猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

小鳥猊下・デプレッション

 デレを見られた瞬間に舌を噛み切って死ぬことで有名なあのツンデレa.k.a.小鳥猊下ですけど、この二週間で起こったことをいつもみたいな恨みがましい様子じゃなくて、沸点寸前の脳漿にわだかまる様々の感情を極力排して、客観的な情報だけを抽出して書いてみますね。

「久しぶりのマーベラス更新をしたら、mixiを訪れていた公称フレンドどもの訪問がぴたりと止み、nWoコミュニティに所属する1年間無言の唖鳥どもがひとり減った」
 
 本当に、私が何を言っているのかわからねーって思われるかしら。路上の自由業に一万円札を差し出したら大便を投げられ、授業中隣の子の下着にある大便を指摘したら先生に殴られる、そんな社会的不条理も、他人事として聞く分にはさぞかし愉快なことでしょう。でも、継母に見つからないよう電気を消した風呂場で深夜ひとり、ワンピースに付着した他人の大便を泣きながら裸で揉み洗いする私にとっては、全く冗談どころではないの。正直と誠実が報われない場所(ミクシィのルビ)にいるってことは、十分にわかっていたつもり。でも、私の中にある傷が、何度裏切られても試させるのね――愛を。

少女保護特区(1)

    おぼえておいて。一羽の鳥が砂を一粒一粒、大海原を越えて運ぶとするでしょ。
    砂を全部、向こう岸に運び終わったところで、やっと永遠が始まるのよ。
    まあ、それはそれとして、鼻をかんだら。  (カポーティ『冷血』 )
 奈良全体は、四つの部分に分かれていて、その一つには教育特区があり、もう一つには平城特区があり、三つめには、土地の人の言葉でポントチョウとよばれ、行政的にはただ鋳物特区とだけよばれる刀匠の居住地帯がある。京都のそれとは全く関係を持たない。特区内で最も人口の集中する「日本刀町」の名が人口に膾炙してゆくうち、自然と音声面での脱落を生じた結果と思われる。四つめは、青少年育成特区である。しかし、土地の人で公文書上のこの呼び名を使うものは、ほとんどいない。この地域は一般に、少女保護特区の俗称でよばれる。
 この四つの特区はお互いに異なった制度と特例措置をもっている。教育特区は名物無き県の無形品目を有形化するために、平城特区は天災無き県の歴史遺物を人災から保護するために、それぞれ大和川水系ならびに淀川水系とちょうど重なる行政単位の上に成立している。次に鋳物特区について、区全体がポントチョウの名で代替されるほど刃物の生産に傾倒してゆく過程には、少女保護特区へ隣接する地勢が人心へ大きく影響したとの推測が成り立つ。なぜなら特区内で許可証を得た少女は、異性というより同性に対する身の安全から、即座に武器をつかむ必要に迫られるからである。ここ五年に清掃局が公表した統計を参照すれば、許可証の発行から武器の確保までに死傷される少女の数が年を追って増え続けているのがわかるはずである。鋳物特区は新宮川水系、青少年育成特区は紀の川水系に位置する。
 わずかの米粒が、白濁した液体にふつふつと上下する。予が炊事の煙を目で追えば、上空を旋回するヘリの操縦者があわただしく無線機をつかむのが見える。町内に点在するスピーカーからは、サイレンの音が肉食獣のうなりのように低く長くしぼり出される。予は自分自身に出立を指令すると、橋の下の陣営へ輜重を残したまま、ビデオカメラを片手に大和川の浅瀬をかちわたり現場へと急行する。半刻の行軍の先に、身の丈の半分ほどもある鉄門扉を押し開き、まさに路上へ足を踏み出さんとする予の少女と遭遇を果たす。ちょうどビデオカメラの射程内にまで接近すると、何より視線を避けるため、予は自分自身に大地へと身を伏すよう号令を下す。たちまち左上にRECの赤い明滅を伴った視界は低くなる。風雨の状況によっては、予の少女が腰巻きにする布襞の内幕を暴露せん危険な位置である。予の軍団兵はたちまち闘魂たくましく猛りたったが、まだ時は来ておらぬと諫め、闘魂は内側へ燃やしたまま静かに待機するよう伝令をとばす。
 予の少女が大通りへと進発する。鳴り響くサイレンの音階が、一段階高くなる。町内報には決して記載されず、町議会での議題となることもないが、まぎれもない少女警報である。町内に徘徊する少女が一定数を越えたときに発令される。予はここに特区法の機能不全と人間世界の不実とを浮き彫りに見る。近隣の飼犬たちはあからさまな敵意を燃やし吠えたてる。ゴミあさりの猫は毛を逆立てると後も見ずに走り去る。青洟を垂らして街路に立つ少年をその母親が横抱きにして家へと連れ帰る。通勤途中の背広男は大きくひとつ震えると、視線の位置を悟られないようにサングラスをはめ、外套の襟をそばだて、命を運にまかせ南無三と駅へ駆け出す。民家の朝顔は小学生の観察日記を逆回しに見るように、しおしおと蕾へ返る。見慣れた朝の、緊迫した光景である。
