少年の死。矮小な死。歴史は彼の名前を残そうと思わないだろう。少年の存在がこの世界から完全に消え去るまで、そう長くはかかるまい。少年の死因はわからない。孤独ゆえの自死なのか、死と他者との関係性を引き替えにするという誘惑に耐えられなかったのか――
結局のところ、上田保春の中で重大になりゆくその存在の比重は、彼が外界からの逃避先として少年に自己憐憫を投影していただけの一方的なつながりに過ぎず、現実では二度ばかり、一日にも満たない時間を過ごしただけのただの他人に過ぎなかった。上田保春は少年のことを何も知らず、少年も上田保春のことを何も知らなかった。それはお互いの真相を知らぬゆえに可能な、自己愛と他者愛が渾然となった恋に落ちる寸前のあの時期に似ていたのだろう。
少年の死はこの世界から何かを永遠に奪っているはずだった。それは、もしかすると魂と呼ばれるものなのかも知れない。しかし、自分の中からは何も失われていないのを上田保春は知る。彼はこの世界の主人公ではなく、少年は彼にとっての欠けた片割れではなかった。現実に接点を失った他人の存在が人生から消えるのに、一週間とはかかるまい。萌えゲーの少女たちが稲妻のように輝きを放ち、上田保春の心へ永遠に消えぬ火傷を残すようには、少年が彼に何かを残すことは無い。だとすれば、あれは生の内包する錯覚だったのか。孤島に取り残された男女ふたりの間には、やがて間違いなくお互いを強く求める気持ちが生まれるだろう。彼と彼女が物語の主人公であるからではない。そこにカメラが回っているかどうかは関係が無い。身体の奥底に普段は気づかれないよう眠っている動物が、ふたりを否応なく引き合わせるのだ。上田保春と少年との関係は、孤島の男女に生じた愛の錯覚に過ぎないものだったのだろう。しかし、上田保春と少年のようではない関係が、存在し得るのだろうか。この世界を無数に分割する泡のような隔たりの内側に、何の意志も伴わぬ偶然によって集められた人々が、他の泡の中身を知らないまま、それでも同じ泡に住まう人々を、友人であるとか、恋人であるとか、家族であるとか、それが必然を伴う特別な関係性であると名指しできるのも、内なる動物が我々の人間を操作しているからではないのか。誰も上田保春を笑えまい。萌えゲーおたくだった彼の抱き続けた疎外感は、動物への屈服を自ら拒絶した、誰よりも人間であろうとしたがゆえに生じたものなのかもしれないのだから。
屋根裏から降りてきた母が、落ち着いたみたい、と上田保春に告げる。母は先ほど目にしたはずの事件には触れず、まるで何も無かったかのように振舞っている。母はダチョウのように砂地に首を埋め、物理的な結果を残さないのならば見えなかったようにふるまうことで、彼女の息子の異様な性癖になんとか辻褄を合わせてきたのだということが、ふいにわかった。おそらく血塗れの遺体を眼前につきつけるまで、母は息子に対して盲目であろうとするだろう。その理解に悲しみはなかった。あきらめもなかった。こうなっているのだから、誰にも仕方が無いという受容だけがあった。上田保春は母とほとんど何も話さぬまま、手渡されたメモを頼りに買い物を済ませた。一緒に夕食をという申し出を辞して、祖母の生家を後にする。アクセルを踏み込むと、景色はたちまち背後へと飛び去った。陽光と霧の境目を越えさえすれば、もはや上田保春は母とも祖母とも違う、別の泡の中にいた。山を下り、国道へ合流する。ふと視線を上げると車内から、山々の稜線を輝かせながらゆっくりと沈みゆく太陽が見えた。陽光の最後の残滓が稜線の上空へ浮かぶ雲の腹を茜色に輝かせ、上田保春はあまりのぞっとするような美しさに息を呑んだ。エンジンの振動の外に草と草が擦れるわずかな音が聞こえ、昼間の蝉の声の残響が聞こえ、昼と夜の狭間を吹き抜ける風の音が聞こえ、そして静寂の音が聞こえた。その瞬間に存在したすべての要素はお互いを邪魔にせぬよう、清澄な調和を基に統一されており、上田保春と人工物である彼の車さえ、交通の少ない田舎の道路の上で世界そのものと何もぶれることなく合一しているのだった。喉の奥に悲しみのようなものが溜まるのを感じ、かつて味わったことのない心臓を直につかまれるような恐怖に彼は身震いした。窓をすべて閉め切ると、チューニングの決まらぬFMラジオの音量を最大限にまで上げる。名前を知らない男性シンガーのポップミュージックがひどい雑音と共に車内を騒音で満たした。全身を緊張で強ばらせた上田保春は、わずかに安堵の吐息をつく。一刻も早く自室のパソコンの前へ座り、萌えゲーをプレイしなければならなかった。
上田保春は幾度も振り返りながら、わずかに開けた扉の隙間から身をすべりこませた。扉の内側に上下二箇所ついた鍵を閉め、何かが入り込むことを恐れるかのように、さらにチェーンをかけた。靴を脱いで椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れる。萌えゲーの起動アイコンがぎっしり詰まったフォルダを開き、マウスのカーソルが小刻みに揺れて定まらぬのを左手で押さえつけるようにして、そのうちのひとつをダブルクリックする。企業ロゴが現れ、回転し、消え、巨大な眼をしたパステルカラーの少女がタイトルとともに画面を占有すると、上田保春はようやく人心地ついた表情を見せた。少女が画面上で微笑むのを注視したまま後ずさりをし、手探りでコーヒーメーカーをセットする。そのとき、胸元の携帯電話が二回振動し、メールの着信を彼に知らせた。レトルト食品の紙箱を乱暴に破ってレンジに乗せながら、履歴を確認する。それは少年のアドレスから送信されたものだった。そのタイトルには、「息子が死にました」と書かれていた。
――先日、息子が死にました。お恥ずかしいことですが、私たちは息子の交友関係を全く把握していませんでした。息子の携帯電話の履歴に残された方々に同じ文面のメールを送信させて頂いています。息子の名前にお心当たりの無い場合、どうぞこのメールは削除下さい。もし、生前の息子をお知りになられているなら、葬儀にご参列下さればと思います――
続いて葬儀場所と時間が記され、お手数をおかけしますと締めくくられている。無論、上田保春が真っ先に考えたのは悪戯メールの類である可能性だった。しかし同時に、ひどく納得するような気持ちもある。少年の年頃に少年が話すように話したとしたら、自分はきっと死ぬことを選んだと思う。水泡がはじける音とともに、コーヒーの香りが室内に漂いはじめる。鈍くなった感受性、醜く凡庸に墜してゆく自分を嫌悪しながら、どこか心の深い部分でほとんど慈愛のような感情が、その弱さを許してさえいる現実。
少年はきっと、死んだのだろう。
週があけて、職場へ出る。見慣れたすべてはまるで違うように感じられたが、それは上田保春自身の変容によるものだった。いままではあえて触れようとも思わなかった人々の仕草ややりとりが、驚くほどその内側に存在する意味を主張して迫ってくるのがわかった。小心な萌えゲーおたくだった上田保春は、細大もらさぬ注意を配って職場でのふるまいを自己規定してきたはずだが、その大部分は彼自身にとってしか意味をなさない因習のようなものだったことが理解された。誰も上田保春に対して、彼が思うほどには興味も関心も抱いていない様子だった。上田保春が腐心してきたのは、相手に何も与えないようにすることだった。愛が不在ならばそれが彼に悪意をもたらすことはあり得なかった。田尻仁美と廊下ですれちがう。他にも社員の姿があったせいか、彼女は意味ありげな視線を上田保春に向けたのみだったが、彼はただ誰に対してもする微笑を浮かべて会釈すると、その傍らを無関心に通り過ぎた。田尻仁美との一夜のことは上田保春の中で、もう無いのと同じになっていたからだ。相手に何も与えないようにすること、それは人間関係における蓄積を拒否することである。田尻仁美が上田保春のことを本当に愛しているのでなければ、悪意は発生しないはずだった。廊下を曲がる際、視界の端にこちらを凝視している彼女の姿が目に入った。再構築された上田保春の意識はまるで赤子のように考える。ゴシップ的な興味で近づきながら、田尻仁美はいまや自分のことを愛しているのか。偶然に触れ合った二人の間に起こったことを、なぜ彼女は愛と信じることができるのだろう。
少年の葬儀の当日、喪服を用意するほどの思い切りも無いまま、濃い色合いのスーツに身を包んだ上田保春はメールに記されていた葬儀会館の入り口に立った。奥からは読経の声が聞こえてくる。狭い敷地で多くの外来者をさばくためかもしれない、入り口部分は扉や壁を取り払って完全に戸外へ向けて開けており、前を通り過ぎるだけで中の様子をくまなくうかがうことができた。ここに来るまでにあった誘導の看板と、遠くに掲げられた遺影を見るに、どうやらこれは本当に少年の葬儀であるらしかった。
事前にメールを転送しておいたのだが、太田総司と有島浩二は姿を現さなかった。彼らはまたいつものようにマンションの一室で自分自身をのぞきこむ作業に没頭しているのかも知れぬ。死者の弔いに参列する意味など、本当は何も無いのかもしれない。彼らのやり方が正しいのだろう。少年は死に、その意識はこの世界から消滅した。残されたものたちが日常の連続の中で彼の存在に決着をつけるためだけの儀式に、確かに意味などというものは何も無いのかもしれない。しかし、そうやって世界の意味は順に消滅していくのではないか。すべての尊厳や、目に見えない何かは、そうやって消えてしまうのではないのか。上田保春は怒りを覚えた。それは義憤と表現してもいいものだった。しかし、結局のところその感情でさえも、彼らの無関心の前では嘲笑され、貶められ、無化されてしまうのだろう。萌えゲーおたくの前ではすべての価値が無化される。自分の中に何か少しでも大切なもの、人生への意味を抱いている者たちは、あえて彼らの前に立とうとは思わぬだろう。嘲笑と無力感は表裏一体の感情である。子ども時代の無力を追体験して、それが実際大したことではなかったと自分に繰り返すために、上田保春は萌えゲーを愛好したのかも知れぬ。そして気づく。萌えゲーおたくであることの無力感と、子ども時代の無力感は酷似していた。人間は幸福を反芻することはできない。それは泡のように、生まれた瞬間に壊れて消える。しかし、人間は不幸を反芻することができる。それは魂の内側に深く根ざし、そこへ意味づけすることで、あるいは消せぬまま否定か肯定を繰り返すことで、人間は充分に一生という時間を消費することができる。
関係者ではないふうを装って、葬儀会館の表を幾度が往復したが、ついに焼香に立つことはできなかった。遠くから確認した少年の遺影に何かの感情を刺激されたような気になって、上田保春はコンクリートの壁面をなぐりつけようと拳を振り上げる。しかし、結局はそれをしなかった。なぜなら、以前映画で友人の死に主人公が壁を殴りつける場面を見たことを思い出したからだ。拳を振り上げたのは自分の判断ではない。この場面に適切な行動が膨大な虚構の蓄積から自動的にソートされた結果だろう。また、コンクリートの壁を殴りつけようものなら、拳を骨折するだろうと冷静に考えた。彼は自分が傷つくというリアルな想像に眉をしかめて、右拳をやわらかく左手で覆った。結局のところ上田保春は、事前に想像していたほどには悲しみを感じなかった。少年の死を眼前に彼が感じた哀切は、最良の萌えゲーのシナリオが提出した哀切よりも、はるかに感動的でも影響を与えるようでもなかった。なので、記帳し焼香を上げ、お悔やみの言葉を言う際に少年との関係を彼の両親にどのように説明するのかを考えたとき、真っ先に浮かび上がってきた感情は「面倒くさい」というものでしかなかった。いったん芽生えるとその感情は、たちまちずっと感じてきた本来であったかのように彼の心全体の雰囲気を決定し、支配した。上田保春はいとおしいものを抱くように右拳を胸元に引き寄せると、少年の遺影へ背中を向けた。それが少年との最後の別れだった。少年の存在は、彼の外側で無化された。
照明を消した室内で、上田保春はモニターの前にほおづえをつく。萌えゲーの少女を映し出したモニターの前で、萎えた男性はいっこうに昂揚を見せようとしない。ズボンを引き上げると、彼は車のキーをつかんで玄関を出た。階段を下りる途中に、同じ階で一人住まいをしている老人とすれ違う。いつもは不機嫌そうにしているばかりだが、今日は上田保春の会釈に笑顔さえ見せた。頬を上気させ、何か嬉しいことでもあったのかもしれない。老人を見る上田保春の視野が倍率を上げ、その顔に刻まれた皺をクローズアップして映した。無秩序に引かれたように思えるその一本一本の線は、幾何学模様のように全体として意味をなしていることを彼は理解した。その皺のうちの一つとして意味を持たないものは無かった。それは老人の来歴を、人生を余すところなく表現しているのだった。上田保春は自身の没入に気づき、あわてて首を振る。そうだ、瑕疵だ、瑕疵を探すのだ。この完全さの中にたった一つ瑕疵を探すことさえできれば、老人の全存在を否定することができる。これまでも、自分はそうやって生きてきたではないか。狂おしく視線を動かせば、老人がパチンコ店のビニル袋を手提げにしているのが目に入る。この老人の機嫌は要するに、パチンコで勝ったという事実にだけ依拠しているのだった。上田保春は口元に嘲笑を浮かべようとして、気づく。パチンコをすることと萌えゲーをすることの間にはもはや何の優劣も存在しなくなっていたのだ。なぜ萌えゲーを愛好する自分が老人よりも上に位置づけられるのか、かつて確かに存在したはずの確信はすべて消失してしまっていた。その考えが浮かぶか浮かばないかのうちに脳内で猥褻な単語を連呼し、老人に挨拶を返すいとまもあればこそ、彼は足早にその場を歩み去る。
外に出ると昨日までのようではなく、大気はわずかに冷気を含んでいるようだった。季節が移り始めているのか。空気中に含まれた湿気が肌の表面を撫でながら、ゆっくりと地面へと移動してゆくのを感じた。ふと空を見上げると、月が大きく出ている。それは原色のような黄色で、三日月の分だけ上弦を切り取られていた。ふいに思考が訪れる。それは上田保春の内側からではなく、どこか遠い外からやってきたように感じられた。地球と月が引き合うように、この地上に住まう我々は引き合い、例えその結果として生まれたものが殺人であろうと、この世界にとって悪ではなかった。上田保春は、月のさらに向こうを見た。世界は極大へと広がっていた。その底で上田保春は極小に過ぎなかった。彼は点描画の上の一つの点だった。極小の上田保春は極大へとつながっており、極大の世界は極小の彼へと収斂している。生命という円環を形成するために極大と極小のお互いは分かちがたく結びついていた。この森羅万象にある人間を含めたあらゆる事象は、その存在の基底に抜きがたく善を内包しているのがわかった。読経にも似た大きなうなりが渦のように巻いて周囲から迫ってくるのを感じ、上田保春は恐怖する。彼は逃げ出すように駐車スペースへと向けて駆け出した。車に飛び乗り、萌えゲーのテーマソングを最大ボリュームで流すとアクセルを踏み込む。急激なタイヤの空転の後、焦げたゴムの匂いを残して車は発進した。
深夜の高速道路を上田保春の車が疾走する。危険な追い越しにクラクションが鳴らされるが、その音さえすぐに後方へ流れて消えてゆく。死んだ、殺された、少年が、自分が。あんなにも生きたがっていた彼らの、すべては中絶してしまった。死にたい、殺したい。いや、藤川愛美の前に自分は何人も殺してきたではないか。新作萌えゲーの画像をネットや雑誌で目にする度に、ネット商店から送付されてきた真新しいパッケージを取り上げる度に、その瞬間まで愛情を注ぎ続けてきたはずの少女を忘却してきたではないか。少女を殺害し続けてきたではないか。深夜に手ずから穴を掘り、自分にさえ気づかれぬよう穴を掘り、その墓穴へ冷えた少女たちの遺体を埋葬し続けてきたではないか。あの初恋の少女は今頃どこにいるのだろう。おかっぱ頭に着物姿のあの少女は、何をしているのだろう。あの頃は、彼女なしには日も暮れなかった。どこまでいっても逃げられない薄汚さに自分を殺したいようだったあの日々に、彼女の慈愛に満ちた微笑みが救いを与えてくれた。誰も触れえない彼女の清潔さは、現実に触れえない彼女の清潔さは、いつもこの世の汚れから自分を救い上げてくれた。あんなに焦がれたはずなのに、あんなに愛したはずなのに、今はその顔もはっきりとは思い出せない。彼女はまだあの頃のように自分を愛してくれているのだろうか。誰もが眉をひそめるような汚れを身にまとってみせることで、その奥にある清潔さを誰にも気づかれないようふるまう卑怯な自分を、彼女は許してくれるのだろうか。いや、それは不可能だ。あの美しかった少女はいまや皺深い老女へと変じ、山奥の一軒家で自分ではない男のことを待っている。意識が現実と虚妄の間を行き来し、気が付けば眼前には蛍光色の三角が並んだカーブが迫っていた。死ぬべきだ。上田保春の意識は明確にそう考え、アクセルを踏み続けることを命じたが、彼の両手はハンドルを逆へと切った。次瞬、視界はレースゲームのように横倒しになり、強い遠心力に身体が持っていかれるのを感じる。死にたくないのか。ここまで来て、まだ死にたくないのか! 強い衝撃に上田保春は意識を失う。しかし、それはほんの数瞬のことだった。気がつけば、歪んだ車体のフレームを額縁のようにして、粉々に砕けた窓ガラスの散乱する地面が逆さに見えた。右足に強い圧迫を感じ、身体を動かそうにもかなわない。右半身に熱いものを感じる。それはどうやら血が流れ落ちているせいらしかった。カーステレオからは、萌えゲーのテーマソングが大音量で流れ続けている。パトカーか救急車のものらしいサイレンが遠くに聞こえ、周囲には天井に張りつくコウモリのように何本かの人の足が見えた。上田保春は悲鳴を上げる。止めてくれ! お願いだから、誰かこの歌を止めてくれ! 彼の抱いたすべての想いは、ただその一点へ収束した。
結局、上田保春は死ななかった。気がつけば彼は病院のベッドの上にいた。何度か田尻仁美からメールが来た。返信はもちろん、読むこともしなかった。一度、彼女は病室にまでやってきた。上田保春は薬で眠っているふうを装った。しかし、田尻仁美はきっとその無言の拒絶に気づいたはずだ。あとは断片的な白い映像をしか、思い出すことができない。
一ヶ月の入院を終えて職場に戻ると、周囲によそよそしい壁のようなものを感じた。どうやらそれは彼に向けられた悪意によるものらしかった。だとすれば、やはり田尻仁美は自分のことを愛しているのだろう。仕事の引継ぎと久しぶりの外回りを終えてオフィスに戻ると、机上に備えたクリップボードに雑誌から切り抜いたのだろう、藤川愛美の画像の切り抜きがピン止めしてあった。それはまるで葬儀の際に用いられる生前の写真のように、上田保春の目に映った。それぞれが仕事の手を休めないまま、しかし周囲の意識が彼の動向に集中するのがわかる。上田保春の胸に訪れた感情は、悲しみだった。二度死ぬという苦しみは、いかばかりだろう。これ以上の陵辱を彼女に与えるわけにはいかない。丁寧にピンを外すと切り抜きを背広の内ポケットへとしまい、右手でそっと押さえる。この胸の内ならば、誰にも藤川愛美を傷つけることはできない。瞬間、声にされぬ悪意と嘲笑が周囲に膨満するのが感じられた。藤川愛美は上田保春だった。心の奥深いところにある処女地、そこを土足で汚させぬため、余人の手に触れることから永遠に遠ざけておくため、彼は全身全霊で立ちはだかりつづけてきた。自己愛を投影し、守るべき可視の何かとして具現した存在、それが上田保春にとっての藤川愛美だった。午後の業務のためにファイルを取り出しながら、彼はただ田尻仁美に謝りたいと思った。彼女のせいではなかった。萌えゲーおたくであることを知られたくないという自己愛のためだけに、彼女の誘いを断ることができなかった。田尻仁美のことを、他人のことを大切に感じるのならば、その結果が何を生もうと断るべきだったのだ。あの夜のことをまるで無かったかのようにふるまう自分に、彼女はひどく傷つけられたのに違いない。いずれを選んだにせよ、結局は同じこの場所にたどりついてしまった。田尻仁美に期待させ、その期待を裏切ることで手ひどく傷つけてしまう方のバッドエンドにたどりついた。人の中で存在することを選択した以上、自分自身の本質を隠し続けて生きることなど、誰にもできはしない。その人間性に対する侮辱が死の瞬間まで看過され続けるほど、この世の善は盲目ではない。すべて、生身の人間を愛することのできない上田保春が、人生に負うべき負債だった。
