猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「アナと雪の女王2」感想

 え、これ劇場で上映されたの? 本国ではスター・ウォーズのホリデー・スペシャルみたいな扱いで、テレビ放映のみで円盤は発売されてないんですよね? くだくだしい脚本とこみいった台詞に加えて、映画芸術を真っ向から否定した時系列のリニアーすぎる展開にガックリ。CGクオリティの低い部分も散見され、前作の高い完成度に比して蛇足としか形容しようがない後日譚に仕上がっている。

 ところで先日、国営放送にて「若おかみは小学生!」が地上波初放映されたが、家名や地域共同体にからめとられている既婚女性(憶測)が、少女に世界の命運を背負わせることへ性的な興奮をおぼえるフリークス野郎だけが肯定する、グロテスク極まる作品だと口汚くののしっておられるのが目に入ってしまった。関心を得たい一心でノトーに同作品への高い評価を再公開してしまったフリークス野郎a.k.a.薄汚いおたく代表であるところの小生は背筋が寒くなり、キンタマーー失礼、ゴールデンボールズーーがきゅっと収縮した次第である。しかしながら、社会現象となった前作「アナ雪」の感想においては、家と公への隷属を長女に対して強要しているのが物語の瑕疵だと指摘できていたので、織子たんの萌え萌えなキャラデザインに目をくらまされたこのキモオタをどうかゆるしてほしい。

 本作のラストで意中の男性と結婚して家督を継ぐことになった妹(低学歴の肉欲)が姉(高学歴で知的)を王国から放逐し、ウォールデンばりの森の生活を強いたことで、エルサの扱いがぞんざいである印象は強められ、長男長女たちにとってのソレジャナイ感を高める結果になったことをとても残念に思う。映画産業のような「虚業」に就くことをゆるされるのは、家に対して責任のない次男次女以下であることが多いからの結末ではないかと疑わせるぐらいの、ほとんど憎しみさえ感じるぞんざいぶりだった。

 あと、近年のデ銭さんに顕著な現実への逆張りーー女性と有色人種を持ち上げるために男性と白人をディスるなどの手法ーーには、そろそろみんな気づいているので、やめたほうがいいと思いました。乾いた軟便にスチームを当ててるみたいで、すごく臭いますよ。

雑文「深夜ラジオ、あるいは対話について」

 最近では、インタネトーやらツッタイーに出座するたびに、リッチ・ホワイトがゲーティッド・コミュニティに引きこもる気分を生々しく想像できるような有様である。王ならば貧しき者たちへのノブレス・オブリージュも生じようが、富める者たちには元よりそんな義務はない(小さくてやわらかい社の元プレジデントぐらいにリッチを突きつめればーー金のバスタブでするロマネコンティ風呂みたいなイメージーー話は別だろうが)。差別とは、いまや無視とか装われた無関心に形を変えているのだ。もちろん、キング・ルンペンの愛称で親しまれている青い血の私も、萌え画像の一枚すらよこさない君たちの生や苦しみには、何一つ関心がない。

 え、キングじゃなくてエンペラーでしょ、だって? なに、昨年の今頃にインペリアル・サクセッションの茶番劇をやってませんでしたか? ハハハ、記憶違いじゃないの? 俺は今も昔も、ナラ・プリフェクチャー在住のしがないローカル・ガバナーさ……何より、スローターにフィリサイドにアースクエイクにタイフーンにフラッドにプレイグにエピデミックにコンテイジョンにデプレッションに、俺の治世がこんなに悲惨なわけがない(ツンデレ制服女子が腕組みしながら)!

 おっと、意図的なビーンボールと受け取られかねないので、話題を変えよう。今日わざわざゲーティッド・コミュニティから出座ましましたのは、ラジオ番組での芸人の失言と説教が話題になっていると知り、大学生くらいまではよくラジオを聞いていたことを思い出したからだ。当時はネットもスマホも存在せず、ファミコンの電源アダプターも母親に隠されているため、特に深夜は文字通り、ラジオを聞くくらいしかやることがなかった。内面旅行のレディオ・ライブラリーから多くの名作を知ったし、ジュン・ハマムラからはライト・ウイングドな映画鑑賞法を学んだ。もちろん、一晩中・日本も受験期にはよく聞いた。エレクトリック・グルーブのことは長く芸人コンビだと思っていた。ピンポンがコケインの顔を「歪んでる」とディスり、生放送中にコケインがスタジオから出ていった回(台本だったのかな……)とか、なーんちゃんたりしちゃったりなんかしちゃったりしてーa.k.a.広川太一郎が生出演してくれて、本人が帰ったあとに「なんで、出てくれたんだろう?」とピンポンとコケインで不思議がってる回とか、昨日のことみたいに思い出すことができる。あ、なんかリレー・ドラマみたいなのにハガキだしたの思い出した、採用されなかったけど。ラジオを聞かなくなって久しいけど、ポストカード・クラフツマンには劣等感というか、尊敬みたいな感情、いまだにあるなー。そういえば、ノーザン・トゥルースとバンブー・ジャスティスの超能力・ヤングマンズ・アソシエーションは今どうなってるの? おっと、閑話休題。

 で、諸君が話題にしている例の放送を聞いた。一晩中・日本を聞くのは、じつに二十数年ぶりのことだ。そして改めて、他のメディアにはない凄みを感じることができた。行われたのは、対話だ。より正確に言うなら、対話への試みである。私たちの生活において、対話が行われることは極めてまれだ。共感の雰囲気を醸成し、気まずさを薄めるために、空間を音で満たす会話ばかりが横行している。ひとつの意味を共有しようと試み、いったん意味が共有されれば、それが成される前と同じ立ち位置にあることはできない、その行為を対話と呼ぶ。己の人生をふりかえっても、対話だったと思えるコミュニケーションは数えるほどしかない。対話と思われるものの多くは、真剣な外面だけを装い、己を固持することをあらかじめ決めた、いわば音の振動を伴った時間の空費に過ぎない。今回、生放送で行われたのが本当に対話だったのかどうかは、究極的には対話を行った当事者たちにしかわからない。それは教育と同じで、十数年を経てから「あれは対話だった」とひっそり気づく性質のものだ。少し前に、人類が滅んだ後の街で家々の部屋をすべて見て回りたいという、私の抱える異常な欲望を話したことがあると思う。今回の経験は、それに近い。透明人間として、壊れかけた夫婦の寝室に居合わせる。加工も記録もない、ドキュメンタリーには満たない何か。テレビでもなく、ネットでもない、ラジオだからこそすくうことのできた水面の泡。これが、対話だったことを心から願う。

