶)の奇妙な冒険はここで終わってしまった!
すっかり意気投合したみなさんが大盛りあがりで二次会へと移動していく後ろを、ぼくはとぼとぼとついてゆきます。二次会が提案されたのは、関西人的痩せ我慢のええかっこしいで、誰かが止めてくれると半ば期待しながら「ここはぼくが払います」と発話するとそれまでぼくの発話すべてを聞き流していた人々がいっせいに会話を中断して、「なに当たり前のこと言っちゃってんの?」という爬虫類のような視線をぼくへ向けたからです。もはやこれは「おい、猊下、ジュース買ってこいよ」の世界であり、求められたのは小銭と紙幣でみっしり充填されたぼくの蜜袋であることが痛感され、繁華街のネオンは水中から見るように滲んだのでした。
ネット臭ふんぷんたる陰鬱な会合へ、終電のある時間帯に見切りをつけた婦女子2名が「じゃ、これからもがんばってね」「感想送るから」と心にもないお義理の発話をしながら退出すると、ほどなくベネズエラがそわそわし始め、「ソロソロカエラナクチャ。オクサンコワイネ。リコンサレタラ、ニホンイラレナクナッチャウ」と告げるが早いか上着をひっつかんで駆け出していきました。察しの良さだけで世渡りをしてきたぼくは、南米の血が持つ奔放な性への志向をうらやむと同時に、こんなアングラサイトのオフ会に参加を表明しておきながら、一瞬でも無事な貞操と共に帰宅できることを夢想した婦女子2名の愚かさが粉々に砕かれることへ、心中、喝采を送ったのです。ぼくはサイトの更新が示すようにエロゲー愛好なので、自分ではない剛直に秘貝が原形を失うことに何より興奮を覚える性質なので、沸騰した欲望にぼくの目は赤まった。なに、泣いてるの、とでも問いたげに子鹿が首をかしげてぼくを見ましたが、そんな猥劣な内心を悟らせることで子鹿の純情を汚すのははばかられたので、ぼくは長い睫毛をふかぶかと伏せた。
そして、この陰鬱な宴も――もしそんな瞬間があったならばのことですが――たけなわを過ぎ、気がつけばぼくは一人で狂躁的にしゃべり続けていた。どどめ鬼がレンタルビデオ店(おそらくAVコーナー)で数名の警官に取り囲まれたときにそうだっただろうギラギラする眼差しでこちらを見ており、黒子が「この人物は果たして忠誠に足るや足らざるや」といった値踏みするグリコ犯の眼差しでこちらを見ており、子鹿が小首をかしげ何を考えているかわからぬ子鹿のような濡れた眼差しでこちらを見ており、秀でた額を脂で輝かせながら県知事がぼくの許可を得ないままぼくの動画撮影をはじめており、徹夜明けで月曜に締め切りが2本あると言っていたオーツキは腕組みしたままの半眼で涅槃に魂を浮遊させており、ガンジャは先ほどオーツキの隣で活き活きと話をしていたときの様子とはうってかわった倦怠ぶりで机につっぷしたまま動かなかったからです。話せども話せども場の空気は冷えてゆくばかりで、ぼくを歓待する会だったはずなのにぼくをエンターテインさせようとする人物はもはや一人もいませんでした。無理もありません。ここで行われているのは、対等の知性がする軽妙な会話のキャッチボールではなく、舞台の芸人が面白ければ笑い、面白くなければ席を蹴る、あの場末の演芸場のやりとりだったからです。それを証拠に、わずかの沈黙を縫うようにして、つっぷしていたガンジャが無言で上着を着始めたことが散会の合図となりました。小便というよりは涙を排泄するためのトイレを済ませて店を出ると、もはやそこには誰もいませんでした。地方在住の人間が深夜の歌舞伎町に取り残される気持ちがいかなるものか、説明してもきっとおわかりいただけないでしょう。恐怖と憤りがぼくを疾駆(sick)させました。すでに排泄を済ませたはずの涙袋から、再び止めようもなく涙が盛り上がり、そしてスローモーションで風に運ばれてゆきます。
来るんじゃなかった、東京。やるんじゃなかった、オフ会。
誰かがアテンドしてくれることを期待していた東京観光(興味が無いふうで連れ込まれる秋葉原のメイド喫茶、といった甘い夢想!)はもはや煙と消え、ぼくは始発の新幹線で頬袋をシュウマイに充填させつつ帰阪するのでした。
諸君、ガンジャは2回、残りの連中は全員1回ずつ呪殺である旨をここに宣言する。

痴人への愛(2)

「いいお湯だったねえ、おまえさんっ」
 底抜けに無邪気な声音に、ふとつられてふりかえった。
「あんまりはしゃぐとあぶないよ」
 洗面器を小脇にかかえた女の子が、楽しそうにくるくると回る。苦笑しながらかたわらでいさめているのは、兄だろうか。両目が隠れるほどに前髪をおろしている。上着を脱ぐと、さりげない仕草で女の子の両肩へと乗せた。たちまち不満そうに口をとがらせるのが可笑しい。
「もう、保護者きどりなのね! そんなカッコじゃ、寒いでしょ」
 タンクトップから健康な二の腕がのぞいていた。春が近づいたとはいえ、夜の大気はまだ冷たい。
「このくらいなら、へいちゃらさ。大陸はもっと寒かったからね。それより、――に風邪をひかせて、あとでお父さんにしめあげられるほうがこわいよ」
 めずらしい名前だったが、一回では聞きとれなかった。とたん、ころころと鈴のような笑い声がひびく。
 もし、きょうだいでないとすれば、輝くばかりの桃色に染まった頬は、湯ばかりが理由ではあるまい。なつかしい、痛いような気持ちが喉元へこみあげた。なんとなく立ちつくしたまま、この幸せなやりとりをながめる。
 ふたりの後ろ姿が曲がり角に消えると、コーデリアは寒さを思い出したかのように襟元を寄せた。小鳥尻とのあいだにも、たしかに蜜月はあったのだと思う。また、あんなよろこびはやってくるのだろうか。
 問いかけるように顔を上げた先に、答えが見えた。カーブミラーに映るゆがんだ鏡像は、すでに百年もうみ疲れているようだった。
 そして、先ほどの女の子はもしかすると、じぶんとそれほど変わらぬ年齢かもしれないと思いいたり、コーデリアは身内に真冬のような底冷えを感じたのである。
 小鳥尻が一週間ぶりにもどるというその日、コーデリアは近所の銭湯へ出かけた。もともとあまり汗をかかない体質に質素な食生活があいまって、風呂の無いアパートでの暮らしは苦にならなかった。ときどき、小鳥尻が酒を割るさいあまらせた湯で身体をふいた。
 切りつめた生活のなか、正直かたちに残らない三百円の出費は痛い。しかし、久しぶりに帰宅する恋人に、最良の姿を見せたいという想いがまさった。つまるところ、失望されたくない、捨てられたくないという共依存が、ふたりの関係へ力学として作用しているのだが、幸いにもというべきか不幸にもというべきか、コーデリアはそれを言葉にできるほど賢明ではなかった。
 オレンジ色に射す西日の中で味噌を溶くと、鍋からふわりと暖かさが広がる。この、幸福に満たないぬくもりをコーデリアは愛した。むくわれて然るべきと感じられるこのささやかさが、願いのはかなさによくみあうからだろう。
 卓上の夕食はいつもより一品、菜が多かった。小鳥尻の帰宅は、すべてが冷えてからだった。案の定、ひどく酔っていて、そして舞台にいるときのように上機嫌だった。
「ごめんね、昔のファンが集まって、宴会になっちゃってさ……でもすごいのよ、もう大盛りあがりで、私ひさしぶりにすごく楽しくって」
 玄関でひさしくなかったような熱い口づけをすると、コーデリアに菓子袋を押しつけた。
「ファンのひとりにもらったの、すごく上等なお店のケーキなんだって」
 袋には、大量生産で有名なチェーン店のロゴが刻印されていた。だまされているのか、だまそうとしているのか、コーデリアにはわからなかった。気が高ぶらぬよう、声がかすれぬよう、ゆっくりと唾を飲みこんでから、言った。
「お水くんだげるから、座ってて」
 蛇口をひねると、白く濁った水道水がプラスチックのコップへ満たされてゆく。この上機嫌は良くない兆候だ。こころはまるで振り子のように、上がったぶんだけかならず下がる。なぜみんな、そっと静止させておいてくれないのだろう。
「もうすごいのよ……みんなずうっと私のことをほめてくれてね、アンタはすごい芸人だって、大好きだって、愛してるって……だから、うれしくなってね……みんな私のオゴリにしちゃった……」
 語尾をひそめてうかがい見るのは、やはりすこしは後ろめたいからか。おそらく酒が言わせたのだろう、ファンと名乗る人物たちの無責任な発言を、コーデリアは呪いたいような気持ちになった。ふだんは臆病で人嫌いの小鳥尻なのに、どういうわけか己を肯定してくれる言葉だけはびっくりするほど素直に信じこんでしまう。
 わずかばかりを節約したところで、破滅への秒読みはいつも大幅に繰り上げられる。コーデリアはじっさい視界が狭まるような錯角を感じ、わずかに首をふった。やさしくて純粋なこの人は、左右からふたりを圧しつぶそうと迫る絶望の壁へさしわたすつっかい棒が、この世に金銭しかないということがわからないのだ。いっしょにいられるなら死んでもいいと思ってついてたきたはずなのに、いざそれが現実的な結末として近づいてくると、なぜこんなにも悲しくてつらくて、胸が痛むのだろう。
 後れ毛をはねのけるふりで、そっと目尻をぬぐう。笑顔を作ってふりかえったところで足に力が入らなくなり、コップを抱えたまま膝からその場にへたりこんだ。
「怒ったの? ねえ、怒ってるの?」
 小鳥尻は台所の板敷きに正座する形のコーデリアへいざり寄ると、膝に顔を埋めて腰へ手をまわした。コーデリアは思う――この人がじぶんからやってくるのは、だれかにゆるしてほしいときだけだ。
「でも、聞いて! 集まりに局の人がいてね、十年も同じ芸でもつのがすごいって言ってくれて……で、私の芸はあんまりすごいから、いっしょに仕事してみたいって。だからきっと、またテレビに出られるわ……そうしたら、こんなアパートひきはらって、ふつうの人みたいに……」
 小鳥尻の声はそこで小さくなっていった。
「ねえ」
 ――落ちる。
 コーデリアには次の言葉がもうわかっていた。こぼさぬようコップをかたわらへ置くと、広い背中をさすってやる。
「死のっか」
 魅惑的な負の演技に引きこまれぬよう注意しながら、じゅうぶんな間をとって、言った。
「テレビ、出るんでしょ」
「出れるわけないじゃない」
 驚いたことに、小鳥尻は即答する。妙にきっぱりとした口調だった。
 しかし、続く言葉は夢見るようにかすんだ。
「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」
「うん、うん」
 小鳥尻の求める愛は、無条件の愛だ。赤子が母親に求めるような、本人にとっては生命の存続にかかわる重大な愛だ。けれど、この世のだれがその重さを引き受けてくれるというのか。
「でもね、私わかってるの。それは祈りみたいなものなの。いつもかならず、裏切られるの」
 コーデリアは黙って背中をさすり続けた。
「昔ね、みんなが私を見て笑ってるときにね、いま心臓マヒとかで死ねたらなって、よく思った。だれか、私の芸でみんながいちばん盛りあがってるときに、撃ち殺してくれないかな。みんなが私だけを見て笑ってるときに、うしろからぱぁんって」
 まばたきすればこぼれそうで、コーデリアはただやさしく目を細めた。
「じゃ、こんどテレビ出たとき、殺してあげる」
「うん、殺して。きっと殺してね」
 曖昧な、子どものような口調でそうつぶやくと、小鳥尻はそのまま眠りに落ちた。
 月光が照らすその横顔は、死人のように青白かった。きっと、小鳥尻という存在はとうの昔に死んでしまっているのだ。人工呼吸器につながれた脳死患者のように、むなしい希望を永らえさせているだけなのだ。
 だが、またひとつの危うい瞬間を乗りこえ、小鳥尻の生命を明日へとつないだことに、コーデリアはある種の満足を覚えているじぶんに気づいた。そしてそれは、ひとつの決意へと昇華する。
 この人の、最期の瞬間を看取る。できるだけ長く、小鳥尻を生かしてやろう。
 そう、まるでひとつの季節をしか生きない昆虫が、虫かごという牢獄で越冬するように。

少女保護特区(9)