その晩遅く、上田保春は大田総司のマンションを訪れた。合鍵を使って扉を開けるとまっさきに、人体から排出されたものが外気と触れることで生じた悪臭が鼻をついた。床には相変わらずビールの空き缶が散乱し、奥のテレビにはなじみのロボットアニメの軍人将棋ゲームが映し出されているのが見えた。腰に分厚く巻いた肉に上体を預けるようにしてまどろんでいた太田総司だったが、気配を感じたのか億劫そうに顔を上げた。コンビニで買ってきたビールを横抱きに奪っていこうとするのに、上田保春はわずかにビニルの手提げを持ち上げてそれをかわす。バランスを崩した太田総司は片腕を宙に泳がせながらたまらず床へ倒れ込み、うらめしそうな視線を投げかける。その様子を見て、彼の心に悪意が生じた。この萌えゲーおたくをひどく傷つけてやりたかった。しばし思考をめぐらすとこれまでのようではなく、自分の中に太田総司を的確に傷つけることのできる力が生まれているのを知った。彼の弱さ、彼の執着がまるで可視の実在であるかのように上田保春には見えた。ただその言葉を言えば、太田総司は永遠に呪われるだろう。彼はいったいここで何を待っているのか。誰を愛する代わりに、自分を愛しているのか。上田保春は大田総司の目を見ながら、ゆっくりと言った。「少女はもう、君を迎えにこない」
個人的な腹いせに過ぎないことはわかっていた。殴らせるつもりだった。自分が人を傷つけることができるのを確認するために彼を利用したのだ。それは同時に、この陰鬱な会合からの訣別の宣言でもあった。だから上田保春は殴られるべきだった。しかし、太田総司は一瞬驚いたような表情を見せると、赤子がいやいやをするように首を振り、床に額を押しつけてさめざめと泣き出した。この苛烈な世界にかろうじて生き残った最後の少女たちは、自らの苦しみに耐えることだけで精一杯だ。少女が迎えに来ることを待ち続ける萌えゲーおたくたち。そして、自らの苦しみにうずくまる少女たち。いったい、誰が救われるのだろう。大田総司のすすり泣く声と、ゲームの効果音だけが室内に流れている。やがてゲームに没頭しているようだった有島浩二が、画面からは目を離さないままぽつりと言った。「少女は俺を迎えに来るよ」その声はかすかに震えているようだった。「少女がいつか俺を助けに来る。俺にはそれがわかっているんだ」
テレビ画面の明滅が眼鏡に映り込み、有島浩二の表情はうかがえなかった。しかし、その後ろ姿はひどく弱々しく、ほとんど泣いているようにさえ見えた。その指は彼から切り離された何かのようにゲームのコントローラーを操作し続けている。上田保春の前では露悪的にふるまい、エキセントリックな態度をとり続けていた有島浩二。それは複雑に屈折した劣等感の表出だったことがいまならばわかる。彼が発する本当の声を上田保春は初めて聞いたように思った。到底理解のできぬ不気味な、位相の違う存在だと考えていた彼のことをこれまでの長い年月をかけてよりも、その一言でより多く理解することができた。上田保春は自分の行為をひどく後悔した。
「本当に、迎えに来るといいな」
なぐさめや償いの気持ちからではなく、心の底から、祈りにも似た感情に突き動かされて彼は言った。祈り――それは力ある大きな存在に向けてするのではない。かなえられたいと思ったり、救われたいと思って人は祈るのではない。自分以外の誰かの存在を認め、その幸福を本当に信じたいとき、人は祈るのだ。本当に、いつか少女が迎えに来るといい。
「ああ、迎えに来るといいな」
有島浩二が答える。それは彼らの間に成立したおそらく初めての意思疎通であり――そして、最後の会話となった。
現代の成人年齢は以前に比べて二十歳ほども高いのだという。だとすれば、いつまでも老人たちが枯れぬのは当たり前のことである。老人たちの年齢から二十ほどを引いてみるがよい。それが彼らの実年齢なのだ。つまり、彼らが枯れて、かつての老人たちが果たした賢者の役目にたどりつくのは、寿命をはるかに越えた先となる。確かに医学は進歩し、女性は四十を越えても子どもを産めるのかも知れぬ。情けない男たちは一回りも年上のそういった女性の子宮に注ぎ、人類は滅亡を回避できるのかも知れぬ。しかし、孤絶した魂を全へと返し、生と死の間の橋渡しをするあの賢者たちはすべて歴史のかなたへと消え、現世にはただ生に関わり続け、とどまり続けたいという欲求を捨て切れぬ者たちだけがあふれる。そして誰もが誰かを導かぬまま、自分という存在を放棄することのかなわぬまま、完全な個として消滅してゆくのだ。あの少年のように救いをもとめながら、けれど救うべき誰かは自分だけにとらわれて、そうしてみんな孤絶のうちに死んでゆくのだ。自分が聖者でありさえすれば、少なくともあの少年だけは救われたのかも知れない――上田保春は痛恨の思いで振り返る。しかし、すべては繰り言に過ぎなかった。少年への後悔の気持ちを心の中に繰り返すことも、それは結局その繰り返しの果てに疲弊して、少年の死そのものが風化して意味を無くすためにそうしているのに過ぎず、どこまでいってもやはり上田保春という意識から、その意味の重大さから離れられないままなのだ。世界の意味をすべて無いものにしながら、彼の内側にある動物が彼自身の意味を無化してしまうことを許さない。だから、我々は醜悪なのだ。世界に優先する自分、何よりも大切な自分。絶望は存在しない。なぜなら絶望は我々の外側にあり、それはすでに我々にとって無化されている。上田保春の賢者にはなれなかった祖母。彼の精神に起こった変容から一ヶ月後、祖母は元いた施設へと戻された。朝食の膳を運ぶために母が屋根裏へと上がると、木枠に身をもたせかけたまま、差し込む陽光に横顔を照らされて、祖母の精神は完全にこの世界の住人では無くなっていた。ただ微笑みを浮かべ、すべての働きかけに力を失った祖母。彼女は兄に会えたのだろうか。その瞬間の祖母が幸せだったことを、上田保春は祈らずにはおれない。彼もまた、誰かにとっての老賢者、生と死を橋渡しする存在になることはかなうまい。きっとすべての社会的な制約が消えた先、自分に残るのは萌えゲーの少女への恋慕だけに違いないから。
退勤間際に、年間の有給休暇すべてを明日よりまとめて取得したい旨の書類を上田保春は提出した。制度が存在するからといってそれらが額面通りすべて利用可能なものであると信じるような社員は、組織の中で長生きできまい。書類と上田保春へ交互に視線をやり、呆気に取られる上司の次の言葉を待たないまま、彼は足早にオフィスを後にする。何か起こったようだと感じた同僚だが、その内心の疑いも「お疲れ様でした」という言葉に集約されるだけである。萌えゲー愛好を知られたところで何かが変わるわけではなかった。一人の人間の性癖で業務を停止させるほど、組織は感受性に満ちた場所ではない。組織からの要請を満たし続ける限り、個人は全く平等に扱われるのだった。結局のところ、萌えゲー愛好は、彼がずっと想像してきたような破滅とは関係が無かった。ただ上田保春は、破滅の一日を身近に感じることでこの人生という永遠が作り出す虚無への防戦に必死で持ちこたえていたのだ。そう思い至り、彼はひとり微笑みを浮かべた。ようやく心の底から気づくことができた。萌えゲーは真の意味で、上田保春の生きる上でのすべてだった。萌えゲーおたくであった自分がいとおしい。あんなにも苦しみながら、何も投げ出さずにこの世界に踏みとどまることを選び続けた一人のおたくが、ただいとおしい。そしていまや、この永遠の中で彼を現実に留めおく理由は一つとして無かった。
上田保春は自宅にこもり、一切外部との接触を断って萌えゲーをプレイし続けた。ネット商店から新たな萌えゲーが配達されるのと宅配ピザが炭酸飲料とピザを届ける他には、誰とも連絡を持たなかった。意識が途絶えるまでパソコンに向かい、食べたいときに食べたいだけ詰め込む。全裸で萌えゲーに耽溺する上田保春の腹部は、日に日に厚みを増していく。いまこそ太田総司の気持ちが分かる。その姿はイコンのように、萌えゲーおたくなるものの象徴として上田保春の中に存在していた。彼はずっと太田総司のようになりたかったのだ。
いったい何日その生活が続いたのだろう。モニターの前に座したまま眠り、覚醒すればただちに萌えゲーを継続する。特に眠りから覚めた直後には現実認識が混濁し、会社に提出した有給休暇の日付はいつまでだったかなどと反射的に考えてしまう。いまさらそんなことにこだわる自分がいるのが可笑しく感じられた。携帯の電源はオフにし、家の電話も宅配ピザを注文するとき以外はコードを抜いてある。締め切られた雨戸とカーテンは、昼と夜との区別をすら教えない。視線を落とせば、ずっと萎えたままの男性が目に入る。上田保春は苦笑した。こんなにも恋い焦がれているのに、自分の身体はそれを否定する。吐息とともに顔を上げると、モニター上の少女が二重写しになっていた。モニターの見つめすぎで視野がかすんでいるのだろうと思い、卓上の目薬を差して両目をこする。しかし、再びのぞき込んだモニターの少女は、やはり二重写しのように見えた。いや、待て。モニターの内側には少女はひとりしかいない。もう一人は、そう、モニターの表面に鏡のように映し出されているのだった。二重写しの少女の後ろには、見慣れた冷蔵庫があった。この部屋だ。理解が腑に落ちると背筋に寒気が走った。確かに、背後に誰かが立っている気配を感じる。上田保春はモニターに映った少女の顔を見る。その表情から何らかのメッセージを読みとれるのではないかと思ったからだ。しかしそこにあるのは、頬を薄紅に染めた恍惚の表情でしかなかった。それは祖母と同じ、無表情と何ら変わるところがなかった。椅子の背もたれへゆっくりと身を預けると、かすかにきしむ音が聞こえた。振り返るべきなのだろうか――上田保春は逡巡する。萌えゲーの少女たちへの募る恋慕を身体が否定し、もはや彼女たちを見ての自慰もかなわぬのに、こんな馬鹿げた萌えゲー耽溺に身をやつしているのは、少年や祖母への哀悼の気持ちからか。このあまりに平等で美しい現実の中で自分の意識がもう耐えられない、耐えたくないと感じているのを知ったからではないか。振り返ればきっと、この上田保春という名前の下に統御された一個の人格は崩壊し、終わりを迎えることができるに違いない。
本当は、自分はどうありたいのだろう。
太田総司のような肉の塊に墜ちて、人の愛を――なぜか田尻仁美の顔が浮かぶ――再び試したいのだろうか。突き出た腹部の上に両手を組んで、生じた迷いにしばし逡巡するための時間を与える。立ちつくす少女は、相も変わらぬ恍惚の無表情でこちらを見つめるばかりだ。やがて決然と顔を上げた上田保春は、ゆっくりと背後を振り返る。その両目の端に涙が盛り上がる。その表情が安堵とも喜悦とも言えないものにゆるんでゆく――
確かに目の前に見たと思った少女は、しかしモニターに映しだされた画像が彼の網膜に焼きつけた残滓に過ぎなかった。上田保春が振り返る一瞬の間に、少女は消えてしまっていた。彼の表情は笑顔のまま張りつき、永遠に感情を無くしてしまったかのようだ。少女は最後の最後で、上田保春を迎え入れることを拒絶した。「少女は迎えに来ない」――彼は自分自身の言葉によって復讐されるのだ。
結局、自死しか救われる道は残されていないのか。罪悪感や虚無感が存在するのは、魂の本来が善を希求するからだ。それはあまりに自動的に行われているため、その動きを自覚することはほとんど不可能である。善の達成が許されぬ世界に住む住人は、その苦痛から逃れるために善を汚し、冒涜するしか方法が無い。そして、本質的に善であれないことを知った個人の生に残るのは、ただ身を焼くような苦しみだけなのか。 <了>
虚構日記 -時空の探求-
慟哭ゲー
「しかしわたしを信ずるこの小さな者を一人でも罪にいざなう者は、大きな挽臼を頚にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかにその人の仕合わせである」(マルコ 9:42)
この物語に登場する人物も、”エロゲー”そのものも、言うまでもなくフィクションである。
しかしながら、広くおたく文化の成立に影響した諸事情を考慮に入れるなら、この物語の主人公のような人物がわが社会に存在することはひとつも不思議でないし、むしろ当然なくらいである。私はつい最近の時代に特徴的であったタイプのひとつを、ふつうよりは判然とした形で、公衆の面前に引き出してみたかった。つまりこれは、いまなおその余命を保っている一世代の代表者なのである。”慟哭ゲー”と題されたこの断章で、この人物は自己紹介をかねて自身の”泣きゲー”への見解を披瀝するとともに、かかる人物がわれわれの前に現れた、いや、現れざるを得なかった理由を明らかにすることを望んでいるように見える。続く断章では、彼の人生が引き起こした若干の事件について、この人物の本来の意味での物語が語られることになろう。
物語はわが社会において、ある規模の都市にはお互いの個性を全く判別できないほど似通って立ち並び、わが社会の持つ固有の性質を前世代から切り離して均一化する要因ともなっている雑居ビルの一室から始まる。諸君の眼前にはワープロ完熟紙にプリントアウトされたため、歳月に消えかけた”企画室”の文字が貼り付けられた扉が見えることだろう。その扉を押し開け、中へ入ってみることにしよう。部屋の中はもうもうたる煙草の煙で、机上に置かれた灰皿には吸い殻が山のようになってあふれており、無意識のリドリー・スコット的効果を醸成している。
次第に眼前の煙がはれてゆくと、長机を取り囲むように座した数人の男がシルエットから目に見える実在へと浮かび上がってきた。彼らの前に広げられているカラフルな資料を見れば、そこには健康な精神を持つものならばぎょっとして後ずさりしてしまうような、一種異様な女性の絵図が確認できるだろう。どんな文化人類学者もその出自を探り出すことは不可能に思われるほとんど蛍光色の頭髪、顔面の三分の二ほどを占有する巨大な眼球、そして遺伝病を真っ先に想起させるほど巨大なゴムマリ状の胸がアイザック・ニュートンを嘲笑するかのように水平ないしは水平より少し上向きの角度でカタパルト然とせり出している。絵図中の女性が着用している衣類は、どうやら高校の制服で同一の所属を表しているようなのだが、三~二十頭身の容姿で立ち並ぶ女性たちは、その同一性への説得力を致命的に欠いており、もはや同じ種の系から発生したことすら極めて疑わしいありさまである。
ここで健全な、おたくではない諸兄に説明を加えておかねばなるまい。冒頭において私が述べた”エロゲー”とは、極限にまで先鋭化した前衛芸術的デザインの奇形女性とモニター上で架空のセックスを行ったり行わなかったりする、一種のデジタル的フリークス・ショウである。現在のわが社会において二十代~三十代の男性が空想上とはいいながら奇形の女性に欲情し、ときには積極的にまぐわうことさえ妄想するというこの悪魔的嗜好を持つ可能性は、極めて高いと言わねばならない。ときに地上の物理法則に逆らってまで自身の欲情を体現させたいと願うその突出した異常性は、諸兄がいま冒頭で見たような絵図でもって何の論証も必要ないほどに明確に裏打ちされていると言えよう。背筋のうそ寒くなるようなこの現実こそ、私が高天原勃津矢と名乗るエロゲー制作者をこの物語に登場させようと考えた理由のひとつである。
さて、再び室内へと視線を戻そう。机の向こうにはホワイトボードが置かれており、そこには”ビジュアルノベル”、”泣きゲー”と殴り書きに書かれている。煩雑にするつもりはないのだが、ここでまた若干の説明が必要ではないかと思う。なぜならこの最初の断章は、おたくたちに向かって書かれているというよりはむしろ、健全な精神を持った諸兄におたくたちの精神生活の有り様をまず理解して頂き、結果わが社会が潜在的に抱えることになってしまっている危機への理解を促すことが目的だからである。
”エロゲー”とはその名前が示すように、モニター上の絵図という条件つきではあるが、主に男性を対象としたエロスを含むゲーム群のことである。
では、”ビジュアルノベル”とは何か。それは”エロゲー”からゲームの要素を取り除いたものである。「映画から映像を取り除くような暴挙ではないか!」と声を上げる諸兄の様子が目に浮かぶようだ。しかし、どれだけ本質が歪曲された劣化コピー商品であろうともその外装に別の名前をつけ必要とするものがいるならば、わが社会において全く非難されるところではないのである。諸兄の魂を削るような、自己を社会へと認知させ続けるためだけにしている毎日の作業を振り返れば、私の言うところは少しは理解されるのではないだろうか。この節操の無さが、つまり思想のなさが、わが社会の抱える危機の一端であるとの洞察も可能だろうが、それはここで語られるべき内容ではない。
さて、ならば”泣きゲー”とは何か。それは”エロゲー”からエロスの要素を取り除いたものである。諸兄がすっかり混乱するさまが目に見えるようだ。まあ、まあ、待って欲しい。この断章を理解するのに必要な前提はこれですべて話し終えた。
今まさに、行われている議論にたまりかねたといったふうに一人の男が立ち上がり、会議用の長机を手のひらで激しく一撃した。いよいよ、彼にバトンを渡すことにしよう。
オールバックにサングラス、有名量販店のジャージに痩せ型の長身を包み、木のサンダルをつっかけているこの男こそ、高天原勃津矢である。
「てめえら、いつまでもふやけたことちんたら言ってんじゃねえ! ビジュアルノベルだと? 映画と小説を足して三以上の数字で割った、安かろう悪かろう、薄利多売の廉価商品じゃねえか! 他のメディアの存在を前提にしないと成立しないような情けないお目こぼしに、説教強盗の図々しさで横文字の名前をつけたあの知的強姦みてえな真似を俺にやれってのか! 泣きゲーだと? 男が泣くのは昔からおぎゃあと生まれたときと、親が死んだときだけって決まってんだよ! それ以外のことで涙を流すという男児最大級の屈辱を、座敷牢に閉じこめられたボウフラ白痴よろしく、『ああン、泣けました』やら、『ううン、感動しました』やら、自己啓発セミナーの告白合戦みてえに、いちいちやつらがネット上で報告し合うあのおかま踊りを、おまえら見てえってのか! エロ広告の『私、複数の男たちにほしいままにされながらも、感じてしまったんです』みてえな、男のご都合に満ちた女性性への蔑視軽視と同じ価値内容の放言を、やつらがネット上の巨大掲示板へゆぅるいゆぅるい軟便のように垂れ流すさまを、おまえら本当に心の底から見たいって言ってんのか、ええ!」
ちょうど高天原の差し向かいに座っていたスーツ姿の男が、あきれたように肩をすくめてみせる。
一見すれば諸兄の側の代表者であるようなこの男が諸兄へ共感を与えないのは、”社会性のコスチュームプレイ”としか形容できないほど、内面と外面のギャップが彼の醸成する雰囲気にあらわれてしまっているからである。仮にこの男が諸兄と同じ朝の満員電車に乗り込んでいたとして、諸兄は決してこの男を自分たちの仲間と見間違えることはないだろう。
これもまた、おたくの一つのバリエーションなのである。おたく産業に深く踏み込んだまま年齢を重ね、おたくと断定されることを忌避しながらもおたくであることをやめられない屈折が、彼の心に刻まれた烙印を外見へと表出しているのだ。以後、彼のことはスーツと呼称することにしたい。特定の名で呼びかけることは彼の役割である消極的な狂言回し、あるいは凡庸な背景としての埋没性に背くからである。
「高天原さん、”泣きゲー”はもはや時代の潮流ですよ。その流れに乗らなければ作品は売れない。作品が売れなきゃ、我々はおまんまの喰いあげだ。時代の提供する大枠に乗りながら、かつその中でお客様を満足させるオリジナリティを提供することが、プロの仕事なんじゃないですか?」
スーツをにらみつけながら、高天原は唇の端をめくりあげて歯を剥いた。鼻の頭に皺をよせた彼は、猛獣さながらである。スーツと高天原を分けるものがあるとするなら、屈折を経ないで瞬間的に表出するこの激情だろう。
しかし、にらみ合いになる直前にスーツの方がおどおどと視線を外してしまう。スーツには他人を論評し、自己を対象化する客観性はあっても、他人を屈服させための有無を言わせぬ傲然たる主観が無い。一方で、高天原はその主観だけを持っている。
未だ激情を底流させたまま、表面だけは押さえた声音で高天原は反駁する。
