猫を起こさないように
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小鳥猊下

小説「三体(第3部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想
 小説「三体(第2部)」感想

 三体第3部をようやく読了。いま調べたら、第2部を読み終わったのが昨年の8月なので、ずいぶんと間が空いてしまいました。この原因は「七夕の国・友の会」という同人誌へ寄稿の依頼を受けたことです。最近は「テキストで、読んだ相手をうちのめす(五七五)」という初期動機がだいぶ薄れてきて、「将来の自分のために、時系列で感情の軌跡を残す」方向へと軸足が移りつつあります。その同人誌の原稿の中に、三体の第3部を読んでいる途中であることを書いてしまったので、「他者への公開は感情の時系列」というハウスルールを守るために「このテキストが発表されるまでは読了できない」という、ハタから見ればまったく理解できないであろう謎の制約が生じたからです。同人誌そのものは今年の1月に世へ出たのですが、それまでに三体第3部を読んでいる途中だということを、すっかり忘れてしまっていたのでした(みなさん、これがアルコールへ充分に脳味噌をソークさせた場合の、中年期以降の記憶力です)。

 第2部感想の最後に「ストーリーはきれいに終わってるし、この先は何を書いても蛇足じゃないの?」みたいな疑問を呈していましたが、大陸の文化から長く断絶されていたゆえのナメた発言だったことが、第3部で明らかとなりました。ご存知のように、昨年8月から今年1月までに起こった私的大事件は、原神インパクトとの出会いです。このC(CHINA)RPGを通じて、限られた人間関係の社畜な日々に加えて、偏ったタイムラインと国営放送のニュースに影響され、知らぬうちに構築されていた偏見未満の思い込みのようなものがすべてふっとび、長らくぶりに大陸文化への畏敬が復活したのでした。それはまさに「蒙を啓く」という表現がピッタリの精神的なパラダイムシフトで、「どうせ剽窃ベースの低いクオリティだろう」という傲慢な侮りが抜けた状態で三体第3部の残りを読めたことは、怪我の功名ならぬ同人誌の功名だったと言えるでしょう。

 このC(CHINA)SFを通して読んだいま、私はこの第3部がいちばん好きだと断言できます。物語規模で言えば、誇張抜きで人類史上最大のものとなっていて、本邦で類似のものを挙げるなら、小説だと「神狩り」や「百億の昼と千億の夜」、映像だと「トップをねらえ!(6話)」「劇場版グレンラガン螺巌篇」と同等か、それ以上のスケールなのです。「荒唐無稽なハードSF」、あるいは「ハードSFなのに荒唐無稽」とでも表現しましょうか、この狭い列島に住まう神経症のサイファイ作家からは逆立ちしても出てこない類の作品で、「科学考証や物理学の正確さ、さらに自身で張った伏線さえ、ドラマツルギーという熱量の前には膝を折る」展開が次々と繰り広げられ、水滸伝や封神演義のハードSF版とでも形容すべき豪快な中身に仕上がっています。いつも通りネタバレ上等でしゃべっちゃいますが、ビッグバンからビッグクランチに至るまでの時間軸で展開する物語は、この地球上に存在するどんな人間のどんな苦悩をも相対化の果てに無化できるスケールで、「日々の重責に圧し潰されそうな人物」ーー例えば、世界最強の軍隊を有する民主主義国家のビッグ統領とかねーーほど楽しく読めるというか、気が楽になる効果は確実にあると思いました。

 第1部にヤン・ウェンリーが歴史上の偉人として出てきたのにのけぞった話をしましたが、「いま持てる知識を総動員して、元ネタが割れるのを気にする節操は捨てて、己の生きたすべてを作品にブチこむ」書き手のようで、「あ、これは『100,000年後の安全』を見た衝撃を作品に入れたかったんだな」とか、ストーリーの端々からナマっぽい気配が立ち上がるのも、まるで作家本人と対話しているようで面白かったです。個人的に気にかかったのは、これだけの時間スケールを伴った作品であるにも関わらず、「生病老死の否定」が寸毫も含まれないところでしょう。これは原神のストーリーにも強く感じる点で、「不老不死を肯んじない」というのは大陸文化における何か哲学的教養なのでしょうか(有識者からの解説を求めたいところです)。正直に言えば、特に下巻へ突入してからはあまりに日常から離れた情景を描写するため、頭の中に映像を浮かべるのが難しい個所がいくつもありましたので、ネットフリックスでのドラマ化には大いに期待しております。

 ただ、どこで物語のピリオドを打つのか最後の数ページまで予想がつかずにドキドキしながら読み進めたのですが、結末部分だけかなりの肩すかしと言いましょうか、小説的技巧に走った終わり方になっているのは少し残念に思いました。まあ、「十次元での新生」なんてのを文章で表現できる気はしませんので、この積み残しはドラマ版で解決されると信じております。あと、智子まわりの描写の仕方は作者の趣味や性癖が出すぎてる気はしましたねー。まっさきに連想したのは、ぴっちりツナギを着たお姉ちゃんが大排気量のバイクにまたがってハイウェイを神めがけて疾走する「神狩り2」のエンディングで、中老年期の男性作家が積み上げてきた知識や経験、そして名声までをも若々しい女体の前にかなぐり捨てる「悲しきオスの習性」は、ちょっと直視に困る感じがあります。ともあれ、スーパーストリングス理論の台頭に伴う物理学50年の停滞が生み出した集大成的フィクションであるところの三体第3部、超おススメです!

