三年に一度の学科大移動はいつも混迷を極め、刃傷沙汰が発生することも決して珍しくはない。メンターの資格を持つ人間ごと、研究室の配置を丸々変えてしまうというのだから、たいへんだ。大がかりな研究設備を所有する学科などは、その移動だけでも膨大な労力である。過去に幾度も廃止が叫ばれ、実際に議題になることも多いのだが、なぜか最後には存続の方向で話がまとまってしまうという不思議な行事だ。
学科長会議において可決されたはずの原案は、実際の移動が始まると落書き程度の意味しか持たなくなる。あとは、学科の総力をあげた陣取り合戦だ。移動のための休講期間は一週間と定められており、逆に言えばこの期間を越えての移動は許可されない。最後の一昼夜に行われる学科間の攻防は、凄絶の一言に尽きる。しかし、誰もが結果としての落ち着き先を妥当と考えるようになるのは、不思議な点だ。
力を出し尽くした後に訪れる人知を超えた調和を体感できるという意味で、ぼくは存続派である。反対派の急先鋒が誰なのかは言うまでもない。沈殿した何かをかきまぜて活性化する、祝祭のような効果は確かにあると思う。事実、この学科大移動を通じて生まれたカップルや、新たな学際的研究なども少なくない。責任を持った個人ではなく、無責任な全員が等分に参加することで、誰もがお互いの存在を前提とした妥協と落としどころを見つける。
難しい言い方をすれば、集合無意識レベルでの暗黙知を伝えあっているのだろう。
統計的なデータがあるわけではないが、学科大移動を経てしばらくは会議にせよ何にせよ、非常にスムースに運ぶようだ。
この一大ページェントにあって、比較的おだやかな時間を過ごす学科がふたつある。体技科と史学科だ。
体技科のメンターたちは、いずれもヒグマのような大男である。そんな彼らがお互いを全力でぶちのめす演習(おそろしいことに、例え話ではない)を屋内で実行した場合、破壊をまぬがれる建築物は今のところ(たぶん古代にも)存在しない。そして何より、体技科が本気で陣地取りに参加したならば、一両日中に学園は制圧されてしまうだろう。学科大移動初日に体技科の若いメンターたちが更衣室兼物置と学科長のための部屋を二つほどおさえると、そこは暗黙の了解として大移動の対象では無くなるのだった。体技科の研究室は、屋根におおわれていない部分すべてである。
史学科の研究室をのぞいてみると、想像を裏切る整然とした見かけに驚くはずだ。床には遺物が散乱するどころか、塵ひとつ落ちていない。壁面へしつらえられた棚に奇妙なオブジェが並ぶ様子は、港湾に構えられた貿易商の事務所のようでもある。しかし、人の気配は無い。組んだ両手にアゴを乗せた史学科長が思索深げにうつむいているのを見ても、声をかけてはいけない。たいていが午睡の只中にいるからである。
窓から目をやれば、旧棟から少し離れた学園の敷地と遺跡との境界が不分明な地帯に、石造りのドームが見える。狭い入り口をくぐれば、中央のくろぐろとした穴から鉄製のハシゴがのぞいている。遠ざかってゆく外の光と手元さえ見えない薄暗さに感じる原初的な不安を飲み込んで降りてゆけば、やがて、天然の岩肌と古代遺跡の壁面が混ざりあった莫大な空間にたどりつくはずだ。
木で組んだ足場の上をモッコが走り、硬い岩肌に叩きつけられたツルハシが火花を散らす。壁に埋めこまれ、等間隔に照らすのはグラン・ラングによる人造の光だ。けれどそれは古代の遺産ではなく現代のあとづけで、周囲を照らすに十分な明るさとは言いがたい。そんな薄闇の中、各人が腰につけた角灯が幻想的にゆらめく。
『学園は、そのものが巨大な遺跡であり、地上に突き出した建物は氷山の一角に過ぎない』
それが史学科の主張だ。涙ぐましい有言実行の結果、史学科の研究室は太陽の照らさない部分すべてである。
「おーい、ユウド、こっちや」
空中に浮かんだ目と歯が上下にゆれながら接近してくる。角灯のシェードが上がると、目と歯をとりかこむ輪郭があきらかになった。キブだ。
「すまんかったな、呼び出して」
あいもかわらず夜のように黒い。
「上のほうはだいじょうぶかいな」
「ボスさえいなけりゃ、おだやかなものさ。研究内容はぜんぶここに入ってるからね」
ぼくは人差し指でこめかみをさして、うそぶいてみせる。きざな言い方を許してもらうなら、言語学科の研究室は脳内のすべてだ。
ボス、つまりぼくの直属の上司である言語学科長は、目下のところ世界各地を遊学中である。ここ最近、年の半分くらいはいないんじゃないか。今回の学科大移動とその期間が重なったのは、学園にとって大いなる僥倖だったと言える。うちのボスのお祭り好きは、度を越えているから。偽情報をリークして学科間の争いを誘発したり、劣勢に加勢したり、優勢の尻馬に乗ったり、なんでもありだ。一貫しているのは、騒ぎを収束させるのと真反対へ動くベクトルだけ。
ボスのことを考えるときはいつも、喉元をしめつけられるような、中間管理職の悲哀が肩口から全身へ物理的な重さとしてのしかかるような、そんな感覚にぼくはさいなまれるのである。
「それはそうと、きょうは斬新な襟巻きをしとるな」
ぼくの首に巻かれた白いものへ黒い指先が伸びると、それを食いちぎらんばかりの勢いで野獣の犬歯ががちり音をたてた。
「ひいッ」
情けない悲鳴とともに、キブがとびすさる。ぼくの背中ごしにのびあがったマアナが、剣呑な空気を発散している。もしかすると、襟巻き呼ばわりされたことを気配で察して、抗議を示したのかもしれない。角灯のシェードを下ろし、両目をつぶったキブが口をへの字に曲げれば、もうどこにいるのかわからない。
がちがちと虚空に歯を噛みならす野獣を頭ごと押さえつけると、おんぶから前へと抱きなおす。
「ほら、もうだいじょうぶだよ」
空中に一つ目が浮かび上がる。キブが片目を開いたのだ。
「心臓に悪いわ。ペットの管理は飼い主の責任やで」
マアナは歯をみせてぐるぐるとうなっている。こめかみから敵意がいなづま状にとびだすような、凶悪な視線だ。
どうもこの二人は折り合いが悪い。キブは半ば以上本気でマアナを史学科の研究材料と考えていて、それが伝わるのかもしれない。非言語コミュニケーションって、むずかしいよな。
「ちょっと噛みぐせがあるけど、最近ではだいぶましになったからさ」
とたん、肩を噛まれる。犬歯が痛い。
「きょうは仕事の話やろ。スウに預けてくればよかったやん」
口をとがらせて愚痴る様子が、大人げない。うちのプロテジェは託児所の保母さんじゃないぞ。
「おばあさんのところへ帰ってるよ。ここ最近、ずっと世話をしてもらってたから、今日ぐらいはね」
おばあさんのところ、という下りでキブは軽く鼻をならす。
「ふうん。そら、うちの若いのが残念がるわ。じゃ、立ち話もなんやし、奥いこか」
話題の打ち切り方に若干の不自然さがふくまれているような気がしたが、ぼくにとってもそれは望むところだった。
応接とは名ばかりの、天井の低い横穴へと案内される。卓上に置かれた角灯が室内をおぼろに照らし、影は長く伸びる。自然石から切りだしたという椅子は、まるで身体の曲線にあわせたような、不思議な丸みを持っている。古代人の住居から拝借してきたにちがいないが、そのせいか、いつもむずがるマアナがおとなしく座ってくれているのはありがたかった。
飲み物を両手で包み、ちょんと椅子の端に腰掛けている様子は、さきほどまでの猛犬ぶりとは正反対の愛らしさだ。目を細めている自分に気づいて、ハッと我に返る。これじゃまるで、孫を見る好々爺じゃないか。
それから、何人ものプロテジェたちがお茶を持ってきましただの、何か不都合はありませんかだの、不自然なほどの出入りを繰り返して話の腰を折りまくったが、スウの不在を知るとがっくり肩を落とし、一様に入室の際の慇懃さを喪失して退室していった。
「さて――」
拝借品のカップをこれまた拝借品にちがいないテーブルへもどしながら、キブが身を乗りだす。
「これが今日の本題や」
かつん。豊満な胸元から取り出した小瓶が、カップの横へならべられる。瓶の底には、黒い煤状のものがこびりついていた。
「史学科で保管する膨大な史料と相互参照を行い、当たれる文献にはほぼすべて当たらせてもらった」
ぼくは目を見張る。
「この短期間で、よくそこまでできたね」
あの事件から、一週間と経過していないはずだ。キブはすまし顔でせきばらいをすると、
「もちろん、ウチの戦略的な視点が大きく解析を早めたことは、強調しても強調しすぎることはないな。言語学科に在籍する、とあるプロテジェからの依頼やとうちの若いモンにあらかじめゆうといたんや」
「ただの人海戦術じゃないか!」
あきれて、思わず大きな声を出してしまう。驚いたのか、マアナがぼくを見る。