「気取ってんじゃねえよ。エロゲーのシナリオぐらいが提供する”泣き”程度の低い感情的カタルシスで癒されたと感じること自体、あの批評家気取りのおたく様共がいかに無感動な鬱屈した日常を空費してきていらっしゃるかの証明じゃねえのか? 食い逃げ程度の軽犯罪をスパイスにきかせた、文字通りの女子供のする――女で、子供だよ!――ボウフラ踊りにふにゃふにゃ泣いて、それにオナニー以上のカタルシスを感じちまうってのは、こりゃ異常な出来事なんじゃねえのか? 俺たちが腐心を重ねて、やつらの小心なチンポをおびえさせないようなレベルにぎりぎりまで希釈して、”男の中にある理想の女性性の象徴”というエロ広告程度の実在感をしか与えていないキャラクターを見てもなお、射精するよりむしろ泣きたいってのは、おたく様共がいかにそのお大事な精神をボウフラみてえな低いレベルでの問題に拘泥させていらっしゃる、根性なしのふぬけの精薄であるかという証明じゃねえのか? これまで俺たちの作ってきたもんは、言わせりゃ確かにクソだったが、少なくともチンポをたっぷりと射精させるという、エロゲーの至上目的だけは裏切らなかったはずだ。だが、いま世間に出回ってるような”射精しないためのエロゲー”ってのはいったい何なんだ? 自己存在の証明そのものを裏切って、それはまだエロゲーなのか? エロゲーのシナリオは、シナリオなんてそんなごたいそうなもんじゃねえ、チンポを射精へと導くためのくすぐりであって、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだろ? わざと射精を外すことで、むしろ射精への欲求をいや増すといった逆説的方法論はあったろうが、でもやっぱり最後には射精させたんだぜ? 濃厚な精子がポンプのように押し出されて激しく尿道を通過し、快楽が脳の底を痺れさせる、それはこれ以上無いほどはっきりとした男の真実じゃねえか。俺たちはいつその射精を裏切ってもいいようなご大層な芸術家になったってんだ? ”射精しないためのエロゲー”、それは、エロゲーの持つドグマそのものの明確な退行じゃねえのか? おたく様共の中での感情の問題のレベルが、射精をする以前へとどんどん退行していってるんじゃねえのか? 思春期の中高生の精子をどれだけ多くしぼりとれるかがエロゲーの誇りだったが、エロゲーで射精せずに泣きたがる現代のおたく様共の抱えている心の何かは、あまりにびっくりするほど幼すぎて、勃起したチンポを右手にグラビア本を左手に射精の対象を探して迷う、あの段階にすらまだ達してないみてえじゃねえか。おたく様共は、バゼドー氏病の眼球を持った平面キャラが情緒たっぷりのボウフラ踊りを踊るのを見てふにゃふにゃ泣くだけで、チンポをおっ立てようとすらしねえ! 俺は誇りをもって自分のことを、思春期の青臭いチンポを射精させる勃起商売と言ってきたものだったが、あの頃そこにはまだ何か人がましいものがあった。だがいまあるのは、男の野生を否応なく自覚させるあの明確な快楽を拒絶して、感情を外科手術よろしく遠隔操作するような、うすら寒い気味悪さだけじゃねえか! いまのエロゲーは、近親間での婚姻を繰り返して、そのムラの住人でなければ誰もついていけないような先鋭化の果てに繁殖力を失い、ついには濃くなりすぎた血に気が違って、内部から崩壊してゆくその途上にあるんじゃねえのか? 多くの異常者と、少しの犯罪者と、ひとつかみの同業者を生み出して、マイナスの螺旋方向に永遠に退行しつつ、お互いの姿をコピーしあうことで無限の相似へ近づいていき、どんどん縮小再生産を繰り返すだけのエロゲーに、いったいどんな未来があるってんだよ! おまんまの喰いあげだっておまえさっき言ったな? おまんま以上の何かをな」
高天原はいったん言葉を切り、会議室にいる全員をぐるり睥睨した。誰も彼の奔流のような言葉を遮ることができないでいる。さきほどのスーツの発言ですら、会議の方向性を明確な意志で誘導しようとしてのものではない。ただ、個人的な違和感を表出しただけだ。おたくの言動は、すべて違和感の表出に過ぎない。
立てた親指で自分の胸を激しく指しながら、高天原は叫ぶ。
「ここに喰わせてやらなきゃ、人間は本当の意味では生きていけねえんだよ! それが”泣き”なんて低いレベルの感情じゃねえことだけは確かだ! 日常生活の鬱屈から来る心のひずみに、ちょっとしたキックバックを与えて正常に戻す程度の、お手軽な癒しとしての機能しか持たない”泣き”どころではなく、何かは知らず、人間存在の深淵に触れたんだっていう、あの魂の底の底を揺さぶる深いおののきがすべての人間には必要なんだよ! これ以上泣きゲーやら何やら、クソくだらねえことを俺の前で繰り返すなら、もうエロゲーなんざやめちまえ! ……なァ、おまえらなんでわざわざエロゲーなんか作ってんの? 相対的なライバルのいなさから、他のモノ作りより低いレベルでも、自分のプライドを傷つけないまま、噴飯ものの猿芝居に教祖よろしく安住してられるってのが、案外本当のところだったりしてな。ハハハ……。俺? 俺か……」
言いながら、わずかに相好を崩す。会議室内に帯電していた緊張がわずかにゆるんだ。まさにその瞬間の効果をねらったかのように、高天原は倍する激烈さで長机をこぶしで殴りつけた。
「エロに決まってんだろうが! テレクラのティッシュのアオリがおッ立つって思や、俺は間違いなくそれを書くし、鬱陶しい純文みてえな老女との背徳がおッ立つって思や、俺は迷わずそれを書く! なぜならそれが最高におッ立つからだ! 『おい、見ろよ、俺のエロはやつらのとは違って、こんなに反り返るほどにおッ立つぜ、どうだ、おまえらすげえだろう』、その気概がなくて何のエロゲーなんだよ! 漫画や! 小説や! 音楽や! アニメや! 映画や! 芸術や! そんな自分がたどりつかなかった他の創造物への復讐がやりてえなら、もうエロゲーやめちまえ! エロ以外の感性で、もうこれ以上俺のエロゲーをわずらわすんじゃねえ! さっさとこんな会社辞めて、週三日コンビニでバイトして、残りは泣きゲーで泣いてろ! すっきりした脳味噌を溜まった精子がムラムラさせるだろうが、なァに、薄暗い部屋でキーボードにめそめそ落涙して幼女も誘拐するおたく様共みてえに、下半身と脳味噌を切り離したオナニー以前のボウフラ愛撫で、便器に射精すりゃいいじゃねえか!」
真っ赤な顔でスーツが立ち上がった。おたくとは、自身の嗜好への侮辱に何よりも敏感な者たちである。彼を立ち上がらせたのは、高天原への対抗意識ではなく、やはりかきたてられた個人的な違和感に過ぎない。
「射精、射精、射精! あんた異常だよ! ここは企画会議の場なんだぞ! あんたの独演会でもなければ、手前勝手な観念を語る場所でもないんだ! 『作品を批判するには作品を持ってしろ』、かつてのあんたの言葉だよ。いまよりずっと売れてた頃のな。昔の威光でののしり叫ぶ以上の、時代の確実な潮流に対抗し得るアンチを、そうでなきゃ、まったく別の次元の何かを、いまのあんたが提出できるっていうのか?」
「おうよ。ようやくわかりやすくなってきたじゃねえか」
高天原はキャスターのついたホワイトボードを片手でぐいと引き寄せた。歯で外したマジックのキャップを床に吐き捨て、教師よろしく後ろ手にホワイトボードへ書き込みながら、高天原は説明を開始する。
「いま現在エロゲーには、アドベンチャーやらRPGやらのゲームジャンルを越えたところに、三つの大枠が存在すると俺は考える。ひとつ”純愛ゲー”。ひとつ”陵辱ゲー”。ひとつ”泣きゲー”。”泣き”と”純愛”の違いはヤるときに使ってるチンポの質の違いで分類することができる。すなわち、そのチンポが男の本能と直結しているかどうか、だ。この意味で、”泣き”は新興勢力として台頭をみせてきたが、無視できないその影響力を除くならば、”純愛”カテゴリの虚ろな影、単なる劣化コピーに過ぎないと言うことができるだろう」
スーツが白けを演出するために散漫な拍手をしてみせた。すでに存在する何かに批評を加えることでしか自己を主張できない、おたくの有り様のひとつである。
「すばらしい。もうエロゲー作りなんてやくざな仕事は辞めて、どこか専門学校の講師にでも転職なさったらどうです?」
だが、誰も同調しようとはしない。高天原は気にとめたふうもない。
「”泣き”と”純愛”の区分の曖昧さに比べ、”純愛”と”陵辱”は明確に別の物としてそれぞれ存在を保ってきた。例え、ひとつのゲームの中にそれら二つの軸が盛り込まれているようにみえても、それは、一つの主観が”純愛”と”陵辱”の二つの領域を行き来するというニュアンスでしかなかった。わかりやすく言うなら、ひとりの女を優しくヤるか、苛めながらヤるか、その違いでしかなかった」
スーツがなげやりに、指先でコツコツと机を叩き始める。
「で? このエロゲー創作理論講座はどこに落ちるんですか、高天原さん」
「待てよ。ここからが本題だ。エロゲーがこのやり方を踏襲してきたのは、人の持つ、まさに文字通りの快楽原則に外れないためだった。業界の基盤の脆弱な黎明期の、継続的な固定客を獲得しなければ、エロゲーを作り出す土壌そのものがあり得なくなってしまう当時、それは仕方のない必然だったとも言える。ただでさえ、少しの刺激にもまるでそれがこの世のおしまいみてえに動揺して、ぶぅぶぅ泣き叫ぶ近視眼の子豚ちゃんたちが相手なんだからな。しかし、いまやエロゲー産業は形あるものとして確かにこの世に姿を現した。俺たちがここに座っているいま、なお飽くことなく拡大し続けながらな。いや、肥大し続けていると言い換えたほうがより適切かもしれん。そして、あの輝かしい進取は失われた。それが無くても、放っておけば勝手にカネが流れるシステムが完成したからだ。すべての人の作り出すシステムは、カネを流すための灌漑を形成するまでがひとつのピークだ。それ以後は例外なく、ゆるやかな疲弊と衰弱の途をたどる。俺はいまここに、この閉塞したエロゲー業界に、”純愛”と”陵辱”の結婚、ないし融合が生み出すまったく新しいジャンルの創設を提唱する。題して」
高天原は会議室の人間たちに背を向けると、ホワイトボードの中央にゆっくりとその言葉を書いた。向き直ると、そこに大きくルビをふる。 「”慟哭(なき)ゲー”……!」
一瞬、虚をつかれたようにスーツが惚けた表情を浮かべる。だがすぐに立ち直ると、動揺を表してしまったことを恥じるように、大声でまくしたてる。
「は、そんなのは漢字を変えただけじゃないか! さんざんあれだけののしっておきながら、ビジュアルノベルの例よろしく、ジャンルの名前だけを作って、それに踊らされている。言葉の表面的な革命性に酔いながら、その実そこに安住してるんだよ、あんたは!」
「では、詳しく説明しよう。この”慟哭ゲー”においては、二つの主観が同じ軸線上で 別々にひとつの対象を”純愛”し、”陵辱”するが、プレイヤーが体験できるのはそのうちのひとつ、”純愛”主観だけとなる」
「意味がわからん、全く意味がわからんよ! あんたはわざと言葉の抽象度を高めて、みんなを煙に巻こうとしてるんだ」
「うるせえな、しゃべらせろよ。おい、ちょっと黙らせてくれ」
高天原をねつい視線で見上げていた他の男たちが立ち上がり、スーツを取り囲むと、その両腕を鶏の羽根ででもあるかのように後ろへとひねり上げて、床へと押し倒した。スーツが奇しくも看破してしまっていたように、この場所は高天原の独演会の他ではなかったのだ。
「お、おまえたち、自分のやってることがわかって」
言い終わる前に、スーツの頬に平手がとぶ。スーツは突然の暴力にとたんに青ざめて、口を閉じてしまう。おたくの小心は、暴力を前にするとき沈黙を選ぶ以外にない。
高天原は、満足そうに組み敷かれたスーツを見下ろしながら、悠然と彼の講義を再開した。
「さて、肝心のゲーム内容だ。あらかじめ言っておくと、俺が新たに作り出すこのジャンルに追随者は現れない。我々はこの新しいジャンルを作り上げ、そして作り上げたという事実がジャンルそのものの解体を意味することになる。”慟哭ゲー”の物語の前半部分には、”泣きゲー”の文法を踏襲する。”泣きゲー”が現在持っている仕組みを”慟哭ゲー”の仕組みによって反転させるために、高い次元での完璧な擬態を行う。いや、擬態どころではない、”泣きゲー”の最高傑作を見せてやるんだ。似ていることは、ほんのわずかの違いをも否応なくひきたてるからな。では、このジャンルの本質を、物語の筋をざっと追うことで理解していただこう。主人公は何の取り柄もない、嫌悪すべき醜さよりもむしろ無価値な凡庸さに身を沈めることで自分を守ることを選ぶ類の、ごくありふれた青年だ。自分の努力によらず、例えば初期の物語設定に助けられたりして、気がつけば主人公はヒロインの前にすえられている。作為ではなく、運命のように、それが俺たちに必要とされる手腕だ。主人公からの自発的な働きかけは皆無であるにも関わらず、処女にはあり得ない商売女の媚びと馴れ馴れしさでヒロインは急速に接近し、主人公を包み、そして癒す。主人公は――つまりそこにつながるおたく共のことなんだが――ついぞ現実世界では味わったことのない理解される快楽に心を弛緩させ、だらしなく半開きに開いた口で、最初の涙を流す。ここまでは、完全に”泣きゲー”のやり方を追い、この後の”泣きゲー”的展開に、おたく共が何かの疑問を差し挟む余地が無いよう完璧に運ばねばならぬ。お互いの存在を、不可欠だが決して負担にはならぬ甘露な空気のように体験する主人公とヒロイン。入念に、罠へと追い込むように、主人公に生まれる苛立ちや悲しみや怒りさえもが、ヒロインの実在感を増すように、そしてそのそれぞれが過ぎ去ったとき、すべては幸福な陽光の記憶へと昇華するように、あらゆる時間は描写されなければならぬ。俺たちの提供する虚構という名前の蟻地獄に引き返せないほどに踏み込ませ、かつヒロインが確かにそこへ”いる”ことをおたく共に塵ほども疑わせてはならぬ。……運命の夜を語ろう。それは世界そのものの意味が反転する夜だ。嘔吐を耐えながら、奴らの悪臭放つ精神を最上の技巧で愛撫し続けてやってきた、俺たちの復讐の夜だ。深夜の逢い引きのさなか、主人公とヒロインは何者かの襲撃を受ける。棍棒のようなもので後頭部を一撃され、昏倒する主人公。ヒロインの悲鳴。暗転する場面。主人公の意識が戻ると、そこは窓のない、剥きだしのコンクリート壁に四方を囲まれた部屋だ。高い天井からは裸の電球がひとつぶらさがっている。だが、それの投げかけるおぼろな光は、部屋の隅々をまでを照らすには全く充分ではない。床の上にうごめく何か、主人公の認識ははじめそれを巨大な蜘蛛だととらえる。目をこらす主人公。闇に目が慣れるにしたがって、次第に輪郭を明らかにするその巨大な蜘蛛。モニター越しにただそうしてきたように、ここで主人公のできる選択肢は”見る”しかない。主人公は”見る”んだ、こちらを見返す、人間性を切り取られた、暗闇の底ににぶく光る、動物的な両目を。主人公は”見る”んだ、長い石段の向こうの闇にほの白く浮かび上がる神社の全容を”見る”ときのような形容を越えたおののきで、自分以外の男に組み敷かれ、性器を赤黒く二つに割られたヒロインの姿を!」
「キチガイ、このキチガイめ!」
鼻血を吹いて、組み敷かれたままのスーツが激しく身をよじって、高天原につかみかかろうとする。だがおたくの運動能力は、後ろから髪をつかんで引き戻され、床へしたたかに打ち付けられる結果をしかもたらさない。スーツの額が裂け、鮮血がリノリウムの床の上に散った。高天原はほとんど陶酔しており、それに気づいた様子もない。
「突然ヒロインが絶叫する、それははじけるような絶叫だ、主人公の両手足は古びた椅子に縛りつけられている、魂の一番やわらかい部分を引き裂くその悲鳴に、耳をふさぐこともままならぬ。モニター越しに座するおたく共は、ほとんど無意識のうちに自分の常態となっていた”見る”行為の無力と残酷を、そこで初めて意識させられるんだよ! ヒロインを陵辱する男は、肉による明らかな実在感を除けば、ほとんど無人格にさえ見える、荒々しい武者のような大男だ。不定期に、日に幾度も繰り返される陵辱、絶叫、絶叫、絶叫! だが、状況はある日変化を迎える。人間がたくさんいるから、地獄はこの世界では長続きしないんだ。いつもと変わらぬように見える怠惰な陵辱、もう何日続いているのかもわからぬ緩慢な絶叫。だが、待て、そこにはいま幾分の媚びが含まれてはいなかっただろうか? ここに閉じこめられて以来、ヒロインが主人公へ向けていたある明確な意識が薄れてゆく、なぜなら主人公はただ”見る”ためだけにそこにいる物体にすぎないことを、ヒロインはやがて知るからだ。それまで石のように固く見えたヒロインの腰がうねり、わずかに円を描いたかと思うと、主人公の眼前で突如溶けるように肉であることを取り戻す。男は動きを止める。ヒロインの視線が初めて、男の視線をつかまえる。男は意想外の理知的な声で、命令するものの確かさで言う。ヒロインがうなずく。交わされた言葉は主人公には届かない。だが、ヒロインの肉が何よりも雄弁にその契約の内容を物語る。精神の不落を信奉していた主人公、すなわちおたく共はここで二度目の涙を流す。この涙は、いまや最初の涙と全く意味を反転している。それこそが、おたく共の体験してきた”泣き”とは絶望的なまでに性質を異にした、悲嘆の底の底に触れたと思うとき生じる、あの、理知や言語をはるかに超越した魂の根源が発するノイズ、慟哭だよ! 心の襞の襞まですくいとって、あますところなく愛撫するように自分を理解してくれていたはずの無二のヒロインが、その完全な理解をポジからネガへと裏返すように、ののしり、わめき、容赦も呵責もなく、おそろしいばかりの的確さでおたく共の心を引き裂いてゆく。ただ、何の精神性も持たない野獣との性交を哀願するためだけにだ! 肉が精神の高潔を裏切るさまを、その残虐な心変わりをおたく共は主人公を通じてあますところなく体験する。”純愛”と”陵辱”、彼らは全く別の主観だが、また奇妙な相似をも持っていた。射精と愛情を別のところに置きたいがあまりに切り離した下半身の欲情が身体を離れ、別の現実の形へと凝ったようなその”陵辱”が、”純愛”へと命令を下し、誰にも触れられたくないあの小昏い心の部分を、裸電球の照らす現実という名前の明るみの下に引きずり出して、粉々に破砕する。ヒロインを助け出すゲーム的手段はまったく存在しない。なぜなら、おたく共は最初、そのおたくらしい怠惰と無気力と甘えと自己中心的な繊細さをヒロイン、すなわちゲームの提示する虚構に包まれ、涙を流し、癒されるが、同時に自分たちのまったく同じ特質によって今度は現実に復讐されなければならないからだ。これは従来のゲームのバッドエンドどころじゃなくて、ただそういうふうに流れる現実の卑劣と矮小が眼前に実行されているに過ぎない。それを証拠に、物語はここでは終わらない。激しく肉と肉の打つかる不可思議の音曲に満たされていたその部屋は、ある朝終わりを迎える。男が姿を消したのだ。解放される主人公とヒロイン。その解放は唐突だ。なぜならそれは他ならぬ、おたく共の精神的自慰の手伝いをさせられてきた俺たちからの直接の復讐であり、何ら物語的効果をねらったものではないからだ。しかし、その作為的で投げやりな放逐は、かえって現実がする様相とひどく似てしまう――」
言葉を切った高天原の表情は、サングラスの奥に一瞬悲しみをさえはらんで見えた。しかし、彼はただ言葉を求められる存在であり、それに気づく者はここには誰もいない。
「”慟哭”後の、主人公とヒロインの生はあますところなく彫刻する。もはや虚ろな目で、自分のことを見なくなったヒロイン。希望という名前の絶望にすがるように、病院からヒロインを連れて街を出る主人公。おたく的引きこもりの果て、社会の豊かさのお目こぼしで無視されていただけのことを積極的な自分からの拒絶と勘違いしていた甘えと傲慢さを自覚し、社会性もそれを覆す才能も無い無価値な自己の等身大を見せつけられ、二人で生きてゆくためには、しかし社会の隙間に潜り込んでカネを得なくてはならぬ。四畳半のアパートで日がな一日股間をまさぐり猥褻な言葉をつぶやき続ける最も低劣な肉としてのヒロイン、必死の労働のすえに買いあたえる食料は部屋の片隅に手をつけられないまま静かに腐ってゆく。発覚するヒロインの受胎、だがそれは自分の子ではありえない。これまでの怠惰からくる日々の労働の相対的な苛烈さと、入浴を拒絶するヒロインの性器から漂う悪臭に、主人公は勃起も射精もできない身体になってしまっていたからだ。主人公は三度目の涙を流す。他人の射精を憎悪し、自身は射精できず、泣く。これは”泣きゲー”への間接的な批判だ。歳月は流れ、やがて主人公は自分が軽蔑していた両親と同じ年齢になり、カードも作れないような社会的地位のまま、働けども働けどもカネは溜まらず、ヒロインは精神を回復せず、その外見はどんどんしわぶかく醜くなってゆき、学齢期を迎えた子どもは外では苛められ、家ではかつて自分が親をののしったのとそっくりの口調で自分をののしり、やはりカネは溜まらず、ある日自らの出生の秘密を知った子どもは狂わんばかりに暴れ回ったあと、出奔する。同じ夜、台所の包丁が一本無くなっているのを主人公は発見した……。カタルシスは存在しない。これはおたく共が裏切り続けてきた現実からの復讐の物語であり、現実は作られた物語どころではなく、そこに”泣き”のカタルシスは存在しえないことをおたく共は知らなければならない。解放されたのちの主人公の、あらゆる状況に対する行動選択肢の中には常に”見捨てる”がある。主人公が”見捨て”た瞬間にゲームは終了し、二度とプレイすることはできなくなる。現実とは、幸福さえをも反芻することの許されない冷徹な不可逆と同義であることを、おたく共は知らなければならない。日常の底に、自分自身に始末をつけて人生を”やめる”という選択肢が常に眼前へつきつけられていることを意識しながら、常に”やめる”ことを選ばないからこそ、人間は尊くあれるのだということを、おたく共は知らなければならない。この物語のテーマは”懊悩する愛情の究極”だ。際限なく社会的価値・人格的意味をそぎ落としてゆき、人はどこまで煉獄のような愛の継続に耐えることができるのか? 宣伝コピーはこうだ、『地獄はあるよ、日常の狭間にあるよ』。しわに埋もれた穏やかな様子の縁側の老婆が、突然頬にとまった蚊を激しく打ち殺す瞬間のような地獄が、日常を鮮やかに変質させる。だが、地獄さえも人間の前では長続きすることができない。そして、地獄が続かないのなら、愛を続ける他はない」