 予は両腕で全身を引き上げるようにして、じりじりと這い進む。兜で防護した頭部の隙間から極度の緊張による大汗が頬を滴り、迷彩を溶かしながら大地へと垂れる。少女たちの発する熱気だろう、灼熱化した舗装道路の上へ色彩だけを残して、汗は瞬時に蒸発する。南北へ走る大通りはなだらかな傾斜を描いており、丘の上に作られた住宅街という地勢上、南へ向かうにつれてその勾配はますます深まっていく。油断なくビデオカメラを低く構える予の視界に引かれた地平は、立ち上る熱気にゆらいでいる。やがてそこから茶色い固まりがせり上がって来る。この距離では正体を確かめようもなく、予はただ手をこまねいて待つ以外の戦術を採用できぬ。やがて茶色い固まりは地平線から浮上を開始し、息詰まる数分の後、ついには人の形を成すに至る。見間違いようもない、少女である。安い染髪料に加え、継続的には手入れが施されなかったのだろう頭髪は、茶と赤と黒がまだらに混在しており、だらしなく開いた服の襟元は本来の白とは遠い垢じみた黄に変色している。最大公約数の受け手を想定し控えめに表現したとして、一斗缶を満たした弛めの排泄物を頭から行水したようにしか見えぬ。胸元や腹部から垣間見える肌は、予の軍団兵の闘魂をいつも烈々と燃え立たせる少女本来の質感からは、はるか遠い。たくし上げられた腰巻きの短さは、その布が本来持っていた文化的な定義を失うほど短く、風速というよりは単純に角度のみで陣営の内側に蓄えた具材を予に提供しそうなほどである。
 ひるがえって予の少女を言えば、すべての特性においてただ対極にあると指摘するだけでよい。二人の少女は相手を頓着せず道の端を歩み、まさにすれ違わんとする。予の動悸は爆発的に高まる。なぜなら、少女同士の邂逅がお互いへ無事な結果を残すということは、ありえないからである。顎と左肩で保持された携帯電話へ注がれる大きな音量と小さな語彙の発話が、人気の失せた大通りへ耳障りに響きわたる。その醜態を避けるため予の少女へとビデオカメラを振りむけようとして、予はある決定的な違和感を抱くに至る。先ほども述べたように、相手の腰巻きはその陣営内へ我々を深く誘い込む陽動の如く、しかし全く充分ではない粗雑さで仕上げられているのだが、それに反して上半身を覆う衣類はと言えば、これ手首にまで及び、特に右袖の布地はひどくすり切れている。暗示的にゆるめられたその袖口は、とても防寒の役目を果たしそうにはない。学習用具の不在が平らにしたのだろう革鞄を持つ左手首の袖口は、対照的に強く引き締められている。低い視界からのぞく画面を横切るように、陣風が丸まった紙くずを転がしてゆく。二人の少女の影は、まさに重ならんとする。
 さて、ここで奈良のみならず国土全体を覆う特区制度の根本について、若干の説明を加えておくことは、あながち意味の無いこととも思われないのである。Full Faith and Credit shall be given in each State to the public Acts, Records, and judicial Proceedings of every other State.「各州は、他州の法令、記録および司法上の手続きに対して十分の信頼および信用を与えなくてはならない」。合衆国憲法第四条第一節の引用である。特区制度の根幹は、米国の州制度と極めて近い。すなわち、特区内の法律に照らして下された決定事項の有効性は、当該の特区内に限定されず、他の特区においてさえ留保されるのである。先に述べた鋳物特区の隆盛は、人体を殺傷できる刃物の購入に所持証明を申請する必要がないという点の寄与するところ大であろう。特区設立の当初、たちまちやくざ者や、思春期の世迷い言に目の据わった少年たちが押しかけたが、彼らは依然、殺傷することをまで法を越えて許されてはいない。報道番組に他人事の悲痛を楽しませることはあれ、社会秩序を根本的に擾乱する存在ではありえない。特区制度導入の最黎明期であり、特区法の雛形となった合衆国憲法第四条第一節が、我が人民の持つ固有の性質と混郁した場合の結果を誰も予想しきれなかったとはいえ、青少年育成特区から少女たちへ認められる特権の莫大さは群を抜いている。特区内法の整備は各自治体の首長に預けられる部分が大きく、故に追試を行うものは誰もいなかったのではないかと推測できる。そして後に、我が人民特有の、根拠の希薄な相互信頼が産みだした結果に、誰もが青ざめることになるのである。