「ちっちっちっ」
キブは得意げに、人差し指を左右にふる。
「あいかわらず、器の小さい発言やな。最適の解が得られるんやったら、道筋にはこだわらへん。それがウチの大きいやり方や」
同期のせいか、ときどき妙に対抗意識を感じるなあ。どうりでさっきからプロテジェたちの表情が暗かったわけだ。依頼主から直接お褒めの言葉がもらえると思ってたんだろう。頭痛がきそうだ。
「それでさ、肝心の解析結果はどうなってるんだい」
「結果か。うん、結果な」
どうも歯切れが悪い。
「該当ゼロ、や。衣類の残骸も材質から調べたんやけどな。やっぱりゼロやったわ」
マアナは退屈そうに足をぶらぶらさせはじめた。こんなとき、暴れださないことは大きな進歩かな。
「そうか、ゼロか」
「あれ、あんま驚いてへんな。ウチはけっこうショックやねんけど」
ペルガナ市国は発掘と研究を国家の柱としている。他国からの留学も多く受け入れ、学術交流も盛んだ。全体的にストイックとはほどとおい、ユルい空気のこの学園だが、数百年の長きを存続しているという一点においてだけは、他の研究機関の後塵を拝すことはない。伝統による知の集積が、ハンパではないのだ。この学園で該当する対象がないということは、世界の他の場所でそれが見つかる可能性は極めて低いといえるだろう。
「出どころは伏せて生物学科にも回してみたんやけど、からぶりやったわ」
あの怪人と向きあったとき、すでに予感はあった。ぼくたちの周囲に、この穏やかなペルガナ市国の日常に、何か決定的な異物が入りこんだのだという感じ。ぼくが平静な気持ちでキブの報告を聞いたのも、やはりどこかであらかじめそれを予想していたからだ。
「まあ、人がやることやし、見落としがなかったとは言いきれへんわ。時間もそんなあらへんかったしな。アンタが納得いかんのやったら、よその研究機関に調査を依頼することもできるけど」
「学園でダメなんだろ。どこに第二の意見を求めるっていうんだよ」
「ダン共和国のセイニ学院くらいやろな、うちに匹敵する精度の解析が期待できるのは」
「へえ、初耳だな」
「言語学科はないらしいから、ユウドには畑違いってとこやな。まあ、ひとつ大きな問題はあんねんけど……」
視線をそらしたキブの語尾が、空中へと消える。
「どうしたんだよ。歯切れが悪いな」
マアナの首が小刻みにゆれはじめた。いまにも眠りそうだ。ここの薄暗さに影響されているのかもしれない。
まるで誰かに聞かれるのを恐れるように、キブは姿勢を低くして声をひそめた。
「セイニ学院な、アンタのとこのボスがいま遊学してる先や」
「ほんとかよ!」
驚きのあまり、ぼくは二の句が継げなくなる。そこへすかさず、
「わからないけどなっ!」
豊満な胸をそらしながら、キブが声色を作って叫んだ。マアナがびくりと身を震わせ、椅子からずり落ちる。
「冗談でもそれ、やめてくれよ」
弱々しく言うと、ぼくは頭を抱えて卓上へつっぷした。頭痛がきた。
わからないけどなっ。これは、うちのボスの口ぐせだ。若いメンターたちをさんざんに論破したあとや、ほとんど奇跡のようなグラン・ラングの施術を見せたあとに、決まって言う台詞。
わからないけどなっ。身をもって未熟さや才能の欠如を理解させられているところへ、この追いうちである。完全無欠の言語学科長でさえ、この世界にまだ習得するべき余地があるという宣言は、具現化した永遠として研究の徒をうちのめす。
そういえば、以前ボスに聞いたことがある。グラン・ラングについて、どのくらいわかっているんですか、と。いま考えれば、愚かしい問いかけだ。前後の文脈は忘れたけれど、おそらく、くってかかったんだろう。そのときの答えがふるってる。顎をつまんでしばらく考えたあと、
「まあ、半分くらいかな?」
ボスが言明するのなら、間違いない。この人は、本当に永遠の半ばまでを踏破しているのだ。ぼくはその後、三日間寝こんだ。
キブはにやにやと、なんだかぼくの狼狽ぶりに楽しげだ。
「どないする? セイニ学院。アンタが依頼主やからな。アンタ次第やで」
わからないけどなっ!
すぐそばでボスの声が聞こえたような気がして、背筋に寒いものが走った。
「メンター・キブ。この案件に関する最後のオプションとして、それはとっておこう」
いつにない果断さで、ぼくは返答する。
「まあ、妥当な判断やな。ウチも同感や」
強い同意を表すかのように、ふかぶかとうなずくキブ。数多くの検証を乗り越えて、ぼくとキブの予感(悪いほうだ)が一致したときの的中率はほぼ100%である。
「まあ、せやけど――」
髪を手櫛でかきあげながら、キブが長く息を吐き出す。
「アンタもうすうすは疑ってるんやろ?」
床にずり落ちたまま、マアナは寝息をたてていた。意味ありげな視線がその金色の髪に投げられている。
「まあ、ね」
ときに直感とは、未来を予言するような働きをすることがある。こと、グラン・ラングの研究で大きな進展を迎えるとき、いつもそれがあった。
ゴールや結論だけが見えてしまう状態。自分以外の誰にも客観的には説明できないのに、思いついた内容が何の説明も不要なほどに、妥当だと感じる瞬間。そうなれば、あとは自分以外を説得するために言葉とデータを積むだけだ。そして、最初の直感は完全に証明される。もちろん、いつもというわけじゃない。ボスと違って、ぼくは天才ではないから。
「発掘品のリストのうち、ひとつだけ照合できてないのがあるな」
キブがゆっくりとあごをさする。
「髪の毛の一本でも、もらわれへんか?」
マアナと出会ったとき、ぼくはすべてを予期していたのではないか。
一連の事件が、この少女から始まっているのではないかという直感。
「それは賢明とは言えないな」
あの怪人に覚えた既視感の正体、もしかするとそれは――
ぼくは思考を停止し、表情を作ろうと努める。
「髪の毛をひっこぬいたりしたら、寝起きですごく暴れそうだ」
冗談めいた口調を装う。
「あんまり思い入れをしすぎんほうがええな」
キブは真顔のまま、目を細めた。ぼくは肩をすくめてみせる。
「研究者として、観察対象への距離だけは保っているつもりだけど」
「とぼけな。いまのは友人としての忠告や」
長いつきあいだけに、どうやらぼくの韜晦は通じなかったらしい。
「いろいろとありがとう。まあ、なんとかやってみるよ」
言いながら、眠っているマアナの両脇に手をさしいれて、抱き上げる。ひどく重かった。感謝の言葉は、拒絶のようには響かなかっただろうか。
「アンタはときどき、妙に意固地なとこがあるさかいにな」
キブは両膝に手をうちつけると、大きくため息をついた。
「子ども抱いたまま、ハシゴはのぼりにくいやろ。ついといで」
卓上の角灯をとりあげると、不機嫌をよそおって、ずんずんと歩き出す。
ああ――
この黒い人影は、いつでもぼくを先導してくれる味方なのだ。
キブの背中を追いながら、天井の低い通路を這い入り(身長が気になる)、狭い石壁の隙間へ横にした身体をねじ込み(体重が気になる)、底の見えない淵へ渡された丸太の一本橋をわたり(臆病が気になる)、土の地肌がむきだしになったトンネルを延々と進む頃には、薄暗さも相まって、もう上っているのやら下っているのやら、方向感覚は完全に失われていた。不安になって、思わず尋ねる。
「ずいぶん歩くんだね」
「ここや」
袋小路に立ち止まったキブが天井の石肌を押すと、暗闇へしみこむように光があふれた。
小さな穴から顔を出せば、しなびたお尻が目の前にある。旧棟内の史学科研究室だ。
「こんなところにつながってるなんて」
石板をもどすと、それは他の床とまったく見分けがつかなくなる。
「な、便利やろ」
キブは我が手がらのごとく、得意げだ。
「あのさ」
史学科長の規則的な寝息が聞こえる。
「こないだ、局所的な地盤沈下で芸術学科の倉庫が埋まったことがあったよな」
「ユウド」
キブが完全な無表情になった。
「あれってもしかして――」
一転して、不自然なほど自然な笑顔を浮かべる。
「ユウド、学究の徒とは思われへん発言やな。猫をけっとばしたプロテジェが事故にあったとして、猫キックと事故の因果関係を真剣には考えへんやろ。人の心っちゅうのは、体験したことがらを意味のあるものとして結びつけたがるようにできとんのや。それを探るのは、神学とか民俗学の領域やろ。客観的なデータの積みあげで迷信を越えるのが、ウチらの研究やないか」
言いつつ、痛いほどにぼくの肩をどやす。ぼくは、ずり落ちたマアナを抱えなおした。こりゃ、まちがいないな。
「これは借りというより、貸しだよな」
「ゆうとる意味はわからんが了解した」
ぼくたちは固い握手をかわし、再び地下と地上へお別れをした。