 よっしゃ、ちょっとトーン変えるから、ワン・ボディの人はこっからは読まん方がええで! 少し驚かされたのは、シンギュラリティ(婉曲的な表現)の方々が話し手の論旨そのものに深く賛同しているのにも関わらず、マリッジに関する言及にことごとくネガティブな反応をしているところだった。それこそ、バーティカリー・チャレンジド(政治的に正しい表現)やシン・ヘア(流行におもねった表現)にコンプレックスを抱いている方々が、それらをダイレクトに表現した罵倒(チビやハゲ)を聞いたときの反応に近く、認知の歪みさえ感じられるレベルなのだ。私が感じたのは例えるなら、階段教室で穏やかに講義をしていた大学教授が突然に背後の黒板をこぶしでなぐりつけた後、何ごともなかったようにまた穏やかに話し始める場に立ち会った学生の感じるだろう恐怖であり、もっと簡単に言えば「え、そこまで気にするようなものなの?」という驚きである。少子高齢化の進む現代社会において、もはやあらゆる場面でこの話題はタブーとなる時期に達しているのだと感じ、今後の言動について貴重な気づきを得ることができた。ツッタイー・ユザーなる本邦のノイジー・マイノリティの中の、さらにノイジアーなマイノリティの意見である可能性は高いが、用心に越したことはない。やれやれ、すべてをインターネットに包囲され、もはや現実の方が引きこもるべきゲーティッド・コミュニティみたいじゃないか!

 あの、何かの否定は何かの肯定にはならないですよ。

 先ほどの連続ツイートの結果、フォロワー2名減る。例えば、あるノーベル賞作家の人生観を永久に書きかえる「個人的な体験」が水頭症の嬰児であったように、彼にとってのそれは結婚だった。そして、別の誰かにとって、結婚は人生観の変更には至らない。なぜその当り前さへ理解が及ばないのかを苦しむと同時に、それこそが認知の歪みなのだろうとも思う。

 やめ、やめ! 先ほど、幾度目のことだろう、シン・ゴジラを通して視聴した。この傑作に改めて深く感動すると同時に、まさかシン・エヴァはもう間に合わないから大丈夫だと思うけど、シン・ウルトラマンがコビッドの影響を受けて作り直されないことを切に願った。

アニメ「エヴァ破再視聴、あるいは旧エヴァ19話礼賛」

 なんかYoutubeで序破Qが無料公開されていると聞きおよび、久しぶりにロスの自宅に備えた7.1chサラウンドのシアター(忘れてた)でアンプの埃をはらって、10年ぶり(10年ぶり!)に破を大画面で見た。オリジナルの8話から19話を再構築しながら、同時に旧劇場版のモチーフをあちこちに散りばめて、本当に新しいエヴァの新たな行く末へ、期待しか持てない仕上がりだったことを再発見し、悔しさのあまり涙が出てきた。2010年の段階で、都市を襲う津波がすでにビジュアル化されていたり、海洋研究所で大災害を生き残った者がいなくなった者を悼むやりとりがあったり、2011年の出来事をあらかじめ予見したかのような先回りのアンサーさえ描かれいる。今回あらためて、Qでの方針転換が本当に余計で必要のない、作品の自走性と共時性を裏切った、ただただ世の悲惨をエンターテイメント化する類の冒涜だったとの気持ちを強くさせられた次第である。

 さて、ここからはただのおたく語りとなる。くぐもった早口で本当にキモいので、注意してほしい。終盤のアスカ退場以降の展開について、テレビ版の19話があまりに完璧すぎるため、カネと労力はより以上にかけられているだろうにも関わらず、ゼルエル戦のパートがゴテゴテと厚塗りされた(特にコネメガネ周辺)緊張感のないものにしか見えなくなっている。劇場公開版では本部への使徒侵入後のシーン全般に赤いフィルターがかけられていたのをご記憶だろうか。第19話の構成・構図・カット割りのテンポがハイパーすぎて新作で上書きすることができず、コピーで流用するしかないのを、演出で異なったふうに見せようとあがく試みがすべて空回りしているのだ。後のぶんだー(笑)艦長の台詞にしても「メインシャフトが丸見えだわ」はテレビ版の録音の方がはるかに鬼気迫る感じだったし、「5番射出急いで」の下りも緊迫感を大きく損なう改変ーーロックを解除してから、初号機がキックでボタンを押すーーが行われており、見るたび生理的な違和感でイラッとする。電源が切れる直前のシーンも原作のゲス顔(劇場公開版はゲス顔のままだった)から、観客にアピールするためのヒロイックな表情に差し替えられており、人類の存亡をひとりで背負ったあの場面におけるシンジさんの必死さを大きく減じているように思う。あらゆる手段でテレビ版の19話を越えようともがくも、完璧すぎる内容にことごとくはねかえされ、苦肉の策で行った修正や追加演出ーーシンジさんの「でもそんなのかんけえねえ」、コネメガネの「もったえー(え、何? オマエ滑舌わりいな)」ーーが見事にスベッているのは、もはや気の毒でさえある。新劇場版しか知らない君には、ぜひテレビ版の19話だけでも見てほしい。

 あと、劇場公開版はBGMが台詞や効果音を圧倒するぐらいもっとギンギンに鳴っていて、DVD版の音量バランスにガックリして、アンプを調整することで再現できないか一晩中、延々と設定を詰めていたことも思い出した。あの頃は、本当に次への期待にあふれていて、楽しかったなー。本当に、楽しかった……

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

映画「トイストーリー4」感想

 上映時間が100分なんだけど、エンドロールが10分弱として、80分くらいまではとても楽しく見ていたのね。新しいキャラクターたちも魅力的だし、このシリーズでなくてはならない新しいアイデアもある。なので、昔からのファンに向けた、かつてのアイドルたちによるカムバック公演、一夜限りのお祭りムービーだと思ってたわけ、80分くらいまでは。それが最後の最後で唐突に、作品の根幹に関わるデリケートな部分へ、デ銭の野郎がベロで湿らせた毛むくじゃらの指を突っ込んで、愛撫を始めたわけよ。そしてキラキラしてたアイドルたちが別人みたいに豹変して、舞台上でアンアン悶えだしたのを見せられる気持ち、わかる? スター・ウォーズ8といい、いまのデ銭からは「挿入すれば俺のもの」みたいな、薄汚い男根的商業主義をしか感じない。ああ、怒りにかられて同じレベルに堕してしまった。汚された心を浄化するために、前作を見たときに書いた感想を引用しておく。

