猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

エリックを探して


エリックを探して


『最も高貴な復讐は、赦すことだ』。 主人公の抱える苦しみや家族の課題がひどくリアルに描かれる一方で、その解決篇は釣りバカ日誌を思わせるいかにもフィクション然とした内容であり、強い違和感を覚えた。しかしながら、初老の郵便配達員を取り巻くどうしようもない現実をきれいさっぱり解消する方法など実際にあるはずもなく、この結末を虚構の効能として受容するのが正しい態度なのだろう。現実と虚構の継ぎ目をいかに自然に見せるかこそが、佳作と傑作を分けるのかもしれない。『バレエみたいだった。一瞬、自分のクソ人生がどこかに消えていた』。そう、素晴らしい文章を書けたとき、私も一瞬だけ自分のクソ人生を忘れることができる。しかし、素晴らしい文章とこのクソ人生との間には、何の関係も連絡もない。

ゼルダの伝説スカイウォードソード


ゼルダの伝説スカイウォードソード


すべての事象へ主体として積極的に関わり続けることで得られる濃密なゲーム内体験。シリーズを通じて、基本的にはただひとつ用意された正解を観察と道具の組み合わせで解決していくだけなのだが、それがこんなにも楽しい。しかし同時に脳裏をよぎるのは、はたして現在、この体験をどのくらいの人々が肯定的なものとしてとらえることができるのかという疑問である。ゲーム業界では2Dから3Dへの移行で一度大きなプレイヤーのふるい落としが行われた。また、昨今の携帯ゲー流行りはゲーム性の濃淡以前に2D回帰の側面が強いと考えている。ファミコンに原体験を持ち、3D移行の淘汰も乗り越えた30がらみの男以外の誰がこのゲームを手放しで喜んでいるのだろう。前作からすでに五年が経過した。たとえば小学校高学年で前作をプレイした新規層がいたとして、携帯電話を買い与えられ、据え置きゲームを卒業していておかしくない年齢だ。世界にふたつとない至高の工芸品を前にして、私に去来する感慨はこうだ。『おれたちは滅びていくのかもしれない』

メアリー&マックス


メアリー&マックス


映画の本質とは、歪んだ主観によって一方通行的に行われる誇張、脱落、歪曲である。全編にわたる均質なナレーションを通じて、時間軸のレールを踏み外さないまま、すべての事象はリニアーに進行してゆく。誇張せず、脱落せず、歪曲しない。原作の絵本などが別にあるのならば、その映像化としてはよくできていると言えるのかもしれない。しかし、これは映画ではない。

ミスターノーバディ


ミスターノーバディ


量子力学の観測問題を主題として可能性”未来”の”追”体験が、他ならぬ映画を視聴する我々の観測によってひとりの女性への思慕へと収斂するという構成は見事である。ネット上で感想をざっと確認したところ、不死世界での最後の死者という設定が生かされていないとの指摘が散見されたが、とんだモンモウ教徒どもである。不死者は時間を喪失しているがゆえに世界の観測者足りえず、最後の死者が息を引き取った瞬間に観測の主観を失った宇宙はビッグクランチへと時間を反転させる。全世界の見せ物だったはずの老人が、実のところ全世界を”見て”いたのである。人生の有限性には全宇宙的な命題が与えられているというこの結末は死を再定義すると同時に、逆説的な生命賛歌へと昇華されているのだ。せめてこれら2点を理解できなければ、この映画を視聴する意味はない。長々と講釈を述べたが、実のところ小生にとってSF作品としての評価は「ブレードランナー」や「ガタカ」を上回るものではなかった。SF的世界観の映像化が見たいのに、物語の大半が複数女性とのイチャラブ描写に費やされる。オチにはすごく感心したけど、そこに至る道程が長すぎたという印象。