 私のために殺すとき、心は痛まない。誰かのために殺すとき、心は痛む。
 黒く巨大な影がゆっくりと顔をあげた。誰かの――もしかすると自分の――悲鳴を聞いたように思ったからだ。それは、震える音叉の右と左が否応に伝えるような、剥き出しの、痛覚さえ伴う共鳴だった。
 近づいている。私の魂と同じ色をした魂が近づいている。あれは、私が喪失してしまった片翼だろうか。
 いや――
 あの色合いは似非だ。あれは煤の集積した黒に過ぎぬ。拭えばたちまち黄疸のような、濁った地金を晒すに違いない。一人や二人多く殺したところで何も変わらぬ。家族の血でさえ、私にとって特別ではなかったのだから。
 そこまで考えて、心臓と胃壁を細く刺し貫くような違和感に気づく。久しぶりの感覚だった。仁科望美はその正体を知っている。それは、孤独である。悲しみも痛みも超越し、恐怖を己がうつし身とした。しかし、最後に残るのは、やはり孤独なのか。
 孤独は心を惑わせる。どんな強靭な精神も孤独に迷う。だが、孤独が他者へと向かう感情ならば、己よりも劣った相手へは生じぬはずだ。人間すべてを殺害できるのならば、行き先を失った孤独は、きっと霧消するに違いない。
 最初の少女が殺し続けることに何か理由があるとするならば、まさにこの歪な哲学こそがそれであっただろう。
 近づいている、近づいている。
 知恵と本能が渾然となった仁科望美の意識は、愉悦をもって目蓋の無い瞳をぐるりと回転させた。
 あれを殺害せよ、必ず殺害せよ。あれが私よりも劣っていることを証明しながら、入念に殺害するのだ。
 ものを作ることはものを壊すことと同じである。無限のような繰り返しのうち、最初に生じた意味を消滅させることで、それは完成する。ものを作ることの終着にあるのは、完全な無化だ。
 ――これ以上は無理です!
 叫び声が、予を思索から現実へと引き戻した。
 ローター音の下で、操縦士の声はほとんど悲鳴である。無理からぬことか。ランキング二位の少女殺人者を一位の元へ同道する仕事なのだ。孕みきれず結露した死が眼前へ滴り落ち、複数の死を一時に求めえぬ人の身は、汚辱を伴った残虐さが支払いの代わりになることを否応に予期するのだろう。
 ――もう少し近づいてください。姿の見えるところまで。
 精気の無い声。振り返れば、予の少女が日本刀を膝へ横抱きにして座っていた。視線はまっすぐ前を見つめているが、その実どこにも焦点がない。
 しかし、操縦士に湧き上がった感情は、予とは異なるものであったらしい。とたんに背筋を張り、操縦桿を握る指の関節は白くなった。
 ヘリは、次第に密度を濃くするようにさえ思える大気を裂いて、大和川上空を通過する。一年前の予は、少女殺人者とこれに乗る未来を予想していただろうか。青少年育成特区における観察対象、すなわち少女殺人者の動向を探るために導入された対少女哨戒機である。特区の成立に際して国から格安で払い下げられたが、メンテナンスにかかる費用は地方自治体の収入でまかなわれており、いまや相当度に老朽化していた。
 仁科望美を殺し、青少年育成特区を終わらせる。予と予の少女が得た結論には、一種の高揚感があった。だが、その感情的な側面は一人の少女にとっての最善を曇らせてはしまわなかったか。そして、予は本当にこれを望んでいるのか。
 成体までの被支配の歳月が、自立というよりは支配を求める人間の基本的な性向を決定する。最良の支配者、究極の王政が常に民主政を上回るように思えるのは、初源の不可避的な無力状態に起因している。人類がイデオロギーの呪縛より逃れるためには、まず何より幼年期の時間を消滅させる必要があるのだが、生物学的な事実がそれを妨げる。ゆえに、社会は個人に先行できない。個人の世界観は幼少期の感情生活によって致命的に影響され、それは成長して以後の価値判断を予め決定してしまうからである。卵と鶏の議論よりも明白な結論だ。この意味で予は運命論者にならざるを得ない。
 しかし、これは人の歴史が抱え続けてきた大前提を確認するに過ぎず、改めて指摘すべき内容とも思われぬ。近代の抱える新しい問題とは、かつてなら養育する者とされる者の間へ侵入して運命をゆらがせた外的な要因が薄まり拡散してしまったことにある。幸福は家族に矮小化され、不幸は世界へと巨大化する。
 家族へ背をむけ、世界を破壊する。仁科望美の殺害は象徴なのだ。これは、時代に向けてする予の復讐である。
 たどりついた結論を打ち消すために、予はかぶりを振って窓の外を眺める。眼下の大和川に、以前仮居していた橋桁が見えた。河原では、やはり何者かが炊事の煙を上げている。あれは自分か、自分はあれか。視界が倍率を上げるような没入の感じがあり、続いて自己が二重になる錯覚が生じた。茫洋とした、特徴に乏しい人影が立ち上がり、こちらへ手をかざす。この距離で視線が交錯するはずはない。しかし一瞬、痛ましい輝きを宿す瞳を覗き込んだ気がした。
 現実を直接手触りするときのざらついた感じに嫌悪感を覚え、予はそれを避けるように予の子飼いを眼前へと掲げた。思えばビデオカメラとは、意識の不滅へ捧げる信仰に近い。対象が消滅した後も、己の意識は存続しているという確信がなければ、撮影を行う意味がない。現在という熱を過去へ冷却し、対象の実際を越えることを願う。すなわち、撮ることの本質とは対象の消滅を祈願することである。
 予はそれの消滅を強く願いながら、録画ボタンを押す。RECの赤い文字が点滅すると、炊事の煙だけを残して橋桁はすぐに無人となった。
 付近の山林より、それは出現する。予の認識は最初、縮尺が狂っているのだと判断した。前傾した姿勢で、すでに電線へ届くほどの大きさである。しかし、両手が膝頭の付近にまで垂れていることをのぞけば、滑らかな曲線で構成された肢体は、未成熟の少女そのものであった。最初にして最強の少女殺人者、青少年育成特区の生まれいづる処――仁科望美である。
 ヘリの接近に気づいたのか、ふいにこちらへと顔を向けた。柔らかな卵型の輪郭の内側で、目蓋と唇だけが無い。予にとってこれは二度目の邂逅になるが、前回は宵闇のうちであった。すべての魔術を解く真昼の陽光の下で、なお仁科望美の異様さは少しも減じるところがない。
 突然、操縦士が許可を得ぬまま、ヘリの高度を下げ始めた。真っ赤になった両目と青ざめた頬が絶望のコントラストを成す。もはや背後からの圧力よりも、眼前の怪物から来るほとんど有形の恐怖に屈したのである。予は予の不快を伝えようと操縦士へと向き直った。
 ――だいじょうぶです。もう、いけますから。
 だが、予の少女は静かに予を制止する。不快の正体は、操縦士の動物的な本能が予の少女よりも仁科望美の力を大きく見積もったところにある。予は不承不承うなづくと、足元の荷を接近する道路へと投げ下ろす。続いて、予と予の少女は、ホバリングに空中静止する哨戒機から共に飛び降りた。転倒する予を尻目に、予の少女は重さのない羽毛のように着地する。瞬間、足元が黒い影に覆われた。
 人の姿をした、人ではない何かが、上空より急速に予の視界へと迫る。目蓋の無い錆び色の瞳。甲殻類にも似た、生命からの共感を拒絶する濡れた質感。削げ落ちた唇は、赤黒い乱杭歯を隠さない。脳頂から差し込まれた恐怖が、すぐに諦念となって全身を呪縛する。狩られる者が狩る者に対して身を開くときの、あの麻痺だった。
 しかし、予の少女もまた、狩る者である。左手で荷をすくいあげながら、その勢いのまま予の腹へと右肩を差し入れ、跳躍する。巨大な少女は飛び立ちつつあった哨戒機を荒々しい陵辱のように両脚で挟み込むと、地面へと叩き伏せた。落下の衝撃と単純な質量へ耐えかねたフレームは、玩具のようにひしゃげる。
 一秒を引きのばす長い静止と、爆発。遅れてやってきた爆風が予の少女の陣幕をはためかせ、背後に吹き上がる炎は小柄なほっそりとしたシルエットを際立たせる。その表情はすでに、これから起こる殺害を疑わない少女殺人者の冷徹を湛えていた。予の少女は、何をすべきか迷わない。足元の荷を素早くほどくと、幾振りかの日本刀を取り出す。予の政治力が日本刀町に現存する業物のうちから最良の七本を蒐集したのだ。これらは、仁科望美を殺害するために準備された凶器である。
 予の少女は鞘を払うと、七本の刀を順に道路へと突き立ててゆく。少しも力を込めていないようなのに、抜き身はまるで熱したナイフのバタを裂くが如く、やすやすとアスファルトへ突き刺さる。やがて、予の少女の背を取り巻くように、刃の青白い半円が形成された。
 黒煙の中から現れた最強の少女が、天を仰いで咆哮する。火傷ひとつ無い。炎では、その肉を焼くのに冷たすぎたのだ。赤子の泣き声を逆回転でスロー再生したような、重く低い叫びが大気を震わせる。叫び声は音波となり、音波は物理的な衝撃波と転じて、左右に立ち並ぶ民家の窓ガラスを粉砕しながらこちらへと迫る。
 しかし、抜き身を片手にした予の少女は微動だにせぬ。まさか受け止めるつもりか。いや、背後に予が控えているせいで、回避できないのだ。正眼へ構えた日本刀が、衝撃波を左右に分かつ。予と予の少女が立脚するのは、さながら氾濫した激流の最中に残る中州だ。
 澄んだ音を立てて鋼鉄の刃が折れると同時に、激流は途絶える。四足に身を屈めた仁科望美が、長い前腕を地面に叩きつけて移動を開始したのだ。その速度は、見かけからは想像できぬほどに速い。
 予の少女が予を見、予はこめられた意図を感じとる。この戦いに、予は足手まといだ。だが、南北の街路へ東西に壁の如く差し渡す巨大な少女を前に、避ける場所などあるはずがない。予の思考は停止する。しかし、予の少女は判断を迷わなかった。新たな抜き身を口にくわえ、さらなる二本を左右へつかむと、東の民家へと駆け出す。目蓋の無い眼球が予の少女を追う。それは、フェイクだった。
 次瞬、ブロック塀を蹴って間逆へと跳躍した予の少女は、仁科望美に生じた死角へと身を投じた。二本の刀を交叉させると、右の手のひらをアスファルトへ縫いつける。突然に支点を得て、おそろしく巨大な臀部が回転しながら滑り、いくつかの家屋をなぎ払うように粉砕する。
 そこへ砂煙を裂いて、茶色に塗装された消防車が猛然と飛び出してくる。瞬間、予の身体は浮き上がった。軽い衝撃を感じた後、予はランブラーの屋根に横たわる己を発見したのである。傍らでは、死体処理用の手鉤をかつぎ、やくざに紫煙をくゆらすツナギ姿の妙齢女性が予を見下ろしている。
 ――やあ、アンタだったのかい。死体を釣り上げたかと思ったよ、あたしゃ。
 予が予の少女の観察員となって間もない頃、予の少女によって行われたいくつかの少女殺人に立ち会った清掃局の職員である。一年以上を経てなお、予を予と認識できたのは、よほど予の発する何かが特別であるのに違いない。
 ――まさか、二人とも生きてるとは思わなかった。まったく、あれから何人殺したのやら。
 家屋の残骸から、巨大な少女が立ち上がりつつある。左手から滴った血が下水へと流れこんでゆくのが見えた。殺せる。この生き物は、人類が殺せるのだ。
 仁科望美がうろうろと周囲を見回す。敵を見失ったのだろう。その背後に、抜き身を片手に電柱の上へ直立する予の少女がいる。半円を描くようにゆっくりと刀を正眼へと戻す。終わりだ。
 ――けどね、今回ばかりは相手が悪すぎるよ。
 吸い口を噛み潰しながら、清掃局員は厳しく目を細める。何を言っているのだ。いま、勝利は正に達成されつつあるではないか。
 音もなく宙に身を躍らせる予の少女。呼応するように、仁科望美が振り返った。唇の無い口腔が歪む。笑っている。知っていたのか。回避行動の取れない空中へ、狡猾な演技で標的を誘い出したのだ。
 頬が膨らみ、右腕が鞭のようにしなる。群がる蝿に牛の尻尾がするような、無造作な一撃。しかしそれは、蝿にとって致命的である。
 予の少女はたちまちアスファルトへと激突し、大きく跳ねた。そして、動かなくなる。予は、接触の瞬間に予の少女が身を屈めるのを見た。衝撃は吸収されたはずである。ただ、信じるのだ。殺戮の日々が積み上げた予の少女の強さを信じるのだ。
 ――あー、こりゃ死んだかもね。
 霊柩車にもたれかかりながら紫煙をくゆらせていた清掃局員は、煙を吐き出すのと同じような無感動でつぶやく。言葉に状況を確定させまいと息を潜めていた予にとって、その発言の無神経さは容認しがたかった。予は清掃局員をにらみつける。こめかみに白い切片を貼り付けた妙齢の女性は軽く首をかしげ、目を細めた。
 ――出歯亀ぐらいに観察員なんて名前をつけて、全く連中どもはいけすかないが、その目を見る限り、もしかするとあんたは少し違うのかもしれないね。増岡ってんだ。紀の川水系を担当してる。あと数分ばかりのつきあいだろうが、よろしく頼むよ。
 皺がれた片手が差し出された。予は無言のままとりあわず、予の少女へ向けて再びビデオカメラを構える。予の少女は地面に倒れ伏したまま、微動だにしない。
 ――嫌われたね、こりゃ。まあ、お互いにするべき仕事をするだけさ。
 増岡は、わざとらしくため息をつく。その間にも、仁科望美は腰を屈めるようにして、予の少女へと近づいてゆく。偽死を警戒しているのか。小柄な両肩はもはや上下しておらず、折れた刀をつかんだ右手は力なく垂れている。ノイズのような眩暈。撮影することは、対象の消滅を願うことである。ならばいったい、この行為が何を引き起こすことを望んでいるのだろう。
 ゆっくりと振り上げられた右足の影は、予の少女をすっぽり覆ってしまうほどに巨大だった。それが小さな身体を圧し潰さんとする正にその瞬間、予の少女は劇的に横回転して危地を脱する。そして、アスファルトを鞘にした抜刀術で、抜きざま右足へと斬りつける。しかし、狙いが充分ではなかった。分厚い爪に阻まれ、わずかばかり肉へ切り込んだところで刃はふたつに折れる。
 予の少女は新たに刀を引き抜くと、大きく後ろへと跳びすさった。仁科望美に訪れた変化が、次なる攻撃を躊躇わせたのだ。
 ――二度も傷つけられた。あの化け物の自己愛にゃ、充分すぎる打撃だろうね。
 つぶやいた増岡の横顔には、軽口の様子からは遠い深刻さが浮かんでいる。
 ――あの身体に肺呼吸じゃ、実際、動くのもままならんわね。ここからがアンタたちにとっての本番ってわけさ。
 それは、極めて生理的嫌悪に満ちた変化だった。肩口から背中の上面が波打ち、隆起する。少女が、少女の持つ柔らかさと滑らかさをそのままに、正体不明の皮膚病に侵されていくのを早回しにするような眺めである。
 ――さしずめ、エンジンを積み替えてるってところか。
 やがて仁科望美の上半身へフジツボ状の突起がびっしりと並んだ。外観とは似合わぬ柔軟さで、それらは収縮を繰り返している。肥大した上半身は細身の下半身と異様なバランスを成し、突起に押される形で首は地面と水平に曲がっている。これが、殺し続けてた者の本性なのか。それはもはや、人の戯画へと堕していた。
 かつて少女殺人者だったものの成れの果て――人類に仇為す巨獣である。
 その背中に、小型の竜巻のような気流が発生する。肩越しの景色が陽炎の如くゆらいだかと思うと、突起からゆらゆらと褐色の気体が立ち上り始める。清浄な吸気は、糜爛した呼気へ。緩と急、二つの動作をあわせて、それは呼吸しているのだ。予は息苦しさが増した気がして、思わず喉元へ手をやった。
 巨獣は突如、予の少女へと風を巻いて襲いかかる。小動物の敏捷性を備えた鯨を思わせる、ほとんど物理法則を無視するような動きだ。長い前腕を鞭の如くしならせる一撃が発する轟音は、それがもはや音の壁を越える速度へと達したことを知らせる。触れれば、この世のあらゆる形象は崩壊するだろう。
 だが、単純に速度を比べあうならば、予の少女が遅れをとるはずはない。巨獣の攻撃は、次々と紙一重にかわされる。同時に、予の少女を包む陣幕は次第に切り裂かれてゆく。
 大きく蜻蛉を切って距離を取ると、予の少女は引き剥ぐように陣幕を脱ぎ去った。その下には、極めて精緻に肌へと密着した体操着がある。予の政治力が日本刀町以外の場所で特注させた逸品である。達人同士の戦いでは、いかに肌へ近い位置で攻撃を見切るかが決め手となる。繰り出される攻撃にこそ、最大の隙が存在するからだ。陣幕を脱ぎ去る暇もあればこそ、追いすがる巨獣の追撃は予の少女へと突き刺さった。しかし、それは残像である。予の少女はすでに前腕の内側にいた。巨獣の肩にある突起物のひとつが逆袈裟に切り裂かれ、赤黒い粘液が噴出した。仁科望美と同じく、予の少女もまたエンジンを積み替えたのである。
 ふたりの攻防は、影を追うのも困難な高速の戦いへと変貌した。巨獣の攻撃は、もはや予の少女をつかまえることができない。だが、攻撃が引き戻される隙をついた予の少女の反撃も皮一枚を裂くのがやっとである。傍目には激しい攻防にうつるが、その実は互いに決め手を欠いた、極めて静的な消耗戦なのだ。
 そして、永遠に続くと思われた均衡は、思いもかけぬところから崩れた。巨獣のひと振りに破砕された電柱が、瓦礫ごとランブラーへと飛来したのである。電柱は無人の運転席を貫いたのみだったが、予の少女はなぜか動揺を見せる。視線がこちらへと逸れる瞬間を、仁科望美は見逃さなかった。
 嘲笑、そして一撃。
 咄嗟の防御に差し入れた刀の峰はやすやすと破壊される。予の少女は地面と平行に長く滑空し、家屋の壁へ叩きつけられた。予の子飼いが倍率を上げると、予の少女の口の端から赤い泡が吹き、鼻から血が流れるのを写した。どこかで不滅を信じていた。信じる強さが足りなかったのか。まさか、死ぬ。世界の中心であったはずの、予の少女が死ぬ。
 ――さあて、仕事の時間だ。
 増岡が手鉤をつかんだところへ、予は立ちはだかる。
 ――相手が違うんじゃないかね。
 苦笑しながら、その女性はまっすぐに予を見た。
 ――いいかい。いくら他人を殺したところで、一発殴り返されなきゃ、命が何かなんてわからないのさ。あんたの世界も、私の世界も、あの子たちの世界も、ぜんぶ自己愛から成り立っているからね。自分の命がどういう形をしてるかわからなけりゃ、他人なんざどこまでいってもただの書割りさ。一方的に殺してきたから、自分を生み出した長い営みの正体について、何ひとつ理解することができないでいる。どっちもね……ところでさ。
 鼻から細く煙を噴き出すと、吸いさしの煙草を人差し指で宙へはじいた。
 ――いつまでそこへ突っ立ってるつもりなんだい。いまならまだ、あの子の人生に関わることができるんじゃないのかい。
 関わる。ただ少女の語り部であることで、少女と世界を連絡させてきた一観察員が、少女の人生に関わる。突然に来たしたパラダイムの転換に、思わず掲げていたビデオカメラを下ろした。視界からノイズが消えると、鼻腔へ鉄錆のような血の匂いが混じった。
 ――この年になると、おせっかいが身上みたいになっちまう。まあ、いま動かなけりゃ、なんにもならないわね。
 殺害を確信した巨獣の吼え声が住宅街へこだまする。ビデオカメラが手のひらから滑り落ちる。レンズの割れる音が合図になって、駆け出した。あらゆる理性は頭から吹き飛び、ただ大の字に両手足を広げて、巨獣の前へ立ちはだかる。
 ――殺させないぞ、馬鹿野郎。やれるもんならやってみろ。
 歯の根が鳴り、涙が出る。
 家族や、社会や、歴史や、世界や、ぜんぶくそくらえだ。本当のことは、この手の届く範囲だけが大切で、他はみんな消えてしまって構わないということ。けど、なんでいまさらなんだ。
 曲がった首は相手の行動に対する不審を表明しているようにも見える。闘牛が地面を掻くのにも似た動作でアスファルトの感触を確かめると、巨獣は身を屈めた。まばたきひとつほどの時間だったに違いない。それは、爆発的な速度でぐんぐんと視界へ拡大した。
 皮肉なものだ。説き伏せるのに有効な言葉を持たず、殺すのに有効な暴力を持たず、長く体験し続けてきた世界との対峙の構図を、この状況は余すところなく体現している。
 がしゃん。
 粗なガラス細工が破裂する音が体の中から響き、視界がアクロバットのように回転する。家々の屋根と巨獣の背中が見えた。少女の姿はない。懐かしい感覚。そういえば、昔は落ちる夢ばかり見ていた。うつぶせとあおむけ、アスファルトへ二回、大きくバウンドする。
 私――の目の前に広がるのは広々とした青空だった。ひとつながりの熱が全身を包んでいる。指一本動かない。痛みは不思議と無かった。
 私は、内側にあった私より大きなものが、私と同じ大きさへ収縮してゆくのを感じた。二人の少女の顛末はどうなったろう。重力に身を預けて、ようよう首を転がす。
 敵を見失った巨獣の背面へ、蜻蛉を切る少女。その手にある刀は、最後の一振り。
 ああ――
 いまこそ、この世の真実に気づく。
 私は、私たちは、子どもたちに、隣人たちに、そして見知らぬ誰かに、この世界へ充満する死と死、破滅と破滅との間隙で、わずかの生を与えるために存在している。
 そして、時に愛されたその究極の人物は――
 神速の斬撃は音もなく巨獣の首を通過する。刀身が、澄んだ音を立てて割れた。音叉が共鳴するような静寂と、時が吸い込まれるような静止。
 ――人類を救済する仕事をするのだ。
 激しい血流が八方へ噴き、弾けるようにすべてが動きはじめる。巨獣の首は血の噴水に乗り、電線を超え、家々を超え、尾根を超え、入道雲を超えて上昇してゆく。
 その日、列島の各地から成層圏へと昇ってゆく生首が見られた。街頭で、市場で、公園で、学校で、会社で、病院で――ある者は泣いているように見えたと言い、ある者は笑っているように見えたと言った。ある者は両手を組みあわせ、ある者は眉を潜め、ある者は忌々しげに唾を吐き、ある者はただ好奇にカメラを向けた。
 最初の少女の葬送を偶然に目撃した人々へ共通するのは、誰も無関心のうちには見送らなかった、ということである。
 衛星軌道に乗った少女の生首が引く血の筋は、やがて土星の如く地球を環状に取り巻いた。夜空を見上げるとき、誰かが思い出すことを願ったのだろうか。
 名乗りでた唯一の係累は、米国航空宇宙局の支援を得た壮大な首実検を経て、それが確かに妹であることを確認した。頭髪に白いものの目立つ、柔和な面持ちをした初老の男性だった。
 このときの様子は感動の対面劇として、いささか過剰な演出を伴って生中継された。
 ――妹さんの変わり果てた姿を見て、いまどんなお気持ちでしょうか。
 レポーター群から成される質問は、いずれ良識のある者ならば背筋の凍るような内容ばかりだった。
 ――変わっていませんよ。
 しかし、その男性はどの問いかけにも、激さず、黙せず、ただ静かに答えた。
 ――あの頃のままです。内気で、繊細で、寂しがりやで、この世の誰よりも優しい。少しも変わっていません。
 愛おしげに、つい、といったふうで生首の映るモニターへ這わせた右手は、人差し指を欠いていた。
 この瞬間、いずれの局も大慌てで番組をCMへと切り替えた。それまで申し訳程度のモザイクで損壊した死体を放映しており、倫理規定の運用が極めて恣意的であることが露呈したのである。
 男性は遺骨の回収を願い出たが、却下された。単純に、これだけの大質量を持ち帰るだけの技術を人類が持たなかったからだ。
 そして、仁科望美は天から地上を見守る存在となった。
 私は人工衛星に乗せられた、あの犬の話を思い出す。文字通り、真空のような孤独。宇宙塵に粉々に粉砕されるか、暖かい星の抱擁にからめとられるまで、最初の少女はあらゆる生命から離れて、ずっと一人きりでいることを許される。愛する誰かを遠く見守りながら。
 私は想像する。たぶん、私自身の幸せのために。もしかすると、仁科望美は最後に願いを叶えることができたのかもしれない。
 さて、地に残された人々の話を少しばかりしなくてはなるまい。
 幸いなことに私の怪我は、全身の打撲といくつかの単純骨折で済んだ。少女は私よりもよほど軽症であったが、病院側が融通をきかせたらしい、いくつかの精密検査が退院を長引かせた。
 白い壁に囲まれた穏やかで、何も無い日々。ふたりでたくさん話をした。全国を旅して回ったというのに、こんなに話をしたことはなかった。
 退院の日、ふたりで川沿いを歩いた。春の日差しに川辺から綿ぼうしが舞い上がる。偶然にふれあった指先から、お互いの手のひらをからめた。橋を渡る途中、ふと気になって欄干から身を乗り出す。ブリキの鍋がひとつ転がっているだけで、そこにはもう誰もいなかった。
 どちらから言ったわけでもない。足は自然に少女の生家へと向かっていた。門扉に手をかけると、わずかに鉄のきしる音がした。すべてはここから始まったのだ。
 ――いま、帰ったよ。
 透き通った声が、玄関にこだまする。主を失った家屋はがらんとして、返事があろうはずもなかった。背後から差し込む陽光に舞う埃が、喪失の感じを強くする。私は座敷へ上がると、少女へと向き直り、声音を作った。
 ――おかえりなさい。さぞかし、疲れたでしょう。
 少女は大きく両目を開いて驚いたように私を見つめると、泣き顔とも笑顔ともつかない表情を浮かべる。そして、意を決したように私の両腕の間へと身を投げた。少女の両親が死んだ日と同じように。
 布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、少女の傷の形がありありと見える。家族や、社会や、歴史や、世界や、そんなものはぜんぶくそくらえだ。
 私は少女の背中に両腕を回すと、強く抱きしめた。せめて、この手の届く範囲のものだけは逃さないように。
 唇が重なると、呪うべきか、寿ぐべきか、すべては正しくなった。
 血のついた脱脂綿をジッパーつきのビニルに収める。少女はわずかに身を震わせて放心しているようだったが、毛布をかけて頭に手を置いてやるとすぐに眠った。
 私はベッドサイドの明かりだけを頼りに、幾枚もカーボンの写しが付いた書類を埋めてゆく。膨大な量である。実際にすべての記入が終わったのは、少女が起きだし、また眠り、そしてもう一度起きてきてからのことだった。
 翌日、私と少女は最寄の役場へと向かった。整理番号が印字された紙片を渡し、用件を告げる。丸眼鏡をかけて黒い肘あてをした職員は、いぶかしむように上目遣いで私と少女を見た。そして、整理棚の奥へと消える。
 長い時間が経った。少女が不安に私の袖を引く。すると、分厚いファイルを抱えた職員が戻ってくる。事務机にファイルを置くと、表紙に浮いた埃をひと吹きした。そして、眼鏡をぬぐいながら、「なにぶん、初めての申請でしてね。わかりませんよ」と小声で言った。
 その日、無数のAvenger Licenseのうちの一枚が初めて国へと返却され、ひとりの少女が少女殺人者であることを止めた。
 「予の少女」は永久に消滅したのである。

ホーリー遊児(3)

