”甲虫の牢獄”の発売日から二週間後のあの日、ぼくは電気街の量販店にいた。
高天原の家を出た後、ぼくは転々と路上生活を続けていた。もちろん、本当の路上生活者のようにというわけではない。ぼくにそんな覚悟があるわけはなかった。コンビニで食料を買い、公園のベンチで荷物を枕に眠る。常に自分が薄汚れているように感じたあの頃とは正反対に、ぼくは自分の清潔さをいやというほど思い知らされた。砂埃にまみれたベンチに身を横たえるのに躊躇し、手の甲を這う蟻に悲鳴を上げて飛び起き、深夜の高架下で酒盛りをする黒いぼろ布たちが優しくぼくを手招きするのに全身が泡立つような嫌悪を感じて逃げ去る。
理屈はない、ぼくが上等だと思うわけでもない。ぼくの中で感情の選択は常に自動的に行われ、いつだってぼくは意志を持たないかのように、ただそれに身体を従わせるしかなかった。公衆トイレの個室にこもり、水道水に湿したハンカチで身体の汚れをぬぐう。ぼくが関わりたかった現実とはこれのことではないと思いながら。
雨戸を閉め切り、ブラインドを下ろし、モニターの明滅だけが光源の牢獄で、ぼくは自分からそうしているなんて気持ちはまるでなくて、いつも誰かがぼくを閉じこめているのだと感じてきた。そして、ずっと現実と関わりたいと思い続けてきたはずだった。現実とは観念のことであり、最大公約数の側の観念に同化できさえすれば、その事実はぼくを救うはずだった。誰に教えてもらうまでもなく、解答はわかっていた。
個人の観念ではない現実が存在するのか。きっとぼくはあのとき、それを高天原の中に見たのだ。しかし、彼はぼくを去った。それを考えると、なぜか涙がこぼれる。高天原との生活を失ったぼくに、もう戻る以外の方法は残されていない。それはわかっていた。みんなが、両親がぼくを馬鹿のように扱うのとは別に、いつだって何でもわかっていた。ただ、行動できなかっただけ。
ぼくは戻ることをいつまでも先延ばしにしていたかった。なぜってあの牢獄に戻れば、高天原がぼくを迎えに来たいと気持ちを変えても、ぼくを見つけることができないではないか。しかし、そのはかない希望は日々に薄れた。黒いぼろ布たちの手招きに含まれる優しさと、その理由に壊された。
ぼくの足が電気街の量販店へと向かったのは、高天原の作品をこの目で見ることで彼と過ごした日々が決して虚空に消えたのではなく、何かに結晶するための時間だったのだということを確認したかったからだと思う。
子どもの頃に読んだ漫画の一ページ、激流が飛翔するような、視覚化された時間の恐怖。
ぼくに人生を積み上げることはできない。なぜなら、それはあらかじめ過不足なく与えられている。ぼくにできるのは、与えられた人生が秒刻みにほどけてゆく取り返しのつかなさに身悶えること。その取り返しのつかなさにわずかの抵抗を示すために、高天原は時間を作品へと結晶させるのだろう。彼にシナリオを書くことを強制され、ぼくには彼がなぜエロゲーを作り続けるのか理解できたように思えた。最初に出会ったときよりも、彼に近づけたように感じた。この一年間は決して無駄ではなかった。それを確信したくて、ぼくは電気街の量販店へと向かったのだ。例え、曳かれていく子牛が見上げる青空ほどの気休めに過ぎないとしても、あのときのぼくにはその行為が必要だったのだろう。
案内板に従い、人の密集するエレベーターをなんとなく避ける気持ちになって、階段をつかって三階へ上がる。
目の前に広がったのは、ひとつの階全体が美少女たちに占拠されている光景だった。
一枚一枚を取りだしてみると非常に鮮やかで奇抜だが、全体として眺めると逆に没個性的に見えてしまうポスター群で周囲の壁面は埋められていた。ポスターに描かれている美少女たちは、ぼくに向けて穏やかに微笑みかけていた。なぜか元山宵子のことを思い出す。ぼくはあわてて頭の中に浮かんだその映像を振り払った。
最初、何年ぶりかの人混みに感じた窒息か過呼吸のような胸苦しさは、次第に薄れた。やがてほとんど安逸さえ感じている自分に気づく。その場を往来する人々は、まるでお互いがいないかのように振る舞っていたことが理由だろう。いつもならば誰かがぼくの横を通り過ぎたあとに背後から向けられる意識の破片のようなもの――ぼくのあずかり知らぬ場所で決定され、ごわごわした肌触りでぼくを規定するあの見えない拘束を全く感じないですんだ。ここにいるのは、ぼくと同じ種類の人間ばかりだからなのかもしれない。ひとかたまりになって声高に話し合う一団からさえ、高天原の家で感じたような予期せぬ混沌を孕んではおらず、同一の個人を拡大した複数に過ぎなかった。
フロアーの中央には、切り出した石塊としてひとつひとつのパッケージを積み上げたピラミッドがそびえていた。しばらくその周囲をぐるぐると回った後で、ぼくは”甲虫の牢獄”を見つけることができた。ゲームの本数と置かれている場所から、ぼくは高天原へ寄せられる暗黙の評価が理解できたような気がした。高天原の家でパッケージの見本を見せられたことはあったが、こうして外で目にするのは奇妙な感覚だった。あるはずのない物が、あるはずのない場所に存在するという違和感が原因だったのだろう。ぼくの中でそれは、あの家の風景や雰囲気と分かちがたく結びついていた。
ぼくに覚悟を決めさせるのに充分なほど感慨が染み渡るのを待ってから、”甲虫の牢獄”を元の場所へと戻す。目的はすでに果たされており、すぐに立ち去っていいはずだった。結果的に、ぼくの好奇心がぼくをそこへ致命的なほど長く留めてしまったことになる。ぼくは、誰が高天原のエロゲーを購入するのか知りたいと思ったのだ。彼と出会ったことすらない他人が、彼によって結晶化させられた時間に接触し、そしてその事実で高天原を祝福する。ぼくは切実に、その瞬間を見たいと思った。周囲を取り囲む同族たちとのぼくを分けるものがあるとすれば、それは曲がりなりにも高天原と時間を共有したという自負――彼に手を引かれて、世界の真実へとつながる数少ないの道のうちの一つをたどり、その奥にあるものを垣間見たという自負だった。
あまりにも多くの人間が”甲虫の牢獄”の前をただ通り過ぎてゆく。このピラミッドの裡で、高天原のエロゲーは唯一輝きを放つキーストーンのようにぼくの目には映った。パッケージを一瞥しただけで立ち去る者、何の確認もしないまま無造作にいくつもの箱を積み上げてレジに向かう者、周囲の様子を気にしながらうろうろと歩き回りためらいを露わにする者――ぼくと同様の視力を持つ人間は存外に少ないようだった。しかし、売場に立ちつくす長い無為の時間は、ぼくを失望させなかった。それはむしろ、ぼくの自負と選別の意識をいっそう強める役割を果たしていたように思う。
やがて、歳月にくすんだ青いリュックサックを背負い、ほとんど黒ずくめの上下に度の強い眼鏡をかけた男が、”甲虫の牢獄”を手に取った。パッケージの絵を眺め、裏面のゲーム内容説明を読むことを幾度か繰り返すと、その男はレジへと向かった。ぼくは緊張と落胆が入り交じったような気持ちで、気づかれないようにその後ろを追いかける。
男は無言のまま、無造作にパッケージをカウンターへ置く。それを取り上げた店員は、客の顔を見ないまま無表情でレジを打ち、機械的な声音で金額を告げながら購入特典のポスターを商品の入ったビニル袋に挿入した。男は自分が購入しようとしているものに全く興味を残していないといったふうに、何か別のものを探すような仕草で店員の動作から視線を逸らせた。
ぼくと目が合う。男の顔が何かの感情に歪む。
かけている眼鏡が外れ、ほとんど床と水平に滑空してゆく。
次第にその表情は、随意筋が作り出せる範囲を越えた歪みを見せはじめる。
頬に押し上げられるようにして、男の左の眼球がせり出してきて、ついには眼窩からまるで漫画のように外れて飛び出してゆく。
いっしょに引っぱり出された視神経が見え、与えられた力学的動きに従って飛び去ろうとする眼球を一瞬間、空中に静止させる。
さきほど押し上げられてきていた男の頬の皮膚が、このときその張力の限界を迎えて布のように裂ける。
赤い血の飛沫がわずかに空中へ散る。
男の身体が後方へ、まるで走り幅跳びの跳躍を逆回しにしたような動きで飛ばされていく。
同時に、空中で完全な静止状態にあった眼球は、ついに視神経の束縛から解き放たれる。
それは黒目の部分の移動でゆっくりと回転していることを示しながら、レジ正面の商品棚に並べられた雑誌に描かれている美少女にぶつかり、その胸の谷間を汚した。
この一連の様子を、ぼくはまるでビデオのコマ送りのように認識する。
脳の中心で何かが炸裂した。
そう感じた瞬間、重力は消失し、ぼくの両足は床から浮き上がる。
天井と床を幾度か交互に見たと思うと、背中に強い衝撃を受ける。
静止する視界。物理法則は取り戻され、ぼくは地球へと墜落する。
肺から空気がすべて絞り出され、吸い込もうとする努力を背中の痛みが妨げる。
混乱した意識の中で身体の前面に触れているのが床なのか壁なのか、全くわからない。
その滑らかな平面を両手で押し返そうとするが、わずかの力を込めることもかなわない。
そこですべてが暗転し、ぼくは自失した。
鼓膜をやられていたのかもしれない。
ぼくが再び目を覚ましたのは周囲の騒動というよりも、耐え難い熱気が理由だった。
うつぶせから身を返して息をすると、灼けるような熱さが流れ込んできてむせかえる。天井は黒い羽虫のような動きで満ちている。背中の痛みに耐えながら上半身を起こすと、そこには果たしてゆらめく真っ赤な柱がそびえていた。その柱はうねるように天井へ向けて上ってゆき、その頂点で黒い羽虫を吐き出し続けている。
まばたきを二回した後、それが炎であることがわかった。エロゲーを積み上げた、あのピラミッドが炎上しているのだった。
炎は天井をなめ、床を這って、みるみる壁面へとのりうつってゆく。
壁面のポスターに描かれた美少女たちの顔は、笑顔から泣き笑いへ、泣き笑いから黒いあばたを生じ、そして最後に嫉妬の赤い炎を吹いて、別のポスターの美少女へと浸食してゆく。
熱気に宙を舞う、美少女の裸体、愉悦の表情。肉と人格を汚されるために作り出された究極の奴隷である彼女たちが、自らの存在の消滅に対して見せる、心からの快楽の乱舞。
ぼくは両足に力を込めて、歩けることを確認する。
炎の柱の中に未だ燃え残り、哀願の表情を浮かべる美少女キャラたちは、自分たちが本当は何をされているのか、死ぬに及んでなお気づくことのできない無数の白痴だ。心を剥奪された彼女たちには、自分を憐れむことすら許されてはいない。
なぜか高天原の言葉が思い浮かんだ。この世で最も重い罪は、赤ん坊の信頼を裏切ることだと。ぼくは彼女たちを見ないようにしながら、この地獄から逃げ出すための出口を探した。
非常口へと続く床には白痴の性を、赤ん坊の生を買春するためにやってきた無数の人買いたちの肉の残骸が累々と続いていた。名状しがたい感情に促され、ぼくはそれらを意識的に踏みつけ、蹴散らしながら進む。煙に咳き込み、涙と鼻水を流して、ぼくは「死ね! みんな死ね!」と絶叫した。これまでのようではなく、心と言葉は完全に一致していた。祖父の死と全く違う死を、ぼくは彼らの上に望んだ。その言葉によって世界の全員が本当に死に絶えたとしても、全く後悔を感じなかったはずだ。
足下に抵抗を感じたと思った次の瞬間、足ばらいを喰わされた格好で、ぼくは肉の中へ頭から倒れ込んだ。べっとりと顔についた液体を手のひらでぬぐいとる。立ち上がろうとしてかなわず、背後へ目をやると、顔の左半分が真っ黒く焼けただれた太ったおたくが、ぼくの足をつかんでいた。そのおたくは残された右半分の顔で、泣き笑いのような温情を乞う表情を浮かべていた。
ぼくの人生の中で視界がくらむような、他人に対する本当の怒りを感じたのはこのときが初めてだった。つかまれていない方の足を振り上げると、小太りの男の顔面の右半分を力任せに蹴りつけた。おたくは、ひゅう、と呼吸音ともつかないような細い悲鳴を上げた。その悲鳴に怒りをあおりたてられて、ぼくは何度も何度も繰り返しおたくの顔面を蹴りつける。だが、そのおたくは、万力のような決死の力でつかんだ足を離そうとしない。
ぼくはもう完全に我を失った怒りで、その手首を蹴りつけた。渾身の力を込めた三度目の蹴りで、木の枝が折れるような感触が伝わる。そのおたくはたまらず手首を押さえてもんどりうって、ぼくは解放された。
そこに至ってまだ、ぼくの中の怒りは燃えさかっていた。Tシャツとジーンズの間から、白い腹がのぞいている。ぼくは全体重を込めた踵で、その白い腹を踏みつけた。そのおたくの口から、鮮血と胃の内容物が入り混じった液体が、瞬間おどろくほど高く噴射する。両目を見開き、両手両足を真上に伸ばしてぶるぶると痙攣し、そして、ぐったりと四肢を投げ出した。
ぼくは動かなくなったおたくを見て獣のように絶叫しながら、非常口へと突進する。
誰かを殺してしまったかもしれないことを恐れたわけではない。相手の生死は気にならなかった。その肉が生命を伴っていようがいまいが、この炎の平等さはその内側にすべてを消滅させるだろう。自分の中に生まれた初めての激情が急速に冷えてゆくのが実感されたから、絶叫したのだ。右手を大きく伸ばし、遠のいていくその感覚を実際につかまえることができると信じているかのように、ぼくは追いかけた。
人の死さえ、ぼくに影響を与えないのか! 人を殺してさえ、この心は何も無かったように復元するのか! ぼくはこの世界の中で、自分の死以外のすべてを全く重要だと感じていないのか!
