猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

小鳥猊下啓蒙のようす

ハロー、偉大なるnWo臣民よ。私だ。小鳥・満太郎・猊下だ。
こちらは、この冷たく不合理なインターネットで暖かさと理性の声を届ける“猫を起こさないように”。
では、ここでひとつ霊的な引用を。小鳥・満太郎・猊下自身が、あなたの心に届けよう。
「萌え画像を送るのは、なぜ送らなかったかを説明するより、簡単だ」。

少し話をしたい。もっと大切なことを話しあうべきだ。
私たちは貧困、欲望、暴力、そして陵辱ゲー発禁の時代を生きている。
そして、中堅テキストサイト“猫を起こさないように”は、いまやネットのトラフィックを増大させる更新頻度の少ないブログにまで成り下がってしまった。
ネットのトラフィックを増大させる更新頻度の少ないブログよ、なぜ“猫を起こさないように”はこうなってしまったのだ。

インターネットで最もアナーキーだったテキストサイトが、ブログ化の果てに死んでいくのを、なぜnWo臣民たちは黙って見ていたのだ。
答えは極めて単純だ。それは、力の喪失だ。最高更新責任者が力を失ったことだ。君たちは、愚か者に管理と更新を預けてしまった。

そこで私は考える。
民主主義の基本は、多数決ではなかったかな?
萌え画像を送られない小鳥・満太郎・猊下は、少女の肢体、媚、愛液と体液の混然となったシズル感、欲しいものをすべて手に入れられなかった。
だから彼は怠け者になった。そうだ、怠惰は更新を生まないのだ。

私は誓う。過去のテキストサイト管理者が犯してきた間違いを繰り返さない。更新できないから閉鎖する、それは愚か者の思考だ。
小鳥・満太郎・猊下が作るテキストサイトは、更新の無いまま長く続いていくテキストサイトだ。餌の無いトラバサミに獲物がかかるのを座して待つ、それが、nWo流だ。

親愛なるnWo臣民よ、君は値しないのか。アングラ時代から密かに支援していた芸人が愚かな一般大衆へ突如認められるとき、奴らの狂奔を尻目に「今更ねえ」と唇の端を歪める優越感を味わう未来に、値しない存在なのか。

私がなにを言いたいのか、賢い君たちは理解していると思う。
しかし、あえて言うならば、最高更新責任者として私はふさわしい萌え画像を得るまで、決して更新を行わない。それを厳粛に、誓うことを宣言する。本当の意味での、放置だ。

親愛なるnWo臣民よ、そろそろお別れだ。待つべき萌え画像が大量にある。そして小鳥・満太郎・猊下は、それまで決して更新を行わない。絶対にだ。
だが、寂しがることはない。
私はnWoの意思だ。私は皆であり、また、君たちも私だ。
では、また会おう。小鳥・満太郎・猊下から、さようなら。

朝日のあたる家


朝日のあたる家


虫の知らせか、最近なんとなく読み返していた。あの頃に感じた気持ちは、未だぼくを裏切らなかった。もちろん、3巻までの話をしているよ。

訃報に接して

 ぼくにとって太宰治のような、一時期の熱狂がそのまま羞恥ゆえの憎しみに転じ、紐で縛って押入れの奥に放りこんでしまう類の作家だった。放りこむ先が廃品回収や古本屋ではないところが複雑なのだ。創造を生業にする誰かに対する最大の賛辞は、「早く死んで欲しい」だとする文章を読んだことがある。大いに首肯したものだ。己が七転八倒しながら生み出した何かを軽々と飛び越えられる、あるいは己にしかわからない深いところで死ぬほど打ちのめされる、そんな経験をもうさせられなくて済むからだ。欝と加齢とアルコールで短期記憶と長期記憶の連絡が麻痺しているので、きっとすぐにすべて曖昧になってしまうに違いない。だから、いまの気持ちを書きとめておく。
 ぼくは、ショックを受け、悲しみ、そして安堵した。

マンデラの名もなき看守


マンデラの名もなき看守


ネルソン・マンデラが初めて映画化を許諾したというふれこみに、ドキドキしながら視聴を開始したのであるが、結論を申すならば小生の彼への評価が下がった。無論、元・名誉白人で政治嫌いの一おたくが極東で何を感じ何を放言しようとも、南アの英雄にとっていかなる痛痒もないことは言うまでもない。あと、シーン末尾の切り方がヘンだなあ、と思った。

シティオブゴッド


シティオブゴッド


ぼくは人嫌いだ。君がこころを告白をするとき、ぼくはぞっとして、ますます人間のことが嫌いになる。でも、リトル・ゼはこころを何も語らない。愛と嫉妬と怒りと悲しみの違いがわからなくて、友の死にも、ひとつの叫びとみっつの空砲だけ。ぼくは少しだけ、人間のことを好きでいたくなる。