高天原は窓際へと歩いてゆき、そのうちのひとつを開け放った。澱んだ空気が冷たい外気に置き換えられてゆく。外ではすでに、ビルの作り出す峰へ都会の遅い朝日が昇り始めていた。
窓の外へ向けて、高天原が絶叫する。
「そうさ、おれはおたく共のあげる魂の底の底からの悲鳴が聞きてえんだよ! 自分だけは決して傷つかない場所で、エロゲーに仮託された人の尊厳や人格を消費し、不潔な銀蠅のように作られた愛情を繰り返す、人類史上最も低劣な人買いどもめ、恥じ入るがいい! そして、愛情の一回性とその不滅に”慟哭”しろ!」
室内で行われている騒動に全く興味がないといったふうで長机の端に坐っていた小太りの男が、ノートパソコンから視線を上げないまま初めて口を開いた。
「高天原さん、”慟哭ゲー”を可能にするための、”二度とプレイできなくさせる”という技術上の問題については、最新の外付け小型ハードディスクをメディアに使い、プラスチック爆弾と着火装置を内側に閉じこめることで解決するでしょう。ロシアルートからの技術の漏洩を利用できます」
話しながらも、その手は撫でるようにキーを打つことを止めない。
高天原が、朝日を背に受けてゆっくりと振り返った。その口元にはほとんど優しいと形容できる微笑が浮かんでいる。
「相変わらず頼れるじゃねえか。よし、おまえらはシナリオ書きを探せ。若手の、女の肉を知らないヤツをだ。そういう男の幻想の中で、女は最も純粋で汚れなく、美しくあれることを俺は知っている。だが、”慟哭”後の世界は俺が書く。これは、”素人童貞”と書いて”ぼくらのピュア”とルビをふるシナリオ書きどもが持つ程度の情念では、荷が勝ちすぎる。後の追随者を許さず、作品がジャンルそのものになるには、ニジンスキーのような荒々しくも精緻な完全さが必要だからな。……うちとの関連は全く消して、新しく会社を作れ。うちの持つブランドのイメージは、この作品の受けるだろう純粋な評価をかえって阻害する。できるだけ事前にバイアスを作りたくない」
高天原の言葉を受けて、徹夜明けで脂の浮いた顔に目だけは異様に輝かせながら、男たちは会議室を出てゆく。小太りの男がノートパソコンを小脇に禿げ上がった頭頂部へ手をやりながら退場すると、もはや朝の光で満たされた会議室に高天原とスーツだけが残された。
Yシャツの袖で鼻血を拭いながら、スーツがよろよろと立ち上がる。
「めちゃくちゃだ……なにもかも……あんた、いったいこれから何を始める気なんだ」
朝日が逆光になり、スーツの側から高天原の表情はうかがえない。
「聞いてなかったのか? すべてのおたくたちに、悲鳴をあげさせてやるのさ」
甲虫の牢獄(1)
「いや、サングラスを申し訳ない。よく目が強すぎると言われるものでして……人前では外さないことにしています。そもそもゲームに対する批評なんてのは、全くのナンセンスですね。だいたい、世の中の大半のものは批評に値しません。もちろん、政治だけは別ですよ。日々の生活と不可分であるという一点において、改善のための政治への意識的な言及は避けられません。より広義に考えるなら、世界に対する我々の取り組みはあらゆる場合において他人との折衝を含むので、政治的と言えますから。つまり、生活と不可分なものだけが、批評に値するんです。そうでないものは、批評なんていう言葉を尽くす前に、ただその場でただちにやめればいい。やめても死にませんからね。やめられます。考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう――いや、いや、それに従事している人間が実感でしゃべっているのだから、余計なご批評はごめんこうむりますよ!――つまり、私たちはそこを意識しなければならないのです。私たちの熱情が”やめる”という選択肢を常に含んでいる、ということをです。紙や電子によらず、様々の媒体からの言及や論評の物量が勘違いさせ、見えにくくさせているけれどもゲームというのは、本質的に人間の営為にとって不可分・不可欠足り得ないということです。――ただ」
「ただ?」
「その絶望から始めるならば、どこかに届く可能性はあるかもしれない。どこかとは、人のするすべての営為が人を対象にしている以上、その心に他なりません。人間の心には”核”があります。言い換えれば、その個人の生にとっての中心的な命題です。カネとか、名声とか、セックスとか、そういったものです。その至上命題を取り巻くように、すべての後天的、つまり経験による情報が蓄積されてゆきます。先ほど尋ねられましたが、簡単に説明すると私の創作手法とは個々人の持つ”核”に直接干渉することなのです。人間は、その命題を判断基準としてしか、世界を理解できませんから。例えば、電車の中で口論を始める二人の男女がいたとしましょう。それを見て、どういう説明を加えるかは全くあなたの持っている命題次第なのです。同じ車両に乗り合わせた人間の数だけの解釈が存在しうる。状況は常にあなたの外にあるわけですから、人生とは、あるいは物語とは、外的状況を自分自身や他人に対して『どう説明するか?』ということでしかありません。説明の段階であなたの持つ”核”による情報の取捨選択、置換が行われ、あなたの現実が完成するというわけです。私は一般の方よりは多少その操作に意識的で、こう表現することを許していただけるならば、長けているのです。最も感動的な物語を作ることのできる人間は、最も人間を残虐に踏みにじることのできる人間である、ということはあなた方の自衛のためにも覚えておいたほうがよろしいでしょう。……心の”核”の話をしました。個人の”核”を肯定する情報を与えればそれは安心となり、”核”をゆさぶる情報を与えればそれは不安となる。”核”の位置を変えればそれは啓蒙か洗脳となり、”核”を破壊すればそれは憎悪か発狂となる」
「抽象的ですね。それに人間を、ひどく単純化しているように聞こえます」
「百人が百人理解できるよう、お話しておりますので。具体的にどう行うかという方法になりますと、これはもう、誤解を恐れずに言うならば才能のお話でして、私と同質の才能を持つ人間にしか、本当の意味で分かち合うことはできないでしょう。ですから、単純化のそしりをあえて受けて、抽象的に続けることにします。具体的なその形については、ぜひ私どもの製品をご購入いただきたい。……私はね、宵待さん、最近全く新しい手法を発見したんですよ」
「それはいったい、どのような?」
「個人の中にある”核”を、全く別の”核”とそっくり入れ替えてしまうやり方です。それが個人の精神に及ぼす影響を言葉に表しますと、そう……革命、でしょうか」
「少し話が飛躍しすぎているようで、私にはちょっと理解しにくいのですが」
「難しいことは何も言っていませんよ。そして、これまでのお話と全く乖離したものでもありません。あなたは恐れているんですよ、自分の中にある革命を。それは確かにあなたの中にあるんですよ。革命とは、個人の心にしか起こりえないことなのですから。おびえることは何もない。単純なんです。毎朝右足から靴ひもを結ぶことを決めている男が、ある日ふと左足から靴ひもを結んでみようと思う。これさえも、革命と呼ぶことができます。革命とは、個人内に完結する明文化されない通念の再構築のことです。それはあまりにも簡単すぎて、もしかしたら道徳や倫理のようにひびくかもしれません。……実際、言葉にするのは、私は得意ではありませんもので。言葉はときに、状況を単純化しすぎますからね。つまり、私が言いたいのはこういうことです、宵待さん」
「……」
「『あなたは変わることができるかもしれない』」
「……の宵待薫子さん、本名・山本啓子さんが今月二十五日未明、自宅のマンションで死亡しているのを発見された事件で警察は今日、死因を自殺と断定しました……」
ラジオのニュースが、低いトーンで流れている。
コンビニエンス・ストアは、とても記号的だ。店内のすべてのものが、極限まで意味を希釈されてそこに存在する。陰鬱なはずのニュースさえも、コンビニエンス・ストアという舞台を伴うと、妙に白々しく、薄っぺらにひびく。
雑誌から顔を上げて、レジの方をうかがう。正確には、その後ろの壁にすえつけられた時計を。
午前一時四十分過ぎ。
カウンターに肘をついて、口を半開きにぼんやりとしている店員の姿が一瞬視界に入る。ぼくはあわてて視線を雑誌へと戻した。接客マニュアルに沿っていないときの店員は、その表情や仕草に記号性を逸脱したものを発散しすぎている。店員の浮かべていた表情の裏にある様々なものへの想像が、せき止めきれないダムの水のようにぼくを圧殺しないうちに、ぼくは再び週刊誌の記事の記号性に没入しようと試みる。
ゴシップ記事の持つ、毎週固有名詞を取り替えただけのような同一さに、ぼくは記号に守られた安らぎを覚える。一通りその週刊誌に目を通し終えると、ラックからまた別の週刊誌を取り出す。書いてある内容は何も変わらない。だが、同一であることを確認するために、ぼくは別の週刊誌を取り上げる。
さっき時計を見たのが午前一時四十分だったから、いまは午前二時くらいだろうか。夜明けまであと三時間と少しだ。あと三時間、この作業を続ければいい。
日付が変わってから寝床を這いだして、両親が食卓に置いた五百円硬貨を手に、歩いて近所のコンビニエンス・ストアへ向かう。そこで夜明けまでの時間をつぶし、朝食用のパンと牛乳を買って帰宅する。そして自室で日付が変わるまで眠り、またコンビニエンス・ストアへ向かう。
その反復が、ぼくの持つパターンだった。
もうどのくらい太陽を見ていないのか、もうどのくらいこの生活を続けているのか、自分でも判然としない。なぜ、こうなってしまったのかもわからない。何か巨大な力が、ぼくをここへすえつけているのではないかと思うことがある。だが、そんな言葉はぼく以外の誰への説明にもならないだろう。
この生活で二番目に苦痛なのは店を出るとき、パンと牛乳を購入するのに店員の前へ立たなくてはならないことだ。
一番目に苦痛なのは、卓上にいつも置かれている五百円硬貨を取り上げるのに逡巡する瞬間だ。その一瞬間をぼくは永遠に迷い、そしていつも敗北する。
店のドアが開いた。
ぼくは習い性のようになった脅えで、雑誌ごしにそちらへちらりと視線をやる。
いつものあの男だ。有名量販店のジャージに木のサンダルをつっかけて、髪はオールバック、そしておかしなことにサングラスを、老眼ででもあるかのようにいつも鼻眼鏡にしている。
ぼくは内心、ほっとする。いつもの時間にいつもの人間がやってくるのは、とても記号的で安定したパターンだ。このあと男はぼくときっかり二人分の間を空けて立ち、漫画雑誌をいくつか立ち読みして、いつもと同じ銘柄の缶コーヒーを一本買って、そう、三十分ほどで出ていくだろう。ぼくは、芸能人の不倫のスキャンダル記事に目を落とし、再び没頭しようとした。だが――
男が、ぼくの横に一人分の間を空けて立った。
ぼくは身体をこわばらせる。腹の底に重たいような緊張が生まれ、サッと全身に汗が吹く。
それは、意味のある距離だ。ぼくはなるべく不自然にならないように週刊誌をラックに戻すと、別の雑誌を選んでいるふりで、男との間に二人分の距離を作ろうとする。
男は雑誌から――それはオートバイ雑誌だった――目を上げないまま、唐突に言った。
「ここ数ヶ月の観察からの判断でしかないんだが」
その言葉は、明らかにぼくへ向けられていた。店内に他に人影は無く、男の位置はレジの店員からも離れすぎているからだ。
ぼくに向けられた、しかしマニュアルではない言葉を聞くのは、いったい何ヶ月ぶりなのだろう。いや、もしかすると何年ぶり、なのかもしれない。
ぼくは麻痺したように、その場から動けなくなった。
「君の生活は、記号とパターン反復の脅迫に支配されているようだ。だが、同時に救済を求めてもいる」
もう半歩、男から離れることができれば、男の声は聞こえなくなったろう。それほどにかすかな、ほとんどつぶやきのような声だったのだ。けれど、ぼくは完全に呪縛されていた。その言葉にぼくのパターンは破壊され、その言葉に抗するのには、ぼくの中は記号で満たされすぎていた。
「言葉が致命的じゃないことにおびえているんだろう。自分も、他人も、すべての言葉が」
待ってくれ、ぼくは心で叫ぶ。言葉なんて、全部記号じゃないのか。ぼくの人生に発する言葉は、すべて記号で足りた。実際、友人も、教師も、両親も、誰もぼくに記号以外の言葉をしゃべらなかった。
『オレタチ、トモダチジャナイカ』『オマエノコト、シンパイシテルンダゾ』『ホントウハ、デキルコナンデス、ホントウハ』
思い返す陳腐さに、みぞおちが氷のように冷える。だとすれば、記号にも憎悪をかきたてる力はあったのか。
それらの言葉は――そう、まるで週刊誌のゴシップ記事のようだ。
「君はつまり、もっともあり得ない場所に補償を求めていたんだ」
ぼくはぎこちなく振り返って、男の方を見た。
男が雑誌から顔を上げて、こちらを見る。
「君は、革命を信じるか」
革命は、ない。
問いの唐突さにうろたえるよりも先に、答えが浮かんだ。遠い海を隔てた外国で、巨大なビルが倒壊しようとも、ぼくの生は革命しなかった。世界の中で物事の位置は、もはやどうしようもないほどにそれぞれの場所へ定まりすぎてしまっている。卓上におかれたペン立てのように、ぼくには物事の定められたその固有の位置が見える。たとえ、偶発的なパターンの乱れによって床へ転がり落ちたとしても、ペン立てはすぐにまた卓上の固有の位置へと戻されるのだ。
ぼく自身の手によって。
夜の窓の外を軍靴が通り過ぎてゆくような革命は、もはやこの世界にはあり得ない。
「君はテロルはあり得ても、革命はあり得ないと考えているんだろう」
その通りだ。ぼくの定まらなささえ、あらかじめ定められてしまっている。卓上のペン立てが固有の位置を失うためには、ペン立てそのものを破壊するしかない。
ぼくは発する言葉を知らず、凝と黙り込む。
男は少し困ったようにアゴをさすった。
「言葉にするのは、得手じゃないな。多くの場合、言葉は状況を単純化しすぎるね。しかし、ただひとつだけ言えるのは……」
男はサングラスを外して、ぼくの目をのぞきこんだ。
それは思い返すに、ぞっとするような一瞬だった。
「『君は変わることができるかもしれない』」
ぞっとするような、甘美な。
男はぼくへと一歩を踏み出し、最後の距離を詰めた。
そして、ぼくの手に何かを握らせながら、重大な秘密を告白するように、耳元へささやく。
「俺といっしょに、世界を革命しないか」
ぼくは呆然と立ちつくしていたらしい。店内へ差し込む朝陽のまぶしさに、我に返る。
時計を見ると、七時を回っていた。
気がついて、手に握っているものに目をやる。汗でよれよれになっていたが、それは確かに名刺だった。メールアドレスと名前だけが書かれた、簡素な名刺。
そこには、こう書かれていた。
高天原勃津矢、と。
甲虫の牢獄(2)
遠い海の向こうで、旅客機が摩天楼へと激突する。
ぼくは知らず手をうち、快哉を叫んでいた。
ブラウン管の中で繰り返し炎上し、繰り返し崩落する巨大なビルを見て、ぼくは死んだ祖父が熱っぽい目をして戦争を語るときに必ず感じた、あの言いようのない劣等感を久しぶりに思い出していた。ぼくは、それに対しての快哉を叫んだのかもしれない。
あのとき、ぼくは本当に心の底から興奮していた。ぼくが生まれたときすべては終わってしまっていて、世界は情事を済ませた後の娼婦みたいに、ぼくを拒みもしないかわりにぼくを受け入れもしなくなっていた。世界の揺るがなさは、例え百万年生きたところで、一千万年生きたところで決して変わることはないと、ぼくはそれを歴史の教科書に載っているような無数の確定した事実のひとつとして理解していた。
突然番組が切り替わり、旅客機が摩天楼へと激突する。緊迫した様子のキャスターが告げる。「みなさん、たいへんです。この世の終わりがやってきたのです、あろうことか私たちの生きているこの時代に!」
終末の幻視。一番最初にぼくに浮かんだ気持ちは、同情でもなく、悲しみでもなく、まして憤りですらなく、そのあと生まれたすべての良識的感情を越えて、そう、快哉だった。世界という名前のゆるやかなあきらめに生じた亀裂を見た者の、変容への期待に満ちた快哉。世界が再生するための死のイベントへ向けた、心からの喝采だった。
ぼくは、異常者なのだろう。どれだけ強く殴れば人が死ぬか、どれだけ深く刺せば人が死ぬか、最も秘すべき性の知識でさえも湯水以下の価値の情報として氾濫する中で、本来なら生物がすべて持っているはずの、その命への実感がぼくには決定的に欠落している。ぼくの知っている血は、瞳に照り返すゲームのモニターの赤でしかない。ありとあらゆる知識をあびるように与えられ、肉を養うすべての栄養をふんだんに与えられ、そうしてぼくは、命の実感とは最も遠いところで自分さえもわからぬまま立ち往生している。
空が落ちてくることを恐れて、家に閉じこもった男の話を思い起こす。その男は間違いなく空が落ちてくることを望んでいたに違いないと、ぼくは思う。そんな破格の災厄ででもなければもう世界とはつながることはできないと、彼は思っていたに違いないのだ。
だが、破格の災厄にさえ、ぼくの日常はゆるがされなかった。
現にぼくは、ここで未だにどこへも動けずにいる。
いつも焦燥感だけがあった。みながぼくを非難するのとは正反対に、何かをしなければいけないという思いは強くあった。でもそれは、両親が求めているのだろう、世間とコミットするというレベルのものではなかった。
ぼくは、たったひとりで世界を救わなくてはいけないと思いこんでいたのだ。
完全な自由は発狂と同じように機能する、という言葉を聞いたことがある。では、ぼくは完全に狂っているのかもしれない。選択肢は常に無限に用意されていて、その無限という広がりを保つためだけに、ぼくはどれも選ばなかった。無限の未来が約束していたのは永遠の保留で、ぼくの感情はその一片一片を怒りとか悲しみとか名付けることが不可能なまでに細分化されていた。浮揚するすべての電波を同時にひろうラジオが、ラジオという名前の役目を果たさないように、ぼくもぼくという名前の役目を果たしてはいなかった。
ぼくが求めていたのは、鍬をひく牛のような鈍重なゆらぎの無さだった。
けれど、誰もぼくにそれを許してはくれなかった。暗がりにうずくまっているぼくの手をとり、ぼくの盲をとき、ぼくに自由と理性の素晴らしさを教え、この世の苦しみのすべてを理解する透徹した視力を与え、そして手を離した。
ぼくはこの世界のすべての可能性とあらゆる美しさを生まれながらにして与えられていたのだから、残されているのは世界を破壊するか、世界を救済するか、それしかなかったのだ。
そして世界を壊す手段も救う手段もなかったので、ぼくはどこへも動けなくなった。
ぼくには思考も言葉も助けにならない。ぼくに好悪はなく、ぼくの意識はぼくが世界を理解することを疎外しない。人生を踏み出すのに不可欠な偏見や思いこみが存在しない。ぼくの心はあまりにも歪んでいなさすぎるので、すべての働きかけはどこへも引っかかることなく心の表面を滑っては落ちてゆく。
ぼくの前にはほとんど哲学のような圧倒的普遍性が広がっていた。
大地を耕す牛の視界には、わずかの土しかないだろう。そこから始めなければならなかったのに、ぼくは初めからすべてが等しく大切であり、無価値であるその地獄のような場所に放置されていた。足すことも引くことも必要のない完全な楽園がぼくに与えられた最初の、そして最後の居場所だった。
例えば、ゴールに立たされたマラソンを知らないマラソンランナー。
ぼくはずっと、そういう存在だった。
毎晩、夢を見る。決まった夢だ。
細長い岬を多くの人間たちが一列になって、粛々と歩いてゆく。
その左右は崖になっていて、底は見えない。
周囲を白いもやが取り巻いていて、見通しはほとんどない。
列を乱す者はいない。列を乱せば、墜落するしかないからだ。
進むにつれて、足下はどんどん狭くなってゆく。
ときどき、谷底へと落ちてゆくものがいる。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
次第に、周囲を取り巻いていた白いもやが晴れてゆく。
岬は先細りの果てに、ついにその先端へと収束している。
もうその先に道はない。
ひとり、またひとり、岬の先端から落ちてゆく。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
やがて、ぼくは自分がその緩慢な行進の最突端にいることを知る。
ぼくは大きく後ろを振り返り――
いつもそこで目が覚める。
全身が寝汗で濡れていた。
正体のない頭で視線をさまよわせると、枕元に置かれた名刺が見えた。意識がクリアになる。
高天原勃津矢。それは、ここから脱出するためのチケットだった。高天原と名乗る男の申し出は、絶対にあり得ないと思っていた、ここからの出口だったのだ。
世界を革命する!