ぼくは叫びながら涙を流した。底の知れない人の孤独へ絶望して泣いたのだと思っていたが、その絶望はすぐに自分自身への愛情とあのおたくへの疑う余地のない嫌悪感に上書きされた。自分の生を求めて階段を駆け下りるうち、ぼくが関わった一人のおたくの死は、多くのおたくの死を道連れにして、完全にぼくの内側で無化された。
店の入り口にはすでに消防車が到着しており、多くの野次馬たちが集まっている。
衣服に火のついたまま転がりでてきたぼくを、消防隊員が手に持った布で抱きかかえるようにして包みこむ。布の下に限定された視界に、ビルの壁面から巨大な美少女が見下ろしているのが見えた。
無防備な微笑みで、頬を染めた恍惚で。特別な誰かへしか見せるはずのない無上の信頼の表情を、尊厳を、愛情を、すべての人間の前へさらしているのだ。彼女はどんな醜いおたくたちをも、心の底から信頼して、愛しているのだ。
ぼくは絶叫した。それはまるで気の違ったような叫びだった。
拘束がゆるむ。これまでぼくの人生を長く強く抱きしめていた力が、このときゆるんだのだ。
ぼくは赤ん坊のように身をよじって消防隊員の手の内から逃げ出すと、サッと遠巻きになる野次馬たちの間を両手を振り回して絶叫しながら走り抜けた。
眼前に見下ろす巨大な美少女の慈愛の微笑みをただ避けるように、ぼくは野路裏の闇へと遁走した。
虚構日記 -時空の探求-
One more final
二階から数時間ほど聞こえてきていたかすかなうめき声が途絶える。
テレビを消してソファから立ち上がると、洗面所に向かった。
ぼくは手を洗うのが好きだ。清潔な泡に汚れが溶けてゆくのを見ると、その当たり前の正しさにいつだって胸がつまるような思いになる。
流れ出る水に両手をこすりあわせながら、なぜかずっと昔に読んだ漫画の一場面が浮かんだ。
自分の両手に血がこびりついている幻影から逃れられず、真夜中にひとり手を洗い続けるボクサーの話。なぜその男は両手を洗い続けていたのだったか。
理由を思い出す前に、ぼくの両手はすっかりきれいになった。
窓から差し込む陽光に手のひらを透かしてみる。
昔、祖母がぼくの手をとって、苦労の無いきれいな手だと言ったことがあった。
ゆっくりと両手に顔を近づけてみるが、ただ石鹸の香りがするばかりだった。
久しぶりに玄関の扉を開いて、外に出る。
目映いばかりの陽光に、ぼくは一瞬世界の上下が無くなったような錯覚を覚える。
しかし目が慣れてしまえば、微睡むような昼間の住宅街が広がっているばかりだった。
門扉に身体をあずけ、誰かが通り過ぎるのを待つ。
しばらくして、よく太った婦人が痩せた犬を散歩させて来るのが見えた。ぼくはとびきり大きな声で婦人に挨拶をする。
婦人は驚いたような、奇妙なものを見るような空白の後、作り笑顔で会釈をする。ぼくの噂はきっと界隈に知れわたっているに違いない。
足早に通り過ぎようとするところへ、さらに他愛のない話題を投げかけて引きとめる。
居心地の悪そうな表情をして早くこの場を離れたがっていることがわかったが、ぼくはことさらにもったいつけて話を長引かせた。
ぼくの話が途切れるのに、ほっとした様子で立ち去る後ろ姿を見送りながら、あの婦人はこれから何度も今日の会話を誰かに吹聴することになるに違いないと思った。繰り返すうちに勘所をつかみ、彼女の話術が次第に長けてゆく様を想像すると、自然と微笑みがこぼれる。
ここ数日分の新聞や広告を取り出そうと、中身に押されて蓋の浮いた郵便受けを開けた。
足元に政党の広報誌や町内誌が散らばる。かがみこんで、そこに白い封筒がまじっているのに気がつく。
切手は貼られておらず、表書きにぼくの名前だけが書かれている。動悸が速まるのを感じながら、封を切る。
古風にも青いインクで手書きされた二枚の便箋が入っていた。
「私の作り出してきたものが所属する文化は、精神の死を前提としていない。だが、肉体は死ぬ。君の苦しみの正体はそこにある。だから、死を選ぶことは間違いではない。死を生涯の前提としない文化に所属する以上、いつどこで精神を終えるかを選択することは、全く個人の決断によっている。肉体の死と精神の死が乖離している以上、生物としての終焉を君自身に追いつかせることは、醜悪な結末を見ることになるだろう。我々では、肉体的な死を許容する精神の在り方を完成させることができないからだ。少なくとも私には方法を見つけ出すことができなかった。君ならできると思うわけでもない。しかし、可能性は常に残されている。決断を下す前に、君はまず考えるべきだ。
私は、私以外の思考がこの世に存在することをただ許せなかった」
差出人の名前はどこにも書いていなかった。
懺悔の聴聞僧の条件は、告白の相手と最も遠くにいること、そしてうなずきをしか知らないこと。
ぼくは泣き笑いのように顔を歪めるが、それは手紙に書かれている文字を滲ませるには至らなかった。
便箋を丸めて、庭の灌木へ向けて投げる。それは湿った日陰の土の上に落ちた。
「――」
家の中へ戻ろうとして、名前を呼ばれるのを聞いたように思った。
振り返っても誰もいない。
しかし、今度は確かに聞こえた。
段差に足をとられて片方のサンダルがぬげたが、ぼくは構わず通りへ飛び出した。
辺りを見回しても、真昼の住宅街に人気はない。
「――」
また。
ぼくは声のする方へ身体を向ける。
はたして、そこにあるのはぼくの家だった。
玄関の扉が、内側からゆっくりと開いていく――
姿を現したのは、母だった。
こみあげる恍惚に耐えるように瞳は潤み、頬は薄く紅潮している。その姿は若々しく、ただ輝くばかりに美しかった。
脳の裏側に刺さるかすかな違和感。
絵の具のような質感で塗られた彼女の肌はまるで――ではないか。
瞬間、目の前を光の粒子の群れがよぎった。ぼくはよろめくように数歩後退する。
砂嵐のようなそのノイズがやがて視界から消えると、後頭部にあった棘のような違和感は完全に消失した。
長くぼくの頭蓋を占め、人生そのものと同義になっていた綿のような苦痛は無くなっていた。
全身が脱力するようにゆるみ、これまで経験したことのない多幸感に圧倒され、目頭が熱くなる。
グラマラスな姿態を蠱惑的に揺らしながら、母がぼくに歩み寄ってくるのが見えた。
そのとき、水面に急浮上するダイバーのような唐突さで、なぜか”現実感”という単語がぼくの認識を乱した。
しかしそれは刹那のうちに消え、心は元のように凪いだ水面を取り戻す。
これ以上ないほど優しい仕草で、母がぼくの肩に手を回す。その指先から全身に温もりが広がって、胸の内は喜びに満ちる。美しい母と仲良く寄り添うぼくの姿を、誰かに見て欲しかった。いまや何の言葉も必要なくぼくは認められ、愛されていた。
ずっと何を勘違いしていたんだろう。まるで青い鳥の逸話のようだ。待ち望んでいた幸福は、ぼくが気がつかなかっただけですぐそばにあったのだ。
明日からは何をしよう。ああ、明日が待ち遠しい! 明日のことを考えるだけで胸がわくわくする。この感覚こそが、自由な人間の喜びなのだ。
そうだ。子どもの頃、毎夜布団に入る前はいつもこんな喜びに満ちていた。ずいぶんと長い間、ぼくは人としての喜びを忘れていた。しかし、これから時間はたくさんある。これまでの不幸を取り返す時間はいくらでもある。
最愛の人に肩を抱かれて期待と希望に胸をおどらせながら、ぼくは背後に扉の閉まる音を聞いたのだった。 <了>
少女保護特区(1)
おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。 (カポーティ『冷血』 )
奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。
少女保護特区(2)
後の歴史が断じるどのような悪政も、誰かの善意から志向されたことを予は疑わない。かの青少年育成特区でさえ、有効な対策の無い少女への略取行為の抑止となることが、その当初の目的であったのだ。ここに一枚の許可証がある。すでに持ち主は死亡しており、彼女の死は当局によって公的にも追認されているため、もはやそれが与えていた特権は失効している。山中深くで行われた少女殺人に立ち会った際、清掃局の到着前に予が資料として私的に接収したものである。一見して運転免許証と見まがうが、所持者に与えられる権限は全くその外見と乖離している。青少年育成特区のホームページに記載されていた「復讐において生じたあらゆる結果を合法とする」という文言は削除され、現在では閲覧することができない。だがそれは、文言が表現していた実体の消失までを意味しないのである。
許可証の右肩には、3×4センチの写真が貼付されている。少女の前髪は目許まで垂れ、薄く青白い唇と相まって持ち主の印象を乏しくしている。写真の下には、Avenger Licenceと英文字で朱書きされている。はなはだ正確性に疑問符の付く英語だが、発案者が青春時代に少年漫画を愛好していたのだろうことだけはうかがえる。氏名、誕生日、本籍地、住所、交付年月日の記載が並び、続いて条件等の項目が来る。そこには、「少女である限り有効」と金地に白抜きされている。青少年育成特区はまず女子の保護を優先したのだが、男子へ許可証が発行される機会はついになかった。あの大混乱を経た後、各自治体の首長たちはすでに、例えば痴女に貞操を奪われる際の精神的外傷がいかほど深いかについて議論を尽くす気力を失っていたのである。
特区の設立からほどなく県下で発見された身元不明の死体が、少女による復讐の結果であることが判明し、県議会は揺れに揺れた。当該特区の首長たちのみに求められていた善処も、少女殺人が県境を越えるに及び、焦点であった許可証の文言を適切に採用したのが誰かは特定されないまま、国会へと舞台は移される。少女の定義を巡って議事堂で繰り広げられた痴態は、年月というよりはその衝撃ゆえに、市民たちの記憶に新しいところだろう。普段は表明が許されず、よって相対化されることも標準化されることもない各人の性癖と異性への偏見をすべての議員が公の最たる場へ生のまま開帳したのだから、無責任に徹することを決めれば、これほど面白い見せ物は無かったはずである。
ほとんど土俗イニシエーション的とさえ言える答弁を除けば、少女の定義はほぼ二つへと集約された。当人のみによる賛同しか得られなかった少数派の意見だが、その多様さは議会の過半数を占有したほどである。民主主義はビザールを圧殺しえないことの証左として、また当時の空気から遠く離れて読む受け手の理解への一助として、行われた無数の答弁から一つを引用する。「マネキンの頭部を糸鋸で切開し、トマトで煮込んだ獣肉で満たす。その後、切開した頭部を元のように封じる。少しでも汁気が漏れないよう、ビニールテープで成されることが望ましい。その後、マネキンの頭部を粉砕する。漬け物石か庭石が、入手の点では簡便でよいだろう。その際、鶏の羽根を黒く染色したものを外套に張りつけ、鳥に扮装することが望ましい。その後、飛び散った獣肉のうち、地面に落ちたものだけをかき集める。付着した塵埃は洗浄されるべきではない。その後、食した獣肉が排泄されるのを目視できたなら、少女を成熟した社会の構成員として認めるべきである。食餌と排便は、薬品による睡眠や殴打による昏睡など無意識のうちに始められ、意識を取り戻した段階で無理矢理嚥下、排泄せしめられるのが望ましい」。
