猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 以前、一方的に好意を寄せていた面識のない恩人がご逝去された際、おずおずとお気持ちを表明したところ、「故人を利用して自分語りをすることの、なんという醜悪さか」みたいなエアリプを頂戴したことがありました。もう脊髄反射的な情動失禁は決してすまいとおのれを律してきたのですが、今回はゼロどころかゼット規模の訃報なので、すこしくらい昔話をしても太古の森の濡れ落ち葉くらいに目だたぬことでしょう。ドラゴンボールを読みはじめたのがいつだったのかは記憶にありませんが、リアルタイムで追いかけるのをやめた瞬間だけはハッキリとおぼえています。星ひとつを破壊するまでに至る、巨大なドラマツルギーの奔流を真正面から浴びる法悦のすぐ翌週、あれだけ苦労してたおしたはずの強敵がサイボーグになってシレッと復活しており、おまけに父親まで帯同して地球にやってきたかと思ったら、ポッと出の新キャラにたった1ページで斬り殺されてしまいます。これを読んだ瞬間、満面の笑顔は半笑いにはりつき、あれだけ毎週を心待ちにしていた気持ちが一瞬で冷めてーー昔から、そういうとこがあるーーしまい、週刊少年ジャンプの購読自体をやめてしまったのでした。

 その後の展開も友人や親戚宅の単行本などで読みましたが、意に染まぬ引きのばしを強いられているせいでしょう、次第に作者の生活感情が作品の内部へ混入するようになっていくのが気になったものです。具体的には、育児に関わらなかった父親が子どもの本当の気持ちに気づけないことをなじられたり、地球の命運よりも子どもの塾通いや学校の成績を気にする妻が夫をヒステリックに怒鳴りつけたり、週刊連載にかかりきりで莫大な稼ぎやファンから寄せられる思慕にも関わらず、家庭内では「いつも仕事でいない父親」として冷遇されているのではないかと、ひどく心配させられました(クリリンに「ひでえ、悟空だって苦労してるんだぜ」とかフォローさせたり、読んでてつらくなる)。長期連載による変節でいちばんワリを食ったのがこの牛魔王の娘で、男女の別なくオタクはみんな「感情的になってヒスる母親」を苦手としているため、かつて孫くんの冒険パートナーだった女性ーー「なーんだ、ぱふぱふとか、きょいきょいとか、いんぐりもんぐりとかされるのかと思っちゃった」「へ、へんたいだー!」ーーより、連載のある時期を過ぎてからは、二次創作などで取りあげられる頻度がずっと少なくなったように思います。マシリトの指摘するように、ナメック星で連載を終了できていれば、まちがいなく3作目の国民的ヒット漫画が生まれていたでしょうし、鬼滅の刃によって呪いを解かれるまで続いてしまった「固定ファンのついた人気作品は、物語の自走性やキャラクターの意志を無視して、10年でも20年でも連載を引きのばしてよし」という少子化時代の少年たちではなく大人たちのための、本邦の長い低迷を象徴するイビツな”勝利の方程式”を生む前例とならずにすんだのかもしれません。

 ともあれ、国家を越え、人種を越え、世代を越えた「精神のインフラ」とも形容すべき物語は、作り手の肉の実在から切りはなされた高い場所で、これからも地球人類が存続する限りは途絶えることなく、脈々と受け継がれていくことでしょう。そして、百年後の息子/父親も「このチチってキャラクター、なんだかママ/妻にソックリで好きになれないな……」という感情を抱きつづけるにちがいありません。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想

 ファイナルファンタジー7リバースを驚愕しながらダウンロード。なんとなれば、まさかこの「リメイク2」が発売どころか開発にいたっていたなんて、夢にも思っていなかったからである。前作はタイトルからもわかるように、オリジナルの全長を現在の技術で作りなおすプロジェクトとして始まったはずなのに、参加メンバーのだれも進捗とリソースの管理を行わないまま、キャッキャ言いながらーーチームとは名ばかりの、かつてのスタークリエイターとそのファンたちの集まりなのだから、無理からぬことであろうーー制作を進めた結果、バイクと新羅ビルと夜の街にカネと時間をかけすぎ、当初に予定していた制作費の半分をキャバクラ通いーー「オラッ、いつまでキーボード叩いてやがんだ! ウォールマーケットの現地取材に行くぞ!」ーーに使いこんだあたりで、業をにやした経営サイドの執行役員から追加予算の打ち切りを宣言されたにちがいない。ここにいたって、ようやく二重の意味での酩酊状態から我にかえったスタークリエイターとその信奉者たちは、「作りかけのハイウェイ」(ロストハイウェイ!)というメタファーに、セフィロスとの因縁を語りつくす一大ラストバトルからザックスの顔見せまでを無理やり巻きでブチこんで、「もし制作費を回収できずに続きが頓挫しても、終わったっぽい雰囲気だけはかもすようにした」ものに、”ミッドガル編”と手書きのラベルを貼って、ギリギリで宿題を提出したのがリメイク1の実状であろう。出番のなかった人気キャラであるユフィを登場させた完全版商法であるところのインタールード発売も、この推測の正しさを裏づけるものだった。だが、制作側にとっても予想外だったのは、国内だけで400万本の超ヒットとなったオリジナルによって罹患した中2病の保菌者たちは、全国の津々浦々に多種多様な業種や役職で散らばる400万人のKURAUDOとなって症状を潜伏させており、本作にまつわるすべてを力強く買いささえてしまったのである(挿入される「暴走族の総長の復活を喜ぶかつての悪ガキたち」や「上司に早退を告げる勤続35年無遅刻無欠勤のサラリーマン」のイメージ)。

