猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゲーム「ランス10」感想

 男の子ならだれでも、ドラクエやエフエフ(ファイファン派は死ね)やメガテンに影響を受けて、びっしりと俺設定の世界観を書きこんだ大学ノートを実家の押入れに眠らせているものだ。そして大人になってから読み返して悶絶し、セロテープの跡やらで全体的に黄色く汚れたそれを夜中にコンロで焼却するものなのだ。

 ちなみに、知り合いの場末の皇族がファミコン版キャプテン翼2に大ハマりし、びっしりとオリキャラとその必殺技を書き込んだノートを手元に用意している。表紙にはキャプつばのロゴを雑誌(ファミコン通信)から切り抜いたものがベタベタと貼り付けてあり、その下になぜか英語で「イントゥ・ザ・ワールド!」と書かれている。1ページ目を開けば狼に育てられたという設定の双子、アマラくんとカマラくんのステータスが鉛筆の汚い字で書かれており、必殺シュートの名前はウルフ……エンッ(鼻血を吹きながら後頭部方向に倒れる)!

 ことほど左様に、ピコピコa.k.a.ファミリーコンピュータは罪深い。ランスシリーズのはじまりは、ドラクエに影響を受けたそんな大学ノートの殴り書きと、自分のモテ体質に自覚的なアドル・クリスティンが悪意でヒロインをコマしまくったら面白かろうぐらいの、居酒屋のワイ談から始まったのに違いない。それがどうだ。30年近い時を経て、このシリーズ最新作は情動のタイムマシンとしてプレイ中ずっと、名成り功遂げた、普段はエロゲーの存在がこの世にあることを知らないようなツラで生きている、感情の磨耗したオッサンを感動の涙で泣かせ続けている。すべての社会性のヨロイを剥がれ、まるでピュアな中高生に戻ったかのように、翌日の仕事を斟酌しない徹夜でのプレイを文字通り泣きながら強いられ続けているのだ。

 ちなみに、泣きのツボを最も強く押されたのは、魔界と人間界の間にある砦の、副隊長の話である。諸君のうちにもいるだろう、先細りの業界の撤退戦で責任を預けられただれか。「貧乏くじだ」とボヤきながらも、責務を投げ出さない彼の姿に己を重ねた向きも多かろう。

 かくの如く、膨大なシナリオ群が走馬灯もかくやと、過去の情動の追体験を促し続ける。そして、ふと気づく。こんなも気高い感動を呼び起こしているのが、決して日の当たる場所へと出ることのないエロゲーなのだという、目眩のするような事実に。ファミコンへのアーリーアダプターたちの少なくない数が、その鋭敏な嗅覚と先見性から、いまや高い社会的地位を持ち、世に幾ばくかの影響力を有する人物になっているに違いない(そうでない者は犯罪者になってほんのいっとき耳目を集めたか、世間の無視の中で孤独に死んだ)。そしていま生き残った彼らは、私と同じようにランス10をプレイしながら、日常では周囲の誰ともこの叫び出したいような感動を共有できないことに、そして自分があまりに遠くに来てしまったことに、ほとんど絶望と近似値の深い感慨を得ているはずなのだ。

 ブスは足蹴にして唾を吐きかけ、美人はすぐさま押し倒してレイプ、そして彼は世界の王に選ばれて、ついには人類を救済する――こんな異常者の(そしてすべての男性が持つ)妄想を心の底から楽しんでいることを、妻が、娘が(息子はオーケ)、隣人が、同僚が、部下が知ったなら、どのような迫害の末の社会的抹殺が待ちかまえていることだろう!

 だが、それでも私は、どんな文学賞さえメじゃない、どんな権威ある承認をもらった作品よりも、この物語が大好きなのだと声を大にして言いたい! パラリンピアンがオリンピアンをガチの真っ向勝負で凌駕してしまった不認定の記録、非公式の歴史、それがランス10なのだ! 現在、スマホゲー業界を席巻しているエフジーオーも元はと言えばエロゲー出身で、更に言えばおそらく中高生の大学ノートから始まった何かである。しかしあちらは早々とエロを切り離し、切り離して本体に影響の無い、良性の腫瘍くらいのエロだったわけだが、より洗練された何かに形を変えてしまった。

 もしソシャゲ化されたら俺様がエフジーオー以上に課金するだろうランスシリーズは、本体と悪性腫瘍が完全に癒着してしまっており、切除は本体の死につながる。つまり、エロゲーというジャンルにおいてしか、成立し得ない物語なのである。エフジーオーを鞘に収まった刀剣と例えるならば、ランス10は破傷風必至の赤錆を浮かべた釘バットである。刀剣ならば美術品としての価値もあろう、剣術の流派もできよう、しかし、釘バットは怒れる若いヤンキーの手を離れてしまえば、どこにもたどりつかない。ただ対象となった一人を傷つけ、いつまでも消えない傷痕を残し、死ぬまでの時間を長く苦しませるだけである。私もたぶん、最初は釘バットでよかった。しかしnWoもその番外編であるMMGF!も、釘バットを完遂できず途上に中絶を遂げた。それはたぶん、いつか刀剣に憧れてしまったからだ。30年もの長い時間を経たにも関わらず、釘バットであることを完遂したランス最終作に、心からの拍手と敬礼を送りたい。