暗闇に慣れた目に光が痛む。両目をしょぼつかせながら廊下へ出ると、右肩と左肩を振り子のようにゆさぶる歩き方で、誰かが猛然とこちらへやってくるのが見えた。頬はこけ、ひどく痩せているが、身体の末端にまで鋭いものをめぐらせているような印象がある。
背中に大量の汗がにじむ。いちばんマアナのことを知られたくない人物だ。眉間に深くきざまれた皺がゆるんだことを見れば、もうこちらのことは認識されている。廊下の隅に放置された用具入れとマアナへかわるがわる視線を走らせ、自分が相当にうろたえていることに気づいた。いやいや、いまさら何をやったって疑惑をかきたてるだけじゃないか。
先手必勝。ぼくは精一杯の愛想笑いで話しかける。
「やあ、メンター・スリッド。数秘学科の移動はもう終わったのかい?」
「まったくこの騒ぎは馬鹿げている。とんだ労力の無駄づかいだ。君もそう思うだろう?」
手のひらを秀でた額にうちつけ、慨嘆する。発言だけではなく、アクションも大がかりなのだ。ぼくは微笑んだまま、あいまいに首を傾ける。続きをうながされたと思ったのか、相手は誰でもよかったのか、スリッドはまくしたてた。
「伝統の旗印を盾にして無批判に続けられる、こういった前時代的な決まりごとははやく廃止にするべきだ。知っているかい? この移動で学園の所蔵する備品のうち、じつに一割が破損もしくは紛失するという調査がある。私は次の学科長会議で、大移動の廃止を求める原案を提出するつもりだ。当然、旧勢力の抵抗は予想されるが、投票にさえ持ち込めば、我々若手の票を集めて勝てる。メンター・ユウド、当然、君の協力は期待できると考えていいんだろうね?」
スリッドは論理的だし、ぼくなんかよりずっと学園のことを考えていると思う。しかし、なぜか老若男女を問わず、人気がないのだ。すべての議案に関して、対立軸をつくる彼の論法が受け入れられないのかもしれない。論理的であるためにすべてを二元論へと帰着させることが失う多くのものに、ぼくは思いをはせる。
しかし、スリッドと口論したところで勝てるはずはない。このとき、ぼくの浮かべた表情は、不自然なほど自然な笑顔だったにちがいない。そしてその笑顔は、スリッドの雄弁を留める役には立たなかったようだ。
「何より、直接民主政を剽窃した会議のあり方そのものが問題だと思わないか。議論にあれだけの時間をかけておきながら、議決がすべて投票で行われることは矛盾している。学園長の諮問機関であるはずが、いまや意思決定機関と変わらぬ権限を持たされている。本来、学園長が決裁するべき規模の事項に、投票がなじむとは思えない。全員が決定に参加したという事実は一見、公平の見かけを醸成するが、決定された内容が学園の利益に反した場合、誰もその責任を問われない。責任を分散し、分散することで放棄している。さらに二つ、看過できない大きな問題がある。一つは、それぞれの議題に対する理解の深度が、会議の構成員によって統一されていないということだ。なにしろ、会議の最中に眠っている者にさえ叱責はなく、優しく揺り起こした後に投票用紙が渡されるのだから、学園の情け深さは底なしだ。一票の格差という言葉では語りつくせない義憤を感じるよ。そしてもう一つは学科という壁が作り出す、セクト主義だ。上下を作らぬ、ぬるま湯の雰囲気の会議から離れれば、学科内には極めて厳密な徒弟制度が待ち構えている。学科長の命に従わぬ者は、昇進の序列から外され、研究を発表する場所すら危うくなる現状だ。すなわち、学科長が動員できる票数は、学科を構成するメンターの人数とイコールになる。例えば数だけを頼みの体技科のように、学科の人数がそのまま会議での物理的な発言力と影響力につながっている。零細の数秘学科が何を主張したとして、どれだけ正しい対案を提示したとして、数の暴力の前に蹂躙される。これらの問題点を放置して、なお得られた議決が公平だと言えるだろうか。私には、まったくそう思えない」
若いメンターで票田を形成しようとする先の発言と、完全に矛盾しているなあ。
それを指摘したところで、戻ってくる反論も「旧来的なセクト主義に対抗するための、やむをえない一時的な戦術」という論旨であることは予測できる。まあ、傍観者に徹すれば、いくらでも批判的な視点は保てるわけで、ぼくの考えもその意味でスリッドに対して公平ではない。この状況でぼくが返すことのできる最も適切な対応は、イエスでもノーでもない曖昧なあいづちだけだ。スリッドが求めているのは従順な聴衆であり、ぼくはその役割を演じることで穏便に場を収束させようとしている。だから、話が終わるまでを耐えるしか方法は残されていない。
しかし、助け舟はやはり廊下の向こうから、地響きとともにやってきた。
「よぉ、おめえたちが仲良しだとは知らなかったぜ」
身体の倍ほどもある巨大な石像を右肩に抱えて現れたのは、体技科長だ。まるで重さがないかのように石像を床へおろす。
「まったくこの時期はたいへんだぜ。どいつもこいつもおれたちを引っ越し屋くらいに思ってんだよ」
おそろしく太い指で、がりがりと頭をかきながら、ぼやく。その底抜けに陽気な雰囲気に、なんだかこっちまで楽しくなってくる。ぼくの隣に立つ陰気な気配のメンターは決して同意しないだろうけど。
吸引力、とでも言うのだろうか、ぼくはすっかりそれに釣りこまれてしまって、尋ねる。
「そういうわりに、うれしそうじゃないですか」
「おうよ。みんなタコツボから出てきやがるからな。知らねェ顔を見れるのは、うれしいわな」
黙りこんだスリッドが、燃えるような視線で体技科長をにらみつけている。
気づいた体技科長は、肩をすくめてそれをいなす。
「怖いねえ。俺ァ、おまえさんの敵じゃねえんだ。まさか、廊下で会議をおッぱじめようってんじゃねえだろうな」
「メンター・ユウド、さっきの件については考えておいてくれ」
スリッドはぼくの肩を抱き、耳元でささやくことで、ことさらに親密さを印象づけようとする。体技科への対抗意識がさせているとは言え(そう願う)、気味が悪いことに変わりはない。ぼくの笑顔は、目の前の石像よりも石像らしく見えただろう。
「では、私はこれで失礼する」
体技科長へするどい一瞥を投げると、スリッドは大股に歩み去った。ぼくは内心、胸をなでおろす。どうやらマアナのことには気が向かなかったようだ。
「まったく最近の若い連中は、同僚を敵と味方にわけてみたり、ぜんぶ抱えこんで隠しちまったり、面倒なこったぜ」
軽口をかえそうとして、体技科長を見る。満面の笑みの中で、目だけが笑っていなかった。
「魔物じゃねえ。最近、妙なのが学園のまわりをうろつくようになった。こないだとっちめたら、煤みてえに消えちまいやがった」
石像をなでながら、声をひそめる。
「ここンとこ、妙なことばかりだ。何かがおかしい。おかしいと思うんだが、それが何なのかわからねえ」
体技科長がほんの軽いしぐさで、石像をひっかく。指の軌跡そのままの形に表面が削りとられ、廊下に粉塵が散る。あの手につかまれたら、ぼくなんてひとたまりもないだろう。
「俺ァ、バカだから、考えるのは仕事じゃねえ」
頭をがりがりとかきまわす。
「ユウド、おめえの仕事がぶん殴ることじゃねえようにだ」
先ほどと変わらない、ほとんど親愛と呼べるような雰囲気のはずだ。唯一、感情の温度が極めて押さえられた両目が、観察するように細められる以外は。
言葉にされない圧力。ぼくは全身の毛穴から細かい汗がふくのを感じた。
「俺っちにできる仕事があったら、何でも言ってくれ。できれば、手遅れにならないうちにな」
「肝に銘じておきます」
平静をよそおうのにすべての力を使いはたし、ぼくはそう答えることしかできなかった。
「いい返事だ」
大笑すると石像をかつぎかけて、また床へ下ろす。
「おっと、おめえらのせいで忘れるところだ。俺ァ、史学科長サマに用があったんだ」
おそろしく太い指を戸口にかけたところで、体技科長はふとマアナに視線を留めた。
「やっぱり、知らねェ顔を見れるのは、貴重だわな」
老獪な両目は、そのとき何を考えているのか読みとらせることはなかった。
大きな背中が室内へ消えるのを見届けると、ぼくは足早にその場を離れる。
いろいろなものが符号しはじめている。ぼくひとりの手には余る規模のできごとが、同時にぼくの手の中に収まっているような、奇妙な感じ。体技科長がどこまでを見抜いているのかはわからないが、異変に気づいていることだけは確かだ。
いや、確証がないではないか。先行する直感が、後から来る客観的データの裏付けに反証されることだって、ままあることだ。いくつかの現象が符号するからといって、まちがっているかもしれない予断を頼みに行動することで、とりかえしのつかない過誤を生みはしないか。
