猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

スーパー!


スーパー!


この年末年始に様々なジャンルの積み映画を鑑賞したが、本作のあまりのスーパーぶりに他はすべて吹き飛んでしまった。最初のうちは「ああ、キックアスね」などと斜に構えたナメた態度をとっていたのが、終盤には自然と居住まいを正していた。米国の掲げる正義、信念と狂気の相関、ヒーローの存在意義、善悪の境界など、ひとつのストーリーラインへ様々のアナロジーが多層的に重ねられ、現代世界をいったん俯瞰する甘いフォーカスから、後半のクライマックスで一気に焦点を絞り込むという力技には、まさに度肝を抜かれた。最後の場面での「俺を殺して世界が変わるとでも思っているのか!」「殺してみなければわからない!」というやりとりは、主役の怪演とあいまって、強いメッセージとなって迫ってくる。どれほど科学が進歩しようと、どれほどネットが我々をつなげようと、死だけは不可逆の個別的な事象であり続ける。我々は誰かの生を生きることはできても、誰かの死を死ぬことはできない。フセインの殺害も、ビンラーディンの殺害も、米国の望むように世界を変えはしなかったが、やはりこの主人公と同じく「殺してみなければわからない!」と絶叫しながら殺したのだ。どんな小さな死でさえ、人には制御しえないという一点から世界の変化につながる可能性を常に孕んでいる。だから当て物のように、宝くじと同じ期待で、彼らの生命を奪った。話がだいぶそれたが、私の言葉くらいではこの大傑作の実相を伝えきれない。nWoオールタイムベスト入りを果たした本作の凄みを、君自身の目で確かめて欲しい。あと、平たい胸族a.k.a.エレン・ペイジがちょう可愛い。ボルティーのキチガイっぷりに萌えるのは、アホの子を愛でる我々オトナの嗜みと言えるだろう。

HUNTER×HUNTER 32


HUNTER×HUNTER 32


個人的に近年の本作は、すごく作者のライブ感覚が反映されているように感じており、特に蟻編では人体欠損や心理の過剰な描写から、積極的に作品と主人公を壊しにかかってるようで、自傷めいたその雰囲気に息を詰める思いでいた。どこかで作者がシナリオ作法を語っているのを読んだことがある。登場人物たちとの対話を通じてプロットを組んでいくらしい。ある状況に置かれたときに、登場人物が何を感じどうふるまうかがわかれば、その化学反応で物語が組み上がるというわけだ。裏を返せば、どうすれば最も残酷に各キャラクターを壊せるかを知っているということでもある。蟻編では創作者イコール神の力を存分に発揮して、主人公の肉体と精神を完全に破壊し尽くした。いかなる方法でも彼に刻まれた傷を完全にはとりのぞけず、以後の物語の進行に深刻な影響を及ぼすと思われた。その状況を受けての今回の選挙編だが、私は震災の影響下に描かれた作品であると強く感じた。蟻編での悪意――言い換えれば、作者の気分――に晒されていないキャラクターが作中で行う演説は、主人公と被災者をオーバーラップさせた作者からの懺悔と謝罪のようにも読める。そして、世の埒外にある癒しと死者の復活というふたつの奇跡をもって、不可逆に壊されたはずの主人公の肉体と精神は蟻編以前の状態へと巻き戻された。もし震災が無かったなら、この顛末は全く違ったようになっていたのではないかと想像する。蟻編とは、少年漫画的作劇からすべての要素においてひとつずつ位相をズラした批判であり、主人公の持つ純粋さと信念に対してさえ、それが適応されていた。己の持ち物では避けえぬ世界の残酷さと自身の無力を知ったとき、少年が壊れることは必定だった。けれど、そんな当たり前の敗北を、我々の誰もが体験してきた敗北を、だれが少年漫画というジャンルで目にしたいだろう? もしかしたら現実に負けない信念や純粋さがあるのではないかという祈りが、いまを生きる少年と、かつて少年だった大人たちにとって、理不尽な喪失を乗り越えていくために必要なのだと思う。ハンターハンターはこの選挙編の後、たぶん普通の少年漫画になるだろう。震災が、ハンターハンターを普通の少年漫画に戻すのだ。しかしその内容がどのようなものであれ、蟻編と選挙編を経たからこそ、我々が縁側の老人の背中に無為を感じないような、経てきたがゆえの重さを加えるに違いない。その行方を見届けるために、私は信念とも純粋さとも遠い場所で、なんとか死なずにやっていこうと思う。