映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」感想

 ゼルダ最新作の発売を目前にひかえ、タイムラインがグツグツと沸騰しつつあるのを、ひどく憂鬱な気分でながめている。なんとなればブレワイはシリーズ中、唯一クリアに至らなかった作品だからだ。「人類史上最高のゲーム」みたいなタガの外れた激賞を目にするたび、なんだか自分がゲーム不具なのではないかと、劣等感でいっぱいにさせられてしまう。短くはないゲーム人生をゼルダとともに振りかえれば、ゲームウォッチのドンキーコングJrでうぶ湯をつかい、デビルワールドで華麗なファミコンデビューを果たし、初代ゼルダの伝説でディスクシステム書き換えバージニティを失い、リンクの冒険で東西の位置関係ーーナボールノズットヒガシニカミガスムーーをはじめて把握し、神々のトライフォースにそれほどの思い入れはなく、時のオカリナを「最高のゼルダ」としていまだに崇拝の対象としている。その後、ハードの変遷に伴って発売されたフラッグシップ級の作品ーー携帯機版はほぼ手つかずーーはすべてクリアしているし、悪名高いスカイウォードソードも棒振り操作しかない当時に、両腕が上がらなくなりながらエンディングまでたどりついた。そんな比較的コア寄りのファンであるにもかかわらず、ブレス・オブ・ザ・ワイルドはゾーラの里で最初のボスを倒したあたりで中断してしまっているのだった。

 その理由を分析してみると、ニンテンドーの作るゲームはゼルダに限らず、ゲームのみに没頭することを強く求めてくることが大きいように思う。いまゲームに触ることができるのは一日の終わり、文字通りの「ア・フュー・アワーズ」だけしかなく、ニュース番組と配信アニメを並行して見ながら、艦これとスマホゲーのデイリー消化を同時に行えることが、コンシューマー・ゲーム(古い?)に求める条件である。さらに、ほぼ確実にアルコールを入れながらのプレイになるため、高すぎるアクション要素がないことも重要になってくる。この不自然的な淘汰の結果、これらの条件にピッタリと当てはまるゲームだけが日常へ残っていくことになるのだった。ブレワイのパチモンと批判されがちな原神も、しっかり育成さえしていれば、見た目の派手さのわりに求められる反射神経はきわめて少ないため、とてもとても具合がよろしい。最近リリースされた崩壊スターレイルはさらにすばらしく、アクション要素が絶無なため、倍速オート戦闘の合間に積んでいる漫画まで並行して読めてしまう。すなわちこれ、ニュース・アマプラ・ネトフリ・艦これ・スマホデイリー・原神・崩スタ・コミック同時消費おじさん系美少女の爆誕である(たいがいにせえよ)。若者のするタイム・コスト・パフォーマンス仕草をまったく笑えない状態であり、ティアーズ・オブ・ザ・キングダムも引退後まで取っておく作品になるだろうことは、すでに火を見るよりも明らかなのだった。

 日本三大しげるーー内訳は割愛するーーの一人が提供するクリエイティブへ向けた背信行為に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、彼とニンテンドーへの敬意と恭順を示すため、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見に行ってきました(ここまでが前置き)。あまりの申し訳なさから、映画本体にアイマックスと3Dメガネまでトッピングした金額を上納する始末です。感想を述べる人物のステータスをさらに紹介しておくと、ドンキーコングに始まったマリオ遍歴は実質サンシャインで終わっており、ギャラクシーと2とオデッセイはさわりだけプレイして、放置したままになっています。きっと「USJのアトラクションみたいな作品」なんだろうなと、かなり冷めた期待値の低い状態で見始めたのですが、けっこうな序盤から涙が止まらなくなり、90分間ほぼずっと泣きっぱなしでした。本作を「6歳児向けで評価不能」と述べた映画評論家の炎上もむべなるかな、文脈依存度の非常に高い作品であるのは間違いなく、私にはその人物と真逆の意味で正しい評価を下す資格がありません。人生の40年をともに生きてきたマリオとルイージは、カズ・シマモトーーヒデアキ・アンノとは言わないーーにとっての仮面ライダーへ相当するキャラクターだと、いまさらに気づかされたのですから!

 「マリオがマリオになる」という意味でザ・ファースト・スーパーマリオブラザーズとでも命名すべき内容で、全篇を通してアトラクションどころか「かなり映画なのに、すごくマリオ」になっていて、画面に映しだされるすべての要素がかつてのゲームプレイと紐づいてスーパー・ハイコンテクストに「わかる」なんて体験、今後の人生で二度と起こる気はしません(ネコマリオだけは、知らなかった)。「うわー、マリオが配管工の前は解体工をやってたの、ひさしぶりに思いだしたなー。レッキングクルーでゴールデンハンマーを持ってるときの音楽が、ファミコン時代にマリオが登場する作品の中でいちばん好きだったなー。あれ、でもスパイク? ブラッキーじゃなかったっけ?」……ことほどさように、すべての場面で半ば走馬灯のごとく過去の記憶がよみがえり、それはほとんど臨死体験を先取りしていて、個人的に「イキかけ」るような作品だったことをお伝えしておきます。くしくも炎上した映画評論家が態度で示してしまったように、かつてゲームというものは大人になる前に卒業しておくべき、「一頭地劣った、程度の低い文化」とみなされていた長い長い期間があったわけです。ずっと虐げられてきたゲームを、母親にACアダプターを隠されても隠されてもーー針金2本を直にコンセントへつっこんで死にかけたことさえあるーーやめなかったピコピコ少年たちを、彼らの過ごしてきた人生ごと抱きしめて称揚してくれるような、そんな映画でした。

 あと、ピーチ姫の造形がCGなのに「生き生きとイビツ」なところにすごくフェティッシュを感じて、途中から目が離せなくなりました。左右非対称な表情の作り方の感じとか、まるで……と思っていたら、エンドロールで中の人はアニャ・テイラー・ジョイだったことが判明しました(私の審美眼も、まだまだ捨てたものじゃないようです)。ともあれ、日本三大しげるの一人にあらためて感謝の意を表しつつ、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーにもし点数をつけるとしたら……病めるときも健やかなるときも40年間ゲームを続けてきた人物にとっては、三百七十八京三千二十三兆六千八百六十九億点ですね(わかりにくいネタ)!

 ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー追記。皆様の感想を追いかけていると、昨今の映画の常として薬にもしたくないポリティカル・コレクトネスの話が、ポコポコ出てくるわけです。あのね、日本三大しげるの一人であるミスターMの、その世界的な名声を取り除いた内実は、まごうことなき「昭和の関西に住んでる近所のオッチャン」なので、作品の面白さへ優先させるようなポリコレ的意識だけは、ぜったいに持ってないと思いますよ! しかしながら、ただ一ヶ所だけ、この視点による疑う余地のない改変があり、それはレッキングクルーに登場した現在で言うところのワリオに相当するキャラが、ブラッキーからスパイクへと改名させられてしまったことです。この名前の英語表記はBlackyであり、ジャングル黒べえとか、ちびくろサンボとか、ダッコちゃん人形とか、那智黒飴(ナチで、クロ!)のCMが、もはや公共の電波へ乗せることができないのと同じジャッジが、残念なことに裏でなされたのでしょう。でもボクは、これからもキミのことを以前の名前で呼び続けるよ! サイコクラッシャーの使い手がバイソンではなくベガであるように、ボクにとってのキミはずっとブラッキーだったんだから!