「おまえはいつも頭で考えすぎなんだよ。グラン・ラングは現実とつながってるんだ」
ボスの、いつかの言葉が脳裏をよぎった。思えば、グラン・ラングの研究とは奇妙なものだ。思考と行動の合一をそのまま言語が体現しているのだから、研究という言葉にこれほどなじまないものもない。
しかし、ぼくがこの分野に足を踏みいれることになったのも、元はと言えば、考えることと目の前にあることを切り離して生きてきたからではなかったか。このふたつがつながるのを、どこかで嫌がっている。それが人の心が不可侵の聖域であることを否定するような気がするから? 言い訳だ。
ボスにとっては何気ない一言だったのかもしれないが、ぼくはひどくショックを受けた。生まれもった性格が、グラン・ラングの研究にむいていないと言われた気がしたのだ。うすうすどこかで気づいていた事実を改めて言葉にされたことが、ひどくこたえた。
ボスのふるまいは融通無碍だ。考えること、話すこと、動くこと、すべてがぶれなく一致している。ぼくはと言えば、この三つの間に矛盾が生じないようにするだけで手一杯だ。器の大きさとでも言えばいいのか。表面を同じようにつくろったとしても、やはりどこかでスケール感に欠けるのだ。
“魂=駆動系への付与行為について”、と題した論文を発表するときもそうだった。
「ペルガナ学園には、ひとりの研究者しかいないと思われるだろ。いっそ、連名じゃなくていいくらいだ」
ボスの助言なしには、アイデアを完成させる最後のジャンプはなかった。結局、連名で提出したのは、ぼくがそうしてほしいと希望したからだ。
思考と行動が一致する瞬間を避けようとし、ぼくの功績がぼくからではない形で世界に寄与すればと思う。きっと、主人公でありたくないのだろう。常に、より適切な人物が身近にいるはずだ。例えば、うちのボスのような。
だが、いまぼくが直面しているのは、転変する現実の事象である。客観的データの蓄積を待つ時間は許されていない。そして学園をとりまく異変に、おそらくいちばん深い形で関わってしまっている。この事件へもっとも適切に対処するだろうボスはいない。
いっそ体技科長にすべてを打ち明けて、預けてしまえばという誘惑にかられる。
ぼくの考えていることがわかるかのように、腕の中で柔らかく小さなものが身じろぎする。結論が出るはずもなかった。
「助かった、ユウドだ! ユウドが来てくれたぞ!」
名前を呼ばれて、思考の堂々巡りから我に返る。助かったのはこっちのほうだ。
見れば、機甲学科の面々が鉄でできた巨大な何かを、なんと人力で移動させているところだった。その周縁は大人が三人で手を回してやっと届くほど、高さは大人が肩車したくらいある。旧棟の外縁をどうにか引きずるように運んできて、最後の最後でほんのわずかの段差にスタックしたようだった。
「あれ、今日はあの子はいないのかい?」
言いながら、腰から刀を抜くマネをする。ニコイチみたいな扱いだな。いい加減、あちこちで知られているスウだが、こういう形で悪名をはせているのは、正直どうかと思う。
「いや、今日はちょっと親戚のところに行ってるんだ」
「残念だな。彼女なら、ひと押しでこんな段差、乗りこえられるのに」
表情を見ると、どうやら本気で言っているみたいだ。スウの腕力に対する一般的な評価は、体技科のメンターと同等らしい。学園祭で演じた『恐るべき怪力女』が、相当に強力な刷り込みとなったのだろう。
ぼくのプロテジェたちに乞われて、仕方なく舞台裏の付与役として協力したのだが、どうも悪ノリが過ぎた。細身の少女が体技科の大男を手玉にとるという筋立てで、ぼくの役目はスウが片手で相手の巨体を持ち上げる場面をサポートすることだった。結果、まるで演技ではないかのような迫真の格闘で大男を殴りたおした上に、観覧席を飛びこしたはるか場外へと放り投げてしまった。
ぼくがいたずらでやった部分もあれば、そうでない部分もある。正確な区分けは、うら若い乙女の名誉のために伏せておくとしよう。しかしながら、万雷の拍手の中、舞台袖のぼくをにらみつけたスウの湿った半眼とその後のよしなしごとは、今でも生々しい戦慄とともによみがえるのであった。
閑話休題。
「まあ、ぼくひとりでもだいじょうぶさ」
沈みこんでいた重苦しい悲観を楽観で塗りつぶしてしまおうと、つとめて陽気に宣言する。
やることは簡単だ。遺跡で風をまとわりつかせたのと同じに、空気のごく薄い膜をこの下へすべりこませる。即席の手押し車だ。
マアナを左腕だけで抱えなおす。鉄塊に手をかけ、意識を集中する。
グラン・ラングの効果は、ぼくたちの言葉に比べれば極めて限られた、元となる音素が意味を許容する範囲を正確にトレースできるかどうかにかかっていて、発生する物理現象は完全に予測の範囲に収まる。
このときまでは、そう思っていた。
音素が大気に命令を下し、形成された目に見えない薄膜が巨大な塊をほんのわずかに浮揚させ――
視界が二重写しのようになって、切り替わった。
無辺大の広がりを持つ上下のない空間。
奔流のごとく満たす形象を伴わない力。
ぼくを出口としていたが、それはぼくをはるかに越えていた。
空気の膜がゆっくりと回転しながら、次第に速度をあげる。ちょうど水桶の底から水を抜くように、大気が渦を巻いて鉄塊の周辺をとりまきはじめる。やがてそれは細長い竜巻へと変化し、うねりながら学園上空の雲を貫く。その暴威の向こう側で、機甲学科の装置は目的を失ったオブジェへと圧壊した。
時間にしてみれば、一瞬のこと――
ある者は雲の穴に新たな白いものが満ちてゆくのを見上げ、ある者は巨人につかまれたような鉄塊を呆然と眺めた。
その奇妙な沈黙の中、くすくすと笑い声がひびく。
目をつむったまま口元に笑みを浮かべて、マアナが笑っている。
楽しい夢をさまよう赤子のように、細かく身を震わせてマアナが笑っている。
歯ぎしりに漏れた奥歯の音がキチチと、まるで昆虫の羽音のように、鳴った。
宇宙ショーへようこそ
宇宙ショーへようこそ
インセプションばりに難解な世界設定を平易にし、ポチのキャラクター造形を少なくともドラえもんと同程度まで魅力的にし、主人公の五人については十年くらいのTVシリーズでその関係性を掘り下げ、幼女に対して執拗に性的な魅力を付加している感じを脱臭できれば、あるいは傑作と呼ばれる可能性さえあったのかもしれません。しかしながら現状、この世を占める大多数の人生にとってびっくりするほどどうでもいい作品です。アニメをサブからメインのカルチャーへ持ち上げようとする努力は理解するし、サマーウォーズ同様、技術的な面での優位性を否定はしません。でもね、こういうのをむやみと褒めず、ちゃんと映画的な視点で批評するほうが、きっとその目標をより早く達成できるんじゃないかなあ。
ナイト&デイ
ナイト&デイ
悪い意味で出る映画を選ばない二人ですが、負と負をかけ合わせると正になるのが算術です。性善説を処世の座右とするわたくしですから、いくばくかの期待を抱きながら視聴を開始しましたが、結論から申せば、想像をはるかに超えて最悪でした。映画を構成する要素はいくつかあって、ふつうそのいずれかの欠落が全体の評価を下げる要因であったりしますが、この映画はすべてが複合的に悪い方へ悪い方へと化学反応を行っていきます。圧巻です。わたくし、トム・クルーズの映画はミッションなんとかがタイトルにつかない限り二度と見ないことを心に誓いましたし、キャメロン・ディアスはジャック・ブラックかルーシー・リューと共演しない限り絶対に見ないことを神に誓いました。しかしながら、良いものばかりに触れていると良いものの良さへ不感症になりますので、クリエイティブを生業とする諸兄はむしろ他山の石として積極的に視聴するべきかもしれませんね。
告白
告白
扱う題材が題材だけに、一般的な道徳や倫理の方向へ一瞬でもよれたら、全体が壊れてしまうだろうなと考えながら視聴を開始した。よれかかったと思えるシーンでさえ、次にひっくり返すための伏線となっており、結果、最後まで一糸も乱れなかった。いや、二箇所だけ乱れた。まず、現実のHIV患者へ向けた配慮の台詞、これは仕方がない。だが、後半の爆発シーン、てめーはダメだ。クソッ、クソッ、もっと真面目にCG作れよ! 松たか子の表情の方がより「地獄」を感じさせるって、恥ずかしくないのかよ! ともあれ、この作品がアカデミー賞を受賞して、普段は映画なんて見ない一般家庭のお茶の間を阿鼻叫喚の巷と変えることを想像するとき、私に浮かぶ微笑みは自然と優しいものとなるのです。え、もう落選決まったの? クソッ、クソッ、CGのせいだ!
