猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

MMGF!(7)

「人の営むあらゆる事象は法に照らされ、その成否を判断されなければならない。具体的な事例を見てから対症療法的にルールを変更すれば、すべての法に存在の理由はなくなる。事象が法に先んじて法を曲げるとするならば、我々は文明を放棄し、弱肉強食を是とする野獣の群れへと還ることになろう。今回のケースを想定したルールをあらかじめ学園の運営規則へ組み込んでおかなかったブラウン・ハットと歴代の執行部を問責する動議の採択を要請する。現在、学園が数万の流民の侵入を前に立ち往生しているそもそもの原因を作ったのは誰か、それをまず明らかにしていただきたい。我々メンターの協力を乞うとすれば、何より手順が逆ではないか」
スリッドの声には独特の張りがあり、一切の迷いがない。まるであらかじめ台詞を入れられた役者のようだ。しかしその応答は変幻自在で、すべて彼の内面からわきでていることがわかる。利害関係を度外視するならば、まったく大したヤツだ。
しかし、今回の学科長会議において、スリッドは打ち崩すべき最大の障壁なのだ。胃の辺りに重い塊を感じる。会議の前には確かにあったはずの確信が、みるみる拡散してゆくのがわかる。
本当に、だいじょうぶかな。誠に失礼ながら、『自分より頭の良い人間が間違っているときに、その過ちや狂気を果たして立証できるのか?』というあの命題が想起された。
ぼくは隣で腕組みをする体技科長をちらりとうかがう。反対側には、組んだ両手に顎を乗せた学園長が居並ぶメンターたちを静かに見つめている。
いつもとは違う席に座っていることは、なんだかひどく居心地の悪いものだ。ここにいるだけで、ぼくは何らかの意思を表明していることになる。スリッドが仮構する体制と反体制という区分けが、この位置からはまるで形を伴った実在として目に見えるようだ。
執行部へ向けられたスリッドの猛烈な詰問へ、しかし学園長は穏やかに切り返した。
「ご指摘の事項については汗顔の至り、すべてごもっともだと思います。しかし、明日にも市国の外壁を乗り越えかねない流民たちへの対処という最優先案件を脇において、過去へと責任の所在を遡及する時間が残されていないことも事実でしょう。その動議を論理的な帰結へ導くために必要な資料の準備も十分ではありません」
「時間がない、時間がない! 執行部たちがする、お決まりの戦術だ! 時間をなくさせたのは、いったい誰だと思っているんですか!」
おまえだよ、という無言の回答が沈黙を守る列席者から発せられるかのようだ。自分の不利はおくびにも出さないのが、この男の徹底したところである。少なくとも今回の件において、スリッドの提案が時間を空費させたことは否めない。だが、いったん投票による議決を経た以上、それは全員が負うべき責任なのだ。
「状況は逼迫し、一刻の猶予もならない。そんなことは執行部のお歴々にご説法いただくまでもなく、我々全員が大前提として理解している。私が問題としているのは、事態の緊急性に乗ずる形で学園運営の諸原則を反故にする提案をしておきながら、いっこうに悪びれないその態度だ。法を記す文言が人の言葉を超えぬ以上、法の解釈は過去の事例に大きく依拠してしまうことは指摘するまでもない。今日この場で悪しき前例を作ってしまうことが、子々孫々に至るまでの害悪とならないと誰に断言できようか」
「おい、ええかげんにせえよ。今日を生きのびてはじめて、明日のことを言えるんやろが」
たまりかねた、といった様子で史学科長が身を乗りだした。
スリッドは、小馬鹿にしたように鼻をならす。
「詭弁だ。心臓を取らぬ代わりに両腕を差しだせと迫る竜の逸話と何ら変わりがない」
「ものわかりの悪いやっちゃな。ワシは原理原則のために死ぬ気はないゆうとんのや。なんやったら、この議論を続けるかどうか、みんなに投票で決めてもらおやないか。運営規則にものっとったやり方やろ」
猛然と拳で卓を打ちつけ、スリッドが立ちあがる。
「学園と破滅を天秤にかけて、誠実なメンターたちへ決断を強要する! そうやって本来は存在しない亀裂を目に見える形で演出するのが、執行部のやり方なのか!」
「おっしゃることはよくわかりました」
穏やかに、しかしはっきりと学園長はスリッドをさえぎる。最高責任者の視線にうながされて、史学科長は背もたれへと身体を戻した。
「しかし、このままでは議論は平行線をたどるでしょう。まず、今回の件に関する我々の対応策をお伝えし、その後に改めて意見をいただければと考えます」
「あくまで提案の成否を判断するために、という点を外さないなら認めましょう」
意気を外されたスリッドの声音は、明らかにトーンダウンしていた。
「よろしい。では、メンター・ユウド、お願いします」
ぼくと目があうと、学園長は穏やかな表情でゆっくりとうなづいた。それは、たぶん信頼だった。ぼくにとっては、いつだって大きすぎる何かだ。
立ちあがりながら、かすかに膝頭が震えているのに気づいた。えい、情けないヤツめ。ぼくは無理にも自分をふるいたたせようとする。
「現在、学科長が不在のため、代行をおおせつかっています。以後の発言は私個人のものではなく、言語学科を代表しての中身であるとお考え下さい」
必要な口上ではあるが、責任回避的な言い訳に響かないこともない。スリッドの視線を痛いほどに感じる。ぼくが体現する何かを(あるいはぼくの裏切りを)、にらみつけているのだろう。
「ご存じのように、ペルガナ学園は膨大に広がる地下遺跡の一角として存在します。史学科の調査よれば、いくつかは市国の外まで通じているものもあるとのことです」
口の中が渇いて、声が裏返りそうになる。
「今夜中に、全市民を学園の敷地内へ待避させます。次に、流民の侵攻にあわせて、地下遺跡を通じた市外への誘導を開始します。その間、全学科の総力をあげて流民たちを学園へ釘付けにし、必要な時間をかせぎます」
ぼくはここでいったん言葉を切った。スリッドが猛然と挙手したからだ。
「二点。ひとつ、この提案は市国民の退避を主目的とした我々への殉職行為の強要なのか。ふたつ、流民たちが学園の占拠を目的とした攻撃を行うという主張に根拠はあるのか」
かかった。唇を唾で湿す。
動揺を見せるな。平静を装え。
「議長、本会議へあらたに二名を召喚することを求めます」
「それは、学科長会議の構成員以外、という意味ですか」
「はい」
スリッドが半身を乗りだすところへ、
「メンター・スリッドの疑義は、まず明らかにされるべき重要な部分と考えます。そのための要請です」
憮然とした表情ながら、スリッドは背もたれへと身をあずけた。
おそらく、議長にとっては予想外の要請だ。彼は助けを求めるように学園長を見た。
「よろしい、許可します」
ぼくは内心、ホッと胸をなでおろす。なんとかこれで、一つ目の関門をクリアしたというわけだ。
「では」
ぼくは戸口の席に控えていたキブに合図する。扉が開き、二人の少女が議場へと入ってくる。
緊張した面持ちのスウ。大勢の視線にさらされて脅えた様子のマアナ。少しの間だけ、我慢しておくれ。
「言語学科の研究対象であるグラン・ラングは、この世界を構成する基です。正確に用いれば、あらゆる事物へ物理的な干渉を行うことができると言われています」
「プロテジェ向けの、教本レベルの知識だ」
腕組みしたままスリッドは小声で不機嫌そうに、しかしぼくが聞きとるには充分な大きさでつぶやく。おそらくぼくを揺さぶるための発言だ。ほんと、いちいちアタマにくるな、この男は。
ぼくは聞こえないふりで、あらかじめ用意しておいた小石をポケットから取り出すと、手のひらへ乗せる。
「我々の言語からは、もはや物質への直接的な影響力は取り除かれています」
小さくグラン・ラングをつぶやく。たちまち小石はその形象を崩壊させ、細かな塵となって指の隙間からこぼれおちた。かすかに驚きの声があがる。
無理もない。グラン・ラングによる施術の実演は、その実現の不可能性から手品や大道芸とかわらぬ扱いを受けてきた。専門の研究者にとってさえ、事情はほとんど変わらない。すっぱいブドウってやつだ。
でも、いまやぼくにとって、この程度は施術とさえ呼べない児戯の類に過ぎない。ほんの数日前までには考えられなかったことだ。これさえも、仕組まれたことだっていうのか。
スリッドの厳しい表情が、ぼくを現実へと立ち返らせた。そうだ、いまはそれを考えるときじゃない。
ぼくは咳払いをし、言葉を続けた。
「しかし、物質へ影響を与えるからと言って、グラン・ラングの本質は言語の根本を疑うものではありません。その影響力は、ふたつの生命が意志を通わせようと思うとき、最大化されるのです」
嘘だ。いまぼくがでっちあげた。が、抽象度は高ければ高いほどいい。
ぼくとスウの視線が交錯する。スウはかすかにおとがいを上下させた。
圧倒的に。そう、何の疑義も残さないほど、圧倒的にやる必要がある。
いずれ避けられない決断ならば、己をだますに必要な幻想を与えよう。
グラン・ラングの低い詠唱は、青い輝きと波長を重ねつつ高まりゆく。
“魂の高揚”はかつてない高みへと達し、奔流となった輝きはいまにも器を乗り越え、決壊を迎えそうだ。
瞬間――
スウの姿が消滅する。列席者は一陣の風を感じたはずだ。
ざわめく皆の頭ごしに、ぼくはつとめてゆっくりと片手をあげ、議場の後方を指さした。
「人は人によってのみ練磨される。これは、かくあれかしという願望的な金言ではありません」
はたしてぼくの示した先には、スウが立っていた。刹那にも満たない時間を爆発的に高められた速度で移動しただけなのだが、列席するメンターたちにはその内実以上のものとして受け止められたはずだ。
「言語学科ではこれを“魂の高揚”と称しています。意志を持つ生命すべてに有効なことは確認済みです。さらに、しかるべき補助を得れば、効果の及ぶ範囲を拡大することもできる。こちらはまだ、あくまで理論上は、ですが――」
ぼくはわざと語尾を濁してみせた。
そして、これも嘘。効果は固体選択的なもの。険しい表情は変わらないが、スリッドから発言の気配は消えている。
「私の力では、学園の敷地を覆うぐらいがせいぜいでしょう。しかし、流民たちの持つ超人的な身体能力と我々のそれとの差を埋め、専守へ徹するには充分だと考えます」
過大な効果を謙遜しているように聞こえただろうか。
しかし、これもまた嘘。あらかじめ想定した作戦へ、皆の意識を誘導するための方便だ。
ぼくは、議場の入口に立つマアナを見た。そう、しかるべき補助を得れば、おそらく制約は絶無となるだろう。
剣術のような挙手。スリッドだ。
「お見せいただいたトリックの真偽について、学科の思想的独立を尊重する観点から考えて、私は論評する立場にはない。だが、いま行われたパフォーマンスを回答と仮定したとして、我々が充分な内容を得られたとは言いがたい。メンター・ユウドには、流民たちの目的が正に侵攻であることを立証いただきたい」
おや?
ぼくはこのときなぜか、スリッドはもしかして前回の会議における発言を悔やんでいるのかもしれないと感じた。
この男の出方は非常に攻撃的だし、ひとところに留めた論点を死守する。その態度は論理的なようでいて、会議において有効な結論を得ることが極めて少ないやり方だ。
ただ、己の存在感というか、面目を保つには有効である。
ならば、彼の発言によって会議が有意義な方向へ決定した、という形を作ってやりさえすればいいのではないか。
いずれにせよ、次の第二関門を突破する必要がある。マアナへ手招きすると、巣穴から飛びだして天敵の群れの中を走りぬける小動物のように、一直線にぼくの腹へと頭から飛びこんできた。
うーん、いい頭突きじゃないか。一瞬、食べたものが喉元へ逆流してくるが、すんでのところで飲みこんだ。あやうく、ここまでの演出が水の泡になるところだ。
スリッドの眉毛が吊りあがる。いつから議場は託児所の機能を兼ねるようになったのか。そんな台詞が実際に聞こえるようだ。
「この少女が、二人目の召喚者となります」
テーブルの下から両目だけをのぞかせる、小さなマアナを抱えあげる。多くのメンターたちから向けられるいぶかしげな視線と、一人のメンターの攻撃的な視線に脅えて、ぼくの首にしがみついてくる。ごめんよ、少しだけ我慢しておくれ。
 「彼女は見かけこそ人の形をしていますが、その魂の有り様は我々とは遠いものです。ですから、厳密を求めるならば、“これ”はおそらく、古代人が残したレガシーの一種であると推測できます」
胸に刺すような痛みが走った。いまの発言に嘘が含まれていない事実に、ショックを受けているのだ。マアナがぼくたちの言葉を理解できなくてよかった。もしそうでなければ、きっと自分を許せなくなってしまうだろう。
声がかすれそうになり、咳払いをする。
「先日、史学科の調査へ同道した際、郊外の遺跡において接収しました。過去に報告の例を思い出せないほど巨大なローズクォーツの内側に納められていたのです」
体技科長が史学科長へ視線を走らせ、かすかに首を振った史学科長がキブへその視線を送り、キブは半眼で床を見つめながら向けられた無言の問いかけに気づかないふりをした。学園長だけが両手に顎を乗せたまま、微動だにしない。
「先日と言われたが、正確には何日前のことか」
スリッドが腕組みをしたまま詰問する。議長は発言に挙手を求めろよな。もはや議場はふたりのショウダウンの様相を呈している。
「そうですね」
ぼくは親指と人差し指で顎をつまんで、しばし考えるふりをする。即答を避けたのには理由がある。先ほどの発言に仕組まれたトラップを踏ませるためだ。
「二週間ほど前になるでしょうか」
スリッドが勝ち誇った笑みを浮かべる。周囲のメンターたちへ同意を求めるように、芝居がかった仕草で両手を広げた。
「まず、その女児がレガシーであるとの仮定を受け入れよう。この場では立証の余地はないが、最も公正を求められる学科長会議において後に虚偽と判明するかもしれない発言を、いやしくも学科長を代理する人間が行うはずはないからだ。しかし、私とて状況の切迫は理解する。諸賢の抱くこの疑念をあえて看過することで、議論を先へと進めよう」
まったく、もったいぶった言い方だ。スウや体技科長は、さぞかし気をもんでいるに違いない。
しかし、流民たちがこれからどう動くかを知っているぼくは、あえて神妙にスリッドの発言へ聞き入るそぶりをみせた。
「私の記憶が間違っていなければ、この二週間で臨時のものを含めて四度の学科長会議が開かれたはずだ。メンター・ユウドの言葉を借りるならば、過去に報告の例を思い出せないほどの大発見をご存知の方がこの中におられるだろうか」
芝居がかった大仰さで、列席のメンターたちに訴えかける。
「情報秘匿は、調査研究に従事する者の基本義務に違反する。この学園が真に闊達な学際的発展を維持するために、言語学科と史学科の共謀による今回の隠蔽は決して看過できるものではない。もし何か弁解があるならば、お聞きしよう」
よくもまあ、これだけ巨大な問題を作りあげることができるものだ。ぼくはあきれ半分、感心半分でスリッドを見る。けれど爛々と輝く両目は真剣そのもので、どうやら冗談ごとを言っているのではないらしい。
気がつくと議場は痛いような沈黙に包まれており、メンターたちの視線はすべてぼくの上に注がれていた。やれやれ。
「議長」
「は。何でしょうか」
議長が議長であることを思い出し、間抜けな声を出す。
「発言の許可を」
「あなたの発言を待っています」
議長は議長の職務について忘れてしまったようだ。ったく、もう。
ぼくは議場の入口を指差した。キブが澄ました顔で挙手している。
「メンター・スリッド、メンター・キブの発言を許可しますか」
おいおい、何だよそれ。議長は、学科長会議の運営原則についても忘れてしまったようだ。
議長の不規則発言へ、スリッドが苦々しげに答える。
「その質問は私が何か、煽動をでも行っているとの誤解を与えかねない。議長は円滑な議事進行のみを旨とした、中立な発言を心がけていただきたい。無論、学科長会議ではその地位の如何に関わらず、何人も発言を妨げられることはない」
ぼくは周囲にさとられないよう、キブと一瞬だけ視線を交わした。頼んだよ。
「史学科への誹謗につながりかねない事実誤認を訂正さしあげたく」
キブのすました顔と、よそおった言葉。本気で怒っている証拠だ。
「誹謗という言葉の意味をはきちがえては――」
「第三百四十五次ペルガナ史跡発掘中間報告書」
さえぎるように、手元の資料を読みあげる。
「ちょうど二週間前の学科長会議において、メンター・スリッドの疑義によって中断を余儀なくされた報告書です。添付された目録には、発掘品の詳細が記されていました。一部を読み上げます。『分類、人型土偶。三十二號遺跡内奥、天辺付近薔薇水晶依リ接収。表皮極メテ精巧也。生命、或ハ其ノ擬似反応有リ。他学科ノ検証ヲ要ス』」
スリッドがはじめて、しまったという表情を見せる。
「まさか、このペルガナ市国の学府に籍を置く者が、この資料に書かれた文字を読めないなどと、疑う気持ちもありませんでした」
事前の打ちあわせ内容を大きく逸脱した嫌味たっぷりの口調で、キブは発言をしめくくった。まさに己の発言が学科間の交流を妨げる結果を招いたのだから、それこそ自分の言葉に逆襲された形だ。さすがのスリッドも、これには黙りこむしかなかった。
「今度からは人の話をよく聞くこっちゃな」
史学科長が追いうちをかける。おいおい、あんまり調子にのって追いつめないでくれよ。口げんかに勝つことが目的じゃないんだ。
「この少女の発見と流民たちの出現は符号します。事実として指摘できるのは二点です。どちらも我々とは異なった魂の有り様をしているということ。そして、この両者は私たちの言葉を解さないが、グラン・ラングによる意志の疎通は可能だということ」
正確には、流民たちの一人ひとりが使うグラン・ラングは、相当度にクレオール化しているように見受けられた。さらに、魂の有り様で言うならば、マアナよりも流民たちの方がぼくたちによっぽど近い。
しかし、この場で欲しい結論はひとつだけだ。余計な情報でメンターたちの判断を混乱させる必要はない。
「久しく絶えていた言語を母語とする者たちが、わずかの時期をたがえて学園へ現れたのです。そのふたつが互いに全く関係のない、偶発的な事象だということが考えられるでしょうか」
「偶然だ」
スリッドが即答する。あれくらいじゃ、懲りないってわけか。
だが、予想通りでもある。さあ、論理的には最も正しい帰結を、君の口から聞かせてくれ。
「私はそう考える。しかし、互いに立証できないという意味では、同じことだ。そこで私から提案したい」
ぼくはマアナを抱きあげた。
青ざめて泣きそうなその顔が、会議室の誰からもよく見えるように。
「人型土偶を流民たちへ引き渡す。もしメンター・ユウドの推論が正しければ、我々は戦闘を回避できるやもしれない。もし私が正しかったとして、何ら状況は悪化しない。現状で可能な、最善の一手ではないか」
メンターたちがざわめく。無理もない。この人型土偶は、あまりにも人の子どもに似すぎている。
本来ならば、ぼくの口から発せられるべき内容だ。でも、ぼくは逃げた。この提案にたどりつくだろうとわかって、スリッドを利用した。ぼくは卑怯者だ。
だが、この選択は提示されなければならない。すべての疑心を廃して全員が結束できなければ、今回の要撃作戦はおぼつかなくなる。
けれど、何よりも――
ペルガナ学園が真に守るべき価値のある場所であることを証明したかったのだ。ただぼくの、個人的なわがままのために。
「えー、議決を伴う審議事項として考えてよろしいのでしょうか」
会議室のざわめきを収束できないまま、議長が誰へともなく問いかける。
「待ちなさい」
静かに瞑目するふうだった学園長が、ゆっくりと顔を上げる。
「ここにいる人々の良識を疑うわけではありません。しかし、人命の与奪を投票の具にすることは決して許されない」
「その通りや」
学園長の言葉に、史学科長が深くうなづいた。
「我がが助かるためにプロテジェを犠牲にはでけへん。なあ、もっぺんみんなで確認しようやないか。ワシらはいったい、何のためにペルガナ学園へ職を奉じたんや。プロテジェたちへ未来を預けるためやったんとちゃうんか。研究へ邁進するのさえ、よりええものを預けるのを願ってこそやろうが」
スリッドが鼻で笑う。
「お得意のやり方だ。情に訴えて議題の焦点を曖昧にする。これは教育論ではない。ペルガナ市国数万の同胞と異邦人の子、どちらを我々が取るべきかという話だ。議長、採決を!」
「聞いていなかったのですか」
ぼくは声音にふくまれた何かにうたれ、学園長を見た。その身体から、気炎のようなものが大きく吹きあがるのを、確かに感じた。
「我々は、ひとりの子どもを見捨てない」
その鋭い眼光が居並ぶメンターの未熟さ、日和見、優柔不断を威厳で射抜く。
「異議は認めません。これは、学園長としての決裁です」
スリッドはほんの一瞬だけ、ひるんだ表情を見せた。でも、これですべてを撤回できるくらいなら、最初から妥当な譲歩へと流れていたはずだ。
「学園長は我々非力なるメンターから、声までも奪うおつもりか!」
スリッドの気性は権威による圧殺へ最も強く反応する。なんとか懐柔できるなんて、傲慢な思い上がりだった。理解していることと、実践することは天と地ほども違うのだ。所詮、ぼくくらいでは彼のプライドに落としどころを作ってやるなんてマネが、できるはずもなかった。
会議の前に準備したことは、これですべて出し尽くした。もう手がない。
「諸君、見ただろう! 我々の抱いてきた長い懸念が、学園というシステムの不備が、今日ここに顕在化してしまった! 瑣末の議事に判断を留保し続けた最高権力者が、学園の存亡をかけたこの重大な局面において、その意味もわからぬまま抜いてはならぬ宝刀を抜いてしまったのだ! いまこそこの暴虐に対して、我々は結束するべきではないか! おのが生命の帰結を、一個の独裁的な権力へほしいままにさせるわけにはいかないッ!」
「おい、学園長の決裁だぜ。正しい手順じゃねえか」
腕組みをしたまま、体技科長が低くつぶやく。抑制されてはいるが、気の弱い者なら聞いただけで身ぶるいするような圧力がふくまれている。
「馬鹿な! たった一人でする決裁が、万の人間の破滅を天秤にしてなじむと思うのか!」
体技科長が沈黙を守っていたのは、学科間の対立という構図をスリッドが持ち出すことを嫌ったためだろう。そうなれば、冷静な話しあいは不可能になる。
「さあ、ユウド。作戦の詳細に進め。準備も考えりゃ、もう時間は残ってねえ」
そして口を開いた上は、どちらかが退く以外の結論はない。
「場所をわきまえてもらおうか! 一介の学科長が最高意志決定機関の議事を無視していいとでも――」
「いい加減、黙らねえかッ! ユウドが話せねえだろうがよッ!」
獅子の吼えるがごとき大喝。会議室の空気がビリビリと震え、ほとんど物理的な影響を伴った圧が、列席者をのけぞらせる。
体技科長は腕組みを解くと、その場にいるメンターたち全員をねめまわした。
「生きるか死ぬかってときに、言葉遊びはやめにしようぜ。俺ァ、コイツを全面的に信頼してる。もしこの作戦に乗る気がないなら、いますぐここから出ていってくれ。誰も残らなくとも、ユウドと俺と、体技科の連中でやる」
実際のところ、ぼくはこの会議に末席を置くただの下っ端にすぎない。人望どころか、ぼくを知らないメンターのほうが多いはずだ。
だが、体技科長の言葉が醸成した空気は、またたく間に会議の構成員すべてへと伝播してゆく。冷ややかに議場を支配していた、明らかな不信と懐疑が塗りかえられてゆく。
皆、知っているのだ。この体技科長がいつだって、いちばん辛い局面で、いちばん辛い役割を率先して担ってきたことを。誰に誇るでもない、彼はただ黙って苦難の先頭に立ち続け、皆に背中を見せてきたのだ。
その信任は、何よりも重い。
機甲学科のメンターがひとり、立ちあがった。もしかすると、備品を壊したことをまだ恨みに思っているのかもしれない。肝が冷えた。
「機甲学科のムングだ。微力ながら、今回の作戦に協力させてもらう」
そして、またひとり。数秘学科の所属だ。まさか、スリッドへ加勢するつもりか。
神経そうに眼鏡のつるへ指をかけながら、言った。
「数秘学科、スカアル。メンター・スリッドとは見解を相違する」
その二人が呼び水となり、メンターたちは雪崩をうつがごとく賛意を表明して、次々に立ち上がる。
気がつけば、列席者のほぼ全員が起立していた。
蒼白になったスリッドは、荒々しく席を蹴って議場を去る。彼の性格を考えれば、他の選択肢はない。
ぼくは痛ましい思いでその背中を見送った。スリッドの存在なくしては、ほとんど満場一致のようなこの状況は得られなかっただろう。
「どうやら、結論は出たようやな」
「メンター・ユウド、それでは続きを」
史学科長がうなづき、学園長が穏やかにうながす。
皆がぼくへ向ける視線の熱量が、明らかに増しているのがわかった。
そこで、ぼくはハッと気づく。もしかして? もし、執行部がこの顛末をすべて計算していたのだとしたら――
学園の命運を、ずっとひとりで抱えこんでいたような気でいたぼくは、一種の熱い気持ちに満たされながら、しわがれた彼らの顔をあらためて眺めた。
「どうした? みんな、おめえの言葉を待ってるぜ」
親爺たちめ、大したタマだ。
ぼくは震える両手を悟られないよう卓上へ置くと、会議室の全員と順に目線を交わす。
視界の端で、スウがはげますようにゆっくりとうなづくのが見えた。
「それでは、今回の作戦の概要について説明します」