ザ・ファイター


ザ・ファイター


ロッキーから連綿と続く「ボクシング映画に外れなし」の言葉通り、本作もまた傑作の部類に入る。そして予想通りというべきか、クリスチャン・ベールの狂気じみた役作りが根こそぎすべてを持っていく作品でもある。すでに視聴済みの諸君は、親による略取行為と強いられた共依存に対して、「家族の絆」という欺瞞に満ちたラベリングでの擁護を試みる本作を、私がきっと口汚く罵るだろうと考えていたに違いない。視聴を終えるまでは、確かにその気分はあった。しかしながら、エンドロールに登場した実在の兄弟を見た瞬間に、批判めいた気持ちはぜんぶ吹き飛んでしまった。この家族は、これでよかったのだと思う。

マクロスフロンティア劇場版


マクロスフロンティア劇場版


(天狗の面をつけた全裸の男が革張りの椅子にふんぞりかえって)何が「ぶっといミサイル」じゃ! チンポやろが! 何が「このバリア破って」じゃ! 処女膜やろが! 何が「小腸」じゃ! 子宮やろが! 何が「腸内細菌」じゃ! 精虫やろが! どれもこれも、あからさまにセックスを連想させようとしすぎなんじゃ! そのくせ、ちいともエロないんじゃ(萎えた陰茎のアップ)! ちいとも回春せんのじゃ(膨らんだ陰嚢のアップ)! どうなっとるんじゃい(天狗の鼻のアップ)! いますぐここに責任者を呼ばんかい!

輪るピングドラム


輪るピングドラム


誰かに届こう、わからせようという物語の、いかに醜く脆弱なことか。弱い物語は理解を得られた瞬間、消滅して意味を失う。理解されることが自己目的化したプログラムだからだ。強い物語は、不動の高みから人々を煽りたて、追い求めさせる 。そして作り手の胸の熾火に、触れるものすべては焼け落ちるのだ。西の情弱エリア在住のため、BDでの初視聴だが、第1話がすごすぎた。第2話以降も充分に群を抜いているのに、第1話があまりに研ぎ澄まされているため色褪せてみえるという凄まじさだ。棒高跳びの器具でハードル走をしなくてはならなくなった感じ。以後、情弱エリア在住の俺様の前では、ピングドラムのネタバレを禁止とする。

