猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「アステロイド・シティ」感想

 ブルーレイ版を買ったきり、「皿の上の好物は、最後まで残しておく」みたいな一種の精神疾患から、長く積んであったアステロイド・シティを、連休の隙間にようやく見る。なぜか小鳥猊下が、よりによってウェス・アンダーソン監督作品だけ、ザ・ロイヤル・テネンバウムズ以降、あまり内容を理解できていないにも関わらず、ぜんぶ見ていることは、すでに周知の事実かと思います。予告映像から事前に想像していたのは、アラモゴード近郊に建設された「原爆の町」における日常を描くストーリーで、オッペンハイマーをイヤイヤながら履修し終えたいまがちょうどいいタイミングだろうと再生を開始したのですが、悪い意味で期待を裏切られる結果となりました。「窓から身を乗りだして、キノコ雲のスナップ写真を撮る」という、ほんの数十秒のシーンだけが作品中における唯一のロスアラモス案件であり、アジアの悲惨をオシャンティに消費するその欧米仕草を目にした瞬間、脳の血液が沸騰するーーレフト村の同族殺しの抜け忍なのに、敵を前にしたときだけ、かつての記憶と両手に染みついた殺人術がよみがえるイメージーー感覚があり、これから記述する内容は「殺る気スイッチ」が入ったゆえの、一般性をいちじるしく欠いた放言かもしれないことを、あらかじめ公平を期すためにお伝えしておきます。

 ウェス・アンダーソン作品の持ち味って、非常にロジカルな部分と乾いたエモーショナルな部分が作中でずっとせめぎあいながら進行してゆき、最後にスクリーン上というよりは、観客の胸中で「エモが勝つ」ところだと思うんですよね。もう少し具体的に説明すると、カメラアングルと物語フレームがロジ要素で、色彩とシナリオがエモ要素になっている。本作においては徹頭徹尾、前者のエレメントが後者のそれを過半の分水嶺付近でまさり続けていて、同監督のファンが好む「なんか話はようわからんかったけど、ええもん見たような気がするわ」という読後感を、残念なことに大きく損なってしまっている気がしました。それもこれも、「隕石によるクレーター周辺に建設された核兵器の町へ、UFOに乗った宇宙人がやってくる(ネタバレ)」というストーリーラインが単純すぎると考えたのか、はたまたそれだけでは思ったほど面白くならなかったからなのか、おそらく追加撮影とパッチワーク的編集による「あとづけ」感の非常に強い、本来的には不要のメタ的な設定を導入したことが原因ではないかと推測します。「アステロイド・シティ」をかつて上演された演劇作品にみたてて、その制作秘話と舞台公演を行き来しながらストーリーを進めていくのですが、話の筋と客の理解がややこしくなるだけで、面白さの点はもちろん、ストーリーにいかなる深みも加えていないことは、大きな問題でしょう。

 演劇を意識した真横からの観客席アングルも徹底できておらず、UFOを真下から見上げてみたり、人物の表情をアップで写してみたり、「どっちつかずのふりきれていなさ」はとても気になりました。前作のフレンチ・ディスパッチにも感じたことながら、物語フレームの難解さが「難解になること」自体を目的としていて、謎解きによる収束や驚きの結末による構造からの解放をどうやら意図していない。個人的な体験を言えば、ダージリン急行のエンディングで持っていた荷物をトランクごとぜんぶ捨てて、汽車の最後尾にとびうつるスローモーションのシーンは、映画の内容すべてを忘れてさえ、非常に鮮烈なイメージとしていまだに脳裏へ焼きついていますもの! それが、本作のラストシーンで再登場する「タッパーウェアに納められた妻の遺灰」というあざといエモ小道具に対しては、意地悪く「こっちは熱線で蒸発して、壁のシミしか残せんかったけどなあ?」としか思わなかったのは、やはり題材と国籍と世代の食いあわせが最悪だったせいなのかもしれません。

 最後に白状しますが、ストーリーに入りこめなかった理由はもうひとつあって、「英語による高速かつ膨大な情報提示を、字幕ではフォローしきれない」という、主に個人的なリスニング力の欠如によるものです。もちろん翻訳担当が悪いのではなく、「機銃掃射みたいな高速ナレーションを聞きながら、文字のビッシリ詰まった看板から情報をスキミングする」ような状況に対応できる字幕なんて、この世には存在しないからです。まさに、シン・ゴジラが海外では流行らなかった理由を、別の視点から追体験させられているような状況なのでしょう(シドニィ・シェルダンかナツコ・トダによる「超訳」なら、あるいは……)。もしかすると、旧帝大卒の日英バイリンガルで平和教育のくびきから解かれた若い世代なら、アステロイド・シティをもっとも屈託なく知的に楽しめるのかもしれません、知らんけど。

映画「オッペンハイマー」感想

 大量虐殺を受けた側の部族の末裔として、もはや義務感から「見なきゃな……」と思いつつも、3時間にもおよぶ長丁場に二の足を踏みまくっていたのが、いよいよ近隣のハコではIMAXから上映を追いだされ、終映間近(マジか!)の気配がただよってきたため、イヤイヤ劇場へ向かうこととなった。この億劫さがどこから来ているのかと問われれば、小学生時分の夏休みに近所の生協の薄暗い2階会議室に集められ、なぜかあずきバーをわたされてから視聴した劇場アニメ「はだしのゲン」に由来するものであろう。腕の皮がベロベロになって垂れ下がる様子とか、とびでた眼球が視神経を引っぱりだす様子とか、インターネットの無い時代に行われる手加減なしのハードコア平和学習に、しばらくはソーメンが食えなくなったし、あずきの味はいまだに好きではない。公開初日にIMAXを利用する意識の高い客はもう軒並み履修を終えており、日曜の昼さがりにノーマルシアターへ足をはこぶような「民放で話題だったから」「原爆で戦争反対だから」ぐらいの感度しかないボンクラどもに囲まれながらの視聴は、最悪の4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーー体験だったと言えよう。この映画は、オッペンハイマーを公職追放へといたらせる聴聞会をストーリーの柱として、何度も過去と現在をザッピングで行き来する三幕構成になっており、ノーラン監督による編集の妙技で混乱なくスッキリと見れるのだが、「戦争は反対です。なぜって、戦争は反対だからです」a.k.a.ショウワ・エラ・レフトウイングスにはどうも難解すぎたらしく、隣のジイさんは眠気を覚ますためか何度も左右へ大きな身じろぎをくりかえし、斜め前方のバアさんはアナーキーなヘッドバンキングから盛大にイビキをかきだす始末で、客の民度だけはまさに弩級(ドキュン、のルビ)の4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーークラスになっていて、「話題作は”必ず”公開初週にIMAXで見ること」という個人的ないましめをあらたにした次第である。