MMGF!(6)

結局のところ、ぼくの確信がどこから来ているかと言えば、最初のくちづけしかなかった。だから、ぼくにしか知りえない情報をとりのぞいてみれば、相当度にうさんくさい筋立てに聞こえるはずだ。それを証拠に、組んだ両手に顎を乗せ、目を閉じたまま熟考する様子の学園長は、もはや対話での適切な間を越えた沈黙を続けている。
どうにも居心地が悪くなり、ぼくは室内へと視線を泳がせる。家具にせよ、調度品にせよ、空間の取り方にせよ、ひとりの人間の居住のみを考えれば過度な余剰(おかしな表現だけど)が、そこここに詰めこまれていた。ある個人の所有する余剰が権威を形成するのは、人の世のならいと言える。だとすれば、『学園長は国王』の揶揄も、あながち的を外したものではないのかもしれない。
ときおり、背後から聞こえるかすかな擦れ音は、部屋づきの速記官のものか。つまり、ここでの会話はすべて公開を前提に採録されているってことだ。
しかし、学園と市国を救う方法を他に思いつかない。やがて学園長がゆっくりと顔を上げ、ぼくはその視線を無理矢理につかまえる。真摯さを演出するんだ。ハッタリだってかまやしない。
「この案件が学園にとって極めて重要な意味を持つことはわかりました。よく話してくれました。至急に、学科長会議のための予備審議に挙げたいと思います」
しかし、ぼくに与えられた穏やかな声色は、学科を飛び越えた個人による突然の陳情への、お決まりの定型句なのかどうかをはからせはしなかった。これは役者がちがうな。他に方法は無いと思いさだめてここへ来たはずなのに、簡単に気持ちが萎えるあたり、やはりどこかでぼくは他人や組織を信用していないのだろうなと思う。
「貴重なお時間を割いていただいて、ありがとうございました」
ともあれ、話の信憑性を薄れさせる有効な方法は多くを語ることだ。ぼくは短く礼を述べると、たちまちにきびすを返す。部屋の片隅に置かれた小さな机に、ひとりの女性が背中を丸めて座っているのが見えた。入室するときには気づかなかった。若いような年老いたような、ふしぎな容姿だ。鼻眼鏡の下からちらりと、こちらを値踏みするような視線を投げてくる。彼女が知る、多くの陳情団や追従者たちと比べられているのかもしれない。ぼくは形の無い何かがまとわりついてくるのを振り払うように、歳月が薄黒く光沢させた扉を少し乱暴に押し開けた。
背後に重い音が響くと、安堵が心を満たすのがわかった。少し遅れてその正体に気がついて、気持ちが沈む。
ぼくは臆病だ。ひとりでは何ひとつ決断できない。ともすれば、責任を投げだすための相手を探している自分に気がつく。体技科長のことを信頼していないわけじゃない。彼にすべてうちあける選択肢もあったはずだ。だがぼくは、最高責任者へ直接に陳情することを選んだ。学科の違いが、率直な相談を妨げたのかもしれない。
いや、ちがうな。また学科の違いなんていう都合のいい言い訳を用意している。そしてそれすら、メンター・スリッドの論法から剽窃した概念に過ぎない。ぼくは自分への言い訳ひとつさえ、自分の言葉では満足にできないのか。
深刻な自己嫌悪に胃のあたりを圧迫されながら、足早に学園長室を離れようとすると、
「まさか置いていく気じゃないだろうな」
不機嫌そうなスウの声が後ろから響いた。しまった、ついてきてもらっていたのをすっかり忘れてた。
「ごめん、ちょっと考えごとをしていたんだ」
「どうせまた、出口のない悩みごとだろう。そういう顔をしている」
妙に聡いところが、ときどき本当に憎らしくなる。このプロテジェに、知って見ないふりという配慮はないのだ。
「学園は包囲されている。海路での逃亡に充分な船舶の数はなく、学園の放棄が前提だ。体技科長とスウ・プロテジェが対人で遅れをとることはないだろう。しかし、各個撃破は局地的な状況を打開するだけ、流民たちが数を頼みの同時侵攻に訴えた場合、そのすべてを防ぐことは不可能。つまり、学園の防衛には否応なく、学際的な結束を構築する必要がある。そして、メンター・ユウドの考案する要撃作戦には、マアナの持つ力が不可欠だ」
スウが片目をつぶってぼくを見る。学際的な、という表現がずいぶんと皮肉っぽい。
「どれも何度も確認したことだ。これ以外に方法はない。ユウドが負い目を感じることは何もない」
いちいちどれもごもっともだ。だが、本当にすべての可能性は検証されただろうか。流民たちとの戦闘が不可避であるという前提が、そもそも間違ってはいないか。もしかしてうちのボスなら、もっと突拍子もなく、それでいながらすべてを円満に解決する方法を思いつくのではないか。
何よりいちばんの不安要素は、今回の経緯と作戦が、ぼくの深いところにある、ぼくが嫌っている性分とぴったり合致しているところだ。己の心の問題のみで学園の命運を左右しようとしているのではないかという疑惑。
他人を信頼するといえば聞こえはいいが、要するに自己不信が深刻なのだ。
組織を信頼するといえば聞こえはいいが、要するに責任を分散したいのだ。
安堵を感じたのは、学科長会議に至るしばらくの先行きがこの手を離れて、ぼくのコントロールを越えたから。
たとえこれでダメだったとしても、ぼくが決めたことじゃないし、ぼくのせいじゃない。
それは頭の内側から響いてきて、耳をふさいだって聞こえてくる。
「まったく、やっかいなことだ。普段は無為が身上のくせに、いざとなるとひとりですべてを抱えこんで、指揮官か王様のようにぜんぶ差配したがるのだからな」
スウが肩をすくめて、わざとらしく両手を上へ向けた。
その仕草に含まれた優しさを見て、ぼくは少しだけ気が楽になる。誰かの関心は、頑なさや思いこみを溶かしてくれる。
プロテジェたちはみんな、いつだってこんな駄目メンターにも優しいんだよな。彼らはぼくがきっと間違わないことを、たとえ間違ったとしても、それは良い意志のゆえだということを信じてくれている。
そう考えると、揺れていた心が定まる。彼らの信頼に対する責任だけは果たそう。ぼくにできるのは、決して手を離さないようにすること。それはぼくの最低限で、同時にぼくのすべてだ。
「内省は人生の基本だからね。水面の少し下を行くのがぼくの流儀さ」
「まったく」
軽口に、スウが目元を緩める。
「さあ、次の一手だ。学科長会議の招集までに、もう少しやっておくことがある」
「ふむ。他学科への根回しかな」
腕を組んだまま、わずかに首をかしげる仕草が愛らしい。ぼくのことならなんでもお見通しといったていの少女が見立てを誤るのは、なんだか気分がいい。
「見識が浅いね、スウ・プロテジェ。シシュだよ」
「シシュ?」
「行こうか。そろそろ集まってるはずだ」
太い眉を怪訝に寄せるスウを尻目に、ぼくはドミトリの方へと歩きだす。
しばらくは、このささやかな優越を楽しもうと思いながら。
最初は誰もが半信半疑の様子だった。突きだされた拳の速度は、明らかに手加減されたものだったから。庭掃除用のほうきの柄が、その手首へ交差するようにするどく打ちつけられる。次の瞬間、体技科のむくつけき大男は小柄な少女の足元に背中から落ちていた。
二人目は本気だった。しかし、結果は変わらない。腕組みをした体技科長が不満げに鼻息を吹くと、居並ぶ体技科の面々にサッと緊張が走った。
寮長――シシュは涼しい顔でスカートのすそを払う。
「せっかく掃除しましたのに、またほこりが舞ってしまいましたわ」
前髪の一房を指でよじりながら、微妙にズレた発言をする。周囲の空気が一変したのを意に介したふうもない。
「あの、みなさん、お一人ずつでよろしいんですの? それだと時間がかかりますわ。わたくしも、炊事に洗濯、まだきょうの仕事をたくさん残しておりますし」
のんびりとした声音。たぶん本人にそのつもりはなかったと思う。けど、無意識の挑発は体技科に火をつけた。
シシュを挟みこむように対峙した二人が同時に挑みかかる。
その燃えあがりは、しかし瞬く間に鎮火された。
拳が空を打ち、二つの身体が交錯するように地面へ崩れる。ほうきの先端と右の足刀がそれぞれの水月と喉をきれいに直撃していたのだ。回避と攻撃が一体となっている。お見事。
「なめるなッ!」
彼我の実力差は明白だった。けれど、若いメンターたちは無理にも己を鼓舞し、必死の形相で次々と眼前の少女に挑みかかる。
無理もない。彼らの背後には体技科長が腕組みをして控えているのだから。
どちらに地面へ転がされる方が幸せかは、尋ねられるまでもない。
どれだけ相手が増えようと――いや、人数が増えていることがまさに理由なのだろう、シシュの俊敏さと技のキレは天井しらずに向上してゆくようだ。もはや目で追うのも難しいほどの動きで男たちを翻弄している。
「ユウド」
ぼくの横で体技科長がうなり声をあげた。
「俺は自分の目が信じられねえ」
見れば、倍ほどに膨れ上がった二の腕には、幾筋もの浮き上がった血管がよじれていた。
や、まずい。これはやる気だ。グラン・ラングによる盟約と極限まで鍛えた身体、ぶつかればどっちが残るのか、運動など薬にもしたくない虚弱な研究の徒として野次馬的な興味は残るけど、いまはまずい。
「この世界は、目に見える以上のもので出来ているということですよ」
ぼくは背中に冷や汗をかきながら、冷静にふるまおうと努める。
「グラン・ラングによる古い盟約が、あの少女に流れる古い血脈を通じて、この土地を守らせているのです。おそらくドミトリの敷地内限定でしょうが、彼女が倒されることはありません」
「守れば最強ってワケか。攻めダルマの俺にしてみりゃ、どっちが上か試してみたくてうずうずするぜ」
悔しそうに拳を手のひらへ打ちつける。間近でつんざく破裂音に、耳が痛くなる。
「おめえの言いたいことはわかってるぜ。大きな喧嘩を前に、一番強いコマどうしが潰しあうなってんだろ」
「冷静な判断、痛みいります」
後ろに組んだ両手は、もう汗でじっとりだ。
「ひでえ野郎だ。だんだんやり口がてめえのボスに似てきやがるぜ」
良識派をもって任じるぼくにとって、あの類の奇人変人といっしょにされるのはかなり心外だ。けど、的を射ている。性格は度外視するとして、土壇場に追いつめられたときにぼくの行動規範となるのは、ボスだったらどうふるまうだろうかということだから。
「だって、仕方ないですよ」
こういうときはたぶん――
ぼくはできるだけ穏やかに見えるよう、にっこりと笑って、
「百聞は一見にしかず。見なければ信じなかったでしょう、きっと」
「くあぁッ、憎らしい口を聞きやがるぜ。なんでもお見通しってワケかよ」
体技科長はがりがりと思いきり頭をかき回す。いつも思うけど、じつに頑丈な頭だ。
「けどよ、小僧ッ子ぐらいに見透かされて、てめえんとこの若え連中をひっくりかえされて、メンツつぶされて、恥ィかかされて――」
制止する暇もあらばこそ、部下を心配する言葉とは裏腹に、累々と折り重なるメンターたちをほとんど蹴散らすようにして、体技科長はずんずんと進んでゆく。
「ただで気が済むと思ってんのかよ!」
ちょうどシシュを見下ろす格好だ。筋肉で肥大した上体はわずかに前傾していて、向きあう二人のシルエットは、まるでクマに襲われる子どもみたいに見える。
ぼくはもう、体技科長をうまく懐柔できると一瞬でも考えた己の浅はかさに青ざめていたが、シシュにひるんだ様子はまったくない。
「あの、学科長に手をだしたりしたら、わたしクビになってしまいますわ」
すでに十数人のメンターを殴り倒しているにしては、やっぱりズレた発言だ。さらに、体技科長を殴り倒せる気でいるらしい。
「かわいい顔して、おもしれえことを言うじゃねえか」
その言葉に体技科長は破顔一笑するが、こめかみには十文字に血管が浮き上がっていた。
「大丈夫だ。言語学科のメンターとプロテジェが証人になる。ここでは何も起こらなかった、ってな」
シシュの手首ほどもある親指で、ぼくたちを指した。
「いいのか。少々まずいことになってるぞ」
スウがすぐそばで耳打ちする。
「だ、だいじょうぶ、すべてアンダーコントロールさ」
返答する声は上ずっていた。さきほどまでの自信はどこへやら、スウがぼくに向ける視線はいまや疑惑でいっぱいだ。
「安心しな。おんな子どもに手をあげる趣味はねえ。おい、ユウド!」
「はいッ!」
ぼくは思わず直立不動の姿勢を取る。
「覚えとけ! おいらの信条は『見ることは信じること』じゃねえ! 『味わうことは信じること』だ!」
うわあ、おもいきり根に持たれてるよ。身の丈に合わない、借り物の言葉は使うもんじゃない。
「おい、おじょうちゃん。いまここで思いッきりおいらを殴れ」
言うや、体技科長は両手を大きく広げた。好きな場所を打たせるつもりだ。
不安そうにぼくのほうを見るシシュ。その様子は、ぼくが自分のことをひどいやつだと思わせるのには、充分に可憐だった。
でも、体技科長を納得させる方法を他に思いつかない。ぼくは口をへの字に結ぶと、お仕着せの少女へとうなづきかけた。
大きくひとつ息を吐くと、シシュは意を決したように腰を低く構える。
永遠に思えるような、完全な静止。
シシュの上半身が回転し、消えた。
がぁん。
槌が岩を打つような鈍い音。かすかに地面が揺れるような錯覚。
まばたきのうちに、少女の細腕が体技科長の側頭部を打ちぬいていた。
長い静寂。
やがて体技科長は無言のままシシュに背を向けると、ぼくの方へとゆっくり戻ってくる。
「ユウド」
背筋の寒くなるような、壮絶な表情だ。
「俺は信じたぜ」
にやりと笑うと、体技科長はそのまま大きく道をそれて、地響きとともに大地へと横だおしに倒れこんだのだった。
歳月に薄くなった皮膚は頭蓋へはりつき、たるんだまぶたは垂れさがったまま開かない。まばたきせずに充分長い時間を眺めれば、かろうじて胸元が上下しているのがわかるだろう。両手を腹部で組み合わせ、わずかにうつむいた姿勢のまま微動だにしない史学科長は、古代の葬儀に使われた埋葬品だと知らぬ者に伝えても、何の疑問もかえってこなさそうな有様である。
「言われんでもわかってるて。まあ、心配せんとき。このキブねえさんに根回しは不要や。調査資料の改竄、遺跡の私的占有、発掘品の横流し、いつだってユウドの求めてる最善を満たしてやろうと、手ぐすねひいて待ちかまえてるんやさかいに」
不穏当なその発言は、史学科長がそばにいることを全く意に介していない。だいじょうぶかよ、この学科。ぼくの心配をよそに、キブはがははと豪快に笑うと、ぼくの背中をひどくどやしつけた。
「表現の仕方はすごく気になるけど、まあ、頼りにはしてるよ」
咳きこみながら答える。
「私からもお願いします。メンター・ユウドを助けてあげてください」
わりこんできたスウが、両手をそろえて見本のようなおじぎをした。
「おう、ぜんぶウチにまかせとき。大船に乗ったつもりでおってや」
なれなれしくぼくの肩に手を回すと、ウインクしながら親指を立ててみせるキブ。
窓の外に目をやれば、すでに周囲は薄暗くなっている。やれやれ、足を棒にした根回しの一日が、ようやく終わりそうだ。
「とりあえず、今日は遅いからもう帰ったほうがいいよ。ぼくはこれからまだメンター・キブと話があるから」
眉が少し下がったのは、不満の現れかもしれない。刀をはいていないときのスウは、実に素直でわかりやすい。けれど、積極的に意義を申し立てようとしないのは、余計な詮索するべきではないとわきまえているからだろう。刀をはいているときとは大違いだ。
「わかりました。でも、遅くならないうちにもどってくださいね。マアナも待ってると思いますから」
廊下を遠ざかっていくスウの後ろ姿をあからさまな作り笑いで見送ると、キブは肩越しにまわした腕でぼくの首をぐいぐいと締めあげながら、部屋の片隅へとひっぱっていく。豊かな胸元に顔面を圧迫され、窒息寸前だ。
「苦しいったら。いっそ学科長会議の前に、楽にしてくれるつもりなら話は別だけど」
「なんやなんや、あの娘、この大事なときにもどってしまっとるで」
そのことか。ぼくは締められていた喉を押さえながら返事をする。
「しばらくは、荒事の必要がないからね」
「会議が終わるのを相手さんが待ってくれるとは思われへんけどな。うちの若いのに、いまからドミトリへ刃物さしいれさそか。実はな、こないだええアルマを見つけたんや」
どこの山師かって口調だ。学科長が眠り姫(爺?)なのをいいことに、どんどんガラが悪くなるな。
「スウにとって刀は、人格交代の強力な誘導因子にすぎないんだよ。刀を持ったまま入れかわったことだってあるしね」