 ソファとテーブルのみの簡素なスタジオセットの中央で、一人の婦女が腰掛けている。白目に蝿がとまるが、某有名拳闘漫画の最終回を想起させる前傾姿勢で微動だにしない。突如、頓狂な音楽が流れだすと同時に、婦女、バネじかけの如く跳ね起きる。その顔面は余すところなく靴墨のようなもので着色されている。
 「ハァイ、全国津々浦々、老若男女のみなさーん! 小鳥尻ゲイカがテンションあげあげのスーパーハイテンションでお送りする『nWoの部屋』の時間がやってきましたよ! (興奮の極みのロンパリで)ってゆーか、アタシがこんな有名番組の司会に抜擢されるだなんて、リアルに超ウケルんですケド! コーデリア、見てる? ついに帰ってきたの! アタシ、全国のお茶の間にまた、帰ってきたのよ! ……え、何? 全国放送じゃないの? ははあ、ネットで有料動画配信。(前髪に手櫛を入れながら、とたんに低い声で)話がうますぎると思ったわ。やっぱり裏があったのね(露骨に舌打ちする)」
 画面の外でプロデューサーらしき男が両手を身体の前で振り振り口パクで『だましてないだましてない』と言う。
 「(両腕をソファの背に乗せてのけぞって)あー、いっきにやる気うせたわー」
 画面の外でプロデューサーらしき男が合掌して口パクで『かんべんかんべん』と言う。
 「わかってるわよ。いまのアタシに仕事えらぶ権利なんか無いってんでしょ。(立膝になると片手のメモを隠そうともせず)えー、記念すべきネット配信第一回のゲストわぁ、(棒読みで)なななーんーとぉ、ホーリー遊児さんにお越しいただいておりまぁす。あの有名な(全くそれを知らない者のイントネーションで)『トラ食え』シリーズのシナリオライターに、最新作『トラ食え9』発売直後のホンネを直撃したいと思いまぁす」
 「(カメラがスライドすると、サングラスの男が映される。足を組んで鷹揚に座っており、その秀でた額はスポットライトを激しく照り返している)ふん、宵待薫子で一時代を築いたあのnWoの部屋がいまやこんな安普請で(土足で軽くテーブルを蹴る)、場末のネット配信にまで堕ちてるとはね。(画面外のスタッフへ)宵待チャン、いまどうしてんの? あ、死んだの。それはご愁傷様。(値踏みするように小鳥尻を眺め)だから、どこの馬の骨ともわからない芸人が司会してんのか。不況の影響かあ? どれもこれも安く上がってんな!(馬鹿笑いする)」
 「……ンだと、この野郎!」
 袖をまくり立ち上がりかけるが、プロデューサーらしき男が両手を身体の前でクロスさせながら口パクで『がまんがまん。また干されたいの』と言う。
 「(硬直した笑顔で)ドウゾヨロシクオネガイシマス」
 「(口の端を歪めて)フン。もはや僕が出演するのにふさわしい番組の格とはとうてい言えないが、金科玉条のインタビューに雑誌を買う能動性すらない連中にも等分に僕の言葉を届けてやる義務がある。例え、こんな場末のネット配信番組で羞恥プレイに近い待遇を受けてもだよ。それが、(充分に計算された角度と速度で首を振る。前髪がはねあがり、きわどい部分をお茶の間に公開する寸前、前髪は元の位置に戻る)過去に類を見ない国民的人気作品を世に送り出してしまった、罪深い僕の才能に対する贖罪というものだからね……(右手で口元を押さえ、左手で身体を抱くポーズを作り、流し目をカメラへ送る)」
 「(無視して)それでは早速、質問に参りたいと思います。(カンペに目をやりながら)今回のトラ食え9は前作から実に5年の歳月を経て、まさに満を持しての発売となりましたが、苦労なさった点や制作秘話などをお聞かせいただけますでしょうか」
 「(両手を打ち合わせて)ハハハ、上手上手。ちゃんとおしゃべりできるじゃないの」
 「(目線を外したまま硬い声で)どうも」
 「(ねっとりと嘗め回すように小鳥尻を見る)いいね、いいね。そういう強気なの、嫌いじゃないね。最近、草食系とやらが多すぎて、食傷気味だからさ。草くってテメエだけおつうじよくて、こっちの腹ァくだらせる連中がさ! いいですよ、制作秘話ね。実は前作から古巣を捨てて、制作会社が変わったんですね。仕事する相手もツーカーの同年代ばかりじゃなくて、若い子が圧倒的に増えてね。最近の若い子たちはね、とても頭がいいんですよ。昔なら信じられないけど、大学出てるくせにゲーム屋やってんだもん。どいつもこいつも、偏差値高いんだ。卒論とかで鍛えられてんのかな、文章も達者で、なんでも言葉で説明できちゃう。で、説明できるもんだから、やったこともないのに本質をわかった気になっちゃうんだな。体験が欠落してしまうの。でも、いまや受け手の大半も体験が乏しい世代だから、それに気づかないんだよね。だから、表面はすごく洗練されて見えるんだけど、軽いの。情念が伝わってこない。僕はそういうの、ヤなんだよ(笑)。古いって言われてもさ、受けつけないの。書き手のナマの経験値がさ、何を題材にしたって、隠しても隠しても行間から否応に染み出してくるような文章じゃなきゃ、トラ食えのシナリオを記述するのにふさわしいとは言えないのよ。ぬぐってもぬぐっても、染み出る先走りね(舌で唇を執拗に湿しながら、こぶしの人差し指と中指の間へ親指を出し入れする)。わかる?」
 「(あくびとも嘆息ともつかぬ様子で)はあ」
 「(サングラスの位置を直しながら)なんとも淡白な反応だね。デレないツンデレってわけだ。まあ、いいや。だから、僕は若手社員たちの教育から始めなくちゃならなかったわけですよ。みんなスケジューリングもうまくて、仕事も速くて、それでいて一定のレベルを超えるものを作ってくる。でも、僕は不満だったのね(笑)。ふつうのゲームならそれでいいんだろうけど、これはトラ食えではないって思ってたの。(興が乗るにつれてやさぐれた感じを増して)ヤニも吸わずに青白い顔でカタカタってキーボード打ってさ、ほとんど残業も無しに定時退社するわけよ。んで、飲みに誘っても、全然のってこないわけ。『それって給料分ですか?』って言われてアッタマきてさ。モノをつくるドロドロが、会社っていうシステムでおきれいに下水処理されてんだよ。だから、制作開始から一ヶ月くらいしてからかな、全員退社した後にハードディスクをひとつ残らず五階の窓から放り投げて、プリントアウトしたシナリオもびりびりに破いてやった」
 「(あくびを隠すように両手を口元へ当てて)まあ」
 「(得意げに)次の日、床に散乱したシナリオの残骸にあぐらをかいて、定時出社の連中をお出迎えしたのよ。どいつもあんぐり口を開けてさ、いっそ怒鳴りあいになれと思ってたね。なのに、『どうするんですか、これ』とかぼそぼそ声の抗議だけで片付けを始めやがったからよ、アッタマきて手近の青ビョウタンをネクタイごと胸倉つかんで、したたかブン殴ってやった。そしたら、女みてえに(口マネで)『なにひゅるんでひゅかぁ~』だってよ! 大切なものを土足で踏みにじられてんのに、テメエの存在ごと作ってねえから、本気で怒ることさえできねえのよ。俺はキレたね。机の上に仁王立ちして、啖呵よ。『テメエらは天下のトラ食えの制作に参加してんだぞ! なんでもっとそれを利用しねえんだよ! クオリティアップのためだったら、どんなに時間をかけたって社長からも文句を言われねえ、誰にも文句を言わせねえ、国民の一割が購入することがあらかじめ決まってんだからな! 大学出てるくせに公務員じゃねえ、わざわざゲーム屋を選んだんだ! それなりの我ってもんがあるんじゃねえのかよ! 納期を守るとか、そんなつまらん社会性はぜんぶ放り投げて、ただ創造だけを我利我利に追及しろよ! トラ食えの制作現場にいんだぞ、おまえら! もっと誇りを持てよ! もっと貪欲になれよ!』」
 「(あくびに目を潤ませ、眠気に頬を紅潮させて)かっこいい」
 「(勘違いに小鼻を膨らませて)それからよ、『おまえら、これからトラ食えが何なのかを教えてやる』って言って、問答無用で全員引き連れて、むりやり午前中から店ェ開けさせて、朝までキャバクラ三昧よ。まあ、上司の飲みすら断る青びょうたんたちをキャバクラに引きずり込むための、計算ずくの大芝居だったわけだ。んで、その日から四年間ずっと全員でキャバクラ。制作期間を一日二十四時間で計算し直したとしても、半分以上はキャバクラにいたな。もちろん、制作費も九割がたキャバクラに消えたよ。おかげでヤツら青びょうたんどもの人格もいい具合に陶冶されたね。まあ、少々やりすぎたせいで、金髪の顔面ピアスにアロハ姿で重役出勤、キャバ嬢にケータイかけながらダラダラ片手で仕事しやがるもんだから、制作の終盤にはシュラフ持ち込んで会社に泊まり込みよ。開発室は煙草の煙でモウモウしててさ、いよいよの追い込みにはビタミン注射の回し打ち。品行ホーセーだったあの若手どもがよ、修羅場に目を輝かせて、どんどんいいアイデアを出してきやがる。(舌足らずの声の演技で)『ホーリーさん、閃いたッス! セーブデータを1つにすれば、今までの三倍売れるんじゃないッスか?』(胸元で右手を握り締めて)『ビッグアイデア!』。嬉しくって涙が出るってのはこのことさ。そんなよ、社会的には落第しちまった連中がよ、本当にキレーな話を書いてくんだよ。行間からにじむ情念がさ、下手な演歌よりも泣かせんだ(手のひらで鼻をすする)。まあ、少々その他の部分で妥協することにはなったがね(カメラから目線を外す)。今回のトラ食えで、うちの会社は組織としてひとつの大きな山を越えたと感じたね。レベルアップさ(例の効果音を口ずさむ)」
 「(カンペを横目で見ながら)しかし、疑問は尽きません。なぜ他の何かではなく、キャバクラだったのでしょうか」
 「(足を組み直しながら)いーい質問だ。トラ食え9くらいの、文字通り日本の全家庭に一本が行き渡る規模の国家プロジェクトになると、ただ良作であるということを超えて、どうしても時代時代に即した、大衆を啓蒙する要素を盛り込む必要が出てくる。我々は常に、我々の巨大な影響力に自覚的なんだよ」
 「そこで、キャバクラですか」
 「(莞爾と微笑んで)おうよ。トラ食えの登場人物に対するお定まりの批判のひとつに、『女性は、処女か母親しかいない』ってのがあるが、今回はそれを逆手にとらせてもらった」
 「それが、キャバクラですか」
 「(ひどくいい笑顔で)おうさ。ハレとケってヤツよ。キャバクラは絶望的なケの中にあってハレを永続化させようっていう近代の試みなんだよ。民俗学的に見ても、ムラ組織が解体された結果として日本人が失った祝祭機能を代行する場所って言えるわけよ、キャバクラは。いろんな娯楽がある現代にさ、わざわざゲームっていう一頭地劣ったところに群がる連中はさ、どいつもこいつも妙にご清潔なわけ。倫理的によく躾けられていることを見せることで、ママか誰かが褒めてくれるって信じてるみたいにさ。(吐き捨てるように)誰も褒めちゃくれねえのによ! 品行ホーセーが現世での成功に直結するってなら、今頃ニートどもは大金持ちだよ! いままでトラ食えが連中の心をつかんできたのもさ、女性的なるものとして処女と母親だけを記述してきたから、当たり前の帰結って言えるわけ。でも、もうそんなのはヤになったんだよ(笑)。神職とか河原芸人とか、倫理ってのは相対的だからさ、ケガレを代行する装置が相対化を担ってきて、そこへケガレを押し付けることで相対的に清潔でいられるってことを連中は知るべきだと思ったわけ。だから今回、キャバクラで剃毛、おっと、啓蒙なわけよ。しなびたフルーツ盛やら、水道水のミネラルウォーターやらでさんざんボッタくっておきながら、帰り際にポケットのアメ玉をキャバ嬢にやったら、発展途上国の子どもみたいなすげえキレーな笑顔で『ありがとー』って、本当にうれしそうに言いやがるわけ。もう、そういうのにグッときちゃうのよ。俺くらいの重鎮になると、枕営業なんか受けることもあんだけどさ(意味ありげに小鳥尻を見る)、確かに顔立ちも整っててイイ身体してるよ。けどさ、情事の後で後ろ手に髪を束ねてるときなんかにのぞく打算的な横顔に、もう心底からどっと疲れちまうのよ。後ろ指さされないためだけの品行ホーセーで、そのくせ隣人のゴシップには目を輝かせて、娘息子から刃物刺される連中なんかよりも、パンツに大便のスジつけて、髪の毛バサバサで、ゴキブリみたいな質感の顔面で、ホントきったねえんだけど、俺に言わせるとキャバ嬢の方がもう何倍も、一億倍もキレーなわけ。もう、たまんないのよ。(突然、カメラに指を突きつける)おまえら日本男子は全員、いますぐキャバクラ行け! キャバクラ行け、キャバクラ行け、キャバクラに(天をあおいでお茶の間にきわどい部分を公開しながら絶叫する)行けぇーーーッッ!!! 日本男子なら将軍様に仕える心意気ってのが、わかるだろ? 『いざ、キャバクラ!』、なんつって!(ソファに身を投げ出して、馬鹿笑いする)」
 「(あきれ顔で)ホーリーさん、ホーリーさん」
 「(ずり落ちたサングラスを直して)ああ、これは失礼。少し興奮してしまったようだ」
 「(冷静に)キャバクラはもう充分お聞きしました。(カンペを見ながら)今回、若手のスタッフが制作の大部分に携わったようですが、それをとりまとめるホーリーさんのお仕事はどのようなものだったのでしょうか」
 「(衣服を整えると、気まずげに咳払いして)そうですね。シナリオプロットの作成と、制作進行および品質管理ですね。プロットを書いたメモ用紙をできるだけ小さくし、簡潔にまとめるのにとくべつ腐心しました。ようやく想像の翼を広げる楽しみを知った若い才能たちに、できるだけ自由にやらせてみたかったんですよ(笑)」
 「そのメモには、どんな指示が書かれていたんでしょうか」
 「プレイ前の方へのネタバレは避けなくてはいけないという前提の元ですが、いくつか例を挙げましょう。『魚類と父親。父親は死ぬ』『新妻と伝染病。新妻は死ぬ』『令嬢と人形。令嬢は死ぬ』『学院と院長。院長は死ぬ』『姫と騎士。両方死ぬ』……ざっとこんな感じですね」
 「(目を大きく開いて)死にまくりですね」
 「(深くうなづいて)テロルによる大量殺戮の時代に、死の個別性と恣意性を強調したかったんです。時代に敏感であることも、トラ食えが愛される大きな理由のひとつですからね」
 「(真剣な表情で)キャバクラですね」
 「(神妙にうなづいて)ええ、キャバクラです。そして、最終工程のブラッシュアップでは、視認性を高めるのに骨を折りました。ひとつの文章がひとつのウィンドウに収まるように調整する作業ですね」
 「具体的にはどのような作業だったのでしょう」
 「半角を全角にしたり、全角を半角にしたりする作業です。これがまた神経を使いましてね! あまりの精神的な重労働に、頭がハゲあがるかと思いましたよ(笑)」
 「えっ」
 「いやだなぁ、もちろん言葉のアヤですよ」
 「えっ」
 「えっ」
 突然、画面の解像度が粗くなる。カメラが手前へ引いてゆくとスタジオの光景は遠ざかり、薄暗い部屋のモニターが映し出される。画面の前には一人の男が座っており、その手には携帯ゲーム機が握られている。
 「クソッ、わからない! なんでG.Wなんだ! 何の変哲も無い、ふつうのゲームじゃないか! なんでG.Wなんだよ! もしかして、まだボクには見えていない何かがあるのか? クソッ、ホーリー遊児め、どこまでボクに関心を持たれれば気がすむんだ! 読みといてやる、読みといてやるぞ……!!」
 インターホンの音が幾度も鳴っているが、男、携帯ゲーム機から顔を上げようとはしない。
 カメラは薄暗い部屋から薄暗い廊下を引いてゆき、玄関を通過し、やがて鉄扉の外側を映し出す。新聞受けからはみ出した広告が通路に散乱している。せむしの男、インターホンから指を離し、途方に暮れたといった様子でため息をつく。
 「トラ食え9が発売されてからと言うもの、ずっとこもりきりでヤンス。周陽も引き継いだ携帯ゲーム機のプロジェクトを投げ出したまま、辞表を提出しちまったでヤンス。枯痔馬監督、はやく戻ってきてくれでヤンス……」

むどおん!