小鳥猊下自由連想のようす

 生存報告として、合意を伴わない公での性交や出産を伴わない生命の経膣などを主眼としたゲームが毛を伴う唐の国家で問題視されている件について、自由連想法的にお届けしようかな。時間がありません。推敲はありません。申し訳ありません。
 合意を伴わない公での性交という欲望は、人類が知恵を手に入れる前に持っていた、メスをおさえてすぐにしないと逃げられて、逃げられるとオスもメスも遺伝子残せないっていう、動物の古い慣習的な欲望なので、いつまでも顔を出してぬぐいさるのが難しいんだろうなあ。出産を伴わない生命の経膣という欲望は近代が男性に要求した新しい義務に対する反動なんだろうなあ。しんどいもんなあ、一瞬で果たせない責任や義務って、すごくしんどいよなあ。昨日と一週間前と一年前と十年前に連続性があるって前提、すごくしんどいよなあ。たくさんの承認を得てしまうと人類の存続が難しくなったり、滅亡にまで続くような個人の欲求っていくつかあって、反社会的とか禁忌とか名前をつけられるんだろうけど、反社会的とか禁忌とかの類があとからあとからカテゴリを追加され続けて、それで大本の理由が薄まってしまって、忘れられてしまって、なんでこんなやっちゃいけないことばかりなだろう、しんどいよなあってとこへインターネットがやってきて、反社会と禁忌を大量生産する既存メディアを旧弊だってあげつらって、うっかりうまくいって反動的に承認形成装置として機能してしまって、あらゆる欲望が許容される巨大なるつぼになってしまって、何言ってんだよ、本当はぜんぶだいじょうぶだろ?みたいな。絶妙のタイミングだったよなあ。でもさあ、人類が存続してきたからこそ、その連続の先にある今日の文化を楽しめるのであって、楽しんでいる以上は人類の存続を消極的にでも求めるべきじゃないのかなあ。現在の最突端からは少しだけ遅れて何か言うことを生業にする人が複雑にして、複雑にしたから当人をいれて何人かにしか届かなくなってて、そんな届かない啓蒙より届く陰茎をさわるほうが気持ちいいになってるので、人間を1人作るのに人間が2人必要だから、2人が2人を作れば人類は存続し、2人が1人を作れば人類は半減し、2人が0人を作れば人類は滅亡するという単純さへ回帰するべきなんじゃないかなあ。でもこの理屈で言えば、0人を作り、人類から楽しみを搾取し、死を選択する予定がない誰かというのは、人間なるものに対する最悪の背信行為を行っているということになるなあ。こいつ、連想のくせに俺を追い詰めて死にたくさせるなあ。あと、某福音アニメで「使徒は知恵を身につけはじめています」「残された時間はあとわずか、ということか」だったかの台詞が最近、妙にひっかかってて、何でだろうって考えてて、あれは自分がクズであることに気づいている親が小さい子どもから、子どもの知恵の無さを利用する形でクズであることを隠していて、そうして子どもが成長していろいろ分別がつきだして、もしかしてうちの親ってクズなんじゃないの?と気づきはじめていることを見て親が恐れている場面を想像させるからかなあ。子どもをあれしてしまう親って、そんな恐怖に耐えられなくなってするのかしら。どうなのかしら。また冒頭に戻るけど、表現の自由ってみんな言うけど、もう表現は圧倒的に自由で、そのおかげをこうむって手で配布するより大勢に猥褻まみれ不道徳まみれのnWoを見てもらってるんだけど、表現の自由って聞くとカネもらわずにやってると、うんこを金銭売買する自由を守ってよって聞こえるなあ。ステーキは売っていいけど、うんこは売っちゃいけないよなあ。口から入ったステーキが内臓を通ってうんこへ変わるどの過程までを売っていいのかってことなのかしらん。いや、これってむしろ、ただのひがみだよなあ。
 とりあえず、日々こんなうわごとのような妄想に包まれながら、怠惰な性根の許す限りの懸命さで生きてます。

デモンズソウル


デモンズソウル


この、ファミコン時代の手触り感は、近年稀に見るnWo更新への巨大な障壁となった。よい大人が怒りにまかせてコントローラーを投げつけ、しばらくするとまた気まずげにひろいあげる。ポリゴンの、ドットの隅々にまで愛がゆきわたっているからだ。

イントゥ・ザ・ワイルド


イントゥ・ザ・ワイルド


世の中の真理は実のところ簡単な標語のようなものだが、そこへ血肉の実感を通わせるためには死に近い場所をくぐりぬける必要がある。この映画には頭でっかちな我々が、現代をたいらげるための皮肉な処方箋が描かれているのだ。つまり、「家族を大切にしよう」。

WALL・E


WALL・E


永遠に生きれば死なないのに、愛は永遠より短い。人間嫌いでフランケンシュタイン好きの小生にとって、物語前半は呼吸が停止するほどの傑作であった。けど、宇宙に出て舞台が広がった途端にテーマが狭まるのはどないやねん。