猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「バービー」感想

 ほんの一時期、オッペケペーみたいな映画との抱きあわせ商法で話題になっていたバービーを、アマプラでようやく見る。個人的には、コメディ・ミュージカル・社会風刺のいずれにも振り切れていない、じつに中途半端な作品のように感じましたけれど、どうも頭文字Fの観点から読み解く態度がネットでは主流のようです。以下は、幼少期に人形遊びをしたことがない性別の人物ーー頭に浮かんだのは、どちらですか?ーーによる、そんな視点での感想文と思ってください。端的に言って、我々サイドの本性は「邪智・性欲・暴力」から成り立っていて、本作に登場する人物たちはマテル社の重役連をふくめ、決定的にこれらの要素を欠いており、その外見がどうであるにかかわらず、全員が我々とは異なる方の性別に属していると言えるでしょう。「暴力による死と、その究極へ至る道程に横たわる不倶のグラデーション」を予期しないですむ、劇中で行われているような話し合いによって、何か有益かつ有効な結論が導かれるとは、とても信じられません。同様に、ネットでの議論が社会の変化へと結実しないのは、まさに死を前提とするフィジカル・イコール・肉体の破壊を伴わないからであり、「全裸の範馬勇次郎と密室に閉じこめられたときに言えない言葉」さえ気軽に発信できてしまうことが、レギュレーション上の不備であると指摘できるでしょう。ある不快を感じたとき、外的な抑止が無ければ「不可逆な地点まで、無言で対象をなぐり続ける」ことこそ、我々が持つ偽らざる性質であり、とりかえしのつかない死を大量に発生させないため、「法律・婚姻・国家」なる自縄の概念をみずから作りだすことで、自縛による死の回避を試み続けてきたのです。

 かつて人形遊びをする側の性別は、「邪智・性欲・暴力」の本来をたわめないまま、間接的にそれらをコントロールする手法に長けていました。なぜなら、異なるルールを持つ小集団が割拠する場所では、他の集団から向けられるそれらの毒を、同じ毒をもって制する必要があったからです。そこから長い時間をかけて、同一のルールを共有する集団の規模は併合によってどんどん大きくなり、めったに死を伴う争いが生じなくなった結果、かつて有効な手段として乗りこなしていた「邪智・性欲・暴力」を不愉快なものとみなし、ゼロへと希釈しようとする内向きの動きが発生します。しかし、それは自分たちが文明と定義する埒外への想像力を欠いた運動で、他の集団において脈々と受け継がれる「邪智・性欲・暴力」に対して、むきだしの無力をさらけだす危険性を裏腹にはらんでいます。その執拗な、例えるならば陰茎にするハモの骨切りがごとき思想未満の思惑は、近年ではフィクション全般にもおよんできており、雑に言いますと、プリキュアやマーベルによる特定の性別への「物理的な」エンパワメントは、文字どおり字義どおりの虚構かつ虚妄に過ぎないことは、次の世代へキチンと伝えておく必要があります。人をなぐったことのない若いオタクが、人形遊びをする側の性別を「フィジカルにひいでた属性」と心から信ずる姿勢は、人類全体の価値観を一様化することの困難さが証明され続けている現在、未来において有害な瞬間をもたらしかねないことを、くりかえし何度でも強調しておくべきではないでしょうか……

 オップス、最近の陰鬱な精神状態にひっぱられて、なんだかオンナ子どもをムダに怖がらせるしゃべり方になっちゃってたね! ちょっとモードをーー眉間に皺を寄せた劇画調から、ポップなトゥーン調の顔面にモーフィングするーー変えて、本作のクスッと笑えるブライト・サイドについてお話しするね! この映画の面白いところは、リアル人体にドールと同じ動きをさせていることなの! ジェニーやリカちゃんの両脚を180度回転させて、ツルツルおマタをオッぴろげた逆八の字ポーズにゲラゲラ笑った記憶って、だれにでもあるわよね! そんな「ドール遊びあるある」が、全編にわたって小ネタとして挿入されてるんだけど、中でもアタシのお気に入りは、「床に放置されたバービー系の人形は、必ず顔面を下に伏せた状態になる」というマーフィーの法則(古ッ!)を再現してるとこなのよ! 人間がうつぶせになるときって、高い鼻が邪魔になるーーえ、アジア人の話なんてしてないわよ?ーーから腕を枕にしたり、顔を横に向けたりするじゃない? なのに人形の演技をしてるもんだから、両腕をまっすぐ体のワキにそわせたまま、鼻から地面に顔をつけてんのよ! 美人のパツキン女優が全力でそれをやってんのがおかしくっておかしくって、アタシひさしぶりに涙がでるほど笑っちゃった! ベセスダゲーの死体がときどきハチャメチャに笑えるのも、これが原因なのかもしれないわねえ(目尻の涙をぬぐう)! それにしても、戦火から遠い文明国に住むマイノリティ人種でシングルマザーな家庭が抱える葛藤ーートゥーン調から、劇画調の顔面へとモーフィングするーーなんてもうだれも、1ミリの興味関心もねえよなァ!

