猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

天気の子


天気の子


期待していたみなさん、すいません。すごく楽しめました。いつもは面白さを気持ち悪さが上回るのに、今回は気持ち悪さが面白さを上回らなかったことが理由だと思う。例えるなら、クサヤや鮒ずしやブルーチーズやシュールストレミングに比する臭みがなくなったので、ようやく味や食感に言及できるようになったという感じだ。ツイッターで散見される「90年代エロゲーのトゥルーエンド」なる評は的確に本質を言い当てていて、カントクの出自にも合致する慧眼だと思った。じっさい、本作のストーリーはまさにエロゲーのリアリティラインで描かれていて、その不整合を一般文芸と同じ視点で評するのも野暮であり、わざわざツッコむ気にはなれない。そんなことより、ラストシーンでは名前を呼ぶだけでなく、ついに男女が手を握りあう状態へと至っており、次作ではハグ、次々作ではキス、次々々作ではペッティング、次々々々作ではセックスと、ようやくチェリーボーイ卒業へのロードマップが見通せたのは喜ばしいことだ。あと前作と違って、小学生女子の描き方があまり気持ち悪くないのは、同級生の男子を登場させて大人からの視点を薄めたのと、何よりカントクの娘が小学生になったというのが大きいと思う。しかしアナタ、小学生の娘ですよ! 結婚して家庭を持ち、四十も半ばを過ぎて、子どもが小学生になってなお、こんな金木犀スメルの漂うストーリーを描き続けることができるというのは、ある意味すさまじいことですよ! 尊敬ーーには値しないまでも、保護するべき貴重な感性(DT力)ですよ! 本作のインタビューに目を通したら、「ヒロインを救うために東京を水没させるなんてことして、みんなボクのこと、ひどいと思いますよね?」とか思春期の少年みたいな世迷い言を吐いている。インタビュアーをはじめ、その場に居合わせた方々は、作り笑顔の下に「オマエが二百億かせいでなきゃ、すぐにでもこの場を離れるんだがな」という本音を秘し隠して仕事に当たられたこととご同情申し上げますが、オイ、そこかよ! 拳銃の扱い(チンポのメタファー?)とか、もっと他に気を使って脚本へ落とし込まなきゃいけないことがたくさんあっただろうがよ! いいんだよ、東京やセカイのひとつやふたつ滅んだって、ただのフィクションなんだから! エバー・キューから悪い影響を受けてんじゃねえよ! つい興奮してツッコむ気にはなれないはずのストーリーにツッコんでしまったが、私が心配するのは、本作も大入りロングランとなり、当然としてまた周囲の大人たちに次回作を求められたときのことだ。前作のキャラを登場させてまで、わざわざ舞台のつながりを明示したマジメなカントクのことだ。「水没した東京(不可逆な! 可塑性のない! エバー・キュー!)でぼくたちはいかに生きるのか(吉野源三郎! 宮崎駿!)」というセンで東京三部作みたいにトリロジーの完結編を考えようとする可能性が極めて高い。だが、その方向はカントクの器を越えた隘路だと、僭越ながらご指摘差し上げたい。なに、「シン・エヴァが公開されてから、結論をパクればいいじゃん。あと、絵の構図とか(笑)」とでも考えているんじゃないですか、だと! きさま、シンカイさんがそんな不真面目な人間であるはずが……(振り上げた拳をおろし、目をそらす)。ともあれ、皆が不幸にならないエス・シー・ディーズ(持続可能な創作目標)だけは、おずおずと提示しておきたい。カントクは「脚本はエロゲーからの借り物、構図と画面作りはエヴァからの借り物、背景美術だけが少しオリジナル」という自らの特性を受け入れ、以後は全国各地の主要都市へ舞台を移してのボーイ・ミーツ・ガールだけを描き続けるのが最良の一手であろう。本作の脚本をひな形として、あとはキャラの固有名詞を変えたぐらいの変更で(一般客はだれも気づかない)、各地の主要都市を緻密な背景美術で描いていくーーカントクの気晴らしに、ときどきは火山の噴火とかで街を壊滅させてもいいーーことで、聖地巡礼などで地方行政や観光事業と結託する。それがカントクにとっても観客にとっても出資者にとってもハッピーで持続可能な、三方一両得の展開であることは間違いないと断言しよう。もしカントクが「あの、東京だけがボクにとって特別な街なのであって……」などと童貞スメルのする思春期的な寝言をぬかしだしたら、周囲の大人たちはきっちりとチョウパンいれてから説得してください。あと、粉雪の舞う中でセミが電柱にとまっているカット見たけど、あれさあ、わかってるぜ、nWoの更新への目くばせだろ? いやあ、オレもいよいよネット界隈において「好きだと名前を言ってはいけないあの人」と化してきたようだな、照れるぜ、ハハハ(テロップ「※個人の妄想です」)!