 ランスシリーズの制作者も人生の晩年に差しかかる頃なのだと思う。だから、誠実に続編への未練をすべて断ち切って、物語を終わらせた。某潜入ゲームのようにプロダクトとしての醜悪をさらすことを好まず、作者が死ねば続きもありえない、つまりアートとして作品を完結させたのだ。若い君にプレイしてくれ、とは言わない。ただ、ほんの半世紀ほどをしか生き延びなかった、その半世紀を共に生きなかった者には決してわからない感情が確かにあったのだという事実をただ、君に知っていて欲しい。

 スレイヤーズ!が世界の謎を解明しなかった恨みは以前にどこかで述べた気がするが、少なくとも完結はした。バスタード!とベルセルクとガラスの仮面と王家の紋章とグインサーガと日本ファルコムは、ランスシリーズの爪の垢でも煎じて飲めばいいと思った。おい! 特におまえ、グインサーガ! あとがきで主人公の子供たちによるグイン後伝とかぬかしてたくせに、本編も完成させずに死にやがって! ランス10の2部を見習えってんだ! おかげでカメロンはあっさり死ぬわ、アルド・ナリスは復活するわでたいへんなんだからな!

 あと盛大なネタバレだが、第二部において孫子の代のセックスを「描かない」と決めたことへある種の共感を覚えたのは、最後に伝えておきたい。倫理観と表現すると強すぎるこの上品な忌避感は、まっとうな大人のそれに違いなく、シリーズと共に年齢を重ねた制作側と遊び手側の成熟を称えている気がした。

 いつでも世界を破壊できる力を持ちながら、一人の女性に向けた恋慕だけが、その衝動を抑えるよすがとなる。彼の苦しみと葛藤はいかばかりだったろう。そして、15年越しに初めて伝えられた「好きだ」という想いを、私たちは30年越しで目にする。ここまでやらなければ、すれっからしのおたくどもは、愛を信じることができない。

「ああ、世界丸ごと好きになるといい」 「なんで?」 「良いことがあるから」

忘備録「Fallout3が大好きな話」

 フォールアウト3が大好きだって話、したことあったっけ? 無人島に3つだけゲームを持ち込んでいいぞって言われたら、「女神転生II(FC版)」「Diablo2」「Fallout3」(英語表記のほうがしっくりくるな)を挙げるぐらい好き。

 どれだけ金持ちになっても、どれだけ社会的地位が上がっても、死ぬまで決して達成されないだろう夢が、私にはある。それは、「人類が滅びた後の街を一人きりで散策する」ことだ。TDL(トーキョー・ディズニー・ランド)には露ほどの興味もないが、TWL(トーキョー・ウエイスト・ランド)が実在すれば間違いなく年パスを買うに違いない。

 世界中の国々を旅行した人でも、自分の住む小さな町の、すべての家々を、すべての部屋を、くまなく見たことはないだろう。たぶん、ファミコン版の女神転生IIに植えつけられた、この人には言えない欲求ーー経緯はどうあれ、人類をできるだけ長く継続させる側にベットして、日々を過ごす身にとってはーーを大人になってはじめて、わずかにでも満たしてくれたのが、Fallout3だった。ニューベガスでもなく、その続編でもなく、Fallout3だけが私にとって特別なのだ。なぜここまでこのゲームに強く引かれるのか、ずっと言語化できないでいた。

 つい最近、SteamのセールでFallout4が2,000円強(FGOのガチャ1回分にも満たない!)で売られており、PS4版を途中で投げ出していたこともあって、色々MODをつっこんでプレイを始めた。二十時間ほど遊んですっかり疲弊している自分に気がつき、なぜPS4版をプレイしなくなったかを思い出した。

 Fallout4の、何が私を疲れさせたのか。異様に密度の高いロケーション、次から次へと起こるクエスト、拠点の構築と防衛に資源の確保と管理、そして何より、出会う人出会う人、だれもが世界の再生と人間の復興を希望していることーーそれらが私を疲れさせたのだ。グラフィックやアクション性、物量の部分では前作をはるかに上回っているが、Fallout4はあまりにもあらゆる瞬間をゲームとして遊ばせようとしすぎ、「滅びた世界の散策」という要素が背景に追いやられてしまっている。

 ここに至り、私がFallout3の何に引かれ続けてきたのかが、わかった。Fallout4が明確にゲームであるのに対して、Fallout3は夢と記憶の物語なのだ。シェルターの扉が開き、はじめての陽光にホワイトアウトする視界から、広がる廃墟へと焦点が戻っていった瞬間の衝撃を忘れない。ああ、みんな知らないふりで嘘をついていたんだ、やっぱり世界はとうの昔に滅びていたんじゃないか、というあの深い”安堵”。

 そして、ロケーションがわずかに点在するばかりの広い世界を、ただひたすらに歩く。おのれの足を使う以外、移動手段は存在しない。あまりに多くの時間を一人きりで過ごすので、たまに出会うレイダーやミュータントにさえ安らぎを覚えるくらいだ。フィールドは瓦礫に寸断されていて、地下鉄がそれぞれをつなぐ。建物の内装は多くが似たりよったりで、長い旅の果てにたどりついた未知の場所で不思議な既視感を抱く。