MMGF!(2)
会議が建設的であるための条件はいくつかあるが、構成員の全員が共通の利益を代表していることは、そのうちでも大きなもののひとつだろう。利益を獲得できないことが大きな不利益、あるいは組織の存続に関わるような場合はなおよろしい。そして、会議時間は明確に区切られてあるべきだ。会議の長さを水増しするのは、だいたいにおいて感情的な側面なのだから、それが入りこむ余地をあらかじめ織りこんではいけない。
だから、どう転んでも、この会議は建設的にはなりようがないのであった。
定例の学科長会議は月に一度、全学的に休講の上で、朝から行われる。
名称こそ学科長会議だが、その構成員は原則としてプロテジェを指導できる資格を持つ者、すなわちメンター以上とされた。終了時間は特に定められておらず、アジェンダの記載事項がひと通り報告・審議しつくされるまで続く。
また、ペルガナ市国の行政庁、通称ブラウン・ハットの政策決定に関する諮問委員会を兼ねているため、議題の内容は学園運営や学術報告の範囲に留まらない。資料が前日までに提示されることはきわめてまれであり、原案すら存在しない審議事項も少なくない。人の叡智というよりはむしろ忍耐力を試される場であり、市国唯一の学府とは思えぬ混沌をはらんだ会議である。
すでに開始から四時間は経過していようか。もはや会議の流れについていく気力を失って、ぼくはぼんやりと室内をながめる。
出席者全員が対面するよう、長方形に配置されたテーブル。
学園長やブラウン・ハットの長官を始めとした首脳陣の座る一辺が、慣例的に上座である。そこから遠ざかるほど人物の持つ権威は弱まると考えてよい。
ぼくとキブは学園長から最も遠い場所に、なかよく座っていた。首脳陣と学科長以外の座席は特に定められておらず、なんとなくいつもとなりあって座る。
史学科長、つまりキブの直接的な上司に当たる人物の「第三百四十五次ペルガナ史跡発掘中間報告書」が、(恐ろしいことに)ただそのままレジュメ通り読みあげられるの聞きながら、ぼくは窓の外へ目を向けた。あいもかわらず、とびきりの晴天である。会議室の内側から見る空が、いつもよりずっと青く見えるのはどういう物理現象だろう。
ぼくのななめ前方(より権威に近い)で、きつい目をした痩身の男が、指先にまで神経が通っているように、するどく挙手をした。目には燃えるような意志の力がみなぎっている。苦手なタイプだ。
「議長、発言を許可ください」
「報告が進行中ですが、メンター・スリッド」
議長が許可を与えたと思ったのか、スリッドは決然と立ちあがった。またか、という感じで顔を見合わせる列席者たち。
「史学科長殿は、我々に発掘品の品目を順番に聞く義務があるとお考えか。あるいは、ペルガナ市国の学府に籍を置く我々の誰かが、この資料に書かれた文字を読めぬと疑われているのか。議題は山積している。前回の会議でも申し上げた通り、議長は議題の優先順位をあらかじめ決定し、迅速な議事進行に努めるべきである」
「うちのボスにゆうてもしゃーないがな」
スリッドから目をそらしたまま、キブが小声でつぶやく。
すかさず、学園長から近い位置に座っていた筋肉質の男がぬっと手をあげる。岩のごとく節くれだち、親指が五本ならんでいるような手。体技科長だ。
「いまの発言は、学科の思想的独立性に対する深刻な疑義の提示と考えられる。発言の撤回と、議事録からの削除を願いたい」
気の弱い人が聞いたら、それだけで卒倒しそうな胴間声だ。
「異議なし」
「異議なーし」
間髪をいれず、体技科のメンターたちが唱和する。上背も横幅もぼくの倍くらいあるんじゃないか。
市国警備隊を兼任する体技科は、要するに兵隊さんだ。他国の侵略から学園のみならずペルガナ市国全域を防衛するために、青少年の健全な育成と肉体改造に日々はげんでいる。だが、「遺跡に眠る巨大人型兵器の謎」といったジュブナイルによる消極的イメージ外交の結果なのか、ここ百年でペルガナ市国が外的侵攻を受けたという記録はない。なのに、演習と称して捕獲した魔物と素手で格闘したりするのだ。
彼らがヒグマだとすれば、スリッドは気性の荒いニワトリにすぎない。
「学園長は会議内に恫喝のまかりとおるこの現状をどのようにお考えか!」
だが、痩身を反らせ、猛然といどみかかる。
この間、報告の腰をおられた史学科長は、レジュメの束を手にもったまま、怒りによるものか、はたまた老人性の何かによるものか、ぷるぷるとふるえ続けていた。
スリッドの発言が武と文を分離することの有用性へおよびはじめた頃、会議室の扉がノックされる。
「失礼します」
聞く者をふりむかせる、凛とした声。スウだ。
「メンター・ユウドに解決をお願いする案件が発生しました」
ぼくは助かったとばかりに立ちあがり、早足になって内心を悟られぬようゆっくりと出口へ向かう。スウの顔が、このときほど愛らしく見えたことはない。
「あの、いちおう手順ですから」
穏やかに、諭すような声。おっと、忘れるところだった。ぼくは咳払いをひとつして、ゆるんだ表情を引き締しめるとふりかえる。
「中座を許可下さい。案件を処理次第、直ちに議場へ復帰いたします」
白髭の学園長がうなずき、うらめしそうなキブの視線を尻目に、ぼくは完全に解放されたのだった。
廊下へ出て、うつむき気味の数時間に曲がった背中をのばすと、ぽきぽき骨が鳴る。
もう歳かなあ。さほど広くない会議室でのひといきれは、よっぽど空気をよどませていたんだろう。ただ息を吸いこむことがいやに心地いい。こういうとき、幸せとは不幸のない状態をさすのだな、としみじみ思う。
「メンター・ユウド」
とがめるような声にぼくは首をすくめる。少し覚悟をしてふりかえって、笑ってしまった。スウが、飼い主に額をたたかれた犬のような、情けない顔をしている。
「マアナかい」
「マアナです」
わずか一週間ほど保護者をつとめただけなのに、ぼくたちふたりの呼吸はもうぴったりだ。おもむろにスウが制服の袖をまくり、ぼくの鼓動を少し速める。二の腕には、きれいに歯型がついていた。
「噛みぐせがなおらないなあ」
自分で言っておきながら、ほとんどペットに対する口調だな。
「散歩につれていくために服を着せようとしたら、暴れだして……」
「そりゃあ、まあ、いやがるよなあ」
例えば、よろいかぶとの常時着用が義務づけられた文明圏に生活する事態におちいれば、最初はぼくでも抵抗を示すにちがいない。
「でも、女の子に裸で外を歩かせるわけにはいきません」
言いながら、なんだか変なことを話しているなという困った表情になるのが面白い。
「それで、むりやり押さえつけたら噛みついて、逃げ出しました」
「つまり現在、裸の少女が学園内を徘徊しているということだね」
「しかも噛みつきます」
スウが強調する。今日が会議日でよかった。学園内に残っているのは、一部のまじめなドミトリ組だけだろう。だいたいが町で遊び歩いているはずである。
ぼくとスウが話しているのは、遺跡から連れ帰った女の子のことだ。
人形のように整った顔立ちに気おくれがしたのは、最初の眠りから覚めるまで。いまでは遠い昔のことに思える。食事は手づかみする、服はやぶいて脱ぐ、夜中に起きて暴れだす、気にくわないと噛みつく、怒るとつばをはく、おまけにトイレ……いや、これは言うまい。
とにかく、見た目から想像する中身との落差が壮絶なのである。狼か何か、人類ではない生き物に育てられた野人が、マアナなのだ。この名前は、彼女が怒ったときに叫ぶ声がそんなふうに聞こえたので、とりあえず呼んでいるうち、ぼくたちの間で定着してしまった。
「メンター・ユウド、ちょっとマアナは私の手には負えません」
ここ一週間、満足に眠れていないスウは、育児疲れとしか形容できないものを表情に漂わせている。
「ぼくの子どもだと思って、落ちつき先が決まるまでもう少したのむよ」
我ながら、ずるいやり方だよなあ。頼りすぎていることは自覚している。けど、他に方法を思いつかない。キブに預けることも考えたけど、下手すると腑分けとかされそうだ。水晶から産出したものは人じゃなくてインクルージョンだと言い張ってるからな。
しばらく歩いて、スウがついてきていないことに気づく。ふりかえると、完全に固まっている。
「おーい、どうしたんだい」
スウの目の前で手のひらをふってみせる。
「な、なんでもありません。それより、マアナを見つけないと」
顔を真っ赤にしたスウが足早に追いこしていく。
あれ。何か悪いこと、言ったかな。年齢的にも思春期だしな。
若者の心を忘れてしまった大人の苦悩をかみしめながら、ぼくはずんずんと遠ざかる赤い馬の尻尾を追いかけた。
学園は新棟と旧棟に分かれていて、それぞれ木造と石造りである。教室やドミトリなどプロテジェが中心にかかわる施設は新棟に、研究棟や会議室などメンターが中心にかかわる施設は旧棟に集中している。
スウを追いかけて新棟を通りぬけるとき、ドミトリの玄関でそうじをしている女の子がぼくに会釈をしてくれる。寮長だ。思わずぼくも頭を下げる。
ドミトリには長くお世話になった。より正確には、まだお世話になっている。他国からの留学組に提供される学生寮で、年齢の若いものは相部屋からはじまり、成長に従って個室が与えられる。入居の規約は、じつにこと細かい。しかし、退居に冠する条項はただひとつ「プロテジェの身分を喪失したとき」だけ。広義に解釈すれば、学科長以外は指導を受ける上位者が常にいるわけで、プロテジェと定義できないこともない。ペルガナ学園の良いところは、現存するルールの適用については厳密なのに、ルールがおのずから持つ抜け道をふさぎにはかからないおおらかさにある。メンターとプロテジェは謙虚なぼくにとって対立概念ではなく、いまだに若者たちにまぎれて、ドミトリの一室を占拠しているのだった。