 現在、第4章に入ったあたりだが、すでにプレイタイムは20時間へとせまるいきおいである。「ミッドガルを出たところで、どうせまたアンチャーテッド方式の一本道なんでしょ」とナメた態度でヘラヘラとプレイしていたところ、広大なワールドマップがドンと出現するのを目のあたりにした瞬間、かつてのエフエフ魂(ファイファン派は極刑)に火がついてしまったのだ。ファイナルファンタジー16とは比較にならないほど高密度で遊ばせるフィールドは、ミニゲームと探索要素にあふれており、気がつけば丸1日をブッ通しでプレイして、グラスランドの達成率を100%にしていたぐらいである。すべての若い女子が両腕を背中側に回して腰をかがめ、双乳を前方へと強調しながらウワメづかいに話す様子とか、ダブルヒロインのかけあいの女子校ノリというか夜職の同僚ノリというか昭和の深夜番組(ギルガメッシュも登場)ノリも、ゲーム部分が手抜かりなくキチンと作られていると、令和の倫理感にアップデートされたはずの目にも好ましく映るのは、我ながらじつに不思議だった。のちのPC版を想定しているのか、グラフィック優先の描画にするとPS5なのにモッサリ重たくなる場面があるのはどうかと思うが、逆に気になる点はいまのところ、それくらいだとも言えるだろう。レベリングとマテリア育成を行いながらのフィールド探索は、かつてファイナルファンタジー・シリーズをプレイしていたときの感覚をまざまざと思いださせてくれるし、ストーリーもオリジナルの展開をなぞりながら、「じつはザックスがキムタク」という有名なネタバレ・ミームを謎解きのミスリードに使っている感じで、エアリスのあつかいをどうするのかをふくめて先がとても気になりつつも、この良作を早解きはせずにじっくりと楽しみたいと思う。

 あと、女性をふくめた全登場キャラクターのうちでクラウドがいちばんエロくてかわいいのは、いったいぜんたいだれ目線の、どういうサジ加減なんでしょうか。「学校いちの美少女と巨乳とボーイッシュ、そして裏番の長髪パイセン、みんなが夢中でゾッコンなオレの愛しい彼氏」みたいな強いビー・エルの気配ーー妻帯者だからか、バレットはそんなに”さぶ”くないーーを感じるんですけど、まさかノムさん、そうなの? そうだったの? それと、リメイク3が作れるほど本作が売れたなら、サブタイトルはまちがいなく「リユニオン」になると予言しておきましょう。

ゲーム「風来のシレン6」感想

 小鳥猊下が、全盛期のファミ通ーーいま発刊されているのは、ハッピーそねみ等を代表とする当時のアナーキズムをわずかも残さない、ゲーム会社たちの広告誌ーーの広めた用語である「シレンジャー」の重篤な状態であったことを知る人間は、もはや少ないであろう。スーパーファミコン版「風来のシレン」こそがローグライク至高のオールタイムベストであり、土曜の晩から日曜の朝にかけて徹夜で99階ダンジョンを踏破した経験は、血脈に埋設された運命力による偶然から、「毎日きまった時間に、必ずその場所へ肉体を移動させる」だけで高額おヒネリちゃんにありつけている氷河期世代の死にぞこないにとっては、おのれの人生において片手に足らぬ数ほどしかない「努力と才覚による意志をともなった達成」だったと言えるだろう。ブラウン管だけが明滅する電気を消した暗い部屋から始まり、気づけばカーテンを透かした陽光のうす明かりが差す中での絶叫とガッツポーズの瞬間は、甲子園優勝投手もかくやという生々しい喜びとして、はるか過去から現在のこの身を暖めてくれている。風来のシレンは、たびたび告白しているように、「時間の経過が成果として積みあがらない」ことを現実の似姿として忌み嫌い、日々の憩いであるゲームにそれを求めたくない性向の、ほとんど唯一と言っていい例外なのである。その強烈な成功体験を持つがために、以後のシリーズや派生作品へ向けるまなざしはいきおい、最大級に厳しいものとなるのだった。最後にふれたのは、たしか世界樹の迷宮とのコラボ作品で、最初のダンジョンにもぐって5分ほどプレイしたあと、「これのどこが不思議のダンジョンなんじゃ、ブチころがすぞ!」と叫んでスリー・ディー・エスなるマイクロマシンごと床にたたきつけて、2度と手にとらなかったのを昨日のように思いだす。

 今回のシリーズ最新作も、人生の美しい思い出をけがす失望を味わいたくないため、視界に入れまいと意識して避けていたのに、タイムラインへ続々と高評価が流れてくる。かつてのおもいびとを遠目に見るため同窓会へ参加する感覚で、FGOの星5地獄ガチャに比べれば採算がとれるのか心配になるほど安価なダウンロード版を購入し、それこそ5分で会場を離れるつもりでプレイを開始したのだった。すると、なんということでしょう、あれだけ新規層を取りこもうと四苦八苦してきたパーマネント・デスの緩和施作をすべてブン投げて、初代シレン時代の難易度とプレイフィールそのまんまになってるじゃないですか! 長居するつもりのなかった同窓会が楽しすぎて、2次会、3次会とすべてのダンジョンを千鳥足でハシゴして、いまは「とぐろ島の真髄」で酩酊中といった有様です。シレン6が初心者と熟練者のどっちに向けた調整なのか、グッツグツに煮つまったシレンジャーには判断できませんが、初回エンディングを見るまで無死の一発クリアだったのには、酒におぼれて身を持ち崩した甲子園の優勝投手が、かつてのチームメイトに乞われて参加したトライアウトで、初球から160キロの豪速球がミットに音高くおさまった感じがありました。スタッフロールの流れる中、おのれの右腕を見つめながら「おまえ、まだそこにいてくれたのか……?」とつぶやき、うっすらと涙さえにじんだくらいです。

