猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

書籍「還暦不行届」感想

 安野モヨコの還暦不行届を読む。Qアンノとその周辺に関して、無駄に解像度が上がってしまったので、ここへ忘備録的にしるしておく。女史のことはハッピーマニアの当初から、あからさまな岡崎京子フォロワーであると感じていた(調べてみると、アシスタント経験等の親交がある)。以前、「近年、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作るようになった」と指摘したが、その走りのような存在のひとりだと言えるかもしれない。演劇にせよ、漫画にせよ、アニメにせよ、それぞれの黎明期は参照すべき既存作品にとぼしく、かつてはムラの外部にいるクリエイターではない一般大衆に向けて、娯楽から啓蒙までの振り幅はあれど、「何かを伝える」ために物語は物語られていたように思う。そこから長い年月が過ぎて、各ジャンル内に作品の点数が積みあがり、多くの傑作や駄作のうちから古典が生まれ、単純な物量の裾野が業界の基盤を形成するようになると、あとから来たクリエイターは全創作物の中での己のポジション、すなわち「どの系譜に連なる者か?」を一種のアイデンティティとして、否応に示さなければならなくなる。これは同時に、オマージュやサンプリングが創作の手法として機能しはじめる段階でもある。前述したように、安野モヨコの漫画には岡崎京子とそのファンへの目くばせがあるし、最近はやりのぢぢちゅ回銭(原文ママ)も冨樫義博とそのファンをどこか意識しているのがわかるだろう。この段階においては、ムラの外にいる非クリエイターへとメッセージを送ろうとする力学は弱まり、懐から取りだした骨董品を好事家にチラ見せしながら、「アナタ、わかるでしょ、これ?」とささやいて、2人きりで忍び笑う楽しみ方が創作の小さくない部分を占めるようになる。我々のたどりついたこの現在の様相こそが、「いまは、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作っている」という発言の真意である。

 本作の内容に話を戻すと、昔からのファンにとっては周知のことなのだろうが、女史が親から虐待を受けていたことをサラリと述べているのには、おどろきと同時に腑に落ちる感じがあった。理由は後述する。また、女史がクリエイターという職業を「人類史のうちで最も高い位置にあるもの」とみなしていることが、文章の端々から伝わってくるのである。いくらか年齢を重ねてゆくと、日々の生活をただ平穏に過ごしていく裏に、一言も発さないまま世界の基(もとい)たるインフラを黙々と維持する人々の気配を近くに感じ、己が連綿と続く「生命の鎖」の一部である事実へ自然とこうべを垂れる気分が勝ちそうなものだが、その鎖から外れた一個のビカビカの金の輪であることこそ、「正しく、ありうべき姿だ」という考えがどこかにじむのは、興味深いところだ(これ以上はゲスの勘ぐりになるので、書かない)。このエッセイは、20年にわたるQアンノとの関係性の変化によってたどりついた先であるが、交際をはじめるようになったきっかけは間違いなく「旧エヴァンゲリオンを見たこと」だろう。岡崎京子フォロワーを自認し、サンプリングの手法でモノを作ることに悪びれず、「創作って、そういうもの」とうそぶいて、売れっ子漫画家としての人生を軽やかに駆けていたところ、同時代に存在する圧倒的なオリジナルと、ほとんど出会い頭の事故にも似た邂逅をはたす。そうして、過ごそうとしていたトレンディドラマのような日常から、かつての欠損家庭という出自に襟元をつかまれて、彼女はグイと元いた場所へと引きもどされてしまったのだろう。それは、ほとんど改宗に近い人生のパラダイムシフトだったのではないかと想像する。

 結婚生活に限らず、人間関係などというものは”必ず”どちらかが多く支払っており、多く支払ってる側に納得感のあることが関係の長続きする理由だろう。本作を読んでつくづく思ったのは、安野モヨコの方がはるかに多くを支払い続けているにも関わらず、2人が破局へと至らないのは、「クリエイターの才能へと向けた畏敬」と「人間になれなかった者の育てなおし」という2つの業病が、創作者を最高の職業と信ずる、虐待を生育史に持つ者の歪みにピッタリとハマったからなのかもしれない。唯一無二のオリジナリティをしてコピーだと自虐する才能を前にして、「自分の漫画が書けなくなる」のは表れて当然の反応だとさえ思う。Qアンノと旧エヴァに出会い、「岡崎京子のいる世界で、そのサンプラーが表現をする意味とは?」に再びブチあたった結果、ただひとつ最後に残ったのがオチビサンだったとするならば、なんだか息苦しいような気持ちにもさせられる(以前、「スヌーピーのポテンシャルはない」などと放言したことを少し後悔している)。キューティハニー実写版の怪人デザインをQアンノから依頼された女史が、何を提案しても徹底的にダメ出しをされて、最終的には激昂して相手にモノを投げつけるところまでいく話が、これまたサラッと書いてあるのだが、見方を変えればこのやりとりは、「真作からオマエは贋作だと言われ続ける」という残酷な図式になっており、「そら、こんなことを無自覚にくりかえされたら、書けなくもなるわ……」と深く同情した次第である(さらに言えば、女史がQアンノの世話に人生を捧げようとまで惚れこんだ、旧エヴァから受けた衝撃のほとんどが、彼以外のクリエイターの手による要素だったとシンエヴァで判明してしまったことは、限りなく喜劇に近い悲劇だろう)。

 あと、ずっと謎の存在だった「庵野の母ちゃん」が、偏食で口うるさい神経質な義母として登場しており、「父親との対立で始まったはずの物語が、退行して無形の母なるものにからめとられる」という旧エヴァの構図の答えあわせをした気になりました。例えば、アル中で暴れまわる父親は子どもにとって明確な敵ですが、その状況のベースを作りだしているのは、せっせと酒類を買い足し続ける母親だったりするわけです。実家を離れてはじめて理解できた、「荒ぶる犠牲者」としての父親とは和解できても、「尊大なる甘やかし」で間接的に家庭内のトーンを決めていた母親とは、元より対立のステージに立つことさえできないのですから! それと不謹慎ながら、本作を読むと「宮村優子と結ばれた庵野秀明」という世界線のことは、どうしても考えちゃいますねー。本人が後書きで言っているように「奥さんに生活の世話をしてもらっていなかったら、もっと早くに糖尿病とかで死んでいた」でしょうから、MIYAMOOとの結婚生活を早々に破綻させた彼が、シンエヴァみたく健康な還暦オヤジのヌルい泣き言を垂れ流すのではなく、キャラデザの人と地球外少年少女の監督に土下座でゆるしを乞い、余命宣告を受けてから彼らのサポートの下に、病に失われゆく視力の中でこれでもかと絶望をたたきつけた「真のエヴァンゲリオン」を完成させていたかもしれないーーそんな、せんのない妄想です。