つい先日、世代交代が行われた。規則に違反したならば、体技科所属のプロテジェであっても腕力で屈服させた旧・寮長だったが、別れの場面では信じられないくらいにおいおい泣いた。花束を用意したのが、まずかったのかもしれない。涙と鼻水の洪水に聞きとりは極めて困難だったが、「たくさん殴ったが、若者の将来を思ってのことだった。娘が後を継ぐから、安心してほしい。私に似て気立てのよい子だ」という内容をお話しになられた。絶妙に空気を読むドミトリ組たちは、微妙な表情で顔を見あわせる。そのとき、居合わせた全員が、丸太のようなものすごい猛女を想像していた。
予想に反して、やってきたのは小柄な眼鏡の女の子である。しかも、かつての猛女との共通点は、目が二つあり鼻が一つあり口が一つあることだけ。動転したプロテジェたちはドミトリの長老へ、この裏にある国家的な陰謀は何かと意見を求めにきたが、「ううむ、隔世遺伝」と唸るのが精一杯であった。とりあえずいまのところ黒幕は存在しないようである。もちろん、経過観察を怠ってはならない。
「寮長、このへんで子どもを見かけませんでしたか」
我ながら、不自然な質問だ。ドミトリは六歳から入寮できるのだから、朝から晩まで見かけてるに決まってる。寮長にはマアナのことを伏せているから、やましさが歯に分厚い絹をかぶせたのかもしれない。
「さっき、そちらのプロテジェさんと楽しそうにじゃれあっている女の子なら見ましたわ。金髪の」
スウが妙な表情を浮かべている。それはちょうど二の腕に噛みつかれている場面のはずだ。世の中を善意でとらえれば、じゃれあっているという表現になるのかもしれない。
寮長の丸眼鏡が陽光を反射し、視線が読めなくなる。
「何日か前からいらっしゃいますわね」
ばれてる。
「ぼくの姪っ子なんです」
完全に自然なタイミングで嘘が出る自分は、いつしか汚れた大人になってしまっていたのだな。
もちろん、すまし顔でうなづく隣のプロテジェも共犯だ。
「ごきょうだいがいらっしゃったとは、初耳ですわ」
人差し指を頬にあてて、小首をかしげる。愛らしさと恐怖が結婚したようなすさまじさに、ぼくは背中へ汗がにじむのを感じた。どこまで知ってるんだろう、この人は。
スウがうろたえたようにこっちを見、ぼくの嘘の完全な傍証となった。こら、こっち見ちゃダメだろ。
嘘が次の嘘を生むダイナミズムは、いつ味わっても胃が痛む。しかし、どう言葉をつぐべきか考えるぼくに助け舟が出された。
「もちろん、書面さえ出していただければ、規則的には何の問題もありませんわ」
完璧に抑制された、隙のない微笑み。
詮索しすぎないが、職分の範囲で言うべきことは言う。若いのにしっかりしてんだよな、この娘。
「必ず」
真面目くさってうなづくと、両手を胸にひきよせて動揺のショウ・アンド・テル教材と化して視線を泳がせるスウの腕をつかみ、足早にその場を離れる。たちまち赤くなるのは強くつかみすぎたせいか。腕のぶんの血流が、顔にあがったのだろう。
新棟をぐるっと回っても、マアナは見つからない。
「いないなあ」
「いないですねえ」
まだ、頬に赤みが残っている。
「もういちど旧棟を探してみようか」
「賛成です」
ぼくたちは再び、ならんで歩き出した。
旧棟はペルガナ市国でも数少ない、二階より上がある建物のひとつだ。石造りとひとくちに言っても、レンガを積み重ねたようなものとはわけがちがう。ぼくも最初に聞いたときは信じられなかったけど、いっさいの接ぎ目がないそうだ。おそろしく巨大な一枚岩から切り出されたかのように、すべてひとつながりでできている。古代の建物に手を加えずそのまま現代へ流用するのは、ペルガナ市国のお家芸である。横着ここに極まれりという感じだが、中にいるものたちを厳粛な気持ちにさせる効果はあるようだ。心を澄ませば、個人ではない連続が時間を越える大きなひとつを創りだしたことに気づくのだから。
しかし、ぼくの感慨をさえぎったのは、もっと矮小な何かだ。地面へ無造作に脱ぎ捨てられた靴下。つまみあげてみると、手のひらも入りそうにないほど小さい。
「マアナのかな」
「あそこにもありますよ」
スウが指差した先に、もう片方があった。どうやら、容疑者はすぐ近くに潜伏しているみたいだな。旧棟を回りこんで、中庭に出る。
等間隔に樹が植えられていて、建物に切り取られた空が四角いという面白さ。人工と自然の調和という言葉がぴったりのこの場所を、ぼくはたいそう気に入っている。
だが、平和を体現するはずの空間に漂う空気は、いまや不穏に満たされているのだった。無残にも胸元で引き裂かれたワンピースが枝に引っかかり、下ばきが植え込みに投げ捨てられているせいだ。公共の場にある女児の下ばきがこんなにも心さわがせるものだとは知らなかった。真っ赤になったスウがとんでゆき、おおあわてで証拠物件を回収する。
「ドミトリから新しいの、持ってきますね」
胸元に衣類をかかえたスウが小走りにかけてゆく。ああいう生活感が妙ににあうなあ。よいお嫁さんになることだろう。
棟に沿ってならぶ緑に囲まれた正方形の中央には、ひときわ大きな樹木が生えている。この位置は学園設立の当初、あらゆる周縁から等距離にあったそうだ。もっともそれは設立された最初期にまでさかのぼればのこと。新棟を含めた建て増しに次ぐ建て増しで、いまやここは辺境である。
空からハミングが聞こえる。小鳥のさえずりとは違う。これは、グラン・ラングだ。歌っているのが誰かは、もうわかっている。
はるか昔にこの世界から消えた言葉のネイティブ・スピーカー、遺跡の少女・マアナの母語はグラン・ラングである。
この衝撃がぼくにとってどれほどだったか、とうてい語りつくせない。この子ひとりの存在で、これまでグラン・ラングの研究に費やされてきた莫大な時間をかるがると一足跳びにできる。それは、微に入り細に入りすぎてもはや誰も全体像を見渡せなくなったこの分野全体を統御し、かつまとめて底上げするようなものすごい可能性だ。
そしてこれはスウやシャイや他のプロテジェたちには内緒だけど、コミュニケーションを試みたぼくのグラン・ラングはマアナにまったく通じなかった。この衝撃がぼくにとってどれほどだったかも、やはりとうてい語りつくせないのであった。若手の研究者たちの間では一頭地を抜いた存在であると密かに自負していたぼくは、高くなっていた鼻をぽっきりとへし折られたのだ。実地検証を年長のプロテジェに言い続けてきたことがさかさまになって、はねかえってきた形である。もう一生涯、机上の空論という言葉は使うまい。
重なりあった枝葉の隙間から陽光がさして、風が吹くたびに違う輝きを見せる。大きくさしのばされた枝に、裸の女の子が座っていた。
「おーい、あぶないから降りておいで」
マアナは一瞬だけこちらを見て、すぐにハミングを再開した。「私が可愛いってことは知っているわ」とでも言いたげである。実際、噛みついたり暴れたりしないときのマアナは、とびきり造作の整った女の子だ。それをわかっていて、相手が本気では怒れないと確信しているふうにさえ思える。
将来、どれほど多くの男たちがこの毒牙の犠牲になるのだろうか。保護者としては、いまのうちにこの芽をつんでおかなくてはいけない。意を決して息を吸い込むと、背後に人の気配がした。
「いつまで駄々をこねているのだッ!」
つんざく怒号が響きわたり、ぼくとマアナは首の半ばまでを肩にうめてふりかえる。
怖いほうのお姉さんが戻ってきていた。
早足で近づくと、そのまま地面と平行に滑空するような前蹴りで、樹木に革靴をねじこんだ。樹齢幾百年を思わせる太い幹である。それが、びっくりするほど大きく揺れて、大量の葉っぱと数匹の昆虫とひとりの女の子がバラバラと落ちてくる。
ぼくはあわててマアナの落下地点に手をさしのべる。ナイスキャッチ。
「この一週間の歯がゆいことといったらない。そいつは、機嫌をとればとるだけ増長する生き物だ」
腕組みしたお姉さんが、眉を片方だけあげてにらみつけている。マアナは完全にふるえあがり、両腕と両足でぼくの首と腰をがっちりホールドする。ぼくは安心させるために背中をなでてやるが、温かかった。遺跡で受け止めたときは、氷で冷やした魚のようだったのに。
「まあまあ、ふつうの子どもじゃないんだから、少しは大目に見てやらないと」
父母の役割が逆転している気がする。
「それを親バカというのだッ!」
少し観点がズレているのが面白いが、笑ったりすると上半身と下半身が別々になってしまうので、口元をヘの字にゆがめるにとどめることにした。
スウはマアナの鼻先へひとさし指をつきつける。たちまち悲鳴をあげ(たぶん、グラン・ラングで)、両腕と両足はますます強くぼくの首と腰をしめつける。かなり苦しい。
「おまえはユウドの温情に生かしてもらっているのだから、ユウドの言うことはなんでも黙って聞け。いいな?」
この三白眼で迫られては、遺跡の魔物だって逆らえない。少なくとも、ぼくには無理だ。グラン・ラングを母語とするマアナは、わからないはずの言葉にぶんぶんと首を縦にふった。人の理性というよりは、動物の本能が内容を察知させたのだろう。やっぱり、教育は気迫だよな。