 正直、幾度もの死にもどりを前提としたシナリオや道具の解放要素を、あとから飛脚で往復しながらアンロックするのはダルかったですし、新しく導入された神器とデッ怪と風来救助は空気にすらなれていないーーシレン本来のゲーム性を邪魔しないことだけが美点ーーですし、脳死周回で完成させた印30の秘剣カブラステギ+99と螺旋風魔の盾+99へは試し切りにすら値しないダンジョンしか用意されていないし、もしかするとこれらは初代シレンへのレスペクトが強すぎることによる弊害なのかもしれません。結局のところ、「もっと不思議の」である99階ダンジョンで過ごす時間がプレイ総時間の99%へ限りなく近づいていくのですから、1%部分のバランスを論評することに意味はないのでしょう。最後に習い性で批判的なことを申しましたが、我が人生において数少ない栄光の瞬間を思いださせてくれたことへ最大限の感謝を表しつつ、もっともとぼしいリソースである時間をかなり集中的にシレン6へとそそぎこみぎていますので、そろそろ3日で1トライぐらいにペースを落としつつ、所謂「フェイの最終問題」クリアを気長に目指したいと思います。なに、今回の攻略はおにぎり増殖でドスコイ状態をいかに維持するかがポイントですよ、だと? だまれ、サテラビュー版をプレイしたこともない微笑みデブめが! プレイヤーに有利なだけの安易な強化要素を得々と語って、歴戦のシレンジャーであるバードマン軍曹猊下にくさい息を吐きかけるでないわ!

映画「ナポレオン」感想

 ホアキン・フェニックス目的でナポレオンを見る。「暴の雰囲気を濃厚にまとわせる無表情から、突然のチャーミングな大破顔」というどこぞの宮崎駿みたいな役作りをしていて、現代へいたる法体制を整備した「稀代の政治家」ではなく、戦争ですべてを解決する「狂気の戦術家」としての側面に強いフォーカスがあり、そこへジョセフィーヌとの関係性を歴史ミステリーの軸にすえた「人間ナポレオン」の物語として全体は進行していきます。戴冠式のアレを始めとして、有名な西洋画の構図をそこここにノールック・スリーポイントシュートーーあれ、オレまたなんか新古典主義キメちゃいました?ーーでバシバシに投入してくる撮影はさすがの大巨匠リドリー・スコットであり、「同氏にとってブレードランナー以来の傑作」という、褒めてんだか貶してんだかわからない評も大いにうなづけるところではあります。アウステルリッツからワーテルローまでをド正面から四ツに組んで映像化しており、堂々たる歴史大河として「これぞ映画芸術の真髄なり!」と思わず膝をうつほどの快作であるのに、本邦ではいつ劇場にかかっていたのかわからないほど、一瞬で上映が終了してしまいました(たぶん、スパイ家族のせい)。配信ドラマや一分動画が全盛の現在、それこそブランデーを片手にドッシリと腰をすえて二時間半を銀幕の幻想に没頭する姿勢が、珍奇でまれな心理的外傷のケーススタディになる日も、もはや遠いことではないでしょう。

 個人的には、LGBTQF(レズ・ゲイ・バイ・トランス・クイア・フィーメイルを表すnWoの造語)以外に属する者として、同胞たる市民に向けて散弾をこめた大砲を水平射撃して鎮圧する様ーー足を失った婦人が血塗れで這いずるーーには背筋がゾクゾクしましたし、歴史の教科書でしか知らなかったナポレオンの大勝と大敗を象徴する2つの戦闘を、あたかもその場にいるような砂かぶり席で見られたことに、アドレナリンが全身へ充満する昂揚を感じました。歩兵・騎兵・砲兵を基軸としたファイアーエムブレム時代(まちがい)の戦争は現代のそれと異なり、「肉に食いこむサーベルの感触と、血しぶきとともに冷えていく遺体」を否応にともなっており、誤解を恐れずに言うならば、LGBTQF以外を心の底からワクワクさせる、ホンモノの闘争であると言えましょう。特に、アウステルリッツで砲撃をくらった露助どもが、極寒の湖へ血煙とともに沈んでいくのを幾度も幾度も執拗に映す様子は、「撮影時、私はナポレオンその人だった」とふりかえるリドリー翁が感じている「殺戮の悦楽に、硬く反った陰茎」がまざまざと伝わってくるようでした。そして、「勝っている戦争ほど、楽しいものはない」「異人を殺すとき、胸は寸分も痛まなない」という身もフタもない興奮状態から編集時にハッと我へかえったのか、外人傭兵部隊が設立される理由にもつながる「ナポレオンが戦場で死なせた、おびただしいフランス兵の数」をエンドロールの手前に申しわけ程度のテキストで列挙することによって、「せんそー、はんたーい」みたいな弱々しいシュプレヒコールをあげるフリで物語の幕を閉じるものの、この映画が表現しているのはそれとは真逆の内容ーー「祖国のための戦争で他国を蹂躙するのって、ハッキシ言って最高におもしろカッコイイぜ!」ーーであると指摘しておきます。

 あと、レ・ミゼラブルの感想のときにも言いましたが、フランスというのは若者の無軌道な衝動性をレボリューションなる語彙で称賛する短慮短絡な国家であり、賢明な老人諸氏にはさぞかし生きづらい場所だろうと推察するとともに、心からの同情をお寄せいたします。本邦に根強い仏国に対する好印象は、主にベルばらと宝塚によるプロパガンダ的な由来を持っており、まだ大聖堂が燃え落ちておらず、中心街が移民によって釜ヶ崎みたいにはなっていない時分に渡仏(ぬりぼとけにあらず)し、埃っぽいシャンゼリゼ通りでバケツ一杯のムール貝をむさぼり食った経験を持つ貴人に言わせれば、パリなんてのは錆びた鉄塔と治安の悪い地下鉄があるだけの小汚い下町に過ぎず、その意味で新世界周辺となんら変わるものではありません。「イラついたので王を引きずりおろしたクセに、なんだか不安になってすぐさま次の王を立てたかと思えば、やっぱりムカついたのでその王を引きずりおろしたあげく、尻のすわりが悪いのでまた別の王をすえなおす」みたいな、前頭葉に欠陥のあるとしか思えない、感情の抑制がきかないバーバリアンどもから、ローマ帝国の浴場的末裔であるプレーン・フェイス族の我々は、くれぐれも何かを学んだりしないようキモに銘じたいところです。それと、ナポレオン式着衣後背位(高速)ーー「なんで妊娠しねえんだよ、チャクショーッ!」ーーが史実なのかどうかは、とても気になりました。

ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想

 崩壊スターレイル、ピノコニー編を実装部分までクリア。本作のシナリオは、同社の他作品と比して「情の原神、理の崩スタ」とでも評すべき、仮面ライダーみたいなテイストの棲み分けになっています。「新規のSF的概念」「組織と人物の相関図」「各キャラの台詞と、その裏」を、かなり丁寧に読みこんでいかないとストーリーの本筋が理解できない作りになっていて、グラフィックというよりテキストに強く依存した形式は、かつてのゲームブックを彷彿とさせます。その一方で、JRPGに向ける怖いような畏敬から造形されたフィールド部分に、イヤというほど盛りこまれた大量のギミック群は、本邦のユーザーに「知育玩具」と揶揄されるぐらい、わざわざプレイさせる意味を哲学的なレベルで考えてしまうほど単純なものばかりで、「漢詩の教養が市井の一市民にまで浸透しながら、理系分野においてはいまだひとつもノーベル賞の受賞がない、スーパー文系国家」である事実に由来しているのではないかと、邪推しておる次第です。理系分野の根幹を成す数学という技術は、乱暴な言い方をすればIQテストのパターン認識と事物の抽象化であり、「重厚なシナリオと対極をなす、簡素きわまるパズル遊び」は、中華のその特性にピッタリと合致するように感じられます。

 第三章前半のストーリーについて言えば、今回も世界情勢との意識的なリンクをうかがわせる内容になっていて、故郷を失った「星間難民」であるヒロイン(ホタルたん!)が違法なデバイスを使って夢の世界に密入国したことを告白するくだりは、世界各国の12言語を相手に物語をつむぐホヨバにしか、正面から取りあつかえないだろうと思わせるもので、そこへさらに「筋ジス患者にとってのバーチャル・リアリティ」とでも表現すべきハードな詩情を盛りこんでくるのです。最近、タイムラインに流れてきた「現実が厳しい者は仮想現実を選び、現実に満足している者は拡張現実を好む。それを証拠に、メタクエストは500ドルで、ビジョンプロは5000ドル」という記事を読んださいには考えもしなかった、「現実への充足」とはカネや社会的地位だけを意味するのではないという気づきを前に、五体と五感が不足なく動くことを当然とみなす人物の背筋は、内省によってわずかに伸びる感じさえありました。パイモンのしゃべくり一人称で進行してゆく原神と比べて、崩スタは無言の主人公と距離をおいた三人称のカメラで語られるせいか、ただでさえ速いストーリー展開は緩へ急へとさらに大きな振り幅を見せ、そのドライな筆致によって重要と思われる人物を拍子抜けなほど、アッサリと退場させたりする。もしかするとその唐突ささえ、第三章の後半であつかわれるだろう「夢の中での死は、精神的な死である」という指摘が、いかなる実相をともなうかを種あかしの中心にすえたミステリー要素の一部なのかもしれず、いまはあらゆる想像や予断を外して心静かに続きを待ちたい気分でおります。

 そして、ここまでのマジメな考察と分析をすべて台無しにする萌えコションならではの視点を、我慢できず露出狂のようにまろびださせていただくならば、ピノコニー編に登場する多くの新キャラのうち、なんといってもその白眉は金槌花火(たぶん偽名)たんでしょう! この少女は、下品なワードなので自分のテキストに残すのも正直はばかられますが、いわゆる「メスガキ」というエロマンガ由来のネットミームからその造形をスタートしつつ、その概念をいったんすべて脱構築してから、異なる位相で再構築したキャラになっているのです。同ワードを用いて、本邦の創作者たちが描くだろうエレメンタリー・ガールを想像してみましょう。いま貴君の脳内にうかんでいる、魚類に関するワードを連発する記号まみれのコピーキャットから遠ざかって一個の人格を編みあげた上で、なお「メスガキ」と呼ぶにたるというのは、じつに見事な手腕です。これはまさに、足し算と掛け算をいったん別宇宙に分離してから再構築するがごときアクロバットの所業であり、金槌花火(おそらく偽名)たんの存在は、美少女ゲーにおける宇宙際タイヒミュラー理論だとさえ言えるでしょう(言えると思う……言えるんじゃないかな……まあ、ちょっと覚悟はしておけ)。画面外の大きなお友だちは大興奮なのに、画面内のキャラたちはだれもがうっすら彼女のことを嫌っていて、すでに「どうしてみんな、しかめっ面するの」みたいな負けフラグも口にしており、「登場時に必敗を前提とした優越を持つ」みたいなルールを付与されているところまで再現されていて、花火たんが今後いかに敗北するかを想像するだけで、もうワクワクがとまりません。

 あと気になったのは、特に三月なのかや今回のヒロインであるホタルたんに顕著なんですけど、朗読されるセリフに息つぎのブレスが入りまくるところです。これって本来は編集で消すべきなのか、話し手がブレスの瞬間にマイクを外すべきなのか、どっちが正解なんでしょうか?(旧エヴァ第弐拾弐話のビデオフォーマット版で、「時計の針は元へは戻らない」というゲンドウの台詞の直後に、本放送版ではなかったかなり大きめの息を吸いこむ音が収録されていて、演出意図なのか消し忘れなのかわからず延々と悩んでいたのを、いま思いだしました) 最後に、中華サイファイから理論物理学へと連想ゲームを飛躍させた近況報告で終わります。以前、ピーター・ウォイトのブログを週イチでチェックしていることをお伝えしましたが、あれだけ厳しく弦理論をとりまく状況を批判しておきながら、リジェクトされた論文未満の万物理論に関するアイデアを科学誌のインタビューで得々と語ってしまい、ストリングスの専門家と同じ不健全さでマスコミを利用しているとブログのコメント欄が炎上していることに、満面の笑みを浮かべております。もっとも冷静かつ論理的であらねばならない理系分野のテニュアどもが、ほとんど2ちゃんねるやツイッターみたいなレスバトルをくりひろげている様子を極東の観客席から眺めるのは、(ビールの泡を白ヒゲに、破顔して)本ッ当に最高の娯楽ですね!