ただ座したまま一切と関わりの無い場所から世界を観察する以外で、世界を救済し、あるいは破壊する以外で、世界を革命することがぼくに唯一可能な行動の選択肢だったのだ。
ぼくはベッドから起きあがり、階下のトイレへと向かった。
そこで、家人とはちあわせた。
いっそののしりあいになれば、どんなにか楽に物事は運ぶことだろう。両親を殺す同年代の事件を見て、ぼくはいつもうまくやりおおせた彼らに嫉妬を感じたものだった。全員が等しく選ばれており重大で、無限の可能性を秘めているこの世界で、ぼくは誰かに明確に自分を断罪させたかったのかもしれない。この生活の繰り返しの中で両親が世界と同義になったとき、ぼくは両親を殺すのだろうと思い続けてきた。ぼくにできるのは、世界を救済するか破壊するかしかなかったのだから。
ぼくと目を合わせないように、「コンビニに行ったのかとばかり……」と寝間着の上に半纏を着込んだその人影は言った。
いつもならば身の凍るようなその場面に、もはやまったく何も感じない自分に気づいた。
夜の淡い空気の下に、にぶく光を放つ五百円硬貨。ぼくは取ることも、取らないこともできる。
それは、これまでの永遠が嘘のような明快さだった。ぼくの生は、高天原に見いだされたことで革命したのだ。
五百円硬貨に背を向けて自室に戻ると、ぼくは名刺に記されたアドレスへメールを送信した。
甲虫の牢獄(3)
高天原が指定した集合場所は、郊外の無人駅前にある空き地だった。
実際には、人気の少ない真昼の電車に三十分ほど揺られていただけのことだったが、無人駅のホームに足をつけたとき、ぼくは身も心も疲労困憊の極に達していた。パターンから離れた場所で、ぼくはすべての瞬間を決断し続けなければならなかったのだから。
小休止のつもりでホームの鉄柵に身を預け、それがここをいつ離れるかについての決断をぼくに迫っているのに気づき、ほとんど絶望的な気持ちになった。
振り返れば、見下ろした先に目的地と思しき空き地が見える。そこにはすでにいくつかの人影がある。
ぼくは動揺を感じた。高天原が声をかけたのがぼくひとりではないという可能性に、思い至っておくべきだった。
自分の中に生まれた感情に促されて、鉄柵から身をもぎはなした。よろよろと駅の改札口まで歩いていく。他に選択肢は無かった。ぼくは夢遊病者のように見えたことだろう。家を出て以来、ぼくは感情の乗り物のようだ。感情が衝動を刺激し、身体を遠隔操作している。
改札出口の階段を下りると、道路を渡る。ほとんど脅えるようにして、ぼくは空き地へと足を踏み入れた。
そこにいる人々はお互いに無関係であるかのように距離をあけて立っており、外見からは高天原に関係する人物なのかどうか、判断がつかなかった。
見られていることを意識しながら、彼らの前を横切って空き地の隅へと歩いてゆく。荷物を地面に下ろすと視線を向ける先に難渋し、こういう際の習い性として自分のつま先を見つめることにした。
やがて値踏みが終わったのか、向けられていた視線が途切れるのを感じる。ぼくは塹壕からのぞくようにわずかに顔を持ち上げると、上目遣いでそこにいる人々を観察する。
人数は、ぼくを含めてちょうど八人。服装や年齢に統一したものは全く感じられない。向こうもぼくを見て同じように考えていることだろう。ぼくは順に見回しながら、違和感を覚えて視線を戻す。
果たしてそこには、制服姿の少女が立っていた。
手入れの行き届いたぴかぴかに光る革靴、ワンポイントの入った白のソックス、ほとんどその白と変わらぬ細いふくらはぎ、襞の入った紺色のスカート、上着の左胸には校章だろうか、何かの植物をあしらったロゴマークが縫いつけられている。肩口に切りそろえられた黒い髪が白い襟にわずかにかかる。ふちの細い眼鏡、意志の強そうな太い眉。
突然、少女がこちらへ顔を向けた。一瞬、正面からその目をのぞきこんでしまう。
黒く深い、澄んだ大きな瞳。
あわてて視線をそらす。
ぼくのこれまでの人生がすべてが非難されているかのような、いたたまれなさが膝頭からわき上がる。慣れ親しんだその感覚を全身を固くしてやり過ごす。
しばらくして顔を上げると、彼女はもうこちらに背中を向けており、空き地の入り口をただ見つめていた。
両手を軽く握り、背筋を伸ばして立つ明確な意志を持った後ろ姿。
その人生は、ぼくのものとは真逆の要素ばかりでできあがっているのに違いなかった。ぼくが持つことを拒否したものが、すべて少女の中にあるような気がしたのだ。
どのくらい時間が経ったのか。
周囲を照らす陽光の色合いに翳りが含まれ始めた頃――
大型のワゴン車が空き地へと侵入してきたかと思うと、乱暴に砂埃をあげて停車した。
助手席から、ロングコートにサングラスの男が、サンダル履きで降りてくる。コートの下には、不釣り合いにジャージがのぞいている。見間違いようもなく、高天原勃津矢だった。
ドアを閉めると、コートのポケットに両手を突っ込んだまま、高天原は空き地の中央へと歩を進めた。そして、何かの合図ででもあるかのように軽く右手を上げる。集まった人々はお互いに牽制をあらわにし、顔を見合わせた。
何のためらいもなく一歩を踏み出したのは他の誰でもない、あの少女だった。それに促されるようにして男たちは、ぞろぞろと高天原の周りへ蝟集する。
ぼくは、少女の横に立った。彼女の頭はぼくの肩の下にあり、ずいぶんと小柄なことがわかった。彼女の意志が、彼女を実際より大きく見せるのかもしれない。わずかに流れる風が、甘い匂いをぼくの鼻腔へと運んできた。局部に不意の昂まりを感じぼくが顔を赤くするのと、高天原が話し出すのは同時だった。
「どうやら一人の欠員もなく、そろっているようだ。改めて自己紹介をさせてもらおう。高天原勃津矢だ。エロゲーを作り始めて、長い。この中には私のことを知っているものも、知らないものもいるだろう。私の作品をプレイしたことがないものも当然いるはずだ」
軽い笑い声が上がった。高天原を知らないものがここにいるはずがない、といった意味の笑いだったのだと思う。
少女だけが笑わなかった。
「だが、私はそんなことには関係なく君たちを選んだ。私が君たちを選んだのは、君たちが私の必要とする才能のうちで、それぞれ最高のものを持っているからだ」
高天原は全員の目を順番に見ながら、言った。
ぼくは身震いする。それは遠く忘れかけていた、懐かしい感覚だった。誰かが、他の誰かではない自分の存在を求めてくれている。肯定されることは、こんなにも心の奥底を痺れさせる快感だったのか。ぼくは目頭が熱くなっていくのを安い感傷だと恥じたが、その熱さが止まることはなかった。
「狭いこの業界のことだ、お互いを見知っている者もいるかもしれない。けれどそれは、胸にしまっておいて欲しい。私はまったく一から、この場所から君たちの関係を始めて欲しいと思っている。それは、今回の作品に必要なことだ。これから一年間、私は君たちを拘束する。同じ家で寝泊まりし、寝食と仕事をともにするのだ。私はそこで、独裁者のように振る舞うだろう。生活に必要となるもの、君たちの個人的な嗜好品などは、すべてこちらで準備しよう。君たちの持つ才能への支払いとは全く別でだ。この条件を呑んでくれそうな人間を集めたつもりだが、もちろん、この場で辞退してもらっても構わない。代わりの準備はしてある」
そこまで言うと、高天原は沈黙する。
才能を認めると言いながら、代わりはいると告げる。高天原は的確にぼくの感情をゆさぶって、彼が意図しているのだろう結果へと誘導してゆく。ぼくに求められているものが何なのかはわからなかったが、高天原の言葉を聞いただけで、この場を立ち去る選択肢は無くなっていた。
ぼくに代わりがいるのは知っている。この世界のほとんどの場所で、ぼくの代わりはいるだろう。しかし、それは観念的な理解に過ぎなかった。目の前でぼくの代わりが高天原に肩を抱かれて歩み去っていくのを見て、ぼくはそれに耐えることができるのか。ここに残るためなら、あそこへ戻らないためなら、ぼくはそいつを殺しさえできるだろう。
ぎょっとして、もう一度その言葉を心の中で繰り返す。それが嘘ではなく、どうでもいい何かに冷えてもいないのを知って、ぼくは驚いた。抱いた意志が一瞬ののちに拡散してしまうだけではなく、積み上がることもあるのだという事実に驚いたのだ。
誰も身じろぎひとつしない。場を覆う緊張感が、次第に高まっていくのがわかる。
少女は何を感じているのだろう。隣に立つ彼女の様子をぼくは横目でうかがった。唇を引き結び、その大きな瞳でまばたきもせずに高天原をにらみつけている。
たっぷり五分ほども経過しただろうか。ひとりとしてその場から動こうとしないのを見て、高天原はうなずいた。
「これで私はひとつ、革命へのハードルをクリアしたというわけだ」
高天原が相好を崩す。その人なつっこい微笑みは、先ほどの緊張感を生み出していたのと同じ人物であるとは思えない。安堵の空気が流れるのがわかった。そして、ぼくたちに向けて頭を下げる。
「君たちの決断に対して、礼を言わせて欲しい」
意外な言葉。しかし再び顔を上げたとき、彼の顔から微笑みは消えていた。
「君たちの過去を見て私は君たちを選んだが、これから向かう場所でさらに君たちの過去が重要になるとは考えていない。いまから、自分の思う好きな名前を名乗ってくれ。ペンネームやハンドルネームのようなものだ。本名以外ならば、どんなものでも構わない。君たちの関係を、いまこの瞬間から新たに始めるためだ」
高天原に促され、誰もが淀みなく名前を述べていく。外国の人名を名乗る者や、何かのキャラクターと思しき名前を言う者、数字を羅列する者さえいた。
ぼくの全身から汗が吹き、冷えた。
いまの自分は真実の自分ではないと思ってきたにも関わらず、ぼくに何か別の明確な自己イメージがあるわけではなかった。自分の名前を自分で決定する。それは自己定義と同じことだ。自己定義を意識的に放棄し続けてきたことが、ぼくのいまにつながっている。ぼくに何か言えるわけがない。
だが、その逡巡が現実に何らかの影響を持つことはなく、やがて順番は回ってきた。
何かを言わねばと、口の中でもごもごと舌を動かすが、それが言葉になって外へ出てゆくことは、ついに無かった。
「決められないんだな」
高天原には、ぼくの沈黙の意味がわかっているのだろう。きっと、ぼく自身よりも正しく。
「では、君の名前は――」
一昔前に人気のあったアニメの主人公の名前が告げられた。皆の口元に失笑が浮かんだような気がして、ぼくは顔を赤らめてうつむいた。他人の中にいるとき、ぼくの位置は否応なく他人の存在によって定められてしまう。ぼくは薄っぺらに相対化され、相対化された自分を見てぼくは無力感に思考を停止するしか無くなる。けれど、しばらく考えることをやめさえすれば、いつもその屈辱は忘却が連れ去ってくれた。
視界の端に少女のスカートの襞が揺れるのが見えた。彼女はきっと、他人に規定されたりはしないだろう。両手を軽く握り、背筋を伸ばして立つ明確な意志を持ったその姿。少女は、親指の先を軽く噛んで、逡巡するようだった。その白い頬は内からこみあげる感情に紅潮して、暗くなりゆく大気の中で、淡く輝いているように見えた。
「私の名前は、元山宵子です」
よく通る、強い声だった。ぼくとはまるで正反対に、他人に何かを伝えようとする意志に満ちていた。自分の言葉が、他人にとって意味をなさないのかもしれないという疑念を一欠片も含まない、それゆえに美しい声だった。
「そうか、君は元山宵子と名乗るのか」
高天原が、ひどく真面目な調子で言った。
「言い忘れていたが、元山君には週五日の通いで働いてもらうことになっている。未成年を監禁するわけにはいかない。現実の常識はエロゲーと多少違うからね」
笑い声が上がる。やはり、少女だけが笑わなかった。
「では、行こうか」
高天原は身をひるがえすと、ワゴン車の助手席へと乗り込んだ。
ぼくたちも後へと続く。運転席には頭頂部のはげあがった小太りの男が座っており、黙ったままぼくたちをバックミラー越しに一瞥した。
ぼくの隣に少女が――元山宵子が座った。
彼女は、ぼくの方を向いて軽く会釈をした。
小さなおとがいが上下に揺れる。
深い瞳の底にある、ふしぎなかぎろい。
耳朶に血液が集まってゆくのを感じて、ぼくは窓の外を眺めるふりで、元山宵子から顔をそむけた。背後に砂埃を巻き上げながら、車が発進する。
駅前にはかろうじてコンビニエンス・ストアに、カラオケ屋、学生用のアパートなどがあったが、しばらく走ると、同じ県下とは思えないほど田舎びた風景が広がり始めた。
道路の両脇には田んぼが広がり、その向こうに民家が、その先に山のつらなりが、山の輪郭の上には電線が見えた。
車内の全員が、なんとなく黙り込んでいる。高天原の言葉を待っていたのかもしれないが、それ以上に不安もあったろう。
やがて車は大きく左折して幹線道路をそれると、山の中へと進んでいった。ほとんど一車線しか無い細い道路が、螺旋状に山を巻いている。ときどきやってくる対向車に、舗装の無い草むらへと待避しながら、ぼくたちを乗せたワゴン車は次第に高みへと登っていった。
カーブを曲がるたびに、横に座る元山宵子の柔らかい感触が、ぼくの半身に押しつけられた。ぼくは両足をきつく閉じて、できるだけそれを意識しないように努力する。
山道を登っていくにつれて白いもやが深まってゆく。白いもやは、通り抜けてきた山の底へ溜まってゆくようだ。
ぼくは不思議な既視感にとらわれる。
白いもやを抜けるとそこには――
山肌の傾斜へ張りつくようにして段々畑が広がっており、いくつかの民家が点在しているのが見えた。
やがてワゴン車は道路の片隅に停車した。そこから、土を踏み固めただけの細い下り坂が、一軒のわらぶき屋根の家の前庭へと続いている。
高天原は指さして、言った。
「諸君、あれがこれから一年を過ごすことになる、我が家だ」
甲虫の牢獄(4)
「障害者――特に、知的障害者を身内に持った人間は」
高天原が話し始めたとたん、その場所に漂う気配が、わずかに変化するのを感じた。ぼくは、屋根裏の物置へと続く収納式の階段に置かれたノートから顔を上げる。
天井の低い和室。
開け放たれた縁側。
前庭をかけまわる鶏。
風景をゆらがせる夏の日差し。
卓袱台の上のノートパソコンで仕事をする者、昔ながらの低い鏡台の上で窮屈そうにペンを走らせる者、湿った畳に紙を広げて神経そうに何事か書き込んでいく者、そして、何をするでもなくただ縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせている者――そこには年齢も、外見も、ぼくたちを知らず分けるあの固有の雰囲気さえも同じくしない人々がいた。
高天原が話し始めたとたん、ぼくを除けば誰ひとり作業をやめず、誰ひとり顔を上げるものさえいなかったにもかかわらず、皆が高天原の話を聞いていることがわかった。それはときに他愛の無い世間話だったり、いま行われている仕事の進行状況の確認だったりしたが、その内容の如何に関わらず、皆が高天原の言葉を確かに意味のある、更に言ってよければおそらく、重大なものとしてとらえていた。
ここに集まった雑多な人間たちにもし共通点があるとすれば、まさに高天原へのそういう感情だったのだろうと思う。
世間話であれ、仕事の話であれ、高天原の言葉の始まりは、いつも唐突だった。
ぼくはその唐突さに虚を突かれ、そうするとあとは目眩のするような奔流に流されていくしかなくなってしまう。
「人生に対して、より正確に言うなら知性に対して、真摯にならざるを得なくなる。つまり、ふたり分を負って知性に正対しているんだ。きっと両親が言ったわけではないんだろうが、妹の欠落は明らかに私の責任だった。妹の持ち物を私の強欲が余分に奪ってしまったことが、彼女の欠落の原因だったのだ。それが幼い私の現実理解だった。世界観と呼んでもかまわないほどに、私を支配していた感覚だった。私にとって、知性はいつだって深刻かつ重大で、私が何かを考えることは、私の罪状が告知されているのと同じ意味を持っていた。同時にそれを無価値な塵芥と断じて、踏みつけにしてしまいたい気持ちもあったが、宗教的な禁忌と同様に、私は理性を越えたところで呪縛されていて、それは思う端から常に他ならぬ私自身によって完全に否認された。私は中身の知れない祠を背中に立つ守り人のようなもので、実体が何であるかを少しも知らされていないにも関わらず、それの聖性を頑なに信じこんでいた。誰が強制するわけでもない、放埒と虚無の中間のような名状しがたいその感覚は、私の人生の最初の段階に濃く取り巻いている。そして私は、思考と心の核をそこに呪縛されて、一歩も動くことができなくなった。杭を見つめるつながれた牛にとって、長い時間の間に杭はきっと実在ではなくなってゆくんだろう。つながれた私は、じっと一つの想念に凝っていった。周囲はあまりに深刻すぎて、あるいは当の問題に対してあまりに回避的すぎた。こういう際、子どもにとってはひどく陽気に、というわけにはいかないらしい」
高天原は自身の側頭部を指さした。
そこには頭髪の生えていない、部分的な断裂のようなものがうっすらと長くあった。
「私の場合は例外なく、自分の脳髄を取りだして、妹に喰わせることを考えた。哀れなほどに子どもだったんだろうね。苦しみはふたり分だったが、心はひとつしかない。知性の欠落した恐ろしい肉が日常の底にいて、いつも無邪気に私へ微笑みかけている。その圧倒的な実在感は当時の私にとって、何か崇高な象徴ですらあったと思う。私はそれを見るとき、いつも思った。牛のような、あるいは虫のような、悲鳴を上げることのできない存在こそが、世界で最も苦しんでいるのだろうと。私が想像したのは、莫大な空間につり下げられた細くて長い紐の結び目だった。心を持たないがゆえに、発狂という安息を取り上げられ、時空間に偶然発生した自我という名前の結び目を、永遠の客観性の中で凝視し続けるという苦しみ。そう、私が妹を観察して得た最大の恐怖は、心を持たないはずの彼女にも、自我は存在するのだという恐怖だった。悲鳴を上げることができなかったのは、私でもあり、妹でもあった。妹に私の脳髄を喰わせることがついにかなわなかったように、私が理解したのは、どんなに絶望的に願ったとしても、心を持たない者に、知性を伝えることはできない、ということだった」
高天原は人差し指で、滑り落ちてきたサングラスの位置を直した。