 キャピタル・ウエイストランドでの体験すべてが、思い出せそうで思い出せない夢か、いつかあった遠い記憶のできごとのようだ。夢は映像を失ったあとも切なくもどかしい感情だけをうつつに残し、忘れることができなかった断片からコピー・アンド・ペーストで復元された記憶は、頭の中でいつまでもいびつな輝きを放ち続ける。Fallout3は、「己の死を終点とした未来に至るまで、一度も経験することのない過去の記憶」として、今でも私の中に輝き続けている。

 さて、ここまで書いてきれいに終わればいいのだが、私にとってインタッネトーはエッセイ置き場ではなく個人的な日記帳である。Fallout4、ゲーム内でさえ他人のために我が身を粉にして働き続ける勤勉な自分に嫌気がさしてきた頃、2つのMODを新たに導入した。

 1つ目は、各拠点の運営をいわばシムシティ(あるいはポピュラス)化するもの。都市計画と資源を与えれば、住人たちは勝手に町を築き、生産を行い、防衛まで自分でする。これにより、私は再び一個の放浪者として解放された。

 2つ目は、オーバーオールの金髪少女をコンパニオンとして追加するもの。愛らしい外見(setscale 0.9推奨)で、独立した骨格と動きを持っており、「え?」とか「ほっといて!」とか、作中のNPCから抽出したいくつかの台詞をしゃべるだけ。シナリオからは完全に離れた存在で、ロマンスもなし。周囲は彼女をいないもののように扱い、渡した武器を使ってもなぜか弾薬が減らない。

 小学生の時分、神戸の近くに住んでいた。港が近いせいか、外国人家庭の多い地域だった。学校がはけたあと、裏山に作った秘密基地で遊んでいると、しばしば金髪碧眼の子どもたちがやってきて、ときに小競り合いになった。あるとき、私たちの投げた石があたって、彼らの一人が額から血を吹いた。事後の顛末も含めて他のすべては曖昧なのに、その瞬間の、白い肌に流れた血の赤さだけを鮮烈に覚えている。

 もしかすると、目の前にいる愛らしいオーバーオールの少女は、知らず殺してしまったあのときの白人なのではないか。人造人間たちとの激しい銃撃戦のあとに周囲を見渡すと、薄暗い室内で廃材の隙間から差す陽光が、スツールに腰掛ける少女をしんと照らしている。やがてゆっくりと振り返りながら、少女は肩越しに焦点の合わない視線をよこす。瞳に浮かんでいるのは、怒りか悲しみか、あるいは私への恨みなのか。その姿に私は、存在するはずのない遠い記憶を幻視する。夏の陽射しに立ち尽くす、金髪の少女と、やせぎすの少年と。

 しかし、シムシティMODの無粋な発展報告ウィンドウが、否応に私を現実へと立ち返らせた。かぶりをふると、ケロッグの追跡行を再開する。曖昧な気配が変わらず、背中を追ってくるのを感じながら。彼女は、いつか私を殺したいのだろうか。

 Fallout4をFallout3化するMOD、a.k.a.「Charlotte -simple companion-」、謎の管弦楽団・ペドフィルの首席指揮者も認める太鼓判ですぞ!