 大通りの向こうから、こげ茶色に塗装された大型車がやってくる。公式にはランブラーと呼ばれ、土地の人は陰で霊柩車と呼ぶ。清掃車と消防車を組み合わせたような奇妙なそのフォルムは、実のところ与えられた目的と完全に合致している。逐一破片を取り除くより、大量の水で洗い流してしまう方がはるかに効率的なケースも多いからである。カラーリングの起源については諸説あるが、付着した血液が渇いたときに目立ちにくいという説が最も理に適うところではないか。屋根部分に据えられた手すり付きの足場には、妙齢と称すべきだがそのじつ高齢の女性局員が手ぐすねを引いて待ちかまえる。無数のカーラーが埋まり更にネットで固定された紫の頭髪と、湿布薬の欠片が未だ生々しく残るこめかみは、この召集がいかに緊急のものだったかを予へ語りかける。その視線は老眼に厳しく細められ、まさに歴戦の古強者といった風情である。この仕事は一般に不名誉なものとされるが、その高給のためだろう、少女たちとの邂逅へ想像逞しくする夢見がちな無職青年の志願は後を絶たない。しかし、最初の出動を終えての離職率は9割を越えるとの調査がある。詳しい理由は不明だが、どの地域においてもやがて妙齢で高齢の女性が構成メンバーのほとんどを占めるようになるという。
 予が清掃局の車両に目を奪われた一瞬のうちに、すべては始まり、終わる。相手の少女が平手を打つように右手を跳ね上げる。予の少女が一瞬、上体を沈めるのが見える。何かが陽光を反射させる。腰巻きの布襞が風をはらんで膨らむ。鋭い金属音、潰したゴムホースの先端からするような水音がわずかな間をおいて連続する。両者の身体はいつの間にか入れ替わり、予の少女はすでに血煙の向こうにいる。茶色い頭髪に覆われた左耳の下から水平に血が噴き出している。その勢いで身体をよろめかせ、縁石に足をとられて車道へとまさに転倒せんとするところへ、乗用車が猛然と走りこむ。運転席の男はきつく目をつぶり、ただアクセルを踏み込むばかりで、眼前の障害物に気づかない。少女警報のただ中、車を走らせる必要に迫られた自暴自棄は、あながち首肯できない理由ではない。速度と続く衝撃に千切れた首は、フロントガラスの角度によって真上へと高く跳ね上げられ、主人を失った胴体は布襞をタイヤへと引き込まれながら、人の形を崩壊させる過程で前輪をロックさせる。制動を失った車はたちまち対向車線へと流れ、電柱に激突する。予が目視で確認できたのは以上であり、これより記述することは、予の優秀な子飼いであるビデオカメラに提供させたスロー再生機能で知ったのである。
 予の少女が通学鞄と共に捧げ持つ竹刀袋の先端は、熊の顔をデフォルメしたキルト製カバーで覆われている。相手の少女はすれちがう最後の瞬間に、明確な意図をもって歩幅を広げる。大きな動作で振り戻された右腕から滑るように短刀が出現し、それは鞭のしなりをもって驚異的な速度で跳ね上がる。キルト製の熊が口を開け、咆哮する。一つ目の斬撃が小さな弧を描いて手首を切り飛ばす。一撃目の勢いをそのまま重力方向へ預け、身を沈めながら予の少女が回転する。一瞬、風をはらんで腰巻きの布襞がふくらむ。陣営の内幕を垣間見、烈々と闘魂を燃え立たせた軍団兵は予の身体をわずかに浮上させる。その上昇は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。先ほどより高い位置から画面をのぞき込む予の視界で、鋭い踏み込みからなされた二つ目の斬撃が、最初より大きな弧を描いて相手少女の左耳下部を通過する。キルト製の熊が口を閉じ、鍔鳴りが高く響く。小さな円と大きな円から成る二つの斬撃は、完全に一連の動作として繰り出されている。加えて、予の優秀な子飼いの機能をもってしても刀身を残像にしか確認できないほど速い。
 霊柩車から飛び降りた女性局員へ、予の少女は学生鞄からパスケースを取りだし、許可証を提示する。老眼に目を細めつつ顔写真を確認すると、パスケースを叩きつけるように投げ返す。運転席には恐ろしく似通った容貌をした、しかし別の女性局員が座っており、やくざに無線をつかむと、清掃局独特の符丁で少女殺人発生の旨を短く通達する。女性局員は大股に歩み寄ると、漆喰壁に刺さった手首を短刀ごと引き抜く。続いて泣き別れの胴体を車の下から引きずり出すと、足を掴んで粉砕器へと投げ込む。回転を始めた巨大ブレードはめりめりと音を立てて、迅速な焼却を目的に、すべてを細切れへと分解する。もう一方の女性局員はホースを腋の下へ固定し、大通りへ向けて放水を開始する。舗装道路へ濃く広がった赤い染みは、たちまち希釈されて下水口へと流れてゆく。
 何ひとつ大事は無かったかのように、予の少女は大通りを消失点の彼方へと遠ざかってゆかんとする。予はその最後の後ろ姿を逃すまいと映像の倍率を高めるが、そこへ茶色い頭部が突き刺さった。それはちょうどコロンブスが卵を立てたのと同じ手段で逆さに屹立したため、飛び散る黄身と白身――修辞的には――がひどくレンズを濡らす。その顔面は半月と半月を未就学児が戯れに貼りあわせたようにもはや完全な球から遠く、左右の瞳が向ける視線を延長したとして同じ物体の上には永遠に交わらないであろうと思われる。予の視界はたちまち沈下する。その下降は、おそらく日本人男性の平均値程度だったにちがいない。歩み寄ってきた女性局員は見下すような一瞥を予に与えると、突き刺さった頭部を片手でわしづかみにし、ハンドボールの要領で粉砕器へと投げ入れたのである。