その日の午後、新しい服を着せられたマアナは、スカートをばたばたしたり全身をぼりぼりかいたり襟首に両手をつっこんでひっぱったりしていた。けれど、部屋の戸口でスウがずっと匕首を切ったり戻したりしていたので、ついに寝床に入るまで露出の癖を敢行することはなかった。
また一歩、人間に近づいたのである。
当面の問題を解決したぼくは仕方がなく会議室へもどったが、なんと体技科とスリッドの論争はいまだに続いていたのだった。
「よかったやん。クライマックスには間におうたで」
キブが目線を資料に落としたまま、席についたぼくを肘でつついた。
その日の学科長会議は、日付が変わるまで続いた。一日の三分の二ほどを会議していた計算である。しかし、アジェンダは半分も消費されておらず、臨時学科長会議招集の日付が議事録の末尾に記載されて散会となった。
会議室を出たぼくとキブは、真面目くさった顔でしばらく並んで歩いてから、旧棟を離れたところで抱きあい背中を叩いて、お互いの忍耐をたたえあった。
ドミトリの自室に戻ると、二人の女の子が毛布にくるまってベッドを占領している。そばまで椅子を引き寄せて、腰を下ろす。座るときにかけ声がもれるのは、もう若くない証拠だな。窓からの月あかりに照らされた二つの愛らしい寝顔に、しばし心癒される。
マアナのことは早急に解決すべき案件だ。発掘品をリストアップした史学科の目録には「人型土偶」として記載してあるから、公的な処理は終わっているといえば終わっている。老齢の学科長に代わり、報告書の作成は実質キブがすべて代行しているからこそできたことだ。何より、これは過去になかったケースである。報告書の様式なんてものも、存在しようがない。
当然、研究者としての倫理を遵守しようとするなら、マアナの存在はすぐにでも公開するべきだ。グラン・ラングの母語話者というのも、実はぼくひとりの思いこみだってこともありえる。祖に極めて近いことに疑いはないが、派生した別の系に連なる言語ではないと断言する材料を、ぼくは持ち合わせていないからだ。真の客観性は、大勢の主観が集まらないと生まれない。
しかし一方で、マアナは小さな女の子だ。大勢の興味の中に投げこんでから、その大勢のひとりとして接することができるだろうか。正直、これまでのぼくに研究以外の優先事項はなかった。研究の業績が人類へ残すだろうものの大きさに比べれば、人がふつう生活で作り出すものには、何の興味もわかなかった。
けれど、それはたぶん、自分を守るためのポーズだったのだ。誤解を恐れずに言うなら、マアナといるときにぼくが感じているのは、おそらく父性である。娘を研究の具に差しだして省みない、マッド・リサーチャーの思いきりがぼくになかったことは確かだ。
そして、残ったひとつ。最大のひとつ。
ぼくの晴れない疑念は、こう表現できる。
もしかしてマアナは、ぼくたちがいま見ているような姿からは、遠いのではないか。
マアナと唇を重ねたあの瞬間にぼくが見た光景を、言葉にしてわかってもらえるか自信がない。
常人ならば、魂が収まる座となるべき場所に、無辺大の広がりを持つ上下のない空間があった。人の魂を器に入った水だと例えるなら、マアナのそれは天と地をひとつにして満たされる虚空。その莫大な感覚に、ぼくの心はもっていかれかけた。永遠を直視して、なお正常でいられる人間がいるはずがない。
砕ける砂のように、意識が漂白されてゆくその瞬間。首のつけ根に衝撃を感じ、視界は反転して黒く変わる。気絶したのだ。あとからキブに教えてもらったが、スウが刀の柄を思いきりねじこんだのだった。ひどいやり方だが、結果としてスウはぼくの恩人である。しかし、感謝を述べるぼくへの返答はにべもない。
「かわせたはずだ。邪念があったんだろうが」
一言もない。赤い唇が迫ってくるとき、逡巡があったのは確かだ。
生産性に限って言えば疑問符のつく会議で綿のようになった頭では、一週間考えて見つからなかった解決策を発見できるはずもなかった。隣室のプロテジェに部屋の片隅と寝具を借りようと立ち上がって、ぼくはかすかな胸さわぎを覚える。ちゃんと順序立てて説明できるようなものではない。
「付与」と「維持」を専門とするぼくは、現状の把握に対してとても敏感である。一般人とは、はかりの精度が違うのだ。現実に対して付け足された余剰を把握できなければ、それを維持することもできない。付け足した分は管理されなければならないし、管理しないならば元のように取りのぞく必要がある。難しい言い方になるが、人為が管理されないまま自然の中に残されると、必ず悪い結果を招くのである。
ぼくの胸さわぎは、つい数分前までの現実といまの現実とは等価でないと感じたことが原因である。おそらく、学園内に何か異物がまぎれこんだのだろう。
そういえば、以前もこんなことがあった。遺跡の魔物が敷地内に迷い込んだのである。いつも暗い場所にいる魔物は夜行性(正確な表現ではないけど)なので、陽が落ちた地上を遺跡の続きと勘違いして出てきてしまうことがある。普段は人を襲うことはないが、遺跡の中にいると思いこんでいる魔物にとっては、こっちが侵入者だ。
深夜にも関わらず、ぼくの通報へまっさきにかけつけたのは、体技科長だった。相手は直立した狼みたいなヤツで、ずんぐりした体技科長の倍ほどもあった。薄闇に光る両手足の爪は、ひとつひとつが刃物のように尖っている。ぼくはすっかり動転して、人を呼びに走ろうとしたが、
「間に合あわねェよ」
体技科長が低くつぶやくのと魔物がとびかかるのは、ほぼ同時だった。
その後の光景は忘れもしない。なんと、あっというまにぶちのめしてしまったのである。
しかも、素手で。
魔物が、まるで子犬のような悲鳴をあげて地面に崩れるのを、ぼくは確かに見た。
「俺っちはこいつを住処に戻してくらァ。おめえさんは早く寝ちまいな。明日も講義があるだろがよ」
容積でいうなら三倍はありそうな巨躯を軽々と抱え上げ、体技科長は悠然と歩み去っていった。
だが、今回の違和感はそのときとはちがう。魔物ではないとすれば、いったい何だろう。スウが目を開き、ベッドから身体を起こす。毛布の下に刀を抱いている。
「何か入ったな」
まったく眠っていなかったように、はっきりとした声だ。スウがそう感じるのなら、間違いないだろう。
「ちょっと見てこようと思うんだけど」
語尾をにごすのはずるいやり方だと思う。しかし、メンターとしてプロテジェに危険を強要する発言ははばかられた。もしかすると男としての矜持なんていう、前時代的な錯誤が働いたかもしれない。
「ついていこう。自称・頭脳派のメンターをひとりで行かせるわけにはいかんからな」
スウは気づかないふりだ。拒絶したって、ついてくるに決まってる。実に情けないことだが、過去、スウの助力なしにはどうにもならなかった事件がいくつかあった。名実ともに、彼女はぼくの保護者なのである。
夜の旧棟は人気がなく、しんと静まりかえっている。ついさっきまで大勢のメンターたちが喧々諤々、議論を交わしていたのが嘘のようだ。
もともと何かがあったところから何かが無くなると、ある種の虚が生みだされる。それは、ただの不在よりもいっそう濃い喪失だ。お祭りなんかで、集まった大勢がいなくなるときの寂しさが独特なのは、そういったわけである。
「付与」と「維持」を専門とするメンターは、誰へともなく頭の中でそんな講義を行う。隣を歩くスウはたいへん緊張した面持ちで、ぼくの話を聞いてくれそうになかったから。
曲がり角や階段を通るたび、スウがぼくを見て、ぼくはスウにうなづく。ぼくは異物に対する人間感知器のようなもので、スウは己が察知したことを確認するためにぼくをつかうのだ。
やがて、スウが立ち止まる。
「ここの上ではないかと思うが」
スウが誰かに意見を求めるのは、極めてめずらしいことだ。何を参照することもできない一瞬に、真空のような自力で判断を下すことが、スウの強さの拠っている理由だから。そこには、一種の威厳とさえ言える何かがある。一貫した行動が作り出す暗黙の威厳。他人に向けられるとき、それは重大な信頼だ。ぼくが体技科長に感じるものも同質である。
ぼくは目をつぶると、神経を集中する。ちょうど頭上に、意識の透過を妨げる何かがある。本来、この学園にはなかった紙魚のような異質だ。
「いるね」
ぼくの答えは簡潔だ。スウが求めるものを理解しているから。
「一歩だけさがって、ついてきてくれるか」
右手を軽く束におき、つま先立ちにやや前傾した姿勢で階段に足をかける。スウからは肌に痛いような気配が発散している。
完全な臨戦態勢だ。
ぼくはうなづき、ちょうど一歩分の距離をあけて後ろをついてゆく。こうなったスウに言葉は不要だ。言葉は遅すぎて、一語たりともその行動を追いこせない。
すべては一瞬で始まり、一瞬で終わるはずだ。
旧棟の廊下は部屋の面積に対して、ずいぶんと広いスペースが与えられている。それはつまり、古代人の公共への感覚をそのまま反映していると言える。扉に区切られた空間よりも、誰もが行き来する場所の方が重要だったのである。しかし、その崇高な遺志をあざ笑うかのごとく、いまや物置や展示場と化している一画も少なくない。
最初、芸術学科が陳列するオブジェと見分けがつかなかったのは、あまりに人が持つ固有の気配と遠かったからだろう。フードを目深にかぶり、床に届くほどのマントで全身を覆っていたにも関わらず、その見かけは確かに人だった。