漫画「チェンソーマン16巻」感想

 「最近、ツイッターのトレンドでとんと見かけなくなったなー」なんて考えながらチェンソーマンの16巻を読みはじめて、ひっくり返りました。「合理的配慮の義務化」に先がけて、視力に生得的な問題を抱えていたり、特性で文字を読むのに集中できなかったりする人々に向けて編集された、ユニバーサル・デザイン版を買ってしまったのかと真剣に考え、表紙と裏表紙をなんども調べましたが、残念なことにこれが通常版のようです。バカみたいにデカいコマの半分が吹きだしで埋まっていて、その中にはアホみたいに大きいフォントでセリフがならんでいる。残りの空白には、サインペン1本で引いたような強弱にとぼしい線によるキャラのアップが、ほとんど背景なしに描かれている。こいつがまた本当に読みづらくて、何回も行きつ戻りつしながら内容を理解しようとしたのですが、ついには巻の途中で読むのをやめてしまいました(こんなことは、生まれて初めてです)。いまは、「視覚に問題を抱えた方々や特性から読みとりに難のある方々が、人口の9割を占める社会にまぎれこんでしまった健常者」みたいな気分を味わっています。この一種異様な変容の理由がなにかを考えたとき、うるさ方のファンたちにアニメ2期を中絶させられて自暴自棄になったタツキが、画面サイズが小さく解像度の低い貧乏人のスマホを想定した集英ムラ独自のネット連載ルール(怪獣8号!)を露悪的に援用して自分の大切な作品を壊すという、言わば自傷行為の公開におよんでいるような気がしてなりません。チェンソーマン第2部はただちにネット連載を中断させ、一定の休養期間を彼に与えたあと、月刊でかまわないので作品を雑誌連載へもどすべきだと強く進言します。ひとりの才能あふれる作家が、無言の衆人環視のうちに自壊していくのを、現在進行形で見せられているような気がしてならないからです。

 タツキ、その言葉なきハンストにも似た抵抗運動は、現代の社会においてまったく有効じゃないんだ。チェンソーマンの現状に対して、ファン全体の1パーセントが「劣化」や「ゴミ」などの強い言葉を表明し、残りの99パーセントはただ黙って読むのをやめて、やがてキミという作家がいたことさえ忘れてしまうだろう。ルックバックで成層圏へと突き抜けて、編集者たちは作品の内容に口をはさめなくなり、ウェブ連載の独自ルールだけを伝えられ続けた結果、どこかの段階でキミは静かに発狂してしまったんじゃないか。集英ムラの連中は、ワンピースやぢじゅちゅ回銭(原文ママ)があるから、たとえキミが筆を折って失踪したところで、「逸話を持つレジェンド作家が、またひとり増えたか。これで残された作品の価値が上がるわい」ぐらいにしか思わないだろう。私にはネットの片隅でただ息をつめて、両腕をもみしぼりながら見まもることしかできない。だが、チェンソーマン17巻がページの4分の3を吹きだしに占拠されるようになったとしても、キミの才能を買いささえることだけはここに誓う。タツキ、キミは紙媒体でこそ輝く作家だと確信している。これ以上の自傷行為はやめて、集英ムラを離れてでも、ネット以外の媒体へともどる道を探すべきだ。

映画「ゲゲゲの謎」感想

 外出中のスキマ時間にピッタリとハマる上映時間があったため、日本3大しげるの命日にあやかって、見る気はなかったゲゲゲの謎を見る。以下は、テレビアニメ版は第3期のみをリアルタイム視聴し、もっとも印象に残っている関連作品はファミコンの妖怪大魔境ーー「げっげげのげー」からの「ぱわわわー、ぱわっ」ーーーという、昭和の鬼太郎ファンの中央値を自認する人物による感想です。それこそ冒頭の第一声からフィクション然とした説明セリフーー「あれは3万年前に絶滅したとされる、伝説の怪鳥ラドン!」ーーを聞かされてゲンナリしたり、「”哭倉”なんていう趣味的な当て字の地名を、初見で読めるわけねーじゃねーか!」などとツッコんだりはさせられましたが、その後にはじまった過去編は、往年の巨匠たちを思わせる堂々たる絵づくりで、横溝正史ばりの因習村でまき起こる、旧家の家督をめぐる連続殺人事件をスリリングに描いていきます。個性ゆたかな宗家一族の面々のうち、特に末娘のサヨはファンガスの性癖であるところの「穢された聖女(夜は娼婦)」として造形されており、事件の解決編は半ば予定調和的だったものの、近年のフィクションでは珍しくなった「女の情念」による破滅の美を、清々しいまでに見せつけてくれました。

 全体の4分の3ほどまでは、「ゲゲ郎のアクションがアニメ自慢のファンサービスで、ストーリーの雑味になってんなー」ぐらいの感想で、かなり好意的に古き良き日本映画の末裔として見ることができていたのですが、結界の地下で前当主と対峙するあたりから、その評価は急落していくこととなります。ゴジラ-1.0を引きあいにして、「当事者ではない人物が、左の平和学習と同じ視点から描く、幾度もカーボンコピーされて劣化した戦争」が、今後のフィクションにおける主流となることを危惧する向きもあるようですけど、本作は御大の著作が確かな下敷きにあるため、その批判は当たらないと感じました。ならば何が問題なのかと言えば、昭和の巨魁たるラスボス相当の人物を「野党の見る与党コピペ」として極めて類型的に描き、「悪の美学」や「権力の魔性」を1ミリも表現できていないことに起因する、ここまでに語られた物語全体へとさかのぼって波及してしまう、フィクションとしての説得力の欠如です。児童の身体に老人の頭部をのせたキャラ造形は「非難したい相手の容姿を醜く誇張して、戯画的に描く」の典型だし、セリフのすべてが「誅殺の快楽を増幅させるため、主人公サイド・イコール・観客を徹底的ににイラだたせる」のを目的とした非人間的な内容ばかりで、「悪いことをしてきたから、お金持ちになったんでしょ」みたいな小学生の世界観を一歩も出ることがありません。