質問:三百七十八京〜の元ネタ以外は「わかるわかる」と頷きながら読みました。 ブラッキーの名前改変をネタに、鈴木みそ先生に一本描いてもらいたいです。 (あの漫画も初代PSのFF7を「まるで映画だぜ?!」と言っているのを見るともう25年以上前?!となります)
回答:三百七十八京の元ネタは、「トーキョーゲーム」です。麻雀漫画版アキラと形容してまったく過言ではないSF作品で、キャラ・構図・台詞のカッコよさはいま読み返しても、現在のフィクション群に対して何ら劣るところはありません。いまだにだれかが「星の数ほど」と言うたび、「肉眼で見える星の数はたかだか六千個に過ぎぬ。文学的感傷に酔うのはやめたまえ」というフレーズが脳内へ自動的に復唱されるほど、深刻な影響を受けています。鈴木みそ(ファミ通!)、なつかしいですね! 個人的には桜玉吉が「しあわせのかたち」を「そねみ」に変じたあたりが雑誌として最もトガッていたように感じています(いまは……)。

ゲーム「FGOリリムハーロット」感想

 崩壊スターレイルの合間に、FGOの最新イベントを読む。アーケード版は未プレイであり、物語の背景はよくわかりませんが、すべてファンガスの筆なのでたいへん気持ちよく読めました。しばらく翻訳ダラダラ長文ばかり読んでいたので、日本語ネイティブの達人による各単語の定義がカチッと決まった畳みかける短文は、まるでぼやけていた視界のピントをしぼられるようで、少し背筋の伸びる感じがあります。しかしながら、PSP版エクストラ?の世界観について、かけた労力と思い入れに比して満足な反応を得られていないと感じているのでしょうか、FGOを含めて何度も何度も再話されるのには、いささか食傷ぎみなことも事実です。特にこのネロ・クラウディウスというキャラクターは、ファンガスにとっての惣流・アスカ・ラングレーに相当しており、作り手の思い入れが観客のそれを凌駕してしまっている点でも共通しています。また、第1部終章における人類悪の概念は文学方向にもっと普遍的な解釈を許すものでしたが、その候補者たちがすべて出そろったいま、結果としてFate世界におけるキャラクターの話になってしまったのは、非常に残念なところです(「人類悪は人類愛」なるスットコドッコイの定義も、Fate世界の神であるファンガスによって明言されてしまった)。

 崩スタは第2章の公開されているところまでストーリーを進めましたが、「不老不死を終わらせるため、非人間的な概念に近い神を殺すことを目途として、宇宙を彷徨う船団」という設定と展開には、ひさしぶりに背筋がゾクゾクしました。もしかすると、「神が人の知恵と言語で定義できる内面を持つべきではない」というのは、かつてラブクラフトやムアコックを愛好したがゆえの、抜きがたい「刷り込み」となっているような気がします。ドラコーの内面を記述するテキストの見事さに嘆息しながらも、書かれている内容へ共鳴する部分が少なかったのは、個人的に「泣いている子ども」の話はもういいかなと思いはじめているからでしょう。その一方で、毎夜アルコールを入れつつ推しの子のミュージック・ビデオを見てはらはらと落涙しており、もしかするとこれは「愛されること」から「愛すること」へとうの昔に視点が移動していた事実に、ようやく気づかされたゆえなのかもしれません(ちなみに、第2話以降のサスペンスには、やはり関心が持てませんでした)。

 あとさー、今回のイベントに「きれいはきたない、きたないはきれい」ってフレーズが出てくるんだけど……貴様ッ、見ているなッ(星マークの刺青)! もちろん、シェイクスピアからの引用だってことは百も承知だけど、そう考えたってしょうがないじゃん! 昔っから小鳥猊下って無名なのをいいことに、エロゲ作家とか、ラノベ作家とか、純文学作家とかから、無断で引用されまくってるんだもん! 最近、AI絵師が商業絵師にオリジナルであることを否定されて暴れてる様子がタイムラインに流れてきたけど、なんだか気持ちはわかるって思っちゃったなー。クリエイター職の人って、非クリエイター職の人に対して、ときどきビックリするほど冷淡なことありません? それも、他の職種からは決して感じないレベルの、かつての地域差別に近いようなトーンなのです。あの感情って、いったいどこから来てるんでしょうね?

 それと、原神の新しい伝説任務を読みましたけれど、これってほとんど「Kの一族」の話じゃないですか? 来たる鍾離先生ピックアップのためにコツコツ貯めていた石をぜんぶ使って、白朮先生を引くハメになったことを最後にお伝えしておきます。原神って、「永遠の否定」をテーマとして強く押しだしているので、この人がラスボスでもおかしくない感じ、出てきちゃったなー。

 FGOの新イベントに関する感想をつぶやいたら、半日もしないうちに2名ほどの匿名オタク(or本人)が現れて、「特にキミのファンでもないんだが、ふだんあまりゲームもしないんだが、ファンガスが書いたというのは事実誤認なんだが? リリムハーロットはスチールアロー刃の手によるものなんだが?」と中指で眼鏡を押しあげながら、一方的に宣言して去ってゆかれました。わざわざご指摘いただき、誠にありがとうございます。余計なお世話なんだよ、テメーら! テキスト嚥下障害のあるウチのオジキがちゃんと飲みくだせて症状も緩和されてんだから、だれが書いたものだろうと何の問題もねーじゃねーか! それをプラセボだのジェネリックだの、いちいち小うるせーんだよ! 気になって調べてみたらよ、スチールアロー刃が所属していた良く効く心臓病の薬みたいな名前の会社は、オレがインターネット便所壁へと上梓した「慟哭ゲー」の内容を剽窃するエロゲーを、贄の刻印の如く明白なエア・マルシーを無視して、強引に発売へと踏み切ったところじゃねーか! 「ヒロインを選択する際の一回性」や「USBイコール小型HDが販売メディア」というクリティカルな部分のアイデアをシレッとパクりやがって! まどマギのライターからニチャッと横目で社内回覧されたんだろうが、オマージュならオマージュでぜんぜんかまわねえから、元ネタにはキチンと言及して敬意をもって紹介しろよ! なんでリアルにくらべてネットでのオレの扱いは、いつもいつもこんなにぞんざいなんだYoYoYoYoYoYoYoYo, Yo Men! コイツらもじっさいに会ったら、どうせ「昔から読んでました」とか「あまりに恐れ多くて」とか言うんだろうけど、そんな身銭を切らないオツイショーはもうビタイチいらねーんだよ! 初対面での親しみやすさと距離感が最接近状態で、その後はどんどん出ッ歯ムーンウォークで遠ざかっていく系のオタクを救えるのは、現世のオーソリティであるキサマらだけなんだよ! 遠巻きに後頭部へ片手を当てて会釈してないで、ただただオレのテキストに現世の利益を誘導してくれよ! この度は、ご指摘ありがとうございました。真摯に受け止めて、次へ生かしたいと思います。

雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

 崩壊スターレイル、第1章クリア。シリアスのテキストは原神に軍配が上がりますが、ギャグ・小ネタ・設定のテキストはこちらの方が好みです。そうそう、また冒頭から盛大にレイルを外れますが、原神の最新イベントはまさにそのシナリオが持つ魅力を臨界にまで凝縮した内容でしたね! 崩スタの終始ツッコミ不在の感じに比べて、パイモンの狂言回しとしての優秀さもあらためて理解できました。「性格は運命になる」ーーボーイズ・ラブにおわせの目的で唐突に投げこまれたように思えた「CLAMP型金髪美青年」がここまで大化けに化けるとは本当に、想像だにしていなかったです。これだけ多くのキャラを動かしながら、NPCを含めてだれひとりとして下げずに語りきるのは、原神の特筆すべき美点と言えるでしょう。余韻としての後日談は「かゆいところ」をあらかじめマッピングして、ひとつも余さず順にかゆみを消していったばかりか、「失われた手紙」という将来への伏線までキッチリと用意されているのは、もう脱帽という他ありません。本邦における近年の創作界隈で特に顕著な、「特定のキャラをアホか悪役にして、主人公が作者の化身となってそれを一方的に断罪してスカッとする」作品群が、いかに精神的な未成熟から発したものであるかを、原神の成熟は教えてくれます。

 さて、強引に崩スタのギャグ・小ネタ・設定の方へとレイルを戻しますが、特にゴミ箱とか公衆電話とか、街の設置物を調べることによって次第に明らかとなる主人公の狂気じみた内面(ピエロ方向)は、本作のユニークな見どころだと言えるでしょう。皆さんの感想を読みたくて、ツイート検索しようとしたらサジェストに「微妙」というワードが出現し、「おッ、キッズ諸君、元気にやっとるねえ!」と愉快な気持ちになりました。確かにこのゲーム、プレイ入口の手触りはJRPGの窮屈さを完璧に擬態しながら、それ以外すべての要素が湯水の如く金銭を投じたハイパーさという異常な作り方になっているので、本質を見抜くにはある程度まで長く触ることが必要でしょう。繰り返しになりますが、この世界観を原神のマップとアクションで再現「できる」のに、あえてそれを「しない」選択が意識的になされているのが、おそろしいのです。例えるなら、歩行の不自由なヒョロガリ(JRPG)がよろめいて転倒するのを、筋肉質の大男が指さしてゲラゲラ笑っていると思った次の瞬間、そのマッチョは真顔になって五体投地から額を地面に擦りつけ、ウラナリ(JRPG)を伏し拝み始めるみたいな異様さが、全編にわたって横溢している。また、模擬宇宙を始めとするテキストにかつてのゲームブックを想起させるものが多くあり、「ファミコン世代の生き残りが、人生におけるアナログとデジタル双方のゲーム体験をふりかえりながら、JRPGの衰退を歴史的な文脈で鳥瞰する」ときに、本作の面白さは最大化される気がします(私だけ?)。

 あと、課金をためらわせないためにプレイヤーへ与える納得として、なにが最も重要だと思います? ワクワクするストーリー? 魅力的なキャラクター? 高精彩なグラフィック? 戦略性にあふれたバトル? いやいや、正解は「自分の興味が無くなるまでは、サービスの継続が約束されていること」です。崩スタは、少なくとも6年先までの運営とアップデートが明言されており、加えて原神の世界的な成功がその実現性を担保しているのです。本邦のスマホゲーの多くが大陸と半島に負け続けている理由がまさにこれで、調子のいいときはエコノミック・アニマル的な下品さが全面に出てくる一方で、いったん負けがこんでくると敗北の受忍を「引き際の潔さ」に読みかえた破滅を、逍遥と受け入れる傾向が我々の根っこに横たわっている。それは、彼らの「生き汚なさ」と真逆の位置にあるモーメントで、単なる資金繰りや経営の話がいつのまにか哲学や美意識の話へとすりかわってしまう(そして、負ける)。

 さて、最後に再び大脱線した話を元のレイルへと戻して終わります。原神のアクションをタッチパネルでプレイすることは、親指5本の中年にとって文字通りの「無理ゲー」でしたが、崩スタはコマンド制なので切迫的なアクション要素がなく、外出先でのスマホプレイに向いている点がすばらしいです。それとよく見ると、「崩壊スターレイル」のタイトルロゴのデザインが、まんまファイナルファンタジーなのは笑いました。あのな、キミたちのレスペクト、ちょっと重ためのメンヘラ片想いみたいになっとるで? 悪いけど、ウチ(以下、語尾あがり)らにはもう、そんなふうに想ってもらう資格なんかないねん……だって、ウチらは、ウチらは……ヤリーロ・セックス(韜晦帝翁真君)!