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。

ゲーム「鉄拳8」感想

 鉄拳8のストーリーモードをクリア。「なぜ、小鳥猊下が格闘ゲームを?」とのクエスチョンが、諸君の脳裏を龍虎乱舞していることだろう。ストリートファイター2ダッシュ時代、関西各地のゲーセンにおいて、主に「見る専」として出没し、対戦には怖くて1コインも投じたことのないカワードであるからして、格闘ゲームとは浅からぬ”えにし”があると言っても過言ではないのである。お行儀のいい令和のオンラインとちがって、昭和のゲーセンは試合の勝敗が近隣の愚連隊とのリアルファイトに発展することもしばしばであったため、小生をふくめた多くの賢明な君子は危うきを避けるべく、スーパーファミコン版の無印を自宅でプレイするにとどめていたのだった。いまでも鮮烈におぼえているのは、近場の家族経営のゲーセンーー当時はそれほどめずらしくなかったーーで、スト2ダッシュの対戦台を背後から腕ぐみして、軍師の表情でながめていたさいのできごとである。プレイアブルとなったばかりで調整の甘い四天王のうち、居住地の近隣ではベガーーバイソン将軍? だれそれ、こわーーが猛威をふるっていたように記憶している。飛行機のサウンドでカッとぶサイコクラッシャーの執拗な往復に、ときどき投げとダブルニーの2択みたいな、キャラ性能へ寄りかかった雑きわまるプレイングに、リュウで負け続けていたガタイのいい兄ちゃんが突如、椅子を蹴って立ちあがり、アストロ筐体の画面をリアル正拳づきでたたき割ったのである! 奥に座っていたオバチャンの、血相を変えて路上にとびだしてくるビジュアルが頭に残っているため、冤罪をきらった他の観客といっしょに、それこそ蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げだしたのかもしれない。この逸話からもご理解いただけたように、昭和のゲーセンはきわめて治安の悪いヤンキーどもの溜まり場であり、筐体に置かれているだれも掃除しない灰皿ーー分煙なんて概念は、オヤジの毛ほども存在しないーーが宙を舞うことも頻繁だった。

 そのため、個人的な鉄拳シリーズの体験はコンシューマー版(すでになつかしい表現)の内側にとどまっており、1と2を初代プレステのCPU対戦で楽しみ、3と4と5はまったく記憶になく、6と7はハードの変遷にともなって無料かセール中にダウンロードはしたものの、ほぼ手つかずといった具合である。もっとも時間を費やしたのは2で、持ちキャラの三島平八を使って「アッパーで浮かせてから崩拳をたたきこみ、起きあがりにダッシュ浴びせ蹴りを重ねる」みたいな戦法が、いまだ手に残っている感じがある。そんな酷薄(こくすい)プレイヤーが、なぜ鉄拳8をプレイしているのかと問われれば、nWoはいまもなおテレホーダイ時代の回線速度56Kbpsを生きており、情報の取得に大幅なタイムラグがあるせいで、「無名のパキスタン人2名が鉄拳7の世界大会へなぐりこみ、なみいる強豪を下して優勝と準優勝を独占した。しかも、優勝者はパキスタンの国内大会で17位の選手だった」というみなさまが数年前からご存じのシンデレラ・ストーリーへいまさらに接して、メチャクチャ心を動かされたからなのであった。この実話に感動したポイントは2つあって、1つ目は「幽遊白書の魔界格付けランキング」をただちに連想したことである。「当局の手に負えない妖怪を便宜上はSランクとしているが、Sランク内にも天と地ほどの実力差がある」という、オタクのみんなが大好きなあの概念だ。本邦や欧米の鉄拳トッププロがAランクだとすれば、ビザの取得も困難な辺境のムスリム国家に、なんとSランク妖怪がひしめいていたというのである。2つ目の感動ポイントは、かつてネットが存在せず、交通網の貧弱さによって世間から分断されていた、地方の貧しい農村に生まれた人物が村民たちの期待を背負って送りだされ、豊かな都会の英俊たちを努力と才覚で屈服させて政界や財界でのしあがるという、立身出世の古い物語類型を幻視したゆえである。当該の大会における快進撃を時系列で追った動画、電力にとぼしくわずかな部品の交換にさえ難渋するパキスタン国内のゲーセンに密着したドキュメンタリー、そして優勝者が地元の人々へ感謝の辞を述べるインタビューを見て、「うわー、オレもこのPAKI(蔑称)どもみたいに、祖国を背負って戦いてー」などと、年がいもなく思ってしまったからなのだった。当然のことながら、ゲームをする時間帯には必ずアルコールが入っており、加齢による反射神経の衰えと生来の「親指5本」な不器用さに苦しむ人物にとって、中の人がいるオンライン対戦で勝利による愉悦を得られるはずもなく、いきおい、オフラインで楽しめるアーケードモードやストーリーモードを、本作から導入された簡易操作で楽しむことになるわけである。

