パブリック・エネミーズ
視聴前「ジョニー・デップ! クリスチャン・ベール!」 視聴後「マイケル・マン……」
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
今作ではいい具合に演出からセックスが抜けているので、馬齢を経た身にはたいへん気持ちいい。セックスが抜けているのに気持ちいいというこの矛盾を可能にする7日で8回の視聴ッ! その凄絶な克己の果てに、旧作で幾度となく繰り返された「他人の恐怖」は、人間同士というよりはむしろ男性から女性への恐怖であったのだと気づかされた次第である。あとね、司令と副司令のシーンでぜんぶ副司令から台詞が始まってて、たぶん今回は副司令が上位者ないし黒幕なんだろうなって思ったの。なんかすごい、意識的なガーゴイル声だし。
イングロリアス・バスターズ
イングロリアス・バスターズ
第1章は頭髪が抜けるくらい面白かったが、その後はMr.ビーンがカンヌで残虐に大暴れしてるみたいな感じで残念だった。もちろん、タランティーノというだけで期待のハードルが上がる人間の感想であることを諸君は念頭に置かねばならない。
ファースト・コンタクト
ファースト・コンタクト
心弱るとき、誰の関心も自分の上に無いのだと感じるとき、この世界にたった一人だという当たり前の事実にすら涙こぼれるとき、かつて自分を鼓舞してくれた何かへすがるように還ることがある。
NWO EXISTS IN DIRECTION Q. (エヌダブユオウはQ方向に居る)
黒人大統領が火星有人飛行を宣言したことにより「度胸星」がいよいよ現代の預言書であることが明らかとなり、2030年に超立方体の異星人と人類とのファーストコンタクトが確定的になった。その全人類的な高揚を伴なうイベント進行の裏で、nWoが便所か安宿の壁面へ経血でなすられた何かであることもまた、ひっそりと証明されたのだった。秒単位でチェックするメールや掲示板はいっこうにエロ系スパム以外の反応を返さず、しばしモニターの前で呆然となった私は、直接に感想を述べるのをはばかる奥ゆかしい層が、この広大なネットのどこかで春画や議論を交わしているかもしれぬと思い立った。そして現存するすべての検索エンジンを駆使したが、「少女保護特区(7)において一人称を徹底的に排除していることが、(9)における“予”から“私”への自我変容の効果をより劇的にしていますね」など、当たり前に予測されて然るべき論評は一つも見つからなかった。足かけ2年ほど、時々の全身全霊を傾注して行われた更新群が、この現代社会の膨大さの前に何の反応も引き起こさず、実質上、完全に消滅したのである。正に、一度も、どこにも存在することを許されなかった、真の意味での非実在青少年と言えよう。nWoを更新する動機がどこにあるかと問われれば、保存された幼児的全能感による自我肥大に由来するのであり、それは無条件の肯定や承認が無ければたちまちしぼんでしまう類の根拠である。いったん縮小した自我が再び更新可能になるまで回復するには、父母を欠いたネット孤児の私にとって、ただひたすら与えられた屈辱と絶望が忘却の彼方に去るのを待つしかない。更新は間遠になり、酒量が増えるのも道理である。この下りは、目の据わったマッチ売りの少女が酒瓶を傾けるイメージで想像して欲しい。まあ、相も変わらずの愚痴だが、愚痴を書けるほどには自尊心を回復してきたと考えてくれたまえ。ここ数週間というもの、全人類から無視を決め込まれた哀れな少女の精神状態は、それはもう悲惨極まるものだったのだから。
カポーティ
カポーティ
カポーティとニーチェって、精神の崩壊までいっちゃう決定的な瞬間を体験した点で共通してると思ってんだけど、トラウマから汲むって怖いよなあ。突き詰めすぎても人格を破綻するし、解消しすぎても書けなくなるんだからさあ。正気のまま論理的に壊れていくって、すごいしんどいよなあ。少女保護特区の冒頭でも引用してるけどさあ、おれ、「冷血」に出てくるおばさんの発言が好きでさあ、永遠の話をしてから鼻をかむ話をするくだりって、なんかすごい女そのものっていうかさあ、人生みたいな感じがすんだよね。誰も指摘してくれないから言うけどさあ、少女保護特区も永遠の話をしてから鼻をかむって構成にしてあるんだぜ。あと、まだ「冷血」読んでない人は、この映画を見てからのほうがグッとくると思った。
サンシャイン・クリーニング
サンシャイン・クリーニング
どぎつくもあざとい設定の組み方や、とっちらかった伏線を全く回収しようとしないシナリオに肯定的な印象を持てるかどうかが評価の分水嶺になるだろう。私が「リトル・ミス~」を愛していることは、すでに諸君へ伝わっていることと思う。物語の始まりと終わりで主人公の立ち位置や世界観が大きく変わったことを実感できるのが良い物語の条件だ。この映画において、主人公の客観的状況は開始時点より悪化したままで終わるのだが、にも関わらず爽やかですらある“読後感”を視聴者に与えている。君の人生の一部を物語として切り出して提示することを想像して欲しい。きっとエンドマークの位置が全体の印象を決定するだろう。この物語では、人間関係でままある錯覚の瞬間にそれを持ってきた。感情剥き出しの大喧嘩の後に互いの関係が深まったと感ずるような、祈りにも似たあの錯覚だ。それは日常という偉大な復元力を前にして、気づけばいつもすっかり元通りに、何も無かったのと同じに戻ってしまう。本作の主人公もエンドロールを越えた先で、まるで何も無かったかのようになんとかしのいでやっていくだろう。だがそれでも、何も無かったよりはずっといいのだ。だから、私はこの映画を肯定したい。