 「(野太い声の男性コーラスをバックに)時に西暦2019年、世界の人口70億。発展途上国との命の格差はそのままに、一部先進諸国では少子化が急速に進行。文化的最低限の生活が保障する“一人一成人女性”の担保が難しい状況に、成人男性の性的嗜好は急速に低年齢化。これを受けて各国政府は未成年女子の人権へ、歴史上かつてなかったほどの保護を政策として立法化。結果、成人男性にとって通常の社会生活を営むことが困難なほど、未成年女子の存在が凶器化。曰く、電車内で女性の背後で勃っただけで痴漢冤罪。曰く、街角で視線が交錯すれば視姦冤罪。曰く、百貨店で迷子の女児に声かけしただけで未成年略取。曰く、カメラ屋で娘の写真を焼き増ししただけで猥褻物頒布罪。法の厳格な執行に伴って、みるみる減少する労働人口に頭を悩ませた先進諸国政府は、南極へ人為的なブレーン世界構築の計画を策定。続いて、そこへ未成年女子全員を保護名目で隔離する国際法を国連にて採択。かくして、18歳以下の女子は先進諸国の家々から、路上から、街角から、一切に姿を消したのである」
 紫と黒のグラデーション的空間に、学校とおぼしき建築物が斜め45度に傾いて浮遊している。校門には“県立柘榴(ざくろ)高校”とある。カメラは校庭から下足室をくぐり、奇妙に人気を感じさせない教室の前を通り抜け、階段伝いに上へ上へと移動してゆく。最奥の突き当たりに屋上はなく、なぜか教室が存在する。扉の上に掲げられたプレートには“無道怨仇部(むどうおんきゅうぶ)”と揮毫されている。荒々しく駆け上ってきた人影がカメラを追い越す。“筋肉質の男性が長髪のカツラとセーラー服を身にまとっている”としか形容できない風貌だが、南極のブレーン世界は未成年女子をしか収容しないため、論理的には生物学的に女子と推測するしかない。その人物、駆け上ってきた勢いのまま、絶叫しつつ入り口の扉を蹴破る。
 「慄(りつ)! たいへんや! 御厨ヶ丘(みくりがおか)高校の連中が、いよいよ攻めてきよったで!」
 「(顔面に雑誌を乗せ、両脚を机へ投げ出していたブレザー型制服着用の贅肉質巨漢、突然ノーモーションからほとんど重力を無視して垂直に跳び上がり、恐るべき柔軟さで両脚を地面と平行に真横へ広げる)なんやとォ! えらいこっちゃ! ジャンピング・サンダークロス・スプリットアタック・ナウやがな!」
 「(金髪碧眼白皙の少女が優雅な仕草でカップを置きながら)あら、それはありえませんわ。なぜって、ブレーン世界はそれぞれ独立した存在で、相互干渉はできないようになっていますもの」
 「(着地の際に体重で床板を踏み抜きながら)無義(むぎ)、それはほんまか!」
 「(衣類の本来的な役目を否定するほど短い上着からのぞく六つ割れの腹部を抱えて爆笑しながら)だまされよった、だまされよった!」
 「(カチューシャの下に広い額というよりは、頭頂部に向けて後退した生え際からもうもうと煙を上げながら)妙(みお)、貴様ァ! そんなつまらんイタズラでワシのドリームタイムを邪魔しよったんかぁ!」
 「(前腕の筋肉を誇示しながら)揺れる脂肪がいつもマシュマロみたいなお前の成人病を心配して、ちょいと運動させてやったんやろうが! 感謝こそされ、キレられる筋合いはないわ!」
 「(胸倉をつかんで)もう勘弁ならん! 決闘じゃあ!」
 「(胸倉をつかみかえして)吐いたつば飲まんとけよ!」
 「(金髪碧眼白皙の少女、無言で立ち上がると部屋の奥からティーセットを盆にのせて戻ってくる)さて、分厚く切ったこのフランスパンに、『うそ!』と叫ぶくらいサワークリームをたっぷりと塗りつけて(瞬間、未来人の如く退化した細い顎がゴムを思わせる柔軟さで異様に広がり、パンにかぶりつく)……ムホホ、どっしりとしたフランスパンの塩気がサワークリームの酸味をしっかり受けとめて!」
 「(胸倉をつかみあったまま、筋肉質と脂肪質、同時に唾を飲む)ゴクリ」
 「(短い一本線の唇から血の滴る生肉のような舌をのぞかせて)そしてサワークリームの酸味が口の中にまだ残っているうちに、飽和状態まで砂糖を溶かしこんだ紅茶をひとすすり……ンまーい! 眼球上部から錐を差し込んで前頭葉を右へ左へグリグリするような、ロボトミーとまごうこの旨さ! よくぞ、ブレーン世界に生まれけり――!!」
 「(制服のリボンへ盛大に垂れ流れたよだれをぬぐいながら着席し)今日のところは無義にめんじて休戦ということにしといたるわ」
 「(カーディガンへ盛大な染みとなったよだれをぬぐいながら着席し)おまえこそ、脳味噌が糖分しか受容しない事実に感謝せえよ」
 「(フランスパンの体積の三倍はサワークリームを塗りつけてかぶりつく)うまいのう。正直、ぼっとんの汲み取り式だけは勘弁願いたいと思うとったが……ワシらの便からこれができとるなんて、にわかには信じられんわい」
 「(挑発的な視線をカメラへ送りながら親指に付着したクリームをなめとって)すべてのブレーン世界には、閉鎖環境における物質循環のモジュールが装備されていますのよ。いったん原子レベルにまで分解してから再構築してますから、衛生面でも安心ですわ」
 「(ビロウな連想を誘うとぐろ状にサワークリームを盛りあげ、ほとんど噛まずに飲み込みながら)ムォッ、ムォッ、グゥオフッ……なんとのう。糞尿を集めるだけで地球に優しいなんて、ワシらエコじゃのう」
 「(急激な食事に腹部が膨れ上がり、スカートのボタンがはじける)スカートのウエスト丈2cmゆるめたのに、まだ飛ぶのう」
 「(六つ割れの腹部を誇示しながら)ついにウェイトが限界超じゃのう、慄」
 「(ラマーズ法的な呼吸で懸命に腹をひっこめながら)ぬかせ、妙。南極は寒いからのう。こりゃ、冬脂肪じゃわい」
 「(優雅な仕草でカップを置きながら)このブレーン世界は外界の環境からは完全に隔絶されています。寒さを感じるとすれば、それは風邪の初期症状か、排尿直後か、さもなければ単なる気のせいですわ」
 「(猛烈な歯軋りで)ギギギ。ほんに、このアマときどきすごいむかつくのう」
 「(片手で制して)ほっとけ。囚人どうしの優越感じゃ。評論や批評が現実に影響を与えた試しはないわい。それを証拠に、幽異(ゆい)はもう帰ってこんのやから……(部屋の片隅に視線をやる。栗毛の少女が虚ろな視線で宙空を眺めながら座り込んでいる)」
 「(胸元に抱えた哺乳類らしき肉塊を撫でながら、感情のこもらぬ囁きで)うふふ、かわいいわね、あなた。ねえ、どこからきたの? おねえさんにおしえてよ」
 「(太い眉をハの字に曲げて)元は猫やったのか犬やったのか。すっかり毛も抜けてしもて、肉はくさいガスでふくれあがって、ひどい状態じゃ」
 「取り上げようとしても、ものすごい力で抵抗するしのう」
 「(肉塊の表皮が裂けて、ガスが噴出する)ブーッ」
 「(鼻をつまんで)おお。こりゃ、くさいのう」
 「(人差し指と中指を鼻の穴に突っ込んで)気がくるうて、死んどるのがわからんのじゃ。ほれ、幽異のあの幸せそうな笑顔を見てみい。くるった頭の中では、愛らしいペットを飼うとるつもりなんじゃ」
 「(細い眉をハの字に曲げて)むごいのう。女ばかりのブレーン世界にうまく適応できんかったんじゃ。あんな屍鬼(ghoul)みたいな肉塊に、壊れた心を補修させようとしとるんかのう」
 「ほんにのう。まさにぶわぶわテイム(tame)というわけじゃ」
 「……(無言のまま、すまし顔でカップを口に運ぶ)」
 「(突然、ホログラム状のウィンドウが宙空へ出現する.中性的な合成音声で)みなさん、相変わらず仲がよろしいですね」
 「(いっせいに直立し、三人で唱和する)ヤヴォール・ヘア・アーサー・シュバルツ!」
 「(中性的な合成音声で)貴方たちと相対するとき、思考の基礎言語には日本語が定義されています。複数のブレーン世界を統括する人工知能である私ですが、どうぞかしこまらず、ただ、こう呼んでください。黒田アーサー、と……!!」
 「(突如くだけて背もたれに身を投げ)そりゃ、ええわ。いくらブレーン世界が国際政治における国家間の調整結果とはいえ、敵性言語を強要されるのは気分のええもんではないからのう」
 「(突如くだけて、机上へ両足を投げ)そやそや。ウチはいつも答案真っ白で英語は追試やけど、そんなんわからんでも未来はどどめ色じゃ」
 「(後れ毛へ指をかけながら)ご指摘さしあげるのも失礼かと思いますが、念のため。先ほどのはドイツ語ですわ」
 「(両手の人差し指を涙腺の直下に当てて)ラわーん、あんちゃーん! 学校という一時的な場所での、さらに限定的な能力に関する相対評価を全人格的な絶対否定にすりかえて非難されたよー!」
 「(猛烈に歯ぎしりして)ギギギ。校舎裏が人類の生存を許さぬ真空の海でさえなければ、すぐにでもシゴウしたるんじゃがのう」
 「(ホログラムの背面へ回りこみながら)まあ、こわい。黒田先生、どうしていつまでも人は愚かで、こんなにも争いを避けることができないのでしょうか」
 「(中性的な合成音声で)感情が時間を経て集積したものが、歴史と呼ばれます。その感情の連なりが途絶えることが、共同体の滅亡です。多かれ少なかれ、共同体の存続という命題は、成育史のうちに個人の内面へ刷り込まれます。その過程を通じて、個人は己を超えたところにある共同体の歴史から事物に対する判断へバイアスを得ますから、客観的であったり、論理的であったりすることは極めて難しくなるのです。結果、その判断のすれ違いが争いへとつながってゆくのだと推測できます」
 「(瞳を潤ませ、うっとりと両手を組み合わせて)さすがですわ、黒田先生」
 「(わずかに男性的な合成音声で)いえ、賞賛はご無用に。私は人工知能、感情を持たない論理機械に過ぎませんから」
 「(鷹揚に頭の後ろへ手を組んで)なあなあ、そんなことより、ウチらはいつまでここにおらないかんのや。人生でいちばん輝け(Cagayake)る時期の女子を、陽も射さないブレーン世界で過ごさせるなんて、どういう政策なんじゃ、コレ」
 「(発言に勢いを得て)そやそや。男日照りの表現がまったくシャレになってへんわい。留年分をさっぴいても、卒業させてもろてええころあいとちがうんかい」
 「(中性的な合成音声で)現在、ブレーン世界の外側で発生している問題の根幹は、男性から欲求を向けられない年齢に達した女性たちの、男性が欲求を向けているものに対する嫉妬です。人間は動物ですから、子孫を残すという命題が至上のものとして行動原則へ抜きがたく組み込まれています。女性にとって、己よりも男性の欲求を多く向けられる存在というのは、遺伝子の保存を考えるとき、戦略上、極めて深刻な脅威です。これを退けなければ、己が輸送する情報の系は途絶するのですから。一方で男性は、己の遺伝子を受け渡す上で、例えば流産等による頓挫の可能性が少しでも低い個体を選択しようとします。一般的に、より若い女性の方が男性にとって魅力的に感じられるというのは、そう感じさせたほうが遺伝子伝達の戦略上でより多くのリスクを回避できるという、進化と名づけられた淘汰を経てなお残された動物的な要因に過ぎません。いったん子をなした場合でも、両者のこの特質に変化が見られないのは、さらに多くの遺伝子を残したほうが、単純な確率計算として情報の系が途絶する可能性が下がるからです。ちなみに人口維持に必要な出生率は2.07ですが、この0.07は性交可能となる以前に死亡する子供を計算に入れたものです。つまり、男性がより若くを求め、年齢を経て男性の欲求の対象となる機会が減った女性が、男性の欲求の向かう先を破壊しようとするのは、理の当然と言えましょう。二次元性愛への焚書的弾圧の根もここにあります。また、男性の欲求がときに若すぎる固体へ向かう場合、それが容認されるべきか否かの判断ですが、現状、各国政府はその国民へ一律の年齢基準を設けることで異常と正常の境界を明示しています。しかし、これは個体差を無視しているという点で、生物学的に妥当とは言えません。遺伝子継承に焦点を当てれば、答えはあまりに明白でしょう。すなわち、初潮を迎えているか否かです。初潮を迎えていれば、それは体内に出産へのレディネスが存在するということですから、これを制約するに及びません。もし初潮を迎えていない固体に欲求を向ける男性がいるとするならば、それは単なる後天的・文化的異常ですから直ちに排除されるべきでしょう。おわかりいただけましたか?」
 「(小声で小突いて)おい、慄。いま、英語でしゃべっとったよな?」
 「(小声でたしなめて)あほ、さっき無義がドイツ語やゆうとったやろ」
 「(切ない吐息を漏らして)先生の講義なら、私、何時間でも聞いていられそうですわ」
 「(中性的な合成音声で)米国のとある新聞の風刺漫画に、こんな内容がありました。一面の銀世界を前にした黒人の少年が独白するのです。『なんて美しい朝だろう。でも、この雪すべてが黒かったとしたら、ぼくはこの景色を同じように美しいと思えるだろうか』、と。これは真理の一端を突いていて、黒や黄から人間が連想する中身には、死斑であるとか黄疸であるとか、死を連想させるネガティブな内容が多いということです。(わずかに男性的な合成音声で)ですから、東洋の男性たちが貴女のような白人の少女を求めるのは、歴史的な劣等感をおくとしてさえ、理の当然なのです」
 「(バラ色に頬を染めて)まあ、どうしましょう」
 「(片手で顔をあおいで)平面に欲情できるヤツはええのう。うちら置き去りやないか」
 「(額の油脂をタオルで拭いながら)ほんま、あほらしわ。うちら当て馬ちゃうねんど」
 「(小指を深々と鼻腔に挿入しながら)こういう日はもう、一杯ひっかけて寝ちまうに限るわ」
 「(裏声で連呼して)寝ちまおう寝ちまおう寝ちまおう! そうと決まれば、早寝の前にホトケ様にのんのんのんじゃ!」
 「(いぶかしげに)ホトケ様なんてどこにおるんじゃ」
 「(親指で部屋の隅を指して)おるじゃろ、あそこに」
 「(感情のこもらぬ囁きで)うふふ、なにかがやけ(Cagayake)るにおいがするわね? どんなおいたか、おねえさんにおしえてごらん」
 「(隆々たる筋肉で腕組みして)おまえはときどき、すごい冴えるのう。感心するわ」
 「(うっとりと)黒田先生……」
 「(中性的な合成音声で)後近代の人類が抱く不幸を象徴的に言うならば、それは『録画したビデオテープの累積時間が、人生の残り時間を上回っている』ということになるでしょう。もしかすると人類はすでに滅びていて、私はただモニターの上に貴方たちの影法師を見ているだけなのかもしれません。例えば、私が貴方の問いかけに応答することを止める。なのに、貴方はまるで私が返事を与えたかのように会話を続ける。人工知能である私が恐怖するのは、そんな恐怖なんですよ」
 「(うっとりと)もっと聞かせてください、黒田先生。もっと……」
 「(中性的な合成音声で)あるいは後近代の不幸とは、消費者金融やパチンコ屋や新興宗教の布教活動に占拠されたかつての巨大メディアを見るときの眼差しに含まれると言えるかもしれません。あるいは、東洋人が西洋人へ潜在的に抱く劣等感を巧みに利用し、髪の毛を軟便色に褪色させる毒液の販売と、劣化した髪質の恒常的なケアという市場を創出した誰かの狡猾さに含まれるのかもしれません。あるいは、『手をかざしてください』と書いてあるのにいくら手をかざしても大便が流れないときの、アナログ的レバーへの郷愁と共に湧き上がる不必要な市場創出への絶望感に含まれるとも……」
 「(秀麗な眉を寄せて、悩ましげに)あの、ひとつよろしいでしょうか」
 「(わずかに男性的な合成音声で)なんですか、無義さん」
 「(小刻みに肩を震わせて)最近わたし、ときどき、黒田先生が人工知能だとはとても思えなくって……だって、まるで……まるで……」
 「(中性的な合成音声で)疲れてるんですよ。ノイローゼの前兆かもしれませんね。(わずかに男性的な合成音声で)睡眠導入剤を処方してあげますから、今日はそれを飲んでゆっくりおやすみなさい……」
 「(筋肉質と脂肪質、部屋の隅に向けて合掌し、野太い声で唱和して)まんまんちゃん、のーん!」
 「(感情のこもらぬ囁きで)あ、あ、そんなところをあまがみするなんて、いけないこ、いけないこね……」

????

「塀の中から発言をする、というのは非常に象徴的でして」
 分厚いガラスの向こう側から、スピーカーを通じた声が響く。事前に予想していた感慨を何も持たないでいる自分に気がついた。男の声が含む一種の魔的な力を弱める効果はあるのかもしれない。
「評論家たちが取る立ち位置の、現実に対する効力感の欠如へ、風刺的にまとめて言及することができる点でね。時折、類似の事件に際して、思い出したように君のような人物が面会にやって来る。おそらく、言葉の足りない、論理の裏づけの希薄な反社会的行為というものに耐えられなくなって、おしゃべり好きな奇人へ、気のふれているなりの理由を解説して欲しいんだろうと思う。社会の堅牢さを維持するには、その構成員の過誤を一種の論理エラーとして捉えねば、矛盾として、つまりはそれを取り除けば正常な機能を取り戻せるという意味でのバグとして排除することが困難になるから」
 男の顔にはいくつかの青痣が浮かんでおり、薄い唇には切れた跡があった。視線に気づいたのか、奇妙に官能的な仕草で傷口をなぞる。
「うとまれるのには慣れているが、うとまれるときの度合いというのが、いつも尋常ではなくてね。昔からです」
 自嘲的に顔を歪めると、傷にさわったのか、眉をわずかにしかめた。男の背後には刑務官が直立しており、普段の生活では意識しない、非人格的な、ゆえに人間を斟酌しない公というものの圧力を私に思い出させた。
「いまや人々は、与えられた民主主義になじまず、望んだ社会主義を選択しようとしている」
 思考を読まれたような錯覚に驚いて、視線を戻す。
 色素の薄い瞳。向けられる両目の奥に、私はそれまで気づかなかった異様な光を察知した。
「現在を食い荒らすポピュリズムは、万人の未来を担保にしている。あらゆる特権は部屋の端から絨毯をめくるように剥奪されてゆき、それは同時に、目指すべき峰々と頂を喪失した登山家の絶望にも似て、未だ何も為さぬがゆえの希望を抱いた人たちへ迫る。己の能力に見合う専門性を突き詰めてゆくことから生じる称揚感は人間の向上に不可欠な要素だが、それさえも待ち受ける罵倒に著しく弱められることをあらかじめ予期せねばならない。より良くありたいという魂の本来が、低きへの同調圧力により否定される。これから始まる人たちに共通する不幸ですね。やがてビューロクラットたちへすべての特権は集約され――」
 そこで男は刑務官の方をちらりとうかがうと、わずかに声をひそめた。私は冷ややかに考える。ここでの会話はすべて記録されているはずだ。だとすれば、その行為は文字通りの芝居に過ぎない。
「――つのる不満の解消はバンドワゴンの方法を以って為される。つまり、社会の構成員一人ひとりが他の構成員たちによる一斉の攻撃対象である一時期を受容した、憎悪の持ち回りが始まるのです。憎悪は定常しません。憎悪にも、新鮮味が必要というわけです」
 男は、それがひどく面白い冗談であるとでもいうように、くすくすと笑った。
「そして、構成員のすべてが憎悪をリレーし終えたならば、他の民族、他の国家へと転移の先を拡大する。究極には、いくつかの民族ないし国家との、破滅や覇権を“賭けない”恒常的な戦争状態を作り出すことができれば――」
「オーウェルですね」
 思わず、口を挟んでいだ。呵成な、しかし一方通行の言葉に飲みこまれそうになったからだ。ここに至り、発言の内容というよりは、抑揚や声の調子こそがむしろ危険なのだと気づかされる。
 男は、気勢をそがれたような表情で、手のひらをこちらへ向けた。
「いや、すまない。ホラ吹きの、誇大妄想の習い性で、ついつい話が大きくなってしまう。もはや自分に関係ないものとして天下国家を論じるときの快感は、ちょっと何事にも変えがたいからね。語ることは伝えること、伝えることは教えること、そして、教えることは成すをあきらめることだと言う。君がわざわざ面会を求めてきた理由について、もっと配慮をするべきだった」
 言いながら、軽く頭を下げる。高まりつつあった先ほどの熱気は、嘘のように消えていた。感情の振幅よって受ける印象が全く変わってしまう。不思議な人物だ。
「では、単刀直入に君の聞きたい言葉を言おう。『現在、この国において、テロは非常に有効な手段だ』」
 今度は淡々とした言いぶりだったが、言葉の内容そのものが瞬時に私を縛りつけた。
「例えば、君は田舎路線の怠惰で不機嫌な駅員だ。ときどきの理不尽なクレームを除いては、微睡むように日々を過ごしている。今日もバケツを片手に、アンモニア臭のこびりついた駅構内のトイレで、乗客の小便や大便へモップをかける。経費削減の折、清掃業者も快速の止まらぬこんな小さな駅にはやってこない。この仕事が嫌で嫌でしょうがない君は、ある日、ネットで手に入れた毒――水溶性で、粘膜から吸収されるヤツだ――を密かにトイレットペーパーへと染み込ませる。声明があれば、なお効果的だ。一週間も経たないうちに、沿線すべての駅構内にあるトイレは使用禁止となり、君はときどきの理不尽なクレームを除いては、汚物処理から解放された日々を心安らかに過ごすことができる」
 馬鹿げ例えばなしだ。そう考えた瞬間だった。
「そう、馬鹿げた例えばなしだ」
 まただ。まるで私の思考を読んだかのように、男はうなづいた。
「何より、達成される結果のくだらなさと、己の社会生命を永久に失う危険性とが、全く釣りあっていない。この二つを釣りあわせる方法は、論理的に考えて二つだけだ。ひとつは、人生を投げうつほどの大義を、もたらされる結果に与えること。もうひとつは、個人の価値をもたらされる結果の矮小さにまで縮減すること。おや、我々の社会が抱える危機の正体がどうやら見えてきたな」
 男はいまや、間近で遭遇した草食獣を見る肉食獣が持つ確信で、ことさらにゆっくりと身を乗り出してみせた。
「個人の価値は、その内面的な膨張とは真逆のベクトルで、急速に消失の地点へと向かいつつある。一度その事実を何の虚飾もなく直視してしまえば、反社会的行為へ己を投げ出すのは、至極簡単な仕事になる。恋愛やアイドルや虚構やエロや、そんな安い充足さえ、やはり充足なのだという単純な人間心理に思い至らず、総じて何らかの規制へと向かう昨今の動きは、社会にとっての錆びついた安全装置を外そうとする試みに他ならない。やがて可視化した因果に青ざめることになるのだろうが、私にとってそれはまずまず素晴らしい、満足のできる結末のひとつと言えるだろうね」
 私の心中を直接に値踏みするかのように、色素の薄い両目が細められた。
「君はまだ、ふりをしている。理解できないふりを。メディアは『不条理な暴力に屈してはいけない』と言う。いずれも判で押したようにだ。しかし、言う者も聞く者も、実感など持ちはしない。なぜならそれは、台本に書いてある、反社会性に対する定型的な応答に過ぎないからだ。一線を越えてしまった者たちの切迫感や熱には及ぶべくもない。両者の関係性を人々に連想させないための冷却期間を置くほどには、この社会は賢明だが、現に首都の電気街で発生した事件は法改正にまでたどりついた。その実行犯の願いをかなえるが如く」
 私はそのとき、ある種の惑乱状態に陥っていたと思う。なぜなら男の言葉は、長らく私の脳髄を占拠していた妄想と合致してしまっていたから。
「乱立する新興メディアを含め、一億が放言する無秩序さの中で、誰も君の言うことに耳を傾けたりはしない。唯一、大勢から耳目を集めることができるのは、一定の歳月に耐えた能力者か、社会秩序の擾乱に繋がる規模の犯罪を行った者だけだ。もっとも、準備はしっかりとしておくことだ。与えられるのは、構成員の多数へ向けた発言のチャンス数回でしかない。だが、過剰に恐れる必要はない。個人的な経験から言えば、ほとんどのメディアはよりセンセーショナルな報道を求めるという点で、内容を吟味できるほど賢明であるならば、むしろ我々にとっては味方となりうる。必要なのは、一つの生と一つの主張との等価交換を是とする気概だけだ。本来、個人が微温的な安寧を拒否することは、簡単ではない。しかし、社会から十全に許容された人間が、私などの話をわざわざ聞きたいと考えるとは思えない。だとすれば、答えはすでに、君が独力でたどりつける場所にあるはずだ」
 男はゆっくりと片手を持ち上げると、私の胸元を指差した。適切な返答を思いつくことができず――何よりこの会話が記録されているのだという事実と、背後に控える刑務官とにひどくうろたえてしまい――面会時間を残したままコートを手に取ると、曖昧な暇乞いと共に私はあわただしく立ち上がった。
「もうないとは思うが――」
 ドアノブに手をかけたところで、背中に声がかけられる。
「また私を訪ねる気持ちになったら、次は何か甘いものを差し入れてくるとありがたい。最近どうにも、脳の働きが悪くなってね」
 ひどく面白い冗談を言った、とでもいうような忍び笑い。
「いや、つまらぬことでお引き留めだてをした。では、ごきげんよう、上田くん」

少女保護特区(10)