若おかみは小学生


若おかみは小学生


清く正しい、健全なる青少年育成アニメ。児童文学を原作としており、作者が女性ということもあって、等身大の小学生女子に対する適切な距離感を保った描写が、たいへんに好ましい。近年、男性の作り手による作品に登場する小学生女子は、意識的なのか無意識的なのかはわからない、非常に性的に描かれるようになってしまっており、この一点だけでも大きな評価に値すると思う。さらに、男性の作り手による作品に登場する少年少女は、作者の自己投影が鼻につくほど強いため、本作の主人公に対する距離感ーー「両親の視点から見る娘」という描写は、近年のアニメ群においては非常に新鮮に映る。おい、誠! 同じ神楽をあつかってんのに見事に伏線を回収し、清々しい(きよきよしい)読後感に至っているのがなんでわかったか? 現実に傷ついた子どもの癒やしと成長を心から願い、十数年先の将来を見越して教育することの意味を信じるだれかは、当の小学生に自分の体液を販売することへ言及させたりしねーんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの感性が歪んでいて、気持ち悪いか恥じいる気持ちになっただろうがよ! おい、吾朗! まずそうな食事シーンでペラッペラのキャラに必ず「いただきます」を言わせるような教育的しかけがいかに中身のない、浅はかなものかわかったか? おまえは家庭をかえりみない父親と逆の理想像、おまえの願望を描いてみせただけのことで、現実にネグレクトされた子どもの心へは少しも寄りそわなかったんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの動機が歪んでいて、何の共感も得られないかわかっただろうがよ! 閑話休題。あえて気になる点を挙げるとするなら、原作ではさらりと描写されるに留まっていた(海外赴任中の両親、と同じくらいの感じだった)交通遺児である主人公という設定がテーマに昇格し、物語全体がそこへ向けてかなりエッジをかけられていることだろう。これがあるために、名作であることを頭で理解しながら、ネット上で無責任にする”拡散”は別として、現実に面識のあるだれかには、非常に薦めにくくなってしまっている。過去、現実に兄を亡くした知人へそれと知らず「息子の部屋」を薦めてしまった経験があり、その方は好意的に受け止めてくれたものの、かなり冷や汗をかいた。なんとなれば、現実での不幸とは個別的でネットのようには声高に喧伝されないものだし、実際に交通事故で身内を失っただれかがこの作品を見て、交通事故は作劇のためのギミックであり、自らの不幸を弄ばれていると受け取ったとして、その感覚は正当であり、否定できないものだ。個人的には、虚構の人物に過ぎない主人公を、それでも現実と同じ切実さで救ってやりたいという制作側の強い気持ちーーたぶん、愛と呼ばれるものーーを感じることができた。そうは言いながら、やはりアウトとセーフの際どいラインにボールが投げられていることは間違いない。しかし、それが本作を夏休みのいち児童アニメであることを越えて、より普遍性を持った作品へと昇華させていることもまた、事実なのだ。くだくだと私的に悩ましい部分を述べたが、この繰り言が本作の送る力強いメッセージの価値を減ずるには至らないことを強調しておきたい。私たちが許したいかどうか、実際に私たちが許せるかどうかに関わらず、私たちはただ許すことをもってしか、現代の問題の多くを解決に導くことはできないのである。最後に蛇足ながら、本作にもし瑕疵というものを指摘するなら、初のアニメ化に高校球児のような全力投球をしてしまったことで、あまりにも原作シリーズから今回の映画へと、メッセージをこめるための要素をきれいに抽出しすぎたことかもしれない。本作で初めてシリーズに触れた視聴者に対して、この一作で満足を与えすぎてしまい、原作を手に取らせるには至らないような気がするのだ。よし、どうやら私は真面目なツイートをし過ぎてしまったようだな! 次までにはなんとか時間を見つけて「天気の子」を視聴し、諸君が期待するところの下品な大罵倒大会をお見せすることを約束するぜ!