 『本当に大切なものだから、だれかが汚さないうちに終わらせる。子どもの目には夢の国、大人の胸には死の気配。どこも壊していないのに、ほら、もう何の足し引きもできなくなった。己が代換品であることを知りながら、なお生きなければならないあなたへ送る、数少ない本物のマイルストーン。』

ゲーム「ファイナルファンタジー7リメイク」感想

 もともと手をつける予定はなかったのを、なんというか社会情勢に促される形で、気まぐれにダウンロード購入した。ご存じのようにファイナルファンタジー・シリーズにはいくつかの派閥があり、「6までしか認めない派(9と11も許容する分派あり)」「7以降しか認めない派」「10が最高傑作である派」の3種類へ、「エフエフ派」「ファイファン派」の2種類を絡めると、大きく6つに分けられる。私はと言えば、「6までしか認めないエフエフ派」に属しているので、リアルタイムでプレイした7には苦々しい思い出しかない。だが、頻繁に助詞を省略する独特の台詞回しにイラッとさせられながらも、10時間ほどプレイしてEARISUと邂逅を果たした現在の感想は、自分でも驚くほど好意的である。13ばりの一本道RPGにも関わらず、プレイフィールはアンチャーテッド・シリーズを彷彿とさせるシネマティック・プレイアブル・ムービーなのである。しかしながら、かつては中二病的フレイバーに過ぎなかった反乱分子設定が、PS4の高精細グラフィックで都市生活を描きこんだ結果、主人公なのに社会を擾乱させる極悪非道のテロリストとしか思えなくなっているのは、本作における最大の皮肉であろう。けれど、いま十代である誰かにとっては、かつてイスラム国の若い兵士へと向けられたハリウッド風味のプロモーション映像のように、その感性に「刺さる」中身なのかもしれないと想像するのだ。そして二十年前、400万人のKURAUDOの一人だった身としては、己の来し方を振り返ると同時に、子や孫の代にまた新たなKURAUDOを生むのかと想像して、ゾッとする気分にもさせられるのである。ともあれ、PS4の高精細グラフィックでTIFUAの衣装を描きこんだ結果、幼馴染なのに青少年の勃起と中高年の半勃ちを誘発させる淫乱無比の痴女としか思えなくなっているのは、本作における最大の魅力であろう。

 FF7R、ウォール・マーケットに到着してから、ずっと笑ってる。夜の街とその住人たちが本当に生き生きと描かれていて、現場に顔を見せないことで有名な某ディレクターが、出社せずにどこで時間を過ごしていたかが余すところなく理解できた。DQ9発売時に、ホーリー遊児のキャバクラ通いをネタにしたパロディを書いたことがあったけど、それを完全に地で行く仕上がりなのだ。かつてはKURAUDOさんとの距離がゼロだったのが、年齢と社会経験(夜の)を重ねたせいだろう、少し離れた立ち位置から元祖・中二病とも言える彼のキャラクターを意図的に茶化しにかかっていて、3000ギルの手揉みとか真顔でマテリアをもてあそぶシーンとか、本当に腹筋がつるほど笑った。室外機が日本メーカー製じゃないのという指摘とか、リアリティの作り方が完全に現代の都市生活に依拠していて、ミッドガル脱出以降を描く続編はエヴァQみたいになっちゃうんじゃないかと心配するぐらいだ。けれど、どんなに鼻もちならない人間でも、時の流れの中で成長ーーとは言わないまでも必ず変化していくことに、笑いながら涙を流している次第である。

 いまハニー・ビーのステージで踊ってるけど、あたおか極まっており、酩酊と爆笑にコントロール不能で、ぴえんぱおん。最後、ポリティカル・コレクトネスをクリアしてるっぽい雰囲気すら漂っており、もうこれはKURAUDOの女装しか勝たん。

 FF7R、ウォール・マーケット以降、尻下がりに悪くなっていくなー。このディレクターには持ち味を生かして、夜の繁華街を舞台にしたホストかヤクザが主人公の作品を手がけーーってそれ、「龍が如く」やないかーい!

 FF7Rクリア。いろいろ文句も言ったけど、もう一度オリジナルをプレイしたくなってDL購入するほどには、よくできていました。でも、旧作の経験者からすれば、作品テーマについては、わざわざ続きを作って語るのがヤボなほど畳んじゃったし、最後のミッドガル外でのライティング(lighting、念為)に一抹の不安を感じたので、たとえリメイク2が制作されなくても、特に文句はないかなあ。でも、ラストバトル周辺ではウォール・マーケットと同じくらい、ずっと笑ってました。なんて言うんでしょう、作り手側の力こぶが見えるとでも表現しましょうか。マトリックス3で言うならスミスとのバトル、スターウォーズ3で言うならムスタファーでのバトル、北斗の拳で言うなら第3の羅将ハンとのバトル、とにかく「見る人にすごいと思ってもらう戦いにしなくちゃいけない」という気負いが満々で、一周回って笑えてしまうのです。あと、最後にネタバレしとくけど、もし次回作が制作されると仮定して、KURAUDOは最初からKURASU・FAASUTOのSORUJYAAだったし、SEFIROSUは仲間に加わるし、EARISUは死なないでしょう。それと、ゴールド・ソーサーはラスベガスへの取材旅行を元にしてーー軽く十億は溶かすと思うーー、ウォール・マーケットばりに魅力的な夜の街として描写されることを、インターネットに二十年生息するフィーラー(笑)が予言しておきましょう。

 FF7R、クリア後にAP稼ぎで16章を周回してるんだけど、バレットの「搾取の象徴でぬくぬくと生活している奴らに、真の恐怖を味あわせてやりてえ」って台詞、ヤバすぎるな……もしかして、中東地域にファンと販路を確保するための戦略なの? こんなん、ガチのテロリストやん。