 ここで、初期鉄拳シリーズに抱く個人的な印象を述べておくならば、バーチャファイターの超ヒットへ2匹目のドジョウをねらいにきた、品性に欠ける二流三流のパチモンであり、前者が高級レストランのコース料理なら、後者は小汚い商店街で立ち食いするB級グルメぐらいの差を感じていた。そこから30年ばかりを経た現在、大味の鉄拳シリーズが世界的なヒットで隆盛をきわめ、淡麗なバーチャファイターシリーズがe-sportsというガワでの巻き直しに失敗して完全にポシャってしまったのは、我々の本質である「求道的な潔癖さ」が、いよいよ袋小路のドンづまりを迎えていることの証左だとも思えるのである。しかしながら、3時間ほどをかけて鉄拳8のストーリーモードの全容を体験してしまうと、バーチャファイターを猛烈に擁護したい気持ちにさせられるのも、また事実なのであった。このストーリーモードの内容だが、1と2の時代に三島由紀夫の顔と姓をあからさまな下敷きにした主人公や、男塾塾長から剽窃したラスボスの名前と容姿や、バーチャファイターのオリジナリティにキャラ数で対抗するため、骨格の使いまわしでKUMAなんてふざけたキャラを出したり、そこから思いついたのだろうA-KUMAが海外向けにDEVILとなり、DEVILの2PカラーとしてANGELが登場するみたいな、質の悪い連想ゲームによるガッチャガチャにとっちらかった設定を大マジメに「正史」として、湯水のごとくカネを注いでビジュアル化した結果の滑稽さなのである。たびたび指摘している「本邦の大作ゲームと劇場長編アニメにおいて、プロのライター(脚本家と表記しにくい社会情勢)が常に不在である問題」を強く感じさせるシナリオで、ビジュアルの面ではきわめて高度なことを行っていながら、この激動の時代に対して何の批評性も持つことができない、例えるなら「キリスト教系の保育園でするアドベントお遊戯会」とでも表現すべき、旧来のオタク文化を聖典として孫引きしただけの幼稚で無思考なシナリオが、終始むりむりと軟便のごとく垂れ流され続けるのである。特に「聖闘士星矢の黄金聖衣から範馬刃牙の親子喧嘩」へと至るラストバトルは、勝利条件のいっさい不明なまま、ダメージ描写皆無のなぐりあい(シンエヴァ!)が延々と続くため、「神殺し・イコール・親殺し」をよろこぶ本邦の中2病的な精神性にいい加減、イヤ気がさしていることもあって、ファイナルファンタジー16ぶりに1時間くらい「もうええて」を連呼し続けながらプレイするハメになってしまった(原神の話は、もうしないでおきます)。

 最後に、格闘ゲームとしてのバランスをどうこう言えるレベルのプレイヤーではないため、登場キャラについての雑感を述べて終わりたいと思います。コスプレみたいな奇抜な服装のピンク頭が軍属なのにはめまいを禁じえませんが、実のところ彼女はロボットで、着脱可能な爆弾としての頭部(!)をオーバーヘッドキックし、敵の腹部で爆発させるアタオカな必殺技を見せられて、ガッチャガチャの世界観をほこる鉄拳らしい演出だと半笑いになりました。「『だれも思いつかなかったアイデアを思いついた』場合、『なぜだれもそれをやらなかったのか』の観点で、まず考えなおしてみましょう」という例の金言を思いだしましたね(16bitセンセーションかよ!)。しかしながら、すべてのマイナス要素を上書いてプラスへと変じる圧倒的な加点要素として、初代ラスボスの三島平八を時流にのってトランス・セクシャル転生させた(!)レイナたんの存在を無視することは、己のロウワー・ボディへ誠実なオタクには、とてもできません。30年来の三島平八使いーー28年ぐらい前に半年ほど使って、以後は未使用の意ーーとしては、鉄拳9でデビルと化す(ネタバレ)レイナたんを、イッツ・オートマティック、持ちキャラにせざるをえないのです。「カズヤが1と8だから、1引いて0と7でレイナ」みたいなガッチャガチャに安直な連想ゲームは健在ですが、「女子中高生にオッサンの趣味をさせる」からさらにふみこんで、「女子中高生にオッサンの自我を入れる」のは、小鳥猊下の性癖どころか、小鳥猊下その人を表現していると言っていいでしょう。終わります。

アニメ「ぽんの道」感想(あるいは、麻雀とはずがたり)

 ぽんの道を3話まで見る。ここからは本作にかこつけて、麻雀なる遊戯に関して世代間にわたる意識の違いを、独断的かつ一方的に記述する内容となる予定である。当時の市場規模なりに一世を風靡して、アニメ化にまでいたったスーパーヅガンで麻雀のルールを知り、阿佐田哲也のギャンブル小説群はすべて履修を終え、哭きの竜とショーイチをすりきれるほど読みかえし、スーパーリアル麻雀P3で人には言えぬ欲望を解放したリトル・ライフa.k.a.オールド・ファッションド・ラブソングにとって、麻雀なるもののイメージは「ヤクザ」「違法賭博」「裏社会」「脱衣」とわかちがたく結びついてしまっている。もう数年は前になるのだろうか、とある収録のバラエティ番組で、十代とおぼしき女性アスリートが「わたし、よく麻雀やるんですよー」とほがらかに語るのを聞いてギョッとして、すべてのながら作業を止めてテレビ画面をマジマジと見つめてしまったのを思いだす。生放送でないということは、テレビ局や番組スタッフや所属事務所や、もしかすると親御さんまでをも含めた複数の大人が、「編集で消さなくてもよし」との判断を下したということなのである。界隈の客層の悪さについては、主にフィクションから身にしみており、それこそ責任のある大人になってからは、「麻雀牌の存在する場所へは、決して近づかない」を意識していた身にとって、これはかなりの衝撃的な事件であった。この少女はスマホで麻雀をしているとのことで、おそらく使用アプリは大陸産の雀魂であろう。「ネット麻雀といえば東風荘」な世代にとって本来は、はぐれ者(出目徳!)の人生破滅遊戯であるのに、愛らしい萌えキャラの力によってここまでカジュアルな言及が可能なレベルにまで麻雀が脱色され、脱臭され、無害化されている事実に、大きな時代の変化を感じてしまったのである。

