猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

崖っぷちの男


崖っぷちの男


文字通りのクリフハンガー。一時間半強できれいに伏線を回収して、後味スカッと面白い。やっぱ映画はこうじゃなくちゃな! それにしてもエド・ハリスってみんなが抱いてる、銃と金融で世界を牛耳る悪いアメリカ白人の典型例だよな! そして本当の黒幕はグリフィス四重奏(2回目)を聞きながら、手錠で後ろ手に拘束されたエド・ハリスのビキニパンツに100ドル札をねじ込んで、庶民のガス抜き目的で低所得者層が支配者層をやっつけるこの映画を作らせたに違いないんだ! くそっ、なんて悪い奴らなんだ、イギリス貴族の連中め!

ヘルタースケルター


ヘルタースケルター


原作好きの小鳥尻ゲイカとしては、いつか見ずばなるまいと思っていた。で、今日見た。ジャック・ブラックのファンが彼の顔芸だけで内容を度外視した二時間を楽しめるのに対して、沢尻エリカのファンが彼女の肉体だけで内容を度外視した二時間を楽しめる映画に仕上がっていた。もちろん原作の持つ凄みを越えるものではないし、おそらくハナから原作を越えようと制作しているわけでもないだろうが、多用されるプロモーション・ビデオ的な映像が全体を冗長にしている嫌いこそあれ、実写化としてこれ以上を望むのは難しいのではないか。現在の本邦を見回して、沢尻エリカほどりりこと近似値を取る存在はいないからだ。演技ができるわけでもない、歌がうまいわけでもない、ただ若さと美貌だけが芸能界に彼女の居場所がある理由だ。ただ以降はこれらの持ち物を手放していくしかない時期に、りりこ役にキャスティングされたことが、沢尻エリカのドキュメンタリー的要素を作品に加えている。確かに、ほうぼうで指摘されるように、演技ができていない。怒りと傲慢と、そしてたぶん無邪気さが彼女の地金で、それ以外の感情を演じなければならないとき、シーンが虚構として成立しないレベルだ。特に物語の後半、りりこの崩壊を描く部分では、もはや原作とは遠く離れた別物になってしまっている。しかしながら、若さと美貌しか寄りどころを持たない誰かの空っぽさは、皮肉にも演技ができないことで痛いほど表現されており、原作とは全く別物でありながら、沢尻エリカという人物そのものが放つメッセージ性にまで昇華されている。未視聴の諸君へのアドバイスするとしたら、沢尻エリカのファンなら必ず見るべきだし、原作ファンであっても原作を下敷きにした二次創作的派生作品だと自分に言い聞かせることを前提として、やはり見る価値がある。あと、全国で一割にも満たないだろうアホみたいなギャルどもを、さも女子高生の主体であり本流みたいにフィクションで描くのは、「制服少女たちの選択」ぐらいからずっと変わんないなー、と思った。いったん与えられた社会学的メッセージが、二十年くらい誰にも更新されていない感じ。

リンダリンダリンダ


リンダリンダリンダ


リアル版「けいおん!」。学校という場は、あらゆる人々が必ず経なければならないため、あらゆる愛憎がそこへ集積する。ゆえに、だれもが学校を舞台にした物語を語り得るし、学校を舞台にしたあらゆる物語はその拙劣に関わらず、人々の感情を揺り動かす。通過点ゆえのエンドマークの置けなさが、そのままドラマとなるからだ。最も汚れなき時代に、己を最も清らかさから遠いと感じる心性をこそ、青春と呼ぶのだろう。

プロメテウス


プロメテウス


『しかし、誰もが親の死を望むものではありませんか?』『私は違ったわ』。ストーリー展開のトンデモを指摘する低評価が多く見られますが、いいですか、これはSF作品ではありません。リドリー・スコット作品です。「このモビルスーツからはオマンコの臭いがしない」で有名な某監督と同じく、あらゆる台詞、あらゆる場面、あらゆるデザインが個人の妄念と情念に由来していると考えましょう。すべては必然なのです。あと、SF作品としての既視感を指摘する声があるようですが、いいですか、ブレードランナーとエイリアンはリドリー・スコットが作りました。これらから派生した多くの亜種・亜流を回収して再集約する試みがプロメテウスであって、某国のように起源を曲げた発言をしてはいけません。私たちが見てきたあらゆるSF的映像は、リドリー・スコットの影響下にあるのです。有象無象のコピー作品群とは異なった、本家の圧倒的なセンスの良さを感じとりましょう。それと、開始後すぐに物語最大の謎が明かされて拍子抜け、みたいな批判が散見されますが、あのね、それは配給会社が宣伝文句として投げかけているホワットであって、この映画の問いの本質はホワイなんです。だいたい、リドリー・スコット監督という時点で、映画館に入る前からホワットの問いはすでに答えが割れてるみたいなものでしょう。そうですね、この映画を視聴すべき層へピンポイントで届かせるには、きっとタイトルを“エイリアン・ゼロ”とかにすれば――おおっと! あぶない、あぶない! あやうく重大なネタバレをするところでした! 「その名を聞けば無条件で視聴し、視聴前から批評を越えている」数少ない監督の一人なのでこれ以上は語りませんが、ひとつだけ。親を憎むクリエイターが、親を憎まない人物を主人公にする。多くの物語の本質はそこにあるのかな、と思いました。