ぼくたちへ向けられた音声は、確かに言語と定義できる規則性を持っていた。
不安を生じさせるほど大きな抑揚。
対話を前提としない高圧的な連続。
聞きとりの困難なその音階を文字に写すとすれば、こうなるだろうか。
「ウイハフ・アヒュウ・トゥシイ・ジクエイ・フザット・クオブエ・キャンビ・ナジイフ・イアポテ・ロウワズ・ンシャル・ディテク・スレット・テッドアラ・フォドォンチャ・ウンドジス・イルド・リイジョン」
グラン・ラングとの類似性は見出せる。しかし、世界に現存するすべての言語は祖から派生したいずれかの系に連なるクレオール語(劣化ゆえだ)と言えるため、何も発見していないに等しい。
フードがはねのけられる。
青い眼、尖った耳、深く刻まれた皺。風のない屋内でたなびく赤い髪。人のようであり人のようでないその造作は、ペルガナ市国の人々をひどく誇張して描いているともとれる。わきあがる不快感はそのせいか。
その魂は、沸騰する岩を思わせる濁った輝きを放っていた。すでに付与が施された痕跡がある。維持は必要ない。なぜなら、魂は永久に変更を上書きされているから。
生命を縮め身体能力だけを向上させる類の冒涜。
暴力が知恵の儚さを摘むことを是とする世界観。
ぼくは全身を嫌悪感が包むのを抑えきれない。なぜって、それはずっと自分自身に向けてきた批判と同じものだったから。軽々とぼくの葛藤を飛びこえて、生命の有り様がデザインされるのを目の当たりにする衝撃。
これは、人間存在の戯画だ。
そしてあれはぼくでもある。
だが、不思議な既視感を伴った――
自失を縫うように、爆発的にマントがひらめく。
月光の照り返しをしか視認できないそれは、床面すれすれを滑空し、伸び上がるように真下からぼくへ迫る。
鼻先に冷たいものを感じたと思った瞬間――
鈍い金属音が爆ぜる。
柄の無い短刀が床に突き刺さり、震える。
「思索はあとにしろ」
抜刀をすませたスウが、ぼくと敵との軸線上に歩を進める。
半月状に開いた口腔には、乱杭のように大作りな黄色い歯が並んでいる。
見開かれた眼が訴えるのは、驚愕のようでも喜悦のようでもある。
マントをからませて両腕を広げた姿は、さながら猛禽を思わせる。その内側へ、夜の闇を言うには不自然な黒い空間が広がっていた。
応じるように、スウが身をかがめる。獲物を前にした肉食獣のようだ。
飛翔。違う。疾走。
その速度は人外の。
スウが駆け出す。
確実な死へ。
赤子のような信頼。
ぼくが何とかすると疑わない。
間に合うか。
青い光輝。清澄なる人間の証明。つかまえた。
砂時計が重力を無視するイメージ。
ふたつの人影が交錯する。
スウと同調する視界。没入の深度を調整できず、客観性がふきとんだのだ。
短刀をつかんだ腕が鞭のようにしなって、首筋をねらう。
上体を沈ませたのは回避のためだけではない。
攻防一体。
同時に放たれた袈裟切りが胸元を薙ぐ。
だが、浅い。まだ、動いている。短刀が振りあげられる。
斬撃の勢いをそのまま殺さぬ、独楽のごとき急激な回転。
そして間髪を入れず、低い体勢から逆袈裟に斬りあげる。
体を入れかえるほどの躊躇ない踏みこみは、完全に対象を静止させた。
スウから視界を取りもどしたぼくは、思わずその場にへたりこむ。遅れてやってきた極度の緊張と弛緩が、どっと通り抜けていったのだ。あぶないところだった。あと少し判断が遅れていたら、切り伏せられているのは逆だったろう。
ゆっくりと刀を鞘に納めながら、スウが戻ってくる。太い眉を寄せたその顔は、なんだかすごく不機嫌そうだ。
「毎回思うことだけど」
ぼくは肩で息をしているのを悟られぬよう、軽口に紛らわせてしまおうとする。
「もう少しブリーフィングの時間が欲しいね」
不機嫌な表情を少しもゆるめぬまま、スウはぬっとぼくの目の前に右足を突きだした。親しき仲にも礼儀あり、メンターに対するプロテジェのあるべき姿を説こうとすると、
「靴がやぶけてしまった」
見れば、つま先に穴のあいた靴底から親指をぴこぴこと動かしている。さっきの回転で、摩擦に耐えられず擦り切れたんだろう。ぼくは思わず吹きだしてしまう。
「笑いごとではない。少し本気をだすとこうなるからイヤなんだ」
スウは頬をふくらませて不服そうだ。裏を返せば、それほどきわどい勝負だったということ。ほんの紙一重で死を切り抜けたことを、スウは気づかせまいとしているのだ。
ぼくは真顔でスウを見る。
「新しい革靴をプレゼントするよ。今度は、破れないのを」
スウは一瞬、元のような表情になったが、すぐに顔をそむけて、
「当然だな」
かわいくない。
「立てるか?」
手をさしのべてくる。かわいい。
「メンター・ユウドには、いつものように実地検分をお願いしなくてはな」
いつものように、という部分に皮肉がこめられている気がする。
「実地検分こそがメンターの仕事だよ」
ひとまわりほども小さい手のひらを握り返す。どこにあれだけの力が秘められているのか、いつもぼくは不思議に思う。
床に盛り上がるフードとマントは、生命の残滓すら感じさせない。それはただの物体だ。何よりあれだけ深く斬りこまれ、一滴の流血すらないのだ。
少し難しい、専門的な話になる。ぼくの見る魂とは、肉体を制御する中枢、機甲学科ふうに言えば駆動系である。駆動系=魂は長く人にしか存在しないと思われてきた。例えば昆虫に駆動系はない。昆虫の魂は、高揚しないのである。しかし、昆虫が生命活動そのものには支障を持つわけではない。ここから考えて、魂の実在が肉体の制御にだけ関わるものでないことは、明らかだ。
ある海洋生物に魂が発見されたとき、言語を統御する言語系が予言された。両者を結ぶ共通項は、環境への単純反射ではない意志伝達を行うところにある。言語を持つことが特定の実在を他の実在から切り離して特別にする証拠であり、グラン・ラングの深奥に迫る大きな問題提起だった。だが、言語という枠内で思考する我々が、その外側から己の枠組を知覚する方法があるのか。ときに言語系は、永遠のファンタジーと揶揄されるゆえんである。無論、ぼくはこの観点からのアプローチをあきらめていない。
魂を知覚でき、かつ言語を持つこの物体は、間違いなく人であるための最低要件を満たしている。異形ではあるにせよだ。ぼくはしゃがみこんで、フードの表面に軽く触れる。途端、煤のような黒い飛沫が舞い上がった。羽虫を思わせる音を立てて宙空を漂うと、やがて完全に消滅する。床に残されたフードとマントは、もはや人の形を失っていた。
「検分は終わっていたのか?」
スウが若干の侮蔑をふくんだ(ように聞こえる)声でぼくに問う。
「もちろんさ」
ぼくとて、毎回をだしぬかれているわけではない。スウに向けてかざした小瓶の中では、煤が生きているかのように旋回している。
「これを史学科か生物学科で調査してもらえば――」
言葉を途中で切ったのは、持ち前の弱気ゆえではない。新たな気配を感じたからである。それはスウも同じだった。背筋を伸ばし、まるで石壁を透視できるかのように遠くを見る。
「ドミトリの方だ」「ドミトリだな」
検証の回数こそ少ないが、ぼくとスウの意見が一致したときの精度はほぼ100%だ。マアナことが脳裏をよぎった。もしかすると、こっちが陽動だったのか。
ふたりは同時に駆けだす。階段を跳びおり、中庭を走りぬける。スウがときどき振り返りながら「もっと早く」と言いたげな視線を投げてくる。
加齢による基礎体力の低下がうらめしい。置いていってくれ、とも言えない。さきほどと同じ力量の相手だとすれば、どちらが欠けても退けることは困難だ。
全速力で新棟の前を駆け抜けると、ドミトリの玄関にふたつの人影がある。
うごめく赤い髪と尖った両耳。
対峙するのは、丸眼鏡の寮長。
横たわるのは、絶望的な距離。
注意をそむけるために大声をあげるいとまもあらばこそ、赤毛の怪人は可憐なる我らが寮長へと飛びかかった。
ぼくの数歩先を走るスウの刀が、むなしく空を薙ぐ。
鈍い破裂音。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
怪人の後頭部へ、足の甲を巻きつけるような上段蹴りがヒットしたのである。
続いて、くずおれるその水月へ、超々至近距離からの正拳突きが、文字通り背中へと突き抜けた。
羽虫の音をたてて黒い気体と化す怪人の向こうに姿を現したのは――
寮長だった。
「あら、おかえりなさい。門限後の外出に関する規則、ご存知ですよね?」
ファイト・クラブ
ファイト・クラブ
フィンチャー作品は大好きなのに、なぜか今までファイト・クラブだけ見てませんでした。実は数年前、「高天原勃津矢って、タイラー・ダーデンがモデルですよね」と言われて、かえって見づらくなったのです。今回、初めて視聴しましたが、プログラマー系とかクリエイター系の職業についている人や、映画を見るとブログに評論めいた感想を書かずにはいられない人や、運動なんか全くしないけどプロレスや格闘技やグラップラー刃牙は好きみたいな人がすごい褒めそうな、ある種の男根至上主義、痩せ男のマッチョ願望を具現化したような内容に、鏡に写った自分を長く見るような感じでムズムズしました。積極的な発信をする文系層を狙い撃ちにしていて、ネットでは激賞の評が多く見られるのに、一般的にはいまいちマイナー感があるのは、それが理由なんでしょうね。世間的な評価が定まらないうちに見ればよかった。ムズムズする。