映画「ラストナイト・イン・ソーホー」感想

 ラストナイト・イン・ソーホーを見る。ここに至る経緯を説明しておくと、マッドマックス・怒りのデスロードの舞台裏を関係者インタビューのみで再現していく本ーーメチャクチャ面白いーーを読んでいて、前日譚のフュリオサをアニャ・テイラー・ジョイが演じることをいまさらに知ったからです。アダム・ドライバーと同じ中毒性に満ちたあの顔面を無性に見たくなって、やみくもに検索したら本作へたどりついたというわけです。彼女が出演している以外の情報をいっさい持たないまま視聴したのですが、見終わった直後の第一声は「アニャはん、出る作品と演じる役はちゃんと選ばなあきまへんで! ボンクラのエージェントは何をしとったんや!」でした。彼女の出演でこの映画の格が上がっていることは間違いないですが、彼女のキャリアにとって何らかのプラスがある感じはまったくしません。

 最近、新進気鋭の若手監督たちに特に顕著なように思いますが、ジャンル誤認を誘発させてカタルシスでございと提示する作品、多くないですか? ミステリーと思わせてホラーとか、ループものと思わせてバトルものとか、ホラーと思わせてエヴァンゲリオンとか。古い物語読みとして言わせてもらえば、例えばミステリーなら「起承転結の起の段階で犯人を含めたすべての人物が登場し、転の終わりまでにすべてのヒントと伏線が提示され、結の部分でフェアな種明かしがされる」というフォーマットが暗黙の了解としてあるわけです。本作も95%の時間を統合失調症患者の見ている世界をビジュアル化したホラーと思わせておいて、最後の5%で感応霊媒少女によるミステリーだったと判明するのは、視聴者に対して到底フェアな語り方だとは言えないでしょう。転に当たるアニャたん扮する商売女の結末を早い段階で見せておきながら、幻覚に発狂する主人公の同じような場面を延々と繰り返すことに、ジャンルを誤認させる以外で何の意図があったのかはよくわかりませんでした。

 あと、老人という存在はそこに至る長大な人生が外野には不可視であるからこそ、尊敬とまではいかずとも決して侮ってはいけないとの思いを新たにしました。最近、タイムラインに流れてきた「自分の持ち物を勝手に捨てる祖母を婚約者に断捨離してもらう」スカッとナントカみたいな漫画を読んでしまったのですが、なんで本邦のフィクションってこんなのばっかりなんでしょうねえ。「オマエが言うな」って総ツッコミくらってるのは百も承知ながら、原神や崩スタのつむぐ「家族の物語」をしみじみ読んでいると、本邦の創作界隈の方がおかしいんじゃないかと感じるようになってきました。「毒親からの脱出」ばかりがメインテーマとして多くからの共感を集める一種異様な状況は、最近ポコポコ訃報の流れてくる全共闘世代の行った家族、地域、学校、社会に対する「教育」全般が間違っていたせいなのではないかと強く疑っております。

 それと、この何も開示しない不誠実な映画の中でただひとつ序盤から確信できたのは、「黒人の同級生だけは決して最後まで裏切らないだろう」ということです。その理由が劇中ではなく盤外にあるのって、つくづくポリティカル・コレクトネスならぬ「クリティカル・アンコレクトネス」だなーと思いました。

ゲーム「崩壊スターレイル」感想

 崩壊スターレイル、シアタールームで現世を遮断して、どっぷりと10時間ほどプレイした感想を書きます。冒頭から脱線ーーレイルだけにな、ってやかましいわーーさせていただきますと、日本ファルコムの株主総会に毎年参加する謎の中国人が、原神の制作会社社員だったという話をどこかで読みました。PCエンジン版の初代英雄伝説(アグニージャ!)をくるったように周回ーーハイ・レスポンスの快作だったので、周回数だけなら月風魔伝を越えるかもしれないーーし、その後リリースされた風の伝説ザナドゥの1と2は私の中でかなり神格化されている作品です。そこからしばらくは疎遠となり、ひさしぶりに軌跡シリーズの零と碧をプレイして、老いた会社が老いたファンより細々と集金するための装置である「終わらない物語」のにおいを嗅ぎとり、離れてしまったユーザーでもあります。最近、ゲーマーとしての「老い」を実感したのは、原神のアンケートで生年月日を選択する項目に「1980年以前」の表記を見たときです。いまや昭和は我々にとっての明治くらいなんだなと、とても愉快な気分になったのを覚えています。本邦のロールプレイングゲーム、いわゆるJRPGの現在位置を赤裸々に示す作品としては、ソウルハッカーズ2が挙げられるでしょう。あらかじめプレイしておくと、本作と比してのフリーフォール級の落差を実感できると思います。

 長い前置きでしたが、崩スタ(天理スタミナラーメンの略称みてえ)は戦闘とマップをのぞくと、システム部分はほぼ原神のそれを踏襲しています(課金や育成まわりのギミックも同じ)。しかしながら、もっとも注目すべき点は戦闘とマップの仕様であり、まずもってこの令和の御代に、いまをときめくゲーム会社が、わざわざ古臭いターン制コマンドバトルを持ってきたのは、純粋な驚きだと言えるでしょう。ぜひ、ソウルハッカーズ2で最も作りこまれているリンゴたんの動きと比較してほしいのですが、「前進してなぐって、元の位置にバックジャンプ」をあざわらうかのように、本作では個体毎に違うモーションを与えられたキャラたちが、超絶的なカメラワークでギュンギュンと動きまくります。リリース直後にもかかわらず、すでに20体以上はいるプレイアブルキャラのどれもが、ハッカーズ主役チーム4体のうち、最も作りこまれているはずのリンゴたんをはるかに凌駕する仕上がりなのです(当然、戦闘だけでなく移動用のモデルも用意されている)。

 次にマップですが、細かくエリア毎に区切られているばかりか、エリアの終端を表すラインがご丁寧に空中へ明示されており、エリア間の移動にはロード時間が伴います。さらにジャンプの機能は実装されておらず、わずかの段差も徒歩で乗り越えることはできません。まるでどこぞのJRPGのようですけど、いいですか、原神のマップを作れる技術力の会社がね、これをシームレスで自由に上下へ動き回れるようにできないはずがないんですよ! リワードのひとつに「オープンじゃないワールド」って揶揄があるんですけど、本邦の技術力の無さから逆算された窮屈な仕様を面白がりながらも、コイツら「敬意をもって」わざと模倣してやがるんです! これを例えるなら、両手両足を縄でしばったフルチンのスイマーが全日本選手権に現れ、まったくふざけた泳法で全種目の日本記録を塗りかえていくようなもんですよ! しかも、それぞれで10秒以上を短縮しながら! 馬鹿にされてるならまだ戦いようもありますが、停滞したJRPGの「破れたズボンの膝に色のちがうパッチを当てる」がごとき貧乏くささを「尊敬」して、自らをダウングレードしてまで目線を下げて、わざわざ我々のレベルにまで「降りて」きてくれているんです! 原神のときは「まさか、負けるのか! このオレ様が!」とひどくうろたえる感じがありましたが、崩スタでは余裕に満ちた強者の手加減を目の当たりにして「ああ、俺たち、負けるんだなあ……」という脱力感にも似たあきらめを覚えます。