 ……などと、世情と季節に起因する気持ちのアップダウンにふりまわされていたのですが、ついさきほど原神の最新ストーリーをしょぼくれた顔でプレイしていたところ、”Love is destructive”なるアチーブメントの達成を目にした途端、たちまち大破顔となって、すべての憂悶はふきとんでしまいました! うわー、やっぱりキミら、フォンテーヌ編は確信犯でやってるんやないの! 中華の若い世代がつむぐ、旧エヴァ劇場版の堂々たる先の先を、ワテに力いっぱい見せておくんなはれ! なぜって、同じ意図で始まったはずの、本邦の若い世代によるマーキュリー・ガンダムは、見るも無惨な大失敗に終わってしまったからなァ!(だいぶ不安定だし、もうバービーと関係ない)

ゲーム「FGO『白天の城、黒夜の城』」感想

 聖杯戦線の最新イベントをクリア。このコンテンツ、盤面でキャラの性能差を表現できない以上、どうひっくり返したってシミュレーションゲームにはならないのに、「難易度が無駄に高い上に、コンティニュー不可能」という、FGOの中でもかなりキライな部類のコンテンツでした。それが今回は、「コンティニューありのイージーモードで、物語にスパイスをきかせる程度のSLGゴッコ」にとどまっていて、本邦の課金ゲーム最有翼としてホヨバの世界的調整ーー人種、年齢、性別、学歴など、プレイヤーの属性が何であれ、数回の試行で必ずクリアできるーーからようやく学びを得たなと感じました。しかしながら、最終戦だけはまごうことなきタワーリング・シットであり、指さし確認してターン終了したのに、ランダム無限リポップの敵がマスターの隣に出現し、3回連続でなぐられて敗北となったときは、しばらくぶりに心の底からの絶叫がほとばしりでました(遠くから近づいてくるサイレンの音)。ストーリー展開もひさしぶりにFGOらしいもので、「敵サイドの際限なきインフレーション」と「絶望的な状況から起こす奇跡の大逆転」が魅力的な筆致で描かれています。

 また、「王とは何であるか」の語りも、無印Fateからずっと引き継がれてきたテーマだと思いますが、己の人生の変遷もふまえた上で、非常に考えさせられる内容でした。「王の決断は、いつも最善になってしまう」というフレーズがまさにそれで、「トップの発した言葉が検証を経ないまま即座に組織の隅々まで浸透し、部下たちがその実現へ向けてフルスロットルで動きだす」という光景は、その集団に属さない人間にとっては恐怖でしかないでしょう。上に立つ者の決断を「最善にする」のは、常にナンバー2以下の仕事であり、調子のいいときの組織は現実そのものさえ変容させていきますが、いざジリ貧になってくると現実を描写する情報の方が曲がっていくのです。「トップの孤独と、セカンドの地獄」という言葉は、どんな人間集団にも当てはまるものなのかもしれません(余談ながら、大企業にとってナンバー1のすげかえは「社長の代がわり」にすぎないのかもしれませんが、中小企業にとってのそれは「古代における王の死」と同じ重さを持ちます)。

 「王の器」というのは確かに存在していて、それは能力の多寡といっさい関係がなく、品位や魅力さえ実体に比べれば添え物にすぎません。「王佐の才」は人工的に作りだすーー最高学府の就職先に、外資系コンサル会社がズラリーーことができますが、「王の器」はただただ出現するのを待つしかない。「王の器」とは、あらゆる人間集団に必要な「決断する機構」のことであり、その作家人生を鳥瞰するにつけ、奇跡的に思想と物語のバランスが取れていた頃の作品である「銀英伝」に青春を汚染された者たちは、「最良の君主制と最悪の民主制があったとして、我々はいつも後者を選ぶ」という態度を美徳のように語りますが、いったん管理側に回れば、どんなに民主的な組織にも「決断する王」が必要なことは、骨身で理解できるでしょう。今回のイベントにおける「王の決断は、”必ず”最善になってしまう」という言い様はけだし名言であり、当人の抱く恐怖と裏腹に、世界のクロノロジカルな「再試行不可能性」によって、その実現性は常に担保されていくのです。

 一介のライターにすぎない人物が、この真実を知っているのは驚くべきことだし、もしかすると10年近いFGOの運営を通じて、組織が拡大するにつれて食わせねばならない人間の数が増えていく事実に、以前までの書生的かつ観念的な「王の話をしよう」ではない、他ならぬ「王の自覚」が身内に芽生えたゆえなのかもしれません。これこそ、私がファンガスを最果ての塔に閉じこめておけと念ずる理由であり、もし彼/彼女がSNSなどやっていようものなら、「会社経営と有名税つらいお。あの頃のいちオタクに戻りたいお」みたいなツイートに雨散霧消しただろう愚痴が、本イベントにおいて極上の物語へと変換されたのは、「王の孤独」を身にまとったからではないでしょうか。SNSにアカウントを持っている作家のことごとくを信用できないし、彼らの著作を手にとろうとも思わない理由は、まさにこの一点です。それにしても、この至高の物語変換装置が私の脳にもそなわっていればな……という愚痴ツイートによる、物語原型の雨散霧消で終わります。