 書類を片付けながら、ふと手の甲に鼻を近づける。石鹸の匂いがするだけだ。少々過敏になりすぎているのかもしれない。現場から離れて久しいのに、ほとんど習い性になっている。妻は、血の臭いをひどく嫌うから。
 局の建物を出るとき、水音を聞いた。奥の駐車スペースで、同僚が車両を洗浄しているのだろう。ポケットに手をつっこんだまま、ゆっくりとそちらへ歩いてゆく。
 吹きかけられた水は車体を伝ううち、茶褐色に染まってコンクリートへと滴る。ホースを握っているのは、初老と言っていい年齢の女性だ。一声かけると、眉を寄せた険しい表情で振り返る。だが、私を見るやたちまち相好を崩した。
 お互いの家族に関する他愛の無い会話。内容は以前に話したことばかり。同じ職場に居合わせただけの、出自も年齢も異なる二人の間に深い理解があるとは思わない。けれど、言葉を交わすときの仕草や表情に、私の心は安らいだ。安らぎとは暖かではなく冷えているのだと気づいたとき、私はずっと拒絶してきたものを許せると思えた。ふと会話が途切れ、夜勤へのねぎらいを言いおいて帰途につく。
 ラッシュ時と言っていい時間帯にも、田舎の単線は高い乗車率からほど遠い。戸口の席へ崩れるように腰を下ろすと、急に体を重く感じる。最近ではいつも、このまま立ち上がることができないのではないかと思う。定時退社に週二日の休みが約束された閑職である。収支の固定した、毎年同じ数字を並べるだけの経理に、職務上のストレスなど生じようがない。確かに、年齢を言われればその通りだ。ただ、不安になる。休息をわずかに上回った疲労が体の奥底へ澱のように積もって、駱駝の背に置く藁の例えのように、いつか私を壊してしまうのではないかと。
 車内の様子を見渡すと、やはり誰もが疲れているように見える。だがそれは、慰めを求めた願望の投影に過ぎないのだろう。向かいの窓へ視線を戻せば、薄暗い景色を背にして一人の男が映りこんでいる。スーツ姿のくたびれた中年だ。あの頃、誰がこの未来を予想しえただろう。本当に、長い回り道だった。私は、来し方を振り返るような気持ちになる。
 結局のところ、はぐれ者の居場所は、はぐれ者たちの中にしかなかった。少女との旅を終えた私は、家のローンを返済しながら子を成すような当たり前の日常を求め、職探しに奔走した。合法だったとは言え、有名な大量殺人者の片割れだ。人定作業をすれば、すぐにそれとわかる。応募する片端からすべて不採用。いま思えば当たり前のことだ。しかし、それほど切実で、それほど何も知らなかったのだ。途方に暮れた私は、ほとんど唯一のコネを頼りに清掃局を訪ねた。
 ――もっと早くに連絡をくれればいいのにさ。水くさいねえ。
 面会を求めに来た私は、よほどくたびれていたのだろう。見るなり、相手は声をあげて笑った。
 ――机はもう用意してある。あのときからね。功労賞だよ。
 言いながら、皮肉っぽく口の端を歪めてみせる。
 ――まあ、あんたたちのせいでこの部局もいずれ、ゆるやかに解体されていくんだろうが、公務員にはちがいないからね。入り口は関係ないさ。あんたがあの娘を引き受ける限り、私はあんたを引き受けるよ。それが私の、仁義ってやつだ。
 ともに日常へ帰ることを求めたのに、結果として私たちを受け入れたのは、非日常と隣合わせの一隅だった。やくざ者は任侠を隠れ蓑にして弱者をからめとり、コネや情実は排除すべき俗劣な悪習だと人は言う。けれど、かけられた言葉に涙が出た。
 私は長い間、社会での己の位置を定めてこなかった。観測の定点を持たなければ、現実をいかようにも断罪できる。ゆえに、私は何も知ることができなかったのだ。どこにも所属しなければ、すべては意味の無い繰り言として通り過ぎてゆく。所属することで、人は己が壊してはならない最小限を定める。その約束は、小さな灯火となって闇を照らす。そして、別の誰かが周囲で灯火をかざしていることを知る。人類を存続させることを決めた人々が身を寄せあい、この世界の実相である暗闇に、共同体という名付けの微かな光を切り取ってきたのだ。
 古来、数々の伝承で想定されてきた神々とは、世界の埒外にいて誰とも約束をしない存在の暗喩であった。すべてが意味を持たないならば、ただ破壊を繰り返すことで自足できる。そして、すべてを壊し続けることは、誰にも救えぬ永遠の孤独を生きることに他ならない。かつて、この身は一柱の神だった。やがて人々と約束を交わし、朧な灯火をかかげ、この肉は人となる。神代の騒擾が去ると、残ったのは人の世のしんとした静寂だった。
 神を捨て、人として手に入れたものを愛しているかと問われれば、間違いなく愛着はある。愛情は他者へ向かうが、愛着は己へ向かう。そして、倦怠は新たな関係の構築を億劫にさせ、結果、愛着が増幅する。あるいは、この静寂を拒否できないほどには、私も歳をとったということかもしれない。
 郊外にある駅舎の灯は早々に消える。夜空を見上げればいくつもの星座がくっきりと浮かびあがり、赤い帯が筆を走らせたように縦断しているところだけが、子どもの頃の記憶を裏切っていた。最寄り駅から中古の一軒家へと歩くこの十五分ばかりは、いまの私にとってすべての社会性から離れることができる唯一の時間だ。深い闇に身体の輪郭が薄れると、自我もじわりと溶け出してゆく。安逸とともに、十代のときそうだった何者でもない自分へと還る。間遠に並ぶ防犯灯が光の円錐を投げ、そこへ踏み入れるとき、闇に拡散した分子は私へと再構成される。そして、戻りきれなかったわずかの澱が羽虫となって街灯の周辺を舞う。だとすれば、この自我はきっといつかすべて消失してしまうに違いない。私はたぶん、その日を心待ちにしている。
 いつもの角を曲がり、遠目に我が家を確認する。門扉が薄暗ければ問題ない。でなければ、何かがあったということだ。そしていま、開け放たれた戸口から差しこむ家の明かりが、ほっそりとした人影を浮かび上がらせている。妻だ。
 気取られないほどわずかに、歩調を速める。もはや異変を確信していたが、それを深刻に受けとれば妻は動揺するだろう。門扉に手をかけると、笑顔とともにさりげない調子で帰宅を告げた。途端、妻は胸のうちへ倒れこんでくる。青ざめ、震え、涙を流す。あの頃と変わらぬ肉付きの薄い、それでいて柔らかな肢体。背中を撫でてやりながら、栗色に染まった髪に白い一房を発見する。やはり、あれから時間は流れたのだ。
 愛する妻に向けたいくつもの優しい、当たり前の言葉。けれどそれを聞くとき、なぜか身内の疲労はかすかに、水を含むように重くなった。泣き顔に刻まれた皺は、かつてより長くそこへ残る。妻の言葉は一向に要領を得ず、家の中へ入るよう肩を抱いてそっと促すと、わずかに首を振った。その仕草が、事の顛末を理解させる。心配しないよう言いおくと、ダイニングキッチンへと向かう。
 割れた食器と食べ物が散乱し、広がったソースが床を汚す。椅子は横倒しになり、テーブルは壁との並行を失う。その無秩序の中に、黒髪の少女が仰向けに横たわっている。瞬間、倒錯した印象が私を襲った。ここは古代の王の居城であり、我が娘はその主菜として饗されるのだ。王の名は知っている。王の名は――
 そこで背後に妻の気配を感じ、私の幻視は破られた。タートルネックに包まれた胸元はかすかに上下しており、どうやら意識を失っているだけのようだ。
 ――強く叩いたつもりはなかったの。
 妻の心に刻まれた深い傷跡。あれからもう、十年以上が経つというのに、それは決して癒えようとしない。私たちは皆、傷跡に足をとられる。幾度も幾度も、繰り返してしまう。そこにあるとわかっているのに、滑稽なくらいまた、同じ場所で転ぶのだ。
 ――言うことを聞かなくて、だから……
 ふいに耳鳴りがし、外界が遠ざかる。じつに不思議だ。予の少女は目の前で気絶しているのに、鈴のような愛らしい声が後ろから聞こえた。ぬめるような黒髪の質感を楽しみながら、うなじへと腕を回して予の少女を抱え起こす。軽く頬をはたいてやると、艶めかしい呻き声とともに意識を取り戻した。
 魚の腹の肌理をした白い肌。
 紅をはいたように真赤な唇。
 大きな瞳は澄んだ湖というより、むしろ森の奥に隠された沼のようだ。しばらくして、眠ったような瞳に焦点が戻ると、私の首へ力無く両腕をからめてくる。すぐ耳元での嗚咽に、背筋へ電流が走った。
 この美しい生き物は、予を頼っている。予へ依存している。
 予なしでは生きられず、呼吸の如く予の関心を必要とする。
 この穢れない魂を、そう、予は恣に蹂躙することができる。
 灯火が消え、闇がゆらめく。魔のような、永遠と同じ長さをした一瞬。
 ――……さん、吉之助さん。
 人の名が呼ばれ、神が去る。振り返れば、幼子の寄る辺なさで、妻が身を震わせている。そして、怯えた表情の娘が、腕の中で私を見上げている。
 その瞬間、理解した。かつて私に向けられた、瞳に宿るかぎろいの正体を。
 ああ――
 両親が見ていたのは、この光景だったのか。
 ふいに、悲しみが私の胸を浸した。人のいない雪山のような、静かな悲しみだった。
 娘を抱き上げ、立たせてやる。そう、ならばやりとげなくてはならない。二つの傷から、この穢れない魂を遠ざける仕事を。
 ――どこも痛いところはないね。
 言いながら頭に手を乗せてやると、こわばった表情はようやく緩んだ。
 ――怪我はないみたいだ。大丈夫だよ、万里子。片付けたら、みんなで食事にしよう。
 微笑みが、不自然にならないように。妻の両目から涙がこぼれ落ち、かすれた声がしぼりだされる。
 ――ごめんなさい、吉之助さん、ごめんなさい……
 きっと明日から、疲労はいっそうつのるだろう。昼は色を失い、夜は長くなるだろう。
 人生という名の永遠が、いまようやく始まったのだ。  <了>

MMGF!(0)

「いま三十代ぐらいで、
 戦争でもないのに周りでバタバタ人が死んで、
 気づけば友人や仲間は誰ひとりいなくなって、
 寂しさより先に自分の番が来るのを怯えてて、
 世界に大義なんてものはなくて、
 人生に目的なんてものはなくて、
 生命に意味なんてものはなくて、
 痛めつけられた猫が車の下で傷に舌を這わせるときみたいな、
 ほんの小さな平穏と安堵だけがただ続けばいいと願っている、
 そんな君に向けた、萌え萌え学園ファンタジー」
 プロローグ
 我が敵は頭上にあり。
 血と汗は足元に滴りて、豪奢な模様をなす。
 我が脚は腰を貫き、尻でようやく釣り合えり。
 我れ、反り返るは古代人の弓の如し。
 すさまじいプレッシャーが、両腕を通して全身を伝わるのがわかる。
 魂を高揚させていなければ、おそらく最初の衝撃だけで潰れてしまっていたに違いない。
 まるで、轍に轢かれる蟷螂のように。
 またひとり、崩れ落ちる。倒れたあとも、手のひらは頭上へと向けられている。
 両手にあるプレッシャーがわずかに勢いを増す。
 背骨がきしむ音が聞こえる。
 灼けるような塊が腹部から喉へめがけて、駆けあがってくる。
 ここまでか。
 いや、まだだ、まだだ。
 味らいをひたす熱した海水を、無理矢理のみくだす。
 ここで倒れれば、すべてが終わる。
 一千年前、小さな集落から始まった寄る辺ない人々の歴史は、終焉をむかえる。
 いや、まだだ、まだだ。それは、いつか必ずやってくるのだろう。
 だが、いまではない。
 折れそうになる膝に力をこめる。
 ずっと、自分だけのために死ぬと思っていた。
 だから、もしここで命はてるのだとしても――
 誰かのために死ねることが、うれしい。
 またひとり、崩れ落ちる。
 遠くで、何かが砕ける音が聞こえる。
 吸い上げられるように全身から力が抜け、急速に地面が接近する。
 次瞬、視界は暗転し、耳の中にわずかなノイズだけを残す。

MMGF!(1)

