猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

セブンティーンアゲイン


セブンティーンアゲイン


カッチリと展開の組まれた堅牢なシナリオがすばらしい。それでいて、この作品は単なるワンノブゼムに過ぎないのである。頂点のみしか存在しない本邦の実写虚構分野とは異なり、その裾野が樹海の如く密集して広がっているのが実感できる。そして、それが頂点を更なる高みへと押し上げる機能を果たすのだ。ひるがえって、このクオリティに到達している頂点すら、本邦では数少ないという事実に思い至るとき、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

スラムドッグミリオネア


スラムドッグミリオネア


こういうのを売り込もうとか、こういうのを流行らせようとか、作り手を送り手の下に置いた「売らんがな」による受賞には、その作品を手に取る前に気持ちが萎える気難しい消費者であるところの俺様である。特に本邦の賞は、いま挙げた点においてどれも全く信用ならない。送り手どもは基本的に受け手の俺たちを全員馬鹿と思っているからであり、それ以上に作り手を不在にする人間への尊敬の無さには、機会さえあれば複数回ブン殴ってやりたいほどの立腹である。なので、評価されるべき作品が当たり前に評価されている単純さにすごく安心する。真に素晴らしいものは送り手の低俗な思惑を一蹴するのである。筋立てがご都合主義などという指摘は、先進国に特有の、精神病の描写をリアリティと賞賛する愚劣な態度なので、当サイトをご贔屓にするようなハイセンスの諸氏においては軽々と無視してよい。賢明な映画ファンであるところの俺様は、トレインスポッティングの続編という位置づけ視聴した。同じく社会の底辺を描きながら、人間への愛にたどりつく今回の結末に、ダニー・ボイルの遍歴を垣間見て、涙が出た。God is great.

真・女神転生SJ


真・女神転生SJ


映画は拘束される時間があらかじめ決まっているため、安心して没入できる。しかし、ゲームの場合そうはいかない。人生を時給計算する私は、プレイ中いつも時計が気になってしょうがない。今回も開始前、不機嫌にイヤホンを差し込みながら、確かに時計を確認したはずである。しかし、気がつけば室内は薄暗くなっており、時計に目をやればなぜか数時間が経過していた。これってもしかして、神隠し?

ザ・バンク


ザ・バンク


どの分野でもそうですが、最良のものとそうでないものって、簡単に区別がつきますよね。でも、俗に言う「B級」的なものと良いものの境界がどこにあるのか、指摘するのは難しいと思いませんか。はい、皆さん、注目して下さい。これがそれです。視聴開始1時間の時点では、この映画が「かっこいいぼくのかんがえたさいあくのこっかかんはんざいそしきぼくめつハードボイルド」になるとは予想だにできなかったのですから! しかしながら、積み上げられた伏線や人物造形のことごとくが物語の後半で放棄されてゆく様を見るのは、小生の如きすれっからしの享楽乞食にとって、ある意味では爽快と言えないこともありませんでした。

ある公爵夫人の生涯


ある公爵夫人の生涯


女にとってひたすら都合のいい、これだけ超絶ハーレクイン的な「実話」を見つけてきた時点で製作者側の勝利なわけですが、純情かつ知的な正しいおたくであるところの小生の清らかな心は視聴を通じてひどく汚されました。クソ忙しいのになんでこんなの見てんだよォォォ! 念願の男子出産ってオマエ、それ愛人の種に決まってんじゃねえかよォォォ! なんでそこスルーすんだよォォォ! このバカバカまんこ!

ダイアナの選択


ダイアナの選択


皆様のご想像通り、ユマ・サーマン目当てで視聴しました。人はただ己の生き方によってのみ、復讐されるというお話です。「エレファント」から少年の視点、「ボーリング・フォー・コロンバイン」から社会の視点をあらかじめ仕入れておくと更に深みが増すかもしれません。ところでこのオチですけど、はやってるんですかねえ。なんか最近よく見る気がする。

グラン・トリノ


グラン・トリノ


この映画は二重の差別意識により成立しています。まず、クリント・イーストウッド以外の俳優すべてがほとんど素人のようなクソ演技に留まるところに、ベテラン俳優である自身のみを引き立たせるための優越が滲んでいます。次に、あらゆる人種に対して差別意識を持つことで有名な白人ですが、とりわけ黄色人種に対する蔑視が最も深刻というところです。なぜなら、ラストシーンで主人公が昇華される宗教的な高みには、この世で一番軽蔑する何かに向けての自己犠牲でしかたどりつけないからです。冒頭、わずかに示される様々の人種へする差別的発言は、イエロー全般に向けた西洋人の差別意識を希釈ないし隠蔽するために用意された作劇上の小道具に過ぎません。この映画を絶賛するクソ評論家どもは、日本国籍を剥奪されてなお同じ発言ができるかどうかの強度をまず試されるべきです。ホワイトどもにとって、レイプされた東洋人など、己の信仰にとっての試金石ぐらいに過ぎないのですから。