雑文「STARRAIL SENSATION(近況報告2023.10.26)」

 崩壊スターレイル、PS5版の登場による実装分を最後までクリア。以前、「西洋のSFは空間の横軸的な広がりを志向するのに対して、東洋のSFは時間の縦軸的な経過を志向する」と指摘しましたけど、新キャラの専用イベントを通じて、その確信はますます強まりました。さらに、ファンガスの記述するFGOが「生命の一回性を通じて、人間讃歌をうたう」一方で、崩スタは一貫して「不死は呪いである」と繰り返すことで「定命である尊さ」を逆説的に浮きあがらせることに成功しているのです。メインストーリー部分では現在、ロシアと中国をモチーフにした2つの惑星が実装されていて、中華人民とその歴史を魅力的に語るーー皮肉ではないーー段階をようやく終えて、今回は3つ目の惑星へと旅立つまでの幕間が描かれたのですが、いまを生きる人々が読むべき緊張感をはらんだ内容となっています。幹部たちが2つ名で呼びあうカンパニーなるアメリカ(の企業体)相当の組織が登場し、先祖の残した数百年前の借金をカタにロシアへ主権を売りわたすよう詰めより、その代わりに極寒の大地をテラフォーミングでかつての温暖な気候に変えてやると迫る。若い君主が国体の維持と国民の幸福を天秤にかけられて苦悩する中、日本人・中国人・ドイツ人・異星人から構成される「列車組」ーー武力介入しまくるので、国連というよりは「沈黙の艦隊」的な存在ーーが両者の調停に立ちあがる……どうです、そこの未プレイ組のアナタ、読みたくなってきたでしょ?

 パッと見は、美少女・美青年を美麗に彫刻する超絶3Dモデルの「萌えゲー」なのに、ほんの一皮をめくれば現代の世相に対して、かなりハードに接近した物語になっている。そして、すべての組織のメンツをつぶさないまま、「絶対悪」を想定しない解決を語りきる手腕は、もう脱帽という他ありません。まさに、ホヨバの企業理念である”Tecn Otakus Save the World.”を、絵空事ではなく実践してやるんだという気概が、ビンビンに伝わってくるのです。かつて栗本薫が好んで使った「飢えた子どもの前で、文学は有効なのか?」という問いに、彼らは「少なくとも、私たちは有効だと信じている」と歯を食いしばりながら答えるだろうと信じさせてくれる。この、創作物を用いて現実と真正面から対峙する「意気と視点の高さ」は近年、界隈において見つけるのが難しくなってしまったものでもあります。そして、これだけ今日的に重要な課題に取り組んでいるにも関わらず、崩スタにせよ、原神にせよ、本邦において批評的な言説の俎上にのぼるどころか、ほとんど感想をさえ見かけません。今回の幕間劇は、「どれだけキレイごとをならべても、最後の解決は暴力によって行われる」という矛盾、すなわちJRPGというシステムの宿痾に対して、アンサーを与えるべく苦心しているようにも見えるし、かつてのエロゲー全盛期に存在した「傍流に一流が集結する」、あの梁山泊的な熱気が吹きあがっていて、現在進行形で追いかけるべきゲームであることを、強く感じさせてくれます。

 古いオタクたちは、16bitセンセーションなる「初老男性の懐古的な自分語り」を目的とした昭和の談話室に引きこもるのはやめて、令和の不愉快な黒船である崩壊スターレイルをこそプレイするべきだと、ここに断言しておきましょう。ゲイカ、あっちのアニメの制作者インタビューにもイヤイヤ目を通しましたけど、どうしたらあの本編からこの内容が出てくるんだという感じの、コンサルそっくりの語り口になっていて、「いやー、豪華なパワポやねえ」というのが、商材の実際を見てしまった者のいつわらざる感想でした。「どんなガラクタでも売ってみせますよ」というのは、居酒屋で放言する個人の自負としてはけっこうなことですが、企業としては魅力的な製品を作っていただくことが、まずもって先決ではないでしょうか、知らんけど。その点、ホヨバさんの商品はどれもこれも生地と縫製がしっかりした(て)はるわー。今後も贔屓にさせてもらいますさかい、あんじょうよろしゅうお願いします。

アニメ「16bitセンセーション」感想(2話まで)

 16bitセンセーションを2話まで見る。特定の世代の、特定の趣味嗜好を持った人物には、ナナメ方向から鋭角にブッささるクリエイターの名前を目にしたのと、PC-98のゲームを模したドット絵によるプロモーション画像にひどく想像力を刺激されたことが視聴のきっかけでした。「”To Heartから20年”的な内容を、斬新なドット絵アニメによって表現する、今期の鉄板ヘゲモニー」みたいな期待のブチあげ方をしていたこちらが悪いと言えば悪いのですが、正座待機の眼前に始まったのが、脚本・演出・アニメーション、いずれをとってもひどくチープな「クオリティが低い側の昭和アニメ」だったのには、心の底からガッカリしました。全体的にただよう古くさい雰囲気ーーテーマ由来ではないことを強調しておくーーの中でも特に問題なのは、主人公のキャラクター造形でしょう。2023年現在、高卒で就職していると仮定して、いまどきのハタチ前後にこんなシーラカンス級のオタク女子などいるはずもなく、ほとんど「最後に個体の生存が確認されたのは十数年前」みたいな記載がレッドデータブックにあるレベルで、作り手の感覚と観察が、ある時代で完全に停止してしまっていることを如実に表しています(「どん底のぞこ」って口グセもだけど、令和の御代にこんなキャラ立てする?)。