「まあ、刃物を握ると人が変わるなんて、そもそもが冗談みたいな話やけどな」
思いつきを否定されたのが気にくわないのか、キブはふんと鼻をならす。
「アンタんとこのプロテジェやろ。なんぞ思い当たるフシがあるんちゃうか。ころころ理由もなしに変わったら困るがな」
理由、か。もちろん推論はある。精霊憑き、みたいな話も民間にはあるけれど、ぼくはその類の説明には懐疑的だ。理知に照らせば、人格の解離とは精神的な苦痛に対する解決を徹底的に無力化されたとき、その逃避として生じる一種の防衛反応だ。つまりスウの苦悩が、スウの理由というわけだ。そして、受け持ちのプロテジェに関するプロファイルは、担当のメンターへすべて開示されている。
でも、たとえ腐れ縁の、気安いキブとは言え、つまるところ推理ゲームの結論に過ぎない、個人の精神史に言及することははばかられた。ぼくはわざと、質問の本質をずらした返答をする。
「スウとはけっこう長いつきあいになるけど、一定の期間を観察すると偏りは平均化されて、二つの人格は等分に表象することがわかってる。どうも、二つの人格の間に主従は無いらしい。状況が特定の人格を必要としているときに、誘導因子が閾値を越えると交代が起こる、ってとこかな」
わからないふりで、クリティカルな事実からわざと半歩遠ざかる。研究者の態度としては最悪の部類だな、これは。
「さすが言語学科、ややこしい言い方でけむにまくのは学園一やな」
どうやらキブは、ぼくの韜晦には気がつかなかったようだ。
「特定の人格が必要なときって、なら本人はある程度、交代に自覚的ってことかいな」
「うーん、連続したひとつとして記憶が保持されているようなフシもあるけど、意識的に交代してるわけじゃないよ。でも、お互いの存在を薄々知ってはいると思う。いまは然るべき事態へ向けて、片方を温存しておく必要があると判断してのことじゃないかな」
キブがうなった。
「その話、なんかおかしないか。判断って、判断してるのは誰やねん」
「さあ? 実のところあんまりわかってないのさ。心の問題は専門外だからね」
ぼくは肩をすくめてみせた。
「言葉遊びは言語学科のおハコやさかいな。その点、史学科は考証第一や。厳密にできとるやろ」
「数秘学科には負けるけどね」
キブは露骨に顔をしかめた。
「なあ、こんな準備でだいじょうぶなんか? ぜったい平穏無事には終わらへんで。ほんまに勝算があってのことやろな? アンタの案も、学科長会議で潰されたらすべてしまいや」
「だから、こうしてお願いに回ってるんじゃないか。採決の結果ってのは、議場に入る前に勝ちとっておくものさ」
「アンタな、どうも最近、政治的になってきたんとちゃうか。政治的になるのは研究をあきらめた証拠やゆうで」
キブは皮肉っぽく口の端をゆがめると、ぼくの鼻先に指をつきつけてくる。
突如、その背後に陽炎のごとくゆらめいたのは――
「おまえら、またなんぞ、二人でよからぬ隠しごとしとるんちゃうやろな!」
「ぎゃあ!」
絶叫とともにキブがぼくに抱きついてきた。すごい圧迫感だ。苦しい。
陽炎の正体は、なんと史学科長だった。長い学究生活の果て、無機物と有機物の境界を喪失したスリーピング・オールド、クラウチング・シニアーが、いま午睡と午睡の間断の状態(恍惚?)に突入したのだ。怒りによるものか、はたまた老人性の何かによるものか、局所的な地震を疑わせるほど小刻みにプルプルと揺れ続けている。だいじょうぶか、この人。ここ十年くらいの間、ずっと死にそうだ。
「あわわ、いつごろから起きてはりましたんやわやろか」
先ほどまで見せていた学科の内実をほしいままにする専横ぶりはどこへやら、滝のごとく汗をふきだして、キブは生まれたての小鹿のようにガクガクと膝をふるわせている。
「ワシくらいになると、意識を覚醒させたまま眠るなんてのは、それこそ朝飯前の睡眠、昼飯後の午睡、おやすみ前の仮眠やな」
結局どこまでも寝るのかよ。そして一日二食かよ。睡眠学習としての効率はすごそうだ。
「だからな」
わずかにまぶたが持ちあがると、濡れ濡れとした黒目が爬虫類の鱗のように光を反射させた。
「おのれンとこのメンターが裏でどんな悪さしとるかも、すべてお見通しっちゅうわけや」
とたん、キブはへたへたと床に座りこんでしまう。
「わ、悪さやなんて、そんなん、ちがいます。ウチはぜんぶ、史学科の発展と学園の繁栄を思てのことで」
「アホちゃうか。それこそ言われんでもわかっとるわ。もし我が我がでいろいろ画策しとるゆうんやったら、ワシが黙って見逃すはずがあるかいな。ときどき調子にのりすぎるとこが、アンタの欠点やわな」
史学科長は、親がいたずらな子どもにするように、キブの頭を平手で軽くはたいた。
とたん目を潤ませ、鼻をすすりだすキブ。
「どないしたんや。そんな強くたたいてへんやろ」
「あの、安心したら、ちょっと漏れてしまいまして」
キブが頭をかきながら、顔を赤くする。
「なんや、ええ年して。ほれ、さっさと行っといで」
史学科長は露骨に顔をしかめ、犬にでもするようにしっしと手をふった。
二人のやりとりは、なんだかとても通いあった師弟という感じだ。自分とボスとの関係を思いだして、ぼくは少しうらやましくなる。
「ワシはその間にちょっと、この言語学科のメンターと話すことがあるさかいにな」
部屋から出るとき、キブは片目をつぶって合掌し(ごめんか、ご愁傷さまかのどっちかだ)、ぼくは完全なるアウェーに敵の首魁とふたり残されたのだった。まさかとって食う気ではないだろうが、史学科長が人を食べないという証拠はいまのところぼくの元へ集まっていない。
「さて――」
ふりかえったその両目は黒々としており、老木のうろにも似た深い空洞を思わせた。
そこから発される無形の圧力に、ぼくは思わず半歩下がりそうになる。だが、かろうじて踏みとどまった。
ぼくの言動は、今度の原案に対する信任の是非と直結しているのだ。会議の重要な構成員である学科長の前で、自信の無さを悟られてはならない。
「若いメンターの中には学科の違いが、話をややこしくすると思てるモンもいるみたいやな。けどな、それはとんだ的外れや。もともとの生まれも違う、何が好きかも違う、何がゆるせんかも違う、違って当然やないか。けどな、それを越えて、ワシらはひとつの大きな目的のために学園に集まっとんのや」
「おっしゃる意味がよくわかりません」
いつもの習い性が、ぼくをとぼけさせた。この人が、いったいぼくに何を求めているのかわからなかったからだ。
「まあ、無理にわかれとは言わんわ。けど、ワシらみたいに年をとってくると、もう他に行く場所なんかあらへん。学園を守りたいゆうても、なんや後ろ向きに聞こえてまうのは、しゃあないわな。ワシがアンタに聞きたいのはな、たったひとつだけや」
考えこむように、史学科長はしばらく目を閉じた。
「ペルガナ学園を愛してるか?」
予想もしなかった質問。そんなこと、これまで考えたこともなかった。
「わかりません」
なのに、すぐさま言葉が口をついた。何の意図も、かけひきもない返答だった。史学科長は引き出したかったのは、これか。ならば、ぼくは胸のうちを隠さずに話すべきだ。
「わかりませんが、恩義を感じています。ぼくはここに来て、初めて帰る場所を見つけました」
なま白い手を握り返した、赤銅色の力強さを思い出す。
「ぼくが学園を離れるとすれば、それはぼくが死ぬときか、学園がこの地上から消滅するときだけでしょう」
史学科長の顔に刻まれた皺が深まる。どうやら、笑っているらしい。ぼくはと言えば、自分の答えた内容に嘘が含まれていないことに、驚いていた。
「ワシもあと二十年はがんばるつもりやが、さすがに永遠に生きることはできへんからな」
皺枯れた手のひらが、そっとぼくの肩に置かれる。
「これだけは覚えといてくれ。メンター・ユウド、ワシはおまえの味方や」
それはひどく軽いと同時に、ひどく重かった。
重なりあった枝葉の隙間から月光がさして、風が吹くたびに違う陰影を見せる。大きくさしのばされた枝には、誰もいない。
木の根元には、膝を抱えたマアナがひとり座りこんでいた。表情は虚ろで、まるで抜けがらのような印象を受ける。ぼくはいま、少女にかける言葉を持っている。グラン・ラングだ。
――君が、”世界の中心”なのか。
マアナが顔を上げる。その表情はひどく大人びて、別人のように見えた。
――良かった。始まる前に伝えないのは、公正ではない。
――君は、マアナじゃないな?
少なくともいま、外見にみあう中身を伴ってはいないようだ。
――その返答は難しい。自我の定義から考えなくてはならない。だが、君たちがある魂を特定の時系列において同一のものと識別する精度で考えるなら、私はマアナではない。
マアナだったその少女は、微笑みのように頬の筋肉を痙攣させた。
――意思疎通の可能な相手を探していた。グラン・ラングの本質は、極めて精神的なものだ。最も親和性が高いと判断した個体が、この局面に至るまで著しく低い能力をしか示さなかったのは、誤算だった。
ぼくのことだな。悪かったな、グラン・ラングが下手なメンターで。
――君がマアナと名付けた部分は、名付けられたことで我々から分離された。名付けとは呪縛に他ならない。名付けにおいて峻別し、部分に峻別することで愛を可能にする。君たちにとって愛は有限であり、ゆえに個別的にならざるを得ない。それが君たちの限界でもある。
何を言っているのかさっぱりわからない。これはグラン・ラングの能力というより、ぼくが問答の抽象性を理解できていないのだ。なんか、より深く傷つくな。
――目的はいったい何だ。ぼくたちは争いを求めているわけではない。衝突を回避する方法はないのか。
確かに、これまでのぼくの能力は不充分だったかもしれない。でも、いまはこうやって話し合うことができる。言葉が通じるのなら、争いも回避できるはずじゃないか。
“それ”はしかし、ゆっくりと首を振った。
――一連の展開はすべてあらかじめ仕組まれた、いわば自動的なものだ。偶然はその見かけを装われている。流れを止めようと外的な介入を行うことは許される。しかし、流れが内的な自発性で止まることはない。
抽象的な受け答えでわざとはぐらかそうとしているのか。ぼくはいらいらと質問を重ねる。
――誰が仕組んだっていうんだ。
――わからない。
意外な返答。こいつが黒幕じゃないのか。
――推測するしかない。我々には認識できぬ、より高次の存在があるのかもしれない。君が最初グラン・ラングを表象としてしか理解できなかったように、この世界には我々もその表象をしか理解できていない何かがいる。だが少なくとも、我々の目的を伝えることはできる。君たちの手がかりとなればよいのだが。
――それは何だ。
――すべての意志は目的を持つ。君たちは存続であり、我々は死滅だ。君たちの咎は他者への愛を持つに至ったことだ。その意志の継続を妨げることが我々の目的である。そしてこれは、より大きな流れへの序章にすぎない。
ぼくはすっかり混乱していた。返答の唐突さもさることながら、愛を持つ者を滅ぼすというその考えが、全く理解できなかったからだ。
――誰かを愛して、何が悪いんだよ。
思わず、言っていた。我ながら、恥ずかしい質問だ。
――君たちは、愛と憎悪が相容れないと考える。君たちは、争いと平和が対極だと考える。しかし、それらは同一の苗床より萌芽するものだ。互いが互いとは切り離せない関係にある。だが、対立の見かけは存在しない解決を予期させ、君たちの苦悩と破壊を永続化するのだ。
――そんなこと、どうしようもないじゃないか!
ひどい言いがかりとしか思えず、ぼくは憤慨する。
“それ”は、哀れみのように顔をゆがませた。
――無理もない。己の在り方を肯定しなければ存続できない。しかし肯定はただ、己の本性を確認するに過ぎず、君たちの在り方が正統であるという証明にはつながらない。別の可能性は常に残されている。君たちが存続することが、より良い存在の発生を妨げているとしたら? 君たちが現在のあり方を放棄することで、より高い存在に合流できるとしたら?
ぼくはぼくが嫌いだ。だからきっと、どこかに破滅を求めるような性向があるのだろう。その言葉は、ある意味で心地よく響かないこともなかった。しかしそれは、破滅するのがぼくに限られた場合の話だ。ぼくは生きるべき多くの人たちを知っている。いま、その人々の代表として答えを求められているのだ。
さあ、毅然と胸をそらせ。
――哲学の問答としては興味深い。しかし、到底その歪な考えを受け入れることはできない。
――そうか。我々とて、公平を期すために知りうる情報を開示しているに過ぎない。決断は言葉ではなく、常に行動で示されるべきだ。
“それ”はなぜか、奇妙に得心した表情でうなずいた。
――君たちを取り巻く事象について、判断を下すのはやはり君たちだ。我々の移動は明後日の早朝を起点とすることに定めよう。なんとなれば、我々は一であるが、君たちは多であるからだ。存在に根ざす不安を利用するのは公平とは言えない。
もしかすると、会議のまとまらなさを揶揄されているのかもしれない。メンター・スリッドの険しい表情が一瞬、脳裏をよぎった。こいつらは、話しあう必要なんてないんだろうな。
――ハンデっていうわけか。案外、優しいんだな。
“それ”は静かに首をふる。
――圧殺が目的ではない。我々が求めるのは、公正の手へ委ねた審判だ。もう行かねば。知識はいずれにも平等に与えられねばならぬ。
まだだ。まだひとつ、答えを手に入れていない。
――最初の質問に返事をもらっていない。”世界の中心”とはマアナのことか。
――いかにも。この肉は二つの世界を橋渡しする門、すなわち黎明王女の発現。
答えになっているようで、さっぱりわからない。
――レイメイオウジョとは?
――その本質を描写することは、果実の甘みを言葉に乗せるが如き難事である。しかし、果実の表皮がいかなる表象を形作るかの説明は可能だ。黎明王女とは、ある生命圏が己の実存の枠組みを超え、世界の殻を破ろうとするとき出現する結節――あるいは試金石というべきか。もっとも我々はそれが忘れられた本来の目的を果たすのを見たことはないのだが。中絶は多く、親鳥により妨げられる孵化さえ少なくない。また、その実相は常に空である。空なればこそ、無限を湛えることができる。
“それ”はなぜか、そこで言い澱んだ。ぼくはと言えば、この哲学問答に頭痛がしてきたところだ。
――いや、人の身には無限、と伝える方が正確だろう。
“それ”は睫毛を伏せ、はじめて戸惑いらしきものを露にする。
――最後にひとつ忠告する。必要な手札はすべて与えられていると知れ。中心の消滅が意味するのは辺縁の拡散でしかない。中心を失えば、事態の収束は不可能になるだろう。ゆめ、忘れぬように。黎明王女たちは、我ら双方にとっての希望なのだから。
その言葉は、ぼくにとっての救いだった。ひとりの少女へ向けた個人的な執着が、市国の人々を破滅に導くのではないかと疑い続けてきたのだから。
これで学科長会議へ向けた準備の、最後のピースがはまった。
礼を言おうとして、気づく。
いつのまにか圧倒的な存在の感じは雨散霧消し、気がつけば目の前には小さな少女がいた。いつもならば、ぼくの姿を見れば何の躊躇もなくとびこんでくるにちがいない。けれど、いまは胸元に両手をひき寄せ、泣きそうな表情で辺りを見回している。
抱きしめてやろうと近づくと、おびえたように後ずさった。
不連続な記憶に心ゆさぶられ。
大きな安らぎから切り離され。
神は少女へと堕落し、個として存在することの不確かさへ投じられた。
逃げようとするマアナを後ろからつかまえる。予想していた大暴れはなく、ただ身を硬くすることで拒絶の意志を示した。まるで、いま物心のついた子どもみたいに。
耳元へ、そっとグラン・ラングでささやく。
――だいじょうぶ。学園ぜんぶが敵に回ったって、ぼくは君のそばにいる。
どれほどの孤独と不安が、彼女をさいなんでいるのか。言葉は何も約束しない。だが、言わずにはおれなかった。
朧な月明かりの下、ぼくの涙の最初の一滴が、少女のむきだしになった白い肩へと落ちた。マアナの瞳が潤み、やがて火のついたように泣きだす。お互いの涙がお互いの呼び水になり、それからぼくらは二人でおいおいと泣いた。
そのとき、言葉が必要ないほど通じあうという錯覚、あるいは欺瞞へ、ぼくは溺れた。示されたひとつの世界観――他者を伴わない世界が、どこか深いところでひどく己を魅了する事実から、目を背けるために。