漫画「鬼滅の刃」感想

 いまさら、オウガ・デストロイング・ブレイドを読む。端的に言って、とてもおもしろかった。ひさしぶりに現実を忘れてフィクションに浸ることができたし、何よりいまを生きる子どもたちがこの作品を支持しているという事実に、胸を熱くさせられた。好ましいのは、人気の出た作品が長く連載を継続するために、設定や感情の隘路へと入り込んでいくのに対して、本作は乾いた筆致のまま、わずか二十巻ばかりの地点ーー昔人の感覚だと、これでもまだ長いがーーで物語をたたみにかかっているところだ。ジュブナイル作品は、子どもがその属性を失う前に語り終えられることで、その時代にしか心に刻むことのできない何かを永遠に彼らへ残すことができる。ネコ型ロボットや海賊ゴム人間やポケット内の怪物は、かつて子どもだった誰かが、己にとって重要だった感傷を後から来た小さな存在へ押し売りする装置と化してしまっており、言い過ぎを許してもらえるならば、ときに子どもへと害を及ぼしてさえいるように思う。

 さて、現代日本において最も重要な作品の一つであるFGOのテーマが「善と超克」であるのに対して、本作のそれは「利他と継承」だと指摘できるだろう(「快活なユーモア精神」も両者に共通している点だ)。善については、何度か話をしてきたと思う。この世界の半分は善で成り立っており、そうでないもの(悪とは言わない)と、常にほんのわずかの差異で過半の境界を拮抗している。そして、善は基本的に観測できない。新旧問わぬあらゆるメディアという間接的な秤では、微小な善の放出を測定することができない。十年、二十年と生活や空間を共にしてきた誰かが、ふとした瞬間に漏らす吐息のような形でしか、善を見ることはできないのだ。その、2つの主観が科学のような客観に転じるほんのわずかな一瞬にだけ、私たちは善なるが確かに実在することを信じられる。FGOで描かれる善は、この意味での善だ。宇宙の多くを占めながら極めて観測の困難な、存在を予想されたあの昏い物質のように、善は見えねど善はある。ファンガスを読むと、繰り返しの日常の中に消えていくその感覚が鮮やかによみがえる。そして利他もまた、善と同じ性質を持っている。特に、ネット上に蔓延する利他のような何かは、すべて偽りと考えていい。なぜなら、自己愛は言葉にできるが、利他は行為そのものでしか表せないからだ。そうそう、自己愛と言えば、「弱くて可哀そうな自分をいたわれ」と叫ぶ鬼の、見開きによる回想はすごかったね! 我が身をふりかえって身につまされたし、何より凡百の長期連載作家なら、あれだけで十週くらいは引き伸ばしそうだーーおっと、話がそれた。

 オウガ・デストロイング・ブレイドがこれほどの人気を博しているのは、キャラ立ちやアクションの魅力だけでなく、意識的にか無意識的にかは知らない、全編にわたって通底する「利他と継承」というテーマに子どもたちが共鳴しているからだと思う。老人は言わずもがな、「大人」を喪失したこの世界で、行動の規範を求める子どもたちが虚構のキャラのふるまいから、それを学べるのだとしたらーーもしかすると未来は思ったより悪くない方向へ進むことができるのかもしれない。

 ともあれ、クロコダイルか、その名前、確かに覚えたぜ! へへッ、ファンガスといい、とんでもないヤツらと同じ時代に生まれちまったもんだ……(十年前の黄ばんだ同人誌ーー善と継承がテーマーーを握りしめながら)

  現代日本における基礎教養とやらであるところの「ゴム人間」について無料公開を聞きつけて、幾度目の挑戦だろう、第一話からのマラソンを開始した。そして、これまた幾度目の中絶だろう、またも嘘P団解散後のバトルあたりで読むのをやめてしまった。あと、現代日本における常識とやらであるところの「王国」読破チャレンジにしても、コココの人が死ぬぐらいでいつも挫折してしまう。両者に共通するのは何かと問われれば、キャラの魅力とまでは言わない、主人公の強さに説得力を欠いている点である。すなわち、被ダメ/与ダメに関してシステム(=作者)の補正が強すぎて、フェアなバトルになっていないのだ。その点、話題のオウガ・デストロイング・ブレイドは、ゲーム的な想像力でバトルを組み立てていることもあってか、非常にフェアな攻防だと感じることができる。なぜ突然、こんなことを話しているかと問われたら、FF7Rの裏で某ミニの天外魔境2を少しずつ進めており、改めてシナリオの進行とほとんど一体化したゲームバランスの妙に、ひどく感心させられているからである。でも「人肉」や「オカマ」はOKで、「キンタマ」がNGなのは意味がわからないなあ、と思った。

 鬼滅、おっと、オウガ・デストロイング・ブレイドの最終回(と作者の性別?)が話題のようだが、この内容は読者やファンに向けられたものではなくて、作者自身がするキャラクターに対しての罪滅ぼしというか、過酷な結末を強いてしまったことへのねぎらいなのだと思う。一流の彫刻家や仏師が言う「素材の内側に元から存在しているものを削りだすだけ」「それが外へ出てくる手伝いをするだけ」といった感覚に似て、自分がどこか別の世界に存在するキャラの依り代となって、彼らの生き方を自動書記的に写し取るようにストーリーを紡ぐという語り手がいる(特に女性に多いように思うが、小説家なら中期までの栗本薫とか、漫画家なら高橋留美子とか)。この作者にはたぶん、虚構にすぎないはずのキャラクターたちが、現実の人間と同じ重さで実在しているように感じられているのだと思う(そして、その感覚が作品の魅力につながっている)。だからこそ、蛇足のそしりを受けてでも生命を賭して戦った彼らへ、最後に救いの安息を用意したかったのだ。別の書き手、例えばファンガスだったら死を死として、喪失は喪失のまま提示してーーそれでも、網膜を焼く生の輝きを残しながらーー終わっただろうが、これは優劣の話ではなく、資質の違いだとしか言いようがない。私は、この結末を肯定する。最後までおのれの子らを商品として差し出さず背後に守り切った、生むものの矜持に拍手を送りたい。

 正直なところ、これまでツッタイーではニュースをななめ読みするぐらいで、自分のツイートとそれに対する反応にしか興味は無かった。しかしながら、「いいね!」を解禁して他者のツイートをじっくり読んでみると、興味ぶかくないこともない。最近は、どいつもこいつもオウガ・デストロイング・ブレイドの人気にあやかって関心を得るため、興味もないのに言及しまくっているのがほほえましい。もちろんインタレスト・ルンペンである私もあやかりたいので、諸君のツッタイー仕草に従うこととしたい。