ディーセンシー

 日々の労働の隙間に、ふと最近の更新などをつらつらと読み返してみて、ああ、人のいない方へいない方へと歩き続けた結果、本当に誰からの関心も理解もない場所にたどりついてしまったのだな、という寂寥を感じました。人の多い方へ歩いていかないから、ずっと何も起こらないとのだなと得心したのです。じぶんのナマの感情を油絵のように厚塗りで表現しても、結局できあがったものは絵画とも呼べない、暗号のごとき等高線状の隆起に過ぎないのです。それを芸術と称するのは、高慢なプライドがさせているか、気ぐるいであるかのどちらかでしょう。私の更新は、きっとそのどちらかでした。文章も、考え方も、生き方も、よりフラットで最大公約数的な共感を得られるほうを選択するべきなのです。もちろんそれに比例して、勘違いによる共感も増えるでしょうが、こちらが意図した解釈以外を拒絶するようでは、究極的な理解者はたった一人だけになりますから。
 私の話には、文系・理系というくくりが良く出てくるように思います。受験のシステムから逆算された無意味な定義かもしれません。しかし、個人の生き方と関連する区分けとしてそれを考えるとき、私は己が従事する場所の曖昧さをうらまずにはおれません。仕事の成否や価値を判断する基準について、という意味でとらえてください。例えば、数学のある分野における論文には、この世に片手ほどの人しか内容を理解できないものがあるそうです。しかし、その論文の価値は世界を構成する法則や真理によって絶対的に担保されています。立証すれば、多数決や政治を個人がくつがえせるのです(最先端の分野ではまた、個人の哲学や宗教観に左右されるところへ戻ってゆくようですが、ここでは置きます)。理系の学者は、ただ一人で世界に君臨することができるという点で、神に近い存在です。
 ひるがえって、文系の人々はどうかと申しますと、「多数の了解を得られるか」という点にすべてが帰着します。究極的に己の物語のレジティマシーを相対的多数に認めさせるという、支配・被支配の関係です。為政者としての作り手がいったん王国を維持するだけの民衆を得たならば、賞賛も不平もすべて彼の支配の下となります。王の出自の実際がどうかではなく、多数が彼の語る正統性を信じたかということが重要なのです。例えをわかりやすくするため、さきほどの数学の学者に対して、文系分野の学者を想定します。まず文学ですが、それはすでに滅んだ王国の歴史を紐解くのみで、原典の不変を信奉する点ではある種の宗教と変わりませんから、私が意図する現在進行中の物語の例えには不向きと言えるでしょう。くわしくありませんが、社会学あたりが適当でしょうか。さらにわかりやすくするために、王国の例としてアニメや漫画の作品を想定します。近年それらについて、いわゆる学者の方々がする文章を読む機会がとみに増えたように思います。しかし、注意深く見ていけば、ある規模を超えたヒット作に言及の限られていることがわかります。つまり、すでに多数によるレジティマシーを得た王へ、賞賛か不平かを言っているだけなのですから、彼は民衆のひとりであると定義できるでしょう。その知能に免じて情状酌量を与えるならば、臣下と言い換えてもいいかもしれません。 
 余談ですが、チョムスキーの生成文法が発表されたとき、とある英語学の権威が「これで我々は、あと十五年は食べていける」と発言したとの、まことしやかな逸話があるそうです。これまた余談ですが、英国の女王陛下が表敬に訪れた経済学者たちに「なぜ誰も世界不況を予測できなかったのですか」と無邪気に尋ねられたという話に胸のすく思いがしました。
 もしかすると私は、王であろうとする気概を持たない誰かに苛立っているだけなのかもしれません。しかし、「より良い物語が他のすべてを飲み込み、駆逐する」という残酷なシンプルさを掣肘できる特権を自ら進んで放棄しているのですから、文系の仕事に従事する者たちはいまや優秀な物語作家へ完全な敗北を表明し、進んで隷属さえしていると言えます。つまり現代において、誰も知らぬ王に戴冠させる教皇の職責は、いずこからもすっぽりと抜け落ちているのです。
 くだくだと長く書きましたが、何のために長く書いたかと言いますと、独自性の陽炎を目指して人の少ないほうへ私が歩き続けてきた歳月は、「この人を見よ」と杖をかざす老賢者のいない荒野をさ迷うがごとき不毛の行だったことを論理的に証明するためでした。もしこれ以後があるならば、せめて人のいるほうを目指して歩こうと思うのですが、手がかりのなさに途方に暮れる感じです。少女保護特区のエピローグ部分が更新されないのは、用意している内容が「虚構の高揚感に少し水をかけて現実と同じ温度にする」という、誰も望まない(しかし、いつもの)やり方だと自覚したからです。あのまま少々の尻切れトンボ感を残して放置したほうが、私自身の居心地の悪さをのぞけば、より多くの人がハッピーだろうなと考えたりしています。もしかすると、嫌悪を表明し続けてきたものに対して、無理に自分をそわせてみることがそろそろ必要なのかもしれません。

パセンジャーズ


パセンジャーズ


途中まで「カウンセラーによるカウンセラーのカウンセリング」オチかと思ってたよ! この結末をミステリー的にフェアなものとして許容できるかは、貴君が信仰を持っているか否かにかかってくるのやもしれぬ。許容できれば、タイトルの意味が反転するエンディングは心地よいのだろうと思う。ともあれ、小生がアン・ハサウェイ萌えであることは表明しておかずばなるまい。