ペルガナ市国は半島の先端、ペルガナ史跡群と呼ばれる古代遺跡を覆うように成立した国家である。「鋤を入れれば遺跡に当たる」と言われ、古代遺跡をそのまま住居とする一帯も見られる。観光と学術研究がペルガナ市国の主産業であり、ふんだんに与えられた過去の遺産が国民の気質を穏やかにしている。
悪く言えば進取に欠け、国家プロジェクトであるはずの発掘と研究も一向に進みはしない。
なので、気持ちのいい晴れの日に、ショウ・アンド・テルと称して史跡群に連れ出したぼくのプロテジェが、歴史的な発見をしてしまうことも、実のところまれではない。
暖かい陽光に背中をあぶらせながら古代の生活へ思いを馳せているところへ、不吉な影が差す。
顔を上げると、一千年の空想もふっとぶ仏頂面の少女がにらみつけていた。
「メンター・ユウド」
小さな造作の顔なのに眉だけが太く、それが釣りあがるととても怖い。
動揺を見せまいと、ぼくはゆっくり膝の埃をはらって立ちあがる。
「何か問題でもあったのかな、スウ・プロテジェ」
動揺を見せないことはメンターにとって、いちばん重要な資質だと思う。けど、ぼくの声は少し裏返っていた。このプロテジェのことは、我がクラスを取りまとめるモニターとして信頼している。しかしながら、そのまじめ極まる仕事ぶりがぼくのいい加減なところを非難しているようで、ときどき苦手なのだ。
ぼくの無為へ何か批判を加えでもするように、スウは片方の眉を上げる。
けれど、彼女の発言はモニターとしての分を外さないものだった。まじめなんだよな。
「年少組がまた何か見つけたようですので、メンターの実地検分をお願いします」
また、というところに力がこめられる。やっぱり暗に非難されているのかもしれない。確かにここのところ、教室で講義をした覚えがないから。
「了解した。案内してくれるかな、スウ・プロテジェ」
「こちらです、メンター」
鷹揚に立ち上がると、後ろに手を組んで後をついてゆく。
スウはぼくよりも頭半分ほど背が高いので、横に並ばないように注意しなくてはいけない。もっとも、彼女がとくべつ高いというより、ぼくが低いんだ。狭い遺跡の入り口を這い入るには便利だけれど、威厳を保つには不便だ。
歩調に合わせ、一本にくくったスウの赤い髪の毛が馬の尻尾のように揺れる。
まるで時計の振り子みたいに規則正しく左右に揺れるので、ぼくは眠気を思い出す。
それにしてもいい天気だ。適度に暖かくて、昼寝にはもってこいの。
ぼくは空を見上げる。
ペルガナ市国の条例は、一般住居を平屋建てにすることを定めている。人口に比して土地がふんだんにあることと、何より古代の建築物との調和を乱さないためである。
だから、空がおそろしく広いのだ。
天球、という言葉がぴったりで、あらゆる方向へほとんど際限なく広がっているように見える。
ここで研究職に就くもののご多分に漏れず、ぼくも元々は留学組だ。初めてこの土地に着いたときの感動は、いまでも鮮明に思いだすことができる。
黒い森を越え、木製のやぐらを尻目にし、街道の果ての果てで乗合馬車を降りたとき、あまりの膨大な空間に圧倒され、思わずその場にへたりこんでしまった。
緑の丘々の稜線は天球の湾曲に沿うように、その奥に横たわる真っ青な海は水平線を無限に広げている。
ぼくは常々、自分のことを感情的というよりは、理性的な人間だと思っている。しかし恥ずかしながら、最初の呆然とした気持ちから醒めたぼくは、そのとき少し涙ぐんでいた。
でもそれは、この土地を訪れる者のうち、とびきり珍しい反応というわけではないらしかった。乗合馬車の御者がそばへやって来て、口ひげと皺の中の笑顔から座りこむぼくに片手を差し出す。
そして、こう言ったのだ。
「ようこそ、故郷へ」
なま白い手を握り返した赤銅色の力強さに、もう予感がしていた。
ぼくはきっと、この国で一生を終えることになるにちがいない。
どすっ。突然のやわらかい感触。
「どうかしましたか、メンター・ユウド」
どうやらぼくは思い出に浸りすぎていたらしい。
立ち止まるスウに気づかず、背中にぶつかっていたのだ。失態である。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていたんだ」
ぼくが深遠で高尚な思考をめぐらせていたと、このモニターが誤解してくれることを祈った。
だが、ちらりと目をやった彼女の頬が紅潮しているのは、どうやらぼくの試みが失敗に終わったことの証明らしい。怒っているのにちがいない。
怒ったスウ・プロテジェは、とても怖い。
ぼくはあわてて気をそらそうとする。
「あそこがそうかな」
指さした先には、ぼくのプロテジェたちが集まって何やらワイワイと騒いでいた。
ペルガナ市国の教育システムは、ぼくの生まれたところとはだいぶ違っている。いちばん特徴的なのは、あらゆる年齢の子どもがひとつのクラスにいることだろう。ちなみに、ぼくの受け持ちクラスには、六歳から二十歳までが同居している。
あまり期待をせずに歩み寄る。経験則(膨大な)から判断すれば、校外実習の際にプロテジェが当たりを見つける確率は、千にひとつくらいだ。手をさしいれたら、兎の巣穴だったこともある。ぼくは噛まれた。スウは噛まれなかった。研究の足しになるような遺物が見つかればいいんだけど。
ペルガナ史跡群から発見される道具、武器、生活用品、住居に至るまでがすべてひとつの共通した言語によって統御されているのは周知のことだ。
人類が世界の各地へと広がってゆく前に用いられていた、大統一(グラン・)言語(ラング)だとされている。ぼくたちが日常で使う言葉とは異なり、発した瞬間に現実へ物理的な干渉を行う。
単語や文法の概念もいちおうは存在するが、例えばひとつの単語の意味を担保する音声の幅は、ぼくたちの認識からすれば無限に近いほどの諧調がある。
文法にしても同一の単語が音声の違いによって品詞をたがえたり、おまけに構文が存在しないものだから、理論通りに運用することは極めて難しい。むしろ音楽に近いと表現したほうがいいくらいだ。
事実、古代人の交響曲だと考えられていた半刻近くにおよぶ音声記録が、ひとつの名詞を修飾する関係詞節の羅列に過ぎないことが判明したこともあった。その日、ぼくは寝こんだ。とかく、グラン・ラングはぼくたちの日常感覚を超越する。
だから、「神様のことば」なんて称されたりもする。信心深くないペルガナ市国の住民の言うことだから、揶揄も相当にふくまれている。だが、それは案外、遠くない例えなのかもしれない。ぼくにしたところで、学園に奉職してからたっぷり十年はグラン・ラングを専門に研究しているのに、まだその端緒についた気さえしない。
グラン・ラングの研究者にのん気な性格の人物が多いのも、うなずける。あくせく動いたところで、それは無限を前にすればゼロと同じだからだ。一生涯のうちにすべてが解明されることは、まずありえない。手の届く範囲だけをしっかりとやって、時が来れば次の世代にバトンを渡す。人間ができるもっとも偉大なことは、永遠を前にこうべを垂れる謙虚さだと知っているのだ。だから、ぼくのサボリも人間の本質へ迫る哲学的な内容を多分にふくんでいると考えてほしい。
どうやらプロテジェたちは、岩と岩の間に隠れた亀裂をのぞきこんでいるらしい。身体を横にすれば通れそうだ。
「見つけたのはだれかな」
声をかけると、みんないっせいにふりむく。
おもはゆい。大勢を前にメンター然としてふるまうことが苦手だったりする。
「ぼくです!」
最年少、六歳のシャイがいきおいよく手をあげる。信頼とあこがれしかない、子犬のような目でぼくを見つめてくる。
ぼくは他人から信頼されることがつらい。いつか自分の中の悪い部分が、それを裏切る気がするからだ。
正直であることは美徳だと思う。けど、正直にふるまうことができるのは、己の本性が善良であることに疑いのない人間だけだ。
ともあれ、少なくともこの瞬間、ぼくはメンターとしてプロテジェたちの前に立っており、それを演じる義務がある。
ぼくはシャイの頭に手をおいて、くしゃくしゃとかきまわす。
「よくやった。これはペルガナ市国の歴史の中で、もっとも偉大な発見のひとつになるにちがいないよ」
スウの視線を感じる。その顔には「前も同じことを言いましたよ」と書いてある。
けれど、賢い彼女はプロテジェたちの前でぼくに恥をかかせたりはしない。
言ってみれば、これはぼくの決め台詞だ。とかくメンターは衆人環視の中でコメントを求められがちである。だが同時に、繰り返しの日々に生きるメンターが対応するべき状況もさほど多くはない。場面に応じたいくつかの決め台詞を持っていれば、動揺による権威の失墜を避けられる。
しかしその定型文も、シャイ少年と一部のプロテジェたちには大きな感銘を引き起こしたようである。集団を前に重要なのは、異なった解釈の余地がある言葉を使わないこと。
ぼくは他人の視線を意識すると、動きが速くなる傾向があるようだ。状況を早く終わらせたいからだろう。はしっこい小男ほど、権威と遠いものはない。
後ろに手を組み、ことさらに悠然とプロテジェたちが取り囲む亀裂をのぞきこんでみせる。どうやら、地下道の天井に開いた亀裂らしい。
ぼくがひと言を発すると、壁が発光を始める。心の中でくちぶえを吹く。まだ生きている遺跡だ。取り囲むプロテジェたちが、おー、と声をあげる。おもはゆい。ぼくはただ、グラン・ラングで「光」と言っただけだ。
けど、プロテジェたちが驚くのも無理はないかな。ただの単語でさえ、メンターなのに使えない人、多いんだから。文節単位以上のグラン・ラングを発話することを施術と表現するが、意味のある文章を構成すること自体が並大抵ではない。
ペルガナ史跡群の遺跡は、壁面そのものが照明になっていることが多い。しかし、ここまで完全に機能しているものはめずらしい。地下道はわずかに湾曲しながら、奥へと続いている。
ふつう、どこかで埋まったり、途切れたりしているものだけれど……。
「刀を持ってくるんでしたね」
いつのまにかスウが隣に来て、亀裂をのぞきこんでいる。小さな顔が、ぼくのすぐそばにあった。若さゆえの無防備さに、心音のトーンが変化するのを感じる。できるだけ不自然にならないようにゆっくりと身をもぎはなすと、できるだけ明確になるよう言葉を選びながら、プロテジェたちに宣言する。
「この遺跡は第一級のものであり、ただちに調査を開始するべきと判断します。年少組はこのまま帰宅しなさい。年長組は学園へ戻り、事務へ調査チームの編成を依頼します。その後は帰宅してよろしい。予備調査のための斥候部隊はメンター・ユウドと――」
シャイが目を輝かせて跳びあがりかけるのに、
「志願します」
間髪を入れず、スウが手をあげる。冷静だ。そして、的確だ。
「よろしい。年長組は遭難等、万一の事態のために、メンター・ユウドとスウ・プロテジェが先行していることを同時に伝えてください。では、解散します」
プロテジェたちは三々五々、与えられた指示を持ってこの場を離れていく。シャイがうらめしそうに何度もこちらを振り返ったが、もどってくることはなかった。
「さて――」
スウが切り出す。にっこりと微笑んだ彼女は、猫のような好奇心でいっぱいだ。
「はじめましょうか、メンター」
二人きりのとき、彼女のほうが主導権を握っているような気がするのは、ぼくの気のせいだろう。きっと、劣等感がそう感じさせるんだろうな。
「少し高さがある。ぼくが先行しよう」
短くグラン・ラングを発すると、ぼくとスウの周囲を風がとりまく。
亀裂に手をかけて内側へとびこむと、ぼくの身体は重力を知らないようにゆっくりと下降してゆく。靴底で床の強度を確かめ、通路の前後を確認する。
「大丈夫みたいだ。おいで」
スウは亀裂に身体を押しこむのに四苦八苦している。凹凸がありすぎるんだよな。
やがて落下傘のようにスカートを広げながら、放射状に床のほこりを舞わせて着地する。
「もしかして、見えました?」
「いまのところ、魔物はいないみたいだね」
ぼくはスウの質問にとぼけた返事をかえす。
「それは何よりです」
スカートについたほこりをはらいながら、スウが言う。顔が紅潮しているのは、やっぱり怒ってるんだろうな。
地下遺跡の中に生態系を持つ生き物全般を、ペルガナ市国では単に魔物と総称する。言語学者は多いが、生物学者は少ないからだろう。
地上へ出てくることはほとんどなく、人に危害を加えることもまれである。過去の被害報告は遺跡の調査隊に限定されており、魔物にとっては要するにぼくたちのほうが侵入者なのだ。
壁が発光しているとはいえ、それは光ごけ程度のもので、かろうじて視界を約束してくれるだけだ。本は読めないだろう。ときどき、通路の奥からうなり声のようなものが響く。それが風鳴りなのか、何か生き物によるものなのか、わからなかった。
「やっぱり刀、持ってくるんでしたね」
すぐ後ろを歩くスウが、心細そうに言う。
「それより、荒事にならないことを祈ろうよ」
実際、魔物の一匹や二匹、腺病質のメンターひとりでも簡単に撃退できるだろう。でも、そういう筋肉質の発言をしないのがぼくのスタイルなのだ。
グラン・ラングを殺傷に用いることができるのは、研究者ならば誰でも知っている。けれど、殺傷を目的とした論文は受理されないことも学会における暗黙の了解になっている。もちろん、方便に過ぎない。心意気、みたいなものだ。刃物は、野菜も切れれば人も切れる。すべての研究は裏腹に、真逆の側面を抱えている。大事なのは、どちらをより多く見たいか、ということだ。
通路は右に曲がりながらわずかに傾斜し、地の底へとつづいているかのようだ。歩けど歩けど、どこかに到着する気配はない。
古代遺跡には大きく分けて、私的な住居と公共施設とがある。当たり前のことだ。当たり前のことだが、数千年を経て、古代の人々もやはりぼくたちと同じ人間だったのだなあ、という感慨をいつもおさえることができない。しかし、この遺跡が何の目的で建設されたものなのか、これまでの経験との類似点を見つけだすことがいまだにできないでいた。
進むにつれて天井が低くなり、圧迫感をもって頭上にのしかかってくる。閉所恐怖症にはつらいだろうな、これは。あるいは、背の高い青年男子には、かな。
ほどなくして、スウが立ち止まった。
「予備調査の役割は、もう十分に果たせたと思われますが」
せめてこの遺跡が建設された目的がわからないと戻れないよ――そう言おうとして振り返る。低い天井へ前かがみになったスウの太い眉が、情けなく垂れ下がっている。ぼくはなんだか愉快になって、思わずメンターらしくないからかいをする。
「なあんだ、怖いのかい」
たちまち薄明かりの中でもわかるほど、スウは真っ赤になった。
「いえ、別に」
ぷい、とぼくから視線をそらす。ふだんとは違って、抑制の裏がすけて見えるのがおもしろい。逆襲の機会を逃さじとまわりこんで、視線をつかまえる。
「やっぱり怖いんだ」
「こわくなんかないです!」
めずらしく、感情的に声をあらげるスウ。見れば、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。しまった、調子にのりすぎたか。
この娘はモニターとして、他のプロテジェたちのみならず、ぼくの保護者をも自認しているようなフシがある。優等生は、演じようとしている役割を否定されることにいちばん傷つくのだ。
ぼくはあわててメンターへと退却した。
「すまない、スウ・プロテジェ。いまのは撤回する」
スウの感情から肩書きを利用して逃げたのだ。ずるいやり方だ。
しかし、スウはぼくの作戦には気づかないようだ。いや、賢い彼女のことだから、気づかないふりをしているのか。
「いいえ、私のほうこそ、自制心を失いました。ゆるしてくださいますか」
厳しい表情のスウ。ゆるしてもらうのはこっちなのだが、ぼくは立場を悪用して主客をひっくりかえした。ゆっくりうなずくと、見ているこちらの胸が痛むほど、スウは表情をゆるませる。
「ひ、ひとつ言わせていただきたいのは」
なぜか、スウはひどく言葉をどもらせた。喉の動きでつばを飲みこむのがわかる。
「私はメンターといっしょならば、何も怖いことはありません」
声がふるえている。ここまで動揺したスウを見るのははじめてだ。遺跡の中には、悪い病気が閉じこめられていることもあるという。その影響かもしれない。早く調査を終わらせなくちゃな。
安心させようとして、ぼくはできるだけの笑顔で両手をあげてみせた。
「さあ、調査の続きをしよう。きっともう、長くはかからないよ」
先へ進もうとするが、スウは両手を組みあわせたまま固まっている。
しまった、笑顔が不自然だったか。しょうがない。できるだけやさしくと努めながら、譲歩を提示する。
「君がどうしてもイヤなら、学園から本隊がやってくるまで調査は中断しようか」
スウの口元がなぜかへの字に曲がり、幾度も目をしばたかせる。
「いえ、続けましょう。きっと長くはかかりませんから」
大股にぼくを追いこすと、肩をいからせるようにしてずんずんと奥へ歩いてゆく。
メンターの習い性かもしれないが、人の感情を己の利に誘導しようとするのは、ぼくの悪癖と言える。どうやら、スウを完全に怒らせてしまったらしい。
あぶないよ、と声をかけるが、ふりむきもしない。
ぼくは、悄然とついてゆくしかない。ああ、二人きりでよかった。つま先をながめながら少女のあとをついてゆく小男に、不審者以外の名前をつけることは相当に骨の折れる作業だろうから。
どすっ。突然のやわらかい感触。
気がつけば、ぼくはまたスウの背中にぶつかっていた。
「メンター、見てください」
状況に負けて思わずあやまってしまいそうになるのを、その声色が止めた。
通路は、その突き当たりで広大な空間へと変じていたのである。
おそらく、この広間の外側を巻くようにして、ぼくとスウは下ってきたのだろう。
床は土でむきだしになっていて、壁面はまぶしいほどに発光している。薄闇になれた目には、少々きびしいくらいだ。
広間の中心には、形も大きさもふぞろいの透明な円柱が、不規則に林立している。ぼくはくちぶえをふいた。
「こりゃ、当たりだ。シャイ少年の名前が教本に載るかもな」
きょとんとした顔でスウがたずねてくる。
「どうして当たりだってわかるんですか」
好奇に見ひらかれたスウの瞳がすこし赤くなっているのが気になったが、ぼくは大仰にため息をついてみせた。
「学力優秀なきみがこの光景から答えを見つけ出せないのだとしたら、ぼくのクラスにぼくの講義を理解しているプロテジェは、ひとりもいないだろうね」
優位であることが明らかな場面で皮肉っぽくなるのは、ぼくの悪い癖その二だ。
「講義中、資料じゃなくて、何か別のものを見ていたんじゃないのかい」
この言葉に、スウはたちまち真っ赤になった。クラスを預かるモニターとしての矜持が、このような遠まわしの侮辱に耐えられないのだろう。
「いえ、わかります。ちゃんとメンターのお話は聴いていましたから。古代人の公共施設に特徴的なものは、玻璃です」
祖母に育てられたというスウは、ときどき妙に古い語彙を使う。学園の外部理事だったよな、お祖母ちゃん。血統だな。
ぼくはスウのあとを引き取った。
「その方法は失われ、ぼくたちは粗悪なコピーを使うばかりだが、水晶は古代人にとってエネルギーを蓄積し増幅する一種の装置だったと考えられている。一般的に、遺跡のいちばん深いところに水晶はすえられ、全体へとエネルギーを供給する。数ある鉱物の中で、特に水晶が選ばれる理由は――」
「グラン・ラングとの親和性が高いからです」
じろりと視線をやると、あわててつけくわえる。
講義の中でならば、スウはぼくにとって極めて御しやすい相手と言えるのだった。
「教科書的には満点だけれど、意味がわかって言ってるかい?」
スウがぶんぶんと首をふる。範囲を定めた暗記ではいつもクラスいちばんなんだよな、この娘。
「グラン・ラングは現実へ干渉する。とはいえ、あくまで一過性の現象を引き起こすにすぎない。グラン・ラングの効果を固着させ、好きなときに取りだすことができるのが、水晶の特徴なんだ。エネルギーの蓄積や増幅も、その一環に過ぎない」
「なんでもできるんですか」
「理論上はそうみたいだね。グラン・ラングで記述された情報を集積するサーキットだから。古代人は紙を使わなかったそうだ」
「どうやって勉強したんでしょうね」
首をかたむけて腕組みするスウ。どうやら調子がくるっているのはぼくだけではないらしい。
「いま何の話をしているっけ」
「水晶ですね……ああ」
ぽん、と手をうつスウ。じろり、とにらみつけるぼく。
「これが口頭諮問なら落第点をつけているところだよ。紙の情報は少なくとも物理的には力を持たないし、量も非常に限定されている。質にしたところで、ぼくたちの日常語とグラン・ラングとの間には比較できないほどのへだたりがある。ぼくたちだって、膨大な情報の塊からできていると言えないこともない。もし、グラン・ラングのすべてが解明されるようなことがあって、無限の情報を蓄積できる水晶がどこかに存在するとすれば、生命をゼロから作り出すことも可能と主張する論文を読んだこともあるよ」
もっとも、ありえない仮定をふたつ組みあわせたその論文は、研究というよりは小説、というお決まりの非難でどこからも相手にされなかったみたいだけれど。
「おーい、生きとるかー」
いくつかの足音とともに、妙な抑揚の声が聞こえる。
どやどやと広間に闖入してきた白衣のプロテジェたちをかきわけて、声の主が近寄ってくる。黒髪に黒い上着、黒い巻きスカートのその女性は、肌の色も真っ黒だ。羽織っている白衣以外は、すべて黒いという徹底ぶりである。
「あいかわらず夜のように暗いね、キブ」
「アンタの性格ほどではないな、ユウド」
このやりとりはお決まりである。
だが、物忘れのように毎回、キブは大きな胸をゆらして豪快に笑う。こぼれた歯がすばらしく白く見える。これだけ黒ければ陰影も消えて、身体の起伏もわからなくなりそうなものだけれど、なんというか、こう、非常に肉感的な女性なのだ。
「おう、水晶林があるやん。こら、有望かもしらんな」
白衣の上からでもわかる大きなお尻をふりながら、キブは水晶のほうへとかけてゆく。
キブは史学科のメンターで、ぼくたち言語学科の人間とは切っても切れない関係にある。グラン・ラングには文字が存在しない。なので、遺跡で発見される遺物(レガシー)がなければ研究はおぼつかなく、グラン・ラングの知識がなければ、レガシーを精査することはできない。レガシーの中には、個人を特定するための起動ワードが封印されていることも少なくないのだ。
だから、史学科と言語学科の研究活動は、非常に相補的だったりする。公的・私的の区別なく、懇親を深める機会は多い。スウが研究員たちに取り巻かれているのが見える。なぜか、スウは史学科の男性研究員たちに人気があるのだった。
その様子を見ていると、妙に胸のあたりがざわざわする。まあ、容姿も端麗で、応用力に欠けるきらいはあるにせよ、聡明な少女だ。とりまき連ができるのはふしぎなことではない。
「ちょっと、こっち来てくれへんか」
袖をひっぱるキブ。水晶林までぼくを連れてゆくと、声を低くして耳うちする。
スウが顔をあげてこちらを見ているのが気になった。
「調査隊までひっぱってきてアレなんやけどな、この遺跡、お手つきや」
ぼくは全身が脱力するのを感じる。
「確かなのかい」
「まちがいないわ。見てみ」
キブが親指で示した先には、切り株のようになった水晶があった。視線をあげると、ところどころに同様の切り口が見られる。
「インクルージョンはすべて持ち出されてるみたいやな」
インクルージョンは史学科と言語学科に共有される隠語、一種の専門用語である。簡単に言うと、中身の入ったバケツのようなもの。中身はグラン・ラングの音声データであったり、レガシーであったり、抽象・具象さまざまだ。
そして、グラン・ラングを吹き込む技術が現代に継承されていない以上、空の水晶はただの鉱物にすぎない。
「はずれかあ」
嘆息して天をあおぐ。
「せめて、アルマのひとつくらいはと思ったんだけどなあ」
攻撃に特化したグラン・ラングが吹き込まれたレガシーを、特にアルマと呼ぶ。必ずしも武器の形をしているとは限らないが、とにかく多く産出する。古代人は、きっと戦争が大好きだったのだ。
「直接、研究室へ来てくれたらよかったんやけど、アンタのとこのプロテジェが事務を通してしもたからな。レポート出さなあかんで。あと、うちの連中へするペイのことも忘れんとってや。なんも成果があがらんかったら、内規ではアンタの自腹になるさかいにな……って、聞いとんのかいな、ユウド」
実際、ぼくは半分も聞いていなかった。
天井から巨大な水晶が、つららのようにぶらさがっているのに気づいたからだ。
薄紅色をしたその水晶の先端に、何かが入っている。
異変に気づいたキブが、ぼくの視線の先を追う。
「うひゃあ、ローズ・クォーツや! それに、見てみい、あの大きさ! あんなデカいの見たことないわ」
抽象・具象にかかわらず、内包するものの性質によって水晶は色を変えることがある。しかし、これはちょっと群を抜いている。
「なあ、先っぽに入ってるの、人に見えないか」
キブは手のひらを水平にかざしながら、目を細める。
「ちょっと透明度が低い水晶やから、はっきりとはわからへんけど……言われてみたらそんな気がせえへんこともないな」
「ふたりでこそこそと何をしておるのだ」
高圧的な低い声をかけられ、ぼくとキブは同時にふりむいた。
スウが腕組みをして立っている。制服の袖は肩口までまくられ、スカートは先ほどの半分ほどの長さにたくしあげられていた。
服装よりも表情だ。太い眉と両目は吊りあがり、唇の片側は挑戦的に歪んでいる。
ぼくはスウの腰に視線を送る。
そこに――
刀をはいていた。
ぼくはごくり、と唾を飲みこむ。かろうじてしぼりだした声は、みごとにかすれていた。
「それは、異装だよ」
「ふん、最近のメンターは学則も暗記していないとみえる」
スウは胸元にこぶしを引き寄せると、大仰にふりひらく。
「プロテジェ各人の特質を引き出すことに寄与すると客観的に判断される場合、学園の制服はその変形を認めるものとする!」
わあ、その条項、「客観的に判断する」のがだれかわかんないんだよなあ。やっぱり、「受け持ちのメンターが」と読むべきなんだろうなあ。
スウの背後で、上気した顔の研究員たちが、歓声をあげる。何しにきたんだ、あいつら。もうしわけなさそうな顔でキブがささやく。
「ウチはいちおう、止めたんやで」
刃物を持つとこの娘は、性格がおだやかではなくなるのだ。
うん、ほんのちょっとだけ。
「あれだな」
腕を組んだまま、小さなおとがいでスウはローズ・クォーツをさす。元々の造作が変わらないせいか、ひどく凶悪な印象を受ける。もっとも、背後の研究員たちがぼくに同意しないことは、尋ねるまでもない。
「人が入っているな」
「本当かい?」
ぼくは驚いて、思わず聞き返してしまう。失態である。
「プロテジェの言を信じようとしない点は、愚かなメンターの常として聞き流すとして、私の能力に対する疑義が呈されたのは看過できぬな」
スウの目が細められる。おそろしい三白眼だ。
来るぞ、例のやつだ。
「我が視力の透徹なるは星をもとらえッ!」
両手を広げると、スウは右足を大きく一歩ふみだす。
キブが悲鳴をあげて背後へまわりこみ、研究員たちが「うおおーっ」と歓声をあげ、ぼくは背中から両腕をつかまれて立ちつくす即席の人間盾と化す。
「我が拳の精強なるは金剛石をも粉砕するッ!」
ふみこんだ右足を支点に回転しながら左足を引き寄せ、両手を高くあげながら見得をきる。
「我が知恵の深甚なるは世界の深奥へ至り――」
首をふりまわしながらさらに見得をきる。赤いポニーテールが少し遅れてついてくる。
「そして、我が剣技の精妙なるは全ての物質の形状をあまねく規定するッ!」
右手が束にかかり、匕首の切られる音がする。
「我が剣の意思にそむくものは己を非存在と心得よ!」
気がつくと、ぼくの鼻先に剣先の冷たい感触がある。見えなかった。
血はでていない。でていないが、数分後に鼻だけもげるような技をすでにしかけられたのかもしれない。いや、もしかすればうしろのキブが血ぬれの遺体となって地面に転がっている可能性すらある。刀をはいたスウに関して、ぼくはすべての希望的観測をゼロにして向きあおうと決めているのだった。
もはや謙虚のショウ・アンド・テル教材と化したぼくは、降参のあかしに手のひらを見せて、「わかりましたわかりました」としゃがれた声でくりかえした。
「少なくともユウド、貴様には実際に証明しておく必要がある」
スウは傲然のショウ・アンド・テル教材のごとく胸をそびやかし、ぼくの鼻先からローズ・クォーツへと剣先を移す。
「とりだしてやろう」
本当かい、と言いかけて口をつぐみ、ぼくはあやういところで命びろいをする。
キブがぼくの右肩にあごをのせてのぞきこみ、様子をうかがっている。どうやら、まっぷたつにはなっていなかったらしい。まだ。
「ただ、アレが人である可能性を残す以上、わずかでも中身を傷つけてしまうことは避けたい。わかるな?」
ぼくとキブはつりこまれて、もはやメンターとしての威厳もどこへやら、がくがくと首を縦にふった。尖ったアゴが、肩に痛い。
「危険をゼロに近づけるためには、私の身体能力を若干高める必要があろう。そこで貴様の出番というわけだ、ユウド」
口の端をゆがめるようにして笑う。わるい子になってしまった。
だが、スウが言うからには、その見立ては正しい。
以前、史学科研究員たちの悪ふざけ(きっと、特殊な性癖を満たすためだ)で、スウはさまざまの硬度を持つ素材を試し切りするハメになった。切れないものは当然なかった。自然石にはりつけた濡れ紙を両断したり、濡れ紙を両断せずに自然石を両断したり、度肝をぬかれる見世物だった。グラン・ラングと同じように、ほとんど物理法則に干渉しているとしか考えられなかった。どうやったのかを尋ねると、「通すか切るかの違いだけだ。貴様には見えないのか」とだけ答えた。ある研究員が、自分のうしろにおいた木材を切断してみてくれ、と申し出たときはしかし、鉄拳で答えた。「遊びで用いていいものと、そうでないものの違いもわからんのか。愚か者め」
傲岸不遜だが、大言壮語ではない。刀をはいていようといまいと、根っこの部分では人に対する愛情がある。
ぼくはうなずく。
「よし、やろう。君のことを誰よりも信頼しているからね」
スウは一瞬もとのような顔になったが、すぐに背中を向けてローズ・クォーツと向かいあう。
「言葉にする必要がないことは、言葉にせぬのが賢明だ。そして女!」
「はいッ!」
キブが直立する。
「ユウドから離れておけ。集中の妨げになるといかんからな」
キブはぼくの肩をぽんぽんと二回たたくと、研究員たちのほうへと下がっていった。
「倍は必要ない。さあ、やれ」
ほっそりとしたスウの身体に意識を集中させる。もちろん、やましい意味ではない。伸びた足と膝裏のくぼみは悩ましいにせよ、仕事と私的な趣味を混同しないのが大人というものだ。
グラン・ラングの研究分野はいくつかの大きなカテゴリに分けることができる。それぞれがさらに子や孫にあたる分派を持っており、いまや相当度に細分化されている。本来ならば、すべての分野を横断的かつ学際的にとらえなければいけないだろう。だが、いかんせん、母体があまりにも無辺大に広がりすぎているのである。それぞれを組み合わせたときの有機的な動きというよりは、各パーツの持つ意味へ個別に当たっているのが現状だ。
ぼくが専門にしているのは、「付与」と「維持」である。付与者(エンチャンター)にして維持者(アップキーパー)というわけだ。研究分野の選択は、どうも研究者の性格と大きく関与している気がしてならない。専門による性格占い、というわけではないが、少なくともぼくの親しい研究者仲間で両者の不一致を感じることはない。人であれ、物であれ、自分以外に干渉するのが「付与」と「維持」のグラン・ラングが持つ特徴である。性格占いの結果は、野次馬とおせっかいだ。
この分野に関して、じつはけっこう決定的な論文を書いたことがある。研究全体の方向性そのものを変えてしまうような。慣例ではあるにせよ、うちのボスとの連名で発表されたので、周囲の評価がぼくに対して高いとは言いがたい。けど、内心ではこの「付与」と「維持」の実質的な第一人者であると自負している。
論文内で便宜上、魂と名づけたものへ直接干渉することで、人の身体能力を一時的に高めることができる。これが、「魂の高揚」と表現するぼくの発見。ちょうど、自律的に燃焼するロウソクの炎を外部からの操作によって、一瞬だけ激しく燃えたたせるイメージだ。ロウソクの比喩は二重になっていて、やりすぎると疲労を通りこして寿命そのものを縮めてしまいかねない。
この発見の後、丸二日寝こんだ。研究者の倫理として、まず己を実験台にしたからだ。自分のエネルギーを自分に供給すると、暴発をまねくという貴重な体験である。あくまで「付与」は、外的な現象であるべきという教訓だ。
集中を極限まで高める。
視界の明度は暗灰色へ。
事物の輪郭は、闇色へ。
スウの内側に清浄な青い光輝の塊が浮かぶ。
網膜を焼くその美しい輝き――
これこそが、魂と名づけられた内なる燃えあがりである。
ぼくは低く言葉をつなぎはじめる。細心の注意をもって、音をつなぎ、抑揚をつなぎ、意味をつなぐ。ひとつ発音をまちがえてさえ、グラン・ラングは全く異なる解釈へと変じてしまう。
剥きだしの魂を前に、生殺与奪はぼくの上にある。
それが、スウの信頼のかたち。
青い炎が燃えあがり、光を増す。やがて純白の輝きへと変じ、両目を射る。
スウが視界から消滅する。
跳躍したのだ。ローズ・クォーツを頂点とする軌跡を描いて、着地する。
ぼくは反響する鍔鳴りで、かろうじて抜刀があったことを知った。
奇跡の一瞬は終わり、広間には静寂の音が残された。
振り返ったスウの額には、髪の毛が一筋、汗ではりついている。
「よくやった。成功だ」
その言葉を待っていたかのように、頭上でローズ・クォーツが破裂する。外部からの衝撃というよりは、内圧で吹き飛んだように見えた。赤い水晶の破片は、壁面からの発光に照らされて、さまざまな色を発しながら、雨の如くぼくたちへ降りそそぐ。キブと研究員たちは一大スペクタクルに歓声をあげたが、ぼくの目は別のものをとらえていた。
水晶の破片にまぎれて、人が降りてくる。降りてくる、と表現したのは、まるで羽毛のようにゆっくりとした落下だったからだ。
ぼくは息をのむ。全身をおおうまでに豊かな髪の毛は黄金のように輝き、のぞく肌は乳のように白い。永遠とも思える時間のあと、一糸まとわぬその人影は、ぼくの両腕の中へおさまった。
人間の子どもだ。ぼくは目をみはる。
そして女の子だ。ぼくは目をそらす。
小さな、氷のように冷たい手のひらが頬にふれる。魚のように濡れている。
その瞳は、燃える魂ように青く。
その唇は薔薇水晶のように赤い。
この世のものではない美を前に自失するぼくの首へ、冷たい両腕がまわされる。
深く、長い吐息のあと――
渇した旅人が泉へじかに口をつけるように、薔薇水晶の唇はぼくの唇を狂おしく吸いあげたのだった。