先に述べた二大勢力とは、初潮を少女の終わりとする月経派と、処女喪失を少女の終わりとする破瓜派――タカ派のイントネーションで――である。日々の議論のうちに少数派は押しやられ、やがて超党派の両勢力が議事堂を席巻してゆく。世に言う血の七日間の幕開けである。少女の声を持つ年齢詐称の声優がするラジオ電波、いやラジオで電波を延々と答弁に代えた末、係官からの退去を演台を抱きかかえて拒んだり、演台を拳で殴打しながら男女の性差について宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、義務教育年齢の女子が奔放な姿態を露わにする本邦でのみ公開可能な冊子を実物投影機で開帳したり、実物投影機を馬乗りにして全議員へ具材を強要しながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、猥褻ゲームのポスターを掲げながら現実に少女はいないと宣言したり、馬乗りに具材を押しつけた腺病質の顔面へ拳がめりこむほど殴打を加えながら宗教的な理由ではなく進化論を逸脱した私論を展開したり、国営放送の画面には断続的に、しかし総計すれば一日八時間以上に渡って野山の静止画が映し出された。倫理は小声の謝罪か極小の囲み記事がすべて引き受ければよいとばかり、あらゆる報道は一斉に加熱を極める。すべての良識が自制を失った当時の狂騒ぶりを忍ばせるできごとを紹介したい。理性ではなく感情に訴える、全体主義統制下の政策報道官の如き言辞に得々とするニュースキャスターが、「これだけ国民を騒がせておきながら、直腸性交に関する議論が全く行われないという一種異様な事態があるわけですが、そこのところどうでしょう」と発言する。コメントを求められた、クオリティペーパーを以て任ずる大手新聞社の編集局長は、生放送の最中にもかかわらず完全に絶句した。また、その新聞社と関西圏のみに販売経路を持つ夕刊専門誌の一面が、スーツの下を脱がされて議事堂内を逃げ回る男性議員の写真を同一日に一面で掲載する。フォントの種類や大きさの違いはあれ、どちらも見出しに「お粗末」と書かれた。両紙の持つ品格の違いは、モザイクの濃淡にのみ帰せられたのである。
破瓜派の優勢は一時ゆるぎないものに思われた。なぜなら当時の与党の国対委員長、老利数寄衛門が強力な破瓜推進派だったからである。しかし、その構図は最終局面を目前に逆転することとなった。運命の夜、老利は料亭を出たところで待ちかまえていた記者団に取り囲まれる。月経か破瓜かと詰め寄る記者たちに対し、道端で手毬遊びをしているおかっぱの少女を指さして、「あのように愛らしさの中にも凛とした清冽さが同居できるのは、両足の間に膜がぴんと張って心棒の役割を果たしているからである。もし膜を喪失してしまえば”しなをつくる”の言葉どおり、身体の中心は張りを失って蛸のようになる。それはそれで別の趣を持つが、あの少女のような清冽な美しさはもはや望めないだろう。世には陰毛論争もあるそうだが、それは論点をはき違えている。生えてしまっては割れ目が見えないではないか。割れ目だけに筋の通らぬ話である」と発言する。軽妙な冗談に爆笑する記者団の傍らで、少女は浮かぬ顔のまま、「どうか許して欲しい。騙すつもりはなかった。私はあなたに言わせれば、少女とは呼べない。なぜなら、この花はすでに望まぬ形で散らされてしまっているからである」と返答する。とたん老利は多くのカメラが取り囲む衆人環視の最中、潮吹きのように両の眼球から涙を噴出させると、少女の足元へ我と我が身を投げ出し、宣言した。「きみは少女である。誰が何と言おうと、この老利がきみを少女にしてみせよう」と。老利数寄衛門が破瓜派から月経派に転じた瞬間である。この映像は不作為の大スクープとなり、政治史上もっとも劇的な思想転向として語り継がれることになった。後の世に言う、老利の変である。
だが、すでに大勢は破瓜へと傾いている。この大物の転向も趨勢を完全にくつがえすことは適わなかった。依然として発生し続ける少女殺人に決断を促される形で、両勢力は妥協案を採択することとなる。膣内よりの流血を第三者が観測した段階を少女の終わりとするという、玉虫色の折衷案に猛反発が巻き起こった。いわく鉄棒で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく一輪車で股間を強打した場合はどうなるのか。いわく挿入式の生理器具が誤動作を起こしたらどうなるのか。しかし時すでに遅く、様々の矛盾を孕みながら少女の定義に関する法案は、野次と怒号の中で可決されたのだった。次いで少女喪失観測者の国家資格が新設され、出血の量に始まってその粘度と間隔に至る細部が文言として整備される。手順の煩雑さもさることながら、青少年を性的略取とその二次被害から守るという特区の理念が優先されたゆえに、少女の終わりは本人からの申し出が無ければ審議の対象とはならなかった。実質上の骨抜きである。ゆえに、少女であることを生きたまま失効した者は、現在に至るまでただ一名を数えるのみである。権利の放棄を手続きする手順とは正反対に、許可証の発行は極めて簡略化されている。戸籍抄本を用意すれば、残る要件は唯一「異性からの略取行為」であり、さらに口頭による申告ですべての手続きを完了できた。一時期、AvengerLiscenceの発行数は爆発的な増加をみる。どれほどの冤罪がこの数を裏で支えたのか、もはや確認するすべはない。炭坑のカナリヤとして常に狩られる側の立場にあった少女たちが、初めて他者に対する真の優越を得たのである。この至上の楽園さえも、しかし長くは続かなかった。結果の価値とは、過程において手に入るものだと予は考える。卓に満載された皿を前に自足しろというのは傲慢であり、パンの固まりを片手に自足しろというのは欺瞞であろう。特区の理念はたちまちに適えられたが、その無窮の位置で周囲を見回した少女たちは、鏡写しの自分自身を発見したのである。少女に与えられた特権を奪えるのは少女だけであり、彼女たちの持つ特権の膨大さは望むと望まざるに関わらず、すべての介入と救済を拒絶した。
少女の定義が確定したとき、予が人間世界にとって何者であるかという定義は未だ確定していなかった。予は高等遊民として、俗世から離れた生活を自身に強いていたのである。労働が予の純粋さをわずらわすことを好まなかったからだ。睡眠と覚醒へ好きなように時間を配分し、数十年程度の強度をしか保てぬ凡百の常識を超越した場所で、予はときに何時間も飽かず自由な思索をくゆらせたものだ。市民たちの嘆息ぐらいは、歴史的な視点から人間世界の実像を俯瞰する予にとって、何の痛痒でもなかった。日々は素晴らしい気づきと変革に満ちており、予は人間精神の広がりの無限を喜んだ。予の生活においての惰性は、ペットボトルに蓄えたし尿を二階の窓から庭の木々へ撒く日課を除くならば、絶無であった。獲物へ跳びかかる肉食獣の筋肉に漲る一瞬の静止の如く、来る大事に備え、予は極めて創造的な雌伏の日々を過ごしていた。無論、遠大なる高邁はしばしば近視眼の低俗に、容易な非難の口実を与えてしまうものである。だが、何の実利や栄誉を得ることなく果てるとして、それが予の貴族精神による選択の末ならば、恥じるべき理由はどこにもない。予の主人は、予以外にあり得ぬ。この確信を誰かに証明するべきだという強迫は他ならぬ相対化の罠であり、予の無謬はあまりに市民の生来と離れていたので、悲しいかな、予の本質を貶める以外の伝達は不可能だと言えた。
寒い日だったことは覚えている。自室に長く寝そべって食事を口へ運びながら、天気予報と同程度の頻度でなされる少女殺人についての報道を眺めていた。法の庇護を享受しただけであるのに、ほとんど指名手配犯のように並ぶ少女たちの顔写真の一つに予は目を留める。突如、長らく抱き続けてきた脳髄の外へは決して共有され得ぬはずの予の観念が、現世へと受肉したのである。予は数年ぶりで自室の扉を開くと居間へ駆け下り、炬燵を囲むように蝟集する市民たちへ少女観察員となることを誇らかに宣言する。しばらくぶりの発声に予の言葉はくぐもったが、それは予の言葉を少しも汚しはしなかった。あれほど明白な確信の様を理解できず、うろたえるしか知らなかった市民たちは、今では予を恐れて彼らの城門を予の前に閉ざし続けている。少女観察員の概念は当時、予の内側にのみ存在していた。しかし、巨大掲示板での熱心な匿名討論の末、予の克己はあらゆる政治的な誹謗と中傷を乗り越えるに至る。少女観察員は当たり前の選択肢として、すでに一定の社会的承認を得た職業と考えてよいと思われる。実際、少女同士の対決を撮影した映像は、役場や大学など実地の検証を常に求める公的機関へ提出すれば、いくばくかの謝礼金と交換することができた。また、ネット上にパスワードをかけて配信すると、ダウンロードの権利を求める市民たちは後を絶たない。もちろん、先の清掃局員が予に投げたような不条理を浴す機会も少なくはない。しかし、あらゆる理解と援助をただ克己により拒絶した上で、精神力と実行力の極限を自身に問い続ける少女観察員は、名誉ある職業と予によばれている。
少女保護特区(3)
最後尾に接続された木製の有蓋車が、地鳴りと鉄の軋みをあげてホームへと滑り込む。耳障りなその残響も収まらぬうち、巨大な体躯に制服を歪曲させた三人の鉄道職員が異様な俊敏さで互いの位置を入れ替えながら駆けて来、太い鎖で厳重に封印された鉄扉にとりつく。一人が赤子の頭部ほどもある巨大な錠前へ鍵を差し込み、内部の仕掛けを利用してというよりはむしろ握力によってそれを回す。残った二人が制服の縫製を漲る筋肉で引き裂きながら、顔面を紅潮させて扉を横へ引く。露わになった肩口に血管が浮き、にじむ汗が爬虫類の質感を赤銅色の肌へ生じさせる。均衡が作り出す完全な静止を越えて、溝に浮いた赤錆をこそげ落としながら鉄扉がじりじりと滑り始める。わずかの隙間から、人間が身をよじるようにして続々と降りてくる。どこまでいっても男しかいない。その衣類は一様に暗い色調で、ちょうど台所に生息する例の昆虫が家具の隙間から出現したような錯覚を、嫌悪感と共に与える眺めである。ホームが鋼鉄の間仕切りで分けられ、それぞれから別々の出口へと階段が続いているのは、万一にも少女と男性が遭遇しないようにとの配慮からだ。当初は単に金網が引かれていたのだが、局所のみを金網の隙間へ通過させる者が続出し、微弱な電流を流す対策を施したところ、局所のみを金網に通過させる者が逆に増加するという陰惨な経緯があった。当局の、高度に政治的な判断を求められる決断だった。
鉄扉が完全に開放されると、精神を崩壊した焦点の無い瞳でホームに蝟集する男たちが、意志というよりは眼前にある状況に促されて、幽鬼の如く空の車両へと吸い込まれていく。この有蓋車こそが、青少年育成特区の生み出した副産物のひとつ、男性専用車両である。異臭に耐えて一歩足を踏み入れれば、劇的な大気の変化は組成自体に及んでいるかのように感じられる。この世界に偏在する特殊な磁力を持つ場、その境界を踏み越えたときの悪寒や霊感を与える変容は、正に異界や結界の類である。入り口付近の床は光に四角く切り取られ、清掃の手間をはぶくためだろうか、干し草が敷き詰められているのが見える。その表面は黄から茶への階調で濡れ濡れと照っており、生理的嫌悪と直結する何らかの成分を大量に吸い取っているようだ。干し草に含まれた微生物とそれとの発酵現象に、なま暖かな白い湯気がゆらゆらと立ち上っている。明かりの届かぬ先は黒く塗りつぶされ、狭いはずの車内は広所恐怖を感じさせるほどの莫大な空間へと変じていた。かような劣悪の環境を、なぜ男たちは移動手段として甘受するのか。人として堅守すべき尊厳が藁の上へ臭気を伴って遺棄されるとしてさえ、少女警報の頻繁な公道に乗用車を走らせること、あるいはかちゆくことに比べれば、目的地へ到着するのに少なくとも命だけは伴うことができるからである。