スーパーマン・リターンズ


スーパーマン・リターンズ


三度目の視聴だと思うが、いつもレックス・ルーサーに感情移入してしまう。至弱を率いて至強に相対する日々、勝つことは端から放棄され、いかに損害を少なくした引き分けに持ちこむかばかりを考えるリーマン生活において、無邪気にスーパーマンの完全性を礼賛することはできなくなった。無謬の正義という虚構によって殺されないまま庇護され、ただその権威の確かさを再確認するためだけに挑み続ける道化、最も情けない小悪党。しかし、その姿を誰も笑えまい。昔から、ヒーローを扱ったシリーズもので、悪党側の主観から描かれる回が好きだった。個々人が総身の知恵をふりしぼり、組織はすべての力を結集させる。絶対に勝てないことは、あらかじめ運命づけられているのに。あの敗北は、子どもの目にとって諧謔だった。いまは、胃の腑に重たい現実である。私たちは、だれもヒーローのように勝つことができない。閑話休題。冒頭の飛行機事故から野球場へ至るシークエンスは、スーパーマンの能力とその象徴性を完璧に描ききっており、毎回感動する。せめてあの球場にいる人間になれればなあ、と思う。

小鳥猊下慈愛のようす

 「(小太りの男が贅肉に気管を圧迫された声で)ど、どういうことですか、説明してください。ぼくは確かにテキストサイトの寵児だったはずです。それがどうして、こんなひどいアクセス数に……」
 「(小太りの女、ボンレスハムにかけた紐を想起させるアイパッチで)アンタがホームページを開設してから14年経ってるってことよ。もうこの世界はね、アクセス数の寡多なんかに構ってらんないのよ」
 「(小太りの男、高ぶる感情にフーフー言いながら)そんなの嘘だ! あれから14年も経ったのなら、『猫を起こさないように』はとっくに百万ヒットを達成しているはずですよ! それがなんで……いや、確かにボクは百万ヒットを達成したんだ! 達成したんですよ!」
 「(入道雲状のパーマ先端部へひっかかったキャップのつばを触りながら)小鳥さん……でいいのよね? 冷静に聞いて。nWoはね、もはやかつてのような人気サイトではなくなっているのよ。いえ、それどころか、個人の発信を促すツールとしてのホームページは、今や」
 「(小太り男、聞き取りにくい早口で)もういいよ……nWoファンのみんな、ここだ! (叫びに呼応して四方の壁が内向きに破裂し、くす玉の中身を思わせる色とりどりの紙片が噴出する。小太りの男、満面の笑みで)年末恒例全レス祭り、『小鳥猊下慈愛のようす』はっじめっるよー!」

IN TIME


IN TIME


“You can do a lot in a day.” ガタカ以降、同監督のすべての作品をチェックしてきたが、久しぶりの最新作が、これまた久しぶりのSFということでワクワクしながら視聴を開始した。既存の社会システムに対する批判と思考実験がSFの本領だと信じて疑わない小生にとって、優生学やデザイナーベイビーの問題をテーマとして見事な人間賛歌を歌い上げたガタカは、あれから十余年を経てなお、nWoオールタイム・ベストの五指に入り続けている。今作の意図は、資本主義の問題点を可視化することだということはわかる。もちろん、良作である。SF好きとして、SF作品への評価が不当に厳しくなることを前提に聞いて欲しい。はたして本作がガタカの高みにまで達していたかと言えば、残念ながら疑問を呈さざるを得ない。「俺たちに明日はない」のSFペッパー風味というか、全体の薄味をアクション要素で濃い味付けにしている感じなのだ。アタシね、左手に余命のデジタル表示が夜の海で蛍光色の緑色に輝くのを見たとき、あー、なんかこれ、どっかで見たことあるなー、ってぼんやり考えてたら、その記憶がエヴァ序の直上会戦のときの、初号機の左手だって気づいたの。気づいたとたん、ボロボロと涙がこぼれてきて、どうしてアタシ、こんなになっちゃったんだろうって。アタシ、まえはもっと強かったのにって。