 ぽんの道についても、本作が竹書房どころではない講談社の、しかも「なかよし」連載であることに、サルトル的な実存のめまいをともなう強い異世界転生感をおぼえている。この気持ちを例え話で表現するなら、「天皇の崩御で恩赦を得た誘拐殺人犯が、近所の小学校で児童に人気の先生になっている」くらいの感じで、その先生の素性を知っている市井の一市民として、どこの教育委員会に密告しようかと小一時間ほど部屋の中をウロウロ歩きまわってから、例え話だったと思いだしてハッと我にかえるぐらいの狼狽ぶりなのである。読者アンケートによって、「雀魂を通じて、小中学生の女子に麻雀は静かなブームとなっている」みたいな分析から連載を決めたのだと推察するが、賭博愛好のうれしげなネット民のみなさんは、うかうかと口を開いて不用意なことを言う前に、大人として冷静になってくださいね。いったいぜんたい、どこの中高にマージャン部が実在し、甲子園に相当する大会めざして日々の練習を重ねているというのでしょうか。「酒、タバコ、麻雀」はヤンキー3種の神器であり、むしろ生徒指導により校内から排除される対象ですらあるのです。仮にですよ、御社を志望する就活生が、趣味やガクチカに「麻雀」と書いてきたらと想像してみてください。私が人事の採用担当なら、相殺できるよほどの加点要素がなければ、まちがいなく書類選考で落とします。会社のカネを、万が一にでもバクチに使われたら、たまりませんからね! すこし話はそれますが、最近では「親ガチャ」や「毒親」という単語がエス・エヌ・エスでカジュアルに使われすぎて、なんと採用面接で産みの親の悪口を言いだすヤツまで出てきたなんて話を耳にします。生まれたときからインターネットが存在する世代は、「現実において口にすべきでないことは、あるレイヤーから上において確実に存在する」ことに気づく機会をあらかじめ奪われているんでしょうねえ。いいですか、老婆心から忠告しておきますけど、雀魂やぽんの道で麻雀にハマッた学生さんは、ワンチャン若手のリクルーターには通用したとしても、ジェイ・ティー・シーの役員面接で、「大学時代に力を入れたことは、麻雀です! 雀荘は暴力をふるう義父からの、格好のシェルターになってくれました!」なんてぜったいに言ったらダメですからね!

 脱線だらけでぜんぜん作品の話にならないため、最後にもう一度、ぽんの道へと話を戻してみましょう。本作の印象をざっくり一言でまとめてしまうと、「オッサンのニッチな趣味を、中高生女子に男子不在で取り組ませる作品群のひとつ」であり、舞台を地方都市としているところが、シンカイ某「ユア・ネーム」後の作品だと教えてくれます。「なかよし」連載であることからもわかるように、本作は小中学生の女子へ麻雀の楽しさを伝えることを目的としているはずなのですが、アニメ版はその初期動機とも言うべきものを完全に裏切った客層へ向けてボールを投げているのは、非常に気になるところです。そもそものキャラデザからして、原作の「小さくて、かわいい」から「大きくて、セクシー」へと、なぜか大幅に改変されており、特にお嬢さま属性を担当するキャラなどは、あまりの大きさに手元の牌を確認するさい、自前のパイしか見えないのではないかと心配になるほどです。また、1話の後半に「ざわざわ」のアレを皮切りとして、ネットバズをねらった過去の麻雀漫画パロディがなんの脈絡もないまま、これでもかと連発されるのですが、「原作ファン層には意味不明で、元ネタを知っているオッサンたちにもしつこすぎてサムい」という、だれも得しない仕上がりになっています。全体的に、女子小中学生を対象とした原作を「四十代以降の古い麻雀ファン」に向けて再チューニングしたようなサジ加減で、毎話のエンドカードにギョーカイのジューチン(「盈月の儀」からの悪い影響)がイラストを寄せているのも、「昭和を令和で断罪する」現代社会において、リスクにしかなっていないように思います。冒頭で言及したスーパーヅガンにせよ、面白い麻雀漫画である以上に「昭和のイキり風俗」の集積ーーパッと思いだしたのは、実在する麻雀プロの分厚いクチビルを「カポジ肉腫」と揶揄する場面ーーでもあり、いまとなってはとても若いオタクたちに、履修をすすめることなんてできませんもの! 個人的に、「干支がひと回り以上はなれた相手との、プライベートな接触はひかえるべき」という感覚があり、それに照らして言うならば、「和気あいあいと楽しんでいる学生のグループに、昔のギャグでしつこくちょっかいをかけにいく中年のオッサン」みたいなアニメになっちゃってませんか、これ?(自分の言葉に、南4局での大トップから役満の三家和をくらってダンラスに落ちたのと同じ衝撃を受け、そのエネルギーを推進力として飛翔し、恋人が乗るアメリカ行きの飛行機へと追いつく)

アニメ「スナック・バス江(1話)」感想

 タイムラインがよくない意味で沸騰しているため、興味を引かれてスナック・バス江の1話を見る。ここからは、「昭和の悪い倫理観と道徳感」の雰囲気をまとった居心地のよさが大好きなので、原作マンガは1巻から紙でぜんぶ持っている程度のファンによる感想になります。視聴中は、「原作の持つ時速200キロなハイテンポにリミッターをかけて、時速60キロまでスピード制限したようなアニメだなー」ぐらいの感想でしたが、インタビューに出てきた監督のご尊顔を拝見すると、思わずふきだしてしまうくらい、「まるで絵に描いたような、場末の飲み屋にいる遊び人のオジ」だったので、nWo史上ほとんど最速に近い答えあわせができました。

 時流に乗ってその、言わば共通テストの自己採点結果をお披露目しますならば、「陽キャのスナック愛と底抜けの行動力がなければアニメ化には至らなかったが、年齢層の異なる奇人変人を集結させるための舞台装置にすぎなかったスナックの解像度を高めすぎて、陰キャの作者と読者にとって太陽光をじかに浴びたアルビノのような反応を引き起こしてしまった」とでもなりましょうか。陰キャ諸君の側に立つ、アルコール耽溺なのにスナック嫌いの初老オタクとしては、1分動画エス・エヌ・エスに生体のテンポを調教されてしまっている令和キッズへ届かせるためには、ポプテピピックのアニメ化チームに作ってもらうのが最適解だったと考えていますが、2話以降にガラリとテンポや雰囲気を変えてくるしかけも充分にありえると思っているので、最終話までは口を閉じたほうが賢明な気がしております。