 以前、鬼滅の刃が子どもたちに人気を博しているのは、「利他と継承」というテーマへ向けた無意識の共振が理由だと指摘した。「大正浪漫」「不老不死」「吸血鬼」「太陽の克服」「剣術」「呼吸法」といった、少年漫画的に使い古された題材を用いながら、私が突出してユニークで魅力的なモチーフだと感じたのは、「善悪を超越した巨大な才能の存在」である(才能はある閾値を超えると善悪の分別を超越する)。じつを言えば、ツッタイーで月曜日に行われるネタバレでこのキャラを知ったことが、作品に触れてみようと思うきっかけであった。究極の生命体と多数の人間たちによる争いの構図が、一個の天才という集合へ要素として包括されており、彼は世界を鳥瞰する神の位置にいながら、自らの才をつまらぬものと断じ、おのれの人生を失敗だったと悔いている。才能とは、「なぜ他人にはこんな簡単なことができないのだろう」「こんな児戯に賞賛や報酬の生じることがむしろ申し訳ない」と思える何かのことで、作中の彼のふるまいは正にこれを裏書きしている。賛否両論の最終回も、「永遠の生命」と「究極の天才」だけが輪廻から外されていることを暗に示すためだと考えれば、諸君の解釈も変わってくるだろう。いまなぜか、かぐや姫の物語を見たときの感想に、「つがいを得て子を成したものが地上で輪廻の輪に乗り、そうでないものたちは月へと帰る」と書いたことを思い出した。

 ところで、ほんの二十年ばかりテキストサイトを続けるだけの簡単なことを、閉鎖したり商業デビューしたり生命を落としたり、なぜみんな実践できないのだろう。金銭が発生したことのない文筆はこの世に存在しないも同じで、結局、私はテキスト書きとしては失敗した。その深い悔恨を抱いて、生きている。

ゲーム「FF11の思い出」その2

ゲーム「FF11の思い出」その1

 んで、こないだのFF11の悲惨な話の続きするね。たぶん1年ぐらいかけて貯めた億単位のギルとアイテムがぜんぶ無駄になって、完全に虚脱したシンジ君状態で、目標のオークをセンターに入れてシャンデュシニュ、とかつぶやきながらアンバスケードってコンテンツの第1章を薄暗い部屋でひたすらリピってたわけ、過去ジャグナーとマウラ往復しながら。湿ったところが大好きな節足動物どもが「ヌフフ、今月もヌルカポォでござるな」とか言いながらHimechanといっしょに3分でとてむず回して、あっというまに交換品を底までさらっていなくなるかたわらで、いつまでもジトーッとふつうを20分かけてソロってるわけよ、死んだ目で。んで、数日かけてようやくいくばくかのポイントが貯まって、何と交換するかなーって両手をスリスリしながら景品を眺めてたら、以前はなかった武器チケットってのがならんでるわけ。んで、どんなものがもらえるか調べてみるじゃん。そしたら、もらえる片手剣の最終強化先がごっついわけ。まえ右手にアルマス持ってる話したけど、左手は鈍色(にびいろ)うんこソードなのね。そういえば、ティソーナ作るかーってアトルガン行ったら、「お客様の役職ではちょっと……」っつって慇懃に追い返されて、そんじゃーセクエンス作るかーっつってパーティ参加希望だしたら「青魔導士の方の席はちょっと……」っつって職業差別されたの思い出したわ。話もどすけど、ハハハ、でもそうは言ってもオススメのことだから強化に一年ぐらいはかかるんでしょ?リフトなんとかが9,999つぐらいいるんですよねえ?なんて半笑いで後頭部に片手を当ててたずねたら、アンバスのポイントが三万くらいあったら強化素材をぜんぶ交換できますよっておっしゃるわけよ。え、マジでっつって三度見ぐらいすんだけど、ちょうど手元のポイントでぜんぶアイテムとれちゃうの、マジで。んで、トッコソードもらってナゲットとかオーブで強化していくわけ。4段階目まであっさり手に入って、やったー、これでジケジケした庭のはっぱの裏のナメクジどもと同格だー、なにがティソーナや、セクエンスなんかいらんかったんや!とか言いながらカジャソードとマターをタルタルのデコスケ野郎に、さんをつけろよ!なんてアキラごっこしながらグリグリ押しつけんだけど、何回やっても受け取ってくんないの。あれかー、マンション住みの職あり陽キャどもが上半身正装・下半身陰毛まる出しでオンライン会議やってて、全体の回線が重くなってんのかーっつって調べるけど、ド田舎の荒野のロサンゼルスの掘ッ立て小屋なので、陽キャどもの影響はまったくない。んで、用語辞典みたらパルスアームズってのをマターといっしょにトレードしろよ、このミスラのデコスケ野郎って書いてある。イヤな予感しかしなくなって薄目のロンパリでググッたら、ヴォイドウォッチの敵が落とすって書いてあんの、パルスアームズ。ヴォイドウォッチ! オレは思わず胸をなでおろしたね。FF11で1、2を争うほどつまんないハズレコンテンツなんだけど、ヘヴィメタル集めるために空島まで進めてたの思い出したの、すっげえつまんねえクソコンテンツなんだけど、ヘヴィメタル集めるために仕方なく。んで、アイエロっつーノートリアスモンスターが片手剣のパルスアームズ落とすってわかって、空島へどうやって行くかおもいだすために四畳半の部屋をぐるぐるまわって、よっしゃ思い出したっつって、どういう仕組みかわからんけど本に話しかけてワープするわけ、なに言ってんのかわかんないと思うけど本に200ギルわたして。んで、ラピュタは本当にあったんだ、なんてパズーごっこしながら地面から噴き出てるエネルギーみたいなのにヴォイドストーンを投げ込むわけ。そしたら、デビルマンのシレーヌのパクりみたいなデザインのモンスターが出てきて、内心ソロれるかドッキドキなんだけど、2分ぐらいシャンシャンしてたらあっさりたおせるわけ。あ、ちなみにシャンシャンってのはアイドルマスターシンデレラガールズのプレイ音じゃなくって、シャンデュシニュシャンデュシニュ光連携の略称のことね。んで、地面に出てきた宝箱パカーってあけたら、ゴミみたいなアイテムばかりで装備品がいっさいないの。おっかしいなーこのハコ不良品かーっつって調べたら、エフェメロンのドロップ率は極めて低い(キリッ、みたいなことが書いてある。知ってたわー、オススメだもんなー、知ってたわーっつって、でもヴォイドストーンは5年間でアホみたいにたまってるし、「?ぶき」を求めて玄室を周回しまくることで貴重な少年期をドブに捨てたボクの苦痛への耐性(タンポポのせみたいな単純作業の繰り返しへの)をナメるな!っつって、アイエロマラソンが爆誕するわけよ、日曜の昼さがりに。ぜんぜん関係ないけど、クッソつまんないポケモン映画シリーズの唯一の功績って、日本人の語彙に「爆誕」を追加したことだよね、ぜんぜん話ちがうけど。んで、最初こそマジメに画面見てシャンシャンしてんだけど、べつにそこまでやらなくてもオートアタックとフェイスだけでも倒せるのがわかってくるわけ。んで、海外ドラマ見たりしながら(ブレイキング・バッドの履修完了はこのおかげ)シャン……シャン……ぐらいの感じで倒し続けるんだけど、これがもうぜんぜん出ない。その日は5時間ねばって成果ゼロ。空島でひさしぶりに寝落ちみたいなログアウトして、また次の休みにシャン…………シャン…………ぐらいのテンションで再開するんだけど、体感(笑)で「?ぶき」の百万倍ぐらいで出ない。初期のMMORPGが人生の時間を吸引していくすさまじいバキュームぢからを体験しながら、「しまった、アンブラルマロウの方を換金するのが正解だったか……オレってつくづくオンラインに不向きな日本人だな、むぐむぐ」なんっつって休日にひとり孤独のグルメごっこしたのが最近の私的FF11クライマックス。じつはいまもやってるけど、まだ出ない。もはや、シャン………………シャン………………ぐらいのテンションで、ジジイのコイトスみたいな棒振りぐあい。  