「とても特殊な例外をのぞいては、知性は常に絶海の牢獄のように、切り離されている。例えばインターネットというメディアは、心をそこに置かないままに知性だけを伝播させようとする点で非常に象徴的だ。そこにいる人々は知性を階層的にではなく、並列的に判断しようとしている。リンクをたどるようにだ。階層的とは、人類の歴史の時系列と考えてもらってかまわない。つまり、ネットワーク上に自我を顕在化させたかれらは、心をそこに置かないがゆえに、何かの巨大な連続としては自身の存在を定義できないんだろうと思う。彼らは人類の歴史という流れから完全に切り離された、文字通り単独の個体なんだ。いのちの蓄積からではなく、たったひとりから始め、たったひとりで人類の数千年の知性を一から積み上げようともがいている。長い時間をかけてではなく、一瞬間に手に入れようといつも焦れている。それは苦しみどころではないだろう。彼らは自身の負う苦しみに気づかないがための、魂の芯を麻痺させる麻薬を欲している。我々の仕事は、つまり、それさ」
高天原は窓の外へ顔を向けた。
サングラスを外し、目を細める。
「私は、この世界のすべてが砕け散り、終わりを迎えたとしても、きっと自分があそこへ戻ってゆくことを知っているんだ」
ほとんど放心しているように、そう言った。
高天原の話した内容を理解したとは、到底思えない。
しかし、高天原の話した内容というよりも、彼の声の調子や彼がただそこに座っていることが、ぼくの現実認識を揺さぶった。
人は知性そのものにではなく、知性を持った心がそこにあることに屈服するのだ。この感覚は理不尽だが、理不尽であるがゆえにあらがうことができない。ぼくはここに来るまで、それを知らなかった。ぼくの世界への関わりが、間接的なものだということに気づいてすらいなかったのだ。
高天原が縁側の向こうに広がる空を見た。太陽は空の半ばをとうに過ぎている。
「そろそろ、食事にしようか」
皆が作業をやめ、身の回りを片づけ始める。元山宵子が無言のまま縁側から立ち上がり、土間へ降りていったかと思うと、大きな飯櫃を抱えて戻ってくる。呆然と座っているうちに、次々と食事の用意が運ばれて来、やがて卓の上は皿で埋め尽くされた。
汁、焼き魚、お浸し、漬け物。
卓の真ん中にあるいくつかの大きな鉢には、芋などの煮つけが盛り上げてある。
筮竹のようにぎっしりと箸の詰まった箸立てから、皆が箸を抜いてゆく。
横から、湯気の立つ白い飯の茶碗が手渡された。
見ると、頭頂部のはげ上がった小太りの男が座っている。
「いきわたったかな。それでは――」
高天原の言葉に、場のざわめきが消えた。
みな、これまでの来し方を振り返るかのように、思い思いの方向へ視線を向けている。じっと目を閉じる者もいる。
すでに日は大きく傾き、外は薄暮の様相を呈していた。
自身の羽根に首を埋めて眠る鶏。
草葉の陰にチリチリと鳴る虫の声。
そして、過ごした今日と同じ長さをした、長い静寂。
「いただこうか」
しかし、それは時間にしてみれば、ほんの数秒のことに過ぎなかった。
場がざわめきを取り戻し、食事が始められる。
ぼくは、不思議な感覚にとらわれたまま、白い飯の上に立つ湯気を眺めていた。
横に座った小太りの男が、ちらりとこちらを見た。
そして、低い声でこうつぶやいた。
「君はきっと、長い間こういう食事をして来なかったんだな」
何か他人の言葉の孫引きなんだろう、とぼくは考えた。
ぼくは長い間こんな食事をしてこなかったんじゃない。これまでに一度もこんな食事をしたことは無かっただけだ。この男は、ぼくのことを何一つ理解しているわけではない。
けれど、その言葉はひどく胸に落ちた。 それは、暗くなってゆく外の景色に比べて、この部屋の灯りがあまりに煌々と明るいせいかもしれなかった。
懐かしさを感じるわけはなかった。なぜならぼくの人生のうちに、こんなことは一度だって、無かったのだから。
ひとりで冷たいテーブルに座る子どもの映像と、冷えた飯の無機質なこわばった舌触りが一瞬脳裏をかすめた。
男はもはや興味を失ったかのように、ひとり背中を丸めて、器用に焼き魚の身を骨からはがしている。
ぼくは湯気の立つ茶碗を取り上げて、白い飯を口に運んだ。
それは、不思議な感覚だった。
知らず、頬を涙が伝い落ちた。
甲虫の牢獄(5)
日々はここに来る前にぼくが想像していたような劇的さではなく、淡々と過ぎていった。生活のスケジュールは高天原によって管理されており、徹夜で作業をしたことなどはほとんど無かった。
朝は六時に起床して、鶏の駆け回る前庭でラジオ体操を行う。ラジオ体操が終わる頃には、元山宵子が小太りの男の運転するワゴン車に乗せられて、自宅で作ってきたのだろうか、大量のおにぎりとみそ汁の大鍋を朝食として運んでくる。ぼくは全神経を集中して元山宵子のにぎったおにぎりを味わい、彼女の風味を探し出そうとするが、いつも失敗する。朝食が終わるか終わらないかのうちに、元山宵子はまたワゴン車で下界へと送られてゆく。
七時半過ぎごろから仕事が始まり、正午まで続く。
昼食には朝のおにぎりの残りに加え、塩漬けや煮付けが用意されることが多かった。この塩漬けや煮付けは大量に作られた大皿から何日もかけて全員で消化してゆくのだが、最初に感じた抵抗感は一週間ほどで消えた。
午後には昼寝の時間が一時間あり、みな思い思いの場所で横になって、高天原のセットした目覚ましが大音量で鳴り響くまで眠る。
夕方に、元山宵子が再び姿を見せる。制服の上にエプロンをつけて、小太りの男を助手に夕飯の支度をする。だいたい七時頃から夕飯が始まり、食事を終えた者から高天原が薪で焚いた風呂へ順番に入る。
風呂の後には簡単なミーティングがあり、仕事の進行状況と問題点を高天原にそれぞれが報告する。全員の報告が終わる頃には片づけを済ませた元山宵子が土間から座敷に顔を見せ、「お疲れさまでした」というお決まりの言葉を残して帰宅する。
ミーティング後は基本的に何をしていても構わないが、仕事を継続する者もいた。足を制限された山奥の一軒家に、受信される放送局の少ないテレビ一台では、他にすることは無かったからとも言える。直接チャンネルを回す古いタイプのテレビで、ここに来た当日にはゲーム機を接続するジャックが無いと悲鳴が上がったものだった。
十時を過ぎた頃には誰からともなく立ち上がって布団を引き始め、高天原が布団に入っている皆を見まわし、「それではまた明日」と言って電灯のひもを引く。十一時を迎えないうちに部屋の灯りは消える。
おおむね、毎日はこんなふうに過ぎていった。ぼくたちの集まっている目的を考えなければ、ほとんど健全と言ってよかっただろう。
ぼくに与えられた仕事は、一人の少年が一人の少女と恋に落ちる場面をシナリオとして書くことだった。
「君自身がその少年だと思って、その少年に自分自身のこれまでの人生を投影するつもりで、正直に書くんだ。もしまずいところがあれば、あとで私が修正しよう。上手にやるのではなくて、正直に書くんだ。少女の容姿や設定は君のシナリオが完成してから、すべて逆算でデザインする。私が求めているのは君が自分自身に正直であること、そして君の理想の少女を理想そのままに美しく書くこと、それだけだ」
高天原は最初にそう言ったきり、ぼくを完全に放っておいた。
ここにやってきた最初の数週間、ぼくは一切何もしていなかったといっていい。ミーティングのときも、高天原はぼくにだけは仕事の進行状況を聞かなかった。モニターの上に日々完成していく精緻な絵を横目にして、ぼくは真っ白なノートの前にただ呆然と座っていた。周囲にはさぞかし馬鹿のように映っていたに違いない。
八月に入ると、元山宵子は朝やってきてから、夜まで帰らないことが多くなった。
しかし食事を作る以外は何をするわけでもなく、ときどき本を読んでいることもあったようだが、縁側で前庭を眺めながら足をぶらぶらさせていることがほとんどだった。細いうなじに陽光が照り返して白く輝いているのを見るのが、ぼくは好きだった。
一度だけ、どんな仕事をしてるんですか、と元山宵子がノートをのぞきこんできたことがあった。そのときのぼくは大慌てでノートを閉じると、何も言えずただぎこちない微笑みを返すことしかできなかった。元山宵子は一瞬、目の奥にふしぎなかぎろいを見せたが、一言謝ると元のように縁側に腰を下ろした。
集まった人間たちは、あまり私的なことは話さなかった。高天原がそれとなく、これまでのことについて話すのを禁じていたせいもある。暑いとか寒いとかうまいとかまずいとか、その場限りに終わる感情以外の話題は、必然的に仕事に関することばかりになった。プログラムやそれに類する専門的な話は全く理解できなかったので、ぼくはいつもなんとなく蚊帳の外に置かれているような気になったものだった。高天原を除くならば、ぼくが思い出せる言葉でのやりとりというのはとても少ない。だから、その場面はとてもよく覚えている。
それは、元山宵子のいる午後だった。
プログラム担当の男が突然、奇声を上げながら後ろに向けてひっくり返った。
仕事に煮詰まってのことだったのかもしれない。男は大の字に寝ころんだまま、誰へともなく言った。
「俺、文明の進化って言うのは、容量を減らしてゆくようなものだと思ってるんだ」
仕事上のトラブルにひっかけていたのだろうか、唐突な内容だった。縁側に座って足をぶらぶさせながら、庭を眺めていた元山宵子が振り返る。
「逆じゃないんですか。世の中の複雑さはどんどん増えてゆくように思えますけど」
「ところが俺によるとそうじゃないんだな」男は仰向けからぐるりと身をかえすと、元山宵子に向き直った。
「俺が言っているのは、人間のことさ。こうやって話している言葉だって、省略できるものはどんどん省略して容量を減らしてるだろう。人間の言葉なんてのは、本当はたいそうなものじゃなくて、圧縮と解凍の連続でできているマシン語のバリエーションみたいなものに過ぎない。ただ、最も正確にしゃべったとして周囲に正しく命令が伝わるとは限らない、ヘボ言語だがね」
元山宵子は黙って聞いていたが、ただ眉を少し寄せるだけの表情でいったい何を言っているのかわからないと伝えていた。彼女の感情はときどきほとんど言葉にされないにも関わらず、驚くほど周囲に伝わることがあった。元山宵子はきっと、それを意識して使い分けていたと思う。
男はいらいらとした調子で続ける。
「圧縮するためには、余分な情報は真っ先に削る必要があるだろう。俺が言うのは、そういう意味さ。科学技術の発展によって、車とか飛行機とか、まず世界の広がりが圧縮されたんだ。いまは人間そのものが圧縮されてきてる最中なんだよ。例えばエロゲーの世界なら、俺なんてまず真っ先に削られてしまうだろう。俺が主人公だったことは一度も無いし、ゲーム内のカメラが向けられる瞬間も無いだろうからな。スポーツゲームの観客席のようにのっぺりとした、背景を持たない一枚の書き割りなのさ。他人なんてすべて自分にとっては書き割りみたいなもんだし、このやり方が全く正しいことを認めざるを得ないね」
自嘲気味に男は乾いた笑いをあげた。
「俺たちをいつも白けさせて正気に戻らせちまう現実の雑音は、エロゲーでは全部無いのと同じように圧縮されて、ただ感動や欲情や俺たちが必要としているものだけが残る。俺がこの仕事に止まり続けているのも、たぶんそれが理由なんだ。エロゲーは俺たちが過ごしやすいように、現実の旨みだけを取りだして誇張して、必要の無い部分はすべて圧縮してくれる。エロゲーで体験できる生の密度に比べれば、現実なんてオンラインゲームみたくクソ薄っぺらだよ。ひとつの解答を見つけるのに数メガバイトくらいのシナリオじゃなくて、何年もヒントすら無いままにさまよわなくちゃいけないなんて、神様っていうのはきっと相当のヘボクリエイターなんだと思うよ。俺はエロゲーを作ることで、この世界が実はクソゲーだということに気づいてしまっている連中に、やつらが体験したいと思っている正しいプロポーションに成形された世界を見せてやってるんだ。神様のしわ寄せ分を俺たちがせっせとアイロンがけしてるってわけさ。それとも裁断かな。だとすれば、科学技術が次に求めるべきなのは時間を圧縮する手段だよ。SFみたいに旅行する必要は無いんだ、ただ圧縮できさえすればいい。クライマックスからクライマックスへ、現実においてエロゲーのイベントのように意味のある濃度を持った瞬間だけを体験して、残りをすべてスキップできる装置さ」
そこまで聞いて、元山宵子がわずかに息を吐いた。
「そんなふうに圧縮や省略を繰り返せば、残るのは生まれることと死ぬことだけなんじゃないですか。私は少なくともゲームのプレイヤーとしては現実を生きていません。無数の取捨選択の中で私だけの意志を提示するために、この世はこんなにも膨大に作られているんだと思います」
男は口元に嘲りを浮かべ、ひらひらと宙空に手を泳がせながら言った。
「楽な小遣いかせぎをしている高校生ぐらいには、わからんよ」
その言葉に、元山宵子が跳ねるように立ち上がった。夏の陽光が大きく影を作ったせいだろうか、小柄な彼女が室内からは一瞬倍ほどにも大きく見えた。
逆光に輝く両目だけが強調され、燃える火のような瞋恚が瞳の底に渦巻いているのがわかる。
思わず、といった感じで男が起きあがり、居住まいを正す。ばつの悪そうに頭を掻きながら、「悪かったよ、煮詰まってたんだ」とつぶやいた。
「死に直面すれば、生を再生できるかもしれない」
ふすまを隔てた隣の部屋に、籐椅子の上でじっと眠っているようだった高天原が口を開く。
「省略の果てに人生のすべてを体験すれば、そしてそのとき君がまだ生きていれば、もう一度同じ人生を体験しなおすしかない。その人生はきっと以前と同じだろうが、それを体験する君自身は元の君とは違っているだろう。生の反対は死じゃないんだ。生の反対は、再生なんだよ」
この言葉を高天原の言う本当の意味で理解したのは、ずいぶんと後になってからのことだった。
振り返ると、元山宵子はいつも通りの小柄な制服の少女だった。
彼女は縁側に日干ししてあったエプロンを身につけると、夕飯の準備をするために土間へと降りていった。
甲虫の牢獄(6)
「強い依存心を持った人間はひとりでいるときにしか、本当の自分自身であることはできない」
静寂を破るように、夜の倉庫街に街灯を背にした高天原が言った。
ぼくは眺めていたつま先から、はじかれるように顔を上げる。
高天原は街灯の作り出す光の輪から外れるようにして立っていたので、その表情をうかがうことはできなかった。
いまの言葉は、ぼくに向けられていたものだったのだろうか。なぜか心臓が早鐘を打つ。
「気にしなくていい。君の仕事には満足している。私の言葉は批評と同時に、常に独白を含んでいるからね。君がいま驚いたように、私自身もいつも自分の発した言葉に驚いている。偶然に紡ぎだしたはずの言葉が多くの真実を含んでしまうことに、驚くんだ。私はね、新聞の素人俳壇の欄を読むのが好きだ。私を嫌っていたはずの人々が、ふとした偶然で私と同じ真実に到達しているのを見られるから。言葉だけは、誰の上にも平等なんだろう。言葉が外からやってくるとすれば、私や君のような人間に才能や、知性は存在しないということになる。どうもがっかりするね」
高天原がふっと笑ったような気がした。
「ただ、必ず添えてある偉い先生の講評は御免だ。解釈すると神秘を無くして陳腐になる。解釈しないと誰も理解できない。つまるところ知性は、人と人との伝達を主な目的として進化したんだろう。もどかしいところだ」
高天原の話は結論から始まり、その結論を言葉で崩してゆく。
ぼくは誘惑されまいとそんなふうに分析をするが、いつもむなしい。プロ競技者の修練や技術を観客席で理解したところで、その人物に互したり打ち負かしたりすることに対しては、何ひとつ関係が無いのと同じだ。
高天原が腕時計に目を落とす。そして、もう幾度目だろう、遠くの暗がりに視線をやる。
何を待っているのだろう。なぜここへついて来なければならなかったのか、ぼくは全く知らされていない。
「……まだ時間があるようだ。少し私自身のことを話そうか。君も、少しは君の人生を狂わせた人間のこと知っておいたほうがいいかもしれない」
高天原は冗談のように言った。
だが、ぼくが人生に正しいと言うことができた瞬間など、ありはしなかった。けれど高天原といるとき、ぼくは人生が正しいと感じることができる。
ぼくのそんな思いには気づかないふうで、高天原は淡々とした調子で話し始めた。
「十年前、私は雇われのシナリオ書きだった。ちょうどいまの君のような感じかもしれないな。自分が”選ばれている”という自負は常にあった。なんといっても、私の知性は二人分だったからね。けれど、それが妄想なのか真実なのかを見分けるための現実的な要素は、まだどこにもなかった。ただひたすらに鬱屈していた。わずかの仕事が自分の小さな居場所を生み、生み出されたその小さな居場所が、時間の経過とともにその形のまま安定してゆくことに、鬱屈していたんだろうと思う」
ぼくは、うろたえた。全身に熱い汗が吹き、冷えた。なぜ自分がうろたえているのか、わからなかった。高天原と二人きりで、彼の個人的な話を聞くことにうろたえたのだろうか。
いや、違う。高天原の口にした鬱屈が、ぼくが受け止めることを拒絶してきた鬱屈と同じだったからだ。
「当時、その鬱屈をはらすために最も熱中した遊びは、同業の知人を彼らの両親や養育者と和解させることだった。……こういう業界に飛び込むことを肯定的に考えてくれる親はまあ、ひいき目にみて多くはないだろう。断絶なのか、離反なのか、とにかく自分の生育に関わった人間との葛藤を抱えている例は、少なくはなかった」
顔に血が上ってゆくのがわかる。
高天原はきっとぼくに当てつけようとしているのではない。ぼくの人生が別の場所で、別の誰かによって、ほとんどその趣向を変えずに繰り返されていたとしても、それは全く不思議ではない。ぼくは自分の苦悩の凡庸さを理解しているつもりだ。
けれど、ぼくの顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさだったのか、自尊心ゆえだったのか、ともかく周囲の暗さから、高天原には気づかれていないのが救いだった。
「何が最初のきっかけだったのかは忘れた。少し抽象的な言い方かもしれないが、私は彼らが発している臭みをかぎ取ることができた。いろいろな家族の形があった。私がそこへ出向いたこともあったし、言葉だけで用が足りる場合もあった。一番簡単だったのは両親か養育者がすでに他界している、もしくは最初からいないか、いないも同然の知人を”癒す”ときだったよ」
高天原は曲げた人差し指を唇に当てて低く笑い声を立てながら、”癒す”という言葉をことさらに粘るように発音した。