 大きな権力を掌握した人物が持つ「懐の深さ」や「機転ある賢さ」や「人間的な魅力」のいっさいを、存在しないものとしなければならない暗黙の了解は、以前に指摘した「全共闘運動を正しく鎮圧できなかったこと」に同じ根を持っているような気がします。斧をふりかざされたラスボスがする、「会社を2つやる。いいスーツを着て、いい車といい女を手に入れろ」みたいな命乞いの勧誘に、「アンタ、つまんねえなあ!」と主人公が返す場面があるんですけど、それって一貫して強調されてきた「戦争ですべてを奪われたから、カネと権力を手に入れてやる」という野心を持った人物の発想じゃないですよね? 「農村の百姓や市井の市民の中に、人間のまことがある」という、クロサワを筆頭とした戦争経験のある監督たちの信念ですよね? 劇中において、主人公が「資本主義の走狗」より翻心する描写がまったくないものだから、この場面はギョッとするような唐突さになっていて、「サヨク妖怪に憑依されて、うわごとを言いだした」とさえ感じました(ゼット世代は、強い反発を感じるのでは?)。

 子どものあつかいが雑なのに、感動的っぽい演出がなされてるのもイヤなところで、ドストエフスキーじゃないですけど、この世界では子どもの絶望だけが唯一「取るに足る」んですよ。彼が連続殺人犯の元へ昇天するって絵ヅラも、自分の頭で考えていないと言いましょうか、昭和アニメのデータベースからオートマチックに既製品を選択したように見えてしまいました。原作にはないオリジナル脚本(ですよね?)なんだから、作り手の意志をいくらでも反映できるでしょうし、「子どもの死」をあえて触りたいというなら、もっとデリカシーが必要であると感じます。未就学児に「忘れないで」って言わせることで、自己満足的に成仏させることができるのは、大人の悔恨と後味の悪さだけでしょ。それを意図しているとまでは言いませんけど、この内容はペアレンタル・ガード12を突き抜けて、映画館に座っている実在の児童を刺しにいってると思いますよ。結部のつたなさのせいで、全体の読後感が悪くなったために、サヨたんの犬死に感が強まってしまっているのも最悪です。あと、前当主の死因って、初登場シーンを思い返すと、あきらかに腹上死ですよね? やっぱり、あんなヒヒ爺じゃなくて、サヨたんをすべての元凶にしておいたほうが、はるかに美しく収まったのでは? それと「幽霊族」って概念、ダーレスの言う「クトゥルフは水属性」と同じくらいうさんくさく感じるんだけど、これ公式設定なの?

映画「ゴジラ-1.0」感想

 ゴジラ-1.0を見る。CGとVFXと美術がハリウッド級で、特にゴジラ本体の仕上がりはシンのそれを上回っており、邦画でここまでやれるのかとシンプルに感心しました。背ビレが屹立する熱線のギミックもよく考えられていて、終盤の戦闘における緊張感を大きく高めることに成功しています。どんなものを作ったところで、前作と比較されるだろうし、このオファーを引き受けた監督の勇気に対して、ただただ頭が下がりました。しかしながら、ドラマパートのひどさがこれらの長所をすべて打ち消して、評価をマイナスへと突入させるレベルにまで至っていることもまた、否定できない事実なのです。「登場人物たちが全員、近代的な自我と歴史観を持っているのはおかしい」みたいな高所からの批判はピー・エイチ・ディー取得のみなさんに任せて、役者の演技という観点から問題点を確認していきましょう。ドラマパートがどのくらいひどいのかと言えば、まず近年の是枝組常連である安藤サクラさえ、「もっともマシな演技をしているにも関わらず、大根役者に見える」ような有り様で、あらゆる登場人物が周囲の状況をいっさい忖度せず、感情のままに言いたいことを絶叫する、「銀幕の中にしか存在してこなかった日本人像」の典型例になっています(ここ20年ほど、特定の監督によるもの以外の邦画を見てこなかった理由を、ひさしぶりに思いだしました)。本作にキャスティングされているのは、近年において名優と呼ばれる方々なので、監督をふくめた現場の制作サイドが、だれも作品のトーンや演技プランを役者たちに提示しなかったことが原因なのかもしれません。最初にだれかが、全力全開の大声とマナコをカッぴらいた変顔スレスレの、いわゆる「舞台演技」をやったら、いっさいリテイクが出なかったのを目にして、同調圧力的に全員でそこへ芝居を寄せていった結果ではないかと邪推してしまいます。邦画における演技のひどさって、カメラの向こうの観客じゃなくて、撮影スタッフを御見物に見たてて声を張ってる感じで、演劇由来のものじゃないかって疑ってるんですけど、ハリウッドみたいな演技メソッドって本邦では確立されてないんですかねえ。もしかしたら、昭和中期に全共闘くずれがいっせいに業界へと雪崩れこんだ結果、「過去の伝統」を総括的な批判で根絶やしにして、たしかに存在した方法論を消失させてしまったからではないでしょうか、知らんけど。