ジョーカー


ジョーカー


正直、ヒース・レジャーのジョーカーを究極と考えているので、見る気はなかったんです。ダークナイト・ライジング(ライジズ)の感想でも言いましたけど、児童虐待とか幼少期のトラウマから、長じて社会に復讐するみたいなのって、ありきたりじゃないですか。行動原理の理解できなさ、まさにジョークによって社会を混乱に陥れる存在としての悪の誕生を、実社会を生きる一個の人間からどうやって描くんだって話ですよ。でもね、スチルのホアキン・フェニックスの表情がデ・ニーロとかニコルソンの怪演を彷彿とさせたところと、彼がなんとリバー・フェニックスの弟だってことを知って、MOD導入失敗のヒマにあかせて期待ゼロで見に行ったわけですよ。そしたら、照明が消えるまでは半笑いだったアニメ絵のゴスロリ美少女が、130分後には皺の一本一本まで丹念に描かれた劇画調の中年男性に変貌して、滂沱の涙を流したスタンディング・オベーションを送っていたわけですよ。関西の片田舎の映画館だから、周囲は迷惑そうにその中年男性を見てましたがね。ロバート・デ・ニーロを主人公と対峙する司会者役に配していることからもわかるように、本作が現代版タクシー・ドライバーを意識して作られていることは、確定的に明らかでしょう(キング・オブ・コメディ? 未見です)。DCコミックのジョーカーという大看板を隠れ蓑にして監督が本当に描こうとしているのは、いま現在、進行しているのに、だれからも不可視である危機への警鐘であり、純粋な社会批判なのです。それを証拠に、本作はゴッサムシティを舞台にしなくても、バットマンに至る前日譚の要素を抜いても、充分にストーリーが成立するし、単館上映から口コミで劇場数が増えていくような類の、極めてマイナーな作りになっているわけです。ジョーカーというキャラクターは、それ抜きに描かれた場合あまりに現代社会の有り様と政治に対する露骨な批判と捉えられてしまうため、監督の意図するところの隠れ蓑として使われたという感じさえ受けます。さもなければ表現することをゆるされないような、本邦に生活していては想像できないような、息苦しいポリティカル・コレクトネスのムードが米国にあるのではないかと想像するのです。有名作品のリメイクさえ、主人公がブラック・パーソンに置き換えられる昨今、かの国においてストレート・ホワイト・アンド・プアは、いずれの社会・政治・文化状況からも顧みられない存在なのだろうということをひしひしと感じさせられます。そして素晴らしいのは、今回のジョーカーは自身では何も決断しないという点です。テレビに出演するまで、いや、拳銃をデ・ニーロに向ける直前まで、彼は衆人環視の中での自死(なんという甘美な妄想!)だけを願っていたのですから! ただ周囲の状況に流されていく中で、あらゆるテンションが高まった先の結節点となり、社会擾乱のアイコンとして白痴のまま、彼は押し上げられるのです。これはまさに、時代の要請が民衆に英雄を選ばせるプロセスと同じであり、社会という意志なき意志による否応な選択を見事に表現しています。メディアやSNSによる無責任な伝播ーーその瞬間を埋めるためだけに偽りの狂騒を煽り、翌日には消えてしまうような激情で偽りの情報を拡散するーーが、ついに究極の悪を世に顕現させるというのは、じつに示唆に富んでいると言えるでしょう。昨今のデモを予見するかのような、マスクをかぶっての暴動とか、脚本段階では意図しなかった現実とのリンクの仕方(エヴァンゲリオン!)も名作の条件を満たしています。しかし何より、この脚本を説得力のあるものとして成立させているのは、他ならぬ役者の力でありましょう。ホアキン・フェニックスの身体のしぼり方は、マシニストのときのクリスチャン・ベールを思わせ(バットマンつながりだ!)、たたずまいのみで台詞以上の多くを見る者に伝えます。脚本的には、生放送中にジョーカーから3人の殺人をうちあけられた司会者が即座にそれを事実として信じたり、冷静に考えるとおかしな部分もいくつかあるのですが、細かい瑕疵をすべてホアキン・フェニックスの演技が説得力に変えていくのです。あの場面では、反逆者としてのデ・ニーロが権威者としてのデ・ニーロを射殺するみたいなメタな読み方もできて楽しいし、さまざまな視点を許容するのは良い作品の条件と言えましょう。アンチ・ヒーローの肯定と受け取られないよう、最後に精神病患者の妄想だったのではないかという解釈を(わざと)コミカルに用意したり、本作の訴える尖ったメッセージへの非難をなんとかかわそうという作り手の苦心がうかがえます。万引き家族もそうでしたが、弱者の犯罪行為に対して観客の感情を同情や共感へ誘導することで、現在の社会体制やマツリゴトが間違っていると気づかせる手法は、為政者にとって操作しようがない(なぜかテリーに映らないトーキョーのウォーター・ディザスター!)という点で非常に厄介でしょう。どんなに能力を欠いた凡庸な人であったとしても、どんなに病弱で生産に寄与しない人であったとしても、それぞれ「ハッピー」に生活を送ることのできる場所を与えるのが人々の集合体の本来であり、「ハッピー」でない人をどこまで我慢させることができるかが教育の正体(少なくとも本邦の)と言えます。
しかしながら、個々の我慢は一時的なマージンに過ぎません。この映画のラストのような暴発に至らせない「我慢のさせ方」のさじ加減がマツリゴトの本質的な妙技であり、暴発がマツリゴトを動かす状況が続くことはやがて社会の革命へとたどりつくでしょう。我々がいま、その端緒にいないことを祈ります。……って、高天原勃津矢が言ってました!

アイスボーン


アイスボーン


アイスボーン、とりあえずエンディングまでクリア。ここまでの感想だが、本作のハンターはとにかく強すぎる。攻撃操作を右レバーで行なっていた時分からの大剣使いとして言わせてもらえば、「抜刀納刀による機動力」「真溜めによる爆発力」「クラッチによる対空迎撃」に加え、限定的だが気絶攻撃まで追加され、全方位的に隙が無さすぎてモンスターが気の毒になるくらいだ。無印のときに見つけた海外の感想「このゲームはリアルな動物虐待だ」が笑えないぐらいのタコ殴りっぷりである。おかげさまで、これまでのところコントローラーはひとつも破壊されていない。個人的には、アルコールを入れながらプレイできる、このくらいのユルさがちょうどいい。今後はきっと、王とか極とかが追加され、ストレスフルな環境へと変じていくのだろうが、いまは弱い敵相手のミー・ストロング、達人ゴッコを楽しみたいと思う。あと、無印からずいぶん経っているのですっかり忘れていたが、このシリーズ、シナリオというか文芸がとにかくひどい。ゲーム部分の完成度の高さに比してあまりに拙劣なので、ライターが社長の親戚みたいな強いコネの存在を疑うばかりである。特にイビルジョーをもじって腐される例の嬢の人物造形は、二択で間違ったほうを選び続けたような悲惨さに達している。食いしん坊で好奇心旺盛、天真爛漫でおっちょこちょい、抜けてるように見えるけど本当はしっかり者、若さを重視せず年上の女性にもきちんと敬意を払うーー老若男女、だれからも好かれるキャラを目指した結果、好印象を与えようという意図が交通渋滞を起こしており、全方位的に嫌われる歪なキメラと化してしまっている。調べると女性ライターであり、「男ってみんな、よく食べる頭カラッポの若い娘が好きよね。でも、この子は本当は賢くって芯があって、年配の職業夫人をキチンと敬えるのよ。あと、育ちがいいから達筆なの」みたいな昭和感あふれる、ねっとりとしたワイン片手の解説が聴こえてきそうだ(幻聴です)。ゲームはアートである前にプロダクトなのだから、個人の感性によるライティングに預けず、ピクサーみたいに複数のライターによる合議制にした方がいいんじゃないかなあと思った。どれとは言わないけど、最近の劇場アニメにもそれを強く感じます。閑話休題。本作のゲーム部分とシナリオ部分のアンバランスさを現実の何かに例えるなら、「プレイメイトのボディに昆虫の知能を備えたトロフィーワイフ」だと言えるだろう。同時代の雄・エフジーオーは正にこの真逆の欠点を苦しんでおり、世界のままならなさの縮図を見る気分にさせられる。