ゲーム「FF11の思い出」その3
ゲーム「FF11の思い出」その4
ゲーム「FF11の思い出」その5
ゲーム「FF11の思い出」その6
ゲーム「FF11の思い出」その7
ゲーム「FF11の思い出」雑文集
雑文「私とカラドボルグ(FF11とはずがたり)」

海外ドラマ「ブレイキング・バッド」感想

 長くて不快なの出るお! リム……いや、ミュート! ミュートぐらいにしておけ!

 ブレイキング・バッド、シーズン3の途中ぐらい(ハエたたきの回)で脱落してたんだけど、このたびヒマにあかせて、ようやく履修を完了した。最終シーズンの話がどれも良くて、やっぱり物語というのはいかに作り手側の思い入れが強かろうとも、必ずすべてのキャラクターが不可逆に変わってーーあるいは壊れてーーいって、その終わりには始まりとまったく違う場所にいなければならないのだと改めて感じさせられた次第である。打たれたピリオドに成長と喪失のどちらが多く含まれているかが、物語の質を決めるのだと思う。物語が長期化すればするほど、作り手がキャラクターを愛しすぎるようになり、壊せなくなっていく。彼らと遊ぶことのできるこの瞬間が永遠に続けばいいと願うことが、「終わらない物語」の正体だ。グイン・サーガはある時点から(たぶん、アルド・ナリスを殺せなくなってから)確実にそうだったし、絆は腐るほどあれど喪失がないゴム人間ーー仲間のだれかが欠けることを想像できない、蝕の後の狂戦士のようにキャラ全員が「作者に守られた、弛緩した安全圏」の中にいるーーもそうなのだろうと思う(これ、オウガ・デストロイング・ブレイドがいかに特異であるかの説明にもなってる気がするな)。漫画に「終わらない物語」が多いのは、亡くなった「ン」の人も言っていたように、キャラクターがストーリーに優越する作りになっているからなのかもしれない(で、キャラクターを変化させられなくなって、ストーリーの永続化か頓挫の二択へ向かう)。

 まったくの余談だが、私はこの奇妙な二ヶ月間でゴム人間が受け入れられる本邦の土壌が、まざまざと可視化されたような気がしている。なので、医療関係者をカッコよくイラストにして応援、みたいなプロによる企画?が現場の看護師のヒステリックな絶叫で一瞬にかき消されたのを見たときは、じつに胸のすく思いがした。同時に亡くなった祖母(大陸帰り。敗戦直後、丸坊主にされて自害用の毒瓶わたされた話、したっけ?)が、戦争になったら必要なくなる仕事はするな、みたいな話をしていたことも思い出した。実業に対して虚業なる言葉があるけれど、演劇界隈の重鎮たちが己の生業を虚業と定義していないようなのには、驚かされた。「虚」から始まる無用物の絶望が、すべての創作を「実」に勝る高みへと至らせる原動力だと長く信じてきたので。ほんと、年くってから突然、名士になりたがるよね、あいつら。エロゲーとか見下してそう、同じカテゴリなのに。野良犬だからこそ届く牙もあろうに、まったくランス10のツメのアカでも煎じて飲んでほしいよ!

 脱線しまくったが、ブレイキング・バッドへ話を戻す。人が何か大きなことを成し遂げたり、ある集団の中で登りつめてゆくためには、5つの要素が必要だと思っている。まず内に秘める「知恵」と「才覚」は不可欠で、それらを100%外界へ発出するためには「胆力」が無ければならない(少ない「胆力」の分だけ、「知恵」と「才覚」の出力は減ずる)。それから、目指すべき達成の中絶を許さない、不断なる「意志」の力だ。実のところ、「知恵」と「才覚」を持つ人間は世の中に数多い(いや、ほとんどの者がこの2つを持っていると言っていいくらいだが、私を含めた多くが自分にしかない持ち物だとどこかで錯覚しており、気づいたときには手遅れになっている)。しかし、「胆力」の段階で半数ほどがふるいにかけられ、「意志」の段階でさらに多くが脱落する。そして最後の要素は、「他力」である。それは、敬愛する色川御大のギャンブル小説に表現される、すべての技術を究極に突き詰めた先で、純粋にそれぞれの持つ運だけが勝敗を決める状態に似ている。選抜の末に残った者たちの中から、最後の高みへ一人を押し上げるのは、自分の内側にはない外部からの力なのだ。独力で何でもできる人物が、赤子のような無力で他者へ身をあずけて、高い場所へと「置いてもらう」。このプロセスを抜きにして、人は誰かの上に立ったり、大事を成し遂げることはできない。もしかすると「他力」とは、人間存在への「信頼」なのかもしれない。この物語には、5つのうちの4つまでを備えた何でもできるはずの男が、1つの欠落に最後まで気づくことができない(視聴者はずっと気づいている)滑稽さとーーたぶん、悲しみが描かれている。

 え、だれかの境遇にそっくりだって? 言うな、言うな、ここまでの名調子が台無しになる(台無し)!