鉄と鉄が擦れる不快な軋みが獣の断末魔の如く響き、乗客たちの背後にがちり、と錠前の閉じる音がすると、窓の無い車内は完全な暗黒に包まれた。慣性の存在により、接続された電動客車が牽引を始めたのをかろうじて知ることができる。やがて、天井付近に人魂と形容したいような灯りが浮かぶ。その、不定期に明滅を繰り返しながら揺れる裸電球が唯一の光源であり、ぼんやりと浮かんではまた闇へと消える視界は、脳波への負の影響を心配させる。座席と呼べるものはかつての残骸がわずかに散見されるのみであり、家畜のように詰め込まれた男たちは苛立った様子で身体を前後へ揺すったり、足を踏みつけられては怒声を挙げたりしている。自立することを放棄し生存を疑わせる脱力で漂うものもいるが、倒れる心配だけはないほどの乗車率である。
背後から強く押された一人が、肩越しに不快げな視線を投げる。その瞳孔がたちまち驚愕に収縮し、ひゅっと小さく息を呑むのが聞こえる。急なカーブにさしかかり、車両が大きく傾ぐ。裸電球が焦げるような音を立てて消えると、永遠のような漆黒が視界を満たした。流れる車内放送は、停電程度の不便をことさらに詫びる欺瞞には気づかぬふりである。古いスピーカと車掌の胴間声の相乗効果で音声は割れに割れており、「茂吉の猫、死ぬべし」という台詞を、構成する最小の音素群に分解してさらに濁点をつけ、日本語ノンネイティヴのする抑揚で読み上げたように聞こえた。再び焦げるような音を立てて、裸電球に光が戻る。少女の、床の間に置かれた由来の知れぬ日本人形のような無表情が、男の前にあった。特定の数字や単語が、日常をただ通過するだけの膨大な情報群から、ほとんど意味を伴った連続であるかのように浮き上がる錯覚が存在する。無意識の執着がその検索を可能にするのだが、このとき、物理的にも列車の走行音を圧するほど大きかったはずのない「少女だ」というつぶやきに呼応して、車内にみっしりと詰め込まれた男たちが、群衆を表現した低予算のCGを思わせる動きで一斉に振り返った。どの顔にも光源の影響による陰影とばかりは言えない恐怖と――何より、抑えきれぬ欲望がにじんでいる。立錐の余地など元より無かったはずの車内に、少女が背にする鉄扉を直径とした半円がたちまち形成された。
青少年育成特区において、少女から与えられる死とは、有機体としての終焉に止まらない。人の死は情報を残すがゆえに、動物のそれとは一線を画す。だが、少女に殺された者はその聖別を奪われ、畜生道へと墜ちるのである。古代の記録抹殺刑、尊厳死の定義する状態を真逆にしたものが少女と関わった者のたどる末路なのだ。死亡届は受理されず、戸籍は焼却され、火葬の許可が得られぬ死体は川を流れ、山に白骨化する。我が社会において、その影響市民生活に甚大なれど、少女殺人は公的には存在しないというパラドクスである。人と人との関係性が命の喪失に際して生じることを仮定するならば、究極の社会性は殺人であり、究極の反社会性は自殺であると定義できよう。意識的にせよ、無意識的にせよ、行為にこめた意味のすべてを社会に無化された少女たちの多くは、自らの始末へ同じ手段を選ぶこととなった。もし同等の権利が与えられれば予はどうふるまったかを想像するとき、予の胸中をどよもす少女たちへの感情は同情に近い。しかしこれは、発信の源をたどれぬ行為は存在せず、よって法を度外視するならば救済に値しない人間は存在しないという、予の信念から見た一方的な感傷に過ぎぬこともわかる。実際、この災厄を得た者たちの親族は予の見方には全く同意せぬだろう。それどころか、具現化した精神上の疾患を見るが如き反応を予へ示すに違いないのである。理解へ到達することが不可能な人と人との関係というものは疑いなく存在し、そこへ妥協点を見いだすことが政治と言えるが、少女観察員という予の立場から試みることができる営為はそれとははるか遠い。そして、例え予に政治が可能であったとして、予はそれをすることを望みはしないだろう。無欠の予にうしろ暗さがあるとすればそれは、予の人生をどれほど延長しても政治には到らないという一点においてである。
微温的な幻想の理解が消失し、世界に虚無と政治が現出するその瞬間を見ることのできる機会は決して多くない。不幸な若者が、少女を中心とする半円の内側へ押し出される。他の全員を救うための、集団によって選ばれた生け贄である。群衆の一人へ戻ろうと人垣へ突進するも、彼の力では身体ひとつ分の空間を圧倒的な人口密度の中へ作り出すことが適わない。たまらず跳ね返され、床に敷き詰められた藁へ顔面から倒れ込む。口腔内に侵入した汚物を唾と共に吐き出しながら顔を上げれば、発光して見えるほどに白い少女のふくらはぎがそびえており、それらは襞の折られた陣営へと続いていく。その内幕に漂う闇は、若者の周囲にある闇と全く同じものだったが、全く違うものだった。上半身を起こすと、ふくらみが持ち上げた上衣の隙間からのぞく、うおの腹のように湿った濃い白が見える。弱々しく立ち上がった若者の腰が引けているのは、群衆による打撃のせいばかりとはもはや言えなかった。整髪剤で固めた前髪のひと房が、汗のにじむ額へと落ちかかる。頬は痩け、顔に血色は無く、一見すると内向的な書生風だが、その実、戦争などの外的エクスキューズを得ると最も残忍に豹変しそうな容貌だ。若者は、恐怖と絶望と嫌悪と好奇と憧憬と欲情と諦観とが入り交じった、修辞上でのみ無責任に表現可能な表情を浮かべている。その内面には死と性の、嵐のような葛藤が渦巻いているのだ。取り囲む群衆は両手を振り上げ、足を踏みならし、車内はほとんどショウダウンの様相を呈し始める。長い睫毛を伏せ、少女が怯えたように後ずさりする。いまや車内の全員が少女の――あるいは若者の共犯者だった。背後から忍び寄る無数の手が、若者の背中を強く押す。彼は踏みとどまることもできた。しかしその瞬間を恐れると同時に強く望んでもいたため、一瞬、両足に力を込めるのが遅れる。男性の重みを預かり、少女は鉄扉へと押しつけられる。若者の意識は柔らかさと香りにくらんだ。逃れようと身をよじった少女の手の甲が、若者のセクスを撫でる。君は激しく勃起したな、と余人が指摘できるほど身を震わせた後、痛みにも似た放出をした、と表書きされている表情で若者は放出をした。刺激によってというよりはむしろ、自らの置かれた状況に放出したのである。それは分厚な生地越しにさえ、少女の手の甲へ粘液を残すほどの激しい放出だった。長い長い放出の後、若者は膝から床に崩れ落ちる。ハンカチを手の甲に当てながら少女が、駅員を呼んでください、と小さくつぶやくのと、鉄扉が少女の背後で開くのはほぼ同時だった。ホームにはすでに、制服姿の巨漢が阿吽の如く待ちかまえていた。
近くを列車が通過する度に、ほとんど灯火管制のような深い、幅広の傘に覆われた電球が小刻みに揺れ、待つ者たちそれぞれの不安を象徴するかのように大気を光で攪拌した。やがて、耳障りなじゃりじゃりという音と共に黒電話の受話器が漫画的に跳ね上がる。目深にかぶった制帽のつばが落とす濃い影に視線を消失させられ、ほとんど非人間的に見える制服姿の巨漢が受話器を取り上げ、応答する。短いやりとりの後、通話口を片手で覆うと、申請が受理された旨を少女に伝えた。駅舎に入れられてからというもの、うつむいたまま組んだ両手の親指を見つめるばかりだった若者は、駅員の言葉に促されるように顔を上げる。その表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。若者の視線の先には、少女が腰掛けている。きつく合わせた膝の上へ、身長ほどもある日本刀を横抱きにする少女の表情は、人間が平常に浮かべ得るものの中では笑顔にもっとも近かった。だが、両者の内面はその実、究極と究極の両端へ乖離しているのだった。少女は陣営の襞を揺らしつつ、日本刀を床に突いてことさらにゆっくり立ち上がると、駅員の方を向いてわずかにおとがいを上下させた。与えられたばかりの権利の行使を肯定したのである。少女の意図を確かに理解したはずの若者の表情は、依然として笑顔のままだった。しかし、彼の足はわずか数分の先に待ちかまえる自己存在の完全な消失を認識したことで、逃走の不可能な距離で腹を空かせた肉食獣と遭遇した草食獣と同じほどに萎えており、社会の規定する新しい人権の中でも最も新しい人権を少女に行使させるためのあらゆる助力を拒絶できない第三者、いまや法に強制された正義がお互いを双子のように似通わせている巨躯の駅員たちが、両脇から支えてやらねば立ち上がることもできないほどである。本能が萎えさせた両足から悟性が若者の大脳へ満ちるには、しかしさらにいくばくかの時間が必要だった。日本刀の柄に手をかける少女を見た若者は、体中の穴という穴から人体に可能なあらゆる粘度の液体を流しに流し、やがて水分を喪失して木乃伊のように収縮してしまう。一方、駅員たちは己れの幇助する権利の正しさへますます膨張肥大してゆき、いまや天井を突かんばかりだ。少女は悠然と日本刀を肩にかつぐと、そのまま重力が鞘を払うにまかせた。鞘の先端が床に触れるのと、刀身が爆発的に右から左へと薙がれるのはほぼ同時だった。その速度は、特定の自意識の持ち主ならば、”疾走”に”る”と送りがなをつけて「はしる」と読ませるほどだったろう。消えた刀身は、瞬間移動のように駅舎の壁に突き刺さった形で出現し、その威力を殺しきれずぶるぶると蠕動していた。このとき、まだ少女の技術は斬撃をあますところなく制御する精妙さには至っていなかったことがうかがえる。刀身の震えがおさまると、駅舎に完全な静寂が訪れる。しかし、それはほんの須臾の時間に過ぎなかった。駅員の上半身が背中の方向へ、ずるりと滑り落ちる。遅れて、切り離された若者の首が、頸動脈からの血流に押し上げられて天井近くまで上昇し、噴水の上に乗ったボールの如く、顔全体を赤く染めながらくるくると向きを変える。やがて血流は弱まり、首はけん玉の要領で頭頂から元の受け皿へと見事に着地した。もし切断された頭部にしばらく意識が残るのだとすれば、若者の視界には天井を歩み去る少女の後ろ姿が見えたに違いない。そして、少女の陣幕が重力の影響を全く受けないのを口惜しく感じたはずである。
空にはすでに月があった。原色に近い黄色を、霞が覆うような月だ。見上げる少女の右手が、陣営の上から小刻みに太ももを叩いている。そこへ、茶色に塗装された清掃車が猛然と走り込んで来、後輪を激しく滑らせながら半回転すると、駅舎へ横付けになる。車体が停止する暇もあらばこそ、頭髪を紫に染めた妙齢の女性が両腕を組んだまま跳躍し、五輪選手もかくやという月面宙返りを見せて少女の傍らに着地する。その跳躍が、月を背景に横切る文字通りのものだったことは付け加えるまでもないだろう。昂ぶる感情によるものか、高ぶる年齢によるものか、鼻の頭にいっそう皺を寄せる動作から、彼女が視覚というよりはむしろ嗅覚によって敵を発見したことがわかる。大気へかすかに混じる血の匂いを嗅ぎとったのだ。獅子の如き威嚇の表情と、その猛烈な視線を涼しく受け流すと、少女は艶然たる微笑を返した。完璧に抑制されたその微笑の裏に、そのとき本当は少女が何を感じていたのかをうかがうことは、不可能だった。