ゴートゥNWO、ゴートゥNWO

 貴様らがあまりに物欲しそうな顔で見上げるものだから、『少女保護特区』ブチ込んでやったわい。例によって続きもので、すでにオレの中では完結しておるが、次の鬼子を地獄へ堕胎させたいならば、積極的に貢ぐがよい。悪魔の金銭関係を持たない貴様らからは、賞賛と萌え画像のみを貢ぎ物として受け取ってくれるわー!!

小鳥猊下・エクスクラメーション

 世代の特徴と言うべきなのだろうか。某SF漫画を遅ればせに読んで、考えた。憎悪で膨らんだ世界観が愛で救済されるときの鼻白みと腰砕け、憎悪が漂白されれば残された解答はまるで宗教のようになり、宗教のようになれば語るべきは失われ、自壊あるいは拡散して物語自体が消滅してゆく。宇宙と対峙しながら、個人の内面へとその極大を押し込める。文化と歴史を前提としないからこそ、愛が憎悪を救済できるのだ。それに気づいたとき、小生思わず悶絶し、深く反省をした。完全に全き状態を到達地点に想定する、その錯誤は虚構の中にしかあり得ないと気づいたのだ。特定の人間関係の中で特定の課題へ繰り返し取り組むことは、個人の中のある部分を助長し、ある部分をより深く所与命題に適合するようたわめ、そして確実に必要ないがゆえに消滅してしまう人格の部分を持つということである。その失われる部分が悲しい口惜しいというのは、人間であることをどこかで拒否しているということだ。私が更新も無いままサイトを閉じようとせぬのも、変わりゆく自分への悲しみゆえなのかも知れない。しかしそれは一種の引きこもり的錯誤なのだ。繁忙期も過ぎつつあるし、そろそろ次をお見せしたい。いわば人外の獣がする同族殺しへの悲鳴である。