コクリコ坂から


コクリコ坂から


なんだろう、宮崎駿を失った後、ジブリはその遺産の管財人として生きるので無ければ、新たな当主を否応に担がなければならないはずのに、すべてにわたって全く結集できていない感じがする。ゲド戦記は原作者とファンの双方を激怒させるほどにクソだったが、少なくとも監督の個人的な反骨、父親を超えようという意志だけは感じることができた。今回はそれさえ失われている。作品選定の段階で、父親には認められたい、観客には自分を父親と重ねて見て欲しいという前回より退行した意志をしか感じない。監督の年齢から考えて、この作品の舞台設定に己の表現を重ねたい何の動機があるのかも全く不明だ。残された者の生活のためにスタジオを残す、それは充分に尊いことだと私は思う。

アベンジャーズ


アベンジャーズ


「スーパー!」の理解を深めるために併せて見るべき、同時上映の前半部分、前座的な大作と言える。この集大成のために作られた様々のマーベル・ヒーロー映画のおいしいところを、ロバート・ダウニーJrのキャラクターがすべて持っていってしまっており、アイアンマン番外編と称した方がしっくりくる仕上がりだった。冒頭で巨大空母が宙を舞うシーンを見て、なんか既視感あるなー、なんだったかなーと考えていたらエヴァQだった。気づいた途端、ボロボロと涙がこぼれてきて、どれほどひどく爆破されても傷ひとつつかない(CGだから?)、墜落する素振りすら見せないヴンダーに比べて、なんて作劇上の緊張感があるんだろうって、やっぱりこの国のフィクションはハリウッドには絶対に勝てないんだって、悲しくなったの。

スーパー!


スーパー!


この年末年始に様々なジャンルの積み映画を鑑賞したが、本作のあまりのスーパーぶりに他はすべて吹き飛んでしまった。最初のうちは「ああ、キックアスね」などと斜に構えたナメた態度をとっていたのが、終盤には自然と居住まいを正していた。米国の掲げる正義、信念と狂気の相関、ヒーローの存在意義、善悪の境界など、ひとつのストーリーラインへ様々のアナロジーが多層的に重ねられ、現代世界をいったん俯瞰する甘いフォーカスから、後半のクライマックスで一気に焦点を絞り込むという力技には、まさに度肝を抜かれた。最後の場面での「俺を殺して世界が変わるとでも思っているのか!」「殺してみなければわからない!」というやりとりは、主役の怪演とあいまって、強いメッセージとなって迫ってくる。どれほど科学が進歩しようと、どれほどネットが我々をつなげようと、死だけは不可逆の個別的な事象であり続ける。我々は誰かの生を生きることはできても、誰かの死を死ぬことはできない。フセインの殺害も、ビンラーディンの殺害も、米国の望むように世界を変えはしなかったが、やはりこの主人公と同じく「殺してみなければわからない!」と絶叫しながら殺したのだ。どんな小さな死でさえ、人には制御しえないという一点から世界の変化につながる可能性を常に孕んでいる。だから当て物のように、宝くじと同じ期待で、彼らの生命を奪った。話がだいぶそれたが、私の言葉くらいではこの大傑作の実相を伝えきれない。nWoオールタイムベスト入りを果たした本作の凄みを、君自身の目で確かめて欲しい。あと、平たい胸族a.k.a.エレン・ペイジがちょう可愛い。ボルティーのキチガイっぷりに萌えるのは、アホの子を愛でる我々オトナの嗜みと言えるだろう。