ソーシャル・ネットワーク


ソーシャル・ネットワーク


実在の天才の周辺を実名そのままに映画化したという一点において、デビッド・フィンチャーの力技を感じさせられる。しかしながら、いかせん未だ立志伝の途上にある人物だからして、企業的なブランディングを抜いて視聴することは極めて難しい。さらに、未だ立志伝の途上にある人物だからして、今日に至るまでのエピソードが少なすぎ、前半の密度感に比して後半の失速感がハンパ無い。高い評価の理由に首肯できるのは最初の一時間だけで、単体の映画作品として考えた場合の評価は低いものにならざるを得ない。また、エンディング間際でとってつけたザッカーバーグの「いい人」方向のキャラ立てには、本人からのプロパガンダの臭みを強く感じる。ただ、これだけ薄い中身を撮影と編集の技術で二時間に膨らませた監督の手腕には、素直に敬意を表したい。

MMGF!(5)

朝の空気はひんやりとしている。澄んだ大気が遠くまでの視界を約束してくれるため、偵察にはもってこいだ。学園の建物はわずか小高い丘の上に位置し、北の尖塔からは市街地とその先に広がるラノラダ平原を一望することができる。本来ならば豊かに緑ひろがるその場所は、小さなゴマ粒を不規則にまいたようなまだら模様に見えた。
グラン・ラングを発すると、塔周辺の大気が二重に屈曲する。とたん、はるか彼方にあるはずの景色が、まるで手を伸ばせば届くかのように近づく。ゴマ粒と見えたものは、大勢の人間だった。いや、正確には人の形をした何か、と表現するべきか。
ぼくの隣に立つ体技科メンター(頭ひとつほど、ぼくより上背がある)が、重苦しい沈黙を不謹慎さで破ろうとでもいうかのように、ヒューッと口笛を吹いた。この状況を楽しんでいるのか、あるいは現実を正確に把握できていないのか。
しかし、その態度に批判を投げる資格はぼくにもない。眼下の光景に、何の現実感も感じることができないでいる。永世中立のペルガナ市国が、いま言葉も通じぬ異形の軍勢に取り囲まれているだなんて!
「もう少し、連中に近づけることはできるか」
外壁に乗せた片足から身を乗り出すようにして、体技科長が言った。ぼくは黙ってうなづく。その大きな背中のゆるぎなさが、この場における唯一の現実だった。
グラン・ラングをつぶやくと、周囲から絞り込むようにして視界はさらに拡大してゆく。学科長会議に上げられた報告書どおりの容貌が、ペルガナ市国を目指すという一点をのぞいては、まったく無秩序に集まっている。恐れていた通り、あの怪人にそっくりだ。個体差はあるはずだが、少なくとも外見からそれを見分けることはできない。まったく特異な外見が数百、数千、数万と複製されるうち、観察する側にとって没個性の様相を呈するという膨大さだ。
「市民たちの避難は?」
体技科長は流民から目を離さないまま、同行した行政庁の職員に尋ねる。
「順次すすめていますが、港湾に至る道をすべて押さえられておりまして。いくつかの友好都市へ打診しまして、特に健康に困難のあるものを優先して、ウチが所有している数隻を往復させているところです。しかしながら、全市民の避難まではとてもとても」
鼻眼鏡の痩せた男は、顔の前で大げさに手を振ってみせた。
「幸いなことに、海上の封鎖は見られません。まだ、ぐらいの意味ですが。もっとも、その必要を認めなかったのかもしれませんけどね」
「陸路は?」
軽口をいなすように、体技科長が短く尋ねる。
「包囲の薄い箇所もあるにはありますが、それでも流民からは数レウガと離れていませんからね。交渉が難しい以上、行政庁としても最悪を想定しておく必要がある。体技科あたりが護衛についてくれれば話は別でしょうが、肝心の市の防備がお留守になってしまう。どちらも到底、負えるリスクではありませんな」
腕組みをしたまま、体技科長が低くうなる。まさに八方ふさがりというわけだ。
「ユウド」
突然名前を呼ばれて、内心どきりとする。さっと両手を後ろに組み、動揺を隠す。
「状況は予断を許しませんね」
続いてかけられた言葉は、ぼくをさらにまごつかせるものだった。
「ウチの科があいつらとやりあって、勝てると思うか」
個人的に意見を求められるとは予想外だ。ボスの不在に、遠眼鏡がわりで呼ばれたのだと思っていたし、何よりぼくは学科長会議の末席を占めるメンターのひとりに過ぎない。
しかし、ぼくの小さなプライドが客観的な自己認識よりも低かったわけではない。グラン・ラングをつぶやきながらわずかに眼を細めると、たちまち視界を構成する明暗が反転した。付与に関わる、ぼくにしかできないスペシャルだ。
流民たちの内に浮かぶ“魂”の色調は、まるで血のように黒々とした赤で染められている。
この景色をだれかと共有することができないのは残念だ。ぼくとスウが旧棟で対峙した怪人と同じく、その色調は外的な付与の存在を示唆している。もしあれが人ならば、だが。
ぼくはゆっくりと息を吸いこんで、止めた。体技科長が必要としている情報のみを、正確に伝えなければならない。
「身体的な面だけで考えれば、流民の個々が持つ能力は市国の成人男性の、そうですね、少なくとも倍近くにはなるかと。体技科のメンターが全力でかかれば、おそらく打ち倒すことは可能でしょう。ただ――」
「やつらは万、体技科は数百。一人一殺じゃ、数で負けるってか。会戦はありえねえな」
背筋が冷えるような、おそろしく直截的な物言いだ。ぼくは軽く咳払いをする。声がかすれそうに思えたからだ。
「ええ、おっしゃる通りです。市街戦も避けるべきでしょうね。市民の避難もかんばしくないようだし、何より守る範囲が広すぎる。学園に立てこもれば、もしかすると何日かは持ちこたえられるかもしれませんが」
「案外いろいろと考えてやがんだな、おまえは」
体技科長が腕組みをといて、振り返った。
「でもよォ、まずは戦闘が回避できないもんなのか、確かめに行かねえか――おれといっしょによ」
「は?」
思わず、間抜けな声を出してしまう。
「通訳が必要だってんだよ」
そこには凶悪な笑顔が浮かんでいた。
いちど決めれば、体技科長は電光石火だ。その行動には、毛一筋ほどの迷いもない。
「すいません、親爺さん。こんなことになっちまって」
保健部のベッドには、全身を包帯に巻かれた青年が横たわっている。ふだんならば講義をサボるため、仮病のプロテジェが寝ているような、学園の平和を象徴する場所のはずだ。
「なに言ってやがんだ。謝るのはこっちのほうだぜ」
ところどころに血がにじんだ包帯は、しかし、野戦病院にいるかの如き非現実感をぼくに与えた。
「おめえが死んでたら、おいら、てめえを死ぬまでぶん殴ってたところだ」
「それはずいぶん長くかかりそうな自殺ですね」
青年が痛む傷をかばうようにして小さく微笑み、体技科長は豪放に笑う。
体技科のメンターたちが持つ絆は独特のものだ。お互いの命までもが、自然にその担保に入っている。信頼は言葉で確認するべきものではなく、胸襟をさらけだすことをためらう脆弱な自意識もなければ、心を開くことで得る不利益もない。
ふたりを前にして、なんとなく居場所を失ったような気持ちになる。ぼくには到底、築くことのできない人間関係だからかもしれない。
「それでよ――」
笑い声が止み、体技科長は神妙な表情になった。
「何か見つけてきただろうな」
とたん青年の顔がひきしまり、空気は張りつめたものをたたえる。
体技科の上下関係は絶対だ。そこに理屈はない。命令を下す者の能力と責任が完全に反映される厳格なシステム。その頂点に座るのが、体技科長だ。
「口述の報告書が会議にあがってるはずですが、みんな同じ顔をしてまさ。背格好もほとんど変わらねえで、ひとりの人間が何人もいるみたいな、ずいぶん薄気味のわりい眺めでした」
「こっちから仕掛けたのかい」
「斥候として、陣容と指揮系統だけを把握できればと考えまして。気づかれるほど近づいたはずはないんですが、どう言えばいいのか……」
青年の視線が何かを思い出すように遠くへ向けられる。
「一瞬にして囲まれてました。いったん間近で見ちまうと、気配を消すことに長けた連中でもない。気象条件も良好で、見晴らしはあった。馬鹿な言い草に聞こえるでしょうが、何もいなかったところに突然現れたという感じでさ」
「誰がおめえを選んだと思ってんだ。おめえが見たなら、間違いはねえだろうよ」
重々しく、体技科長が言葉をかぶせる。
「じゃあ、その包囲を突破したおめえの奮迅ぶりを聞かせてもらおうじゃねえか」
青年の頬が目に見えるほど紅潮する。高ぶる感情をおさえようとしてか、もしくは悔しさのあまりか、報告を続ける声はわずかにふるえていた。
「見かけによらず、ずいぶんと素早い連中でして、交渉のいとまもあらばこそ、問答無用とばかり、とびかかってきやがった。全員が革製のよろいにマントをはおって、徽章は認められず。獲物はどれも短刀ばかり。こっちも伊達に鍛えちゃいませんで、二人までは先に拳でやりました。煤みてえに蒸発して消えちまうのは、親爺さんに言われてた通りで。まっとうな人間とやってんじゃないとわかって、驚いた」
この人は、いったいどこまでを知っているんだ。ぼくは体技科長の大きな背中をまじまじと見つめた。
「ふつう、同士討ちを嫌って密集を避けるもんでしょ。なのにやつらときたら、次から次へとおかまいなしだ。烏合の衆って感じで、指揮系統があるようには見えなかった。背中に斬りつけてきた三人目以降はものすごい乱戦になっちまって、そっからは数えてません」
「相手が何人なら、触らせずにやれた?」
抜き身の刃物のような明瞭さ、過不足の無い凄みにぼくはぞっとする。
口を曲げて眉を寄せ、青年がおし黙る。これから口にすることが、体技科長にとって極めて重要な情報になることがわかっているのだろう。
「あの、おれならば、です。おれの鍛え方が半端なことは、親爺さんにもわかってるはずで」
「余計な口はいいぜ。おめえのことでおいらにわかってないことがあるかよ。正確に言え。おめえの次の言葉で、作戦が決まる」
体技科長の周囲に一瞬、熱気のような圧が膨れあがるのを感じたのは、はたしてぼくの気のせいだったか。
重傷に身を横たえていたはずの青年が突如、はじかれたように上体を起こす。
「同時ならば三人、続けてならば十人ですッ!」
大声で一息に吐き出すと同時に、再びベッドへ崩れ落ちる。どうやら失神したらしい。
駆けよってくる保健部の看護人に「さわがせたな」とだけ言いおくと、体技科長はのっそりと病室を出てゆく。ぼくはあわてて後を追いかけた。
「知るべきことはすべてそろったな。おめえもそう思ってるだろ、ユウド」
「どうするんですか、これから」
ぼくは、問いかけに含まれた言外の意図に気づかないふりをする。
「さっき言ったじゃねえか。通訳が必要だってよ」
凶悪な笑顔。
笑顔の由来とは、動物が牙を剥く行為の名残りなのだという。だとすれば、この瞬間の体技科長の表情ほど、その本質に迫るものはなかった。
「喧嘩する相手のツラをおがみにいくのさ。もしできるなら、その場で全員ぶちのめして帰ってくる」
この人は本気だ。しかし、独断専行もいいところだ。
「学科長会議にかけなくていいんでしょうか」
「おめえさんからそういう不意打ちを喰らうとは思わなかったぜ」
おそろしく太い指で、がりがりと頭をかく。
「だいぶ毒されてんじゃねえのか、ご友人に」
いったい誰のことだろう。
「みんな死んじまってからじゃ、遅いんだぜ。生き残ってからゆっくり、責任の所在を明らかにする会議をしようや」
みんな死ぬだって? 考えてもみなかった。
死への夢想は平穏の中でときに蠱惑的だけれど、その死はいつだって己にだけ訪れる種類の終焉だ。ぼくと体技科長たちの世代でおそらく共有されない感覚とは、死に対するものにちがいない。ぼくは個の内側に死を思い、体技科長は個の外側に死を思う。
「ちょっくら出かけるとしようか。昼メシまでに戻れりゃいいんだがな」
沈黙は、どうやら肯定と受けとられたようだ。大きな背中がずんずんと廊下を遠のいていく。その足取りにはやはり、何も迷いもない。
ぼくはと言えば、この提案に対しての思考を停止していた。やる。やらない。どちらにも決められない。いちばん強いのは、この件から降りてしまいたいという気持ち。なのに、ぼくの足は体技科長の後を追いかけていた。当事者意識の欠落した当事者は、ただ惰性により他人が動く方向へ流されてゆく。
しかし、表面上はきっとそんなふうに見えなかったはずだ。ぼくにとって、自分がまるでふつうの人間であるかのようにふるまうことは、ほとんど習い性のようになっていた。それに何より、体技科長の世界観には、必要な決断を先送りにする人間像はふくまれないだろうから。
「安心しな。おめえに荒事を期待しちゃいねえよ。ただ――」
勘違いをしたまま、肩越しに体技科長は続ける。
「おいら、興奮するとわりと周りが見えなくなっちまうタチでよ。おまけに、眼は前にふたつしかついてねえときてる。だれか、おめえさんに護衛が必要だな」
その言葉が終わるか終わらないかのうち、廊下の先ではかったようにスウが待ちかまえていた。
腰には刀をはいている。実際、屈強な体技科の面々に拉致された貧弱なメンターを心配して、ついてきていたのかもしれない。
「その役目、私が買おう。極限の場面で学科の違いがマイナスに働かないとも限らないからな」
体技科長は楽しそうに目を細める。
「ウデは問題ねえ。条件はひとつ。理事に話を通さんことだ」
「状況は逼迫し、組織では遅すぎる。尋ねられるまでもない」
ふたりの達人にはさまれた大気は、じっさいに密度と温度を変じるようでさえある。