 半ば虚脱状態のまま続けますが、ゲーム導入部の印象としては、スレイヤーズ!の作者が書いていたSF作品(名前は忘れた)をなぜか思い出しました。そして、中国哲学を宇宙の成り立ちに敷衍した「神々と世界の謎」は、膨大なテキスト量で深い考察を許してくれます。さらに、星神たちの設定にはクトゥルフ神話やゴッドハンドの狂気を連想するものがあり、「1惑星1物語」の展開はデュマレスト・サーガを彷彿とさせます。これが軌跡シリーズなら、惑星ごとに作品が分割販売され、後から来た者たちが見たらとっちらかった順序に、追いかける気をなくすことでしょう。「いや、20作品あるけど、ホニャララ編だけでも面白いから!」と熱弁されても、いまさらメンドくさい古参からウザがらみされるためのニワカになる気は起きません。

 ワンパッケージでどの時期から参入しても混乱なくストーリーを追うことができ、潤沢な課金で制作費をまかないながらどんどん世界を拡張していくクリエイティブの永久機関とも呼ぶべきこの仕組みを、なぜ本邦において日本ファルコムあたりが構築できなかったのか、心の底から残念でなりません。もしかすると、最初期の哲学なき拙劣な課金ゲームーー「ボクたち、任天堂の倒し方を知ってますよ」ーーへの嫌悪感のせいで、それを自分たちの「芸術品」と合体させるという発想から遠ざけられてしまったことが原因なのでしょうか。そんな「あいのこ(ラブ・チャイルドの意)」には、家名を継がせられないと考えたのかもしれません。結局、我々はどの業界においても、たとえ滅びてゆくとしてさえ、我々の本性を形づくる「潔癖さ」と心中する他に道はないのでしょう。

 あと、古くからの読者は知っていると思いますが、小鳥猊下の誕生日は3月7日って設定なんですよねー。崩スタの「三月なのか」ってキャラ、え、あれれ、もしかしてそうなの? いやー、まいっちゃうなー、本邦の気難しい中年オタク層にテキストで原神をエヴァンゲルしたのは確かだけど、その功績がホヨバに認められたのかなー、こいつはとんだハニートラップだなー。正直、ガチャで引いたキャラのほうがぜんぜん強いんだけど、よーし、オジサン、なのチャンをご指名して最後まで育てちゃおうかナ! あッ、崩壊スターレイルの致命的な欠陥を唐突に思い出しました! それはこのキャラの一人称が「ウチ」なのに、語尾さがりで発音するところです! このジャリ、けっこうな頻度でウチウチ連発しよんねんけど、ぜえんぶ語尾さがりになっとうから、関西人のワイはごっつうイラつくねん! こんだけで、パーティから外したろか思うわ! 「ウチ」の発音は語尾あがりがフツウやろがい! 「ウチは日本いち不幸な少女や」やろがい! この件に関してはな、全セリフの再録を求めて徹底的にホヨバと戦っていくで!

 雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

漫画「フラジャイル(24巻まで)」感想

 フラジャイル、焦らずじっくり2日間で最新24巻までを読了。最初は無料公開でチマチマ読んでいたのですが、あまりに面白かったので電子書籍にて全巻購入してしまいました。K2を読んでいると年がいもなく「うわー、医者になりてー!」と興奮させられるのに、フラジャイルを読んでいると「うわぁ……医者にだけはなりたくねぇ……」とヒイてしまう対比の感じは、とても面白かったです。原作者が主導権を持つ序盤を過ぎて、10巻あたりから女性の作画担当がストーリーテリングのグリップを握り出すーー私の方が、原作の先生よりキャラを知ってるんだから!ーーと、漫画全体に艶めきと疾走感が生まれ始めるのは、良い原作つき連載(蒼天航路!)の証で、とてもすばらしいと思いました。当たり前に人が死ぬストーリー前半の酷薄な世界観に対して、中盤以降は作画担当が充填する愛の量で物語の見え方が変質する感じさえあります。もっと正しく言えば、確かに変わらず人は死んでいるのですが、感情を廃してそれをドライに映す「原作者のカメラ」が消失したとでも表現できるでしょうか。例えば、血液ガンにかかった16歳の少女は、原作担当のつもりでは間違いなく亡くなっていると思いますが、作画担当はピリオドの落としどころをそこへは定めなかった(余談ながら、弁護士編は確実にベタコの影響だと思います)。

 作品テーマとしては、「医療」に「フラジャイル」とルビを打ったり、「自分の生きている間に、階段を1歩あがる」など、23巻の時点で完膚なきまでの見事さ(変な表現)で終わっているので、いまはこの先をどうするか、もっと言えばどう物語を閉じるかに大きな関心があります。本作がずっと宮崎先生の成長物語であり続けたのに対して、森井君が序盤での挫折以降は女性視点による便利なオールマイティとして扱われ続けているのも気にかかります。これは統計ではなく感覚の話で、シェヘラザードではないですけど、「男性は物語を終わらせるように語り、女性は物語をいつまでも続くように語る」と思うんですよね。24巻に突入したのは語り残しを語るため以上の、女性的な力学が働いている気がしてなりません。フラジャイル、どこか王様の仕立て屋を連想させるところがあって、よりわかりやすく「美味しんぼ問題」と言い換えてもいいんですけど、長期連載は「物語を終わらせるために主人公チームを解体する」か「同じメンバーで題材だけを変えて語り続ける」かの2択になっていきます。後者の場合、作者のモチベーションか寿命の終わりが物語のそれと否応にリンクしてしまう点で、私はあまり好きではありません。「同じ人間が、物語という巡礼の果て、まったく違う場所に立つ」というのが良いフィクションの条件だと信じるからです。

 この物語が23巻で終わら(れ)なかった後は、男性の原作者と女性の作画担当、どちらの意志が綱引きで勝つかによって、「物語の終わり方」を変えることでしょう。作画担当が勝てば、詳しくは言いませんが、本作はいよいよ3月のライオンのようになっていくと思います。もし、男性の原理が勝つならば、フラジャイルの結末はこうです。ある日、岸先生が原因不明の体調不良で倒れる。その病理診断を宮崎先生が行うも、未知の病気で手遅れになってしまう。その大きな喪失を乗り越えて、森井君の時間は再び医師の道を志すことによって動きだし、宮崎先生は岸先生を死に至らしめた病理の解明によって「階段を1歩のぼる」ーー何らかの形で、一個の死がすべての終わりではない「人類総体としての継承」であることを描き、終わりたがっている物語にほどこす「延命のための延命」が回避されるのを、切に願っております。