「私が理解したのは、心の中にしか無い情報は、簡単に上書きすることができるということ、そして人間の記憶はそういう情報だけで組み立てられているということだった。彼らの抱えている憎悪には、例え表面上そう見えたとしても、間違いなく裏返しの部分に、これまでの関係において起こったことをねじまげてまでの理想化を狂うように求める、わななく愛情があった。私がやったのは、斜面の手前にあるボールに軽く触れることだけだった。彼らは数年来、十数年来の憎悪を翻心してむせるような、ほとんど赤面するような愛情のプールへと次々に飛び込んでいった。乾ききった心に生じた無数の亀裂をとろけるような愛の蜜が湿してふさいでゆくさまを、癒しのドラマを、誰もが心から演じていた。その三文芝居のような崇高でなさに、私の鬱屈は深まるばかりだったよ」
高天原は肩をすくめてみせる。
「発信に向かおうと受信であろうと、この業界に関わりを持つ者は一分の例外もなく、養育者との情動面での関係性を欠落した者であろうと私は考えていた。軽蔑や思い上がりからの決めつけと思うかもしれない。だが、私ほどの深刻さをもって自身の生業がその果てに何を生みだしてゆくのかを知ろうとした人間がいないことだけは断言できる。私は、自分自身の仕事を肯定したかったのかもしれない。しかし結果は話した通り、私の推論を裏付けるものばかりだった。この業界を取り巻くものは作り出すことであろうと消費することであろうと、全く個人的な愛情と理解の代償行為に過ぎないということを私は確認することができた……あのときの自分の心理について、いまになってときどき考えることがある」
高天原はそこで黙った。
静寂の中、遠くから聞こえるのは、波音かもしれない。だとすれば、海が近いのだろうか。ぼくは高天原の車にただ乗せられてきただけで、ここがどこなのかもわからない。高天原がぼくをどこに運ぶのか、ぼくにはずっとわからないでいる。
少し考えるような間をおいて、高天原は続けた。
「つまり私は、もっと深くから汲むべきだと思っていたんだろう。個という名前の世界の果てを越えた瞬間に接続するあの場所から汲み上げたものだけが、発信するに足るものだとずっと考えていた。それが傲慢であることは、いまは多少わかる。歳を重ねるにつれて、そこへ接続できる機会も少なくなってしまったからね。だが当時は、自分の魂の表層にだけある傷口をかきむしり、そこから飛び散ったかさぶたの滓をかき集めて、体液をそのつなぎにして差し出すようなやり口に、嫌悪感を抱いていた。それは、もしかすると自己嫌悪に近いものだったのかも知れないにせよ――」
波音は聞こえなくなった。街灯にむらがる虫の羽音が奇妙に意識されはじめたからかもしれない。人間の意識は複数の事象を同時にとらえることはできない。現実の一部へ意識的にフックをかけることでしか、濁流のようなこの場所で自分へ意識をつなぎとめることはできない。人間は、元より世界を本当の形では理解できないように作られている。
しかし、高天原ならば。高天原なら、もしかすると――
「さて、面白いのはこの先なんだ。私の介入する和解の儀式を終えると、彼らはほとんど例外なく書けなくなった。それは感動と滑稽が等分に入り混じった、人生の本質のような不思議な有りさまだった。自分が全く普遍性の薄い個人的な絶望からしか汲んでこなかったことを知り、両親や養育者との対決姿勢にだけ人生の基準があった彼らが、書けなくなった自分を至極あっさりと赦して、そしてこの業界から去っていくんだ。原因となった私に涙を流して、礼まで述べて! 個人的な絶望や癒しなどで、世界をわずらわせてはならない。ましてやそれで口を糊しようなど、全くの本末転倒じゃないか」
高天原は街灯がアスファルトの上に作り出す光の輪の中に、まるでそこがスポットライトの中心ででもあるかのように踏み出した。
暗闇に沈んでいた彼の姿があらわになる。
サングラスをはめていない両目が、ぼくをのぞきこむ。色素の薄い瞳。
高天原がぼくを見るとき、彼の目がいつもぼくを吸い寄せる。喜怒哀楽ではない万もの表情を、高天原は目だけで作り出す。このときも高天原は喜怒哀楽のどれでもない表情を浮かべて、ぼくをまっすぐに見た。
「君がそういう種類の人間じゃないことを信じているよ」
高天原に出会ってから初めて――疑念と表現すると明確にすぎるだろう、得体の知れないおののきのようなものがぼくの全身を突き上げた。
それはつまり、言葉にすればこういうことだったのだろう。『高天原は、いったいぼくに何を求めているのか?』
ぼくの恐れに気づかぬ様子で、高天原は言う。
「覚えておいてくれ。私たちが相手にするおたくは、心の奥底から廃屋の雨漏りのように染み出してくる何か異常な想念に人生の最初の段階をとらわれていて、それが個性や才能であるかのように錯覚している連中だ。踏みにじられた尊厳の補償を求めるあまり、真っ先に放棄するべき人間性への侮辱の周囲をぐるぐると回り続けている。おたくは本質的に自殺と他殺を内側に抱えている。その衝動を自分と他人にとって物理的危害では無いものに昇華させる過程こそが、個性や才能と呼ばれるものだ。おたくとは自身の抱える内的衝動を、意識的には昇華できない人々のことだ。おたくたちは養育者に打たれた鞭の分、自分を打つか他人を打つかする。この打つ打たれるという二つの行為は正反対どころではなく、むしろ同じものだ。つまり母親にペニスを突っ込みたいと思うからそれを書き、父親にペニスを突っ込まれたいと思うからそれを書く倒錯が、おたくの正体だと言える。私がおたくを軽蔑するのはその倫理的な低劣さは全く関係がなくて、彼らが何ひとつとして自分の持ち物を昇華する過程を踏んでいないことに起因している」
パチッという音とともに、焼けこげた羽虫がゆっくり墜落してゆくのが見える。街灯の光が明るいからといって、不用意に近づきすぎたのだ。
「自分より弱い人間を刃物で刺す行為と、猥褻を書く行為は酷似しているように思う。ペニスを挿入するのとナイフを突き刺す行為の間に、実のところ違いはないんだ。最終的にどちらを選択するかは、現実への期待値がどこまで高いかが分水嶺になるのだろう。時代、という範疇を口にするとあまりに大がかりで、むしろ真摯な回答から逃げているような気さえするが、内在する病裡と病裡の現象化がひねった輪のように回転しているのが私には見える。私たちの足下を同じ濁った水が浸している。ある者は自らの才能で私たちを捨ててここから飛び去り、ある者は父親か母親の性器を詳細に記述し、ある者は少女か両親を殺す。水の浸っていない小高いところにいる者たちはほんの少数だし、その小高い場所でさえ、もうじき水は浸してゆくだろう。世界理解という至上目的は、知性による手段の増加によって際限なく複雑化してゆき、堆積してゆく知性そのものによって私たちの手の届かぬ地中へとうずめられてしまった。もはや人は本来の目的を喪失した無用物の知性では繋がることはかなわず、ただ病裡によってのみ一様化している。喉元へ水位が高まってゆくのを誰も避けようがなく、そしてそれを押しとどめる力もこの手にはない。ただ私が言えるのは――」
高天原の薄い唇の間から、真っ白な呼気が押し出されている。
ぼくは急に周囲の気温が下がったような気がして、コートの襟を寄せる。
ひどく寒い。
短く息を吸い込むと、高天原は小さくつぶやいた。
「癒されたり赦されたりするくらいなら、死んだほうがマシだ」
ぼくが聞いたと思った言葉は、遠くの暗がりから染み出すように現れたトラックの走行音にかき消された。車は高天原とぼくの横を通り過ぎてから減速し、街灯を避けるように数十メートル先の暗がりに停車した。後ろの荷台から何か大きなものが投げおろされ、続いて乾いた金属音がした。
高天原が駆け出すと同時に、トラックは再び速度を上げて走り去った。
ぼくが追いつくと、高天原は暗闇を見つめて立ちつくしていた。
ポケットから懐中電灯を取り出して、ぼくは高天原の見つめる暗闇を照らした。
はたしてそこには、木箱と先端の曲がった金属の棒のようなものが転がされていた。
高天原は金属の棒を拾い上げ、木箱の蓋に打たれた釘を黙々と取り去ってゆく。
雄弁の後には恐ろしく長く思える沈黙が降りた。
やがて高天原は棒を放り投げると、顎を持ち上げてぼくに促す。ぼくはほとんど脅えながら、ゆっくりと木箱の蓋を開けた。
中には大量のおがくずが詰められおり、その隙間から粘土のような質感をした物体がいくつものぞいていた。
ぼくは途方に暮れて、振り返る。変わらず、高天原はそこに立っている。
しかし、表情こそ崩さないが、その目は内心の押さえ切れぬ激情に輝いていた。
高天原はおがくずに手を埋めると塊のひとつを取りだして、言った。
「見ろ。これが人類の絶望の産物の一つであり、そしていまの我々の希望の依り代だ」
甲虫の牢獄(7)
影が長くなり、振り返った室内の空気は茜色に染まっている。ここに来るまで空気に色があるなんて、知りもしなかった。
高天原が卓袱台の上で丹念にぼくのノートを繰っている。ぼくは怖いような気がして、彼がそうするのを見ないよう縁側に腰掛けて外を眺めていた。庭に自生する植物の葉に、蝉の幼虫がうごめいている。
ふと視線をあげた先に、灰色のワゴン車が停車するのが見えた。小太りの男が頭頂部に手をやりながら、わずかに跳ねるような足取りで道を下ってくる。彼はいつものように土間へと入っては行かずに、そのまま縁側へ歩み寄ってくると、ぼくの隣に座った。こういう際にかける言葉を知らず、ぼくは目を見ないまま首をわずかに上下させて会釈の真似事をした。
小太りの男は肩越しに振り返って高天原の姿を確認すると、胸元から煙草を取りだして火をつけた。この家の中で、煙草を吸う唯一の人物だった。
「どこまで彼を理解してここにいるのかは、知らない」
細く煙を吹き出しながら、小太りの男は呟いた。それはほとんど独白に近いようなトーンだったので、ぼくは相づちをうったものかどうか逡巡する。
「高天原の動機とは、自らが存在するために生まれいづることを許されなかった者への贖罪であり――」
しかし、ぼくの迷いなどお構いなしに言葉は続けられた。
「普遍へと至る唯一無二の方策であるはずの自らの絶望が、彼の所属するジャンルの馬鹿げた包括性、あるいは倫理無視の内側に一切の過不足無く受け止められてしまうという苛立ちである。つまり、本質的にrebellionが不可能であるという苛立ち」
吸い差しを庭に向けてはじくと、ぼくの返答を待たないまま小太りの男は立ち上がり、土間へと消えていった。
ぼくはその背中を見送ると、再び室内を振り返る。
室内の空気と同じ色に染まる高天原の横顔。このまま彼が読み終わらなければいい。
しかし、やがて最後のページに到達した高天原はノートを閉じ、顔を上げた。ぼくは言われたわけでもないのに彼の前へと歩いていき、正座をする。
高天原はサングラスを外して、ぼくの目を正面から見た。
それはまるで、ここにいるぼくではなくて、これまでぼくが通り過ぎてきた人生のすべての瞬間をすべて眺めているようだった。いままで、誰もぼくをそんなふうに見たことはなかった。ぼくの上に訪れる誰かの関心は、路傍の石への興味に過ぎなかった。誰からも省みられないようにふるまうことこそが、ぼくの自己定義だった。
高天原は、しばらくそうやってぼくを見つめてから、ふっとため息をついた。
永遠に思える沈黙の後で切り出された言葉は、ぼくをすっかり動転させるに充分なものだった。
「君を連れてきたのは、失敗だったかもしれない」
みぞおちに重たい塊が生まれた。墜落するような感覚が膝を走った。
高天原を失望させてしまった、と思った。何を選ぶこともできなかったぼくは、期待させなければ失望させることもないだろうと考えてきた。そんな無意識の防衛が、高天原の期待を裏切ってしまったのか。
高天原は、ほとんど悲しそうにさえ見えた。
「君を見ていると、決心がにぶる。人は誰かを前にしてしまうと、憎しみだけを続けることはできないんだろう。どんなに憎んでいても、いつかは愛が誕生して、誕生した愛は永遠に続いていく。人の中には再生する力がある。例えば大切な人を傷つけ殺す悪鬼への憎しみさえ、いつか愛に変わっていってしまうのではないかと私は恐れてきた。私の生を決定しているのは、そんな破格の愛情なのではないか。私はずっと、誰も赦したくないと思っているのに。私は私のために、君をそっとしておいた方がよかったのかもしれない」
ぼくは本当に心からの誠実さで、高天原の求めるものに応えようとした。
だが、それはかなわなかった。喉元に痛みが溜まるのを感じる。
「君の書いたこのシナリオに、私はひどく感銘を受けている。予想以上のものだ」
言葉の意味が浸透するための空白。
関節をつなぎとめている何かが一度に消失するような脱力。
このときぼくは、高天原が伝えようとしているものの中身を理解しようともせずに、自分の勘違いが覆されたことにただ安堵を感じていた。
「君の世界は、とてもきれいだ。それは君だけの中で、一切が完結している。永遠の保留のきれいさだ。私は割り切れないものをどれだけ忘却せず、黒か白かの厳格なパターンに当てはめもせず心に保持することができるかが、世界をはかるものさしになると思ってきたが、それは私が現実を常に確定させたい人間だったからなんだろう。何ひとつとして確定したもののない君のこの話を読んで、私は自分をはじめて外側から客観的に眺めることができた。不思議なことだ。……君の書く”波紋”という考え方、実は私にはとてもよくわかる」
高天原は、ぼくがノートに書いた言葉を口にした。
水面に広がる波紋は弱い力だが、水面に浮かぶものたちは例外なくその影響の下にある。ぼくに日常を反復させる、目に見えないあの力のことだ。
「この世界全体を支配している何かは確かにあって、それは神と呼ぶほどには意志がなく、私たちを圧倒はしない。自由意志というのは、思考のための方便だとずっと思ってきた。私たちの生は、あらかじめ何かに規定されてしまっているのだから。”波紋”という言葉は、心を澄まさなければ感じないですむほどのその弱い違和感を指すのに、とてもしっくりくる。ただ思うのは――」
高天原は、ぼくの目をのぞきこんだ。
「君は実のところ完全に充足していて、何を足し引きする必要もないんだろう。君は幼児のように無垢で、乙女のように処女で、そして天使のように拒絶している。私はこのきれいなものを壊してまで、自分の仕事をするべきなんだろうか」
高天原はそこまで言うと、少し黙った。
その言葉の意味するところはわからなかった。ぼくは、きっとぼくのシナリオがまずいので手を入れるべきかどうか迷っているのだろう、と考えた。高天原は、ぼくに何かを伝えようとしていたのに。
「私は多少なりとも、君の世代に責任を感じていたつもりだった。歴史上の偉人と同じレベルの微細に至る感受性と思考回路を与えられ、私たちの内省の無いそろばん勘定に異常な性癖を開拓され、この世で一番貴重な魂を持った人買いの仲間たちが、永遠に向けて立ち往生をしている様子に、だよ」
言いながら、高天原の目の底に怒りのようなものが浮かぶ。
「君が”汚れた世界”と表現している場所は、本当は少しも汚れてなどはいない。君たちが、あまりに清潔すぎるだけなんだ。食肉目的の無菌室の豚のように、世界という残酷さの前に一方的な被害者として饗される運命なんだよ、君たちは!」
高天原が卓袱台を手のひらで一撃する。ぼくは突然の激情にふるえあがった。
だが、見たと思った高天原の怒りは、次の瞬間には消えてしまっていた。
指でまぶたを押さえながら、高天原が言う。
「……すまない。憎まなければ、私は動けなくなってしまうような気がする」
ぼくは意味もわからないまま、あなたが謝る必要はない、といったふうなことをもごもごと答えた。
「私が荷担しなければ、まだ何かが違ったのかもしれないと思い続けてきた。たくさんの人間を最上の技巧で、本人たちがそれと気がつかないままに不倶にしてきた。二度と復帰のかなわない場所へ陥れてきた。この世で一番重い罪、情状酌量の余地がない罪は、赤ん坊を殺すことだと思う。未来を殺すから、という意味ではないよ。赤ん坊たちの中にある、世界に対する無条件の、無上の信頼を裏切るからだ。私がやってきた仕事は、たぶん同じことだった。でもそれは、私があえて目を向けなかったところで、こんな小さなきれいものに結実していた」
高天原は、庭に目をやった。
「果たして、君たちは変わることができるんだろうか。心を枉げられて、君たちはなお生きてゆくことを選択するだろうか。君たちの世界はきれいだ。閉じているからこそ、君たちの世界はきれいだ。しかしそれが無理矢理に外へと開かざるを得なくなったとき、君たちの世界はまだきれいでいられるだろうか。私はもしかしたら、それが知りたいだけなのかもしれない」
高天原の声は、ほとんどつぶやきのようだった。
「私はこの世で最も卑劣な人間だ。私はいつだって、無邪気な扇動者どころではなかった。私は自分の意図が誰かの人格の上へどういう結果を結ぶか常に正確に把握していていながら、自分を制約することは一切無かった。私の罪は誰よりも重い。だから、誰からの同情の余地も、理解の余地もないようにすべてを運ばなくてはならない」
サングラスをはめると、高天原はゆっくりと立ち上がる。
「私はもう一度、憎むことから始めよう」
美少女への黙祷(1)
それは言わば、おたくたちの火葬だった。
生きながら炎に焼かれ、地面を転げ回るおたくたち。
やがて、おたくたちに向けて放水が始まった。放水をする者の表情に人を助ける崇高さはなくて、ただ隠しがたい嫌悪がうかがえる。それは火を消すというより、彼らを自分たちの方へ近づけないためのようにも見えた。
炎が消え、路上にくぐもったうめき声だけが残される。人々はただ遠巻きに見つめるだけで、あるいはお互いの顔を見合わすだけで、誰も近づこうとはしない。
焼けこげた衣類の残骸をひきずりながら、おたくたちの一人がよろめきながら立ち上がった。炎に焼かれながらも手放さなかったエロゲーの美少女が描かれたビニル製の手さげ袋は、熱で変形してしまっている。美少女の巨大な瞳は溶けて黒い眼窩となり、その頭蓋は異様なデッサンを更に大きく誇張するように歪み、口元に貼りつくその微笑は戯画的なまでに変形し、周りを囲む者たちを嘲弄している。
赤黒くただれた皮膚をつらせて、哀願にも見える表情で、そのおたくは一歩を踏み出す。
画面の外から、女性が悲鳴を上げるのが聞こえた。
無理もない。普段は秘し隠している、人間とは違う悪魔的な本質をそのおたくは白日の下にさらしているのだから。
何をもっておたくを定義するのか?