以上が、数少ない現場証言と一級の史料に当たって予が再現した、予の少女の――誰もが人生で一度は通るとは限らぬ――殺人の処女性を喪失した事件の全容である。
ガッデムさん(2)
「いやァ、うれしわァ。私、子どもの頃からずうッとガッデムさんのファンやってん」
「さよか。そら、おおきに」
「主題歌かて、まだそらで歌えますよ。非道ォー、せぇんしィ、ガぁッデムぅ、ガぁッデム、君よォー、パシれー」
「自分、看護士のくせして相部屋で大声だしなや。向かいのベッドのニイちゃん、にらんどるで」
「あの人は誰に対してもあんなふうなんですよォ。ここだけの話、ガッデムさんの前にもふたり、オバアチャンが入っとったんやけど、ふたりともなんや気味悪いゆうて部屋かわってますねん」
「ぶるぶるぶるぶるッ。なら、ワシは三人目かいな」
「まァ、ガッデムさんは戦争にも行ったことあるロボットやし、だいじょうぶかなァ、おもて」
「じぶん、傷くつわ、それ。鋼鉄の中身は繊細なハートでできとんねんで」
「またまたァ。これ、入院のための書類やからサインだけしてもらえますか」
「えらい細かい字やなァ。老眼で読まれへんわ。それにしても向かいのニイちゃん、顔色も目つきもだいぶ悪いで。なんで外科病棟なんかに入院しとるんや。ぱッと見ィ、どっこもイワしてへんけど」
「本人は精神病やゆうて信じてるみたいやけど、先生の見立ては大腸炎ですわ。切るかもしらんからここに入れてるんやて」
「へえ」
「なんでも地元で有名な髪結いのオバアチャンが身内におって、テレビにも出たことあるらしいねんけど、そのオバアチャンがなんかするたび親戚中ふりまわされるねんて。こんどの都知事選にも出馬するゆうて、だいぶ親族会議でもめたらしいわ」
「そら、美談どころの話やあらへんな。しかし自分、ひとの個人情報をあんまベラベラしゃべらんほうがええんとちゃうか。最近どないもこないもうるさいで」
「なに水くさいことゆうてんのん。ガッデムさんはどんな年とっても私のアイドルやさかい、特別やがな。ほら、早うサインしてしもてや」
「君がずっと邪魔しとんのやがな。ハラ撃たれてからこっち、どうにも手に力が入らんのや……ほれみい、せかすから書き損じてしもたやないか」
「歯ァ、食いしばれ。そんな書き損じ修正してやる」
「アラ、この子くちきいたわ。めずらしなァ。やっぱりガッデムさんの人柄ゆうか、人徳やねえ」
「あほ、もうただの中年ロボットや。あちこちボロッとるわ」
「冴えてはるわー、ガッデムさん」
「ニイちゃん、わざわざすまんな……おっと、いま自分、服に白いのついたで。はよとらな」
「わかるまい。戦争を遊びにしている者には、この俺の体を通してでる力が」
「どう見たって修正液やがな。なんや、はやりのプチ右翼かいな」
「ガッデムさん、着替えの装甲もってきましたよ」
「何から何まで迷惑かけるなァ。おっと、このアクセラレーターはもらわれへんゆうたやないか」
「ぼくの気持ちやから。黙って紙袋にしまっといてくださいよ、ガッデムさん」
「あらッ。もしかしてこの人」
「ほれ、サインでけたで。自分おるとややこしいから、仕事もどれや。さっきからナースコール鳴りっぱなしやで。隣のベッドのオッサン、土気色やないか」
「もうッ、女心がわからないんだから。何かあったらぜったい私を指名してや」
「キャバクラちゃうねんど。もう呼ばへんわ」
「あッ、コイツ、ガッデムさんのいとことコンビ組んでたヤツですやん」
「ホンマかいな。そら気づかんかったわ」
「そや、間違いないわ。髪ピンク色に染めたごっついオバハンをヤクザと取り合いして、それから蒸発してしもてたんですわ」
「や、ヤクザやて」
「ガッデムさんをねろうとる組とは関係ありませんよ。すごい黄色のストライプのスーツ着て、ふはははは、ゆうて笑うインテリ風のヤクザやったさかい」
「おどかすなや。あれからワシ、ドアとか開くたびにビクッてなるねん」
「病院の中は安全ですやろ。コイツもホンマはそのクチで逃げこんどるんとちゃいますか」
「自分、その袖口のてんてん、どないしてん」
「これは、あの、なんでもあらしまへんわ」
「ワシを病院にかつぎこむときに付いた血ィやな。ホンマ、自分にはいろいろと悪いことやったわ」
「なにゆうてますのん、ガッデムさんはぼくのために腕もげたことありますやん。こんなん、なんでもあらへん」
「大きな星がついたり消えたりしている」
「うわ、なんやいきなり。あほが、修正液で服の染みが消えるかいな。後ろにも目ェつけとけ、われ」
「男の証明を手に入れたかったんだ」
「意味がわからんで。頭おかしなっとんのか」
「いや、案外見かけより狡猾なヤツかもしれへんで。ヤクザに訴えられたときのこと考えて、今からあほのふりしとんのや」
小鳥の唄(17)
階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になったその底で全裸の男が立ちつくしている。
男、骨格が視認できるほどに痩せており、局部にはなぜか紫色のもやがとりまいている。
すり鉢の底を形作る六角形のうちの二面には、なんのためのものだろうか、長方形に切り取られた入り口があり、通路がそれぞれ奥へと伸びている。
通路の奥から一人の少女が現れて、すり鉢の底へ形成された砂場へと足を踏み入れる。
少女、しばらく躊躇したような様子をみせるが、やがて意を決したように全裸の男へ声をかける。
「落ち込むことなんてないわ」
少女の声音はあくまで優しい。
「学生時代のクラスメートほどの人数は来ているって思えばいいのよ。だいたいあなたにとってクラスメートの数は友だちの数と同じどころじゃなかったんだし、そう考えればまだ気も晴れるんじゃないかしら」
「物語っていうのはさ」
少女の声が聞こえなかったかのように、男は話し出す。
「0から始めて1に届こうとする躍動が描く、動線そのものだったと思うんだ。そりゃ、0から動かず0であることを肯定するための言葉を連ねるやり方だってあるけれど、それは少なくともぼくにとっての物語じゃないんだ。1に爪先を引っかけて0から身体を乗り上げた人たちの姿に、ぼくは自分もいつか1になるのだと深い感動を覚えたものだったし、1に向かって高く跳躍しながら、爪1枚で届かなかった人たちの肩を落とす様子さえ、ぼくの心を強く揺さぶった。けれど、いま世の中にあふれているのは、0以下から始まって0に届こうとする物語ばかりだ。マイナス1から0へ、というわけさ。否定してるんじゃないよ。その試みは0から1への希求と、その質や切実さにおいては何ら変わるところはない。けど悲劇的なのは、その”文学的達成”というやつが、ふつうの人たちにとっては何らカタルシスを持たないということなんだ。マイナス1から0への到達を誇示したところで、それは世間にとって少年院から出てきたヤンキーを見る程度の感慨をしか引き起こさない。つまり、身内に抱える積極的な、あるいは消極的な社会悪や犯罪性向をまず開帳し、そしてそれから『ぼくはもう犯罪衝動を押さえ込むことができるほど真人間になりました!』と前科持ちが宣言したとして、誰もそんな宣言を聞きたいなんて思わないし、例え耳を傾けてくれたところで、余計な差別を彼らの意識の中に加えるだけだってことは、ほとんど喜劇みたいじゃないか」
つま先で砂に文字を書きながら、黙って話を聞いていた少女が口を開く。
「じゃあ、あなたはどうなの? あなたのホームページに書かれている文字は、いったい今のどれに該当するの?」
「痛いところを突くな。ぼくはつまり、『1をすでに達成しながら、0や0以下であることへの執着から逃れられないでいる』のさ!」
「まあ」
少女は驚いたように、手のひらを口元へ当てる。
「それって、『終わらない思春期』よね。実物を見るのは初めてだわ」
「ああ」
全裸の男の局部をおおう紫のもやが、ふとももの間からへその下へとゆっくり移動する。
「そうさ、へっさいへっさいモラトリアムなのさ」
「アハハ、だから、いつまでたっても人の来なくなったホームページを閉鎖してしまわずに、未練たらたらで時々申し訳程度に更新したりしているわけね。アハハ、おっかしい!」
男のこめかみに漫画的な十文字が浮かぶ。
「ちょっと、茶目ッ気がすぎるんじゃないか」
男、固めたこぶしの五本指を左頬からすべて数えることができるほど激しく、少女の右頬を打ちつける。
陰影まで微細に誇張して書き込まれた犬歯や臼歯が、少女の口腔からはじけるように宙へと舞う。
男、続けざまに、背中の側からつま先の形状がはっきりと視認できるほど深々と、少女のみぞおちを蹴りこむ。
真紅の鮮血が少女の口腔から噴水のように吹く。が、地面に染み込んでいくそれは早くも赤黒く、さび色に変色してしまっている。
少女は蹴られた衝撃で地面と水平に滑空し、壁面へ人型にめり込む。
もうもうたる煙のはれた後には、少女が左の肘をあり得ない角度に折り曲げ、二の腕からぎざぎざに折れた骨を皮膚の外へ飛び出させているのが見える。
少女、壁面から身を引き剥がし、よろよろと男の方へ数歩あゆむ。
男の局部をおおう紫のもやが、へその下からふとももの間へ急速に移動する。
「こんなふうな犯罪性向、自分より弱い存在を暴力でもって蹂躙して、それが悲鳴を上げるのを聞きたいといったような感情を、『人とつながることにそんな形をしか選択することのできない者の悲しみ』とでも表現したところで、それに涙を流したり共感したりするのは、やっぱり他人を痛めつけて悲鳴を聞きたいと思っているような人種だけで、結局、世間を構成する大半の、0から人生を始めている人たちにとってはどうでもいいどころか、嫌悪と敵意さえ抱かれてしまう可能性がある、人類を正常と異常の2つに分断する以外の機能を持たないやり方なのさ」
「な、なるほど……わかり……やすいわ……」
少女、身体をくの字に折り曲げて顔面から砂地へ倒れ込む。少女の瞳が黒ベタから灰色のトーン貼りに変わる。男、少女の生死に興味を残していないふうでしゃがみこむと、地面から一掴みの砂をすくいあげる。
おたくの敵と非難され、嘲笑され、罵倒され――
それでも更新したくって、更新したくって――
あれほど更新したいと思い続けてきたのに――
「もう、こんなに更新したくない」
――ああ。おたくの繰り言が聞こえる。
こたつ布団に広がる去年の醤油染みのような、日常が新しさを失ってなお繰り返されてゆくのを否応なくつきつける、重苦しい現実。
いつの間にこの人は、こんなにも輝きを失ってしまっていたのか。
少女が、その少女らしい純粋さを希求する旅の果て、ついに手に入れたのは、この世で一番醜いものだった。
この世で一番醜いもの――おたくの自意識に触れながら、小鳥猊下を最初期から取り巻いていた少女たちの最後の一人は、その八年と三ヶ月に渡る長い旅を終えた。
小鳥の唄(18)
階段状の観客席が六角形に取り囲み、すり鉢状になっている底で全裸の男が少女の遺体に腰掛け、両手に顔をうずめている。
男、気配を感じて顔を上げると、そこには少女が立っている。彼が腰掛けにしている少女とは似つかぬ容姿なのだが、おそろしく似通った雰囲気を感じさせる。
男、再び両手で顔をおおう。
「いつになったらぼくは君たちから解放されるんだろう。いつまで君たちはぼくに執着し続けるんだろう」
「答えは自明なのに、口にされた言葉を改めて聞かないと納得できないのね」