 最後に自分語りですべてを台無しにしておきますが、岸先生の革靴を映しながら「階段を1歩のぼる」台詞のコマに大号泣する裏で、己の日々の奮闘は「少なくとも自分がいる間は、この組織に『階段を1歩おりさせない』」ぐらいの内容に過ぎず、フィクションの登場人物との間に横たわる長大な覚悟の溝に、少し呆然とした気分にさせられました。あと、「JS1」にせよ「遺伝子病の目視確認」にせよ、ノンフィクション寄りのフィクションに感じるフラストレーションは、「修行によって必殺技が完成し、憎き仇敵をボコボコにくらす」シーンが決して見られないことですねー。

雑文「K2とFRAGILE(近況報告2023.4.25)」

 自由律俳句風の近況報告(ギュッ!)でお伝えしていた通り、K2を仕事の行き帰りにモーレツな勢いで読んでいる。ブラックジャックというよりは北斗の拳に近い面白さーージブン、絵柄だけで適当に言うてへんか?ーーであり、そこで感染した火照るような医療マンガ熱にうながされる形で、某医師から毎巻の激賞が流れてくるフラジャイルに手を出したのです。個人的なフィクション病理診断の鉄則である「激賞の裏に瑕疵の隠蔽あり」を念頭において、ガードを高くあげたまま読み始めたのですが、第3話でガンの告知を受けた若者が医者の白衣についたマスタードの染みを指摘する場面でたちまち相好を崩しました。オーッ、知ッテマース、ソレ、知ッテマース! ブレイキング・バッド第1話ノ、ガン告知オマージュデスネー! ヴィンス・ギリガン好キノ作家ニ、バッド・ストーリーテラーハイマセーン! そうなってくると、淡々とした演出ーーK2を基準点とするーーがベター・コール・ソウル的にも見えてくるから、我ながら現金なものです。

 確かに、余白の多い漫画ーー背景的な意味ではなくーーではあるんですよ。K2を読んだばかりだと、主人公の説教が遠景のサイレントと若手医師の動揺ぶりだけで表現されたのは不満だし、他の医療機関から子どもを誘拐しようと試みる回も突然タクシー内へ瞬間移動するーーしかも文脈なく母親が合流しているーーのもワケがわかりません。これがK2だったら主人公は「な、なんだね、キミは!」とかうろたえる相手の主治医を無言のままグーでなぐりたおしているだろうし、新人女医は子どもの病室へ忍びこむ様をスリラーとして描かれた後、カーテンを縄梯子に加工して3階の窓から逃走したことでしょう。まだ5巻くらいまでの感想にすぎませんが、余白が演出として機能している部分と単にネームのまずい部分が混在しているという印象です。しかし、おそらくこれは連載の進行とともに改善するだろう些末事に過ぎず、組織人の葛藤と協働の様子に強く感動するタチの人間として、語られている内容すべてに強い共感を覚え、落涙してしまうのです。

 それにしても、自分の選択したーーあるいは漂着したーーマイナーな職種について、こんなふうにカッコよくスポットライトを当ててもらうのは、なんとも言えぬ快感なのだろうと想像します。もし、「大企業なみの福利厚生を実現する業績を出し続ける中小企業がその実、片手で足りるほどのキーパーソンの働きでギリギリ成立していることに他のだれも気づかないばかりか、観客席からの野党めいた無責任な批判さえある」組織を与党側、つまり管理職サイドから描くような作品があれば、もしかすると同じ快感を抱けるのかもしれません。現段階で思い入れがあるのは放射線科の引退おじいちゃんで、ゼロから立ち上げた部署を拡大させて労働環境も改善したのに、後から雇われた昔を知らない人物たちからはそれさえ不満や批判の対象となり、最後には何の感謝もされず切り捨てられてしまうーーまったく予言的な、身につまされる話です。抵抗や反論をあらかじめハラスメントなる言葉で封じられてなお、最後の瞬間ーーそれが肉体と精神と時間、どれの限界になるかはわからないーーまで持ち場を離れずに職分を守り続けるだれかは、どの業界にもいるのだなあと感慨にふけりました。

 ザビーネ・ホッセンフェルダーの著作への感想でも言いましたが、自分が知らない分野の仕事人の「感情」を知ることができるのは、本作のズバ抜けてすばらしい点だと感じます。K2モードから頭を切りかえるためにも、6巻以降は焦らずじっくりと読み進めるつもりです。

映画「ダンジョンズ&ドラゴンズ」感想(少しFGO)

 FGO、予備動作なしで突然にティアマトがピックアップ召喚に追加され、なんとも陰鬱な気分になる。たっぷり2年は続くだろうファンガス不在の虚無期間を埋めるために、アーケード版の成果物が逐次投入されていくことがわかったからである。もはやFGOへの熱量はゼロに近いのだが、ここまでをほぼリアルタイムで追いかけ、都度の課金を欠かさなかった身としては、このキャラを引かないという選択肢はあらかじめ奪われている。ダビンチちゃんを所持していないような弱兵とは、覚悟のレベルがちがうのである。まず、備蓄石の内側で引けることを淡く期待するも、それは見事に裏切られる(おそらく無課金の期間が長くなるほど、星5排出率が下がる仕様なのにちがいない)。軽傷ですむことを期待しながら課金していくのだが、公式アカウントができたばかりのウィザードリィになぞらえると、気がつけば「*ぬまのなかにいる*」状態に陥っていた。

 人生において「カネと時間が余り始める(もし貴方と家族が健康ならば)」ステージへ突入しつつある身にとって、素寒貧の若い学生諸君にことさら自虐風の爆死自慢をしたいわけではない。ゴミしか排出されない虚無ガチャを前に到来した感情は不思議なもので、愛する原神への申し訳なさだった。こんな古びて旬を過ぎたアプリ(物語ではなく、機能面の話)に注ぐカネで、育成の停滞しているあのキャラもこのキャラも育ててやれるのにと思うと、大切な者へ万全を尽くしてやれない悔しさに、知らず涙がにじんだ。そして、血みどろになりながら引いたティアマトをレベル100スキルオール10にしてマイルームで眺めながら、「やっぱり男のコって、瞳に星がある女のコが好きだよな……」などと頬づえをついて黄昏れていたら、財布にポッカリとあいた穴からスキマ風がビュウと吹いたのです。