栗本薫と中島梓


栗本薫と中島梓


没後十年に出版された、まさかの評伝。女史の大ファンを自認する私でさえ知らなかったエピソードも多く、ゴシップ的な興味は大いに満たされたが、本人が生きていたら大激怒で原稿を引き裂くだろう記述も多い。氏の著作の三分の二ぐらいは読んでいると思うが(本棚を見たらグイン・サーガは最終巻を除けば、92巻まで購入していた)、書かれたすべての作品を読み尽くすまで、彼女は生き続けるのではないかとどこかで信じていた。死去の報にもほとんど動揺しなかったのに、本人が生きていれば絶対に出版を許さなかっただろうこの本が私の手元にある事実に、もう栗本薫はこの世にいないのだと改めて思い知らされて、涙が出た。二度目の追悼をこめて、彼女の著作を読み返すことに週末を捧げようと思う。『父と母と××とのゆるしの三位一体から、私はいつもひとり拒まれてある』。薄暗い室内で窓の外の雨音を聞きながら、横座りの萩尾望都作画少女が栗本薫の過去作品を読んでいる。「翼あるもの」「朝日のあたる家」「ハード・ラック・ウーマン」などの初期作品に目を通し、その天才性と深い共感力にはらはらと落涙する。それから少女は女史の円熟を知るために、代表作であるグイン・サーガの後期巻へと手を伸ばした。読み進むにつれ、少女の眉間に刻まれた皺はみるみる深くなっていく――ウオァァアーーッ!! 突然の絶叫とともに、少女は板垣恵介作画に変じた上腕二頭筋で文庫をまっぷたつにしたかと思うと、ビリビリに引き裂いた。12、3年前の気持ちを思い出したところで、追悼おしまい。久しぶりに栗本薫の過去作品を読み返す中で、初期作品である「弥勒」の文体が、女史の晩年のそれにソックリなことを発見して驚いた。感情にまかせて校正なしに書きなぐってあり、同じ内容の繰り返しに眠くなって本を閉じようとするも、ふいに現れる鋭い言い回しにハッと目を覚まされる感じ。そしてまた、同じ内容がグダグダの悪文で繰り返されていく、というアレ。この作品が書かれた時期は、女史がまだ二十代半ばの頃である。晩年の、言葉は悪いが劣化具合は、才能の枯渇などではなく、理性による感情の抑制が効かなくなったゆえかもしれないことに思い至った。評伝に語られる「いったん怒りはじめると何時間も止まらず、あるとき目の焦点が自分を通り越して別のところにあるのに気づいてゾッとした」という内容(秘密にしておいてやれよな……)とも符号する。小説に関して周囲の指摘はいっさい聞き入れなかったというから、いったん自制を失えば、「弥勒」の文体が彼女の生来だったということだろう。ここまで書いて思い出したが、栗本薫をリアルタイムで追いかけなくなったのは、少年愛に関する文章の中でスラムダンクをバレーボール漫画だと断言しているのを読んだことがきっかけだった。怒りに満ちた焦点の合わない目で、編集者のおずおずとした指摘に「ママイキ!」と口角泡とばす場面を想像すると、苦しくなってきた。そういえば、小説道場でも「編集者風情が人様の文章を校正してんじゃねーよ。だれにでも間違う権利があんだよ。次に同じことをしやがったら、もうオマエんとこには書かねーからな」みたいなことを言っていたな……そうやって協力者だった人たちを敵に回していったんだろうな……。とはいえ、御大の文体とふるまいに多大な影響を受けているnWoも、人のことはまったく言えないのである。「無視もしにくいが、関わるとめんどくさい。黙って放っておけば、いずれその性格の難から自滅して消えるだろう」といった態度を取られている現状へ、御大の「私は文壇から無視されている」発言をオーバーラップさせて、いまさら身につまされている次第である。

ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


映画作りの下手な怪獣オジサンによる、このジャンルがなぜ衰退してしまったかを余すところなく説明するB級、いや、C級作品。三十年前でさえ古臭いガイア理論(キミら、ホンマ好っきゃな~)をテーマに、家族と地球の命運が並走するアメリカ版セカイ系の支離滅裂なシナリオで、みんな大好きケン・ワタナベを筆頭とした出演料が安いことがキャスティングの理由であろう錚々たる大根役者たちが繰り広げる壮大な学芸会。映画全体の三分の二、下手すると四分の三が神妙な顔のクソ演技(特に主役の白人男性がひどい)をドアップで見せられるものだから、開始1時間でもう劇場を出ようと腰を浮かせかけたくらいだ。本作がシン・レッド・ライン以来の不名誉な二作目とならなかったのは、前の席の兄ちゃんがほんの数秒差で席を立って出ていったのへ鼻白んだからに過ぎない。特にひどいのは登場人物の感情の流れが、ほんの数分のシーン内でさえ一貫性と連続性を保てていないところだ。これを言うとまたドぎついストーカーを招きそうでイヤだが、カイジュウやロコモーションを偏愛するようなある種の人々は、他人のエモーションの感知について致命的な問題を抱えているのではないかとの疑いを強くした次第である。あと、熟練のテロリスト集団から安々と最重要機器を盗み出したばかりか南米の山奥っぽい基地からボストンの野球場へ瞬間移動までする謎ビルドのジャリとか、ドローンの電子機器をクラッシュさせるほど強い放射能の中でボッ立ちできるほどビルドの極まったアジア人男性とか、ツッコミだすときりがない。それと気に食わないのが、小賢しげな中国出資枠のこの女優……え、チャン・ツィイー? これチャン・ツィイーなの? マジで? クルーエリティ・オブ・タイム(初恋の来た道をザリガニ・ムーブメントで後退していきながら)!

メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズにまったく思い入れのない小生が、前作を数十回はリピートしている年季の入ったファンであるところの家人どもと共に視聴をしたのが、間違いであったやもしれぬ。最初のうちは、いがらしゆみこ作画で「リメイクじゃなくて続編なんだー」「ここ、前作のあの場面を意識してるよね」などとキャッキャ・ウフフ状態だった家人たちは、ストーリーが進むにつれ、次第に不機嫌そうに腕を組み始め、原哲夫作画の渋面となっていった。「前作と違って耳に残る魅力的な曲がひとつもない」「わざとクロマキー感を残している合成があざとくてイヤ」「エミリー・ブラントの演技プランがダメ。ジュリー・アンドリュースの魅力の足元にも及ばない」「後半のミュージカル群舞だけど、ディズニーランドに舞台ごと移設しての再演を目論んでいるのがミエミエで鼻につく」「感情面で機能不全を起こした家族をメリー・ポピンズが救うというのが前作。今回の家族は金銭面でしか問題を抱えていないので、わざわざメリー・ポピンズが救済する意味がない」「そもそもメリー・ポピンズの魔法は子どもにしか見えないはず。メリー・ポピンズの魔法によってまず子どもたちが変わり、その子どもたちに影響を受けて大人たちが変わっていく。大人たちに魔法が見えてる時点で、この監督はメリー・ポピンズの何たるかが分かっていない」―ー坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、それはもう聞いているこちらの肩身が狭くなるほど、クソミソの大批判大会と化していった。私にとってはごく標準的なミュージカル作品のひとつとしか映らなかったため、ロブ・マーシャルに親を殺されたかのように繰り広げられる悪口雑言に、正直ドン引きした。しかしながら、ライアン・ジョンソンやカントク(Cunt-Q)の作品をけなすときの自分の姿は客観的に見ればこんな感じであろうなと、己の行状を深く反省させられた次第である。あと関係ないけど、エミリー・ブラントってバーチャファイターみてえな顔してるよな。

アヴェンジャーズ・エンドゲーム


アヴェンジャーズ・エンドゲーム


キャプテン・アメリカなくばMARVELなく、アイアンマンなくばMCUなく、ロバート・ダウニーJr.なくばアイアンマンなし。これは、2人のヒーローと1人の俳優のために作られた最後の花道である。本作はアベンジャーズという作品タイトルとともに、自国の内へ内へと後退していく米国の正義を批判する作品として読むこともできようが、製作サイドの同意を得ることは難しいに違いない。悪の説くジェノサイドの大義へ、ただただ否定をしか返せない正義、悪を止めるためにする悪の方法を完璧にトレースしたジェノサイド返しは、異なる価値観同士の融和を完全に拒絶し、すべてを家族サイズの同胞へとシュリンクする。象徴的なのは、悪のボスが云う”I’m inevitable.”に対して、正義のリーダーが”I’m *pause* Ironman.”としか返せない場面だ。悪には明確な信念と哲学があるのに対して、正義には同胞を殺されたゆえの曖昧な報復(Avenge)しかない。”I’m Ironman.”は十年にわたりシリーズを追いかけてきたファンにとっては充分に感動的な台詞だが、シリーズの厚みを除いて聞けば、哲学を持ちえない現代の正義の虚しさのみを響かせている。飽和爆撃で肉を砕いた後に、バーガーとシネマで心を屈服させるという勝利の方程式は、もはやこの世界において有効ではないのだ。個人的なことを言えば、なんとかアメリカと聞けばチーム・アメリカが真っ先に浮かぶ小生にとって、”inevitable”という単語は北の総書記が白人女性にディスられるシーンを思い出させる笑いのツボであり、シリアスなはずの件の場面は脳内において「ぱーどんみー?」の幻聴を伴うコントに転じてしまった。あと、10連休の大半をグリムドーンに費やしてきたせいだろう、豪華な、しかし、地球上のどこで戦われているかさっぱりわからないアクションシーンを見せられても、心に浮かぶのは「雷ハンマーと盾投げのビルドはアルコンかな、やっぱピュアキャスターは防御が紙になるよな」といった感想であった。それと、兄が妹に王座を譲るとか、白人が有色人種に国の象徴を預けるとか、政治的に正しい(と信じている)メッセージをサラッと刷りこんでくる「ディズニー仕草」には、スター・ウォーズ7からこちらもういい加減、食傷の極みである。もっとグチャグチャの泥仕合みたいな、ドぎつい本音と偏見と差別の応酬の果てに、何かきれいなものが生まれる様をこそ見せてほしい。この意味において、ランスシリーズとその最終作は作劇の方法論と、たぶん倫理観において、マーベル・シネマテック・ユニバースに勝るとも劣らぬ大傑作だと言えよう。にもかかわらず、本邦のこの偉大な達成に対して、私の観測範囲ではひとつの評論も、ひとつのインタビューすら見当たらない。これが20年前なら、ランスシリーズ完結に仮託して、誇大妄想と表裏一体の社会批評をぶちあげただろうあの連中は、いまや己の出自を恥じるかのように、軒並み政治やらアカデミックやらへ遁走してしまっている。(アンクル・サムの指差しポーズで)そこの若い君、ランス10の評論で、かつてのテキストサイト村の住人のように名をあげてみないか。ぜんぜん話は変わるけど、インフィニティ・ウォーのときも感じたんだけど、カメラが引いたときに画面がすごくミニチュアっぽくなるのはなぜなのか、有識者のみなさんは私に教えてください。