 あと、水割りを作る頻度の高さはエッキス(Qツッタイー)での指摘を見るまで気づきもしませんでしたが、人物の移動について下半身を映さず、上半身をピョコピョコ上下させることで表現する様子は、紙ずもうの力士みたいだなーと思いました。

ゲーム「バルダーズゲート3(1章)」感想

 年末年始の休みを使って、バルダーズゲート3をチマチマ進めている。ながらプレイを決してゆるさないゲーム性なので、かなりの覚悟を持って起動する必要があり、まだ20時間ほどしかプレイできていないが、のちに来る者たちのためにここまでーーおそらく、1章の終盤あたりーーの所感を残そうと思う。本作は最大のウリとして「高い自由度」をうたっているが、確かにサブシナリオの解決方法に関してNPCの生死へまでおよぶ選択肢が多岐にわたって用意されているものの、メインストーリー部分については基本的に決められた一本道を進んでいく。キャラクリの幅は近年に発売された他のゲームと比べてずっと狭く、冒険の仲間は容姿や性格から出自や背景にいたるまでガチガチに決まっていて、変更の余地はまったくない。またレベル上限は12と低く、獲得できる経験値総量はあらかじめ決まっており、手に入る装備品にもランダム要素はいっさいない。つまり、レベリングやトレハンは必要ないどころか、そもそもできない仕組みになっているのである。もし数々の宣伝文句から、ウィザードリィのような「自由度の高さ」を想像しているなら、バルダーズゲート3は完全にそれとは異なった中身だと言わざるをえない。私も当初は、D&Dのルールが敷かれた「オープンワールド・ウィザードリィ」的なものを期待していたため、かなりの肩すかしをくらうこととなった。本作では、すべての行動の成否を20面ダイスを振るーー戦闘は自動、イベントは手動ーーことで決定するのだが、あらゆる瞬間にクイックセーブができるため、プレイヤーの意志で「判定が成功するまでリセット」するファミコン版ウィザードリィ的なプレイも禁じられておらず、エリクサー症候群を患ったJRPGの徒にとっては、かなり神経を削られる作りになっていると言える。さらに、ゲーム全体がⅮ&Ⅾのルールをある程度まで把握していることと、世界観や用語の理解を前提として進行していくため、20時間を経過した現在でさえ、チュートリアル部分を抜けられたような気がしない(じっさい、戦闘以外の場面でリングコマンドを使って周囲の環境に干渉できるとわかるのにも、かなりの時間がかかった)。

 余談として、トンネルズ&トロールズ勢からダンジョンズ&ドラゴンズ勢への印象を述べておくならば、インターネットの存在しない時代にアルコールの飲めない田舎ぐらしの陰キャどもが、週末に酒場へ集まってジョッキ片手に下ネタで笑いあう陽キャ連中を尻目に、寂しさから共通の話題もないまま自宅の地下へ集まるためのコミュニケーション・ツールとして発展したような印象を持っている(とても失礼)。ご多分にもれず、私も様々なゲームアワードを総ナメにしたことで本作を知った「みいちゃんはあちゃん」のひとりであるが、バルダーズゲート3がエルデンリングティアキンをはるかに凌駕するゲームかと問われれば、まったくそんなことはないと断言しておく(補足として、ファイナルファンタジー16は圧倒的に、絶対的に、完膚なきまでに凌駕されている)。海外でのほぼ手放しに近い絶賛と受賞の数々は、エブエブがアカデミー賞で7冠を得たのと真逆の理由からであり、それは言葉にするならば、「バーに入れない臆病な下戸の陰キャによるコミュ補助ツールであるⅮ&Ⅾは、こんなにもすばらしいんだぜ! 黒人も女性も陽キャもアル中も、オレたち弱者白人男性の療養を目的とした箱庭で、せいぜい楽しんでくれよな!」といった具合の、出ッ歯メガネが小鼻をふくらませた満面の誇らしさなのである。

 いくつか難点を挙げておくと、ユー・アイ(友愛)は直感的な使いやすさになっておらず、理系ギークが理詰めで「論理的な正しさ」を優先して作っているーー「カバンを触る人間を確定した後、対象の触るカバンを選ぶ」に見られるプログラミング様の手順ーー感じで少々、いや、かなりイライラさせられる。油断すると装備品はすぐ行方不明になるし、野営地で所持品の整理をする作業が、プレイ時間の何パーセントかを確実に占めているのは間違いない。G.O.T.Y.受賞を理由として本作に興味を持った、ホヨバ愛好の美少女好きユーザーへ向けたアドバイスとしては、「場をつねにギスギスさせるギスアン鬼」a.k.a”レイゼル”で画像検索し、まずそのご尊顔をおがむとよろしい。このスキニー鼻フックこそが、本作のメインヒロインのひとりなのだ(!)。彼女の容姿を豪放に受けとめて、チクチク言葉を磊落に笑いとばす真の漢(おとこ)だけが、このゲームを楽しむ資格を持つと言えるだろう。なぜなら、このギスアン鬼とは遠からぬ将来、必ずギシアンーーいにしえのネットスラングで、セックスの意ーーをいたすハメになるからだ(!)。ことほど左様に、登場キャラクターからストーリー展開の隅々にいたるまで、例えばベジマイトのような各地域の内側でのみ重宝される、決して世界には広がらない理由を持つ調味料で整えられた個性きわまる味つけで、それを乗り越えられた者だけが、「この臭みがクセになって」楽しめる作品なのである。

 なに、原神崩スタ好きの萌えコションである小鳥猊下とも思えない発言ですね、だと? バカモノ! 初代バルダーズゲートを序盤で断念し、ドラゴンエイジ:オリジンズの生々しいホモセクシャル・インターコースにえづいた経験のある古強者にとって、苦手な食材など存在せぬわ! そうは言いながら、男主人公とアスタリオンとのロマンスにはまったく背筋をゾミゾミさせられましたが、さすがエル・ジー・ビー・ティー・キューの当事者たちに「私たちの性愛を自然に、真正面から描いている」とまで言わせるだけはあるなーと、異文化交流にも似た感慨を得たことはお伝えしておきます。