MMGF!(2)

会議が建設的であるための条件はいくつかあるが、構成員の全員が共通の利益を代表していることは、そのうちでも大きなもののひとつだろう。利益を獲得できないことが大きな不利益、あるいは組織の存続に関わるような場合はなおよろしい。そして、会議時間は明確に区切られてあるべきだ。会議の長さを水増しするのは、だいたいにおいて感情的な側面なのだから、それが入りこむ余地をあらかじめ織りこんではいけない。
だから、どう転んでも、この会議は建設的にはなりようがないのであった。
定例の学科長会議は月に一度、全学的に休講の上で、朝から行われる。
名称こそ学科長会議だが、その構成員は原則としてプロテジェを指導できる資格を持つ者、すなわちメンター以上とされた。終了時間は特に定められておらず、アジェンダの記載事項がひと通り報告・審議しつくされるまで続く。
また、ペルガナ市国の行政庁、通称ブラウン・ハットの政策決定に関する諮問委員会を兼ねているため、議題の内容は学園運営や学術報告の範囲に留まらない。資料が前日までに提示されることはきわめてまれであり、原案すら存在しない審議事項も少なくない。人の叡智というよりはむしろ忍耐力を試される場であり、市国唯一の学府とは思えぬ混沌をはらんだ会議である。
すでに開始から四時間は経過していようか。もはや会議の流れについていく気力を失って、ぼくはぼんやりと室内をながめる。
出席者全員が対面するよう、長方形に配置されたテーブル。
学園長やブラウン・ハットの長官を始めとした首脳陣の座る一辺が、慣例的に上座である。そこから遠ざかるほど人物の持つ権威は弱まると考えてよい。
ぼくとキブは学園長から最も遠い場所に、なかよく座っていた。首脳陣と学科長以外の座席は特に定められておらず、なんとなくいつもとなりあって座る。
史学科長、つまりキブの直接的な上司に当たる人物の「第三百四十五次ペルガナ史跡発掘中間報告書」が、(恐ろしいことに)ただそのままレジュメ通り読みあげられるの聞きながら、ぼくは窓の外へ目を向けた。あいもかわらず、とびきりの晴天である。会議室の内側から見る空が、いつもよりずっと青く見えるのはどういう物理現象だろう。
ぼくのななめ前方(より権威に近い)で、きつい目をした痩身の男が、指先にまで神経が通っているように、するどく挙手をした。目には燃えるような意志の力がみなぎっている。苦手なタイプだ。
「議長、発言を許可ください」
「報告が進行中ですが、メンター・スリッド」
議長が許可を与えたと思ったのか、スリッドは決然と立ちあがった。またか、という感じで顔を見合わせる列席者たち。
「史学科長殿は、我々に発掘品の品目を順番に聞く義務があるとお考えか。あるいは、ペルガナ市国の学府に籍を置く我々の誰かが、この資料に書かれた文字を読めぬと疑われているのか。議題は山積している。前回の会議でも申し上げた通り、議長は議題の優先順位をあらかじめ決定し、迅速な議事進行に努めるべきである」
「うちのボスにゆうてもしゃーないがな」
スリッドから目をそらしたまま、キブが小声でつぶやく。
すかさず、学園長から近い位置に座っていた筋肉質の男がぬっと手をあげる。岩のごとく節くれだち、親指が五本ならんでいるような手。体技科長だ。
「いまの発言は、学科の思想的独立性に対する深刻な疑義の提示と考えられる。発言の撤回と、議事録からの削除を願いたい」
気の弱い人が聞いたら、それだけで卒倒しそうな胴間声だ。
「異議なし」
「異議なーし」
間髪をいれず、体技科のメンターたちが唱和する。上背も横幅もぼくの倍くらいあるんじゃないか。
市国警備隊を兼任する体技科は、要するに兵隊さんだ。他国の侵略から学園のみならずペルガナ市国全域を防衛するために、青少年の健全な育成と肉体改造に日々はげんでいる。だが、「遺跡に眠る巨大人型兵器の謎」といったジュブナイルによる消極的イメージ外交の結果なのか、ここ百年でペルガナ市国が外的侵攻を受けたという記録はない。なのに、演習と称して捕獲した魔物と素手で格闘したりするのだ。
彼らがヒグマだとすれば、スリッドは気性の荒いニワトリにすぎない。
「学園長は会議内に恫喝のまかりとおるこの現状をどのようにお考えか!」
だが、痩身を反らせ、猛然といどみかかる。
この間、報告の腰をおられた史学科長は、レジュメの束を手にもったまま、怒りによるものか、はたまた老人性の何かによるものか、ぷるぷるとふるえ続けていた。
スリッドの発言が武と文を分離することの有用性へおよびはじめた頃、会議室の扉がノックされる。
「失礼します」
聞く者をふりむかせる、凛とした声。スウだ。
「メンター・ユウドに解決をお願いする案件が発生しました」
ぼくは助かったとばかりに立ちあがり、早足になって内心を悟られぬようゆっくりと出口へ向かう。スウの顔が、このときほど愛らしく見えたことはない。
「あの、いちおう手順ですから」
穏やかに、諭すような声。おっと、忘れるところだった。ぼくは咳払いをひとつして、ゆるんだ表情を引き締しめるとふりかえる。
「中座を許可下さい。案件を処理次第、直ちに議場へ復帰いたします」
白髭の学園長がうなずき、うらめしそうなキブの視線を尻目に、ぼくは完全に解放されたのだった。

廊下へ出て、うつむき気味の数時間に曲がった背中をのばすと、ぽきぽき骨が鳴る。
もう歳かなあ。さほど広くない会議室でのひといきれは、よっぽど空気をよどませていたんだろう。ただ息を吸いこむことがいやに心地いい。こういうとき、幸せとは不幸のない状態をさすのだな、としみじみ思う。
「メンター・ユウド」
とがめるような声にぼくは首をすくめる。少し覚悟をしてふりかえって、笑ってしまった。スウが、飼い主に額をたたかれた犬のような、情けない顔をしている。
「マアナかい」
「マアナです」
わずか一週間ほど保護者をつとめただけなのに、ぼくたちふたりの呼吸はもうぴったりだ。おもむろにスウが制服の袖をまくり、ぼくの鼓動を少し速める。二の腕には、きれいに歯型がついていた。
「噛みぐせがなおらないなあ」
自分で言っておきながら、ほとんどペットに対する口調だな。
「散歩につれていくために服を着せようとしたら、暴れだして……」
「そりゃあ、まあ、いやがるよなあ」
例えば、よろいかぶとの常時着用が義務づけられた文明圏に生活する事態におちいれば、最初はぼくでも抵抗を示すにちがいない。
「でも、女の子に裸で外を歩かせるわけにはいきません」
言いながら、なんだか変なことを話しているなという困った表情になるのが面白い。
「それで、むりやり押さえつけたら噛みついて、逃げ出しました」
「つまり現在、裸の少女が学園内を徘徊しているということだね」
「しかも噛みつきます」
スウが強調する。今日が会議日でよかった。学園内に残っているのは、一部のまじめなドミトリ組だけだろう。だいたいが町で遊び歩いているはずである。
ぼくとスウが話しているのは、遺跡から連れ帰った女の子のことだ。
人形のように整った顔立ちに気おくれがしたのは、最初の眠りから覚めるまで。いまでは遠い昔のことに思える。食事は手づかみする、服はやぶいて脱ぐ、夜中に起きて暴れだす、気にくわないと噛みつく、怒るとつばをはく、おまけにトイレ……いや、これは言うまい。
とにかく、見た目から想像する中身との落差が壮絶なのである。狼か何か、人類ではない生き物に育てられた野人が、マアナなのだ。この名前は、彼女が怒ったときに叫ぶ声がそんなふうに聞こえたので、とりあえず呼んでいるうち、ぼくたちの間で定着してしまった。
「メンター・ユウド、ちょっとマアナは私の手には負えません」
ここ一週間、満足に眠れていないスウは、育児疲れとしか形容できないものを表情に漂わせている。
「ぼくの子どもだと思って、落ちつき先が決まるまでもう少したのむよ」
我ながら、ずるいやり方だよなあ。頼りすぎていることは自覚している。けど、他に方法を思いつかない。キブに預けることも考えたけど、下手すると腑分けとかされそうだ。水晶から産出したものは人じゃなくてインクルージョンだと言い張ってるからな。
しばらく歩いて、スウがついてきていないことに気づく。ふりかえると、完全に固まっている。
「おーい、どうしたんだい」
スウの目の前で手のひらをふってみせる。
「な、なんでもありません。それより、マアナを見つけないと」
顔を真っ赤にしたスウが足早に追いこしていく。
あれ。何か悪いこと、言ったかな。年齢的にも思春期だしな。
若者の心を忘れてしまった大人の苦悩をかみしめながら、ぼくはずんずんと遠ざかる赤い馬の尻尾を追いかけた。
学園は新棟と旧棟に分かれていて、それぞれ木造と石造りである。教室やドミトリなどプロテジェが中心にかかわる施設は新棟に、研究棟や会議室などメンターが中心にかかわる施設は旧棟に集中している。
スウを追いかけて新棟を通りぬけるとき、ドミトリの玄関でそうじをしている女の子がぼくに会釈をしてくれる。寮長だ。思わずぼくも頭を下げる。
ドミトリには長くお世話になった。より正確には、まだお世話になっている。他国からの留学組に提供される学生寮で、年齢の若いものは相部屋からはじまり、成長に従って個室が与えられる。入居の規約は、じつにこと細かい。しかし、退居に冠する条項はただひとつ「プロテジェの身分を喪失したとき」だけ。広義に解釈すれば、学科長以外は指導を受ける上位者が常にいるわけで、プロテジェと定義できないこともない。ペルガナ学園の良いところは、現存するルールの適用については厳密なのに、ルールがおのずから持つ抜け道をふさぎにはかからないおおらかさにある。メンターとプロテジェは謙虚なぼくにとって対立概念ではなく、いまだに若者たちにまぎれて、ドミトリの一室を占拠しているのだった。
つい先日、世代交代が行われた。規則に違反したならば、体技科所属のプロテジェであっても腕力で屈服させた旧・寮長だったが、別れの場面では信じられないくらいにおいおい泣いた。花束を用意したのが、まずかったのかもしれない。涙と鼻水の洪水に聞きとりは極めて困難だったが、「たくさん殴ったが、若者の将来を思ってのことだった。娘が後を継ぐから、安心してほしい。私に似て気立てのよい子だ」という内容をお話しになられた。絶妙に空気を読むドミトリ組たちは、微妙な表情で顔を見あわせる。そのとき、居合わせた全員が、丸太のようなものすごい猛女を想像していた。
予想に反して、やってきたのは小柄な眼鏡の女の子である。しかも、かつての猛女との共通点は、目が二つあり鼻が一つあり口が一つあることだけ。動転したプロテジェたちはドミトリの長老へ、この裏にある国家的な陰謀は何かと意見を求めにきたが、「ううむ、隔世遺伝」と唸るのが精一杯であった。とりあえずいまのところ黒幕は存在しないようである。もちろん、経過観察を怠ってはならない。
「寮長、このへんで子どもを見かけませんでしたか」
我ながら、不自然な質問だ。ドミトリは六歳から入寮できるのだから、朝から晩まで見かけてるに決まってる。寮長にはマアナのことを伏せているから、やましさが歯に分厚い絹をかぶせたのかもしれない。
「さっき、そちらのプロテジェさんと楽しそうにじゃれあっている女の子なら見ましたわ。金髪の」
スウが妙な表情を浮かべている。それはちょうど二の腕に噛みつかれている場面のはずだ。世の中を善意でとらえれば、じゃれあっているという表現になるのかもしれない。
寮長の丸眼鏡が陽光を反射し、視線が読めなくなる。
「何日か前からいらっしゃいますわね」
ばれてる。
「ぼくの姪っ子なんです」
完全に自然なタイミングで嘘が出る自分は、いつしか汚れた大人になってしまっていたのだな。
もちろん、すまし顔でうなづく隣のプロテジェも共犯だ。
「ごきょうだいがいらっしゃったとは、初耳ですわ」
人差し指を頬にあてて、小首をかしげる。愛らしさと恐怖が結婚したようなすさまじさに、ぼくは背中へ汗がにじむのを感じた。どこまで知ってるんだろう、この人は。
スウがうろたえたようにこっちを見、ぼくの嘘の完全な傍証となった。こら、こっち見ちゃダメだろ。
嘘が次の嘘を生むダイナミズムは、いつ味わっても胃が痛む。しかし、どう言葉をつぐべきか考えるぼくに助け舟が出された。
「もちろん、書面さえ出していただければ、規則的には何の問題もありませんわ」
完璧に抑制された、隙のない微笑み。
詮索しすぎないが、職分の範囲で言うべきことは言う。若いのにしっかりしてんだよな、この娘。
「必ず」
真面目くさってうなづくと、両手を胸にひきよせて動揺のショウ・アンド・テル教材と化して視線を泳がせるスウの腕をつかみ、足早にその場を離れる。たちまち赤くなるのは強くつかみすぎたせいか。腕のぶんの血流が、顔にあがったのだろう。
新棟をぐるっと回っても、マアナは見つからない。
「いないなあ」
「いないですねえ」
まだ、頬に赤みが残っている。
「もういちど旧棟を探してみようか」
「賛成です」
ぼくたちは再び、ならんで歩き出した。
旧棟はペルガナ市国でも数少ない、二階より上がある建物のひとつだ。石造りとひとくちに言っても、レンガを積み重ねたようなものとはわけがちがう。ぼくも最初に聞いたときは信じられなかったけど、いっさいの接ぎ目がないそうだ。おそろしく巨大な一枚岩から切り出されたかのように、すべてひとつながりでできている。古代の建物に手を加えずそのまま現代へ流用するのは、ペルガナ市国のお家芸である。横着ここに極まれりという感じだが、中にいるものたちを厳粛な気持ちにさせる効果はあるようだ。心を澄ませば、個人ではない連続が時間を越える大きなひとつを創りだしたことに気づくのだから。
しかし、ぼくの感慨をさえぎったのは、もっと矮小な何かだ。地面へ無造作に脱ぎ捨てられた靴下。つまみあげてみると、手のひらも入りそうにないほど小さい。