Q Queerness 奇妙な態度、同性の相手に性的に惹かれること

 『アベックが見に行くのも宮崎さんのアニメぐらいですから。デートに誘って恥をかくような映画はこれからダメになる。これからはデートに行っても外さない映画が生き残るんでしょうね』

 (スリガラス越しでもわかる入道雲パーマ。むせび泣き)草食系っていうんでしょうか、おとなしくてマジメな人だと思っていました。特にこれといった趣味もなくて、休みの日には横になってテレビを見るばかりで、何かはじめてみたらって言ってもうわの空の生返事で。そんな無気力のかたまりみたいな夫が、めずらしくわたしを映画にさそってきたんです。なにか有名なアニメの映画みたいで、いっしょに見に行こうって、ぜったいおもしろいからって。めずらしく積極的で、熱っぽくて。わたし、本当は大人になってアニメを見るような、オタクっていうんですか? 学生時代から大っきらいだったんですけど、いつも受け身の夫がさそってくれたのがうれしくって、ついオーケーしてしまったんです。上機嫌の夫とは反対に、びくびくしながら映画館に行ってみたら、わたしたちと同じくらいの年代のカップルが多くって、ひとりで来てるちょっとオタクみたいな人もいたけど、あんがいふつうの映画なのかなあって、すこしホッとしました。照明が落ちてしばらくしたら、ジブリのロゴが出て、わたしすっかり安心して、ああ、この人ったら本当はわたしと外出する口実がほしかっただけなんだわって、うきうきと話しかけようとしたら、夫が家では見たこともないようなすごい形相でスクリーンを凝視してるんです。わたし、なんだかこわくなって、イヤな予感がして。そしたらとつぜん、精神病みたいなアニメの声で頭のおかしいモノローグが流れはじめて。でも、アニメじゃないんです、どんどん爆発して町が壊れていくだけみたいな、そんな、病気みたいな映像なんです。おそるおそる夫の顔を見たら、うっすらと楽しそうに笑ってて、夫がまったく知らない人みたいになってて。気持ちの悪いモノローグと爆発が終わったと思ったら、次にはじまったのは、昔、クラスに気味の悪いオタクの子がいて、友だちと「あのコ、きっとこんなアニメ見て喜んでんのよ、キモーイ!」って話してたとき、みんなで冗談で言いあってた想像のアニメとまったく同じような内容でした。とつぜんキツイ生理がはじまったみたいに、じぶんでも顔から血の気がひいていくのがわかりました。夫の腕にすがって、「もう出よう、これ、気持ち悪い」って言ったら、これまでケンカもしたことがなかった夫が低い声で「うるさい、だまれ。さわるな」って言ったんです。「さわるな」って。わたし、膝に手つかずのままだったポップコーンを床にばらましながら席を立って、トイレの個室にかけこむと、吐きました。そして、便座に顔をふせたまま、わんわん泣いたんです。どのくらいたったのか、ケイタイにメールの着信があったんです。じかに床に座ってたせいで、下半身はすっかり冷たくなってました。メールは夫からでした。わたしうれしくなって、さっきのことあやまってくれるんだってメールを開いたら、「ごめん、気がつけなくて。さっきの、旧劇のアスカの台詞だよね? キミも好きなんじゃん(笑)」って、うわごとみたいな文が書いてあって。わたし、全身の毛がゾッとさかだって、衝動的にケイタイを便器に投げこむと、力まかせに水洗レバーを蹴りつけました。ケイタイが便器にあたってカラカラいう音を聞きながら劇場をとびだしました。そのまま実家に帰って、それから夫とはいちども会ってません。いちども(むせび泣き。やがて、肩をふるわせての号泣)

 『「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女のコに無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感さ』

テルマエ・ロマエ


テルマエ・ロマエ


バカほど手を抜かず、大真面目にやらなきゃダメだ! 前半は手を抜かず大真面目にやった、すごくいいバカだ! 端々からスタッフの悪ノリが伝わってきて、思わず笑顔になる! だが後半の展開はいただけない! 木ッ端アイドルとのクソ恋愛を必ず入れるという邦画の旧弊から逃れられていない! 逃れろ!