少女、老婆のような深く長いため息をつく。
「ずっとよ。私は、私たちはあなたの無意識から生まれてくるのだから、ずっとよ。あなたが死ぬまで、ずっと」
男、老人のようなしゃがれた声でつぶやく。
「それは、それは。本当に、修辞的ですらない、地獄のような恋慕だな」
少女、口元に冷笑を浮かべる。
「あなたにしては気の利いた言葉だけど、何かからの引用かしら」
男、笑顔のように口元を歪めて顔を上げる。
「ずいぶんと無意味な質問をするもんだ。ぼくたちの言葉はすべて、引用からできている。巨大な歴史が順繰りに言葉をしらみつぶしにしていった結果、ぼくたちの言葉はすべて引用になってしまった。歴史がその処女野を蹂躙しつくした言葉を、ただむなしい引用として、中年夫婦の諦観と希薄さでぼくたちは発話する――」
男、ゆっくりと立ち上がると通路の奥へと去っていこうとする。
少女、一瞬、何かの感情をこらえるかのように口を引き結ぶと、それをすべて呑み込んで、大声を出す。
「ねえ!」
男、振り返る。その瞳は灰色に彩色されており、虚ろである。
「なんだい」
少女、消え入りそうな声で問う。
「これで、終わりなの?」
男、悪魔のように哄笑する。
「ハ、ハ、ハ。これもやはりエヴァンゲリオンからの引用なんだがね……『わかるもんか』」
少女保護特区(4)
神の摂理とは人の摂理である。人の本質を否定するもの、そこへ疑問符を投げるものが悪と呼ばれてきた。しかし、人の存続を許さぬものが人より生まれ出づるのなら、それはいったい何と呼ばれるべきだろうか。
汚れた熊の人形を地面に引きずり、夜の街路へ身長を数倍する影を残しながら、一人の女児が歩いている。少女と形容するには、まだいくぶん幼い。街灯の投げる円錐の中へ立ち入ると、女児は立ち止まる。その顔は遠目にわかるほどの青痣を残し、鼻血の跡が両頬へ隈取りのように茶色く凝固している。爪のない素足は泥にまみれ、人形の破れた表面からは中身の綿が飛び出している。女児はほとんど自失しているようだったが、電球へ衝突を繰り返す一匹の蛾を見上げるうち、その瞳は次第に正気を宿し始める。口元がへの字に曲がり、表情は大きく歪む。しかし、にじむ涙がこぼれぬうちに手の甲でぬぐってしまうと、女児は再び歩き始める。
建て売りの住居が建ち並ぶ夜の住宅街は、どこまで歩いても表情を変えず、まるで終わりのない迷路のようだ。幾度も道を折れるが、どこかにたどり着く様子はない。爪のない素足が運ぶ一歩先だけを見つめていた女児は、何かの気配にうながされて顔を上げる。視線の先にあるのは、向かい合う住宅の狭間に長々と身を横たえた巨大な黒い固まりである。近くに街灯は無く、家々は雨戸を閉め切り、雲間からのぞく月明かりだけが照らす夜の底に、夜の黒より深い黒がその輪郭を際だたせている。かすかに上下する曲線は、それが生きていることを伝えている。二本の筋が曲線の囲む内側に生じ、やがて二つの球形へと転じる。大人たちよりもはるかに鮮烈で曖昧な女児の心に去来するのは、両親が手を振り上げるときの恐ろしい表情と――私を叱るときだけ二人は仲が良いのだと、いつも思う――図書館にある外国の絵本に描かれた、モノクロの深い森である。女児の両親はおそらく、自分たちが娘にしてきたことすべてを忘れたふうに、突きつけられるマイクの列を前に泣くだろう。記者会見で泣き、誰もいないリビングでさえ観客を意識して泣き、そして一定期間は娘のために心を痛めて泣いたのだという事実に、すっかり赦されてしまうに違いない。女児が抱いていた、数年の後には顕在化しただろう漠然としたある気分、自己抑制の外で行われる不条理への負の感情はついに言語化されないまま――この世界のどこにも残されないまま、消滅することになる。
言語を持たぬ者が力によって圧殺されることだけが、絶望と形容するに足る。千年の視座を持つ予は、鼓膜へわずかに振動を残すだけの時の泡沫には何ら痛手を受けることは無かったし、何より自身を言語化する以前に死を与えられることはなかった。無論、言語化した結果を十全の形で凡人に受容させることは極めて困難である。言語化しきれなかった、あるいは言語化したものを受け止めきれなかった余分は、身体の奥深くへ蜂の一刺しのように残り、その規模の小ささゆえに誰にも原因として指摘されることなく、ついには発症へと至る。しかし、大人たちは破局を回避する準備期間を十分に長く与えられているがゆえに、彼らが直面する事態は絶望というより危機と表現されるべきである。人類はいわばこの、精神の危機と幾千年に渡って格闘し続けてきている。然るべき観察と実行を怠りさえしなければ、救済への道はほとんどマニュアル化されていると断言してよい。だからこそ、鳥や動物や樹々や大地や、声を持たぬ子どもがこの世から消滅することだけが真に絶望と呼べるのである。
夜の街路に対峙したのは、誰も気づかぬ社会の毒素を蓄積させて真っ先に死ぬ存在とそれを吸い込むことで肥大化してゆく存在との象徴であり、両者は対極にして同一であった。
熊の人形がアスファルトの上に落ちる。続いて、女児の右手が熊の上に落ちる。女児と熊の手はしっかりとつなぎあわされたままだ。人形が見上げる先に、両脚をつなぐ腰骨の中央から白い棒状の何かをわずか屹立させたオブジェがある。奇怪なその外観は、極めて前衛的な芸術作品と呼べないこともない。女児が最後に見たのは黄色い乱杭歯と、濡れた赤の奥に広がる黒い虚無だった。
辺りに濃密な鉄錆の匂いがたちこめる。咀嚼音と液体のはねる音が夜の街路に響き、息を潜めたような静寂が惨劇を取り巻く。黒い固まりは皮膜に包まれた液体のようにゆっくりと、縦に長く変形する。濁った重低音が長く鳴り満足げな吐息が続くと、大気は腐乱した肉の臭気に満たされた。
雲が去り、月は地を照らす。
一糸まとわぬ巨大な女が、指に付着した液体を舐めている。家々の屋根を真上から睥睨する全長をもってして、それはなお女だった。膝にまで達する両腕を除けば、身体を描く曲線は未だ性徴を際だたせず、ほとんど少女にさえ見える。だが、全身を覆う肌は奇蹄目犀科に属するほ乳類のように硬質化している。
認可番号AA00001――仁科望美。青少年育成特区最初の少女殺人者。
彼女は同じ性別のものを好んで食餌とする。若い雌へ潜在的に抱く生物学的優劣に根ざした脅威が、顕在化した死との狭間に名状し難い何かを受胎させ、我々にとっては未知のその衝動が同類たちを殺戮の対象として選択させるのであろう。異様に長く発達した前腕で獲物の両足をすばやく押さえつけ、丸かじりに頭部へ食らいつく。そして、柔らかな腹部から背骨の周囲に付着した肉ごと上半身をこそげとるのである。奇しくも先ほどの獲物のように幼かった頃、彼女が愛好した棒付きアイスを食べるときと同じやり方だった。芸術を意図してというより、過って子宮や精巣を食ってしまわぬためである。それらを食餌とすることは、初潮の訪れを早めてしまうと彼女は強く信じている。実のところ仁科望美の最初の血と澱は、十数年の歳月を経て未だ彼女の体内に万力のような筋肉で閉じこめられているに過ぎない。しかしこの不条理に外部との連絡や整合性を求めることは、全く意味が無い。信念とは、時にこのような形をとるものである。
予は仁科望美の両目を正面からのぞきこんでなお命を残すという僥倖を得た、数少ない一人である。その両目は頭蓋の眼窩に張り付いた目蓋のせいで、常に眼球本来の球形で見開かれている。金縛りのようなあの数瞬、一秒を数百に分解したその時間は、彼女の身体能力を考慮するならば予を数回は殺すのに十分な長さだった。最初に感じたのは、喉元に溜まった嘔吐である。予に向けられた表情は、確かに微笑みであったと記憶する。もはや唇と呼べぬほど削れた肉の内側へ常にのぞく乱杭歯には、彼女が咀嚼した人体の滓がこびりついているのが見えた。いまなお、彼女の精神は我々の延長線上にあるのだという理解が予に吐き気をもよおさせた。予と同じ経験をするものは、例え明確に言語化できぬにせよ、同じ感慨を抱くはずである。彼女は、蝦や蟹のような甲殻類の感性を世界に対して構築していた。そして、一個の人間が世界に対して甲殻類のような感性を構築し得るという深淵が、見る者の心胆を寒からしめるのである。仁科望美は依然として、人間なのだ。
いつ彼女がその闇を心に抱いたのか、当局の記録は何も伝えない。役所努めの父親と教員の母親と二つ年上の兄と過ごした十四年間は、決して波乱に富んでいるとは言えない。しかし、少女が最初の合法的な殺人を犯したその日、平穏は終わりを迎えた。一家は、少女殺人者を身内に持ってしまった場合の典型的な転落を歩んでいる。迫害、転居、離散。予が追うことができたのは、そこまでだ。無数にある家々の内側で本当は何が起きているのかを知ることは、部外者へほとんど禁じられている。仁科望美の生家を訪れたが、取りつぶされて更地になっていた。漫画のような土管の上で、二人の子どもが背中合わせに携帯ゲームで遊んでいる。予は眩しさに目を細める。陽光は世界を漂白し、すべては色を失う。
伸ばした腕の先が見えないほどの闇の中で、ただ草いきれのみが山中にあることを予に告げている。夜の底に訪れる覚醒と続く混乱を、予は樹上から見てとった。仁科望美は腹の減っていない際に、獲物を生きたままねぐらへと連れ帰り、空腹が理性を凌駕するまでその恐怖を弄ぶことがあった。法を超えれば、法の庇護を失う。法を超えた者同士の間にあるのは、生き残った方がその正当性を主張できるという、戦争以前の純然たる暴力だけだ。特区法の理念は少女を異性から完全に隔離したが、少女を少女自身という脅威から保護することはかなわなかったのである。切りそろえられた前髪に顔の半ばまでを隠した少女は、後ろ手に折りたたみ式ナイフを取り出す。刃は仁科望美の爪の先ほども無く、人の崇高と滑稽がそこへ同時に表現されるかのようである。猫が毛玉を弄ぶ仕草の軽い平手で、少女を引き倒しては立ち上がらせる。獣は嬲らない。仁科望美がある種の遊戯として行為を楽しんでいることは傍目に明らかであり、この陰惨な宴の中にあってそれが逆に彼女の人間を証明していると言えた。巨大な掌をかいくぐり、少女は怪物のふくらはぎへナイフを突き立てることに成功する。だが、刃は柄を支点にして直角に折れ曲がっただけである。仁科望美は、あくびに似た動作をした。口腔からはき出される音波が樹々を激しくゆらす。少女はたまらずナイフを取り落とし、両手で外耳を覆った。ゆっくりと持ち上げられた巨大な右手が親指と人差し指の輪を形作る。丸太のような人差し指が恐るべき速度ではじき出され、少女の顎先を通過する。小さな顔が重力方向にぐるりと一回転すると、元通りの位置に静止した。口から蟹を思わせる泡が赤く吹き、少女は糸の切れたように倒れ伏す。仁科望美は立ち上がることのできなくなった獲物の腹部へ足をかけ、羽毛のようにそっと体重をのせる。たちまち少女は二つの肉に分かたれ、人であることをやめた。