 本作の監督とQアンノがトークしている動画を見ながら考えたんですけど、シン・仮面ライダーが俳優の演技すべてに徹底的なダメ出しーーというか、絶対にOKを出さないーーを行ったのに対し、ゴジラ-1.0は俳優の演技にいっさい口を出さず、各自の思うよう好き放題にやらせていて、結局どちらも成功したとはとても言えない仕上がりになっているのは、オタク気質の監督が「人間に興味がない」ゆえに起こってしまった事故なのかもしれません(意見を言えるサブが脇にいれば、避けられたインシデントにも思えますけど!)。ゴジラや軍艦の登場で醸成された高揚感による作品世界への没入も、作中のだれかがマナコをカッぴらいて絶叫した瞬間に虚構がやぶれてしまい、観客席に座っている一個の自分へと幾度も引きもどされるのは、本当に苦痛で苦痛でしょうがありませんでした。海外での評判は悪くないようなので、もしかすると日本語ノンネイティブが字幕で鑑賞するときには演技のクサみが脱臭されて、おいしくいただけるような塩梅になっているのかもしれません。「豪華絢爛に盛りつけられ、箸をのばして舌にのせた瞬間は最高の味なのに、その直後、鼻腔に充満するドブの臭気に何度もえづく満漢全席」みたいな映画体験に、自身の気難しさと無用の敏感さを呪う気分にはなりました。いったん印象が悪い方向へ傾くと、インターネットを介さない昭和の人権教育と平和学習に洗脳された一時期を持つ身にとっては、熱線からのキノコ雲や黒い雨を見ると、「もう制作サイドにひとりの当事者もいない悲劇を、エンタメの手つきで触っていいの?」という潔癖ささえカマ首をもたげてきます。シン・ゴジラによる先祖がえりから、「ゴジラとは、本邦の国難を体現するもの」という新たな命題が本シリーズの必須要件になるのだとしたら、今後の続編たちの先行きを極めて不安に感じるので、「ゴジラなんて、怪獣プロレスぐらいでぜんぜんかまわないんじゃないの?」と無責任な放言をしておきます。

 シナリオ自体も役者の演技を外して追えば、それほど悪くないのかもしれませんが、最後に気になった場面をいくつか紹介しておきます。主人公が「自分はもう死人なのかも」と2回目に発狂するシーンで、ヒロインの行動が中国の老夫婦のごとく相手の背中を強くさすりながら絶叫するにとどまったのは、明確に”ノスタル爺”案件ーー「抱けえっ!! 抱けーっ!!」ーーだと思いました。せめて、いまをときめく女優が役者根性をド見せて、OPPAIがIPPAIにまろびでれば、「うれしいな、さわーりたい」となって(となって!)、彼の苦悩はすべて雨散霧消したんじゃないでしょうか。あと、レバーを引いたら戦闘機の脱出パラシュートが開くのを、出撃前に因縁の整備士から知らされてたって話、どないやねん。パイロットへ知らせずに機構をしこんでおいて、贖罪としての特攻を完遂する直前に彼からそれを取りあげるのが、「粋な復讐」として両者のキャラを造形する上で最高の演出になるんやないかい! それを最後の最後でぜんぶ台無しにしやがって、このダボが! 「相模湾を見下ろす高台から、パラシュートが開いたのを目視確認して無言でニヤッ」くらいでちゃんと終われんのかい! コワモテの整備士やのに、泣きそうな顔で軍の無線を聞いて安堵しよってからに、ほとんどキャラ崩壊しとるやんけ! せやなかったら、ワシら観客の知性を虚仮にしとんのかい、オォ? それと、雪風の側面にローマ字で記載されている艦名が一部の場面で”YUKAZE”になっていて、史実どおりなのかチェックミスなのかわからず、モヤモヤしました。

質問:夕風という駆逐艦もでてきますが、YUKAZEはそっちでは?
回答:ああ! なるほど!

ゲーム「原神4章5幕・罪人の円舞曲」感想

 原神4章を最終幕までクリア。言わば、「原爆投下1日前のヒロシマ」を旅人とパイモンがそぞろ歩くシーンでの、モブによる「明日おなじものを食べられないとしても、今日はおなじものを食べる。それが生活ってものでしょ?」というセリフに、またしても号泣させられてしまいました。いつも感心してしまうのは、大所高所から語られるストーリーに対置された、こういった市井の一市民による素朴な感情を細やかに描いている点であり、「今日の食事」という極小の視点から百年を優に越える極大の時間ギミックへとカメラを引き上げる際の落差は、前者の連続で後者が成り立っていることにハッとした気づきを与えてくれます。そして、真の神が人間を愛するようになるまでの数百年を、一介の個人が偽りの神としてウソと演技による「時間かせぎ」をする苦悩は、いかばかりだったでしょう。いつ終わるかさえ知らされていないその苦しみを、異邦人へとすべてうちあけて楽になるチャンスを目の前にしながら、「利己的になってはダメだ、もう少しだけ考えよう……」とすんでのところでふみとどまる場面には、我が身に照らしての嗚咽がほとばしりでました。

 このフリーナというキャラクターのことは、登場した最初の瞬間から「軽薄で底の割れた演技者」として、どこか好きになれない気持ちがありました。「原神にしては、魅力に欠ける造形を持ってきたものだな」などと冷めた視点でずっとながめていたのに、その感覚の正体が同族嫌悪や自己嫌悪と同じ種類のものだったと判明したときの衝撃たるや! 私自身が「身の丈よりも大きなもの」を日々、演じることを強いられており、「すべて投げだして、終わりにしたい」という欲求と毎秒をせめぎあって生きているのですから! メインストーリーが幕を閉じ、彼女の後日譚ーー「僕はもう、二度とだれかを演じるつもりはない」ーーが終わる頃には、フリーナのことを心から愛おしいと思うようになっていました。個人を翻弄する大きな物語の渦中に落としこまれた小さなキャラクターたちが、それでもどうにか生きようとあがく様は、なんと彼らを魅力的に見せることでしょうか。いつの時点からか、キャラクターが物語のサイズを凌駕してしまうようになった本邦のフィクション群の失ってしまったものを、原神はいまだに脈々と受け継いでいるのです。

 どこか洗練されていない部分や、強引な展開、つたない手つきがまったくないとは申しません。けれど、いまを生きるだれかの熱を帯びたドラマツルギーが、すべてを「是」「好」へと変じていくのです。原神4章の最終幕を通じて、中華の若い世代が語る「旧エヴァ劇場版の先の先」を確かに見届けさせてもらった気分になりました。あなたたちは、「旧劇の最終局面で碇シンジが取るべきだった行動」と「新劇による再話で選ばれるべきだった結末」を、このように考えたのですね。先日、地球外少年少女の感想を再掲したところ、監督本人にRTされてビックリしましたが、彼の元へも土地と世代を超えたアンサーが届くことを願っています。いつものごとく、「アカの手先」となってベタ褒めしてしまいましたが、まあ、ロシア相当の組織の構成員たちが急に好意的な様子で描写されはじめたり、不安を感じる部分もなくはないんですよ。