MMGF!!AVANT 1(冒頭5,533字)0629版

 ペルガナ市国は半島の先端、ペルガナ史跡群と呼ばれる古代遺跡を覆うように成立した国家である。「鋤を入れれば遺跡に当たる」と言われ、古代遺跡をそのまま住居とする一帯も見られる。観光と学術研究がペルガナ市国の主産業であり、ふんだんに与えられた過去の遺産が国民の気質を穏やかにしている。
 半島の先端から海岸を沿って、二本の街道が伸びている。それらは市国の市街地を貫き、行政府であるブラウン・ハット頂点とした山型に折り返しており、本来はひとつづきのものだ。だが市国の住民は特に、東の海岸沿いを走る街道をエイメス、西をイムラーナと呼称している。刃一枚さえ通さないほど精緻に組まれた石畳の街道だが、敷設の労を担ったのは市国民ではなく、やはり古代人である。
 そして、街道をなぞるように進む馬車が一台。
 まわりくる轍に小動物は逃げ隠れ、昆虫たちはひき潰される。だとしたら、ぼくは虫けらとあまり違わない。そして、虫けらと大して変わらないのに、いまやおまえはずいぶんと世界を救う気じゃないか。
 窓の外へ視線をやると、昼の光の下でなお黒く見えるほどに緑の深い広葉樹が枝を密集させているのが見える。ペルガナ市国が永世中立を保つのに大きな一役を買う、通称「黒い森」だ。
 鳥の視点からペルガナ市国を北上してゆけば、ひとつであったふたつの街道がみるみるお互いに離れていくのがわかるだろう。まるで、半島の中央にくろぐろと広がる深い森をきらうかのようだ。
 黒い森が街道を覆いつくしてしまわない理由はふたつある。ひとつは、森の背をわずかまたぎこす高さで立てられた監視塔、通称「やぐら」だ。市国警備隊が巡回と斥候を行う戦術的拠点(便宜上は)であるが、実際のところ数百年もの平穏が続く中で、隊員たちの主な仕事のひとつとなった草むしりが存外、森の侵食を防ぐことに役だっているらしい。
 なぜそれがわかったかと言えば、史学科と生物学科のハイキングを兼ねた共同研究――あるいは共同研究を兼ねたハイキングというべきか――の成果である。学科長会議でこの発表が行われたとき、数秘学科の某メンターは烈火の如く怒った。
 「学園の学際的発展を切に願い続ける一方で、共同研究の名目を借りて論文にも満たぬ感想文を学科長会議へ提出する蒙昧ぶりには極めて深刻な遺憾を呈さざるを得ない。だが、学科の思想的独立へ踏み込んでまで、この感想文の価値を論議するつもりは毛頭無い。問題は、この日の昼食代が各学科づきの予算ではなく、国庫支出に該当する共用費へ計上されていることだ。再度確認するが、この感想文の学術的価値について私は何か批判する立場にない。だが、この紙きれが背任収賄を隠蔽するためだけにここへ提出されたと仮定するならば、話は全く変わってくる」
 ぼくは思わず噴きだしそうになった。この男の舌鋒の鋭さは、事の大小なんて全く関係がないのだ。できるだけ姿勢を正したまま、膝に爪を立てて神妙な表情を保とうと努力する。
 というのも、ペルガナ市国全体を巻きこんだ、とある大きな出来事からこちらというもの、会議中にみじろぎひとつでもしようものなら、皆の顔がいっせいにぼくの方を向くようになってしまったからである。
 先日も旧棟の補修工事にかかる補正予算の審議中についあくびをしてしまい、全くつつましやかに妥当なその原案が否決されるという椿事があった。ぼくはあわてて動議を出して再投票からの可決に落ち着いたが、そのときの某メンターの形相はすさまじいものだった。ぼくに訪れた感慨は、こうだ。
 ああ、こうやって独裁制は始まってゆくのだなあ。
「ともあれ、学園の版図は武ではなく知によって広がるべきだと考える。我々は、他の土地へ拡充するのではなく己の精神をまず拡充するのだ」
 この件以来、危機感を強めた某メンターは、発言の最後へ常にこの言葉を付け加えるようになった。ぼくと学園長へ順番に視線を送りながら、である。やれやれ。あのできごとはぼくにとってすでに遠い昔のように霞んでいるのに、周囲の見方はどうやらそうではないらしい。
 ふと、鼻腔を潮風の匂いがくすぐる。黒い森が街道を侵食しないもうひとつの理由だ。海と森、あと少しでもいずれかに近ければ、この街道は数百年という歳月を永らえなかっただろう。偶然ととらえるか、人の叡智ととらえるか。ぼくは両方だと思う。いつも人に優しいわけではないこの世界で、真空のように人が生きる余地を切り出すのに、どちらが欠けてもいけない。