 気をとりなおして、周囲の状況を遮断しながら映画の内容へふれていきますと、第1幕では若き日のオッペンハイマーの遍歴からロスアラモス建設までが描かれており、マンジット・クマールの「量子革命」が面白すぎて、たて続けに2周読んだだけの知識を持つ物理学の徒(笑)は、アインシュタインを筆頭に、ボーアとかフェルミとかハイゼンベルク(ブレイキングバッド!)とか、カメオ的な「ご冗談」のように何度もカメラに抜かれるヤング・ファインマンさんとか、綺羅星のごとき物理学界のスーパースターたちが次々と登場するのに、ペンラやウチワをかかげてのプッシー(推し、の意)活動にいそしむオタクもかくやという恍惚状態でおりました。第2幕はロスアラモスにおける研究の日々と、原爆投下地の選定からトリニティ実験の顛末までがスリリングに描かれ、「京都は新婚旅行で行ったことがあるけど、いい場所だったから候補から外そう」みたいな軽い感じで白人トップが土人の生殺与奪を決める内幕とか、新劇序のラミエル戦を彷彿とさせる暗闇に浮かびあがった幻想的な鉄塔や誘導灯とか、実験の成功に狂喜してボンゴを叩きまくるファインマンさんとか、星条旗をバックに歓呼を受けて微笑むオッペンハイマーとか、もし貴方が被ジェノサイド側に属する極東スー族の子孫でなければ、エヴァンゲリオン的に楽しく見れること受けあいでしょう。印象に残ったのは、「原爆の核融合が大気の分子と連鎖反応を起こして、星ごと破壊する(セフィロスみてえ)可能性」という最悪のシナリオを打ち消せないまま、ただただ実験の成否を見たいがために計画を強行する、科学者の持つ宿業です。もはや引きかえせない段階になってから、オッペンハイマーが軍の責任者に「ニア・ゼロ」と言うときの卑屈さと傲慢さの入り混じった表情だけは、くやしいですが主演男優賞の名に値するものでした。

 しかしながら、そこから始まる「いったい、だれがオッペンハイマーを陥れたのか?」を描く第3幕は、端的に言ってエデンの東に住むスー族の末裔にとって盛大な蛇足になっていて、まあクソ長いったらありゃしない! 原爆2発を積載したトラックが研究所から遠ざかっていく場面を目にした段階で、もう間接的な当事者の亡霊たちは、あますところなく「私たちは、いかにして殺害されたのか?」を追体験できたため、心情的には成仏レベルの満足を得てしまっているわけです。「原爆の父」がアメ公(アメリカの公共、の意)にどう評価されようと、それはすべて我々にとって後づけの言い訳であり、ほんのわずかさえも聞きたくありません。やがて来る本邦の地上波では、トラックのシーンから湖畔で交わされる2大物理学者の対話までスッとばしてつなげて2時間にした再編集版を放送すべきだと、強く進言しておきましょう。作中の現在にもどって語られる第3幕の存在は、テーマを複線化させるだけでとっちらかった印象をしか与えておらず、このパートさえなければ、卑しいアイアンマン芸人ーー職業差別はいけませんね!ーーは助演男優賞を得られないままで、ボクらのジャッキー・チェン(の、ソックリさん)もきらびやかな舞台の上で、世界が衆人環視するさなかに濃厚なアジア人差別を浴びるというトラウマ体験をしなくてすんだでしょうに! それもこれも、ムンバイとかトーキョーの田吾作賞に甘んじさせておけばよいものを、ポリコレなる一過性の風潮が閃光弾となって審査員の目をくらまし、スピルバーグのレイトワークをガン無視した上で、ディルドーを両手に構えた小太りアジア娘がラスボスのマトリックス・パロディなんかに権威あるアカデミー賞の、しかも7冠をウッカリ与えてしまったことは、ハリウッド史上最大級の屈辱として白人社会へ深く静かに潜航していたのでしょう。今回のオッペンハイマー7冠受賞は、舞台上におけるあの凄惨なできごとを含めて、「言語化することもはばかれる、アジアの黄色いサルどもから受けた恥辱」をウランの爆風で吹きとばすがごとき、まさにアトミック・ボム級に胸のすくリベンジだったというわけです!

 爆風で思いだしましたけど、近年におけるノーラン監督の「CGをいっさい使わず、すべて実在のヒトとモノを撮影する」という信念が、人類最初の核爆発を目撃するシーンではアダになっている気がしました。まさか本物の原爆を使うわけにはいかないでしょうが、多感な幼少期の十数年にわたって毎年毎年アニメやら実写やらでキノコ雲を見せ続けられてきた、言わば世界有数の「アトミック目利き」にとって、本作のそれは大量のTNT火薬(おそらく16キロトン)を使っただけのフェイクにしか感じられないのです。長々とスクリーンに映しだされる大爆発の様子をながめがら、この胸に去来したのは「ダメだよ、オッピー。こんなキノコ雲じゃ、22万人も殺せない」という冷笑にも似た気分でした。4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーー劇場を去るさい、もっとも大きかった感情は、ひとりの科学者の好奇心に先祖を殺された無念ではなく、白人の無意識にひそむ人種差別への怒りーー独露に住まう白人の同胞とちがう、黄色人種が相手だったから投下を決断できたーーではさらになく、理論物理学が文字通り世界の趨勢に影響を与えていた、もっとも輝かしい時間はとうの昔に去り、1970年代以降はスーパーストリングスやマルチバースなどの、数学にだけ依拠する一大フィクションと化していった現実に対する、熱狂のステージが終幕したあとに無人のライブハウスを訪れた者が感じるだろう、一抹の寂しさでした。あと、視聴前はオッペンハイマーの名前をオッパッピーとかオッペン化粧品とか、クソミソに茶化してやろうと身がまえていたのですが、じっさいに呼ばれていた愛称である「オッピー」がオタクの想像力をはるかに越えた面白さだったため、泣く泣く断念したことを最後に告白しておきます。