ゲーム「FF11の思い出」その1

 歴戦王ネロミェールにあんまりムカついて、ただの余暇にこれ以上コントローラーを破壊させまいと、FF11のアカウントを5年ぶりくらいに復活させたんだよね。ウィンダス所属のネコなんだけど、闇王たおしたところでミッション終わってて、よし、まずはこの続きやるかーって感じで手をつけたわけ。そしたらさ、初手から依頼者のアジドマルジドが見つからない。鼻の院のNPCに片っ端から話しかけて、ようやく従者?みたいなのに呼んでもらう仕組みだってわかったわけ。んで、言われるままに西ホルトト遺跡へ行ってイベント見て、おわったーつって、鼻の院に戻ってNPCに話しかけてもミッションが終わらないわけ。調べてみると、満月の泉ってのに行かないといけないらしいの。んで、西サルタバルタから別の魔法塔に入ったら、段差があって先に進むことができない。調べてみたら東サルタバルタから行けってんで、テクテク歩いて移動すんの。サルタバルタの音楽は、なんてーの、あつ森みたいな癒し系で、ロンフォールには負けるけど、ちょっとじんわりしながら魔法塔に到着して、ダンジョンへ入るわけ。ザッザッザッザッつって。からんでくる敵をサブダク(つゆだくのイントネーション)で蹴散らしながら奥へ進んだら、魔封門ってーの? 白黒赤の3魔導士が中の人ありで3ヶ所のタイルに乗らないと開かない門があるわけ。オイオイ、休日のピーク時に600人しかいない過疎・マッカレル(鯖)でだれが3人もPC集められんだよー、なんていいながら調べたら、一人でも開門できる札が用意されてるみたい。そんで引き返して、天の塔のクピピのとこへ向かうわけよ、テクテク歩いて。そしたらさ、何回話しかけても札くんねーの。調べたら、おみやげにロランベリーをトレードしろって書いてあんの。ロランベリーつったら、確かウィンダスの特産じゃん、らっくしょーとか言いながら調理ギルドへ向かうじゃん。そしたら、販売してねーの。競売もカッソカソ(カッスカスのイントネーション)で出品されてない。調べたら、ジュノ港の免税店に売ってるっていうからデジョンして買って、クリスタルでクピピんとこワープしてトレードして、ようやく魔封門を開ける札?をゲットするわけよ。んで、また東サルタバルタをテクテク歩いてダンジョンを歩いて魔封門を開いて、壁なんだけど通過できるみたいなギミックに気づかず結構な時間をウロウロしてからトロイメライ水路に入って、満月の泉を目指すわけ。そしたら、下水部分と通路部分の上下に道が分かれてて、まったく地図通りに進めないの。ほうほうのていで満月の泉にたどりついたら、なんか1分くらいのイベントでアジドマルジドがつかまって、ちゃーちゃららちゃーちゃららちゃっちゃちゃー、って効果音が流れて、あれ、これでおしまい?みたいな。ここまででさ、3時間かかってんの。いやー、ひさしぶりにオススメのオススメらしさを体験してうれしかったけど、シロウトさんにはまったくオススメできないゲームだわ、これ。  

 んで、こっからは余談だけど、これまたひさしぶりにネ・ジツ(ソ・ジヤのイントネーション)を見てみたら、初心者復帰を支援するスレッドなのにグツグツに煮詰まってて、「風水士はイドリスを持っていることが当たり前なのでわざわざ持ってないことを断ったりしない」とか書いてある。イドリスってのは、一年間毎日ログインしてようやく手に入るような武器なのね。このカキコ(パピコのイントネーション)見た瞬間に、石を裏返したら地虫がたくさん這いでてきたのを見たときみたいな生理的嫌悪にゾーッとして、リアルでワーッと叫んでブラウザの閉じるボタンを連打してしまった。同じくらい最悪な気分になったのは、博多弁を話す少女キャラが性的な姿でタイムラインにたくさん流れてくるので、金銀ぶりぐらいにポケモンの最新作を買って、オーッ、スゲーッ、オープンワールドじゃん、ポケモンの進化スッゲー、みたいな気持ちでついうっかりニ・チャンを見てみたら、交わされているやりとりが外国語なみ(ほとんどピジン英語レベル)にグッツグツに煮詰まってて、リアルでウワーッって叫んでブラウザの閉じるボタンを連打したとき以来のことだった。でも、いちばんゾッとしたのは、復活したキャラがなんかモヤモヤしてんなーと思ってカバン開いたら、まったく覚えのないアルマスの完成品(一年ぐらい毎日ログインして3時間ぐらいプレイしないと手に入らない)が入ってたことです。もしかしたら、ひどい抑鬱状態だったのかな、5年前のわたし……こわい、こわいよう。