 さらに言えば、エロゲーの歴史を語るのに秋葉原を無思考のオートマチックで持ってくるのも、シンカイ・サンが先鞭を付けてしまった「地域振興結託アニメ群」を前にすると、アンテナの低さみたいなのを感じざるをえません。もちろん、関西在住のオタクとしていつもの「トーキョー部族の内輪ウケ」に対する恨み節が半分なわけですが、ここまでの内容的にも、秋葉原という土地は別の場所へ置換可能ですので、恵美須町駅から南海難波駅に至る一帯ーー日本橋と書くと部族の偏った知識に誤読されてしまうーーを舞台にするぐらいの機転はきかせてほしいものです(初めて言いますが、拙テキスト「美少女への黙祷」の舞台はここです)。3話以降が「スタートアップ企業の部活動的な楽しさ」に再び焦点を当てるのか、「エロゲー黎明期に存在したロストテクノロジーの博物館的保存」を目的にするのか、はたまた「レッドデータ少女の大作エロゲー制作奮闘記」が描かれることになるのか、いまの段階ではまったく予想がつきません。ただ、2話までの印象は、高い期待が反転した結果としての「どん底のぞこ」であることをゲイカ、お伝えしておきます。

 アニメ「16bitセンセーション」感想(最終話まで)

雑文「政治的ヌヴィレット礼賛(近況報告2023.10.13)」

 原神の第4章、ヌヴィレットの伝説任務をクリア。諸君に「アカの手先」と思われたくないので、もう二度と言及するまいと心に誓うのですが、ストーリーのすばらしさが毎回それを超えてくるのです。課金量を調整するため、「男性キャラは引かない」というハウスルールを敷いている萌えコションにも関わらず、終盤のムービーにおける「水龍、水龍、泣かないで」のセリフにふいをつかれて号泣し、ナヴィアとフリーナのためにとっておいた原石をすべて吐きだして、ヌヴィレットを引いてしまいました。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのときにも少し触れましたが、オタクの自己定義とは、正しい見本や教育を得なかったために人としてのふるまいを教わらず、「人間社会にまぎれこんでしまったエイリアン」として毎日をやり過ごす者であると指摘できるでしょう。それゆえ、己の日々の苦闘や人生の辛酸を体現するかのような「人に憧れ、人を知り、人になろうとする」キャラクターたちに、とても強く共鳴してしまうのです。「感情を排して論理的にふるまおうとするためにセルフケアがおろそかとなり、結果それがむきだしのウィークポイントとして露呈する」ーー古いオタクに自己投影を促してきた、おそらくはミスター・スポックを源流とする人物造形の最新のかたちが、ヌヴィレットの上に表れています。

 書き手にとって、かなり取り扱いの難しいキャラクターのはずですが、本人にはいっさい感情を語らせないまま、周囲の言動や時々の情景をていねいに描写することで彼の内面の輪郭が浮かびあがる図式は、じつに見事な手さばきです。さらには描写されたその内面が、「もっとも賢い者が持つ心の陥穽と、長く続いた差別構造の解体」というストーリーラインへと自然にリンクしていく。原神が導く「どうすれば、この世から差別がなくなるのか?」という究極の問いへの回答は、ズバリ「争いをやめてから、数百年が経過すること」であり、ここには差別の解消が進んでいくにつれ、ある段階において人権活動が構造解消の足かせになることへ向けた批判すら含まれています。「同じ過ちを繰り返さないため」という表向きの題目が、その裏で「活動によって己の口を糊すること」につながっていないかを自覚し、抵抗運動の自己解体までを差別の解消に織りこむことは、おそらく容易なふるまいではありません。近年の世界情勢を見るにつけ、「数百年に向けた数十年の前進が、またゼロからのふりだしにもどった」ような状況は慨嘆にたえませんし、「『だれもが死ぬ』という事実が教育を生んだが、教育では多くの憎しみを消せない」というシンプルな無力感は痛切ですが、原神のストーリーは「真に世界市民的」な態度でそこへ向きあっており、我々の見る現実と物語のシンクロニシティが意図的か偶然かに関わらず、「いま」を生きる同時代のだれかによってつむがれているということが、ひしひしと伝わってくるのです。

 12の言語で世界展開するゲームのストーリーを語る主体は、自国による文化的検閲や各国の政治情勢について、けっして無頓着ではいられないでしょう。最近どこかで「学生運動を正しく鎮圧できなかったことが、過去から現在に至るまで本邦の大きな負債となっている」という指摘を見かけましたが、マネジメント側から見ると大いにうなづける話です。これは刑罰を適切に与えなかったという意味ではなく、「自分たちが間違っていた」と彼らに思わせることが、ついにできなかったという話なのでしょう。本邦において、一定の歳月を耐えた組織に根深い野党的な言説というのは、「母体に害をなす致死性のヴァイラス」であり、発熱によるこらしめにとどまらず、後遺症を残したり、死につながるような暴れ方さえする。自分たちの非をいっさい認めず相手を悪魔化して糾弾し、譲歩を引きだしたり妥協点を見いだすことではなく、批判する姿勢を仲間や周囲に見せることが自己目的化している。最近のフィクションで言えば、昭和の活動家が用いた左翼的論法を無意識のうちに内面化したファイナルファンタジーの最新作などに、「学生運動を正しく鎮圧できなかった名残り」を見ることができます。「世界を変えず、己が負けない」論法を便利な手段として後の世代が学んでしまったのはつくづく大きな負の遺産であり、本邦の歴史に根ざした品性に欠けるその「土着ぶり」は、村上春樹などよりもずっとノーベル文学賞が求める資質ーーqualityではなくnatureーーに近いものだと言えるでしょう。