雑文「政治的アべンチュリン礼賛(近況報告2024.4.20)」

 エフエフ7リバース(嘔吐)のせいで長く放置していた、崩壊スターレイル第3章中編?を実装部分まで読了。もうほとんどゲームというよりは小説か戯曲で、複数の視点から2つの死の真相を追いかけるという超絶のSFミステリーに仕上がっています。ホヨバの幹部が熱烈な日本ファルコムのフォロワーであることは有名な話で、原神の世界的ヒットを受けて着手された崩スタは、ミステリアスな大組織における2つ名を持った幹部たちの登場など、いよいよ4以降の英雄伝説シリーズっぽさを隠さなくなってきました。その上で、この中華ゲームはただのコピーキャットにとどまっておらず、ストーリーテリングがじつに巧みであり、キャラどうしのかけ引きと心理描写がバツグンにうまい(本邦の転生モノに顕著な「なにかの優秀さを表現するため、劣った存在や文化を仮構して引きあいとする」という”卑しい”手法には決して手を染めないのも、視座の高さを感じます)。本章を読みはじめる前は、フィーメイル・キッドであるところの花火たんの華麗なる敗北をギラギラした目で欲望していたのが、完全にノーマークだったアベンチュリンに感情をぜんぶ持っていかれることになるとは思ってもいませんでした。この人物を、金髪痩身な優男の見かけに加え、軽薄な口調に傲岸不遜の態度という「CLAMP型ハンコ美男子」のごとき特徴に乏しい造形にしていたのは、逆にそのファースト・インプレッションを与えることが企図された、言わば周到な擬態だったわけです。

 彼は例えるなら、ロシアの少数民族におけるジェノサイドの生き残りであり、滅びた一族が消費できなかった幸運を女神の名の下にすべてあずけられ、その呪いに紙一重の「祝福」と自身の才覚をもって、アメリカの巨大企業で幹部の地位にまでのぼりつめていく。正気とは思えない賭けによる勝利には、生育史に由来した「養育者への試し行為」が無意識に内在化していて、敗北による祝福(イコール呪い)の否定をどこかで強く求めてもいる。派手な見かけと自信に満ちたふるまいの裏に、慎重さと自己評価の低さを秘し隠し、ギャンブルに向けた忘我の熱狂のさなかにも、やがて死によってすべてが終わるのならば、おのれの道行きに何の意味があろうかという自棄と諦観がどこか潜んでいる。彼が自身のイドとの対話で交わした「人は正しい決断だけを続けることはできない」という言葉、これはまさに至言であり、オカルトに聞こえることは百も承知ながら、間違った選択をしてしまったときにこそ、個人の持ち運によるリカバリーが発動するかどうかが非常に重要なのだと思います。以前、「早くに亡くなった祖父母の、人生で使わなかった分の運が血脈へと埋設されており、それが致命的な事態を遠ざけてくれている」といった思想未満の感覚を披露したことがありましたが、このような考え方を持つ人間にとって、アベンチュリンの描き方は深く心に刺さりました。

 少し話はそれますが、テキストサイト風の文章が好きでフォローしていた、おそらく年齢と人生の状況が近い人物から先日、脳梗塞でたおれて入院しているとのツイートがあり、それを読んでいろいろと考えさせられました。いまこの瞬間、拍動する脈がわずかに強くなって重要な血管を破らないこと、一日の終わりにコピーミスの生じた細胞を正しい細胞が上書きしてくれること、その微視的な連続にさえ、運の総体がわずかずつ消費されていくのをまざまざと幻視します。「未来を予知したくば、家族の病歴を見よ」との金言を思いだすとき、この血脈へもっとも頻繁に訪れる死は事故による死であり、「毎日、同じ時間に同じルートを通り、同じ人間に会うこと」を外れたがらない、ほとんど疾患に近いおのが精神特性の由来を再確認した気分になって、背筋がゾッとしました。

 とりとめのないざれごとから崩スタに話を戻しますと、今回のガチャは復帰者を増やす目的でしょう、日本刀をエモノとする長身長髪の巨乳(死語)美女で、必殺技を放つときは髪の色が白く抜け、極めつけに名前は黄泉という、まさに「中2病による想像力の数え役満」なキャラをピックアップしています。ホヨバ作品の持つ特徴のひとつとして、キャラ造形はセクシャルな魅力ーー特に、ワキと下半身へフェチが集中ーーを前面に押しだしているのに、ストーリー部分へはいっさい性的な視点を混入させないことが挙げられるでしょう。今回のクライマックスにおいて、虚無を前にアベンチュリンと黄泉が交わす問答である「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか?」は、じつに中2病的な問いかけでありながら、成熟した大人の回答が与えられており、ゲームの歴史が充分に長くなったことをひしひしと感じました(ファミコン時代のゲーム制作者を第1世代と仮定するならば、いま最前線でゲームを作っているのは第3世代、下手すると第4世代くらいになるのでしょうか?)。エフエフ7リバースでのKURAUDOが、その劣等感と夜の遊興「以外の」部分でひと皮むけられなかったーー挿入される、挿入されないアザラシのイメージーー事実を、後発の崩スタがやすやすと乗りこえていくのは、どこか国をまたいだ世代交代の感さえおぼえます。