ダークソウル


ダークソウル


DV男や悪女から逃れられない人の気持ちって、たぶんこんな感じ。なぜなら、彼らはすごいペニスやヴァギナを持っている上に、絶世の美男美女だから。クセのある操作感を覚える段階は、まさにおまえの膣を俺のチンポの形にしてやるぜ状態。最初の調教が終わり痛みが消えると、待っているのは快楽地獄。背後から地面に頭ごと押さえつけられ、身の毛もよだつ太いチンポを次から次へとブチ込まれ、いつまでも終わらないアクメに全身は痙攣して、足の指は開きっぱなし。頭からは言葉が消えて、日常では経験できないほどの増幅した喜怒哀楽がただ渦巻く。私はもともと自己抑制の強い性質で、実は深く耽溺してしまう本性を恐れての防衛機制なのだと思うが、本当に愛しているものにさえ正面きって好きと言うことが難しい。つれないふりで実は、当アカウントをフォローしているあの人やあの人のことも、毎日愛のメッセージを送りたいほど大好きなのだ。安心しなさい、もちろん君のことは生理的に受け付けないほど憎んでいるから。そんなシャイでプリティでキュアフルな小生が宣言する、このゲームが好きだ、好きだ、大好きだ! ロンダルキアに降り立った瞬間の胸のおののきに端を発した我がゲーム遍歴、ゲーム好きを広言できないほどいい大人になってからでさえ、スピークイージーに通いつめるアル中が如くゲームを続けてきたのは、ダークソウルをプレイするためだったのだ。多くを不快にすることを承知で、話を蛇足的に続ける。私は3DSやらPSPやらモバゲーやら、本邦の携帯ゲーム群が大嫌いだ。グローブのような両手を持った身長2メートルを超える雲突く大男である小鳥猊下には、あのチマチマした画面と、何より操作のしにくさが致命的になじまない。そして、ゲーム性までそのサイズにたわめられる気がする。ニンテンドー64時代の、ちょうど与党から野党に転落した時期の任天堂が持っていたゲームのイノベーション感が、私は大好きだった。最近、時のオカリナが3DSでリメイクされたというから、3DSを本体ごと購入してひさしぶりにプレイしてみた。結果、ひどくガッカリさせられた。当時ハイラル平原に感じたあの無限の広がりが、小さな画面の内側に矮小化されているように感じたのである。マンホールのようなヴァギナを持った身長3メートルを超える雲突く大女である小鳥猊下には、3DSもPSPもモバゲーも言わば細すぎるペニス、致命的にGスポットへ届かないのだ。昨今の携帯ゲーム隆盛は、不況下の本邦における経済退潮が文化にまで侵食し、自信の喪失による精神退行を物理的な形に落とし込んだもの、言わば内向きの消去法で選択されたレジデューに過ぎないと考えている。人の叡智が創り出した何かが、適者生存の混沌に敗北した格好だ。64時代には、夢見ていた。じめじめとした洞穴を抜けた先、濡れたブーツが人類未踏の大地へ触れる。新雪は粉のように、足元へぱっと散る。風鳴りの向こうから聞こえるのは、一ツ目巨人の悲しげな吠え声だ。等身大の世界をそのままに体験するという場所へ、ゲームは進んでいくと夢見ていた。完全無欠のロックンローラーである私がロスに構えた邸宅へ、巨大スクリーンと多重サラウンドの完全防音シアターを備えたのは、正にその、ロンダルキアの夢を受け入れんがためだった。かつての希望とは真逆の携帯ゲーム台頭に、我が願いは虚しく終わるはずだった。しかし、最後に大逆転が待ち構かまえていたのである! とりあえず本邦のガバマンコ、違った、ガバメントはフロムソフトウェアにクールジャパン推進の先鞭として6兆円ほど投資すればいいと本気で思う。なに、こないだまで洋ゲーを礼賛してたし、ダークソウルも似たようなもんじゃないですか、だって? シャット・アップ・ユアフェイス! 若造がきいたふうな口をきくな! 国粋主義者の私にとって洋ゲーなど、和ゲーという幼妻を前にすれば、ただ性欲を静めるための買春、粗悪な代替物に過ぎないのだ! フロムソフトウェアのゲームはキングスフィールド2の昔から、中世ヨーロッパを思わせる西洋ファンタジー風の硬派な見かけで始まりながら中盤を過ぎたあたりから急激に、武器・防具・モンスター・ストーリーが本邦の伝統芸能であるところの厨二病化してゆくのが最大の魅力なのだ。中世の古城から折れた長剣を片手に始まったはずの冒険が、気がつけば異次元空間でレーザーを放つ月光剣をふるい、悪の首魁・スペースドラゴンをブッたぎるという大団円を迎えてしまう。いい意味で気が狂ったこの匙加減は、外人ぐらいの常識では到底たどりつけるものではない。すべての携帯ゲームよ、滅びるがいい。手のひらサイズのハイラル平原こそ、我が怒りの火の中へ燃え落ちよ。次世代ゲームの覇権だって? そんなものは小鳥猊下と十四歳以下の美少女とダークソウル以外の人類で勝手に決めればいい。

イディオッツ


イディオッツ


(個人で輸入雑貨商を営んでいそうなスーツの男が微笑んで)ほー、いいじゃないか。ラース・フォン・トリアーはこういうのでいいんだよ、こういうので。私の中にある売れない劇団のイメージは、まさにこんな感じ。あと、私の中にある百万ヒット以下のテキストサイトのイメージは、まさにこんな感じ。そして年に数回、親族の中にいることを強要されるときの気分が、まさにこんな感じ。

スコット・ピルグリムvs.ザ・ワールド


スコット・ピルグリムvs.ザ・ワールド


ギャグというのはその根幹の部分では、小学生のうんこちんちんと同じ、例えばドリフターズやMr.ビーンのような普遍性を持つが、高度化するほどに文化的な差異の部分へ面白さを大きく依拠するようになる。 笑うべきパートを頭では理解しながら、心ではとくだん面白いと感じない。なんとも波長を合わせるのが難しい映画だった。たぶんこの笑い、日本で言うとうすた京介の漫画に相当すると思う。