天気の子


天気の子


期待していたみなさん、すいません。すごく楽しめました。いつもは面白さを気持ち悪さが上回るのに、今回は気持ち悪さが面白さを上回らなかったことが理由だと思う。例えるなら、クサヤや鮒ずしやブルーチーズやシュールストレミングに比する臭みがなくなったので、ようやく味や食感に言及できるようになったという感じだ。ツイッターで散見される「90年代エロゲーのトゥルーエンド」なる評は的確に本質を言い当てていて、カントクの出自にも合致する慧眼だと思った。じっさい、本作のストーリーはまさにエロゲーのリアリティラインで描かれていて、その不整合を一般文芸と同じ視点で評するのも野暮であり、わざわざツッコむ気にはなれない。そんなことより、ラストシーンでは名前を呼ぶだけでなく、ついに男女が手を握りあう状態へと至っており、次作ではハグ、次々作ではキス、次々々作ではペッティング、次々々々作ではセックスと、ようやくチェリーボーイ卒業へのロードマップが見通せたのは喜ばしいことだ。あと前作と違って、小学生女子の描き方があまり気持ち悪くないのは、同級生の男子を登場させて大人からの視点を薄めたのと、何よりカントクの娘が小学生になったというのが大きいと思う。しかしアナタ、小学生の娘ですよ! 結婚して家庭を持ち、四十も半ばを過ぎて、子どもが小学生になってなお、こんな金木犀スメルの漂うストーリーを描き続けることができるというのは、ある意味すさまじいことですよ! 尊敬ーーには値しないまでも、保護するべき貴重な感性(DT力)ですよ! 本作のインタビューに目を通したら、「ヒロインを救うために東京を水没させるなんてことして、みんなボクのこと、ひどいと思いますよね?」とか思春期の少年みたいな世迷い言を吐いている。インタビュアーをはじめ、その場に居合わせた方々は、作り笑顔の下に「オマエが二百億かせいでなきゃ、すぐにでもこの場を離れるんだがな」という本音を秘し隠して仕事に当たられたこととご同情申し上げますが、オイ、そこかよ! 拳銃の扱い(チンポのメタファー?)とか、もっと他に気を使って脚本へ落とし込まなきゃいけないことがたくさんあっただろうがよ! いいんだよ、東京やセカイのひとつやふたつ滅んだって、ただのフィクションなんだから! エバー・キューから悪い影響を受けてんじゃねえよ! つい興奮してツッコむ気にはなれないはずのストーリーにツッコんでしまったが、私が心配するのは、本作も大入りロングランとなり、当然としてまた周囲の大人たちに次回作を求められたときのことだ。前作のキャラを登場させてまで、わざわざ舞台のつながりを明示したマジメなカントクのことだ。「水没した東京(不可逆な! 可塑性のない! エバー・キュー!)でぼくたちはいかに生きるのか(吉野源三郎! 宮崎駿!)」というセンで東京三部作みたいにトリロジーの完結編を考えようとする可能性が極めて高い。だが、その方向はカントクの器を越えた隘路だと、僭越ながらご指摘差し上げたい。なに、「シン・エヴァが公開されてから、結論をパクればいいじゃん。あと、絵の構図とか(笑)」とでも考えているんじゃないですか、だと! きさま、シンカイさんがそんな不真面目な人間であるはずが……(振り上げた拳をおろし、目をそらす)。ともあれ、皆が不幸にならないエス・シー・ディーズ(持続可能な創作目標)だけは、おずおずと提示しておきたい。カントクは「脚本はエロゲーからの借り物、構図と画面作りはエヴァからの借り物、背景美術だけが少しオリジナル」という自らの特性を受け入れ、以後は全国各地の主要都市へ舞台を移してのボーイ・ミーツ・ガールだけを描き続けるのが最良の一手であろう。本作の脚本をひな形として、あとはキャラの固有名詞を変えたぐらいの変更で(一般客はだれも気づかない)、各地の主要都市を緻密な背景美術で描いていくーーカントクの気晴らしに、ときどきは火山の噴火とかで街を壊滅させてもいいーーことで、聖地巡礼などで地方行政や観光事業と結託する。それがカントクにとっても観客にとっても出資者にとってもハッピーで持続可能な、三方一両得の展開であることは間違いないと断言しよう。もしカントクが「あの、東京だけがボクにとって特別な街なのであって……」などと童貞スメルのする思春期的な寝言をぬかしだしたら、周囲の大人たちはきっちりとチョウパンいれてから説得してください。あと、粉雪の舞う中でセミが電柱にとまっているカット見たけど、あれさあ、わかってるぜ、nWoの更新への目くばせだろ? いやあ、オレもいよいよネット界隈において「好きだと名前を言ってはいけないあの人」と化してきたようだな、照れるぜ、ハハハ(テロップ「※個人の妄想です」)!