 轍が小石を噛んだのか、馬車は大きく弾む。ぼくの肩に頭を預けたまま眠っていたスウを、そのまま胸元に抱きとめる格好になった。腰に回した手に伝わるほっそりとした感触とは裏腹の量感にうろたえる。
 純粋な知的好奇心に促され、進行方向とは逆の、幌の外へ視線をやるふりで、量感の正体を実地検分しようとしたそのとき――
 「よく眠ってますね。よほど安心しているんでしょう」
 落ち着いた声音に、自分の置かれた状況を思い出した。ぼくの向かいには、豊かな白い髭をたくわえた老人が腰かけている。
 『学園長は国王』の言葉が体言する決裁権を一手に握る、事実上のペルガナ市国最高権力者、正にその人と旅程を共にしているのであった。
 ぼくはひそかに唾を飲んで、若干の声音を作る。
 「しかし、これでは護衛になりませんよ」
 「君さえ起きていれば、全く問題ないでしょう」
 穏やかな微笑みが示すのは、揶揄か、皮肉か。どうやらどちらでもないらしいのが、ぼくにとってすごく重いところだ。
 「それに、到着前に二人きりで話をしておきたかった。評議員会の耳に入ると少々まずい部分もあるのでね」
 この非才の持ち物で最も有用なものが、空気を絶妙に読む能力である。学園長は、隣に眠る少女のことを言っているのだろう。スウは、評議員の娘である。
 ぼくは、内面のさざ波を隠そうと表情を作る。けれど、それはわずかにこわばったに違いない。
 「いや、君のプロテジェを貶めようというわけではなかった。もしそのように聞こえたのなら、すまない」
 老練な最高権力者は、隠そうとした感情にさえ先回りをした。ぼくは肩から力を抜く。この人物に、かけひきや隠しごとは無しだ。
 「ご心配になっているのは、評議員会で私が行う報告についてでしょうか」
 「それもありますね」
 学園長は白い髭をゆっくりとしごきながら、完璧に抑制された微笑でうなずく。
 「あの事件の真相に最も近いメンターとして、召喚されたと聞きました。ですから、私情や憶測をはさまず、事実として確定している部分だけを話すつもりです」
 「君が提出したレジュメは、読ませてもらいました。報告があの通り行われるならば、何ら問題はありません」
 ただの確認と思わせるさりげなさの裏には、静かな圧力がある。
 「ただ――」
 言いながら、白髪の下にある眉間が、ふっと曇った。
 「こちらが節度を保っても、相手の出方がそうならない場合は往々にしてある。特に、権力の位置関係がはっきりしているときにはね。イレギュラーな展開も想定しておいた方がいいでしょう」
 数百年の昔、学園設立の基盤を作った7つの素封家からの代表が、評議員会を構成している。大元の2つはすでに血筋が絶えているが、常に7という数字を保つように、随時補充される。
 聞いたところによると、どうも名家のプールのようなものがあるらしい。立身し財を成した人物が最後にたどりつくのは、芸術であったり教育であったり、より抽象度の高い「上品な」社会貢献である。学園の運営に、お願いしてでも金を積みたい層は少なくないのだ。
 ペルガナ学園は研究機関として、思想的な独立を得ている。しかし、それが経済的な独立につながるかどうかは、また別の話である。要するに、評議員会とは学園にとっての巨大なパトロンなのだ。学園長が示唆しているのは、その隠然たるパワーゲームのことだろうか。
 「今回の一連のできごとは、君にとって今後の立場を決める非常に大きなものだったろうと思います。しかし、それはまた、学園を預かる私にとっても非常に大きなことでした」
 買いかぶりだと思う。同時に、買いかぶりという表現で己の能力に見合った責任から逃げているのだ、という気分にもさせられる。学園長の言葉は水のようにさりげない。そのくせ、実はわずかの粘度を伴っていて、知らず心へまとわりつくのだ。ぼくの軽口とは言葉の質が違う。意思を通わせること――つまりは人間というものを信じていることから来るのだろう。
 「私は、半世紀近くを学園に捧げながら、その潜在力を不当に低く見積もっていたことを思いしらされました。これは、私自身の来歴に由るところも小さくないのでしょうね。まるで年端のいかない子どもを庇護するように、学園を庇護してきた。もしかするとそれは、間違っていたのかもしれません」
 ふと学園長の表情から、微笑が消える。そしてぼくは、生じた変化へ吸い込まれるようにその人を見た。
 「君は、学園の閉塞した状況に選択肢を与えてくれたのです」
 そこへ現れたのは、湧きでる清水の如き静かで深い活力。
 長く学園を運営してきた、絶え間ない克己と精神力の源。