小鳥猊下・リアライゼーション

 DiabloIIというゲームを断続的にかれこれ5年くらいプレイしている。ウィザードリィ式の、キャラ育成とアイテム収集がキモのオンラインRPGである。オンラインでありながら30分ほどで区切りがつくので、寝る前に少し遊ぶのに最適だ。常に一人でプレイする。ネットに接続しないキャラクターを作成することもできるが、常にオンラインでプレイするキャラクターを選ぶ。これはやはり心のどこかに寂しさを感じている証拠だろう。ゲーム内のアイテム資産がある程度になると、途端に興が冷めてプレイを止めてしまう。このゲームは一定期間のアクセスが無い場合、キャラクターがサーバーから自動的に消去される仕組みになっている。しばらくぶりの接続ですべてのキャラクターが集めた資産ごと消去されてしまったことがわかると、私の心はもぞもぞと落ち着かなくなり、また一からプレイを再開してしまうのだ。そんなときいつも、エヴァンゲリオン劇場版の砂場のシーンを思い出す。砂山を作っては壊し、作ってはまた砂山を壊す。何かを強く求める気持ちはあるが、手に入れたものを維持することがどうにも難しい。きっと、私の抱くこの曖昧な感じも、幼児期の体験で説明がついてしまうのだ。つまり、何かが壊れている。そして、壊れている自分をまるで壊れていない人のように見せかけるのが、最近のお気にいりである。相手や状況に対してわずかでも余裕を、あるいは優越を持てれば、見せかけるのは至極簡単な作業だ。しかし、壊れてない人のように振る舞うとき、色川武大の小説にある「大勢の前で難詰されて絶句する」瞬間が脳裏をよぎることもある。壊れた自分を否応に衆人環視へさらされ、皆がその残骸を指さして行われた詐欺行為を難詰し、私はもういつものように装うことができなくなって、ただ絶句したまま立ちつくす。その様をありありと想像できる。絶句することを待っているのか、恐れているのか、すべての情感は歳月のうちに渾然となって、もはやどちらとも言うことはできない。
 エヴァンゲリオンが再び劇場作品として制作されるという報を聞き、劇場の座席で失望していない自分を想像することができないでいる。あの記憶は人生の最も繊細だった一時期と重なり、ある部分では抜きがたく癒着しているので、いまの私が以上の感慨を得られるはずがないと疑うのである。それは、私自身がすでに何かを真実受け入れるための「時期を逸している」ことへの自覚と同義なのかもしれない。