若おかみは小学生


若おかみは小学生


清く正しい、健全なる青少年育成アニメ。児童文学を原作としており、作者が女性ということもあって、等身大の小学生女子に対する適切な距離感を保った描写が、たいへんに好ましい。近年、男性の作り手による作品に登場する小学生女子は、意識的なのか無意識的なのかはわからない、非常に性的に描かれるようになってしまっており、この一点だけでも大きな評価に値すると思う。さらに、男性の作り手による作品に登場する少年少女は、作者の自己投影が鼻につくほど強いため、本作の主人公に対する距離感ーー「両親の視点から見る娘」という描写は、近年のアニメ群においては非常に新鮮に映る。おい、誠! 同じ神楽をあつかってんのに見事に伏線を回収し、清々しい(きよきよしい)読後感に至っているのがなんでわかったか? 現実に傷ついた子どもの癒やしと成長を心から願い、十数年先の将来を見越して教育することの意味を信じるだれかは、当の小学生に自分の体液を販売することへ言及させたりしねーんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの感性が歪んでいて、気持ち悪いか恥じいる気持ちになっただろうがよ! おい、吾朗! まずそうな食事シーンでペラッペラのキャラに必ず「いただきます」を言わせるような教育的しかけがいかに中身のない、浅はかなものかわかったか? おまえは家庭をかえりみない父親と逆の理想像、おまえの願望を描いてみせただけのことで、現実にネグレクトされた子どもの心へは少しも寄りそわなかったんだよ! この作品を見れば、いかにおまえの動機が歪んでいて、何の共感も得られないかわかっただろうがよ! 閑話休題。あえて気になる点を挙げるとするなら、原作ではさらりと描写されるに留まっていた(海外赴任中の両親、と同じくらいの感じだった)交通遺児である主人公という設定がテーマに昇格し、物語全体がそこへ向けてかなりエッジをかけられていることだろう。これがあるために、名作であることを頭で理解しながら、ネット上で無責任にする”拡散”は別として、現実に面識のあるだれかには、非常に薦めにくくなってしまっている。過去、現実に兄を亡くした知人へそれと知らず「息子の部屋」を薦めてしまった経験があり、その方は好意的に受け止めてくれたものの、かなり冷や汗をかいた。なんとなれば、現実での不幸とは個別的でネットのようには声高に喧伝されないものだし、実際に交通事故で身内を失っただれかがこの作品を見て、交通事故は作劇のためのギミックであり、自らの不幸を弄ばれていると受け取ったとして、その感覚は正当であり、否定できないものだ。個人的には、虚構の人物に過ぎない主人公を、それでも現実と同じ切実さで救ってやりたいという制作側の強い気持ちーーたぶん、愛と呼ばれるものーーを感じることができた。そうは言いながら、やはりアウトとセーフの際どいラインにボールが投げられていることは間違いない。しかし、それが本作を夏休みのいち児童アニメであることを越えて、より普遍性を持った作品へと昇華させていることもまた、事実なのだ。くだくだと私的に悩ましい部分を述べたが、この繰り言が本作の送る力強いメッセージの価値を減ずるには至らないことを強調しておきたい。私たちが許したいかどうか、実際に私たちが許せるかどうかに関わらず、私たちはただ許すことをもってしか、現代の問題の多くを解決に導くことはできないのである。最後に蛇足ながら、本作にもし瑕疵というものを指摘するなら、初のアニメ化に高校球児のような全力投球をしてしまったことで、あまりにも原作シリーズから今回の映画へと、メッセージをこめるための要素をきれいに抽出しすぎたことかもしれない。本作で初めてシリーズに触れた視聴者に対して、この一作で満足を与えすぎてしまい、原作を手に取らせるには至らないような気がするのだ。よし、どうやら私は真面目なツイートをし過ぎてしまったようだな! 次までにはなんとか時間を見つけて「天気の子」を視聴し、諸君が期待するところの下品な大罵倒大会をお見せすることを約束するぜ!