「マアナのかな」
「あそこにもありますよ」
スウが指差した先に、もう片方があった。どうやら、容疑者はすぐ近くに潜伏しているみたいだな。旧棟を回りこんで、中庭に出る。
等間隔に樹が植えられていて、建物に切り取られた空が四角いという面白さ。人工と自然の調和という言葉がぴったりのこの場所を、ぼくはたいそう気に入っている。
だが、平和を体現するはずの空間に漂う空気は、いまや不穏に満たされているのだった。無残にも胸元で引き裂かれたワンピースが枝に引っかかり、下ばきが植え込みに投げ捨てられているせいだ。公共の場にある女児の下ばきがこんなにも心さわがせるものだとは知らなかった。真っ赤になったスウがとんでゆき、おおあわてで証拠物件を回収する。
「ドミトリから新しいの、持ってきますね」
胸元に衣類をかかえたスウが小走りにかけてゆく。ああいう生活感が妙ににあうなあ。よいお嫁さんになることだろう。
棟に沿ってならぶ緑に囲まれた正方形の中央には、ひときわ大きな樹木が生えている。この位置は学園設立の当初、あらゆる周縁から等距離にあったそうだ。もっともそれは設立された最初期にまでさかのぼればのこと。新棟を含めた建て増しに次ぐ建て増しで、いまやここは辺境である。
空からハミングが聞こえる。小鳥のさえずりとは違う。これは、グラン・ラングだ。歌っているのが誰かは、もうわかっている。
はるか昔にこの世界から消えた言葉のネイティブ・スピーカー、遺跡の少女・マアナの母語はグラン・ラングである。
この衝撃がぼくにとってどれほどだったか、とうてい語りつくせない。この子ひとりの存在で、これまでグラン・ラングの研究に費やされてきた莫大な時間をかるがると一足跳びにできる。それは、微に入り細に入りすぎてもはや誰も全体像を見渡せなくなったこの分野全体を統御し、かつまとめて底上げするようなものすごい可能性だ。
そしてこれはスウやシャイや他のプロテジェたちには内緒だけど、コミュニケーションを試みたぼくのグラン・ラングはマアナにまったく通じなかった。この衝撃がぼくにとってどれほどだったかも、やはりとうてい語りつくせないのであった。若手の研究者たちの間では一頭地を抜いた存在であると密かに自負していたぼくは、高くなっていた鼻をぽっきりとへし折られたのだ。実地検証を年長のプロテジェに言い続けてきたことがさかさまになって、はねかえってきた形である。もう一生涯、机上の空論という言葉は使うまい。
重なりあった枝葉の隙間から陽光がさして、風が吹くたびに違う輝きを見せる。大きくさしのばされた枝に、裸の女の子が座っていた。
「おーい、あぶないから降りておいで」
マアナは一瞬だけこちらを見て、すぐにハミングを再開した。「私が可愛いってことは知っているわ」とでも言いたげである。実際、噛みついたり暴れたりしないときのマアナは、とびきり造作の整った女の子だ。それをわかっていて、相手が本気では怒れないと確信しているふうにさえ思える。
将来、どれほど多くの男たちがこの毒牙の犠牲になるのだろうか。保護者としては、いまのうちにこの芽をつんでおかなくてはいけない。意を決して息を吸い込むと、背後に人の気配がした。
「いつまで駄々をこねているのだッ!」
つんざく怒号が響きわたり、ぼくとマアナは首の半ばまでを肩にうめてふりかえる。
怖いほうのお姉さんが戻ってきていた。
早足で近づくと、そのまま地面と平行に滑空するような前蹴りで、樹木に革靴をねじこんだ。樹齢幾百年を思わせる太い幹である。それが、びっくりするほど大きく揺れて、大量の葉っぱと数匹の昆虫とひとりの女の子がバラバラと落ちてくる。
ぼくはあわててマアナの落下地点に手をさしのべる。ナイスキャッチ。
「この一週間の歯がゆいことといったらない。そいつは、機嫌をとればとるだけ増長する生き物だ」
腕組みしたお姉さんが、眉を片方だけあげてにらみつけている。マアナは完全にふるえあがり、両腕と両足でぼくの首と腰をがっちりホールドする。ぼくは安心させるために背中をなでてやるが、温かかった。遺跡で受け止めたときは、氷で冷やした魚のようだったのに。
「まあまあ、ふつうの子どもじゃないんだから、少しは大目に見てやらないと」
父母の役割が逆転している気がする。
「それを親バカというのだッ!」
少し観点がズレているのが面白いが、笑ったりすると上半身と下半身が別々になってしまうので、口元をヘの字にゆがめるにとどめることにした。
スウはマアナの鼻先へひとさし指をつきつける。たちまち悲鳴をあげ(たぶん、グラン・ラングで)、両腕と両足はますます強くぼくの首と腰をしめつける。かなり苦しい。
「おまえはユウドの温情に生かしてもらっているのだから、ユウドの言うことはなんでも黙って聞け。いいな?」
この三白眼で迫られては、遺跡の魔物だって逆らえない。少なくとも、ぼくには無理だ。グラン・ラングを母語とするマアナは、わからないはずの言葉にぶんぶんと首を縦にふった。人の理性というよりは、動物の本能が内容を察知させたのだろう。やっぱり、教育は気迫だよな。
その日の午後、新しい服を着せられたマアナは、スカートをばたばたしたり全身をぼりぼりかいたり襟首に両手をつっこんでひっぱったりしていた。けれど、部屋の戸口でスウがずっと匕首を切ったり戻したりしていたので、ついに寝床に入るまで露出の癖を敢行することはなかった。
また一歩、人間に近づいたのである。
当面の問題を解決したぼくは仕方がなく会議室へもどったが、なんと体技科とスリッドの論争はいまだに続いていたのだった。
「よかったやん。クライマックスには間におうたで」
キブが目線を資料に落としたまま、席についたぼくを肘でつついた。
その日の学科長会議は、日付が変わるまで続いた。一日の三分の二ほどを会議していた計算である。しかし、アジェンダは半分も消費されておらず、臨時学科長会議招集の日付が議事録の末尾に記載されて散会となった。
会議室を出たぼくとキブは、真面目くさった顔でしばらく並んで歩いてから、旧棟を離れたところで抱きあい背中を叩いて、お互いの忍耐をたたえあった。
ドミトリの自室に戻ると、二人の女の子が毛布にくるまってベッドを占領している。そばまで椅子を引き寄せて、腰を下ろす。座るときにかけ声がもれるのは、もう若くない証拠だな。窓からの月あかりに照らされた二つの愛らしい寝顔に、しばし心癒される。
マアナのことは早急に解決すべき案件だ。発掘品をリストアップした史学科の目録には「人型土偶」として記載してあるから、公的な処理は終わっているといえば終わっている。老齢の学科長に代わり、報告書の作成は実質キブがすべて代行しているからこそできたことだ。何より、これは過去になかったケースである。報告書の様式なんてものも、存在しようがない。
当然、研究者としての倫理を遵守しようとするなら、マアナの存在はすぐにでも公開するべきだ。グラン・ラングの母語話者というのも、実はぼくひとりの思いこみだってこともありえる。祖に極めて近いことに疑いはないが、派生した別の系に連なる言語ではないと断言する材料を、ぼくは持ち合わせていないからだ。真の客観性は、大勢の主観が集まらないと生まれない。
しかし一方で、マアナは小さな女の子だ。大勢の興味の中に投げこんでから、その大勢のひとりとして接することができるだろうか。正直、これまでのぼくに研究以外の優先事項はなかった。研究の業績が人類へ残すだろうものの大きさに比べれば、人がふつう生活で作り出すものには、何の興味もわかなかった。
けれど、それはたぶん、自分を守るためのポーズだったのだ。誤解を恐れずに言うなら、マアナといるときにぼくが感じているのは、おそらく父性である。娘を研究の具に差しだして省みない、マッド・リサーチャーの思いきりがぼくになかったことは確かだ。
そして、残ったひとつ。最大のひとつ。
ぼくの晴れない疑念は、こう表現できる。
もしかしてマアナは、ぼくたちがいま見ているような姿からは、遠いのではないか。
マアナと唇を重ねたあの瞬間にぼくが見た光景を、言葉にしてわかってもらえるか自信がない。
常人ならば、魂が収まる座となるべき場所に、無辺大の広がりを持つ上下のない空間があった。人の魂を器に入った水だと例えるなら、マアナのそれは天と地をひとつにして満たされる虚空。その莫大な感覚に、ぼくの心はもっていかれかけた。永遠を直視して、なお正常でいられる人間がいるはずがない。
砕ける砂のように、意識が漂白されてゆくその瞬間。首のつけ根に衝撃を感じ、視界は反転して黒く変わる。気絶したのだ。あとからキブに教えてもらったが、スウが刀の柄を思いきりねじこんだのだった。ひどいやり方だが、結果としてスウはぼくの恩人である。しかし、感謝を述べるぼくへの返答はにべもない。
「かわせたはずだ。邪念があったんだろうが」
一言もない。赤い唇が迫ってくるとき、逡巡があったのは確かだ。
生産性に限って言えば疑問符のつく会議で綿のようになった頭では、一週間考えて見つからなかった解決策を発見できるはずもなかった。隣室のプロテジェに部屋の片隅と寝具を借りようと立ち上がって、ぼくはかすかな胸さわぎを覚える。ちゃんと順序立てて説明できるようなものではない。
「付与」と「維持」を専門とするぼくは、現状の把握に対してとても敏感である。一般人とは、はかりの精度が違うのだ。現実に対して付け足された余剰を把握できなければ、それを維持することもできない。付け足した分は管理されなければならないし、管理しないならば元のように取りのぞく必要がある。難しい言い方になるが、人為が管理されないまま自然の中に残されると、必ず悪い結果を招くのである。
ぼくの胸さわぎは、つい数分前までの現実といまの現実とは等価でないと感じたことが原因である。おそらく、学園内に何か異物がまぎれこんだのだろう。
そういえば、以前もこんなことがあった。遺跡の魔物が敷地内に迷い込んだのである。いつも暗い場所にいる魔物は夜行性(正確な表現ではないけど)なので、陽が落ちた地上を遺跡の続きと勘違いして出てきてしまうことがある。普段は人を襲うことはないが、遺跡の中にいると思いこんでいる魔物にとっては、こっちが侵入者だ。
深夜にも関わらず、ぼくの通報へまっさきにかけつけたのは、体技科長だった。相手は直立した狼みたいなヤツで、ずんぐりした体技科長の倍ほどもあった。薄闇に光る両手足の爪は、ひとつひとつが刃物のように尖っている。ぼくはすっかり動転して、人を呼びに走ろうとしたが、
「間に合あわねェよ」
体技科長が低くつぶやくのと魔物がとびかかるのは、ほぼ同時だった。
その後の光景は忘れもしない。なんと、あっというまにぶちのめしてしまったのである。
しかも、素手で。
魔物が、まるで子犬のような悲鳴をあげて地面に崩れるのを、ぼくは確かに見た。
「俺っちはこいつを住処に戻してくらァ。おめえさんは早く寝ちまいな。明日も講義があるだろがよ」
容積でいうなら三倍はありそうな巨躯を軽々と抱え上げ、体技科長は悠然と歩み去っていった。
だが、今回の違和感はそのときとはちがう。魔物ではないとすれば、いったい何だろう。スウが目を開き、ベッドから身体を起こす。毛布の下に刀を抱いている。
「何か入ったな」
まったく眠っていなかったように、はっきりとした声だ。スウがそう感じるのなら、間違いないだろう。
「ちょっと見てこようと思うんだけど」
語尾をにごすのはずるいやり方だと思う。しかし、メンターとしてプロテジェに危険を強要する発言ははばかられた。もしかすると男としての矜持なんていう、前時代的な錯誤が働いたかもしれない。
「ついていこう。自称・頭脳派のメンターをひとりで行かせるわけにはいかんからな」
スウは気づかないふりだ。拒絶したって、ついてくるに決まってる。実に情けないことだが、過去、スウの助力なしにはどうにもならなかった事件がいくつかあった。名実ともに、彼女はぼくの保護者なのである。
夜の旧棟は人気がなく、しんと静まりかえっている。ついさっきまで大勢のメンターたちが喧々諤々、議論を交わしていたのが嘘のようだ。
もともと何かがあったところから何かが無くなると、ある種の虚が生みだされる。それは、ただの不在よりもいっそう濃い喪失だ。お祭りなんかで、集まった大勢がいなくなるときの寂しさが独特なのは、そういったわけである。
「付与」と「維持」を専門とするメンターは、誰へともなく頭の中でそんな講義を行う。隣を歩くスウはたいへん緊張した面持ちで、ぼくの話を聞いてくれそうになかったから。
曲がり角や階段を通るたび、スウがぼくを見て、ぼくはスウにうなづく。ぼくは異物に対する人間感知器のようなもので、スウは己が察知したことを確認するためにぼくをつかうのだ。
やがて、スウが立ち止まる。
「ここの上ではないかと思うが」
スウが誰かに意見を求めるのは、極めてめずらしいことだ。何を参照することもできない一瞬に、真空のような自力で判断を下すことが、スウの強さの拠っている理由だから。そこには、一種の威厳とさえ言える何かがある。一貫した行動が作り出す暗黙の威厳。他人に向けられるとき、それは重大な信頼だ。ぼくが体技科長に感じるものも同質である。
ぼくは目をつぶると、神経を集中する。ちょうど頭上に、意識の透過を妨げる何かがある。本来、この学園にはなかった紙魚のような異質だ。
「いるね」
ぼくの答えは簡潔だ。スウが求めるものを理解しているから。
「一歩だけさがって、ついてきてくれるか」
右手を軽く束におき、つま先立ちにやや前傾した姿勢で階段に足をかける。スウからは肌に痛いような気配が発散している。
完全な臨戦態勢だ。
ぼくはうなづき、ちょうど一歩分の距離をあけて後ろをついてゆく。こうなったスウに言葉は不要だ。言葉は遅すぎて、一語たりともその行動を追いこせない。
すべては一瞬で始まり、一瞬で終わるはずだ。
旧棟の廊下は部屋の面積に対して、ずいぶんと広いスペースが与えられている。それはつまり、古代人の公共への感覚をそのまま反映していると言える。扉に区切られた空間よりも、誰もが行き来する場所の方が重要だったのである。しかし、その崇高な遺志をあざ笑うかのごとく、いまや物置や展示場と化している一画も少なくない。
最初、芸術学科が陳列するオブジェと見分けがつかなかったのは、あまりに人が持つ固有の気配と遠かったからだろう。フードを目深にかぶり、床に届くほどのマントで全身を覆っていたにも関わらず、その見かけは確かに人だった。
ぼくたちへ向けられた音声は、確かに言語と定義できる規則性を持っていた。
不安を生じさせるほど大きな抑揚。
対話を前提としない高圧的な連続。
聞きとりの困難なその音階を文字に写すとすれば、こうなるだろうか。
「ウイハフ・アヒュウ・トゥシイ・ジクエイ・フザット・クオブエ・キャンビ・ナジイフ・イアポテ・ロウワズ・ンシャル・ディテク・スレット・テッドアラ・フォドォンチャ・ウンドジス・イルド・リイジョン」
グラン・ラングとの類似性は見出せる。しかし、世界に現存するすべての言語は祖から派生したいずれかの系に連なるクレオール語(劣化ゆえだ)と言えるため、何も発見していないに等しい。
フードがはねのけられる。
青い眼、尖った耳、深く刻まれた皺。風のない屋内でたなびく赤い髪。人のようであり人のようでないその造作は、ペルガナ市国の人々をひどく誇張して描いているともとれる。わきあがる不快感はそのせいか。
その魂は、沸騰する岩を思わせる濁った輝きを放っていた。すでに付与が施された痕跡がある。維持は必要ない。なぜなら、魂は永久に変更を上書きされているから。
生命を縮め身体能力だけを向上させる類の冒涜。
暴力が知恵の儚さを摘むことを是とする世界観。
ぼくは全身を嫌悪感が包むのを抑えきれない。なぜって、それはずっと自分自身に向けてきた批判と同じものだったから。軽々とぼくの葛藤を飛びこえて、生命の有り様がデザインされるのを目の当たりにする衝撃。
これは、人間存在の戯画だ。
そしてあれはぼくでもある。
だが、不思議な既視感を伴った――
自失を縫うように、爆発的にマントがひらめく。
月光の照り返しをしか視認できないそれは、床面すれすれを滑空し、伸び上がるように真下からぼくへ迫る。
鼻先に冷たいものを感じたと思った瞬間――
鈍い金属音が爆ぜる。
柄の無い短刀が床に突き刺さり、震える。
「思索はあとにしろ」
抜刀をすませたスウが、ぼくと敵との軸線上に歩を進める。
半月状に開いた口腔には、乱杭のように大作りな黄色い歯が並んでいる。
見開かれた眼が訴えるのは、驚愕のようでも喜悦のようでもある。
マントをからませて両腕を広げた姿は、さながら猛禽を思わせる。その内側へ、夜の闇を言うには不自然な黒い空間が広がっていた。
応じるように、スウが身をかがめる。獲物を前にした肉食獣のようだ。
飛翔。違う。疾走。
その速度は人外の。
スウが駆け出す。
確実な死へ。
赤子のような信頼。
ぼくが何とかすると疑わない。
間に合うか。
青い光輝。清澄なる人間の証明。つかまえた。
砂時計が重力を無視するイメージ。
ふたつの人影が交錯する。
スウと同調する視界。没入の深度を調整できず、客観性がふきとんだのだ。
短刀をつかんだ腕が鞭のようにしなって、首筋をねらう。
上体を沈ませたのは回避のためだけではない。
攻防一体。
同時に放たれた袈裟切りが胸元を薙ぐ。
だが、浅い。まだ、動いている。短刀が振りあげられる。
斬撃の勢いをそのまま殺さぬ、独楽のごとき急激な回転。
そして間髪を入れず、低い体勢から逆袈裟に斬りあげる。
体を入れかえるほどの躊躇ない踏みこみは、完全に対象を静止させた。
スウから視界を取りもどしたぼくは、思わずその場にへたりこむ。遅れてやってきた極度の緊張と弛緩が、どっと通り抜けていったのだ。あぶないところだった。あと少し判断が遅れていたら、切り伏せられているのは逆だったろう。
ゆっくりと刀を鞘に納めながら、スウが戻ってくる。太い眉を寄せたその顔は、なんだかすごく不機嫌そうだ。
「毎回思うことだけど」
ぼくは肩で息をしているのを悟られぬよう、軽口に紛らわせてしまおうとする。
「もう少しブリーフィングの時間が欲しいね」
不機嫌な表情を少しもゆるめぬまま、スウはぬっとぼくの目の前に右足を突きだした。親しき仲にも礼儀あり、メンターに対するプロテジェのあるべき姿を説こうとすると、
「靴がやぶけてしまった」
見れば、つま先に穴のあいた靴底から親指をぴこぴこと動かしている。さっきの回転で、摩擦に耐えられず擦り切れたんだろう。ぼくは思わず吹きだしてしまう。
「笑いごとではない。少し本気をだすとこうなるからイヤなんだ」
スウは頬をふくらませて不服そうだ。裏を返せば、それほどきわどい勝負だったということ。ほんの紙一重で死を切り抜けたことを、スウは気づかせまいとしているのだ。
ぼくは真顔でスウを見る。
「新しい革靴をプレゼントするよ。今度は、破れないのを」
スウは一瞬、元のような表情になったが、すぐに顔をそむけて、
「当然だな」
かわいくない。
「立てるか?」
手をさしのべてくる。かわいい。
「メンター・ユウドには、いつものように実地検分をお願いしなくてはな」
いつものように、という部分に皮肉がこめられている気がする。
「実地検分こそがメンターの仕事だよ」
ひとまわりほども小さい手のひらを握り返す。どこにあれだけの力が秘められているのか、いつもぼくは不思議に思う。
床に盛り上がるフードとマントは、生命の残滓すら感じさせない。それはただの物体だ。何よりあれだけ深く斬りこまれ、一滴の流血すらないのだ。
少し難しい、専門的な話になる。ぼくの見る魂とは、肉体を制御する中枢、機甲学科ふうに言えば駆動系である。駆動系=魂は長く人にしか存在しないと思われてきた。例えば昆虫に駆動系はない。昆虫の魂は、高揚しないのである。しかし、昆虫が生命活動そのものには支障を持つわけではない。ここから考えて、魂の実在が肉体の制御にだけ関わるものでないことは、明らかだ。
ある海洋生物に魂が発見されたとき、言語を統御する言語系が予言された。両者を結ぶ共通項は、環境への単純反射ではない意志伝達を行うところにある。言語を持つことが特定の実在を他の実在から切り離して特別にする証拠であり、グラン・ラングの深奥に迫る大きな問題提起だった。だが、言語という枠内で思考する我々が、その外側から己の枠組を知覚する方法があるのか。ときに言語系は、永遠のファンタジーと揶揄されるゆえんである。無論、ぼくはこの観点からのアプローチをあきらめていない。
魂を知覚でき、かつ言語を持つこの物体は、間違いなく人であるための最低要件を満たしている。異形ではあるにせよだ。ぼくはしゃがみこんで、フードの表面に軽く触れる。途端、煤のような黒い飛沫が舞い上がった。羽虫を思わせる音を立てて宙空を漂うと、やがて完全に消滅する。床に残されたフードとマントは、もはや人の形を失っていた。
「検分は終わっていたのか?」
スウが若干の侮蔑をふくんだ(ように聞こえる)声でぼくに問う。
「もちろんさ」
ぼくとて、毎回をだしぬかれているわけではない。スウに向けてかざした小瓶の中では、煤が生きているかのように旋回している。
「これを史学科か生物学科で調査してもらえば――」
言葉を途中で切ったのは、持ち前の弱気ゆえではない。新たな気配を感じたからである。それはスウも同じだった。背筋を伸ばし、まるで石壁を透視できるかのように遠くを見る。
「ドミトリの方だ」「ドミトリだな」
検証の回数こそ少ないが、ぼくとスウの意見が一致したときの精度はほぼ100%だ。マアナことが脳裏をよぎった。もしかすると、こっちが陽動だったのか。
ふたりは同時に駆けだす。階段を跳びおり、中庭を走りぬける。スウがときどき振り返りながら「もっと早く」と言いたげな視線を投げてくる。
加齢による基礎体力の低下がうらめしい。置いていってくれ、とも言えない。さきほどと同じ力量の相手だとすれば、どちらが欠けても退けることは困難だ。
全速力で新棟の前を駆け抜けると、ドミトリの玄関にふたつの人影がある。
うごめく赤い髪と尖った両耳。
対峙するのは、丸眼鏡の寮長。
横たわるのは、絶望的な距離。
注意をそむけるために大声をあげるいとまもあらばこそ、赤毛の怪人は可憐なる我らが寮長へと飛びかかった。
ぼくの数歩先を走るスウの刀が、むなしく空を薙ぐ。
鈍い破裂音。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
怪人の後頭部へ、足の甲を巻きつけるような上段蹴りがヒットしたのである。
続いて、くずおれるその水月へ、超々至近距離からの正拳突きが、文字通り背中へと突き抜けた。
羽虫の音をたてて黒い気体と化す怪人の向こうに姿を現したのは――
寮長だった。
「あら、おかえりなさい。門限後の外出に関する規則、ご存知ですよね?」