 そして、近年のホヨバに顕著である「時代性との意識的なリンク」に関して言えば、数百年におよぶジェノサイドに対して行うたった1回の反撃が、カンパニーによる報道で「人道へのテロ」と断じられる場面に表出した、ニュースに登場する人間と等身大の個人とのあいだへ横たわる、絶望的な隔絶でしょう。「一方的な殺戮の渦中にある人物と、その内面を深く知るほど親しい」という経験をプレイヤーに擬似体験させながら、「おまえはいったい、どちらの側につくのか?」と厳しく迫り、判断を保留した傍観者の立ち場にいることをゆるしてくれない。さらには、いま我々が穏やかな場所でぬくぬくと粗末に生の実感を薄めている裏で、現在進行形に無数の「アベンチュリン」が生まれているのだという事実を容赦なく突きつけてくるーーこんなゲームを、私は寡聞にして他に知りません。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(初回クリア)

 コスモキャニオン到着

 ファイナルファンタジー7リバース、85時間で初回クリア。ここまでずっと120点の評価だったのが、最後の最後で80点ぐらいに収束したことを、まず最初にお伝えしておきます。全マップにおける探索要素の9割くらいを達成し、もう20時間はレベリングとミニゲームで遊び続けることもできたのですが、とりあえずエンディングをいちど見ておこうと、「もう戻れません」の警告を越えてストーリーを進めたのが運のつきと言いましょうか、好印象のさがり目でした。FFシリーズのラストダンジョンが伝統的にアホみたく長いのは、ファミコン時代からのファンにとって百も承知の事実ながら、本作のキモであるエアリスの生死をペンディングにしたまま、どの瞬間にセフィロスがボトッと落ちてくるのかビクビクしながら攻略を進めていくのですが、そこから優に5時間ほども寸どめの引きのばしが続くなんて、想像だにするわけないじゃないですか! 最後のほうは緊張感に疲れはててしまい、ソファの背もたれに深々と身体をあずけての、完全な精神的グロッキー状態でした。忘らるる都の最奥のドンつきで、ようやく天井からGのごとく(ダブルミーニング)降ってきたセフィ公の日本刀をクラウド氏が剣戟ではじきとばした瞬間だけは、さすがに例のミーム画像よろしく叫び声とガッツポーズが出たものの、そこからセーブ不能のラストバトルが冗談ぬきで2時間ほども続くのです。平日の仕事終わりにこれへ着手したものの、定時の入眠と起床を数十年にわたり自身へと課している社畜は、現実でのタイムリミットに中断を余儀なくされ、イチから3回やり直すハメになりました。

 エンディングを見るまでは、「30年前に400万人のKURAUDOのひとりだった者だけが、もっともリバースを楽しむことができる」とカウンター席で常連客の優越にひたっていたのが、穏やかだった店の大将(ノムさん)が突如、鬼の形相へと変じて戸口で塩をブンまきながら「一見さんは、お断りじゃーい!」と絶叫しはじめ、おびえた若い観光客たちに説明のいっさい欠落した理不尽をあびせたままで終わってしまった。物語を読み解く上での重要事項である「ザックスの生死」「クラウドの正体」「エアリスの顛末」「セフィロスの目的」について最後までボカしたままで、オリジナルをプレイしたことがある個人の脳内情報へすべて依拠した語り方になっているため、エンディングまでの道行きはそれ以外の新規層ーーもしいればの話ですが!ーーには、なにが起こっていて、どこが驚くべきポイントで、どれがストーリーの焦点なのか、まったく理解できないと思います。マーベルお得意のマルチバース展開は”なぞらず”に、量子力学をベースとして「オリジナル」「リメイク」「派生作品」の「可能性かさねあわせ(世界一有名な猫)」を描こうとしているのは、気宇壮大な志として百歩ゆずって受けいれたとしても、その試みが成功しているとはとても言えません。

 オリジナルの7もそうでしたけど、「語り口のつたなさと情報開示の下手さ」を受け手がミステリー要素として勝手に考察を重ねた側面があるので、本作も最後の最後でその弱点が露呈してしまったと言えるでしょう。せめて、伏線を張りまくった「エアリスの顛末」と「クラウドの正体」は、リメイク2の段階で確定的に語ってしまわなければならなかったーーきっと4年後には、だれも覚えていないーーのに、「どうにも決めきれないから、最終作へと先送りにした」ような、優柔不断の怯懦による漂着としか見えません(エアリスをライフストリームに還す有名な場面がオミットされているのも、生きているか死んでいるかをハッキリと決められなかったからでしょう)。ここまでオリジナルに依存した作りになっているのだから、「凶刃をしりぞけ、生存が明示される」だけで、近年の作品で例えるならば、スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームのような深い感動とカタルシスを観客に与えられただろうにと、心の底から残念でなりません。「セフィロスの目的」についても、作中ではいっさい触れられていないのに、エアリスがエンディングで突然、「メテオをふせぐために、ここに残って祈る」とか言いだすのは、リメイク単体では物語が作れていない証拠でしょう。「コミカルパートは最高だけど、シリアスパートは前戯がヘッタクソ」と吐き捨てて、リバース全体に向けた最低の総括へとかえたいと思います。

 最後に、はじめてエフエフ7へ触れる若い世代のために、古きオタクの責任として「リメイクを真に楽しむためのネタバレ」を敢然と行っておきましょう。ふつうは「知ってしまうと、面白さが減ずるもの」ですが、本作は「知らないとなにが面白いかわからない」ので、しょうがないですよね! 「ザックスはクラスファーストのソルジャーだが、すでに死亡している」「クラウドはザックスに憧れる一介のモブにすぎない(冒頭でセフィロスと共闘していたのはザックスで、クラウドはヘルメットの雑兵)」「エアリスは忘らるる都でセフィロスに刺殺され、ライフストリームへと還る」「セフィロスの目的は自身とライフストリームに還れない者たちのために、星ごとメテオで破壊すること」ーー以上の4点を、古参どもはいまさら確認するまでもない当然の前提知識としてプレイしており、これらはなんとリバース中で、いっさい明示的に語られないのです。だからさあ、情報開示がヘッタクソやねん! なんでコミカルパートにあった鳥瞰的かつ客観的な視点が、シリアスパートでは消えてまうんじゃ、このダボが!