アメイジング・スパイダーマン


アメイジング・スパイダーマン


いや、本当によくできてますよ。ヒューマンドラマを丁寧に追っていて、良作以上の仕上がりだと思います。ですが、サム・ライミによる前三作を否定してまでリブートする意味があったかというと、はなはだ疑問に感じざるを得ません。あれ、つい最近なんか似たような感想を持った作品があるなー、なんだったかなーと思ったら、エヴァQだった。あと、ヒロインがキルスティン・ダンストを彷彿とさせる同系列のブサイクだった。これが、スパイダーマンの呪縛か。

バトルシップ


バトルシップ


恒星間航行可能な宇宙船のミサイルが一発では駆逐艦を沈められなかったり、音速の戦闘機の突撃にも耐えるバリアを生成可能な宇宙船が駆逐艦のミサイルに損害を受けたり、現代のネイビーが打倒し得るよう絶妙に配慮された控えめ兵装のエイリアンたち。どっかで似たような話を見たなー、どこだったかなーと考えてたら、ロサンゼルス決戦だった。ロシア、日本、中国、もはや仮想敵国を持てないアメリカは、好戦的な宇宙人の侵略をいま世界で最も待ち望んでいる国であろう。NASAへの積極的な財政支援が待たれるところだ。あと「こんな老朽艦、動かせるわけない」とか叫ぶところで、すぐさまミズーリの艦橋に立つ退役兵を写すカメラアングルにすごい笑った。ツッコミどころは満載だが、アメリカン青春グラフティのテンプレートに2億ドルぶちこむハリウッド特有の物量感に、もはや一周した敬意をしか感じない。

MMGF!!(0)

 プロローグ
 思えば、世界に倦んでいたのではなく、未知に倦んでいたのだろう。
 過去を語る老人は、未だ成さざる者にとって、白紙の課題と同義だった。
 達成される前には重荷で、達成されれば無と同じになる、人生という名の課題。
 はたして、この世界を美しいと思い、愛せる瞬間など本当に訪れるのだろうか。
 その人は、ぼくの諦念へやってきたのだ。
 端正な横顔は少年のようでもあり、少女のようでもある。
 黄金色のくせ毛は、陽光に輝く秋の麦畑のように豊かで、
 ほそく通った鼻筋は、冬に冠雪した尾根のように冷厳で、
 春の若芽のように柔らかな唇は、触れるものを溶かすほどに甘い。
 夏の陽射しを思わせて燃える瞳がうつす表情は、
 ときに賢者の白髪のように老獪で、
 赤子のうぶ毛のようにあどけなく、
 そして、あらゆる光を絶望させるほどに、その深淵には底が無い。
 憧憬を得た者だけが、我が苦しみを知る。
 ぼくの苦しみを、他のだれが理解しよう。
 未だ憧れの熱狂も醒めぬこの身で、かつて魂すら捧げた崇拝を砕かねばならぬ、我が苦しみを。耳朶に残る熱さは、あの人が触れたせいか、憧れが燃え残るせいか。
 鈴のような忍び笑い。虚ろな心に反響して、虜にする。
 では、こうしようか――
 時が経巡り、経巡った時が循環の果てにお前の掌へと還ったその日、
 もし世界が醜いままで、可愛いお前の憎悪にしか値しないとすれば、
 そのときは、乱暴な子どもへ与える玩具のように、この身をお前の恣にさせよう。
 時が経巡り、経巡った時が循環の果てにお前の掌へと還ったその日、
 もし世界が美しく優しさに満ち、お前の愛を捧げるに足るとすれば、
 そのときは、最良の主人を持つ奴隷の幸福の如く、お前の生命を私に捧げるのだ。
 では、手始めに――
 この世界すべての栄華と叡智を順に、お前の卓へ饗することにしよう。