 大幅にそれた話を元へ戻しますと、昨今の「物語から書き手の内面を想像するな」という意見には、私はまったく同意できません。その主張を認めるならば、同じ題材やテーマで充分に完成された古典がすでに山ほどあるわけで、人類が「異曲」をつむぎ続ける理由とは、商業的な要請を別とすれば、同時代を生きるだれかの生が否応に作品へと混入し、その語り方を変じるからなのです。原神のつむぐストーリーは、両手足を縛られたようながんじがらめの状況から深く思考して、「どの国の、どの年代の、だれにとっても不快ではない」ラインを見きわめた針の穴を通すストーリーテリングを徹底しており、この創作手法こそが真の意味での「政治的な態度」だと言えるでしょう。あと10年もすれば、「テロリストをアイドルと奉じる一群」は死や恍惚によって現世への影響を完全に失います。そこからさらに半世紀も待てば、「被使用者から使用者への逆差別構造」は消えてなくなるはずです。その日を心待ちに、せいぜい長生きしましょう、マネジメントを生業とするご同輩! あと、永野のりこのマンガに青春期の一部をコンタミされていたので、第4章のプレイ中、エリック・サティっぽい一部の楽曲に、なんだか学生時代にタイムスリップしたみたいな感覚を味わったことを、最後にお伝えしておきます。

アニメ「葬送のフリーレン」感想(4話まで)

 葬送のフリーレン、アニメ版を4話まで見る。金曜ロードショーでの一挙公開と聞いていたので、推しの子1話拡大版みたいなリッチさを期待していたのに、マンガ版の絵の密度と動きをそのままトレースしたようなプアさで、「これをゴールデンタイムで流すなんて、よくぞそんな大バクチをしようと思ったな」と逆の意味で感心しました。原作のストーリー展開については、まだベターになる余地がけっこうあると感じていたんですけど、本作は近年における「人気作品のアニメ化」のご多分にもれず、ストーリー展開はもちろんのこと、セリフまで一字一句たがわず(たぶん)、そのまま再現されています。昭和時代のアニメには、全共闘くずれのアニメーターが「原作をグシャグシャに換骨奪胎して、己の思想を表現する道具として使う」みたいな作品がよくあったじゃないですか(ミスター味っ子のアニメが面白かったので原作を読んだら、キャラと設定以外はまったくのベツモノで首をかしげたことを昨日のように思い出します)。他者の創造へ対するレスペクトにあふれた「お行儀のいい」アニメ化ばかりを目にしていると、ああいう原作無視の大狼藉をまただれかにやってほしいなー、などと無責任に考えてしまいます。

 ドラゴンクエストの世界観ーーなぜかファイナルファンタジーが用いられることはないーーを剽窃して、物語のビルドアップをそこへ丸投げする例の作品群を見ていていつも思うのは、「魔王」はゲーテかシューベルト由来、「エルフ」や「ドワーフ」はトールキン由来の概念として、広く人口に膾炙しているのだろうと百歩ゆずっても、「勇者」という単語だけは個人のテンポラリーな状態に対する賞賛の形容に過ぎないわけじゃないですか。古典的な教養の段階に達するほど年月を経ていない若い文化の用語の、さらに特殊な定義を読み手へと押しつけて、まっさらな物語を始めるのに必要な説明をスッとばす横着な感じは、説明なしの「勇者」概念を見るとき、いつも気になります。その疑念は同じくあるにせよ、後発のフリーレン(notダジャレ)が、雨後のタケノコのごとく乱発されている「転生ドラクエ大喜利モノ」をじっくりと観察した上で、「人生の終わりが彼方に見え始めたドラクエ世代」へ向けたボールを投げたのは、オタク文化の成熟を意識した慧眼だったと言えるでしょう。

 しかしながら、「正しい看取り」というテーマと「週刊誌の連載」はまったくの水と油になっていて、この2つを両立させることはきわめて難しいバランスであると感じざるをえません。なんとなれば、すでにハンターハンターの念を彷彿とさせる魔法バトルの挿入による引きのばしが始まっており、「他ならぬ原作者が、原作の持つ魅力の本質を理解していない感じ」がある種の不安として、ずっとつきまとっているからです。最新刊においては、ついに過去の勇者と現在のフリーレンが互いの肉体に触れたり、意思疎通のできる状態での追想編が始まってしまいました。人生も後半戦に入ると、だれしもが「二度とくつがえせない過去の悔恨」を大なり小なり、何かしら抱えているものでしょう。多くの場合においては、アルコールの力を借りた曖昧化による回避などが行われるのでしょうが、良質なフィクションがつむぐ「別の手段、別の機会、別の相手によって痛みをやわらげ、その一部をいやす」という成熟の処方箋は、きっと現実に対しても有効だろうと私は信じているのです。「死者と直接に対話して、後悔をやりなおす」なんてのは、凡百のループものとまったく同じ、幼稚きわまる大ウソの解決じゃないですか。「フリーレンが、新たな旅の仲間を看取る(あるいは、看取られる)」のを真正面から描くことでしか、この物語が正しく閉じることはないと、ここに断言しておきます。