アニメ「バーンブレイバーン」感想

 今期の話題作だったバーンブレイバーンを最終話までまとめて見る。序盤は毎週のようにエッキスのトレンド入りをしてすごい盛りあがりだったのが、終盤にさしかかるとタイムラインで作品名を知るだけの人間にはほとんど何も聞こえてこなくなり、いったい何が起こっているのか首をかしげていたのですが、全話を見終えたいま、その理由がわかりました。勇者シリーズの顧客ではない第三者が、今回の状況を客観的に分析しますならば、魔法少女という古びた物語類型を逆手にとった驚愕のミステリー要素とループ展開で大ヒットとなった「まどかマギカ」と同じ化学反応が本作でも起こるのではないかと期待していたのに、伏線のことごとくを捨てて過去の同シリーズにおけるお約束と自己模倣にからめとられて終わってしまったからでしょう。ひさしぶりの勇者シリーズに期待値が高まりすぎてしまった結果の、ファンが受けた失望には足りない肩すかし感が失速の原因ではないかと推測するのですが、昭和のやりすぎ同性愛描写(当事者が不快でないかハラハラするレベル)とかミスター味っ子(漫画ではなくアニメのほう)のパロディとか、作り手が満々に楽しんでるのはひしひしと伝わってくるんですよね。それなのに、ループものらしきメインストーリー部分の掘り下げが不十分なので、脇道のサブ要素を延々と見せられてる感じでフラストレーションがたまるのです。「みんなループものなんてゲップするほど見てきてるんだから、わざわざ絵で表現しなくたってセリフで伝わるでしょ。そんなことよりホラ、ギンギンに構図をツめたボクのカッコいい戦闘シーンを見てよ!」みたいな幻聴が聞こえるようで、結果として新規層というよりはディープな好事家に向けた作りになってしまっている気がします。

 これまたズバリ言ってしまえば、リコリス・リコイルのときにも指摘したように、この規模のストーリーと設定を語りつくすには全体の話数が圧倒的に足りておらず、過去の回想回や敵側の内幕回などを考慮すれば、少なくとも26話くらいはやってほしい。最終回で虚構度を高めて大団円にするのも、そこまでの息苦しいような積み上げがあるからの解放的なヌケ(ラブラブ天驚拳!)なので、ビルドアップの薄い本作ではドッちらけ感しかありませんでした(だいたいさあ、通常兵器が無効みたいな設定なのにみんなでノコノコ前線にやってくるジャッジって、「最終回で全員の顔を見せないといけないから」以外の理由ってあんの? ドラゴンボールで言うなら悟空とフリーザの戦いにウーロンとプーアルが大挙して現れたみたいなもんじゃない?)。しかしながら、本作の監督がストーリーテラーとして優秀なのかどうかは、勇者シリーズ未見の身にはまったくの未知数であり、「描きたい構図を物語に優先させる、根っからの純粋アニメーター」である可能性も否定できないため、「1年をかけて良い子のみんなと応援する全52話のバーンブレイバーン」は、シロウトの妄想にとどめておくのが賢明かもしれません(スミス死亡転生回ーーネタバレやないかーい!ーーにおいて、コクピットでの葛藤を延々とやるのにイライラして、画面の前で「はよつっこめや! ワンクールのくせに、いちいちテンポ悪いねん!」と口ばしった人非人なので……)。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(コスモキャニオン到着)

 ゴールドソーサー到着

 ファイナルファンタジー7リバース、コスモキャニオンに到達。プレイタイムは60時間を越えたが、すべてが新しいのになつかしいという、不思議な感覚は続いている。いっさいの情報を遮断しているので、この先なにが起こり、ストーリーがどこまで進み、エアリスがどうなるかも、まったく知らない状態を維持していることを付記しておく。初代プレステで発売されたオリジナルをとても嫌っているーースーファミへの裏切りをふくめてーー話は前にもしたと思うが、それは裏をかえせば、いまよりも大きな感情を使ってゲームをプレイできていた時代だったということでもある(近年は、ほんの数年前のクソゲーでさえ、どこかに書きとめておかなければ、どんな負の感情を抱いたのかすら忘れてしまう)。あのころ、それぞれのキャラクターに感じていた苦手意識や、どうしても受け入れられないという複雑な気持ちが、本作のストーリーを進めるにつれ、当時の感情の重さはそのままに、好意的なものへと反転していくのは、じつに興味深い体験だと言える。そして、このリメイク2はファイナルファンタジー・シリーズというより、ひとりのクリエイターにとっての集大成になっているような印象を、どこか抱いてしまう。本作は、ヤマトとガンダムから旧エヴァが受け継いだ大ヒットSFアニメの流れをうらぎり、その最終作において「カネのかかった自費出版の私小説」を上梓してすべて台無しにしたやり方と方向性こそ似ているものの、作り手の短くはない人生の道行きを登場人物たちへとたしかにあずけながら、決してフィクションの枠組みは崩さない節度をたもっているのだ(大人の余裕をもって、かつての未熟な真剣さを茶化しにかかるユーモラスさも気に入っている)。

