猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ダイアナの選択


ダイアナの選択


皆様のご想像通り、ユマ・サーマン目当てで視聴しました。人はただ己の生き方によってのみ、復讐されるというお話です。「エレファント」から少年の視点、「ボーリング・フォー・コロンバイン」から社会の視点をあらかじめ仕入れておくと更に深みが増すかもしれません。ところでこのオチですけど、はやってるんですかねえ。なんか最近よく見る気がする。

グラン・トリノ


グラン・トリノ


この映画は二重の差別意識により成立しています。まず、クリント・イーストウッド以外の俳優すべてがほとんど素人のようなクソ演技に留まるところに、ベテラン俳優である自身のみを引き立たせるための優越が滲んでいます。次に、あらゆる人種に対して差別意識を持つことで有名な白人ですが、とりわけ黄色人種に対する蔑視が最も深刻というところです。なぜなら、ラストシーンで主人公が昇華される宗教的な高みには、この世で一番軽蔑する何かに向けての自己犠牲でしかたどりつけないからです。冒頭、わずかに示される様々の人種へする差別的発言は、イエロー全般に向けた西洋人の差別意識を希釈ないし隠蔽するために用意された作劇上の小道具に過ぎません。この映画を絶賛するクソ評論家どもは、日本国籍を剥奪されてなお同じ発言ができるかどうかの強度をまず試されるべきです。ホワイトどもにとって、レイプされた東洋人など、己の信仰にとっての試金石ぐらいに過ぎないのですから。

ディーセンシー

 日々の労働の隙間に、ふと最近の更新などをつらつらと読み返してみて、ああ、人のいない方へいない方へと歩き続けた結果、本当に誰からの関心も理解もない場所にたどりついてしまったのだな、という寂寥を感じました。人の多い方へ歩いていかないから、ずっと何も起こらないとのだなと得心したのです。じぶんのナマの感情を油絵のように厚塗りで表現しても、結局できあがったものは絵画とも呼べない、暗号のごとき等高線状の隆起に過ぎないのです。それを芸術と称するのは、高慢なプライドがさせているか、気ぐるいであるかのどちらかでしょう。私の更新は、きっとそのどちらかでした。文章も、考え方も、生き方も、よりフラットで最大公約数的な共感を得られるほうを選択するべきなのです。もちろんそれに比例して、勘違いによる共感も増えるでしょうが、こちらが意図した解釈以外を拒絶するようでは、究極的な理解者はたった一人だけになりますから。
 私の話には、文系・理系というくくりが良く出てくるように思います。受験のシステムから逆算された無意味な定義かもしれません。しかし、個人の生き方と関連する区分けとしてそれを考えるとき、私は己が従事する場所の曖昧さをうらまずにはおれません。仕事の成否や価値を判断する基準について、という意味でとらえてください。例えば、数学のある分野における論文には、この世に片手ほどの人しか内容を理解できないものがあるそうです。しかし、その論文の価値は世界を構成する法則や真理によって絶対的に担保されています。立証すれば、多数決や政治を個人がくつがえせるのです(最先端の分野ではまた、個人の哲学や宗教観に左右されるところへ戻ってゆくようですが、ここでは置きます)。理系の学者は、ただ一人で世界に君臨することができるという点で、神に近い存在です。
 ひるがえって、文系の人々はどうかと申しますと、「多数の了解を得られるか」という点にすべてが帰着します。究極的に己の物語のレジティマシーを相対的多数に認めさせるという、支配・被支配の関係です。為政者としての作り手がいったん王国を維持するだけの民衆を得たならば、賞賛も不平もすべて彼の支配の下となります。王の出自の実際がどうかではなく、多数が彼の語る正統性を信じたかということが重要なのです。例えをわかりやすくするため、さきほどの数学の学者に対して、文系分野の学者を想定します。まず文学ですが、それはすでに滅んだ王国の歴史を紐解くのみで、原典の不変を信奉する点ではある種の宗教と変わりませんから、私が意図する現在進行中の物語の例えには不向きと言えるでしょう。くわしくありませんが、社会学あたりが適当でしょうか。さらにわかりやすくするために、王国の例としてアニメや漫画の作品を想定します。近年それらについて、いわゆる学者の方々がする文章を読む機会がとみに増えたように思います。しかし、注意深く見ていけば、ある規模を超えたヒット作に言及の限られていることがわかります。つまり、すでに多数によるレジティマシーを得た王へ、賞賛か不平かを言っているだけなのですから、彼は民衆のひとりであると定義できるでしょう。その知能に免じて情状酌量を与えるならば、臣下と言い換えてもいいかもしれません。 
 余談ですが、チョムスキーの生成文法が発表されたとき、とある英語学の権威が「これで我々は、あと十五年は食べていける」と発言したとの、まことしやかな逸話があるそうです。これまた余談ですが、英国の女王陛下が表敬に訪れた経済学者たちに「なぜ誰も世界不況を予測できなかったのですか」と無邪気に尋ねられたという話に胸のすく思いがしました。
 もしかすると私は、王であろうとする気概を持たない誰かに苛立っているだけなのかもしれません。しかし、「より良い物語が他のすべてを飲み込み、駆逐する」という残酷なシンプルさを掣肘できる特権を自ら進んで放棄しているのですから、文系の仕事に従事する者たちはいまや優秀な物語作家へ完全な敗北を表明し、進んで隷属さえしていると言えます。つまり現代において、誰も知らぬ王に戴冠させる教皇の職責は、いずこからもすっぽりと抜け落ちているのです。
 くだくだと長く書きましたが、何のために長く書いたかと言いますと、独自性の陽炎を目指して人の少ないほうへ私が歩き続けてきた歳月は、「この人を見よ」と杖をかざす老賢者のいない荒野をさ迷うがごとき不毛の行だったことを論理的に証明するためでした。もしこれ以後があるならば、せめて人のいるほうを目指して歩こうと思うのですが、手がかりのなさに途方に暮れる感じです。少女保護特区のエピローグ部分が更新されないのは、用意している内容が「虚構の高揚感に少し水をかけて現実と同じ温度にする」という、誰も望まない(しかし、いつもの)やり方だと自覚したからです。あのまま少々の尻切れトンボ感を残して放置したほうが、私自身の居心地の悪さをのぞけば、より多くの人がハッピーだろうなと考えたりしています。もしかすると、嫌悪を表明し続けてきたものに対して、無理に自分をそわせてみることがそろそろ必要なのかもしれません。