HUNTER×HUNTER 32


HUNTER×HUNTER 32


個人的に近年の本作は、すごく作者のライブ感覚が反映されているように感じており、特に蟻編では人体欠損や心理の過剰な描写から、積極的に作品と主人公を壊しにかかってるようで、自傷めいたその雰囲気に息を詰める思いでいた。どこかで作者がシナリオ作法を語っているのを読んだことがある。登場人物たちとの対話を通じてプロットを組んでいくらしい。ある状況に置かれたときに、登場人物が何を感じどうふるまうかがわかれば、その化学反応で物語が組み上がるというわけだ。裏を返せば、どうすれば最も残酷に各キャラクターを壊せるかを知っているということでもある。蟻編では創作者イコール神の力を存分に発揮して、主人公の肉体と精神を完全に破壊し尽くした。いかなる方法でも彼に刻まれた傷を完全にはとりのぞけず、以後の物語の進行に深刻な影響を及ぼすと思われた。その状況を受けての今回の選挙編だが、私は震災の影響下に描かれた作品であると強く感じた。蟻編での悪意――言い換えれば、作者の気分――に晒されていないキャラクターが作中で行う演説は、主人公と被災者をオーバーラップさせた作者からの懺悔と謝罪のようにも読める。そして、世の埒外にある癒しと死者の復活というふたつの奇跡をもって、不可逆に壊されたはずの主人公の肉体と精神は蟻編以前の状態へと巻き戻された。もし震災が無かったなら、この顛末は全く違ったようになっていたのではないかと想像する。蟻編とは、少年漫画的作劇からすべての要素においてひとつずつ位相をズラした批判であり、主人公の持つ純粋さと信念に対してさえ、それが適応されていた。己の持ち物では避けえぬ世界の残酷さと自身の無力を知ったとき、少年が壊れることは必定だった。けれど、そんな当たり前の敗北を、我々の誰もが体験してきた敗北を、だれが少年漫画というジャンルで目にしたいだろう? もしかしたら現実に負けない信念や純粋さがあるのではないかという祈りが、いまを生きる少年と、かつて少年だった大人たちにとって、理不尽な喪失を乗り越えていくために必要なのだと思う。ハンターハンターはこの選挙編の後、たぶん普通の少年漫画になるだろう。震災が、ハンターハンターを普通の少年漫画に戻すのだ。しかしその内容がどのようなものであれ、蟻編と選挙編を経たからこそ、我々が縁側の老人の背中に無為を感じないような、経てきたがゆえの重さを加えるに違いない。その行方を見届けるために、私は信念とも純粋さとも遠い場所で、なんとか死なずにやっていこうと思う。

スーパーマン・リターンズ


スーパーマン・リターンズ


三度目の視聴だと思うが、いつもレックス・ルーサーに感情移入してしまう。至弱を率いて至強に相対する日々、勝つことは端から放棄され、いかに損害を少なくした引き分けに持ちこむかばかりを考えるリーマン生活において、無邪気にスーパーマンの完全性を礼賛することはできなくなった。無謬の正義という虚構によって殺されないまま庇護され、ただその権威の確かさを再確認するためだけに挑み続ける道化、最も情けない小悪党。しかし、その姿を誰も笑えまい。昔から、ヒーローを扱ったシリーズもので、悪党側の主観から描かれる回が好きだった。個々人が総身の知恵をふりしぼり、組織はすべての力を結集させる。絶対に勝てないことは、あらかじめ運命づけられているのに。あの敗北は、子どもの目にとって諧謔だった。いまは、胃の腑に重たい現実である。私たちは、だれもヒーローのように勝つことができない。閑話休題。冒頭の飛行機事故から野球場へ至るシークエンスは、スーパーマンの能力とその象徴性を完璧に描ききっており、毎回感動する。せめてあの球場にいる人間になれればなあ、と思う。

小鳥猊下慈愛のようす

 「(小太りの男が贅肉に気管を圧迫された声で)ど、どういうことですか、説明してください。ぼくは確かにテキストサイトの寵児だったはずです。それがどうして、こんなひどいアクセス数に……」
 「(小太りの女、ボンレスハムにかけた紐を想起させるアイパッチで)アンタがホームページを開設してから14年経ってるってことよ。もうこの世界はね、アクセス数の寡多なんかに構ってらんないのよ」
 「(小太りの男、高ぶる感情にフーフー言いながら)そんなの嘘だ! あれから14年も経ったのなら、『猫を起こさないように』はとっくに百万ヒットを達成しているはずですよ! それがなんで……いや、確かにボクは百万ヒットを達成したんだ! 達成したんですよ!」
 「(入道雲状のパーマ先端部へひっかかったキャップのつばを触りながら)小鳥さん……でいいのよね? 冷静に聞いて。nWoはね、もはやかつてのような人気サイトではなくなっているのよ。いえ、それどころか、個人の発信を促すツールとしてのホームページは、今や」
 「(小太り男、聞き取りにくい早口で)もういいよ……nWoファンのみんな、ここだ! (叫びに呼応して四方の壁が内向きに破裂し、くす玉の中身を思わせる色とりどりの紙片が噴出する。小太りの男、満面の笑みで)年末恒例全レス祭り、『小鳥猊下慈愛のようす』はっじめっるよー!」