どちらもおそらく、この世界に対する己の物理的な影響力を疑ってはいない。この拳が、この刃が、相手を打ち砕かないかもしれないなんて、虚弱な空想はどこにも入る余地がないだろう。
ぼくは違う。研究者としての武器である言葉さえ、それが通じないかもしれないことにいつもおびえている。グラン・ラングを選んだのだって、現代において通じないことの揶揄に使われる、死んだ言語だからではなかったか。
なんにもわかっちゃいないのに、なぜぼくなんだ!
ふってわいたこの仕事を投げ出す相手を探そうとして、愕然とする。こと施術という観点に立てば、ぼくが実質上の言語学科ナンバー2なのだ。
誰もが研究へと重きを置きすぎ、あまりに困難な実用を避けてきた結果とは言えよう。けれど、ボスに比べればぼくのグラン・ラング運用能力は、子どものお遊び程度にすぎないのだ。
このぎりぎりの局面に至って、言語学科の人材層の薄さを改めて実感させられるとは。今回の失敗は、そのままペルガナ市国の破滅へつながるかもしれないというのに!
ほとんど上の空のまま、ほどなくしてぼくは馬上の人となった。
といっても、馬術の心得があったわけではない。振り落とされないようスウの腰に手を回しているだけである。しかし、充分な凹凸があり、その心配だけはなさそうだ。
「余計なことを考えていると、振り落とされるぞ」
おっと。読心術でもこころえているかのように、スウが肩越しに湿った視線を投げてくる。
学園の敷地の外れにある厩舎を出発し、子どもたちの歓声を得て市街地を駆け抜け、潮騒を左手に聞きながら街道を北上する。刃一枚さえ通さないほど精緻に組まれた石畳の街道だが、敷設の労を担ったのは市国民ではなく、やはり古代人である。
やがて体技科長は無言のまま、街道を外れるように馬首を右へとかえした。スウがそれに続く。
ラノラダ平原には敷き詰めたように草はらが広がっており、ところどころに遺跡とおぼしき巨石が地上へと顔をのぞかせている。それらは文字通り氷山の一角であり、見た目の無機質な感じと裏腹の豊穣さ(研究者にとっては、だけど)を地下に眠らせているのである。
なぜ、古代人は地上へではなく地下へと広がっていったのだろうか。正統・異端を含めて学説はいくつもあるが、観点としてはだいたい次の二つに集約される。
かつては地上にも地下と同じ規模で建造物があったのだが、歳月と風雨にさらされて消滅してしまったという説。それから、ぼくたちと古代人との間には生物学的に見て、器質的に大きな隔たりがあったのだという説。
これは学説以前の個人的な意見だけど、古代人は自然に対して深い畏敬の念をいだいていたのではないかとぼくは考えている。つまり、人の営みが自然の営みの妨げにならないようにしたのではないか。現代には再現不可能な、強力極まるレガシーを多く産み出してきた古代人だ。それは相当にありそうなことに思える。
「おい、もうこんなとこまで来てやがるぜ」
おそらく現実を忘れるためのぼくの思索は、体技科長の低いつぶやきによって破られた。
半島の中央部は地形に起伏が少ないため、天候次第でかなりの見通しがきく。はるか遠くに陽炎の如くゆらめくと見えたものは、無数の人影だった。おいおい、予想よりもかなり速いぞ。
「いつでも抜けるようにしときな。近づくぜ」
スウに言葉を投げるや、体技科長は何の逡巡もなく異形の群れへと突っ込んでゆく。スウは匕首を切りながら軽く腰を浮かせ、片手で馬を御して後へと続く。
ぼくはと言えば、一気に緊迫する状況へ何の準備もできず、心臓が打つ早鐘を他人事のように感じていた。うろたえたまま、グラン・ラングに置き換えるべき交渉の内容を思い浮かべようとし――
できるわけがない。そもそも、グラン・ラングが通じるかどうかさえわからない。それ以前に、人の形をしているから人と同じ心や知性を持っているという期待すら、あまりに楽観的に過ぎる。
この未知に対するすべては、むなしい予断だ。
そう考えると、肝がすわった。己の中心へ軸足をすえて世界の余剰だけを感知するときの、天秤のような自我がたちまちぼくを満たす。
耳を聾していた鼓動が止んだ。煩悶も葛藤もすべてが消え、もっとも中立な空っぽの状態が降りてくる。あとは、外界の反応がぼくの行動を正しく規定するだろう。
迫りくる二騎を包むように怪人たちは左右へ音も無く分かれ、体技科長が手綱を引きつつ大音声で呼ばわる頃には、包囲は楕円形に完成していた。
「おめえたちの目的はなんだ! 返答次第じゃ、この場で全員ぶちのめすぜ!」
できるだけ正確に音素をつむごうとして、ボスの言葉がすぐ耳元によみがえる。
「悪くはない。悪くはないが、きれいにやろうとしすぎだな。ただ、おまえのすべてを残らず向こうに預けてくるんだ。こわがらなくても、必ずおまえは受け止められる。グラン・ラングはただの言葉じゃない。グラン・ラングは、世界そのものなんだから」
いつかの記憶が、あらかじめ仕組まれたトリガーであったかのように、電撃の如くぼくの眉間を貫いた。一瞬のうちに、これまで積み上げてきたすべての知識と経験は、このひとときを頂点としたあるべき位置へと再配置される。スウの背中を視界にすえながら、同時にぼくはぼくを俯瞰していた。
――世界は思ったほど、人間のことが嫌いってわけじゃない。
言葉にすれば、ひどく単純な悟り。しかしそれは、ぼくにとって大いなるブレイク・スルーの瞬間だった。
さあ、心を研ぎ澄ませ。
人間存在を肯定する、この世界の根幹を感じるんだ。
空わたる風のように。
たなびく雲のように。
ぼくが発したグラン・ラングの残滓は、わずかの反響となって虚空に消える。
流民たちに訪れた変化は劇的なものだった。ほとんど同じ外見を持ちながらバラバラだった動きが統一され、ひとつの固体をそれぞれが完全に写しとったようになる。
馬から跳びおりた体技科長が、前傾姿勢に構える。
スウは音も無く抜刀し、背中あわせに馬首を返す。
ふたりを制するように、取り囲む流民たちは寸分たがわぬ動きでいっせいに右手をあげた。そして、何かの儀式を思わせるゆったりとした抑揚で、グラン・ラングを唱和しはじめる。
「『我々は“世界の中心に蝟集する者”である。我々がお前たちから奪いたいものは何も無い。だが、我々が中心へ還ることを妨げるならば、お前たちは奪われるものを持つことになる』」
音素の入り組んだ複雑な内容だったが、ぼくは苦も無くその内容を理解できた。意味が直接、頭へ入ってくる感覚は、ぼくたちの言葉に置き換えるのがもどかしいほどだった。
「驚いた。さっぱり意味がわからねえ」
「通訳は正確です」
グラン・ラングに関して、こんな反論をする自負心があるとは思わなかった。
「おめえさんを疑ってるわけじゃねえよ。おいらがバカなだけだ。質問を変えるぜ」
抑制のきいた胴間声。ヘンな表現だが、体技科長の個性をそのまま表現している気もする。
「おめえたちは俺たちにどうしてほしいんだ! 食糧か、住処か! ただ喧嘩を売りにきたっていうなら、買うのはいまンとこ、ここにいる三人だけだ!」
おいおい、聞いてないよ。でも、伝える内容を取捨選択する権利がぼくにあるわけじゃない。投じられた小石が水面に波紋を生じるように、ぼくの発したグラン・ラングの小さな音素は巨大なうねりとして、八方からの反響となって返ってきた。
「『我々が求めるのは、世界の中心を取り巻く青き生命の排除である。我々が求めるのは、中心の空白を赤き生命で満たすことである』」
体技科長はうなりながら頭をがりがりとかきまわす。
「こいつらはものすごく頭がいいか悪いかのどっちかだな。気がおかしくなりそうだぜ」
スウが肩越しにぼくをちらりと見る。言いたいことはすぐにわかった。
「青き生命とは私たちのことを、赤き生命とは流民たちのことを指していると推測されます。おそらく――」
ぼくは努めて感情を抑えながら、言った。
「彼らの言う“世界の中心”とは、いま学園に存在している何かということでしょうね」
「おい、それはつまり学園をあけわたせってことか? やっぱりこいつら、喧嘩を売りに来てんじゃねえか!」
体技科長が流民たちの言う“世界の中心”の正体について察しているのかどうかは、わからなかった。
「ユウド、いったい手を引く気はねえのか、こいつらに――」
言いかけて、体技科長は口をつぐむ。気がつけば、流民たちにあった統一の感じは消滅していた。
一方的に目的さえ伝えれば、あとに残すのは拒絶というわけか。手に手に短刀をかまえ、じりじりと包囲をせばめてくるその様は、もはや元のような烏合の衆である。
即座に襲いかかってくるかと思ったが、ふたりの達人が発する無形の磁場に気圧されてか、遠巻きに威嚇するばかりで近づいてこようとしない。
「しっかり腰につかまっててくれ」
スウが有無を言わせぬ調子で言う。
「この数はちょっとまずいね」
旧棟での遭遇戦が流民イコール怪人の固体能力をそのまま表していたのだとすれば、複数で来られた場合、少なくともスウとぼくにとっては分が悪い。
「心配するな」
ぴったりと触れあった身体が意志を伝播したかのように、スウがぼくの疑念に返答をした。ときどきこういうことがあるのは、腐れ縁が長くなりすぎたせいかもしれないな。
「あのときは調子が悪かっただけだ」
軽口や負けおしみでは困る。ぼくの不安を和らげようとしているのなら、立場が逆だ。言いつのろうとするぼくに、
「そういう日もあるんだ」
なるほど。察しのよさだけで数々の危地を切り抜けてきた老獪なメンターは、ここで黙った。
ぼくたちの力量を推し量るためか、包囲の輪の中へ流民のひとり(この表現が正確かどうかはわからない)が歩み出た。個々として見れば、やはりあのときの感じとそっくりだ。
じっと動かぬ体技科長に対し、円を描くように間合いをはかる。
一瞬ののち、風を巻いて怪人が襲いくる。常人の動きではない。凄まじい速さだ。
体技科長は身体を開きながら、急所をねらう短刀からかろうじて身をかわす。交錯の際に打ち出された拳は遅く――
むなしく空を切った。
傍目には無傷の両者が位置を入れ替えただけだが、怪人の表情は獲物を得た喜悦、あるいは何かの優越に変容しているように見えた。
「あぶねえ、あぶねえ。あやうく殺っちまうところだった」
ぼそりとつぶやき、拳を手のひらに打ちつける。びりびりと大気が震え、体技科長を中心とした同心円状に草がなびいた。取り囲む流民たちが、わずかに退く。
「ユウド、ひとつ確認しときてえ。この交渉は決裂したよな?」
言うまでもない。ぼくはうけあった。
「間違いありませんね。彼らに和平交渉の素地はないようです」
その言葉を聞いて、体技科長は莞爾と微笑んだ。それは、この緊迫した場面に似つかわしくないほど、ある種の純粋な喜びに満ちていた。
まばたきをひとつすると、魔法のように目の前の怪人が姿を消した。体技科長が突き出した右拳の周囲に、煤のような黒い煙が舞っている。
空中にある短刀と衣服が地面に触れるか触れないかの瞬間――
包囲の一部が黒く爆発した。
それは、体技科長の吶喊だった。まったく見えなかった。
「馬引け!」
スウが片手で二頭の手綱をとり、包囲の薄くなった箇所をさらに斬り崩しながら外へと飛びだす。体技科長は襲いくる怪人をその巨躯からは想像もつかない身軽な跳躍でかわす。続けざまに空中で頭部を蹴りつけると、反動を利用して馬上へと還った。
「おい、逃げるぜ!」
したたかに腹を蹴られた二頭の馬が、死にものぐるいで駆けだす。
人の足が追いつけるはずはない。しかし、追ってくるのは厳密な意味での人ではなかった。なぜなら、全力の馬と並走できる人がいるはずはないからだ。
 「手綱をまかせる。にぎってるだけでいい」
言うや、ぼくをまたぎこしてスウが馬上に直立する。
「上を見るなよ」
遅かった。白じゃない。
明らかな殺意を発する異形の群れに囲まれて、馬たちは興奮の極みにあった。この激しい揺れに倒れないなんて、尋常なバランス感覚じゃない。スウは一切を意に介さず、ゆっくりと刀を下段に構えた。
併走する怪人たちがわずかに上体を沈ませるのが見えた。来る。
跳躍ではない、飛翔。肉厚の短刀が閃く。
十の影がスウを目がけて急速に降下する。
風を孕んだマントは猛禽の翼を思わせる。
白い光輝が虹の軌跡を描き、時間と空間が共に動きを止める。
厳粛な静寂の中、猛禽たちは宙空に静止する。
鍔鳴りが響くと、輪郭を喪失した十の影は同時に黒く蒸発した。
背中に柔らかなものを感じる。スウが背後からぼくの手綱を取ったのだった。
振り返れば、追いすがる怪人たちが速度を落とすのが見えた。
「大したウデだ」
体技科長の楽しげな賞賛に、スウはすまし顔で返答する。
「少なくとも、与しやすくはない印象を与えられたはずだ」
「ちげえねえ。言語学科と体技科は本交渉において一定の成果をもって帰還せり、だ」
ふたりの会話を聞きながら、ぼくの思考は別のところへと漂っていた。
常人ならぬ身体能力を有した言葉も通じぬ怪人たちによって、学園の包囲はまさに完成しつつある。もちろんこのふたりなら、何が相手だろうが必ずねじふせてしまうだろう。けれど、同時に万を相手にできるわけじゃない。体技科長は、戦闘を不可避なものととらえている。行動を見れば、それは明らかだ。
でも、キブはどうなる? ぼくのプロテジェたちは? 臆病なぼくには、戦えない人たちのことばかりが気にかかる。
そして、心に浮かんだのはひとりの少女の姿。
「マアナは?」
「シシュのところだ。いま学園では、あそこがいちばん安全だろうからな」
賢明なスウは、体技科長の前でそれ以上を言うことを避けた。しかし、考えていることはぼくと同じだったに違いない。
ひとりのサクリファイスによって、残った人々が救われるとしたら――
答えは出なかった。