パセンジャーズ


パセンジャーズ


途中まで「カウンセラーによるカウンセラーのカウンセリング」オチかと思ってたよ! この結末をミステリー的にフェアなものとして許容できるかは、貴君が信仰を持っているか否かにかかってくるのやもしれぬ。許容できれば、タイトルの意味が反転するエンディングは心地よいのだろうと思う。ともあれ、小生がアン・ハサウェイ萌えであることは表明しておかずばなるまい。

ウォッチメン


ウォッチメン


スリーハンドレッドの監督ということで、アメコミ・ヒーローの予備知識皆無の私が視聴した感想は、「バイオレンスジャック?」の一語に尽きましょう。ヒーローが実在した場合、世界はどのように救われるのかについて、たいへんシニカルですが可能性の高い結末が示されていました。でも、オジマンディアスの俳優が貧相なので一枚絵に耐えず、物語の終盤が画面的に辛かったです。あと、Dr.マンハッタンのペニスが割礼済みだった。

アフターウェディング


アフターウェディング


金持ち父さん、貧乏父さん。独特のカメラワークで最後まで退屈せずに見れた。にもかかわらず話の焦点が何なのかよくわからなかったのは、奥さんが出るたびにキルスティン・ダンストを想起した私の弱い心のせいかもしれない。

この自由な世界で


この自由な世界で


もしかすると資本主義は、選択されるべきではなかったのかもしれない。なぜなら、誰もこの過酷な思想の本質に耐えられないように思えるからだ。私たちはこの辺境で、いつまで夢の中に遊ぶことができるのだろう。

コミケットとわたくし

盆に帰るべき故郷もなく、ブヒブヒ言いながら苛烈な肉体労働で日銭を稼ぐわたくしを尻目にして、貴様らはどうせコミケットとか行ったりしてたんでしょう? ナントカさん、久しぶりッス!とか裏返った声で右手を後頭部に乗せながら発話してたんでしょう? これ、今度の新刊なんで!とかハスキーとは別種の形容を与えられがちな甲高い声で広告の裏へ身体に悪いインクでガリ版刷りの紙束を誇らしげに交換していたんでしょう? 精細に膣の内奥を描写できる貴様らは、むしろ労基署の方へ顔を向けながら与えられるコンビニの自給より少ない日当を得るわたくしを尻目に、非課税の不思議な五百円玉や千円札をたくさん手に入れたんでしょう? 親世代となった親業無自覚のおたく共が連れまわす着せ替え人形と同義の女児がその意味を理解せぬまま取らされる扇情的なポーズに貴様らはカメラを向けたんでしょう? 汗をぬぐうふりでよだれをぬぐいながら貴様らは、コミケット参加者の低年齢化には社会的な義憤を感じますよ、ナントカさん! 薄布で擬似的に二次元キャラの表皮を形成することで快楽を得るという、未だ名付けられぬ精神疾患の持ち主どもが鏡の前で練習してきた薄ら笑顔を張り付かせるのに、貴様らは舌なめずりしてたんでしょう? 若者の性風俗の乱れ、有名人の顔面を精細に描写した長方形の紙片と交換にきっと彼女らとは交歓におよぶことができるのでしょう? 馬鹿にしないで! わたし知ってるんだから、そのくらい! そして、あの有名な、身体に悪いインクでガリ版刷りした売れ残りの紙束を投げ込むことで火勢を強める最終日のとんど焼に蝟集して行われる、擬似的二次元キャラとの大乱交大会を貴様らは楽しんだのでしょう? 常人を倍する脂肪を運送した肉厚の貴様らは頭髪と入れ替わりに前進した額を脂でてらてらと光らせながら、常人を倍する速度で次々と性的絶頂に達したのでしょう? 夜明けの電車を悪臭で充満させながら先端をちり紙でぬぐうときの、社会性を逸脱した貴様らの笑顔はさぞかし素敵だったのでしょう? そして貴様らは、毎年この時期にコミケットに行かなかった旨を記述するわたくしは、さぞかしコミケットに行った貴様らをうらやましく思っていると思っているのでしょう? うらやましくなんかないもん! 全然行きたくなんかないもん! 純潔のほうが大切だもん! 来年もぜったいにわたしを誘っちゃダメ! ダメなんだからね!

チェ


チェ


「モーターサイクルダイアリーズ」「チェPart1」「チェPart2」「コマンダンテ」の順に見れば、すごく贅沢な感慨に浸ることができます。ぼくと君の世代に共通した、自己憐憫たっぷりの我が我が口調を反省したい気持ちになれますね。あと、賢明な諸氏においては改めて指摘するまでもないと思いますが、念のため。“生きながら萌えゲーに葬られ”の一節であるところの、「思えば高い代償であるが、おたく以外の人間による不断なるおたくの収奪を根絶したいと願う純粋な熱情によって、それは実現可能となるはずだ」は、氏に関する著作からのパロディです。え、気づいてなかったって? この、モンモウ教徒め!