栗本薫と中島梓


栗本薫と中島梓


没後十年に出版された、まさかの評伝。女史の大ファンを自認する私でさえ知らなかったエピソードも多く、ゴシップ的な興味は大いに満たされたが、本人が生きていたら大激怒で原稿を引き裂くだろう記述も多い。氏の著作の三分の二ぐらいは読んでいると思うが(本棚を見たらグイン・サーガは最終巻を除けば、92巻まで購入していた)、書かれたすべての作品を読み尽くすまで、彼女は生き続けるのではないかとどこかで信じていた。死去の報にもほとんど動揺しなかったのに、本人が生きていれば絶対に出版を許さなかっただろうこの本が私の手元にある事実に、もう栗本薫はこの世にいないのだと改めて思い知らされて、涙が出た。二度目の追悼をこめて、彼女の著作を読み返すことに週末を捧げようと思う。『父と母と××とのゆるしの三位一体から、私はいつもひとり拒まれてある』。薄暗い室内で窓の外の雨音を聞きながら、横座りの萩尾望都作画少女が栗本薫の過去作品を読んでいる。「翼あるもの」「朝日のあたる家」「ハード・ラック・ウーマン」などの初期作品に目を通し、その天才性と深い共感力にはらはらと落涙する。それから少女は女史の円熟を知るために、代表作であるグイン・サーガの後期巻へと手を伸ばした。読み進むにつれ、少女の眉間に刻まれた皺はみるみる深くなっていく――ウオァァアーーッ!! 突然の絶叫とともに、少女は板垣恵介作画に変じた上腕二頭筋で文庫をまっぷたつにしたかと思うと、ビリビリに引き裂いた。12、3年前の気持ちを思い出したところで、追悼おしまい。久しぶりに栗本薫の過去作品を読み返す中で、初期作品である「弥勒」の文体が、女史の晩年のそれにソックリなことを発見して驚いた。感情にまかせて校正なしに書きなぐってあり、同じ内容の繰り返しに眠くなって本を閉じようとするも、ふいに現れる鋭い言い回しにハッと目を覚まされる感じ。そしてまた、同じ内容がグダグダの悪文で繰り返されていく、というアレ。この作品が書かれた時期は、女史がまだ二十代半ばの頃である。晩年の、言葉は悪いが劣化具合は、才能の枯渇などではなく、理性による感情の抑制が効かなくなったゆえかもしれないことに思い至った。評伝に語られる「いったん怒りはじめると何時間も止まらず、あるとき目の焦点が自分を通り越して別のところにあるのに気づいてゾッとした」という内容(秘密にしておいてやれよな……)とも符号する。小説に関して周囲の指摘はいっさい聞き入れなかったというから、いったん自制を失えば、「弥勒」の文体が彼女の生来だったということだろう。ここまで書いて思い出したが、栗本薫をリアルタイムで追いかけなくなったのは、少年愛に関する文章の中でスラムダンクをバレーボール漫画だと断言しているのを読んだことがきっかけだった。怒りに満ちた焦点の合わない目で、編集者のおずおずとした指摘に「ママイキ!」と口角泡とばす場面を想像すると、苦しくなってきた。そういえば、小説道場でも「編集者風情が人様の文章を校正してんじゃねーよ。だれにでも間違う権利があんだよ。次に同じことをしやがったら、もうオマエんとこには書かねーからな」みたいなことを言っていたな……そうやって協力者だった人たちを敵に回していったんだろうな……。とはいえ、御大の文体とふるまいに多大な影響を受けているnWoも、人のことはまったく言えないのである。「無視もしにくいが、関わるとめんどくさい。黙って放っておけば、いずれその性格の難から自滅して消えるだろう」といった態度を取られている現状へ、御大の「私は文壇から無視されている」発言をオーバーラップさせて、いまさら身につまされている次第である。

ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


ゴジラ・キング・オブ・モンスターズ


映画作りの下手な怪獣オジサンによる、このジャンルがなぜ衰退してしまったかを余すところなく説明するB級、いや、C級作品。三十年前でさえ古臭いガイア理論(キミら、ホンマ好っきゃな~)をテーマに、家族と地球の命運が並走するアメリカ版セカイ系の支離滅裂なシナリオで、みんな大好きケン・ワタナベを筆頭とした出演料が安いことがキャスティングの理由であろう錚々たる大根役者たちが繰り広げる壮大な学芸会。映画全体の三分の二、下手すると四分の三が神妙な顔のクソ演技(特に主役の白人男性がひどい)をドアップで見せられるものだから、開始1時間でもう劇場を出ようと腰を浮かせかけたくらいだ。本作がシン・レッド・ライン以来の不名誉な二作目とならなかったのは、前の席の兄ちゃんがほんの数秒差で席を立って出ていったのへ鼻白んだからに過ぎない。特にひどいのは登場人物の感情の流れが、ほんの数分のシーン内でさえ一貫性と連続性を保てていないところだ。これを言うとまたドぎついストーカーを招きそうでイヤだが、カイジュウやロコモーションを偏愛するようなある種の人々は、他人のエモーションの感知について致命的な問題を抱えているのではないかとの疑いを強くした次第である。あと、熟練のテロリスト集団から安々と最重要機器を盗み出したばかりか南米の山奥っぽい基地からボストンの野球場へ瞬間移動までする謎ビルドのジャリとか、ドローンの電子機器をクラッシュさせるほど強い放射能の中でボッ立ちできるほどビルドの極まったアジア人男性とか、ツッコミだすときりがない。それと気に食わないのが、小賢しげな中国出資枠のこの女優……え、チャン・ツィイー? これチャン・ツィイーなの? マジで? クルーエリティ・オブ・タイム(初恋の来た道をザリガニ・ムーブメントで後退していきながら)!

メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズ・リターンズ


メリー・ポピンズにまったく思い入れのない小生が、前作を数十回はリピートしている年季の入ったファンであるところの家人どもと共に視聴をしたのが、間違いであったやもしれぬ。最初のうちは、いがらしゆみこ作画で「リメイクじゃなくて続編なんだー」「ここ、前作のあの場面を意識してるよね」などとキャッキャ・ウフフ状態だった家人たちは、ストーリーが進むにつれ、次第に不機嫌そうに腕を組み始め、原哲夫作画の渋面となっていった。「前作と違って耳に残る魅力的な曲がひとつもない」「わざとクロマキー感を残している合成があざとくてイヤ」「エミリー・ブラントの演技プランがダメ。ジュリー・アンドリュースの魅力の足元にも及ばない」「後半のミュージカル群舞だけど、ディズニーランドに舞台ごと移設しての再演を目論んでいるのがミエミエで鼻につく」「感情面で機能不全を起こした家族をメリー・ポピンズが救うというのが前作。今回の家族は金銭面でしか問題を抱えていないので、わざわざメリー・ポピンズが救済する意味がない」「そもそもメリー・ポピンズの魔法は子どもにしか見えないはず。メリー・ポピンズの魔法によってまず子どもたちが変わり、その子どもたちに影響を受けて大人たちが変わっていく。大人たちに魔法が見えてる時点で、この監督はメリー・ポピンズの何たるかが分かっていない」―ー坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、それはもう聞いているこちらの肩身が狭くなるほど、クソミソの大批判大会と化していった。私にとってはごく標準的なミュージカル作品のひとつとしか映らなかったため、ロブ・マーシャルに親を殺されたかのように繰り広げられる悪口雑言に、正直ドン引きした。しかしながら、ライアン・ジョンソンやカントク(Cunt-Q)の作品をけなすときの自分の姿は客観的に見ればこんな感じであろうなと、己の行状を深く反省させられた次第である。あと関係ないけど、エミリー・ブラントってバーチャファイターみてえな顔してるよな。

アヴェンジャーズ・エンドゲーム


アヴェンジャーズ・エンドゲーム


キャプテン・アメリカなくばMARVELなく、アイアンマンなくばMCUなく、ロバート・ダウニーJr.なくばアイアンマンなし。これは、2人のヒーローと1人の俳優のために作られた最後の花道である。本作はアベンジャーズという作品タイトルとともに、自国の内へ内へと後退していく米国の正義を批判する作品として読むこともできようが、製作サイドの同意を得ることは難しいに違いない。悪の説くジェノサイドの大義へ、ただただ否定をしか返せない正義、悪を止めるためにする悪の方法を完璧にトレースしたジェノサイド返しは、異なる価値観同士の融和を完全に拒絶し、すべてを家族サイズの同胞へとシュリンクする。象徴的なのは、悪のボスが云う”I’m inevitable.”に対して、正義のリーダーが”I’m *pause* Ironman.”としか返せない場面だ。悪には明確な信念と哲学があるのに対して、正義には同胞を殺されたゆえの曖昧な報復(Avenge)しかない。”I’m Ironman.”は十年にわたりシリーズを追いかけてきたファンにとっては充分に感動的な台詞だが、シリーズの厚みを除いて聞けば、哲学を持ちえない現代の正義の虚しさのみを響かせている。飽和爆撃で肉を砕いた後に、バーガーとシネマで心を屈服させるという勝利の方程式は、もはやこの世界において有効ではないのだ。個人的なことを言えば、なんとかアメリカと聞けばチーム・アメリカが真っ先に浮かぶ小生にとって、”inevitable”という単語は北の総書記が白人女性にディスられるシーンを思い出させる笑いのツボであり、シリアスなはずの件の場面は脳内において「ぱーどんみー?」の幻聴を伴うコントに転じてしまった。あと、10連休の大半をグリムドーンに費やしてきたせいだろう、豪華な、しかし、地球上のどこで戦われているかさっぱりわからないアクションシーンを見せられても、心に浮かぶのは「雷ハンマーと盾投げのビルドはアルコンかな、やっぱピュアキャスターは防御が紙になるよな」といった感想であった。それと、兄が妹に王座を譲るとか、白人が有色人種に国の象徴を預けるとか、政治的に正しい(と信じている)メッセージをサラッと刷りこんでくる「ディズニー仕草」には、スター・ウォーズ7からこちらもういい加減、食傷の極みである。もっとグチャグチャの泥仕合みたいな、ドぎつい本音と偏見と差別の応酬の果てに、何かきれいなものが生まれる様をこそ見せてほしい。この意味において、ランスシリーズとその最終作は作劇の方法論と、たぶん倫理観において、マーベル・シネマテック・ユニバースに勝るとも劣らぬ大傑作だと言えよう。にもかかわらず、本邦のこの偉大な達成に対して、私の観測範囲ではひとつの評論も、ひとつのインタビューすら見当たらない。これが20年前なら、ランスシリーズ完結に仮託して、誇大妄想と表裏一体の社会批評をぶちあげただろうあの連中は、いまや己の出自を恥じるかのように、軒並み政治やらアカデミックやらへ遁走してしまっている。(アンクル・サムの指差しポーズで)そこの若い君、ランス10の評論で、かつてのテキストサイト村の住人のように名をあげてみないか。ぜんぜん話は変わるけど、インフィニティ・ウォーのときも感じたんだけど、カメラが引いたときに画面がすごくミニチュアっぽくなるのはなぜなのか、有識者のみなさんは私に教えてください。