 今回、マンガの朗読劇みたいなアニメを見ながら頭の片隅に浮かんだのは、血を分けた盟友の最期を看取った82歳の宮﨑駿が、常のごとく原作を完全に無視した2時間の劇場版で葬送のフリーレンを作れば、おそらく私がもっとも見たい形で作品のテーマは昇華されるだろうという妄想でした。そこまではのぞめなくとも、5話以降はバトルシーンをすべてオミットして旅を進めて、最終話でフリーレンの死が語られるぐらいはやってほしいものです。本来、マンガとアニメは別々のジャンルなんだから、全体の1%にも満たない狂信的かつ偏執的ファンなんてガン無視して、ぜんぶ昭和アニメみたいな「アナザー」や「イフ」をやればいいんじゃないですかね、もう。

 

漫画「ベルセルク42巻」感想

 ベルセルク42巻を読了。本作の熱心なフォロワーではなくなってひさしく、特に単行本の刊行に1年以上の間が空くようになったあとは、前巻までのストーリーを忘れたまま流し読みして終わりくらいの温度感でいました。新たな体制によるベルセルクへの雑感を述べますと、台詞が少なくなり、コマ割りが大きくなり、背景ではなく人物が中心の作画ーーほぼほぼマシリトの指摘どおりーーになったなあぐらいのもので、狂信的な方々がツバをとばしておっしゃる「まったくのベツモノ」やら「ほとんど同人誌レベル」やらの指摘には、まだ本作に対してそんな熱量が残っているファンが存在したことへ、純粋に驚く気持ちが先に来ました。すでに「絵画作品」と化していた原作のストーリーがこの速度感で畳まれていくのなら、まことに不謹慎な言い様ながら、むしろ作品にとってよかったのではないかとさえ感じております。つくづく思うのは、特に10年を越える連載期間を持つマンガは、作者にとっては次第に人生そのものと癒着して不可分になっていくのに対して、読者にとってはどんどん人生と乖離してどうでもいいものになっていくということです。

 かつての長期連載マンガとは、「美味しんぼ」とか「ゴルゴ13」とか「浮浪雲」とか、”大人としての個”がすでに確立した者へ向けた、青年誌のものばかりだったように思います。「マンガやゲームなどは文化未満の、くだらないもの」と断じて一顧だにしなかった世代が現役をしりぞき、現世からも退場することで、人生のステージが変遷する際に、「マンガを帯同して持ちあがること」への抵抗感が社会全体で薄れ、徐々に「一定の年齢でかならず卒業すべきポンチ絵」から「一生涯にわたって楽しむことのできる文化」へと変質していったのでしょう。ことほどさように、社会の変化とは旧世代の死によってしか引き起こされないものなのです。個人的には、スケートボードやブレイクダンスがもてはやされる近年の風潮を、唾棄すべきものとして心の底から嫌悪していますが、私の世代の死によってそれらの文化は「社会が当たり前に受け入れるもの」として完成するにちがいありません。

 それた話を元へ戻しますと、マンガが社会に受け入れられる過程で失われたのが「少年マンガ」というカテゴリであったのだと、あえて断言させていただきます。いまや10年を越える連載も珍しくはなく、20年になんなんとする作品が雑誌の看板をはっているーーこの状況に、私は「少年マンガ」なるものの消滅を見るのです(「クリエイターがクリエイターに向けて作品をつくるようになった」ことも影響していると考えていますが、長くなるので割愛)。偉大なるコロコロコミックが小学生のみをターゲットにしぼり、「児童マンガ」のカテゴリを堅守し続けているのに対して、「週間少年ジャンプ」はもはや大人相手の商売に変わってしまっている。私の定義する「少年マンガ」とは、「コロコロコミックを卒業した中学1年生が、受験や就職をむかえる高校3年生までに体験し終えるもの」であり、これを満たすためには連載期間は長くとも5年以内に収まらなくてはなりません。近年では「鬼滅の刃」がこの定義に該当し、中学1年生でキメツに出会った少年は、少年という属性を失う前に物語の終わりまでを体験できたがゆえに、彼の心の中でその後に通過するあらゆるマンガとは異なった、特別な場所を与えられることになるのです。

 因果を逆にして言えば、我々の社会が「大人」を喪失して、ネオテニー的な未成熟を許容するものに変質していっているのは、20年を越える長期連載マンガがその元凶であると指摘できるでしょう。不惑を過ぎたオッサンが、毎週月曜日に「ゴム人間の展開、アツい!」とか言ってるんじゃあないぞ! むしろオマエの尻のほうに火がついて、人生が熱くなってるんじゃないのか? みんな、マンガ連載の長期化には、これまでのように消極的な黙認ではなく、ガンガン積極的な「ノー」を編集部へ突きつけていこう! 興味はあるけど、寿命とのレースが怖くて、「じゅぢちゅ廻戦」に手をつけることができない、舌の短い美少女オジサンとの約束だぞ!