 オマージュをわずかに越えたド直球の引用もチラホラ見えてきて、「第三降臨者」なるワードもすごく旧エヴァっぽいなーと感じます。今回、公子の師匠としてスカークなる人物が登場したのですが、FGOのスカサハと設定や見た目ばかりか声優まで同じ(!)になってて、「ああ、メッチャ好きなんやろうな……」と、思わず生あたたかい視線を送ってしまいました(「呑星の鯨」から剥離した物質のフレイバーテキスト、メッチャ好きです)。ともあれ、原神4章の最終幕を通じて、本邦のフィクションを弱くしているのは、家族を解体する「毒親」や 「親ガチャ」なる概念と、大きな物語を一個のキャラクターに矮小化する「VTuber」なる存在であることを確信いたしました(ぐるぐる目で)。みんな、そんなつまらないマガイモノは窓から投げ捨てて、中華ファンタジーから「物語の王道」を逆輸入していこうぜ!

 最後にぜんぜん話は変わりますけど、遅ればせながら劇光仮面の4巻を読んだんですよ。えー、「本物が現れ」ちゃダメじゃん! そんなのいつも通りじゃん! 本物がいない世界だからこそ、例えば「ゆきゆきて神軍」のような文学性や批評性を帯びていたのに! 本作へ向けていた興味関心の熱が、一気に冷めてしまったことは、残念ながら認めざるをえません。本物がいない日常だからこそ、我々はなんとかしてその虚無をやりすごそうと、もがき苦しむというのに……。

映画「バービー」感想

 ほんの一時期、オッペケペーみたいな映画との抱きあわせ商法で話題になっていたバービーを、アマプラでようやく見る。個人的には、コメディ・ミュージカル・社会風刺のいずれにも振り切れていない、じつに中途半端な作品のように感じましたけれど、どうも頭文字Fの観点から読み解く態度がネットでは主流のようです。以下は、幼少期に人形遊びをしたことがない性別の人物ーー頭に浮かんだのは、どちらですか?ーーによる、そんな視点での感想文と思ってください。端的に言って、我々サイドの本性は「邪智・性欲・暴力」から成り立っていて、本作に登場する人物たちはマテル社の重役連をふくめ、決定的にこれらの要素を欠いており、その外見がどうであるにかかわらず、全員が我々とは異なる方の性別に属していると言えるでしょう。「暴力による死と、その究極へ至る道程に横たわる不倶のグラデーション」を予期しないですむ、劇中で行われているような話し合いによって、何か有益かつ有効な結論が導かれるとは、とても信じられません。同様に、ネットでの議論が社会の変化へと結実しないのは、まさに死を前提とするフィジカル・イコール・肉体の破壊を伴わないからであり、「全裸の範馬勇次郎と密室に閉じこめられたときに言えない言葉」さえ気軽に発信できてしまうことが、レギュレーション上の不備であると指摘できるでしょう。ある不快を感じたとき、外的な抑止が無ければ「不可逆な地点まで、無言で対象をなぐり続ける」ことこそ、我々が持つ偽らざる性質であり、とりかえしのつかない死を大量に発生させないため、「法律・婚姻・国家」なる自縄の概念をみずから作りだすことで、自縛による死の回避を試み続けてきたのです。

 かつて人形遊びをする側の性別は、「邪智・性欲・暴力」の本来をたわめないまま、間接的にそれらをコントロールする手法に長けていました。なぜなら、異なるルールを持つ小集団が割拠する場所では、他の集団から向けられるそれらの毒を、同じ毒をもって制する必要があったからです。そこから長い時間をかけて、同一のルールを共有する集団の規模は併合によってどんどん大きくなり、めったに死を伴う争いが生じなくなった結果、かつて有効な手段として乗りこなしていた「邪智・性欲・暴力」を不愉快なものとみなし、ゼロへと希釈しようとする内向きの動きが発生します。しかし、それは自分たちが文明と定義する埒外への想像力を欠いた運動で、他の集団において脈々と受け継がれる「邪智・性欲・暴力」に対して、むきだしの無力をさらけだす危険性を裏腹にはらんでいます。その執拗な、例えるならば陰茎にするハモの骨切りがごとき思想未満の思惑は、近年ではフィクション全般にもおよんできており、雑に言いますと、プリキュアやマーベルによる特定の性別への「物理的な」エンパワメントは、文字どおり字義どおりの虚構かつ虚妄に過ぎないことは、次の世代へキチンと伝えておく必要があります。人をなぐったことのない若いオタクが、人形遊びをする側の性別を「フィジカルにひいでた属性」と心から信ずる姿勢は、人類全体の価値観を一様化することの困難さが証明され続けている現在、未来において有害な瞬間をもたらしかねないことを、くりかえし何度でも強調しておくべきではないでしょうか……

 オップス、最近の陰鬱な精神状態にひっぱられて、なんだかオンナ子どもをムダに怖がらせるしゃべり方になっちゃってたね! ちょっとモードをーー眉間に皺を寄せた劇画調から、ポップなトゥーン調の顔面にモーフィングするーー変えて、本作のクスッと笑えるブライト・サイドについてお話しするね! この映画の面白いところは、リアル人体にドールと同じ動きをさせていることなの! ジェニーやリカちゃんの両脚を180度回転させて、ツルツルおマタをオッぴろげた逆八の字ポーズにゲラゲラ笑った記憶って、だれにでもあるわよね! そんな「ドール遊びあるある」が、全編にわたって小ネタとして挿入されてるんだけど、中でもアタシのお気に入りは、「床に放置されたバービー系の人形は、必ず顔面を下に伏せた状態になる」というマーフィーの法則(古ッ!)を再現してるとこなのよ! 人間がうつぶせになるときって、高い鼻が邪魔になるーーえ、アジア人の話なんてしてないわよ?ーーから腕を枕にしたり、顔を横に向けたりするじゃない? なのに人形の演技をしてるもんだから、両腕をまっすぐ体のワキにそわせたまま、鼻から地面に顔をつけてんのよ! 美人のパツキン女優が全力でそれをやってんのがおかしくっておかしくって、アタシひさしぶりに涙がでるほど笑っちゃった! ベセスダゲーの死体がときどきハチャメチャに笑えるのも、これが原因なのかもしれないわねえ(目尻の涙をぬぐう)! それにしても、戦火から遠い文明国に住むマイノリティ人種でシングルマザーな家庭が抱える葛藤ーートゥーン調から、劇画調の顔面へとモーフィングするーーなんてもうだれも、1ミリの興味関心もねえよなァ!