それは内側から発した、自己定義の問いなのだ。
おたくを定義しようと試みる者は、すべておたくなのである。
その異常な精神性は、おたくたちの外観をあなたたちとは違うものにしていて、あなたは見ればすぐにそれとわかる。あなたがおたくを見ておたくとわからないならば、あなたがおたくなのだ。牛は牛であることに疑問を感じ、苦悩しているのかもしれないが、人間から見れば、彼らは牛だというに過ぎない。言葉は一切必要ない。
取り巻く人々の群れから、一本のペットボトルがよろめき歩くおたくに向かって投げつけられる。よけることもできず、それをまともに顔面に受けたおたくはもんどりうって倒れこみ、動かなくなる。
あの事件の直後、ネットをかけめぐったホームビデオによるこの映像は多くの議論を巻き起こしたが、それはぼくに言わせればおたく同士の言葉の交換と、形を変えた自己擁護に過ぎなかった。
高天原を紹介する司会者の声とそれに対するコメンテーターたちの反応に、わずかに軽蔑の調子が含まれているような気がしてならない。ブラウン管に浮かぶ高天原の姿はいつもの絶対性から遠く、ひどく薄っぺらに見え、周囲を取り巻く負の感情に浸食させないだけの圧力を感じなかった。
「今日ここに呼ばれた理由はよくわかっています。欠席裁判を行わないため、あるいは安価の国選弁護人として、私はここに座らされているのでしょう」
加えて、高天原の話す言葉がスピーカーを通じることであまりに客観的に聞こえすぎてしまったので、ぼくは不安になってテレビを取り囲む男たちの表情を横目でちらりと確認した。彼らはいつもと同じような熱を帯びた視線で高天原を見ている。だとすれば、すべてはぼくの感じ方の問題であるのだろう。
昨日と今日は同じ日なのに、ぼくだけがいつも安定しない。あの日々の繰り返しのうちに、ぼくは自分の感じ方を世界へのものさしとして利用するのを放棄した。ぼくの中を満たす曖昧さは、現実を包むことはできても、測ることはできない。
だから、高天原はきっといつものように完全なのだ。
昨日、プログラム上の不具合がのぞかれ、高天原のエロゲー”甲虫の牢獄”は完成した。
ぼくの書いたシナリオはアイデアはそのままに、高天原の手よって大幅に改稿された。それでもぼくは満足だった。ぼくがずっと感じてきたことが、高天原の手によって完全な形に昇華されたのだから。ぼくは自分自身が高められたような気さえしていたのだ。
高天原は全員を呼び集めると、いつものように話し始めた。
「この一年間、私のわがままを受け入れる形での共同生活に耐えてくれて、本当に感謝している。君たちに家族のような関係を持ってもらうことが、私のねらいだった。それはきっと、直接的な形ではないかもしれないが、このゲームの持つ雰囲気になんらかの影響を与えているはずだ。実は、君たちのうちのひとりでもいやだと言えば、私はこの制作形態を断念するつもりだった。それもこれも、君たちが金銭上の契約関係を越えた何かを私に感じてくれたからだろうと、嬉しく思っている」
高天原は、”甲虫の牢獄”のプログラムが入った円盤を眼前へ掲げた。
「これからこのデータは小型ハードディスクへと無数にコピーされ、日本全国へと発送されることだろう。しかし、これは象徴にすぎない。私の革命は、この中には無い」
拍手がまばらに起こった。かすかなざわめきが続く。ぼくの後ろに立っていた男たちが、小型ハードディスクを配布メディアに使うことについての疑義を小声で囁きあっているのが聞こえた。高天原の発言に対し、誰かが直接ではないにせよ疑いを露わにする。それは異常なことのようにぼくには感じられた。そこにいた誰もが高天原の意図をはかりかねていたのだ。
高天原は部屋の隅にひっそりと控えていた小太りの男に円盤を手渡した。はげ上がった頭頂部に手をやりながら、男は部屋を出てゆく。本質的にrebellionが不可能である苛立ち。彼はあの言葉で何を意味していたのだろう。
「最後に、君たちに言っておきたいことがある」
ざわめきは消え、しんとした静寂が落ちた。
それはおそらく期待、だったのだろう。いよいよ、高天原はぼくたちに最後の言葉を言う。その言葉によって、ぼくたちの生は新たな段階へと革命されるのに違いない。
しかし、高天原は軽く下唇を噛んだまま、何かをためらっているように見えた。
不自然な沈黙の後にようやく発された言葉は、ぼくたちを失望させるに足るものだった。
「一週間以内に、ここを出ていって欲しい。この家の賃貸の契約が今月末で切れることになっている。それから、これまでの製作期間中と同じように、今後もこのゲームの制作に関わったことは口外しないようにしてくれると助かる。強制はできないが、少なくとも発売から一ヶ月、つまり」
誰もが困惑していた。高天原がまるで対等に、ぼくたちをどこへも誘導しないようにしゃべっているからだ。ぼくは自分の動悸が早まるのがわかった。
「このゲームの正当な評価が下されるまで、じっと見守って欲しいということだ。革命前夜の密告で、すべてが水泡に帰した例は、歴史上いくらでもあるからね」
高天原らしい警句に、ようやく安堵の笑い声が上がり、軽口が飛ぶ。
「発売日までの間、私は自ら広報活動に出ようと思っている。作品が私の手を離れて世に出る最後の瞬間、私は自分の能力への強い信頼に関わらず、この世で一番気の弱い人間になってしまうんだよ」
何人かが協力させてほしいと申し出たが、高天原は片手をあげて笑顔でそれを制した。
それから、奇妙にきっぱりとした調子で、こう告げた。
「私と君たちは、今日ここでお別れだ」
その晩遅く、ぼくは寝つけずに起き出した。台所で水を飲んでいると、かすかに誰かの話し声が聞こえた気がした。
土間をのぞき込むと、ボストンバッグをかたわらに腰掛ける高天原の姿があった。話している相手は、どうやら元山宵子らしい。高天原が厚みのある封筒を元山宵子に手渡しながら、何ごとか言う。ぼくのいる位置から、その内容は聞こえない。交わされた契約はわからない。元山宵子は、小さくうなずいたように見えた。高天原はバッグを手にすると、玄関から音もなく出ていった。
その場に立ちつくして、高天原の後ろ姿をいつまでも見送るようだった元山宵子は、やがてゆっくりと振り向いた。開け放たれた引き戸から土間へと差し込む月明かりを映して、元山宵子の両目はまるで意志疎通の不可能な動物のように輝いている。そこに立っているのが本人であることを疑う要素は全く無かったにも関わらず、ぼくの感情はそれが元山宵子ではないと告げていた。それがこちらへと歩いてくる。
ぼくはあわてて身を翻すと、皆が寝ている部屋へと駆け戻り、寝床に潜り込んだ。
二人はいったい、何を話していたのだろう。
あふれだす下衆な想像を振り払うと、ぼくは頭まで深々と布団をかぶり、眠った。
そして、夢を見た。その夢を見るのは、実に一年ぶりだった。
細長い岬を多くの人間たちが一列になって、粛々と歩いてゆく。
その左右は崖になっていて、底は見えない。
周囲を白いもやが取り巻いていて、見通しはほとんどない。
列を乱す者はいない。列を乱せば、墜落するしかないからだ。
進むにつれて、足下はどんどん狭くなってゆく。
ときどき、谷底へと落ちてゆくものがいる。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
次第に、周囲を取り巻いていた白いもやが晴れてゆく。
岬は先細りの果てに、ついにその先端へと収束している。
もうその先に道はない。
ひとり、またひとり、岬の先端から落ちてゆく。
黙って落ちてゆくものもいれば、泣き叫びながら落ちてゆくものもいる。
しかしどちらも、ただ落ちてゆくのだ。
やがて、ぼくは自分がその緩慢な行進の最突端にいることを知る。
ぼくは大きく後ろを振り返り――
そこで目が覚めた。全身が寝汗に濡れていた。
午前中に運送業者がやってきて、すべての機材を引き上げていった。トラックを見送ってまばらに室内へと戻ると、そこには早くも空漠とした雰囲気が広がっていた。
午後になると、元山宵子がいつものように制服姿で現れた。ワゴンを運転してきたのはあの男ではなく、知らない誰かだった。高天原さんにそうじを頼まれて、と彼女は皆に言ったが、一向に何かする様子もなく、相変わらず縁側で両足をぶらぶらさせていた。いくつか高天原の動向について質問があったが、彼女は曖昧な返事をするのみだった。ぼくは気づかれないようその横顔をちらりとうかがうが、それは昨晩のようではない、ぼくの知っている元山宵子だった。
日も傾き始めた頃、彼女は大きく伸びをすると、そのまま後ろ向きにのけぞるような格好で柱時計を見た。
黒い髪の先端が流れて畳に触れる。制服の下に長く伸びた細い肢体と、白い喉。
ぼくはあわてて目をそらした。
元山宵子はよつんばいにテレビまでいざってゆくと、スイッチを引いた。つまらなさそうにガチャガチャとチャンネルを回し、ある番組で手を止める。
「これって、もしかして高天原さんじゃないかしら」
元山宵子の声に、気の抜けたようにぼんやりとそれぞれのことをしていた男たちが、ぞろぞろとテレビの前へ集まった。
そしてぼくたちはいま、高天原を見ている。
「私はちょうど、みなさんの日常に不穏な影として再び現れはじめたにも関わらず、みなさんが生理的な拒絶以上の理解をできない人々とみなさんとの中間地点に立っているという自覚があります。どちらの、こういってよろしければ文化も理解し、それをある程度までなら通訳することもできる。ただ、私はいずれの利害にも与していないという点から、どちらにとっても積極的な外交官とは言えないかもしれませんが! さて、みなさんが好んで使われるあの呼称で呼んでしまうと、その単語の持つ負のイメージが私の説明を、あるいは私の説明へのみなさんの理解を歪めてしまう恐れがあります。ここでは、彼ら、とだけ呼ぶことにしましょう。みなさんは、できるだけ、彼らへの偏見を捨ててお聞きいただければと思います。私は、彼らとの関わりを考えずに、この時代を生きることの危険性をみなさんに理解していただきたいのです」
カメラが引いた際に映し出された他のコメンテーターたちが、明らかに鼻白んだ様子を見せている。きっと彼らが期待していた言葉とは遠いのだろう。再び高天原へと映像が寄る寸前、司会者の男が助けを求めるような視線をスタジオへ向けるのが見えた。
「彼らが求めているものを一言で表すとするなら、”自己憐憫を注入するための虚無の器”と言えるでしょう。彼らには思想も信条もありません。ほんの些細な日常での決断に、それを決定することが自分の人生へ深甚な影響を与えるのではないかと恐れて、巨大な課題と挑戦を感じて、彼らは判断を停止してしまう。選ばなかったものへの後悔に耐えきれず、永遠を立ち往生しているのです。彼らに唯一あるのは、意外に響くかも知れませんが、感情そのものです。彼らはその無感動の様相とは裏腹に、荒波のような内面の葛藤に常に揺さぶられています。全身の激しい痙攣が昂じて、それが周囲には全くの硬直にしか映らなくなっている、と言えばおわかりいただけるでしょうか。コマの回転が静止を生み出すようなものです。ですが、その感情は日常で私たちに選択を促す、物事に対する好悪の段階には達していません。好悪に基づく選択は思想の発端ですが、彼らの内側に他者へと向かう感情は存在しないのです。自己憐憫を中心にして、それを囲む衛星のごとく喜怒哀楽が旋回している。彼らの精神生活は人間のベースにある動物的衝動と言うよりも、外部刺激に向けての昆虫的反射の連続で成立しています。彼らの興味は自分以外には向かず、それゆえ外的な反応はすべて心を伴わない反射の段階に留まるのです。根本的に、みなさんとはその心の構造が異なっているのだと考えて下さい。外見の無感動さと、その応答の無機質さ、あるいはみなさんの仲間を装おうとしながら好悪を持たないゆえにいつも失敗する、あの奇妙奇怪な演劇的応答から推測できる以上の内面の差異が、みなさんと彼らの間に存在すると言っていいでしょう。昆虫的な反射と申しましたが、昆虫と違いますのは、これが問題をやっかいにしているのですが、人には境界があります。自分と他人を区別する境界です。皮膚や肉体のことではありません。我々の精神のことです。昆虫や動物の持つ個の境界というのは、例えば腹具合であるとか、発情期などの時期であるとかに影響を受けて伸縮する。ときに消えたりさえする。しかし、人間の持つ精神の枠組みは、決して消滅しません。この枠組みの強固さは我々の自己同一性への希求を保証しますが、同時にあらゆる感情の澱を逃がさないという意味合いも含んでしまうことになる」
高天原は淡々と話し続ける。その調子はあまりにも淀みがなく、誰も口を挟むことができない。彼の言葉は正しいからというよりは、ただ単純に他者を必要としていないので誰も後から言葉を加えることができないのではないかと、ぼくは思う。
「枠を破壊する、破壊しないまでも穴を空けて中身を抜き取る、それは一般の人間には極めて難しいことです。なぜなら自己同一性の否定と死への怖れ、両者は全く同じものだからです。つまり、いったん歪んだものを湛えてしまったなら、二度と美しく変わることはできないのです。不可逆ですから、どういう原因がその歪みを招いたのかを推測するのは無意味でしょう。みなさんが好悪に発する欲望を溜めているその枠組みの中に、彼らはそれぞれの所与条件に対応する反射を溜めこんでいる。昆虫的指光性でもって、尊大な自己憐憫を注入できる対象を求め続けている。彼らが執着できるのは、自己憐憫の投影を許してくれるものだけなのです。意志を剥奪されたゲームの美少女であるとか、社会的自我の形成途上にある少女などが彼らにとっての器となり得る。その意味で、私が私の生業として彼らに提供しているものは、闇夜に明滅する街灯のようなものでしかないのかもしれません」
室内は薄暗くなり始めていたが、誰も灯りをつけようとはしなかった。
「もしかすると」
腕組みをしたまま画面から目を離さず、プログラム担当の男がつぶやいた。
「高天原さんは、俺たちを裏切ったのかもしれない」
沈黙が降りた。その場にいる誰ひとりとして、その言葉に反応を示さなかった。しかし、それはその言葉を聞いていないというのではなく、全く反対の沈黙だった。その言葉は、あまりに皆の不安に答え、あまりに皆の腑に落ちてしまった。
ぼくは、こんな光景を一度見たことがある。
細く長く続いた呼気の後、掛け布団が上下することをやめる。眼前に冷えていく祖父の身体を前に、集まった親族は誰ひとりとして言葉を発さない。死んだ、と言うことができない。現実は言葉と離れた場所にあるはずなのに、言葉が現実をそこへ規定してしまうような、しんと静まった畏れを全員が共有していた。世界には、誰もがそれぞれの属する場所を越えて否応なく和してしまう特異点が存在する。
ぼくたちはそのとき、たぶんそこにいた。
ブラウン管の中で高天原勃津矢の演説は続いている。
「心を使わず、すべての事象にただ昆虫的反射でもって応答する。少し前の時代までは、そんなことは全くの不可能事だったでしょう。つまり、彼らにも多少の同情の余地はあるのです。けれどそれは、どんな大量殺人者であっても必ず弁護人はつくという意味合いでの同情でしかありません。心の傷、トラウマなどという観点から見れば、すべての人間はそれこそ何らかの理由から同情に値してしまうものなのですから。私が言うのは、みなさんを取り巻いているこの現実が、彼らにとっては心という名前の聖性を踏まえない行動ですべて足りてしまうという意味なのです。聖性という言葉を使いましたが、よりわかりやすく表現するならば、自分という存在が重要で無くなる瞬間を持てるかどうか、ということです。彼らにとって、そんな瞬間は絵空事のようにあり得ないのです」
高天原は言いながら、ゆっくりと右手を持ち上げると、自分の胸に当てた。
カメラがぐっと寄り、その姿が画面に大うつしになる。サングラスに照明が映りこんで、高天原の表情を読み取ることはできなかった。その顔は、無機質なデスマスクのようにも見えた。
室内の誰も、まだ一言も発することができないままでいる。みんな一縷の希望を捨てきれないでいるのだ。
しかし希望というのは、常に絶望への準備動作に過ぎない。
「誤解を恐れずに表現するならば、彼らはことごとく、圧倒的な何かに平伏する必要があるのです。暴力的に、無惨に、原型を止めぬほどに、引き裂かれる必要があるのです。彼らはもう、そんなところまで来てしまっている。彼らはみんな、不可逆なまでに破壊されたいと願っているのです。メディアに踊る陰惨な事件を見て、人間のまねごとで眉をひそめながら、その実うまくやりとげたその犯人と、もしかするとその被害者にさえ嫉妬を感じて、隣人の有り様を横目でチラとうかがいながら、自身の悪魔的な思考を悟られまいと声高な批判へ同じ調子でもって彼らは唱和しているだけなのです。自分が本当に死ぬのかどうかすら確かめることのできないほど孤絶した彼らは、もう飽き飽きしている尊大な自己憐憫と不滅性への確信の限界を見たがっているのです。カミソリの刃を手首に埋める深夜の少女たちのように勇敢ではない彼らは、湖の水面に立つ”波紋”のような現実からの穏やかな干渉へ昆虫的な反射を繰り返しながら、ほとんど新聞的言説でしかない人間の尊重という茶番を、完膚なきまでに蹂躙されたいと願っているのです……」
スタジオがざわめき始め、司会者のとってつけたようなコメントの後、画面はCMへと転じた。
気づかぬうちに、口蓋に張りついてしまった舌を引き剥がす。
高天原は、いったい何のことをしゃべっているのだろう? それは少なくとも、ぼくたちが作り上げた作品のことではない気がした。ぼくはテレビから視線を外すと、周囲を見回した。
「元山さんがいない」
沈黙を破った最初の言葉は、ぼくによるものだった。それは誰の絶望をも救わない、個人的な違和感の確認に過ぎなかった。誰もぼくの発言に答えようとはしない。その空虚さは、もう高天原はいないのだと強く感じさせるに充分なものだった。
元山宵子は、ぼくたちが高天原の演説へ釘付けになっているうちに、いつのまにかいなくなってしまっていた。
次の日になっても、彼女は帰ってこなかった。もう高天原との契約は終わったのだから、それは当たり前のことだった。ただ、最初に帰ってこなくなったのが、元山宵子だったというだけだ。
日が経つにつれ、ひとり、またひとりと出ていった。律儀にみなへ挨拶をする者もいれば、朝起きるといなくなっている者もいた。お互いに何の関係も無いぼくたちをつなぎあわせていたのは、高天原という絶対的な家長だったのだ。テレビ番組はひとつのきっかけに過ぎなかった。高天原がいよいよこの家に戻ってくることはないらしいと、残った者たちも気づき始めていた。
ぼくはと言えば、元山宵子がいなくなった日に高天原が二度と戻ってこないことを確信したにも関わらず、なんとなくぐずぐずしていた。高天原がずっとぼくの人生の面倒をみてくれるような、甘い錯覚が最初にあったせいだろう。だがそれ以上に、ひとつの大きな不安がぼくをとどめていた。
それは、言葉にすればこういうことだった。
あの場所に戻ったらもう二度と、出てこられなくなるのではないか。
そしてその果てに、今度こそ、殺してしまうのではないか。