ゲーム「スターフィールド(1週目クリア)」感想

 ゲーム「スターフィールド(開始20時間)」感想

 スターフィールド1周目クリア。もう少し引きのばす予定だったんですが、それもこれもコラ・コーとのロマンスがない事実に絶望し、次点としてお顔のいいアンドレアを連れてネオンの歓楽街をねり歩いていたら、なぜかスターパワーが暴発してしまい、市民をまきこむ阿鼻叫喚のチマタと化してしまったのが悪いんです。警官たちに追われながらも、ほうほうの体で宇宙船に乗りこんで他星系へとジャンプして、やれやれとふりかえったら、なんだかアンドレアの機嫌がすごく悪い。あれだけデレデレだったのに、「最小限のやりとりにしましょう」とか「あなたとは距離をおいたほうがいいと思う」など、現実の女性がキモオタにするような態度へと豹変しているのです。「どしたー、ピー・エム・エスかー?」などとオドケて肩をたたこうとすると、「さわらないで!」とピストルを突きつけてくる始末。ホールドアップの姿勢のまま泣く泣く彼女を下船させてから、突然の別れによる傷心をいやすため、ペンディングにしていた聖堂巡礼の旅へと出かけることにしました。この決断が、最悪だったのです。

 なぜか黒人だけが知っている所在地の星へファストトラベルし、スキャナーの輪郭がギザギザになる方角へ何もない地表を延々と「歩いて」聖堂を見つけ、無重力状態でこのまま風にさらわれたいようなドーム状空間のキラキラに接触(当たり判定が意味不明)するミニゲームをこなし、聖堂の外で必ず待ちかまえているスターボーンを射殺するーーこの作業を20回ほど繰り返すうち、パソコンの新調に大枚をはたいたこともあって、ここまではうまく自分をだましてきたのに、心の底からスターフィールド宇宙がイヤになってしまっていることに気がつきました。本作では失われてしまった、これまでのベセスダゲーが持っていた魅力とは間違いなく「フラフラと無目的に、フィールドをうろつきまわる楽しさ」であると言えるでしょう。「広大な宇宙空間をさまよううち、新惑星にたどりつく」ではなく、「あらかじめ星図に載っている惑星に、ファストトラベルする」しか移動手段がないため、広大なはずの宇宙を本当にせまく感じてしまうのです。この感覚、なにかで体験したことあるなー、なんだったかなー、と考えていたら、最後のジェダイだった。

 制作側のだれかが「我々はMODDERに素材を提供するためにゲームを作っているのではない」と息まいているのを見ましたが、その言葉とは裏腹に本作は総体として「MODによる補完を待つ未完成素材群」としか形容できない中身になっています(まあ、いつまでもコンソール機能を削除できない時点で、ゲームソフトとしてはだいぶ腰が引けてますわな)。ドヴァキンのシャウトに相当する24個のスターパワーも、ゲーム会社の新任研修で「重力に関係する能力をできるだけ多く考案しましょう。制限時間は20分です」みたいな課題への回答をそのまま使ったようなものばかりで、「ゲーム内でこう使わせたい」という作り手の明確な意志は少しも見られません(ひと通り試したあとは、擬似V.A.T.S.であるフェーズタイムしか使わなくなった)。以前にどこかで使った表現であるところの「高級食材の水煮」みたいなゲームになっていて、しかも一人前の食材を手鍋でも寸胴でもなく、芋煮会の大釜で延々と煮ている感じであり、大釜のどこにお玉を突っこんでも、すくえるのはだいたい「味のとぼしい湯」でしかありません。いまは「特定の人物が嫌いになると、その人物の衣装までが嫌いになる」ということわざの心境に寄ってきていて、宇宙規模の組織のトップや要職にいる人物が白人以外と男性以外ばかりーーSFなんだから、トカゲ星人とかクラゲ星人とか、現実からの要請をいくらでも回避する手段はあるでしょ!ーーなのもアホらしいし、主人公がスターボーンへと転生するくだりも、創造主の実在を前提として、キリスト教の枠組みにぶつかったり否定したりしないようにソーッとライティングしてるのが伝わってきて、「まあ、このぐらいがケトゥ族の限界だわな……」という気分にはさせられました。

 かようにスターフィールド熱は急速に冷めていっているのに、依然として身体はベセスダ熱にほてったままであり、なんと数年ぶりにスカイリムをインストールしてしまったのです! 旧パソコンでは重すぎて動かせなかった、あれやこれやのMODを試せるかと思うと、始める前からワクワクしますねー。アニバーサリー・エディションも気になるなー。スターフィールド? もうこれはMODが来てもダメかもわかりませんね……。

漫画「ケンガンアシュラ」感想

 ケンガンアシュラの無料公開、通勤時間にチマチマ読み進めて、ようやく読了。うーん、前から気にはなっていた作品なんですけど、ジェネリック刃牙の中央値と言いますか、「格闘技好きが描いたマンガ」というよりは、「格闘技マンガ(あるいはゲーム)好きが描いたマンガ」みたいな中身になってます。格闘技モノの面白さの本質って、勝敗の「意外性」と「納得感」だと思ってるんですけど、本作の試合では両者がそろっているケースがとても少ない。一方で、ジェネリックじゃないほうの刃牙には、主人公の試合「以外」において、かなりの確率で両者がそろっている。他作品からのオマージュというには、あまりに加工の無い直接の引用みたいな場面や設定も多くて、「若いオタクが2次元から学んだ3次元を2次元に模写している」ような違和感は、ずっとつきまといました。

 ネタバレ上等でしゃべっちゃいますと、本作は所謂「あしたのジョー」エンドなんですけど、試合前のヒロイン(ヤマシタカズオ)とのやりとりから始まって、燃えつきの大ゴマにいたるまでをトレースしておきながら、引用元とは天と地ほども違っていて、結末が納得感ゼロの他人事にしか見えないのは、ある意味すごいことなのかもしれません。矢吹丈は「昭和の根無草、風来坊の父(てて)なし子」であり、ある時代においてアイデンティティと「生きる意味」の不在に苦しむすべての若者の象徴でしたが、本作の主人公は作者補正タップリの、強さに説得力を欠いたーーここだけ刃牙ソックリーー格闘技マンガのいちキャラクターにすぎません。