 ……などと、世情と季節に起因する気持ちのアップダウンにふりまわされていたのですが、ついさきほど原神の最新ストーリーをしょぼくれた顔でプレイしていたところ、”Love is destructive”なるアチーブメントの達成を目にした途端、たちまち大破顔となって、すべての憂悶はふきとんでしまいました! うわー、やっぱりキミら、フォンテーヌ編は確信犯でやってるんやないの! 中華の若い世代がつむぐ、旧エヴァ劇場版の堂々たる先の先を、ワテに力いっぱい見せておくんなはれ! なぜって、同じ意図で始まったはずの、本邦の若い世代によるマーキュリー・ガンダムは、見るも無惨な大失敗に終わってしまったからなァ!(だいぶ不安定だし、もうバービーと関係ない)

ゲーム「FGO『白天の城、黒夜の城』」感想

 聖杯戦線の最新イベントをクリア。このコンテンツ、盤面でキャラの性能差を表現できない以上、どうひっくり返したってシミュレーションゲームにはならないのに、「難易度が無駄に高い上に、コンティニュー不可能」という、FGOの中でもかなりキライな部類のコンテンツでした。それが今回は、「コンティニューありのイージーモードで、物語にスパイスをきかせる程度のSLGゴッコ」にとどまっていて、本邦の課金ゲーム最有翼としてホヨバの世界的調整ーー人種、年齢、性別、学歴など、プレイヤーの属性が何であれ、数回の試行で必ずクリアできるーーからようやく学びを得たなと感じました。しかしながら、最終戦だけはまごうことなきタワーリング・シットであり、指さし確認してターン終了したのに、ランダム無限リポップの敵がマスターの隣に出現し、3回連続でなぐられて敗北となったときは、しばらくぶりに心の底からの絶叫がほとばしりでました(遠くから近づいてくるサイレンの音)。ストーリー展開もひさしぶりにFGOらしいもので、「敵サイドの際限なきインフレーション」と「絶望的な状況から起こす奇跡の大逆転」が魅力的な筆致で描かれています。

 また、「王とは何であるか」の語りも、無印Fateからずっと引き継がれてきたテーマだと思いますが、己の人生の変遷もふまえた上で、非常に考えさせられる内容でした。「王の決断は、いつも最善になってしまう」というフレーズがまさにそれで、「トップの発した言葉が検証を経ないまま即座に組織の隅々まで浸透し、部下たちがその実現へ向けてフルスロットルで動きだす」という光景は、その集団に属さない人間にとっては恐怖でしかないでしょう。上に立つ者の決断を「最善にする」のは、常にナンバー2以下の仕事であり、調子のいいときの組織は現実そのものさえ変容させていきますが、いざジリ貧になってくると現実を描写する情報の方が曲がっていくのです。「トップの孤独と、セカンドの地獄」という言葉は、どんな人間集団にも当てはまるものなのかもしれません(余談ながら、大企業にとってナンバー1のすげかえは「社長の代がわり」にすぎないのかもしれませんが、中小企業にとってのそれは「古代における王の死」と同じ重さを持ちます)。

 「王の器」というのは確かに存在していて、それは能力の多寡といっさい関係がなく、品位や魅力さえ実体に比べれば添え物にすぎません。「王佐の才」は人工的に作りだすーー最高学府の就職先に、外資系コンサル会社がズラリーーことができますが、「王の器」はただただ出現するのを待つしかない。「王の器」とは、あらゆる人間集団に必要な「決断する機構」のことであり、その作家人生を鳥瞰するにつけ、奇跡的に思想と物語のバランスが取れていた頃の作品である「銀英伝」に青春を汚染された者たちは、「最良の君主制と最悪の民主制があったとして、我々はいつも後者を選ぶ」という態度を美徳のように語りますが、いったん管理側に回れば、どんなに民主的な組織にも「決断する王」が必要なことは、骨身で理解できるでしょう。今回のイベントにおける「王の決断は、”必ず”最善になってしまう」という言い様はけだし名言であり、当人の抱く恐怖と裏腹に、世界のクロノロジカルな「再試行不可能性」によって、その実現性は常に担保されていくのです。

 一介のライターにすぎない人物が、この真実を知っているのは驚くべきことだし、もしかすると10年近いFGOの運営を通じて、組織が拡大するにつれて食わせねばならない人間の数が増えていく事実に、以前までの書生的かつ観念的な「王の話をしよう」ではない、他ならぬ「王の自覚」が身内に芽生えたゆえなのかもしれません。これこそ、私がファンガスを最果ての塔に閉じこめておけと念ずる理由であり、もし彼/彼女がSNSなどやっていようものなら、「会社経営と有名税つらいお。あの頃のいちオタクに戻りたいお」みたいなツイートに雨散霧消しただろう愚痴が、本イベントにおいて極上の物語へと変換されたのは、「王の孤独」を身にまとったからではないでしょうか。SNSにアカウントを持っている作家のことごとくを信用できないし、彼らの著作を手にとろうとも思わない理由は、まさにこの一点です。それにしても、この至高の物語変換装置が私の脳にもそなわっていればな……という愚痴ツイートによる、物語原型の雨散霧消で終わります。