アンストッパブル


アンストッパブル


デンゼル・ワシントンが主演の時点で、米国の低所得者慰撫が目的の映画であることは確定的に明らか。機械と人間、資本家と労働者、若者と老人、恥ずかしいほど塗り重ねられる対立の構図へさらに並行する家族の問題。あらゆるテーマが列車の暴走を食い止めることへ収束し、二時間が経過する頃にはすべてびっくりするほどきれいさっぱり解決する。きっと労働者階級の憤懣による蜂起をくじくため、老人の資本家どもが「やはりグリフィス四重奏団の音は世界一だねえ」とか言いながら(マスターキートンからの知識)、後ろ手に縛られたデンゼル・ワシントンのビキニパンツへ百ドル札とかいっぱい突っ込んで作らせたに違いないよ! こんなのがすごい面白いなんて、く、くやしい……ビクンビクン!

アポロ13


アポロ13


劇場で見た際にも感動したのだけれど、それは話のスケール感とSFっぽさに対する漠然とした中身に過ぎなかった。今回あらためて視聴する機会を持ち、普段はまとまらない組織がひとつの大目標や危機の共有を通じて結束してゆくダイナミズムに心うたれたのである。そして、十五年という歳月がもたらしたものに感慨を覚えたのだった。君と私が何よりの生き証人だと思うが、個として切り離された場合の人類がまったくどうしようもないふるまいをする生き物であることを否定はできまい。だがもしかすると総体としてならば、我々は何か大きな命題を成し遂げ、ある種の崇高さに至れるのではないかという淡い錯覚――それは希望の別名である――をこの映画は与えてくれる。もっとも、本邦においてはここ半世紀というものずっと、結束へと向かう熱の高まりはすべて、民族レベルの防衛機制が自動的かつ徹底的に無意識を検閲し、シラケへと上書きされてしまう状態が続いているのだが! 紙と鉛筆で軌道計算をするところと、苛立たしく投影機を脇へやって黒板にチョークで書きつけるところが、すごく好き。

鈴木先生(11)


鈴木先生(11)


「そんなにやりたいんだったら…その子の代わりに――わたしをおやりなさい!!」「!! あ…あれは…猫足立ちからの…前蹴り連続…!! いかん…浅いッ!!」 え、ちょ、これ学園ドラ……いや! いやいやいや! ブラヴォ、ブラーヴォ!

バーレスク


バーレスク


“You haven’t seen the last of me.” 人生のあらゆる不条理を歌と踊りで解決する、清く正しいミュージカル時空。本邦では二次元アイドルの処女性が銀河を救済するのに対し、本作では三次元非処女のビッチダンスが場末のクラブを救済しており、彼我の文化間にある深い隔絶へ思い至らせるとき、哲学的な目眩さえ生じるのであった。終盤の解決を歌唱力ではなくシナリオに依存したため、若干のタルさと不完全燃焼感が残るが、ミュージカルなんだ、こまけぇこたぁいいんだよ!

MMGF!(IZAHN)

 インターミッション
 その石はずっとひとりぼっちだった。
 意思の介在をさえ疑わせる整った円錐形が、ゆっくりと回転しながら漆黒を漂流する。
 周囲の莫大な空間に比して、あまりに小さく寄る辺無く見えた。
 その石はいくつもの生命の傍らを通り抜け、気の遠くなるような長い時間を旅してきた。
 そして同じくらい気の遠くなる長い時間を旅して、石さえも形を保てぬあの輝きへと身を投げ、終焉へ没するはずであった。
 はるか見下ろす彼方に無数の生命がうごめくのを眺めながら、他人の幸福を祈るときのぬくもりだけを内側に残して、いつものように旅人として去っていくはずであった。
 しかし――
 楽しげな楽曲や町のさんざめきがいつもより優しく聞こえたように。
 人恋しさが人嫌いをほんの少しだけ上回ってしまったときのように。
 ふらふらと、ほんのわずかだけ道程をたがえたその石は、あっというまに、暖かな星の抱擁にからめとられてしまっていた。
 人ならば、軽率が招いた早すぎる結末に自棄の安逸を感じただろうが、それは石に過ぎなかった。
 そして見た。
 夜の底に規則正しく響く軍靴の足音と、窓から目だけをのぞかせて破滅を眺める子どもとを。
 これまで、どれほど同じ光景を目にし、ただ傍らを通り過ぎたことだろう。
 人ならば、あらゆる知性が避けえぬ矛盾に悲しみさえ感じただろうが、それは石に過ぎなかった。
 永遠にまじわるはずのなかったふたつが、ひとつの気まぐれによって出会う。
 もしその気まぐれに理由があるとするならば――
 やはり、ひとりで永遠を行くのは、さびしかったからなのかもしれない。

MMGF!(4)