小鳥猊下・コンフェッション

 たまにしか書かないと思われている私だが、本人の意識を告白するならばたまにしか書かないどころではない。mixiをはじめとした諸君の私生活に関する記述を閲覧する毎日、痴呆老人の妄言の如き意味を為さぬ諸君の猥雑さは一瞬のうちに私の脳を沸騰させ、そして、誰かの人生が私を抜きに問題なく過ぎてゆくことへの憤りに目もくらむばかりとなる。頭蓋に吹き荒れる罵詈雑言は人間の発声器官程度の強度では到底不可能な高速黒人ラップの様相を呈し、それらを余さず書き留めることは「右足が沈む前に左足を、左足が沈む前に右足を」という例の水面歩行術の論理展開と同程度の困難を伴う。つまり、記述というステップが伴わないだけで、ネット上に普遍在する私は常に諸君の繰り広げる痴態を観察し、耳骨を震わせた瞬間に悶絶、恥骨を震わせた瞬間に昇天するような罵倒をブチ込み続けているのである。生産しないが行われるという点においては、諸君のオナニーと何ら変わるところはないとご理解頂きたい。たまに顔を出せば、それを結実しないセックスに消費されるカロリーを婉曲的になじる姑のように責められるのだから、たまったものではない。
 また、nWoにおける分析的な言辞からだろう、私は客観的に物事をとらえ過ぎると思われているようだ。しかし、私の弱点とは言葉で客観的に自己の性分を追い詰めながら、最後の最後で自分を憐れむことをやめられない点にある。私の更新は、私の自殺と完全に同義である。自死の試みに諸君を感情移入させ、私=諸君の首に腕を回して扼殺するその寸前に、息の根を止めるはずの最後の一締めをせずに力を緩め、酸欠で半身不随となった諸君の額に優しく接吻をする。籠城する犯人に愛情を抱いてしまう人質と同じ種類の感情が、おそらく私に寄せられる好意の正体である。精神を持つあらゆる有機物が避けられぬ生を志向する作用を、恣意の範疇、論理によって完全に圧殺する目的から、nWoのすべての更新は為されている。ここに私が存在して、何らかの形で発信が続いているという事実を見れば、自己を対象化する究極の客観性が私の上に完成されていないことを何よりの証拠として言えるではないか。死にきれない私の擬死に幾度もつきあう諸君の、一種異様な献身には同情を禁じ得ない。諸君は、散弾銃を持った銀行強盗犯の私が諸君の両足を撃ちぬくのみで命までは奪わなかったことに感謝するよりも、私がいなければ傷つけられることの無かった大切な何かをこそ悼むべきではないのだろうか。

小鳥猊下・クォーテーション

 今日、見知らぬ婦女子からメールをもらったんです。アドレスはおろか名前すら記載されていませんでしたが、婦女子に違いないことだけはわかりました。匂いがしましたから。そこにはこう書いてあった。「萌え画像が欲しければ更新してください」。
 婦女子から更新を脅迫された日には、朝昼晩、オナニーを三回やることにしているんです。そうして握り拳を恥骨へとふりおろしながら、自分に果たしてその婦女子から萌え画像を受け取る資格があるかどうかを考えるんです。見てのとおりぼくはたいへん文章がうまいです。でもそんなことはたいしたことじゃあない。生まれついた言語センスの賜物だし、ただの天才です。語彙の選択なんてそれこそ天性のものなので、何か賞賛に足る努力があるわけじゃない。ただ――ぼくは性格もいいんです。ぼくのサイトに想いを寄せてくれている婦女子たちの中で、はたして何人がぼくのこの性格のよさにひかれてくれているのだろう。
 しかし、またある日ぼくは思うんです。雲子萬子、あんなひどい更新ばかりをして、自分の性格がいいと思うなんて傲慢なんじゃないかって。でも自分の傲慢さが許せないと考える自分に気づいて、ああぼくって何てかわいいんだろうと思うこともあるんです。だけど自分の傲慢さが許せないと考える自分がかわいいと思うのはやはり傲慢であるような気がするし、自分の傲慢さが許せない自分をかわいいと思うのを傲慢と思うのって、やっぱりいじらしいと思って。そんな自分がたまらなくかわいく愛しくなって、夜中に時々ぼくは自分で自分を抱きしめたくなるんです。
 ――すみません、突然見知らぬブログ閲覧者のあなたに変なこと話ちゃって。こんな自分の弱さは和服美少女が漕ぐ舟に乗せて、電子の海に流してしまいたくなります。

小鳥猊下・コンフュージョン

 真逆のことを同一だと指摘する表現に神秘や哲学の深淵を錯覚する人間精神の構造に”神狩り”の論拠と同程度の深さで神の実在を解明する一端があると信じているが、それを精査するのに私の日常はあまりに生活であったりアルコールであったりセックス&バイオレンスであったりするため、諸君は与えられたこの命題から各個、神へとたどりついてくれたまえ。