雑文「STARRAIL SENSATION(近況報告2023.10.26)」

 崩壊スターレイル、PS5版の登場による実装分を最後までクリア。以前、「西洋のSFは空間の横軸的な広がりを志向するのに対して、東洋のSFは時間の縦軸的な経過を志向する」と指摘しましたけど、新キャラの専用イベントを通じて、その確信はますます強まりました。さらに、ファンガスの記述するFGOが「生命の一回性を通じて、人間讃歌をうたう」一方で、崩スタは一貫して「不死は呪いである」と繰り返すことで「定命である尊さ」を逆説的に浮きあがらせることに成功しているのです。メインストーリー部分では現在、ロシアと中国をモチーフにした2つの惑星が実装されていて、中華人民とその歴史を魅力的に語るーー皮肉ではないーー段階をようやく終えて、今回は3つ目の惑星へと旅立つまでの幕間が描かれたのですが、いまを生きる人々が読むべき緊張感をはらんだ内容となっています。幹部たちが2つ名で呼びあうカンパニーなるアメリカ(の企業体)相当の組織が登場し、先祖の残した数百年前の借金をカタにロシアへ主権を売りわたすよう詰めより、その代わりに極寒の大地をテラフォーミングでかつての温暖な気候に変えてやると迫る。若い君主が国体の維持と国民の幸福を天秤にかけられて苦悩する中、日本人・中国人・ドイツ人・異星人から構成される「列車組」ーー武力介入しまくるので、国連というよりは「沈黙の艦隊」的な存在ーーが両者の調停に立ちあがる……どうです、そこの未プレイ組のアナタ、読みたくなってきたでしょ?

 パッと見は、美少女・美青年を美麗に彫刻する超絶3Dモデルの「萌えゲー」なのに、ほんの一皮をめくれば現代の世相に対して、かなりハードに接近した物語になっている。そして、すべての組織のメンツをつぶさないまま、「絶対悪」を想定しない解決を語りきる手腕は、もう脱帽という他ありません。まさに、ホヨバの企業理念である”Tecn Otakus Save the World.”を、絵空事ではなく実践してやるんだという気概が、ビンビンに伝わってくるのです。かつて栗本薫が好んで使った「飢えた子どもの前で、文学は有効なのか?」という問いに、彼らは「少なくとも、私たちは有効だと信じている」と歯を食いしばりながら答えるだろうと信じさせてくれる。この、創作物を用いて現実と真正面から対峙する「意気と視点の高さ」は近年、界隈において見つけるのが難しくなってしまったものでもあります。そして、これだけ今日的に重要な課題に取り組んでいるにも関わらず、崩スタにせよ、原神にせよ、本邦において批評的な言説の俎上にのぼるどころか、ほとんど感想をさえ見かけません。今回の幕間劇は、「どれだけキレイごとをならべても、最後の解決は暴力によって行われる」という矛盾、すなわちJRPGというシステムの宿痾に対して、アンサーを与えるべく苦心しているようにも見えるし、かつてのエロゲー全盛期に存在した「傍流に一流が集結する」、あの梁山泊的な熱気が吹きあがっていて、現在進行形で追いかけるべきゲームであることを、強く感じさせてくれます。

 古いオタクたちは、16bitセンセーションなる「初老男性の懐古的な自分語り」を目的とした昭和の談話室に引きこもるのはやめて、令和の不愉快な黒船である崩壊スターレイルをこそプレイするべきだと、ここに断言しておきましょう。ゲイカ、あっちのアニメの制作者インタビューにもイヤイヤ目を通しましたけど、どうしたらあの本編からこの内容が出てくるんだという感じの、コンサルそっくりの語り口になっていて、「いやー、豪華なパワポやねえ」というのが、商材の実際を見てしまった者のいつわらざる感想でした。「どんなガラクタでも売ってみせますよ」というのは、居酒屋で放言する個人の自負としてはけっこうなことですが、企業としては魅力的な製品を作っていただくことが、まずもって先決ではないでしょうか、知らんけど。その点、ホヨバさんの商品はどれもこれも生地と縫製がしっかりした(て)はるわー。今後も贔屓にさせてもらいますさかい、あんじょうよろしゅうお願いします。

アニメ「16bitセンセーション」感想(2話まで)

 16bitセンセーションを2話まで見る。特定の世代の、特定の趣味嗜好を持った人物には、ナナメ方向から鋭角にブッささるクリエイターの名前を目にしたのと、PC-98のゲームを模したドット絵によるプロモーション画像にひどく想像力を刺激されたことが視聴のきっかけでした。「”To Heartから20年”的な内容を、斬新なドット絵アニメによって表現する、今期の鉄板ヘゲモニー」みたいな期待のブチあげ方をしていたこちらが悪いと言えば悪いのですが、正座待機の眼前に始まったのが、脚本・演出・アニメーション、いずれをとってもひどくチープな「クオリティが低い側の昭和アニメ」だったのには、心の底からガッカリしました。全体的にただよう古くさい雰囲気ーーテーマ由来ではないことを強調しておくーーの中でも特に問題なのは、主人公のキャラクター造形でしょう。2023年現在、高卒で就職していると仮定して、いまどきのハタチ前後にこんなシーラカンス級のオタク女子などいるはずもなく、ほとんど「最後に個体の生存が確認されたのは十数年前」みたいな記載がレッドデータブックにあるレベルで、作り手の感覚と観察が、ある時代で完全に停止してしまっていることを如実に表しています(「どん底のぞこ」って口グセもだけど、令和の御代にこんなキャラ立てする?)。

 さらに言えば、エロゲーの歴史を語るのに秋葉原を無思考のオートマチックで持ってくるのも、シンカイ・サンが先鞭を付けてしまった「地域振興結託アニメ群」を前にすると、アンテナの低さみたいなのを感じざるをえません。もちろん、関西在住のオタクとしていつもの「トーキョー部族の内輪ウケ」に対する恨み節が半分なわけですが、ここまでの内容的にも、秋葉原という土地は別の場所へ置換可能ですので、恵美須町駅から南海難波駅に至る一帯ーー日本橋と書くと部族の偏った知識に誤読されてしまうーーを舞台にするぐらいの機転はきかせてほしいものです(初めて言いますが、拙テキスト「美少女への黙祷」の舞台はここです)。3話以降が「スタートアップ企業の部活動的な楽しさ」に再び焦点を当てるのか、「エロゲー黎明期に存在したロストテクノロジーの博物館的保存」を目的にするのか、はたまた「レッドデータ少女の大作エロゲー制作奮闘記」が描かれることになるのか、いまの段階ではまったく予想がつきません。ただ、2話までの印象は、高い期待が反転した結果としての「どん底のぞこ」であることをゲイカ、お伝えしておきます。