 ぼくはただ、視線を外さないようにするだけで精一杯だった。そんな様子に気づいたのだろう、学園長が目元をゆるめる。どっと汗が吹きだし、ぼくは解放される。
 「こと理不尽な何かに相対するとき、実際に行使するかは別として、選択肢を持っているかどうかは非常に重要なことです。切り札、と言い換えてもいいでしょう。もちろん、いかなる理不尽にも理性で処するべきですが、理性の裏へ理不尽をはらませることができれば、望む局面へ相手を誘導することも容易でしょう」
 わからない。おそらく、わざと焦点をぼかすことで解釈を引き出し、ぼくの思考を探ろうとしているのか。逡巡さえ、情報になる。ならば、考えても仕方があるまい。
 ぼくはずばり切り出した。
 「その選択肢とは、メンター・スリッドが危惧するような内容をおっしゃっているのでしょうか」
 学園長は、プロテジェの優れた答えを聞くときのメンターのように、優しく目を細める。しかし同時に、この笑顔は隠蔽や拒絶の意味を含むことがあるのだ。
 「学園が装う永遠に続く平穏は、見かけほどは磐石ではない。そして、つきつめられた自由ほど人を堕落させるものもない」
 投げかけた質問への返答は、巧妙に回避されたようである。
 「ですが、こうも考えるのです。自由を維持されてこそ、人は最も尊い成果を生むことができるのだと。陥りがちな二元論の狭間で、どこまでいずれにも染まらずにいられるかを追求したいと思っているんですよ、私はね」
 もしかして、いまのは某メンターについての人物評も含んでいるのかな。
 「元より、我々は皆、学究の徒として学園に奉職している。メンターとしての立場さえ、『教えるは学ぶの半ばなり』を実践するためです。誰も好んで、政治の方をやりたいわけではない。選ぶのではなく、たどりつくのです。研究者としての私は、まあ二流だった。少なくとも君のような才覚を発揮できたわけではなかった」
 習い性で口を開きかけ、つぐむ。これは告白だと気づいたから。ならば、ぼくの謙遜は余計だ。
 「けれど、学園を愛していました。いったいどこに、年齢も出自も異なる人々が、共に生きることのできる場所があるでしょうか。殴り合いの議論の後に笑って杯を交わす、私はこの闊達な気風がいつまでも廃れぬことを望んだのです。ただペルガナ学園である、というだけの理由でつなぎあわされた多種雑多な人々が、住まう場所を失い、世界の各地へと離散してゆく。その想像に、私は耐えられなかった。そうして、四半世紀――ただひとつの想いから始まった見よう見まねの仕事も、ずいぶんと板についてきた。まったく、人生とはわからぬものですよ」
 そして、話してしまったことを恥じるような、自嘲めいた微笑み。その気持ちをわかる、とは言わない。誰かの生き方をわかると思うこと、それは傲慢だ。
 「今回のできごとで――」
 だからぼくは、共感の言葉の代わりに、ただ自分の話をする。
 「学園の窮地へ接して、ぼくが感じたのは人の営みへの責任、市国の歴史への責任でした。自分よりも長く続く何かを、自分のてのひらの内で終わらせてはいけない、そう思ったのです」
 今度こそ――
 学園長は掛け値なしにプロテジェを褒めるときの、満足げな微笑みを浮かべた。
 「君は、私よりもずっと、組織の長としてふさわしい視座を持っているようですね」
 また、馬車が大きく跳ねた。
 「うぅん」
 ちょっとドキリとするような艶めいたうめきと共に、スウが目を覚ます。これで学園長との会話はおしまいか。
 「おはよう。よく眠れたかい」
 内心、少しがっかりするのを悟られぬよう、できるだけ優しく声をかける。起きぬけのスウは、なんだかまだ目の焦点が合わないみたいにぼんやりしていた。学園長は孫でも見るような好々爺の笑顔で、実際に孫ほども年の離れたプロテジェとメンターのやりとりを眺めている。
 「まあ、一番の問題が何かと言えば――」
 学園長は外へと視線をやりながら、釣りこまれそうなほど細く、深いため息をついた。
 「この世には悪が存在しない、ということでしょうね」
 視線を追って、御者の肩越しに外を見る。そこへ、盆地の傾斜へ沿うように、小さな町が石壁の内側へ包まれていた。
 「まあ、大した悪人だよ、あれは」
 学園長とぼくとスウの道行きから、話は少しだけさかのぼる。それは、体技科長の送別会とボスの復帰祝いをかねた宴でのできごとだった。
 バルコニーに身をもたせて、夜風に柔らかな金髪をなぶらせながら、少年の見た目をしたその人物は、盃を音高くテーブルに置くと、忌々しげにそう吐き捨てた。(続)