 「売春婦がこの世で一番処女だ」
 「暗ければ暗いほど明るい」
 「平和の方がよほど戦争だ」
 「捨てることは拾うことだ」
 「地震の時の方が揺れない」
 「一見薄い方が、実際はぶ厚い」
 「素面のときの方が酔っている」
 「小児性愛者ほど、大人の女性を愛する」

 nWoでも記述したと思うが、人間の脳は意味づけをする装置であり、一見した両者の隔絶が深ければ深いほど、そこへ意味の橋渡しを行おうとする働きが活性化される。上記の実例(いま思いついたほんの一部に過ぎず、無限に作成が可能である)を読んで、貴君は「なぜ?」と思考することを強要されたはずだ。宗教の提示するテキストに、この類の対立項を含んだ一文はあまりに多い。つまり「なぜ?」への解答が脳髄に染み出す寸前の無意味の間隙にこそ、神は潜み居ると言えるのではないか。無論、妄想かつ放言であるので、貴君は今日をまたいでまで気に病む必要はない。

 最近、「愛され+名詞」という宣伝文句を多く眼にするようになった。資本主義がこのコピーの有効な消費者層の拡大に気づき、彼・彼女らの異常性を稼ぎに利用しようとする姿勢の裏にある無差別の冷酷を見るとき、私は恐怖に立ちすくむしかない。あと「お帰りなさい」と言わないで下さい。私はずっとあなたの後ろにいるのですから。

 蛇足だが、mixiの日記を記述する際、文章は比較的吟味する性質なので、タイムアウトとやらで消去されたことは数知れない。更新が少ないとお嘆きの貴君は、そういう不幸から電子の藻屑と化したテキストが少なくないことを心に留めておいて欲しい。

小鳥猊下・リハビリテーション

 変則的な夏期休暇に縦縞のステテコ一丁で乳首から生えた、率直に形容して“陰毛”しか当てはまる語彙を人類は持たない毛を引きつねじりつして過ごす、平和の負の部分をビジュアル的に余すところなく体現したあの気だるい午後、赤と青のまだらタイツ男が帰還する例の活劇を見に出かけた。非常に繊細で隅々まで配慮されたシナリオに、タイツ男の抱える深い葛藤を改めて痛感させられる結果となった。断定せぬ曖昧な姿勢と、状況の限定による本質の回避が活劇全体の基調となり、見る者は否応なくタイツ男の苦悩をそのまま彼が体現する某国家の苦悩へと読み替える見方を強要されてゆく。某国家であることは確かながら、具体的にどこなのかを特定させない違和感に満ちた街並みに、この活劇があの二つのビルの倒壊する前なのか後なのかさえ、はっきりと言うことができない。懐かしい敵役の「ローマ帝国は道、大英帝国は船、アメリカは核爆弾……」という長口上は、三段階目の論理飛躍にひやりとした瞬間、最後の台詞の尺を短縮することでやんわりと収束する。致命的な部分に踏み込めないのだ。タイツ男は迫り来る大小の厄災を次から次へ食い止めるのみで、例えその元凶が手の届く範囲にいようとも、先制攻撃を行うことを禁じられている。悪漢たちがどんなに殴り蹴ろうとも、決してタイツ男は自ら拳をふりあげることはしない。あまりにも明快な暗示。かつての声高なポリシー、”American way”は”Put it in a right direction.”と控えめに換言され、劇中の少年との関係はすべてほのめかしに終始し、一語すら“その事実”が明示されることはない。契約の国の言葉はいかにささいな内容であれ、我々が思う以上に誓約し束縛するからか。いや、まだ弱い。結婚を前提とせぬ男女の婚姻に対する宗教的嫌悪に配慮しているのだ。なんというデリケートさだろう! そして、「紛争やテロが各地で頻発するこの時代に、たった一個のスーパーパワーの存在が意味を持つことができるのか?」という必然の問いには、物語上の技巧を駆使して限定付きの回答がかろうじて与えられる。タイツ男が体現するものに想像を及ばせれば、回答は「意味がある」以外にあり得ないのは自明である。その“正答”を肯定するために「誰一人として死なせない」、「ただし、彼の能力にできる範囲で」という大前提の下に、すべての災害は意図的にプログラムされる。押し寄せる高波、地の奥底から響く鳴動、しかしそれは観客の心拍数を高めるための小道具に過ぎない。我々はすでに現実に数多くの破滅を見てきてしまっている。我々が見てきたようには、大地は裂けもしなければ盛り上がりもせず、ビルは倒壊にほど遠い地点で窓ガラスを控えめに割るのみである。タイツ男は落下する看板を受けとめ、ただ一箇所から迫り来る炎を吹き消す。それだけで決定的な破局は尻すぼみに収束する。回答が与えられる。タイツ男は世界に必要だと。無論、良心的な観客からの喝采は得られない。しかし、今作における最大の回避はそこではない。「現在この世界で、いったい誰と戦うのか?」という当然の帰結に対するものである。タイツ男は体現し、象徴している。だからこそ彼は、円月刀の刺突を大胸筋でねじ曲げて、大量のプルトニウムを地下貯蔵するモスクを岩盤ごと宇宙空間に放り投げてしまうことは、暗黙の要請から許されないのだ。彼の敵が“旧作から引き継がれたSF的設定”となったのも、シナリオを吟味し尽くした上の結果ではなく、徹底的に選択肢を奪われた末の残骸であるに過ぎない。自らが体現するものの中身から、戦う相手を指名することの許されぬ永遠のチャンピオンは虚構の中でのみ安心してピンチを味わい、その全能のパワーを行使することができる。もし万が一、次回作が制作されるとするなら、私の興味の焦点は一つしかない。
 「いったい、この世界で誰を“敵”と名指しするのか?」