 アニメ「16bitセンセーション」感想(最終話まで)

雑文「政治的ヌヴィレット礼賛(近況報告2023.10.13)」

 原神の第4章、ヌヴィレットの伝説任務をクリア。諸君に「アカの手先」と思われたくないので、もう二度と言及するまいと心に誓うのですが、ストーリーのすばらしさが毎回それを超えてくるのです。課金量を調整するため、「男性キャラは引かない」というハウスルールを敷いている萌えコションにも関わらず、終盤のムービーにおける「水龍、水龍、泣かないで」のセリフにふいをつかれて号泣し、ナヴィアとフリーナのためにとっておいた原石をすべて吐きだして、ヌヴィレットを引いてしまいました。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのときにも少し触れましたが、オタクの自己定義とは、正しい見本や教育を得なかったために人としてのふるまいを教わらず、「人間社会にまぎれこんでしまったエイリアン」として毎日をやり過ごす者であると指摘できるでしょう。それゆえ、己の日々の苦闘や人生の辛酸を体現するかのような「人に憧れ、人を知り、人になろうとする」キャラクターたちに、とても強く共鳴してしまうのです。「感情を排して論理的にふるまおうとするためにセルフケアがおろそかとなり、結果それがむきだしのウィークポイントとして露呈する」ーー古いオタクに自己投影を促してきた、おそらくはミスター・スポックを源流とする人物造形の最新のかたちが、ヌヴィレットの上に表れています。

 書き手にとって、かなり取り扱いの難しいキャラクターのはずですが、本人にはいっさい感情を語らせないまま、周囲の言動や時々の情景をていねいに描写することで彼の内面の輪郭が浮かびあがる図式は、じつに見事な手さばきです。さらには描写されたその内面が、「もっとも賢い者が持つ心の陥穽と、長く続いた差別構造の解体」というストーリーラインへと自然にリンクしていく。原神が導く「どうすれば、この世から差別がなくなるのか?」という究極の問いへの回答は、ズバリ「争いをやめてから、数百年が経過すること」であり、ここには差別の解消が進んでいくにつれ、ある段階において人権活動が構造解消の足かせになることへ向けた批判すら含まれています。「同じ過ちを繰り返さないため」という表向きの題目が、その裏で「活動によって己の口を糊すること」につながっていないかを自覚し、抵抗運動の自己解体までを差別の解消に織りこむことは、おそらく容易なふるまいではありません。近年の世界情勢を見るにつけ、「数百年に向けた数十年の前進が、またゼロからのふりだしにもどった」ような状況は慨嘆にたえませんし、「『だれもが死ぬ』という事実が教育を生んだが、教育では多くの憎しみを消せない」というシンプルな無力感は痛切ですが、原神のストーリーは「真に世界市民的」な態度でそこへ向きあっており、我々の見る現実と物語のシンクロニシティが意図的か偶然かに関わらず、「いま」を生きる同時代のだれかによってつむがれているということが、ひしひしと伝わってくるのです。

 12の言語で世界展開するゲームのストーリーを語る主体は、自国による文化的検閲や各国の政治情勢について、けっして無頓着ではいられないでしょう。最近どこかで「学生運動を正しく鎮圧できなかったことが、過去から現在に至るまで本邦の大きな負債となっている」という指摘を見かけましたが、マネジメント側から見ると大いにうなづける話です。これは刑罰を適切に与えなかったという意味ではなく、「自分たちが間違っていた」と彼らに思わせることが、ついにできなかったという話なのでしょう。本邦において、一定の歳月を耐えた組織に根深い野党的な言説というのは、「母体に害をなす致死性のヴァイラス」であり、発熱によるこらしめにとどまらず、後遺症を残したり、死につながるような暴れ方さえする。自分たちの非をいっさい認めず相手を悪魔化して糾弾し、譲歩を引きだしたり妥協点を見いだすことではなく、批判する姿勢を仲間や周囲に見せることが自己目的化している。最近のフィクションで言えば、昭和の活動家が用いた左翼的論法を無意識のうちに内面化したファイナルファンタジーの最新作などに、「学生運動を正しく鎮圧できなかった名残り」を見ることができます。「世界を変えず、己が負けない」論法を便利な手段として後の世代が学んでしまったのはつくづく大きな負の遺産であり、本邦の歴史に根ざした品性に欠けるその「土着ぶり」は、村上春樹などよりもずっとノーベル文学賞が求める資質ーーqualityではなくnatureーーに近いものだと言えるでしょう。

 大幅にそれた話を元へ戻しますと、昨今の「物語から書き手の内面を想像するな」という意見には、私はまったく同意できません。その主張を認めるならば、同じ題材やテーマで充分に完成された古典がすでに山ほどあるわけで、人類が「異曲」をつむぎ続ける理由とは、商業的な要請を別とすれば、同時代を生きるだれかの生が否応に作品へと混入し、その語り方を変じるからなのです。原神のつむぐストーリーは、両手足を縛られたようながんじがらめの状況から深く思考して、「どの国の、どの年代の、だれにとっても不快ではない」ラインを見きわめた針の穴を通すストーリーテリングを徹底しており、この創作手法こそが真の意味での「政治的な態度」だと言えるでしょう。あと10年もすれば、「テロリストをアイドルと奉じる一群」は死や恍惚によって現世への影響を完全に失います。そこからさらに半世紀も待てば、「被使用者から使用者への逆差別構造」は消えてなくなるはずです。その日を心待ちに、せいぜい長生きしましょう、マネジメントを生業とするご同輩! あと、永野のりこのマンガに青春期の一部をコンタミされていたので、第4章のプレイ中、エリック・サティっぽい一部の楽曲に、なんだか学生時代にタイムスリップしたみたいな感覚を味わったことを、最後にお伝えしておきます。