学園の辺縁、ちょうど市街地の反対側に位置するドミトリは、世界各地からの留学生の受け入れを主たる目的として設立されたという。いまでは身寄りの無い子どもの世話なども行っており、ペルガナ市国の福祉面に大きく貢献している。ドミトリ所属のプロテジェたちは年齢を縦割りにしたいくつかのグループに分けられ、学習から生活に至るまで年長者が年少者の指導を行う、自主自律を促すシステムが取られている。これこそ、たったひとりの寮長で多くのプロテジェたちを管理できる所以と学外へは広報されているが、実際のところ、現実に不可避な人と人との摩擦を抜きにして発案されたその理想を無理やり実行させてきたのは、歴代寮長による、文字通り、字義通りの力技であった。
ドミトリ設立の趣意は、門扉の脇に苔むし、打ち捨てられた石碑にこう刻まれている。
『世ニ名ダヽル学園ノ智慧ヲ伝播シ、国家ト民族ノ垣根ヲ越エタ学祭的発展ノ礎ヲ創ルタメ、更ニハ、世代ヲ越エタ人類ノ共感ヲ涵養スルタメ、ヤガテ我ガ子ラノ輝ク叡智ガ現存スル全テノ偏見ト無知ヲ世カラ取リ除ク日ヲ祈念センガタメ、ココニ未ダ愚カサヲ止メエヌ我ラガ、人ノ善キ意志ノ集結トシテ未来ヘ遺スモノデアル』
まったくいつ読んでも、恥ずかしいほど大仰で高邁な内容だ。でも、たぶん、ドミトリの設立者たちは、この言葉を心の底から信じていたと思う。物事が始まるときには必ず存在する、何かに浮かされたような熱気を感じ取ることができるから。善意と希望で世界は必ず良くなると信じる者たちにしか持ちえない、最初に創るものたちの熱気、初源の熱気だ。
1を100にできる人たちはたくさんいる。でも、0を1にできる人は世界にそれほど多いわけじゃない。ほとんどのドミトリ組が気にも留めないこの小さな石碑の前に、グラン・ラングの研究へ人生を捧げようと決めた初心を忘れそうになったとき、ぼくは立ち止まる。ともすれば、最初にあった豊かさと熱気の残滓を、ただ享受するだけに陥ってしまう我が身を戒めるためだ。
ぼくはたぶん、何も信じていない。けれど、信じていないものがただ己の安定のためだけに最初の1を狭めることはあってはならないとも思う。
ふと、ボスの言葉が心に浮かぶ。
「おまえはさ、自分が早く結論を得て安心したいから、逆にグラン・ラングのほうを狭めてるんだよ。破綻しろよ。もっともっと、破綻するんだ」
全身が粟だって、体の芯が熱くなる。ときどき、意味もわからず聞いたきりになっていた言葉が、過去からぼくを追いかけてきて、ぼくをつかまえることがある。ボスがいてくれれば、きっといまの状況にも的確なアドバイスをくれただろう。
しかし、それはせんのない願望だ。ぼくは軽く頭をふると、石碑に背を向けた。
ドミトリの入り口すぐに受付を兼ねた宿直室として、寮長のささやかなプライベート空間が設けられている。一風変わった伝統に彩られた部屋で、じっさいに見たことが無い者への説明は、ちょっと難しい。
床には一種の枯れた草を格子状に編みこんだ長方形の板が数枚、パズルのようにはめられている。石や木の床と違って、わずかに押し返してくるような感触だ。椅子の無い丸テーブルが部屋の中央に置いてある他は、用途のわからぬ質素な家具(?)が数点のみで、さしこむ陽光にもほこりさえ見えない清潔さである。
何より、ここは匂いがいい。屋内なのに、ちょうど草原に寝そべっているときみたいな感じだ。異なる文化も、人にやさしいなら受け入れやすい。まあ、ぼくの知っている寮長は二人だけだから、もしかすると文化や伝統とかに寄らない、もっとドメスティックな何かである可能性を否定はできないけど。
テーブルを挟んで、小柄な少女がおし黙ったまま、持ち手の無いコップをのぞきこんでいる。これも変わった趣向だ。熱いものを飲むときはどうするのかな。
紺の生地を白い前かけがおおい、両肩には羽のような飾り。機能性とデザインが同居した清潔感のあるお仕着せだ。以前はお仕着せのデザインになんて気づきもしなかったが、ぼくの鈍感さというよりはむしろ、その言動において異様な存在感を見せつけた以前の寮長が悪いのだと思う。
少女は奇妙なことに、どう言えばいいのか、曲げた両脚の上に臀部を乗せた格好で固まっている。もしかすると、ぶしつけな問いかけに対する不平を表現するための示威行為かもしれないし、もっとビザールな文化的行動なのかもしれない。予測不可能性は、最も人を不安にさせる要素だと言うけれど、ぼくの不安感には一種の恐怖さえ伴っていた。なぜって、この少女は、以前の寮長の血を分けた娘なのだから。
沈黙によるプレッシャーが恐怖を肉体的なものに変えるほど長くなりかけたとき、
「『よかろう、我が血はこの地を守る。その代わりに、この地は我が血を守れ』」
芝居がかった調子で唐突に、少女は声高く郎じた。予想外の方向で緊張を外されたせいで、よっぽどおかしな顔をしたんだろう、ぼくを見てくすりと笑う。
「すいません、どうお話したものかわからなくて。我が家に代々、口伝されてきたお話ですわ。ぜんぶ、覚えてますの。絵本がわりに、何度も聞かされましたから。守り人を欲した大地の懇願に、当主が応えたのだそうです。その盟約は、グラン・ラングの力で末代の血にまで刻まれていると聞きました」
待て待て待て。これはすごい話だぞ。魂への付与(エンチャント)が時代を超えて維持(アップキープ)されているという実例じゃないか。すぐ近くに、ぼくの研究を飛躍的に進める可能性の原石が埋まっていただなんて! つくづく、フィールドワークの重要性を痛感させられる。ここ何日かで折られに折られ、すっかり低くなったぼくの鼻は、ここにまた、その高度を低くすることを余儀なくされたのであった。
「ずっとただのお話だと思っていました。わたしも、ここに来るまでは本当の意味で信じていたわけじゃなかった。でも、いまは違いますわ。この身体が、血に刻まれた盟約を思いだしましたから」
ぼくの視線をつかまえた少女の大きな瞳には、気圧されるほどの確信が満ちている。その清廉な汚れの無さに、不純さを見抜かれたと感じるとき、男ならば誰でも感じるだろうあの、一種のやましさがぼくを動揺させた。
しかしながら、いついかなる局面においても、内心の動揺を完璧に秘し隠してしまわなければメンターという生業はつとまらないのであった。研究者としての本性を男の本性に覆いかぶせると、ぼくはまっすぐにその瞳を見つめかえす。
「グラン・ラングは世界を記述する言語だとぼくは考えてきました。しかし、多くの研究者がそれはレトリックに過ぎず、古代人のレガシーに干渉するだけの限定的な効能のみを注視しています。いまのお話は、大きな自信になりました。今回の件が落ち着いたら、改めてお時間をいただけませんか」
不躾な申し出に、おそらく困惑のせいだろう、少女の頬が色味を帯びる。軽く持ち上げた人差し指に、うろたえて視線を泳がせる仕草が、なんだか年相応で、ひどくかわいらしく見えた。
「あの、わたし、メンター・ユウドのお役に立てるか、わかりません。ただわたしは、そうであることを知っているだけで、専門的なことは何も……」
あることを知る。それは究極の理解だ。専門的な知識だけは売るほど持ってるくせに、グラン・ラングがそんな使い方をされていたことをぼくは実感できない。短くはない学究生活をさらっと完全否定される言葉に、ぼくの鼻は今度こそ完全に消滅した。
古代人の伝承によるならば、人知の存在する以前から、グラン・ラングはあらかじめ世界に組みこまれていたのだという。それは人間の認識が世界を規定する前から、海や山や空がすでに名前や人格を備えていたということで、なんだか楽しい気持ちになる。
しかもそれが、万物を理解するための方便ではない、つまり説話や民話の類ではないというのだ。寮長の話が示しているのは、かつて世界そのものと対話が可能な誰かがいたということだから。しかし、耳をすませど、ぼくには何も聞こえてこない。貧しき我が身をかえりみて、なんだか悲しい気持ちになる。
「話を戻しますが、先のドミトリ襲撃を退けることができたのは、やはりその盟約が理由であると?」
二人がかりでようやく斬り伏せた怪人が、一人の少女に素手で打ち倒されるのを、ぼくとスウは間近で見てしまっていた。
「はい、そうだと思います。あのとき、全身を高揚が包んで、細胞の一つひとつが忘れていた何かを思い出す感じがしました。信じていただけないかもしれませんけど、わたし、これまでだれかを殴ったことなんてありません」
「信じますよ」
ぼくはあのとき、寮長の魂が白いまでに青く光輝するのを見た。間違いなく、ぼくの行う付与を数百倍、数千倍に拡大した現象が発生していたのだ。エネルギーの供給源は、おそらく大地そのもの。あふれる光の奔流は、ドミトリ全体を覆わんばかりだった。
「すべて、確信に変わりました。この地を守るために戦う限り、何を相手にまわそうとも――」
ぼくは、ほとんど威厳に満ちたとさえ言えるその声音にハッとさせられる。
「我が血が敗北することはありません」
いま話をしているのは、寮長ではない。少女の中にある血脈そのものだ。その背後には、眼前の少女を最突端とする長い長い時間の連なりがある。
不浄のものを寄せつけぬ凛とした微笑みに、研究者としての本性に男の本性がたちまち覆いかぶさり、ぼくは思わず視線を宙空へとさまよわせた。
「家事全般におよぶ有能さに加え、容姿の端麗は言うに及ばず、我らの寮長が実は不敗でもあっただなんて聞いたら、プロテジェたちはどんな顔をするだろうね」
やれやれ。やましさをごまかすために軽口を選ぶあたり、ぼくも成熟しない男だよな。
「メンター・ユウド」
曲げた両足の上に臀部を載せた姿勢から上半身を前傾にした寮長が、真剣なまなざしでぼくを見つめてくる。
「ひとつ、お願いがいあるのですが」
もしやこれは、求愛を意味する文化的行動なのだろうか。
いやいや、現実への予期にまで軽薄さが混じりはじめるのは、相当にうろたえてるぞ、ぼくは。きっと、寮長とその血族が負う業に対して、ぼくが配慮や敬意に欠けた発言をしたことへ、不快を感じたに違いない。
すぐに心からの謝罪を表明しなくてはならない。頭はいくら下げても、誰に下げても減らないというのが、ぼくの信条だ。
「寮長、というのはやめていただけないでしょうか」
「ごめん、さっきの発言は軽率だった。撤回するよ」
二人の発言は同時だった。おや。なんかズレてるな。テーブルの表面すれすれにまで勢いよく額を近づけてから、気づく。
「そ、そんなに深刻に受けとめられると、困ってしまいます。どうぞお直りください」
顔を上げると、寮長はもぞもぞと身体をくねらせて、困惑の態だ。曲げた脚部に乗せた臀部が重しになって(問題発言だ)、上半身だけをうねらせているのが面白くて、ぼくは思わず吹き出しそうになる。
「ずっと、違和感がございましたの」
わずかに染まった頬へ手のひらを当てながら、上目づかいにこちらを見る。己の魅力に気づかぬ乙女の発する無意識の媚びには、一種、抗しがたい魔力がある。
「メンターにご意見さしあげるのも無礼かと思いましたし、寮長としての職責を軽く考えていると思われるもイヤで、いままで黙っていましたけど、きょうはいい機会ですので、言わせていただきます」
ときどき忘れてしまうけど、この娘はぼくよりもずっと若いのだ。ほとんどプロテジェの続きみたいな気分で研究を続けてきたせいか、年齢の上下といった感覚が希薄なのだろう。学究生活にフラットな見かけは大切だけど、年かさの配慮までおしなべてフラットにふるまうのは、成熟を拒否するあまり、責任を放棄していることに他ならない。
奇矯な言動が研究の成果で相殺されるには、うちのボスくらい突き抜けないと無理だろうなあ。聞き慣れた哄笑がすぐ耳元で響いた気がして、ぼくはぶるっと身をふるわせた。
個人的に痛いところをつかれ、改めて姿勢を正して座り直す。
「メンターとしてプロテジェたちを指導する立場ではありますが、同時にぼくはドミトリの住人でもあります。寮長の申し出には最大限の敬意を払う用意があります。どうぞ、遠慮なくおっしゃってください」
慇懃な物言いが、小馬鹿にしているようには聞こえなかったか心配になる。
寮長は背筋を伸ばすと、おかしなくらい両肘を張った。
白くて細い首筋。
喉がかすかに上下する。
つばを飲みこんだのか。
わずかな逡巡の後、身を乗りだし決然と言ったのは――
「寮長ではなく、シシュ、と呼びすてにしてください。そうすれば、ずっと気が楽になりますわ」
一瞬、虚をつかれたようになり、まじまじと見つめかえしてしまう。
「わたし、いま、たぶん、おかしなこと、言ってますね?」
真顔のまま聞きかえす寮長。今度こそ耐えられなくなって、ぼくは声をあげて笑ってしまった。
「いや、そんなことはないよ」
「ああ、よかった!」
とたん、笑みくずれる。彼女がここに来て半年、初めて年相応の表情を見た気がする。
与えられた仕事への責任感と、受け継がれてきた盟約への自負心。そしてたぶん、プロテジェに混じっていつまでもドミトリに居座るおかしなメンターへの配慮がすべてまぜこぜになって、ぼくの見る寮長の雰囲気を作りだしていたのかもしれない。
そりゃあ、逆の立場だったら緊張するよな。もっと積極的に、こっちがほぐしてやるべきだったのに。きょう庭先の寮長をつかまえたのだって、結局のところ、学園を取り巻く異変について何か情報を引き出せないかと考えたからだ。いつだって我がことばかりの己に嫌気がさす。
「じゃあ、あらためて」
言いながら、右手をさしだす。
「よろしく、シシュ」
目を丸くした寮長は、少しためらってから、おずおずと両手で(文化的行動?)にぎりかえしてきた。その魂から青い光がこぼれるのが見え、ほんの軽く触れているようなのに、ぼくの骨はめりめりときしんだ。おお。これが、盟約の力ってやつか。寮長の前では、二度と軽口を叩くまい。
「なにかとふつつかな点も多いかと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします」
いつにない動揺ぶりで、おかしな口上を述べたてる。いや、これが本当の彼女なのかもしれないな。緊張していたのか、小さな手のひらは汗でわずかに湿っていた。
メンター・ユウドよ、おまえの気のつかなさこそ永遠に呪われてあれ、だ。