仁科望美が立ち去ってから、優に二時間は樹上で待機したろう。好奇はしきりと予を促したが、予の生来である用心が行動を妨げたのである。生きているものと死んでいるものは、どうしてこんなにも違うのか。少女の口からは、何か赤黒いものが飛び出していた。目深に垂れた前髪がその両目を隠していたことは、予にとって幸いだった。死体と暗闇を共にする恐怖は極めて根源的であったが、何より一種の使命感に促され、予はそれの首からぶらさげられていたAvenger Licenseを接収せしめる。当局へ連絡する義務を果たすために携帯電話を取り出すが、電波状況は圏外を告げる。ふと気がつけば、いつの間にか固く閉ざされた鉄扉が眼前にそびえていた。視線を上げると、そこに仁科望美がいる。鉄扉と見えていたものは、女性の巨大な秘所であった。予は彼女の両目をのぞきこみ、彼女は予の両目をのぞきこんだ。その首が傾き、暗闇に浮かぶ二つの円形が半円に細められる。この怪物はすべてを了解していたのである。髪の毛が太くなり、予は爆発的に駆けだした。木々の枝が予を傷つけるのにも構わず、夜の山中をほとんど転がるように走る。仁科望美は予のすぐ背後まで迫り、口腔から荒々しく押し出される呼気が大気を揺らすあらゆる瞬間に、予の生命を刺し貫くかと思われた。地面にアスファルトの固さを感じたとき、予の足はようやく動きを止める。遠くからヘッドライトが迫ってくるのが見え、その接近にあわせるように背後にあった気配は次第に消滅した。予の威武をもって逃げおおせたとは言わない。ただ、食欲と嗜虐を満たされた後に諧謔を与えられ、彼女の精神はその晩、完全に満足していたに過ぎないのである。
動物たちの行動は特定の環境に対して特化しているものである。人間たちの行動は特殊化を指向する一定期間を過ぎると、普遍化へと向かう。世界の宗教を見ても顕著であるが、特定の環境や状況を前提としない行動、思考様式へ傾倒してゆくのである。生存を追求する上ではなはだ有効ではない全体性への指向が人間存在の本質に組み込まれており、それが人間を他の動物たちと峻別する唯一の要素であるのかも知れぬ。善にして全なる場所へ向け、背中から落下してゆく。ゆえに来し方は眼前へ遠ざかり、行く先は見えない。落ちるにつれて種々の執着や魂の輪郭が溶解してゆく放埒に包まれて、誰かの魂を傷つけ汚さなければ他の数十億から私を私と名指しすることはできない。仁科望美はいつもするように、左胸へ爪を立てた。私という名前の孤絶へ永遠に留まり続けるため、彼女が魂の所在と信じる左の乳房の上に強く爪を立てた。しかし、長い繰り返しの果てに堅くなった皮膚には、わずかも爪を食い込ませることはできなかった。この怪物は安息を得たいのか。安息とは全であり、彼女の願いは個である。両者は遠く矛盾し、何よりすでに殺しすぎている。孤絶が溶解することに気がつけないまま死ぬことが、地獄へ落ちるということだ。
膝を抱えてうずくまっていた仁科望美が顔を上げる。生存に特化した野生動物の本能のみが可能な、五感を超えた鋭敏さで自身の存続に対する脅威を感じ取ったのである。この破格の怪物を脅かす何かが地上へいったい存在し得るというのか。法から庇護されると同時に、単純に物理的な影響力で法そのものをさえ凌駕する最初の少女。彼女に対抗することが可能な実存を人類の叡智が仮定できるとするならばそれは、これまで地上に存在しなかった何かがこの瞬間、新たに生まれ出たことを意味している。
夜空へ向けて低くうなり声を上げていた仁科望美が、腰を深く落とした。まるで大地そのものと交接したがっているかのようだ。大腿筋がよじれ鋼鉄の如く硬化し、恐るべき力がそこへ漲ってゆく。仁科望美の足下はすり鉢状にへこみ、彼女の周囲だけ重力の仕技はその法則を変える。大気はゆっくりと渦を巻きはじめ、すり鉢の中心へ向けて収束してゆく。
次瞬、仁科望美の身体が消失する。山の稜線を形成する木々の間から恐ろしい数の鳥たちがいっせいに飛び立ち、近くの地震観測所は人が体感できるほどの揺れを記録した。逃げまどう鳥たちの群れを突き切り、黒い固まりが宙空を渡る。その巨躯が黄色い満月を横切る瞬間、この世を照らすすべての光は遮られ、ただ漆黒の闇が支配した。
予の少女と仁科望美との邂逅は、青少年育成特区が成立する基盤そのものへ決定的な影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ少し先の話である。
少女保護特区(5)
抱えた両膝に顔を伏せて永く微睡むようだった予の少女が、不意に顔を上げる。ただちに視界の上部から赤いRECの文字は消滅し、ノイズの多く混じった薄青い少女の像は部屋の隅にある現実として予の認識にとらえなおされた。予の少女はゆっくりと、予の立つ部屋の戸口へと顔を向ける。しかしそれはどうやら予が恐れたような、予の盗撮に対する消極的な疑義の申し立てではなかった。背を伸ばし、予を通り越した遠くの虚空へ視線を投げる様子は、猫科の動物を思わせる。隣室より予の少女のご母堂が夕餉の支度を告げ、その張り詰めた空気は早々に破られた。予の少女は小さく眉を寄せ、起きぬけに忘れてしまった夢を虚しくさぐるような、遠ざかるある感覚を惜しむような素振りを見せる。かすかに首を振ると、胸元に抱えた刀を畳に突いて立ち上がり、まるで予がそこにいないかのように眼前を通り過ぎる。大気の流動に残された香りを求めて、予は鼻腔を膨らませる。少女の余韻はまるで魂を緩ませるかのごとくであるが、先ほどより大きいご母堂の声が予の没入を阻害した。予を一秒の何分の一か麻痺させた陶酔を振り払うと、再びビデオカメラを目線に構えて、予は食卓へと進発する。
隣に座る予の少女を強く意識しながら、予は二杯目を突き出すときの角度と速度を綿密に計算する。そのシミュレーションを予の身体は完璧にトレースしたが、やんぬるかな、おかわりを言う声はくぐもった。しかしそのわずかの失態もあまりの完全さゆえ、ときに冷たさすら感じさせてしまうだろう予の神性に、暖かい人間性を滲ませるという肯定的な材料となったことは疑いがない。それにしても、悪い米を使うものだ。予は口中の澱粉を、苦い薬を飲むように嚥下しながら考える。加えて古い借家のフローリングは床暖房すら伴わず、顔の火照りと裏腹に底冷えがし、予は食卓の下で両足を揉みあわせる。予は無償で雨露をしのぐ場所を与えられながら、心の底でその良否について批評を抱くことができるほどの無頼である。
今朝方に近隣で発生した少女殺人からの保護を求めた予の要請は、無数のたらい回しの末、予の執念に屈する形で当局に認められた。少女殺人の発生した地区の住人は、事後二週間、その近隣に住居を持たない人物を保護する義務があることは、特区法にも明記されている。法制化されているが誰も利用したことがないという旨の言葉を数十回ほど聞き流し、姑の執拗さで突き返される十数枚の公文書を書き直した結果の居候であるから、予の少女が生活する様を間近で活写できるという僥倖以外の不便は、甘んじて受けるべきであろう。
二杯目を受け取るとき、ご母堂と予の指がわずかに触れた。ご母堂は鼻の頭に皺を寄せると、台拭きで人差し指を執拗にぬぐう。予は予の少女と離れがたく結びついてしまっているというのに、罪なことである。同じ遺伝子が、むなしい懸想を錯覚させるのやも知れぬ。ご母堂の隣におられるご尊父は、新聞を防壁のように食卓へ張りめぐらせ、ときどき共有の惣菜へ箸を伸ばすとき以外は、誰とも視線を交じえようとしない。悪い米から立ち上る濡れた雑巾のような臭いの湯気越しに、予はご尊父とご母堂を観察する。ここにいるのは、罰する者と罰される者の夫婦である。二人は幼少期の自分とそれぞれの親とに同化し、人知れぬ片田舎のこの地でかつての悲劇の再演を行っている。負の意味で、お互いはお互いを必要としており、文字通り運命的に結びついてしまっている。そして傷がゆえの結合を不可欠な愛情と錯覚し、手に手を取って破滅へと螺旋状に墜落しているのである。予の少女は、子どもにとって最も近しい者たちが破滅を望み、そしてそれを止める手段を与えられていないことに、腕を揉みしぼり続けてきたのだろう。予の少女が合法的殺人という圧倒的な力を求めたことは、この家庭において日々味わい続けてきた遠回しの無力に対抗する側面があったことは否めない。しかし、両親のする破滅のダンスは精神的なものであり、かつ本人たちがそれを意識化できないがゆえに普段は隠蔽されている。つまり予の少女が求めた力は、その当初の理由から離れた場所でしか発揮を許されず、ゆえに無力感は解消を得ない。本来の対象から転移した感情は強められ、過激化する。解消を求めて噴出する感情が、対象を誤るがゆえに解消せず、空を拳で打つような苛立ちが怒りを増幅するのである。予の少女がこの短期間のうちに、青少年育成特区においてその暴力の度合いという意味で極めて重大な要因になりつつあるのは、まさにこの家庭的背景が関係していると予は考える。そして同時に、その暴力が依拠する部分の病的な脆さに危惧を覚えるのである。
無論、予の少女が抱く病――それは予の実在にも同じ和音でもって通底するものである――を保護しようとすることは、予の少女がその病質ゆえに、主体的にではなく不可避の受動性でもって予に依存する可能性を残すことでもあり、予の少女を偏愛する我が自意識の陥穽と指摘されることは理解する。しかし、忘れてはならないのは、予の少女はすでに少女殺人者なのである。予の少女が精神的な弱さを克服するということは、肉体的な強さを喪失するということと同義だ。予の少女がいまの暴力を失えば、たちまちその生命を失うことになる。ここに至り、予は諸兄の陥穽論をひらりと飛び越えた三段論法で、正当性の向こう岸へ典雅に着地する華麗さを見せるのである。
金切り声で我に返ると、予は実際に予の席から食卓とご母堂を跳び越して、フローリングの床へ着地するところであった。予の少女の視線を意識しつつ背筋を張って席へ戻ると、予は鷹揚に食事を再開する。いまここに思考の肉体性が証明されたことを宣言したとして、ご母堂の機嫌は直るまい。こんなとき、わずか一週間ほどの滞在であるにもかかわらず、ご尊父と予はほとんど双生児のような有様で食卓を挟み、ご母堂に訪れた一時の激情が去るまでの間、視線を新聞と虚空に彷徨わせるのである。ただ、予の少女の口元が少しゆるんだように見えたことは、この椿事における唯一の収穫であったと言えよう。もちろん、すべての娘は父の残像を求めるという予の魅力を否定する諸兄の言辞には積極的に耳をふさぐとしてだが。それにしても、全く気に障る金切り声である。現代の貴種流離譚、高貴すぎる精神性ゆえに誰かと思想や日々の言葉を同じくすることのできない予が、あえてこの侮辱的な居候関係を受け入れるのも、すべては喪失をあらかじめ約束された予の少女の強さが、崩壊へ向かうことをわずかでも先送りにせんがためである。
全員の食事が終わらぬうち、ご尊父は早々と二階の自室に引き上げてしまう。新聞をたたむ際、わずかに交差した予の視線とご尊父の一瞥が互いへの共感に満ちたものであったことを予は確信する。しかし、食卓に下りた沈黙は懸想への確信を充分に裏付けるほど濃密なものであり、ご尊父に対する無作為の裏切りに、予はほとんど胸の潰れる思いをする。先ほどのご母堂の激情も、懸想を悟られたくないがゆえに表面上を本心と正反対の感情で過剰に装飾するというあの、永久凍土をカタカナ読みした名づけの精神病質によるものに違いない。乙女と確実に乙女ではない二人が予に行うだろう告白の重圧を軽減するため、予はまずこの沈黙を予のユーモアでもって破らねばならぬと感じる。それが、男子に生まれた義務のひとつだからだ。しかし、確かに発したと思った言葉は予の喉の入口に留まり、外的にはくぐもった呻きが大気を揺らしたのみであった。予を羞恥で悶絶させるはずのその呻きは、しかし大きめの家鳴りに掻き消される。予は再び予の内側へと退却し、今回の戦術を戦略的視座から再検証するべく引きこもった。状況は楽観的どころではなく、手始めに予は斥候として、考えられる最善のタイミングで空の茶碗を突き出す。予への恋慕を押し隠すためのご母堂の、露骨な舌打ちが追い討ちをかける。斥候が無事に帰還を果たすか、全く予断を許さなかった。