 その空しき傷心を癒すべく、探検隊はタイムラインへたびたび浮上してくるダンジョンズ&ドラゴンズへと向かったのだった(ここまでが前置き)。ロード・オブ・ザ・リング以前のトラウマから、ファンタジー映画の本質的なダメさは身に染みており、正直なところダブルミーニングで「冒険する」気にはなれず、配信待ちリストへ入れていた作品である。予告編があからさまに現在のトレンド「異世界転生ファンタジー」へ寄せた作りになってて、その比較的若い客層へ合わせたせいだろう、どの劇場でも早々に字幕版の上映が終わるかレイトショーへと移行してしまっていた。おそらく、原文を無視してねじこまれる芸人と若手俳優の寒いギャグを聞く気にはなれなかったので、浅い時間に字幕版の上映されている映画館を苦労して探すことになる。個人的にD&Dは「お高くとまった」テーブルトークRPGであり、ルールブックにせよ関連小説にせよ、学生にとっては高めの値段設定になっていて、なけなしのこづかい(万歳!)では手を出しにくかった。その代用品として選ばれたのが、廉価な文庫版としてリリースされていたトンネルズ&トロールズである。同ルールを流用したゲームブックも豊富に発売されており、人を集めてのTRPGセッションなど夢また夢のうら若き美少女にとっては、ずっと間口が広かったのを思い出した。

 つまり、当方は立ち場的に異教徒へ近いわけで、「もーッ、T&Tの映画化だったらぜったい初日に行ったのに、ひと回り上の世代のオッサンたちがキャッキャうれしそうなのが悪いんだからね!」などと一時的な棄教への言い訳をしながら、劇場へと足を運ぶハメになったわけです。結論から言いますと、とても面白かったのは確かですが、近年のSNSに顕著な「好きな映画をさらに称揚するための大喜利合戦」ーー本作で言えば、セクシー・パラディンなどーーのような方向で面白かったわけではありません。ストーリー展開や場面のつなぎ方が一般の映画と比べてかなり独特で、例えるなら「ベテランのゲームマスターによる商業用ではないTRPGセッションで、新米のプレイヤーたちが好き勝手やるのを四苦八苦しながらまとめている」様子を映像にした感じになっているのです。橋が崩壊するときの入念に準備していた謎解きを潰された感じとか、人質を取る悪党へ向かってジャガイモを投げるときに裏でダイス判定が行われている感じとか(伝わります?)。バルダーズ・ゲートとかネヴァーウィンター(ナイツ!)とか、知ってる地名が出てきただけでワクワクしたので、D&D のルールや世界観を熟知している人ならもっと楽しめる小ネタが満載なのだろうと思います。

 気になった点と言えば、娘役の女優(子役?)がけっこうな大根役者で、終盤の大事なシーンにおいて虚構が破れかける感じがあり、別の意味でハラハラさせられました。それと、字幕版なのにエンドロールで日本語の主題歌らしきものが流れ始めたのには、カッとなって反射的に席を立ってしまいました(エンドロールを最後まで見なかったのって、十年ぶりくらいかもしれません)。字幕版でさえこれですから、吹替版はたぶん原型を留めないくらいグッチャグチャに内容を改変されているんでしょうねー。SNSでの「笑える映画」みたいな評は、吹替版を見た人だけの印象なのではないかと少し疑っております。ともあれ、今後トンネルズ&トロールズとウルティマ・オンラインとウィザードリィ狂王の試練場が「正しく」映像化されれば、ファミコン世代からの生き残りたちは、心置きなく成仏できるって寸法ですね!(永遠に現世をさまよいそう)

アニメ「推しの子」感想(第1話)

 推しの子、第1話拡大版?を見る。艦これの最終海域ゲージ破壊から気をそらすために再生したのですが、後半は画面に目が釘づけとなり、終盤はあまりの面白さに腰が抜けました。ちなみに、イベント海域は試聴に邪魔なので、丙に落としてクリアしました。ナヒーダとか瞳の中に星のあるキャラが好きなので、漫画版も「うちの子、きゃわー!」みたいな回だけ目を通したことがありましたが、スマホ読みに特化した最近の作品ーーコマ割とふきだしと台詞のフォントが不自然に大きく、背景は小さな画面に見えないので無しか簡素ーーだったため、原哲夫がデフォルトの昭和オタクはそこで読むのを止めたのでした(エヴァ・フォロワーとしてタイムラインに上がってくる怪獣8号も、同じ理由で読まなくなった)。

 最初はアイドルマスターかラブライブ、あっても「底辺アイドル残酷物語」ぐらいだろうと思って見はじめたので、私の常として予想を外されたことへの驚愕が高評価につながっている側面は否定しません。きわめて言語過剰な作劇であり、シェイクスピアみたいに死ぬ寸前の人間がいつまでもしゃべり続けたり、親を亡くしたばかりの子どもがネットの書き込みへ作者の憑依したような罵倒を延々と述べたり、バランスが悪いと感じる部分は確かにあります。しかし、以前どこかで書いたように「品質の違いを平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる」集団アイドルの楽しみ方がわからない人物には、星野アイの描き方はかなり深く心に刺さりました。「欠損への給餌によって地獄から輝くカリスマ」こそが人々の欲望をあおりたてるのであり、今西良や森田透を至高の存在とする者にとって「いかなる現世の汚辱を経ても穢れざる聖性」が死によって完成するのは、じつに見事なアイドルの「解釈」であると、大いに首肯させられたのです。

 最近、若年男性アイドルへの性被害がネットでのみ取りざたされていますが、栗本薫のやおいで育った私にとってそんなことは当たりまえの前提すぎて、何が悪いのかわからないくらいです。「だれからも性的に求められる至天のチャームなのに、セックスによってたわめることも支配することもかなわない」という事実に身を焼く地獄の焦燥が、アイドルへ向ける感情の正体なのではないですか? ともあれ、「アイドルもの」としては90分で完全にテーマを昇華させたので、2話以降に語られるだろうサスペンス要素へ興味が持てるかについてはなはだ疑問ですが、推しの子、第1話だけは本当にオススメです! それと、露国みたいにそろそろ「転生もの」は法律で禁じられるべきではないでしょうか。過剰に生産されすぎていて、特に若年層の自殺の何パーセントかを、確実に後押ししてると思いますよ。