 余談だが、某監督の息子が制作した某戦記も見た。婉曲表現を許して欲しいが、私はピュアウォーター某のナニもアレしたいほどの原理主義者なので、自分語りだけにとどまることのできる外殻のみを書く。この活劇の中で発生する感情はすべて言葉によってトリガーされている。心の一番深い部分の動きが、行為や体験によってでなく、言葉によって引き起こされている。私もそうだ。そこに共感した。より正確に言えば、同じ病の患者が持つ憐れみ、負の連帯を感じたのだ。「重要な場面が人物の台詞だけで展開する」、「言葉じゃなくて主人公の行動で説得力を持たせて欲しい」。たぶん、それは私たちの中には無い。

お久しぶり!

ほんの一ヶ月半ほど更新しなかったら、見事なほどマイミクという名付けの他人たちがここを訪れなくなった。現金なものである。慇懃無礼という言葉がこれほど辞書的な定義そのままにぴったりと当てはまる行為も他にあるまい。たまに迷いこむ新規の来訪者には、狂人が下半身を露出して繁みから飛び出すが如く必ず踏み返しをするが、今のは下の毛の「ブッシュ」と奇襲の「アンブッシュ」で韻を踏んだ高度なギャグだが、誰ひとり私に話しかけようとすらしない。これだけ娯楽のあふれる中でnWoにのみ執着を与え続けるのも逆に奇妙と言えるかもしれないな、などと発言することで久しぶりの日記更新におずおずと薄ら笑顔でやってきた諸君の罪悪感をのぞいてやろうという気持ちは、残念ながら毛頭無い。先ほどのブッシュつながりからこの毛頭は陰毛の先端部と解釈するのが妥当と思われるが、私は相対化された愛情などいらないのだ。最近、全く虚仮にされることが多い。この場所の存在意義をそのまま否定するような土足で一方的に上がり込んで声かけすら無い不躾なやり方、契約の不履行に対する異議申し立てにほんの事務的な返答すら無い軽視に満ちたやり方、通り過ぎる者の一時的な関心だけを引きながらいないもののように扱われる、まるで私は見せ物小屋の檻の中の奇形のようだ。実のところ次回更新も完成しているが、アップロードする気になれないのは、際限の無い底なし沼へ投棄することへの空しさが何より大きい。苦しみの無い場所で安閑と読む物語は、例えその物語がどのようなものであれ、ハッピーエンドにしかなりえないのではないかという気が、最近はする。インターネットに耽溺できる君や私は、生き物として全く不幸どころではない。どれだけ不幸を描いても、ここではすべてが幸福のうちに受け止められる。現在の私の気持ちを端的に言うとするなら、「あまりに反応が無いので強く後頭部から殴ったら、その場に倒れ伏して動かなくなってしまった」誰かを見るときの青ざめた感じである。決して刃物で刺したつもりはなかったということだけ、最後に付け加えておく。

いよいよ一日の来訪者が100を切った。これが50を切れば私は長年(といっても七年程度だが)胸に秘めていたことを実行に移したい。もっとも、それが引き起こす結果はおそらく君の人生を少しも揺るがすようではないだろうと確信できるのだが。