 おそらく、もうだれもおぼえていない「ファブラ・ノヴァ・クリスタリス」のローンチが、長い長いカウントダウンの末に、ロケット台の上でまさかの大爆発を起こし、しっぽの根本から経営陣のハサミでチョン切られた尻切れトンボ(ヴェルサス?)となってしまい、その一連のできごとへの深い内省と社内で食わされている冷や飯の感触が、じつに玄妙な味わいとなってシナリオのあちこちへと、よくできたオフクロの煮物のごとくジュワッと染みだしているのである。「起きてからずっと、なぜこうなったかを考える自己批判の毎日」「2番か3番の位置にいて、どうやれば形になるのかを考えるのが、性にあってる」「なぜ、自分だけがひとり取り残されてしまったのか」「みんなすごいヤツだとわかっているのに、いつも自分を大きく見せようとする」ーーこういった驚くような率直さを前にすると、ストーリーの途中でザッピング的に挿入されるザックスとビッグスの話がアラカンとなったノムさんの体験する現在で、昏睡するクラウドとエアリスの側がありえたかもしれない可能性未来のメタファーではないかとさえ邪推してしまうほどに、生々しくひびく。ビッグスのするこれらの述懐は、長くひとつの組織にいる人間にとって痛いほど身につまされる内容ばかりであり、リーダーの器ではないのに時間の経過で決断する立ち場に置かれていたり、時流の機微で組織を離れてしまった自分より優秀なだれかのことをときどき思いだしたり、人事考課を行う側にいながら部下と周囲からの評価が気になったり、かつて尊大なプライドや臆病な羞恥心や抑えきれぬ性欲を内側におしこめていたクラウドの無表情の裏に、いまやそういったマネジメントを行う側の苦悩がたたえられているのかと思うと、知らず大きな感慨のため息が漏れてしまうのである。

 もしかすると、映画版ファイナルファンタジーで会社を追われたヒゲの御大が残っていてくれればという夢想や、「20年、いや、10年はやく組織を離れて独立していれば、どうなっていただろう」という起こらなかった未来への妄想も、ことあるごとに心中へカマ首をもたげるのかもしれない。しかしながら、ファイナルファンタジー7が最新の技術で手厚くリメイクされる一方で、456がピクセルリマスターみたいにお茶をにごされたまま、いつまでも放置されているのは、ハッキリ言ってしまえば、作った当人が会社に残っているかどうかだけの違いであり、一発屋と言われようがなにしようが、どんなにブザマだろうと組織にしがみつくことで結果として得るものは、どの業界でもあるのだと思う。リメイク3となるリユニオンで今度こそ、すべての後悔ごと作品をさらなる高い場所へと打ち上げてくれることを、心から願ってやまない。それはまさに、16を作ったアホが苦しまぎれにほざいた「最終幻想」とはかけ離れた、真の意味での「ファイナルファンタジー」となることだろう。

雑文「猫を起こさないように(nWo)・復活のテキストサイト」

 よい大人のnWo

 エイプリルフール限定で、伝説のサイトがまさかの復活! 管理職も新入社員も、入社式の合間にチラ見せよ!

 「エイプリルフール限定」というのが、エイプリルフールのネタであったわ! よい大人のnWoは、いつだってオタク諸君にとっての恒常スーパー・ウルトラ・レアであるッ! 読了し、賞賛し、拡散しろ!

 昭和のクドくてカンにさわる、不適切にもほどがあるテキストサイトの大復活を、みたびここに宣言する! 特に、サイト開設日である1999年1月10日から2024年の令和にいたる全テキストを時系列で読めるシン・機能(笑)は、まさに圧巻としか形容できないシロモノとなっている! そして25年という歳月は、一個の人格をいかに一貫性なく変節させていくのかという残酷な事実について、舌でねぶりころがすようにじっくりと味わうと同時に、これだけ書いても一銭にすらなっていない冷厳たる現実へ、心胆を寒からしめるがよいわ! また、この長きをただ沈黙のうちにながめていた、いまやギョーカイのジューチンとなった諸君らも、これが最後のチャンス(人間の耐用年数的に)と心得よ! すなわち、匿名による「におわせ」からの応援や推挙のメッセージ、あるいは萌え画像などを積極的に送りつけていけ!

 小鳥猊下にマシュマロを投げる

質問:2ちゃんねるが滅び、匿名だからこそのオタクの叫びの面白さが消え失せていく世の中、こういうサイトが存在していることに涙を禁じ得ない。
回答:これを思うことと書くことのあいだにある、長大な隔絶を理解しておりますので、貴君の勇気にまずは感謝を申し上げます。現世での実績はだいたい解除してしまったので、かつてインターネットに満ちていた空気感を、最後のひとりになっても守り続けてやるのだと、なかば意地になっている側面はあります。気分は初代ランボーがごときワンマン・アーミーであり、萌え画像の寄贈などがあれば号泣しながらかつての思い出ばなしを始めるでしょう。

雑文「続・ドラゴンボールとはずがたり」

 雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 訃報を受けて、一時代の終わりを再確認するため、ドラゴンボールを最初からぽつぽつ読みかえしている。原作をどこまで熱心に追いかけたかは、前回お話しした通りで、アニメ版はZの途中くらいまで、後番組のGTは内容をいっさい知らず、数ある映画版は1本も見ていません。ちょうど引きのばしに入る前後ぐらいで離れており、言ってみれば、まさに少年漫画として理想的な時期での邂逅と別離をはたしたわけです。この黄金期の少年ジャンプに連載されていた作品の、二次創作かカーボンコピーにしか見えない近年のバトル漫画群に対して、本作が持つオリジナリティの優位性に再評価を与えるため、「やっぱ、ドラゴンボールはピッコロジュニアを倒すとこまでだよなー」などとツウぶった古参ムーブで1巻を読みはじめたところ、目をおおわんばかりの「悪い昭和」が全編にわたって横溢しており、のけぞった勢いそのままにひっくりかえりました。うっすらと記憶にはあったものの、有名な「ギャルのパンティおくれ」を代表として、あの時代の「エッチ」「スケベ」「ムフフ」ーー換言すれば、公の場で男性がゆるされると思っている性欲の吐露ーーが、風味づけのフレーバーをはるかに超えた、驚くほどに高い頻度でこれでもかと連発されているのです。