空を見あげると、太陽はだいぶ高い位置にあった。思わぬ長居をしてしまった。そろそろ、午後の講義の準備をするべきだろうな。人類の未来を変革するだろう大研究も、日々の生業という一歩から始まるのだ。たぶん。
「おーい、そろそろいくよー」
ドミトリの前庭にある芝生で、横座りのスウとあぐらをかいたマアナが仲良く何ごとかに興じている。ママゴトかな? でも、スウが花をならべ、マアナが花弁を食いちぎって、茎だけ元へもどされる一連の作業が、家庭生活のどの場面を象徴しているのかは怖くて聞けないな。
「ああ、終わったんですか?」
かざした手をひさしにして、スウが見上げてくる。
「むしろ新しく始まったというべきだろうね」
シシュとの一件からか、なんだかやましい気持ちになってごまかしてしまう。別に、スウはモニター以上のなんでもないんだから、ごまかすことなんてないんだけど。
ぼくの内心を知ってか知らずか、スウはかすかに首をかしげて微笑むばかりだ。祖母のところから戻ってしばらくは、いつもこんなふうに元気がない。余計な詮索が生業のぼくだけれど、誰かの個人的な内面はその限りじゃない。
スウの祖母は、ペルガナ学園の評議員である。簡単に言えば、長時間の会議に参加する忍耐は試されないが、学園の運営には口を出せるという立場だ。
学園の黎明期、それは何世代もさかのぼる遠い昔のことになる。当時、七つの素封家が巨額の出資を行い、設立の基盤を作ったのだそうだ。うち二つはすでに血筋が絶えているが、残りの五つは数百年の時を越えてなお健在である。そして、ときどき学園の現状が気にいらず、クチバシをつっこんでくるというわけだ。この外部圧力に対する某メンターの抵抗と闘争については、長い上に相当疲れる話なので、いまは割愛したい。
「マアナは、どうしますか」
「そうだね。どうしようか」
悩める保護者の傍らで、齧歯類の如く頬を膨らませ、口いっぱいにつめこんだ花を咀嚼するのに必死のマアナ。やれやれ。いま噛みつく心配だけはないな。
けど、件の怪人がまた現れないとの保証はどこにもない。まあ、ドミトリにいれば確実に安全なことがわかったのは収穫だったけど、いつまでも部屋に閉じこめておくわけにもいかないしな。少しずつ、浮世の生活に慣らしてやる必要がある。もう、薔薇水晶の中へは戻れないんだから。もしかすると、自分の子どもを持つってのは、こんな感じなのかもしれない。
「よし、いっしょに連れていこう。年少組となら、ちょうど仲良くできるかもしれない。スウ・プロテジェには、講義の前にレジュメを複製する仕事をお願いできるかな。その間は、ぼくが面倒を見るから」
「はい、メンター・ユウド。わかりました」
柔らかな口調だった。むしろ弱々しい、と表現するべきか。言葉を受けとめるというより、言葉に流されるという感じで、奇妙なぐらいに意志を感じさせない。これも、スウが祖母の元を訪れたあとにいつも感じる変化だ。
何かあったの? そう聞いてやればとも思う。しかし、メンターにとってプロテジェとの関係は一時的なものだ。それは、常に自覚しておく必要がある。ぼくのような一部の横着者をのぞいて、いつかここを離れていく存在だ。自虐的に言うならば、ぼくが従事するのは無限にわきあがる夢と希望が、自分だけを取り残して去ってゆくのを見守る仕事である。
過去に一度、痛い目を見た。当時のぼくは、プロテジェ全員の苦しみを救済してやれると信じていたのだ。なんという傲慢だったのだろう。言葉にされなければ、いつか消えてしまう気持ちはある。グラン・ラングの研究者がそこに気づかなかったのだから、笑わせる。掘り起こして、言葉にさせて、途方に暮れる。結果、ひとりのプロテジェがこの手からすり抜けていった。
ぼくが得た教訓は、ひとりが本当に救えるのは人生でひとりだけ、ということ。それは相手にすべてを求める人間の、悲しい法則だ。もうあれを繰り返したくはない。いや、あるいは単にぼくがもう若くはなく、痛みを乗りこえる熱気が失われたというだけのことか。
ふと気がつけば、マアナが水晶のように無機質なまなざしで、ぼくを見あげていた。表情を失ったその顔は、まるで作り物のように恐ろしく端正だ。瞳の赤い虹彩が無限へと誘うようにゆらめく。ぼくの背中へ畏れにも似たおののきがはしる。
しかし、その決定的な異物感は、マアナの笑顔とともに消滅した。むきだしにした歯には、花弁がいっぱいにつまっている。
やれやれ。猫のように身をよじって逃げようとするのを後ろからつかまえて、抱きあげる。
「さあ、友だちのところへ連れていってあげるよ」
マアナは新棟へと向かう道すがらをひとしきり暴れたあと、やがて観念したのか両手足をだらんと伸ばして身体をあずけてきた。重い。
スウはと言えば、なんだかふわふわした足取りで後ろからついてくる。ぼくの肩にアゴを乗せたマアナは、スウの反応を得ようとして百面相ごっこを始めたようだ。平和といえば、これほど平和な見かけもないだろうけど。
だが、平穏極まる日常をどよもす暗雲は、突如として立ち込めるのが世の常である。機甲学科のメンターを進行方向に発見したぼくは、やおらスウの手をつかむと回れ右し、学園創設者の銅像のひとつへ身を隠す。
学科大移動からこちら、機甲学科のメンターたちは、なぜかぼくの姿を見かけると鼻息を荒らげて走ってくるようになった。かさかさと足元へ転がってきた紙くずを広げれば、凶悪な面相の誰かの似顔絵と、生死不問の文字、機甲学科長のサインが書かれている。ぼくは即座に元通り紙を丸めると、後ろへ放り投げた。
機甲学科が豹変を遂げた理由は、目下のところ全くの不明である。しかし、用心するに越したことはない。
「見つけたでえ」
「わあっ!」
背後から声をかけられ、ぼくはとびあがった。取り落としたマアナが尻餅をつき、剣呑な表情でうなり声(おそらくグラン・ラングの)を上げる。
潅木の陰から染み出すように姿を現したのは、キブだった。
もはや隠しようのない大騒ぎに覚悟を決めて振り返るが、機甲学科のメンターはすでにいずこかへ姿を消した後だった。胸をなで下ろすと同時に、キブへの怒りがわく。
「おどかすなよ!」
「いまのあわてぶりを見ると、確認するまでもなく事の真偽は明らかやな」
腕組みをしながら、したり顔だ。
「なんのことだよ」
ぼくは憮然と尋ねる。
「先の学科大移動で、機甲学科の備品が重大な損壊を被ったらしいな。よくよく聞けば、言語学科の某メンターが裏で暗躍してたそうやないか」
「ああ、何かと思えばそんなことか」
ぼくは瞬間、自分でもわかるぐらい無表情になった。
「君は親友だから、正直に言うよ。じつは偶然、何と言えばいいか、そう、自然現象。自然現象が機甲学科の備品を破壊する場面に居あわせたんだ。本当にあれは、不幸な事故だったよ」
「グラン・ラングの暴走、と聞いとるで」
ぼくは不自然なほどさわやかな笑顔をつくって、キブの両肩をつかむ。
「いいかい、だれが吹きこんだか知らないが、それはまったくの素人考えだね。グラン・ラングは平等かつ公正な言語だ。だれが発したとしても、同じ音素ならば同じ結果をしかもたらさない。つまり、発話する者の意図を越えて、気まぐれに暴走したりはしない。まさか、あの瞬間にあの場所で、局所的な竜巻が発生するなんて、だれにも予想できないよ」
そう、グラン・ラングは決して暴走しない。言いながら、抱えていた疑惑がぼく自身の言葉によって裏づけられてしまったのを知る。ならばなぜあのとき、グラン・ラングは暴走したのか。
キブはぼくの手をつかんで、もぎはなした。
「ええい、これで貸りは返したということやな」
「言っている意味はよくわからないが了解した」
うなり声をあげるマアナと、その歯頚から花弁を一枚一枚とりのぞいてやっているスウの傍らで、ぼくとキブは固い握手をかわした。
気がつけば、もはや太陽は頭上に輝いている。午後の講義まで、もうそれほど時間は残っていない。
「じゃあ、お互いの知る案件については、一切の他言無用ということで」
マアナの手を引いたスウの手を、水鳥の親子のごとく、ぼくが引いて歩きだそうとする。
「待て待て、どこ行くねん」
「どこって、講義に決まってるじゃないか」
「伝わってへんのかいな。ついさっき、緊急の学科長会議が招集されたで」
思わず、深いため息が出た。
「ごめん、他のプロテジェたちに休講の連絡をお願いできるかな」
「わかりました」
弱々しい返答が気になるけど、いまはしょうがない。微笑んだまま立ち尽くすスウと、無邪気に手を振るマアナに見送られながら、ぼくはキブとともに、議場へと重い足取りの我が身を曳いてゆくのだった。
ぼくが来ないとわかったとき、年少組のシャイが見せるだろう、がっかりした表情が一瞬、頭に浮かんだ。
なんだかずいぶん長いあいだ、プロテジェたちの顔を見ていない気がするな。
「講義の途中だった」
腕組みをしたまま、苦々しげにスリッドがつぶやく。あとから入ってきたので、いつもの席ではなく、ぼくの隣に座ったのである。
ぼくは両手で顔を隠しながら、うめくような生返事をした。機甲学科のメンターが、はすかいから凶悪な目でこちらをにらんでいるのが気になって仕方なかったからだ。
きっと、スリッドが常の如く会議を紛糾させるのを事前に抑止しようと努めてのことだろう。そうに違いない。そうであって欲しい。
「我々は研究機関であると同時に、教育機関だ。正規のものをしのぐばかりの回数で突然に招集される臨時の会議は、プロテジェたちの不利益につながる。もしこれが学園の運営上、本当に必要なものだと仮定すれば、年度当初に計画された学科長会議の数が妥当でないということだ」
「そうかもしれないね」
ぼくはあいまいに語尾をにごす。スリッドの意見には同意できる部分もないことはない。でも、その論旨の明晰さにぼくはなぜか違和感を持つ。それを的確に表現する言葉がいつも見つからない。もしかすると、己の優柔不断さを言外に指弾されている気持ちになるからかもしれない。苦手意識を持つべきではないと思うけど、スリッドといるときの自己嫌悪の感じはなんとも言いようがない。
「もっとも、私は議長団の議事進行にある致命的な欠陥を無くしさえすれば、大幅に会議の数は減らせると考えているのだが」
二段構えの言論トラップだったか。あやうく一段目で全面的な賛意を示すところだった。
キブは何の関係もない、といったすまし顔で宙を見つめている。しかし、内心はぼくとスリッドとのやりとりに興味津々なのだ。ときどき小鼻がわずかにふくらむのを見れば、何を考えているかはあきらかである。
やがて、学園長とブラウン・ハットの長官を先頭にして、ぞろぞろと首脳陣が入室してくる。スリッドが背を伸ばし、わずかに身を乗りだすのがわかった。臨戦態勢、ってわけだ。学園長が口火を切る。
「突然の召集にとまどわれた方も多いでしょう。ご批判はのちほど承ります」
スリッドの方へ視線を走らせながら、両手をあげる。機先を制せられ、鼻白む気配が隣から伝わってきた。学園長の言葉は、いつも絶妙な間合いでもって、すりぬけるようにして届く。どれほどの激論や騒然とした場であっても、その発言が聞き落とされることはない。
「まずは行政庁からの報告をお願いします」
「えー、それでは」
うながされた長官は、一枚の書面を片手に、眼鏡のつるに中指をあてて立ちあがる。読みあげる直前に、ある人物と視線を交わす。体技科長がわずかにうなづくのを、ぼくは見逃さなかった。
「黒い森と市国をむすぶ中立緩衝地域に、大量の流民が発生しました。今朝の段階で体技科所属のメンターが確認した数は、およそ数千から一万。現在、ゆっくりと市国へ向けて南下しており、交渉をふくめた何らかの対応が必要かと思われます」
すかさず、スリッドが挙手する。
「流民とは、政治的な欺瞞に満ちた表現ではないか。我々に何を伝えることを忌避しての発言か、お答えいただきたい」
「現在のところ、充分な情報が得られていません。無論、紛争等による避難民の可能性を排除しませんが、各国の大使から届く伝令には時間差がありますので」
スリッドの発言に許可を得たと思ったのか、列席するメンターたちが次々と疑問を口にしはじめる。
「海上から侵入したんじゃないのか」
「まさか。それだけの人数が収容可能な船団を維持できるのは、国家規模の組織だぞ」
「まちがいなく街道を通ったはずだ。やぐらの連中は何をしていたんだ」
黒い森を迂回するように、半島の海岸線を沿って二本の街道が走る。やぐらとは、森の尽きるあたりに立てられた監視塔のことだ。
ブラウン・ハットの長官は、再び書面に目を落とした。
「定期の乗合馬車と荷馬車以外の通行は確認されていません」
「不審な通行者へ誰何を与える権利すらない仕事だ。居眠りでもして、見過ごしたんだろう。伝統の機能不全というやつだ」
険しい表情のスリッドが、吐き捨てるように言う。
しかし、一万近くの人間が通り過ぎるのに気づかないなんてことが、はたしてありえるだろうか。単なる見落としでないとすれば、考えられる可能性は二つ。昼なお暗く下生えの複雑に生い茂る魔物の巣、黒い森を踏破したか――
あるいは、黒い森と市国をむすぶ中間地点へ一万という人間が突然、虚空から出現したかである。
極めて空想的なこの考えを口にすることは、はばかられた。心のどこかで己の直感を信じていたにも関わらず、スリッドが醸成する理性の空気にぼくは発言を制止されたのだった。
「うちの若いのがひとり、帰ってこねえ」
腕組みをしたまま、体技科長が低くつぶやく。
「どうにもイヤな予感がする」
さざ波が凪いだ水面へと還るように、場が静まる。スリッドの見解はおくとして、体技科長は会議で長々と発言をするタイプではない。人は言葉の中にではなく行動の中にある、という格言を地のまま体現するメンターだ。ゆえに、その発言はいつも重い意味をもって皆に受けとめられる。
「体技科から要請する。市国民の避難に備え、船舶の徴発を検討いただきたい」
「その動議、支持するで」
老人性のなにかにぷるぷるとふるえる挙手は、なんと史学科長のものだ。干したように小さな顔へ刻まれた皺と垂れたまぶたは、その表情を読むことを極めて難しくしている。レジュメを読みあげる以外の声をはじめて聞いたぞ。目をまん丸くしたキブが、ぼくのほうを見る。どうやら、同じ感想らしい。
「行政庁の職員も、状況が明らかになるまで学園へ退避させたほうがええな。あの老朽化した文化遺産では、用心が悪すぎるわ」
「異議ありッ!」
スリッドが裂帛の気合いとともに手を挙げる。ほとんど剣術や格闘技のようだ。
「一時的にせよ、商家や漁夫から生活の具を取り上げ、かつ、暮らしと直結する行政の任を空席にせよという軽々の提案には耳を疑うばかりである。政策の決定にあって、まず主観的な憶測や怯懦に流されてはならぬことは、私ぐらいがご指導申しあげるまでもなかろう。流民とやらの正体を確認することがまず先決ではないか」
正論だ。しかし、学園長をはじめとする首脳陣が、知りえた情報をいますべてここに開示しているだろうか。学園の意志決定は事実上、学科長会議においてしか行われず、この会議はあまりに公正に誰へとも開かれすぎている。推測や憶測が排除され、言葉にできぬ経験則よりも客観的な事実が優先される。それは知的に極めて正しい場所のように思えるが――
「学園長はどうお考えなのか、我々にお聞かせいただきたい」
我々、という言葉で発言が無い者たちをすべて自分の側に引き入れ、彼と我という明確な対立軸を仮想する。それがスリッドの戦術だ。しかし、会議室では誰も死なない。勝利だけが強調され、敗北は無化される。
「こうして臨時の会議にお集まりいただいたことが、ご質問へのお答えになるかと思います」
やんわりと学園長がいなす。この白髭の老人は、いつも婉曲的な表現を駆使して言質を与えない。
スリッドが絶叫する。
「『学園長は国王』ですかッ!」
使い古された慣用句だ。ブラウン・ハットが政策を実行する段階での問題点や新たな施策のほとんどは、まず学園の政治学科に原案の作成が依頼される。学科長会議での可決をもって、その政策は行政官が運用する実体としてブラウン・ハットへ渡る。そして、学科長会議の決裁権は学園長が持つ。
つまり、学科長会議が学園長の諮問機関という位置づけである以上、理論上は学園長がペルガナ市国のすべてを独裁的に差配することが可能なのだ。現実は迅速な決定からはほど遠いのだが、戒めというより、意にそまぬ案件への攻撃としてよく用いられる表現だ。
「私の提案を、体技科と史学科からの動議に対する修正案として提示する。国王が決裁なさる前に、我々の民意を汲むべく採決をいただきたい」
困りはてた議長が、学園長とスリッドの顔を交互にながめる。体技科長は腕組みをしたまま、じっと動かない。
しばらく沈黙が続いたあと、学園長がゆっくりと口を開いた。
「メンター・スリッドの修正案を承認します。議事を進行してください」
ざわめきの中、紙片が配られる。メンターたちは肘でつつきあい、どちらに票を入れたものか低い声で話しあっている。スリッドは腕を組んだまま傲然と胸をそらし、周囲が彼に向けるさまざまなささやきを受け止めている。大したヤツだ。
紙片を受けとるとき、体技科長がぼくをじっと見つめているのがわかった。ぼくを非難するようなものが視線に込められている気がして、思わず目をそらしてしまう。
たぶん、体技科長とぼくの抱える疑念は、お互いにかなり近いものだ。しかし、提示された動議への賛意を示すためにぼくが言える言葉は、あまりにもこの議場では荒唐無稽に響いてしまうに違いない。
無限へとつながる少女と、神出鬼没の異形たち。
そして、学園へ向けて南下する正体不明の群れ。
わずか数票の差でスリッドの修正案が可決される。状況が明確になり次第、次の会議が招集される旨が告げられ、散会となった。
誰もスリッドを責められまい。そのときの彼は、論理的には完全に正しかったのだから。
体技科の若いメンターが重傷を負って帰還し、まるで時を追って増え続けたかのように、報告される流民の数は二万を越えた。
再び招集された学科長会議の資料において、流民たちの特徴は次のように記述された。
「赤い髪、青い眼、尖った耳、そして大きく造作された顔のパーツは、まるで人を戯画するようである。そして、個体間の見分けが困難なほど似かよっている。近隣の諸国で同一の特徴を持った人種を発見することはできない」
この会議で、スリッドの発言はなかった。
ペルガナ学園は、二日間を完全に空費したのである。