万引き家族


万引き家族


少女保護特区の最終話にも書いたが、個としてのヒトは神であり、神をヒトに抑制するのが家族や共同体である。そして異なる家族や共同体から離れたヒトたちを抑制するのが法である。家族や共同体の内側は本質的に法の埒外であり、さらに蛇足ながら現代の問題の多くは法が直接に神を裁くことから生まれているように思う。さて、本作のテーマは「誰も知らない」のそれを延伸ないし踏襲したものであるように感じる。前作のラストが血によらない新たな家族の誕生を予感させたのに対して、本作のラストは血のつながらない家族の解体であり、テーマの後退を感じた向きもあろう。話はそれるが、今回の子役たちが「誰も知らない」の子役たちとクリソツであり、ペド方面での監督のブレなさを実感した。そうそう、テーマの話だった。本作では老婆の死と逮捕後の展開において、「当事者に対する部外者のクソリプ」「お父さん、お母さんとは最後まで呼ばせない」「私たちじゃダメなの(親にはなれない)」「おじさんにもどるよ(父親をやめる)」など、物語的なカタルシスを徹底的に排除していく。しかしこれは、クソリプの部外者から犯罪行為の肯定と受け取られる要素を慎重に、注意深く排除したゆえである。そして、最後のカットで犯罪者に教えられた数え歌を歌いながらビー玉を拾い上げる少女の視線の先に、誘拐犯であり窃盗犯であり殺人犯である者たちが彼女を迎えに来る現実を、視聴する誰もが幸福な結末として幻視させられてしまうという点に、監督の意図が粛々と完璧に積み上げられていく怖さがある。観客たちの、弱き者たちの犯罪を肯定するその視点をもって初めて、この映画は完成するのだ。深い感情移入の後に、何も知らない連中の安全圏からするクソリプを浴びることで、見るもの全員を犯罪の当事者に共感させるという没入の深度は、監督の過去作のどれをも超える高みに達している。ただひとつ瑕疵を指摘するとすれば、ジェイ・ケー・リフレの下りであろう。松岡某演じる売春婦の膝枕を涙で濡らす吃音のキモオタとの交流は、かつてネットに存在した「善良な一市民」と名乗るテキストサイト運営者(よもや我々を捨て、実名でテレビ出演などしておるまいな?)が好んで使ったところの「レイプファンタジー」そのままと言える。逮捕後の展開において松岡某だけ扱いが雑なことも相まって、監督の趣味でこのシーンを撮ってる感が強く、本作からはひどく浮いた感じを受けてしまう。オーッ! ミーもマイセルフのブサメンをマイフィストでワンパンしてからオーバー・トゥエニィのジェイ・ケーもどきとタダマン、エー・ケー・エー、フリー・エフ・ユー・シー・ケーしたいヨー!

アリータ


アリータ


CGと世界観の表現はA級、シナリオと構成はB級。描きたい場面優先でつないでるもんだから、登場人物の行動原理がグチャグチャで、原作を読んでいないといったいだれがどういうキャラクターなのかさっぱりわからない。おまけに続編ありきのブツ切りエンディングで、一本の映画としての満足度も高くない。銃夢って、B級SFっぽい始まりから、少年漫画の王道を経て、「臓器のみならず脳さえ置換可能なら、意識と魂はどこに宿るのか?」という深い哲学へと至る、たった9巻に凝縮されたその「駆け上り感」が本質だと考えているので、個人的に本作はいいところなしであった。あとネットの顔文字が表すように、東洋は顔の上半分、西洋は顔の下半分が表情を読み解く上での主要素である。目を誇張したCGは東洋へ寄せていると言えるが、原作ファンとしてはアンジェリーナ・ジョリーばりのタラコ唇をCGにて移植して欲しかったところである。

ローマ


ローマ


一言で申せば、「この世界の片隅に・イン・メキシコ」。監督が過ごした幼少期を忠実に再現する前半の1時間はもうタルくてタルくて(タルコフスキーぽくてタルコフスキーぽくて、の略)、特に親戚の農場に出かけて山火事になるあたりはひどい睡魔におそわれた。しかし後半の一時間、市井の一市民が生活よりも大きな流れに翻弄される様子には、大いに心を動かされた。ネタバレになるが、「子を失ったのに、悲しむのではなくホッしている自分」に気がついて涙を流す場面には、久しぶりに強く文学を感じた。なに、ありがちな展開じゃないですか、だと? このブクブク肥満の、ヘラヘラ笑いの享楽乞食めが! 貴様らのような情報と地獄に飽食した、いわば性病持ちの年増処女どころではない、知恵もなく教育も与えられない若い有色の端女が、本来ならばたどりつかないはずの感情を、否応に体験させられたことが文学なのだろうが!