 令和キッズたちにヒかれないよう、ほんの一部を婉曲的にお伝えするならば、女性の外性器に男性が土足で接触したり、男性の頭部をあらわになった女性の胸部ではさんだり、識字教育と称して児童たちに官能小説を音読させたり、それらが作品から切除の不可能なレベルで癒着してしまっており、不適切にもほどがあるため、天下一武道会がはじまるくらいまでは、近年の品行方正かつ親の監視が厳しいキッズに対して、とてもおすすめできるシロモノではありません。それが、エロオヤジとしての自意識を亀仙人にあずけ、女子のパンツぐらいに過剰反応して、いちいち大量の鼻血をふきださせていたのが、物語の後半においてナメック星へと向かう宇宙船の中で、Tシャツとパンイチでうろつきまわるブルマの「もっとレディとしてあつかってよね」という台詞に、「だったら、パンツ1枚で歩きまわらないでくださいよ……」とクリリンがあきれて返すシーンには、結婚して娘を授かり、その女性の成長をひとつ屋根の下でともに過ごしていくうち、おとずれた成長と言いますか、変化と言いますか、人生の変遷を強く感じてしまうわけです。この「パンツに関する温度感の変化」は、「父としての悟空、母としてのチチ」とならぶ、本来フィクションにすぎないものへ漏れだしてしまった、作者その人の自我だと指摘できるでしょう。

 そして、ネットミームと化した「まだもうちょっとだけ続くんじゃ」の段階で、作者が物語の着地点をどこに定めていたかを推測するならば、主人公の出自が解明されるという意味でも、ベジータとの決戦までだと思います。これ以降、当初の予定を外れた引きのばしパートになっていったのだと思いますが、ナメック星でのストーリーテリングがそれを感じさせないほどよくできていたため、まるでひとつながりの美術品のように見えてしまったことは、もしかすると作者と読者と編集者の三方にとって不幸だったかもしれません。ここから入りこんでしまった迷路である、「攻撃手段は肉弾戦とエネルギー波の2つ」「強さの指標は物理的なパワーの多寡のみ」という、指数関数的かつ直線的なエスカレーションをどう回避するかという視点が、ジョジョやハンターハンターをはじめとする後発のバトル漫画を難解なギミックで複雑化させ、「永遠に語り続けること」を可能にしてしまい、結果として「少年漫画」というカテゴリを衰退させることへつながっていったのは、じつに皮肉なことです。

 ついでに、絵柄の変遷に関しても触れておくと、連載初期のアラレちゃん時代の延長上にある曲線によって構成された表現に始まり、ナメック星ぐらいからはあるアニメーターに影響を受けた直線中心の描線に変わってゆきます(世界中のファンが持つ鳥山明のイメージは、後者が優勢でしょう)。じつのところ、連載終了後にもう一段階の「変身を残して」いて、いま手元にあるのはジャンプコミックスではなく、2002年に刊行された「完全版」なのですが、新たに描きおこされた表紙絵は、どれもバードスタジオ所属の別人の手によるものと言われてもおかしくない、線に伸びやかさを失ったカチコチの自己模倣みたいになっているのです(自身の作風を3DCGに落としこむ過程だったのかもしれませんが、私の好きな作品とは何の連絡もない改悪なので……)。

 また、ドラゴンボールはかつての国民的RPGであるところのドラゴンクエストと、相互に影響を与えあってきました。アイコニックなパッケージデザインを順に見ていくと、「123がやわらかな曲線、456が力強い直線、7以降がCGのようなカチコチ」となるでしょうか。4のデスピサロが戦闘中に形態を変化させるのはフリーザからの逆輸入でしょうし、もしかすると6から導入された新たな転職システムーー「互いの苦手や弱点をおぎないあう」というパーティの概念をたたきつぶし、最終的に全員がなんでもできるスーパーマンになる、個人的に大ッキライな仕様変更(「ドラクエは5まで」派)ーーも、「スーパーサイヤ人のバーゲンセール」以降、強さの点でキャラクターの個性が消えてしまった状況に、少なからず影響を受けているのかもしれません。

 今回、ドラゴンボールをいちから読みかえして思ったのは、我々が訃報を受けて語っているのは「30年前に終了し、完成した作品」のことであり、その後の氏による細かい設定のつけ足しや、絵柄の好ましくない変遷のいっさいを見ない、「少年期の美しい記憶」をなつかしむような性質の言葉なのでしょう。この意味において、「ドラゴンボールは四十代、五十代のオッサンのもの」という若い世代から向けられる揶揄は正鵠を射ており、ぢぢゅちゅ廻銭(原文ママ)がそう呼ばれるようになる遠くない未来では、どんな少年漫画が流行っているのだろうかと、いまから楽しみでなりません。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(ゴールドソーサー到着)

 開始20時間

 ファイナルファンタジー7リバース、インターネットが存在しなかった時代のように遊びたくて、攻略サイトのいっさいを遮断し、検索ウィンドウに文字列すら入力せず、本当にゆっくりと、ゆーっくりと進めている。ゴールドソーサーに入ったばかりの段階で、プレイ時間はすでに40時間へとせまるいきおいである。たったいま、同園長との格闘ミニゲーム・バトルを終えたところだが、ノムさん手づからデザインしたというこの人物の造形の「もしかしなくても、ギャグではやっていない」シリアスさは、ものすさまじいレベルにまで達している。サルバドール・ダリとセルジオ・オリバを「足し算だけして、いっさい引いたり割ったりしない」筋骨隆々の見た目に、胸毛から腕毛からすね毛までビッシリ生えそろっているという、ある種の性癖を持つ人々の脳内にあるファンタジーを完璧に再現ーー「筋肉マッチョも毛むくじゃらも大好きだけど、ビルダー連中は体毛を剃っちまうしな……ひらめいた!」ーーしたようなデザインになっているのだ。この人物がするポージングにモブの女性たちは黄色い歓声あげ、忍者娘はまるでエロいものでもあるかのように指の隙間からその肉体美をのぞき見たかと思えば、彼のするウインクになんと卒倒してしまうのである!