 1話からずっとただよい続けた、悪い意味での「同人誌感」は、作者の成長とともに薄まっていくかと期待していましたが、ついに最終話まで消えることはありませんでした。海外のファンには申し訳ないですが、本邦にはもっと先にアニメ化しておくべき格闘技マンガが、いくつもあると思います。

雑文「『鵼の碑』刊行に寄せて(少しストリングス)」

 きょうは18年ぶりのアレについて話そうと思う。おぉん? まさか野球がお好きだとは知りませんでした、だと? バカモノ! 18年ぶりのアレと言えば、「鵼の碑」の刊行に決まっておろうが! 発売日に天尊(アマゾン)から届いたものの、誇張ぬきでレンガを2枚はりあわせたようなシロモノであり、書見台に乗せても開かず、寝ながら読むには重すぎ、通勤カバンに入れるには分厚すぎるという、ドラゴン殺しもかくやという凶器的存在なのだ。おまけに、家にいる時間はずっとスターフィールドをやっているものだから、日常生活のどこにこれを挿入(デビルワールドの擬音)すればいいのかサッパリ見当もつかず、アレを抱えたまましばらくウロウロしてから、とりあえず本棚に収めてしまった。まず電子書籍版を買い、充分に面白ければ物理的な実体を入手するという読書スタイル?になって久しいため、リアルな紙の塊をどう楽しめばよいのかわからず、モノリス周辺に集う類人猿のように困惑している次第である。よって、これ以降は最新作を1ページも読んでいない人物による京極堂シリーズ本編への雑感だととらえていただきたい。

 まず自己紹介をしておくならば、いまは無き京都の書店で処女作を手にとって以来、「邪魅の雫」までをほぼリアルタイムで追いかけてきたが、それ以降の派生作品はまったく読んでいない程度のファンである。令和の御代ならば NPO団体から断罪されるだろう、桜玉吉をはじめ陰キャのオタクどもが「ほう」と嘆息をつき、「酷く羨ましくなつてしまつた」みつしりハコヅメ少女(not婦警)に脳を焼かれ、生涯にわたり消えない印を額に刺青されたことは、本シリーズをとりまく事件のうち、最大のものだと言えよう。いまは亡き栗本薫が、「作者は処女作において、風采のあがらない小男に己を仮託していたのに、売れっ子作家となるにつれて作中のヒーローへ自意識を同化させていった。(中略)私は、見えすぎるこの目を封印した」と指摘したのは、本シリーズのことだったと確信しているが、作者が京極堂という虚構内のハイパー書痴と自意識を融合させていった結果、ついには外見も含めてその人物へと完全にメタモルフォーゼし、「本好き、妖怪好きにとってのヒーローを彫刻する」という本シリーズ執筆につながる初期動機を失ったがゆえに、18年という長い中断につながったのだと分析する。

 かようなメタい話をわきに置いて、作中の情報だけでシリーズ本編が頓挫した理由を考えるとするなら、初期のほうでも例の探偵の「ほとんど漫画」な言動でリアリティラインがグラつく傾向はあったが、あくまで脇役だったために本筋への大きな影響はなかった。それを、京極堂の宿敵としてモリアーティ教授に当たる人物を登場させ、さらに男女2人の美児童を助手としてはべらせた時点で、作品の虚構度がついに漫画方向へと雪崩れてしまったのである。いったいどう立て直すつもりかと続刊を手に取ったら、教授との対決はどこへやら、「姑獲鳥の夏」の裏バージョンが始まってしまう。さらなる続刊を読み、登場人物の名前に盛大な誤植があって混乱させられながらも、「ああ、これまでの事件の陰陽表裏となるセット部分を描く2周目に突入したんだな。ということは、モリアーティ教授との対決は刊行ペースから逆算して10年後かな」と予想していたら、そこでプッツリと続きが途絶えて、ファイナルファンタジー16ばりの「18年後ーー」な現在へといたるわけである。シリーズの慣例として、続刊タイトルも巻末に予告されているものの、「作品の完結と作者の寿命がチキンレースを始める」段階の物語群に入ってしまったなというのが、いつわらざる実感だと言えるだろう。「鵼の碑」は熱心なファンが読み終わり、だいたいの感想が出そろってから手をつけることになりそうだ。なんとなれば、いまは空いてる時間すべてをスターフィールドに使いたいからである。

 最後にぜんぜん話も口調も変わるけど、最近「東洋の若い物理学者や数学者の女性が西洋の有名な団体から賞を与えられた、なぜなら超弦理論をサポートする分野での貢献があったから」という記事がたて続けにタイムラインを流れてきたけど、ひどく政治的な動きに思えるのは、うがった見方すぎるかなー。「若い世代」かつ「男性ではない性別」で「西洋ではない場所」の人物が受賞するのって、「たとえ粒子加速器で超対称性が見つからなくとも、スーパーストリングスは中絶させない。世界各地の次世代へ向けて、これを研究すれば名誉もカネもポストも約束されるというメッセージを伝えたい」っていう西洋の年老いた物理学者や数学者の男性による強い意志とプロパガンダを感じるんだけどなー。同じ成果なら女性に与えた方が、企業や団体に対する世間の印象はよくなるしねー。アタシ、ザビーネウォイトのせいで、よごされちゃった?