だが、予の苦境は思わぬ形で解消をみるのである。天井がわずかにきしみ、湯気を立てる予の三杯目に埃をちらす。それに先んじた重い音を予は聞き逃さなかった。予の少女は食卓にたてかけてあった刀をつかむや否や、真後ろへ蜻蛉を切る。かすかにのぞいた陣幕の内側が、確かに予の視界にあったのかを巻き戻すビデオカメラはなく、予の左手には三杯目が、予の右手には里芋を突き刺した箸が握られていた。予は両手を眼前に並べると、激しく叱責する。「諸君は予の精鋭として、長い苦しみに耐えてきた。それが今度の体たらくは何か。輜重に眼を奪われるあまり、最良の勝利の瞬間からは眼をそらしたのだ。君たちの心の中で、廉恥と劣情が勝つか、空腹が勝つか、それをできるだけ早く知りたいと思う」。予がまくしたてると、驚くべき変化が起こった。左手はたちまちビデオカメラをつかみ、右手は里芋ごと箸を放棄したのである。我が意を得た予は莞爾と微笑み、予の少女を激写せんと雄々しく進発を宣言する。一方で中座を申し出る声はくぐもったが、ご母堂は予の緊迫した様子に圧倒され、眉間と鼻の頭にある皺をますます深く寄せるにとどまった。
最強行軍で駆けに駆け、やがて予は予の少女の尻、ではなく殿と接触を果たす。無論、誤解をしてほしくないのだが、物理的にという意味ではない。眼前に立ちはだかる段差を攻略しあぐねているのかと思いきや、予の少女は階段の中腹へ鞘を突くと棒高跳びの要領で刀身を支点に跳躍し、その体を縦方向へ大きく回転させる。予の精鋭たちは二度の失態を許さぬとばかりビデオカメラを神速にて掲げるも、大気が垂直に伸びた予の少女の両足へぴったりと陣幕の布を張りつかせる映像を残したのみであった。二階廊下への着地と同時に、予の少女は回転の余勢を駆って抜刀し、続く動作で突き当たりの扉を袈裟に斬り下げ、同じ速度で逆袈裟に斬り上げた。鍔音に続く完全な静止から一瞬の間をおいて、木製の扉は四枚の二等辺三角形となって部屋の内側へと吹き飛ぶ。
木屑の舞い落ちるその先には果たして、両手足の関節を人間の本来とは逆方向へ折り曲げた異形がご尊父を四つに組み敷いていた。窓がわずかに開いており、ここからの侵入が先ほどの家鳴りを生じさせた原因かも知れぬ。異形の首がくるりと回転し、ほとんど浪曲師の嗄れ声でノイズのような音を立てる。笑っているのだ。防衛のための殺人が自己目的化し、そこへの耽溺が理性を消滅させる。やがて係累との関係を失い、野良化した少女のうちの一人だろう。むき出しになったご尊父の下半身と野良少女の下半身は接触しており、寄生蜂の産卵管が幼虫に差し込まれている図を予に想起させたが、現実はその正反対である。
鋭敏な感性を持つ予は気づかざるを得なかったのだが、ご尊父のパソコンにこの異界の点景として、言うもおぞましい婦女の図画が表示されているのがわかった。天然色の頭髪に包まれたその頭蓋は変形し、巨大に発達した眼窩が組み敷かれたご尊父を見下ろしている。予の少女がそれを見なかったことを祈る。これこそが、家族の団欒に優先したご尊父の秘密なのであった。野良少女とモニター上の図画は、その異形性において類似点を見出せないこともない。つまり、眼前に繰り広げられる陰惨のまぐわいがご尊父にとって決して合意ではないという断言は、困難なのである。騒ぎを聞きつけたのだろうご母堂が足音荒くやって来、予は状況を説明する困難さに肝を冷やす。しかし、ご尊父の部屋を覗き込むと、無表情のまま回れ右で階下へ去っていく。
野良少女へ側面から対峙する予の少女は、圧倒的に有利な地形的条件を得ているとみてよいだろう。ときに十メートルを超える先を切断する予の少女の抜刀であれば、野良少女がまばたきをする瞬間にその首を落とすことができる。しかし、ご尊父を巻き込むことを心配しているのか、低い姿勢で右手を柄に置いたまま、予の少女は動かないでいる。部屋の中にはある種の均衡が醸成されており、誰も動くことはできないはずだった。予の頬から伝い落ちた汗がビデオカメラのレンズを流れ画面を滲ませる先を、しかし、上下ひとつながりの薄物をまとったご母堂が横切る。予の少女の肩がわずかに震えるのが見えた。薄物の上からでも視認できる乳暈の濃さは位置によって、経年の使用と純粋な加齢から、それらが重力に敗北しつつあることを教えてくれる。しかし、予の背筋と予の少女の心胆を寒からしめたのは、乳暈の色合いではない。ご母堂が右足にだけピンヒールをはいていることが、予と予の少女を慄然とさせたのである。
誰もが虚を突かれ、ご母堂の存在をこの場面に意味ある何かとして当てはめることができないでいる。ご母堂はよどみない動きでパソコンが置いてある机によじのぼると、仁王立ちに野良少女とご尊父の媾合を見下ろした。制止する暇もあらばこそ、完全な無表情からの跳躍と、両足をそろえた落下の次の瞬間、ピンヒールの高さはすべてご尊父の右のこめかみへと消える。濁った音とともに、マヨネーズ状の何かが噴出するのが見える。ご母堂の鬼気に飛びのいた野良少女の首が、予の少女の抜刀によって切断される。生首は血流を推進剤に回転しながら宙空を進み、天井にぶつかってからご尊父の傍へと落下する。爆発的な動きの後に訪れた再びの静寂を破ったのは、鍔音に続くご母堂の笑い声である。
予は固まってしまった右腕を意識しながら、無理矢理とビデオカメラを下ろす。予の視界はもはや少女殺人の終わった現世を映しているはずであったが、哄笑を続けるご母堂の肩越しから向こうに、奇怪な生物が立ち上がるのが見えた。それの側頭部からは角のような物体が生えている。右目は釣り上げられた深海魚のように突出し、生気のない左目は暗闇の中でなお燃えるように赤い。それの両手が背後からご母堂の首にかかる。たちまち哄笑は途絶え、ご母堂の口腔に舌が盛り上がる。予の少女がそれの両手首を斬り落とすのと、何かが折れる鈍い音が聞こえるのはほとんど同時だったように思う。それは――両手首を切断されたご尊父は膝から床へ落ちると、上体を前のめりに傾ける。意識という制御を失った怪力に頚骨を砕かれて絶命したご母堂は、もはや支えるものの無い頭蓋の重みで後頭部方向へと倒れる。二人の身体はその途上で交錯し、予の眼に“人”という字のシルエットを残した。
ご母堂は自分の知らない女性と寝るかつての父を見つけ、ご尊父は愛ではなく性で支配するかつての母を見つけ、その混濁した互いの意識の裡に、この世界で最も正統な復讐を果たしたのである。 母を求めた男と父を求めた女はお互いの幻想と差し違え、誰もが現世で手に入れるはずのない究極の達成を得た。二人は己の死と同時に全く過不足の無い精算を果たしたのである。彼らは天国にも昇らず、地獄にも堕ちるまい。それらは造物主イコール両親へ向けられた感情の真実さへの欺瞞、あるいは罰を象徴する名前に過ぎないからである。幸いなるかな、二人の魂は完全にこの世界から消滅することができるだろう。
音も無く回転する車載用電火表示板の赤さに照らされて、予の少女は闇に沈み、そしてまた現れる。その様子は予の少女の持つ一種の二面性、脆い内面を実体として衆目にさらすようである。そのむき出しの痛ましさは、直視に耐えぬ。今回の事件は予の通報を伴わなければ、二件の少女殺人と一件の通常殺人として処理されたはずであった。しかし、少女殺人に遭遇すること頻繁な予が県警にする説明は陪審員を前にした辣腕弁護士の如くであり、予のビデオカメラを用いた検証が駄目押しとなって、発生したのは一件の少女殺人と二件の通常殺人であったことが証明される。野良少女の死後に、予がビデオカメラの撮影を中断したことは幸いであった。ご尊父は予の少女の斬撃で両手首を失う前、すでに致命傷を得ていたと思われるが、あの場面の映像を前にそれを県警に納得させることは難しかったろう。ただ、法的処理の段階において少女殺人はこの世には存在しないように振舞うので、予の説明は予の少女から父殺しの衝撃を取り除いてやりたいという、極めて心情的な側面から発していたことは否めない。
落下してくる白球をどちらが捕球するかで争う外野手と内野手のように、霊柩車と救急車を挟んで睨みあう救急隊員と妙齢の女性たち。両者を呼んでする県警の指示により、三つの遺体は公平にそれぞれへと分配された。霊柩車のブレードが野良少女の遺体を粉砕する一方で、三つ以上の部分に分かれた予の少女の両親は担架に乗せられ、ほとんどうやうやしく救急車の内部へと搬入される。霊柩車の持つ冷厳な即物性に比して、死体を搬送する救急車というものは、法の便宜的な側面をことさらに強調し、生と死の間にあるマージンを象徴する。その緩衝地帯は生の側にとってのみ必要とされ、死の側に立つ者は全く頓着しない領域である。霊柩車から見下ろす妙齢の女性たちは、その事実を経験として知っているようでもある。
事情聴取を終えて歩み寄る予に、予の少女は顔を上げる。その瞳はつやで黒く濡れており、予の呼吸を停止させんばかりであった。正対する予にしかわからぬほどのわずかな逡巡の後、予の少女は予の両腕の間に身を投げる。ほとんど骨格を感じさせない柔らかな肢体を得て、予の全身へ雷鳴に似た衝撃が走った。親と子の関係を象徴的に語りなおすのが宗教であるとするならば、人類の最初期に塗りつけられたその汚辱が、予の少女を予に執着させる。神という名の呪いに端を発する歪んだ執着が、愛という名付けで巧妙な偽装を行う。正体を知りさえしなければ、それを楽しめるのだろう。しかし予は、予の自己欺瞞を許すことができない。魂を不可逆に改変するという意味で、知ることは呪いである。いまでもときどきこの瞬間を夢に見る。もしかすれば、抱きすくめればよかったのだろうか。それが、正解だったのか。
抱きしめる代わりに予はその細い両肩をつかむと、予の少女を引き離した。布一枚の向こうにあるしなやかさを通して、予の少女の傷の形がありありと見える。ぴったりとそこへ嵌まれば、予は本当の意味で予の少女を手に入れることができたのかも知れぬ。永遠を依存する一つの病になれたのかも知れぬ。それが幸福の一形態ではないと、誰に断言できるだろうか。予はただ、人間に対して誠実であろうとしただけである。
しかし予の少女は、予が最も重大な瞬間に裏切ったと感じたはずだ。予の少女の瞳は干上がるように渇き、みるみるうちに表情が消えてゆくのがわかった。予は立ち尽くし、声をかけることもできない。永遠のようにうつむいた予の少女は、やがて完璧に抑制された微笑を浮かべると、軽く膝を曲げて会釈をする。助手席へ誘導しようとする救急隊員の制止を振り切って、予の少女はかつて両親だった残骸の傍らへ腰かけた。扉が閉められる瞬間まで、予の少女が顔を上げることはなかった。
救急車が走り去るのを見送ると、予は少女殺人からの保護を盾にして、霊柩車へと乗り込んだ。妙齢の女性たちは露骨な嫌悪を向けたが、予の主張する権利は特区法によりその履行を強烈に裏書きされている。居候先を失った予は、当面の生活費を稼ぐ必要があった。少女殺人の記録はどんなものであれ、当局に高値で売りさばくことができる。しかし何より、この場所を早く離れてしまいたかった。
どうか覚えておいてほしい。言葉があるということは、現実がないということだ。予が語りはじめたことは同時に、予の少女の不在証明となることを。