 いやいや、手をふれずに若い女子を気絶させるなんて芸当ができるのは、ブカレストでのマイケル・ジャクソンぐらいのものなのよ。そもそも、十代の女子が体毛の濃い半裸のカイゼル髭にほほえまれたときの反応は「きんも」か「きっしょ」の二択で、性的に興奮するなんてことはぜったいにないのよ。女性陣にリアクションを仮託してはるけど、このシーンを思いついた人物の性的嗜好はぜったいにGかBーーいやだなあ、ゲームボーイの略称ですよ!ーー以外ありえないのよ。衝撃のあまり、口調がオネエだか例の芸人だかみたいになってしまったが、「かつて低ポリゴンで表現されていた冒険の舞台が、じつはこんな場所だったんだとわかるのを楽しんでほしい」という作り手の意図以上に、生々しくも余計な情報まで遊び手に伝わってしまっているような気がしてならない。ボクらのKURAUDOが「性に臆病なノンケで童貞の中学2年生」として送られている秋波に気づかず、すげなくソデにしたときの園長にただようひどく濃厚な薔薇族感(なんや、それ)は、夜の街における歴戦のGかBにしか描写できない境地にいたっていると言えるだろう。前作で言えば、ハニービーでの女装ダンスと同じレベルのアタオカ展開なので、ゲームをしない諸君にもぜひ、動画サイトなどで確認することをおススメしておく。

 それにつけても本作の白眉は、ボクらのKURAUDOの見事なまでにキョドった挙動であろう。30年前の当時より、それこそ星の数ほどの二次創作が行われてきたにちがいないが、ノムさんの描写するKURAUDOだけが唯一のホンモノであることを、あらためて痛感させられた次第である。思いうかぶのは、孤独のグルメを実写化するにあたり、店選びや脚本は他のスタッフにまかせながらも、原作者が井之頭五郎のモノローグだけはすべて監修して、「ゴローが使いそうな言い回し」に書きかえているという逸話だ。これとまったく同様に、ノムさんがほんの少し手をくわえるだけで、朴念仁のつっけんどんな言い回しから、小心な臆病さを周囲に悟られないよう無表情をよそおう芝居まで、かつてオタク男子たちのハートをワシづかみーー「クラウドは……まるでオレみたいだ……」ーーにしたキング・オブ・ジュニアハイスクール・セカンドグレイド・シンドローム(だから、なんやねん、それ)の名に恥じぬキャラクターへと化身するのである。

 あと、本作はフィールドパートとストーリーパートに加えて、「怒涛のミニゲーム」から成りたっているのですが、オリジナルの本質をふまえたうまい再構築だなーと感心しています。このミニゲームがじつはかなりのクセモノで、最高ランクの景品を手に入れようとすると、射的やら球蹴りやら腹筋(特に腹筋)やらで数時間は簡単に消しとんでしまい、フィールド探索の楽しさとあいまって、いっこうにストーリーを進めることができません。それと、エフエフ6からエフエフ7にかけて廃止されたものに「かぶと」「よろい」「たて」「みぎて」「ひだりて」があるのですが、「源氏シリーズの防具に身をかため、エクスカリバーとラグナロクの二刀流ができないこと」にひどくいきどおっていたのを、昨日のことのようになつかしく思いだしました。リバースをプレイしていると、ポリゴンで見た目の差分を用意できなかった以上に、いまより若くてトガッていたノムさんが自らのキャラデザを常に優先して見せたい気持ちが強かったのだろうと、どこか納得する感じがあります。バルダーズゲート3を経たあとだからこそ確信を持って言えますが、リアルな源氏の兜と鎧におおわれたTIFUAの上半身なんて、見たくもないですからね!

漫画「ブルージャイアント・エクスプローラー9巻」感想

 ブルージャイアント・エクスプローラーの最終巻を読む。驚くことに、これまでの石塚真一ならぜったいに描かなかった、虚構による称揚で現実の冷たさを温めるようなエピソードが語られる。この変節の理由は、まちがいなく劇場版アニメによる無印ストーリーの結部改変を見たことによるものだろう。「右腕を潰せば、もう演奏家としての再起はかなうまい」としてトラックをつっこませたのに、劇場版のラストでは上原ひろみの楽曲と本物のピアニストによる技巧が、その漫画家の想像力をはるかに超えてきたのだった。結果として、このボストン編はこれまで積みあげてきた、前だけを向いて進むダイ・ミヤモトにフォーカスしたストーリー・テリングからわずかに浮いてしまっているし、もし劇場版アニメが2作目、3作目と作られた場合、完全に不要の蛇足パートになってしまうだろう。これは鬼滅の刃における賛否両論の最終話と同じで、メタ的に言うならば、「作者が作中の人物に、強いてしまった苦しみを心から謝罪する」ような性質をともなっていて、近年の「作り手の意志に隷属するパペット」をあやつる類の物語ーーシンエヴァがその最右翼ーーとは、圧倒的にキャラクター強度の作り方がちがうことを、同時に意味している。

 劇場版アニメにうちのめされて、「現実以上の現実を」と満身の全霊をこめてきたはずの虚構が、現実のしなやかさに敗北する様を見せつけられて、これまでとの一貫性やおのれの信念を投げうってまで、おそらく作家人生で初めての「物語に尋ねるのではない、作者本人のワガママ」で、このエピソードを描かなければならない激しい衝動を得てしまったのではないかと推察する。それを証拠に、同時発売された続編のモメンタムでは原作から完全に身を引いて、作画担当へ自らを降格させてしまった。これは石塚氏の漫画に対する、もっと言えば物語をつむぐことに対する誠実さの表れであろうと思うと、どこか胸のつまる感じさえおぼえるのだ。作者本人すらも、その衝撃に生き方を変えてしまう無印ブルージャイアント劇場版はやはり、いまのレベルの注目と称賛ぐらいに甘んじるべき作品ではなく、現在を生きる十代、二十代の若者たちはこれに触れることで、「かつてそこにあり、失われてしまった熱」に感染してほしいと強く願うものである。