 んでさ、前回の話の続きだけど、ミッションはもういいやっつって、そっからヒマにあかせて、復活したキャラのアイテム整理とかはじめたわけ。そしたらなんか、高純度ベヤルドをやたらたくさん持ってんの。なんでかなーって思ってたら、倉庫の底のほうからホコリまみれのノダルワンドが見つかったわけ。こないだ言ってたイドリスってすごいつよい人権棒の強化する前のヤツで、これ取るのにも200日ぐらいかかんのよ。そういえば高純度ベヤルドってノダルワンドの強化素材だったわって気づいて、サイフにもなんか5千万ギル?6千万ギル?くらいパンパンに入って(こわ)て、なんで最後まで強化してないのかなーってふしぎで、なのに頭にモヤがかかったみたいに理由が思い出せないわけ。よーし、材料と資金はタップリあるし、連休中にイドリス完成させちゃうぞー、わーい、これでわたしもあの石の下のジメジメした汚らしいクソ虫たちの仲間入りだーっつって、オークションハウスとなんかよくわからんドーの門とかモーの門とか往復してノダルワンドをきたえてったわけ。そんで、うおー、あと一段階でイドリス完成だぜー、これでおれもあの地中で陽も浴びない腐ったゲジゲジどもと同レベルのクズの一員だー、このままシーの門へゴーっつって、最後の強化に必要なユグの完全結晶ってのを競売で探すんだけど、売ってないわけ。出品がないんじゃなくて、項目そのものがない。調べたら、メナスインスペクターってのでボスぜんぶたおしたらポイントで交換できるよって書いてある。あー、はいはい、前はこれでめんどくさくなってやめたのねー、でもこんな昔のコンテンツ、アイテムレベルも上がってるし、アルマスもなぜかある(こわ)し、あたしひとりでお茶の子さいさいよ!なーんてエヴァのアスカごっこしてもりあがってたんだけど、なんかボスがいるとこ?をクリックしまくってんのにぜんぜん入れないの。調べたら、中の人がいるキャラが3人いないと入れないって書いてある。おまえらホンマ、中の人が3り必要なん好っきゃなー、どうせまた魔封門の札みたいなアイテムがあんねんやろ(笑)?って調べたら、これがないの。ほんとうにない。そんでベソかきながら「メナスインスペクターてつだってくれませんかー?」とかって何回かシャウトすんだけど、600人からいるヌメヌメのゲジゲジども、まるでツイッターみたいに全員ぼくの発言をガン無視。同じ色のリンクシェルつけた6人組がドラクエみたいな縦列イモムシウォークでアオるみたいに目の前を通りすぎていくのがムカついた。億相当の素材とギルがぜんぶきれーにムダになって、顔からサーッと血の気が引くのがわかるぐらいの、完全な詰み状態。ここにきてイドリスが未完成なままの理由を、ようやく霧が晴れたみたいに思い出したってわけ。同じ理由で二度引退するバカがあるかっつって脳内の範馬勇次郎が吠えたのが、今年のゴールデン・ウィークのクライマックス。そのまま「ク・ク・ク、ギャヒーッ!」って藤子不二雄Aのマンガみたくさけんで椅子ごと後ろにひっくりかえって、デュエルシャポーのロットに負けた赤魔道士ばりにそのまま失神したわけ。んで、目が覚めたら床についたほおが冷たくなってて日は変わってて、連休も終わってたって話。

 オヨヨ、貴様ら昨日以来ぜんぜん反応ないけど、もしかしてだれもFF11履修してないわけ? もしかしてこのツッタイー、またブッこわれてんの? それともアジドマルジドは鼻の院じゃなくて口の院のオサ(族長)!族長(オサ)!だっつって、激おこぷんぷん丸なの? なんやねん! あんま暗いツイートばっかやと時世的にいかんなーっつってユカイな感じで狂騒的におっぴろげてんのにフォロワー減りまくるって、なんやねん! あれか、高等ユーミン(小さい頃ばかりでなく、大人になってもまだ神様がすぐ隣にいる)の俺様のインペリアル・ライフをねたんどるんかいな!

ゲーム「FF11の思い出」その2
ゲーム「FF11の思い出」その3
ゲーム「FF11の思い出」その4
ゲーム「FF11の思い出」その5
ゲーム「FF11の思い出」その6
ゲーム「FF11の思い出」その7
ゲーム「FF11の思い出」雑文集
雑文「私とカラドボルグ(FF11とはずがたり)」

ゲーム「十三機兵防衛圏」感想

 十三機兵防衛圏、プレイしてる。たぶんいま、半分くらい。あんまり似てないのに、なんか久遠の絆のことを思い出す。ここまでの印象としては、「キツネ狩りにバズーカを持ち出す英国女王」。

 PCエンジン版のイースⅠ・Ⅱが大好きで、WIN版のエターナルを買ってガックリしたことを思い出した。あんまりガックリしたので、エミュー(ヒクイドリ目ヒクイドリ科の鳥類で、完全に合法な存在)を使ってPCエンジン版を再プレイしたら、なんかフィールドの音楽に違和感がある。データ上での違いはないはずなのに、再生環境の問題かなと思っていたら、曲の終わりと始まりのループ部分でCDの読み込み音が聞こえないことが原因だとわかった。テキストサイト運営者の高度な文章技術で再現するとこんな感じだ。(突然立ち上がり、白痴の表情で)ちゃーちゃーちゃー、ちゃーちゃーちゃー、ちゃちゃちゃちゃっ(きゅるきゅる)ちゃー、ちゃらららー、らーららーらー。おわかりいただけただろうか。この「きゅるきゅる」が無いことが無意識のうちに気になっていたわけで、よほどプレイフィールそのものが身体感覚にまで染みこんでいたと言えるだろう。

 他の例で言えば、これまたPCエンジン版の天外魔境Ⅱでフィールド音楽はCDから読んでるのに、戦闘中は内臓音源で読み込みをゼロにしてたのも身体が覚えてて、より快適になったはずのリメイク版におけるプレイフィールにひどいニセモノ感(戦闘毎にフィールド曲が巻き戻ったり)を禁じえなかったりした。当時のCD媒体のゲームは、戦闘の前後で1分ぐらいCDを読みに行ってたーーいま思い出した、コズミックファンタジーとかひどかったーーから、天外魔境Ⅱのテンポ感は私にとって超絶的な革命であり、身体の芯にまでコンマ秒単位でタイミングが刷り込まれてしまっていたせいだと思う。そういえば、序盤にある祭りのムービーで暗黒ランが出現する直前にCD読み込みが入って、それが不気味な静寂を表現する演出上の「間」になってたりとか、すごい好きだったなー。

 共通するのは、どちらのゲームも制作者の意図が隅々にまで行きわたっており、ほんの小さなレスポンスに至るまで、作り手の統御下に無いものがないという安心感だった。エヴァQとかスターウォーズにする私の評を見てもらってもわかると思うけれど、制作サイドと周辺状況みたいなのが、まずもって気になる性質なのである。その神経症の客がする指摘に対して、「おいおい、なに言ってんだ、あんたはトーシローのお客さんだろ? 裏がどうなってるかなんて、余計なことは考えなくていいんだよ! さあ、細かい部分は俺たちプロにぜんぶまかせといて、大船に乗った気持ちで楽しむことだけに集中しなよ!」と豪放に笑いながら断言してくれる感じは、この上ない快感だった。懐古趣味と言われれば返す言葉もない。しかし当時のゲームには、腕自慢・材料自慢で客を委縮させたりしない暖かな空気のような、その場を離れた後にしみじみと喜びを反芻するような、高級な料理店で食事をするときに受けるサービスのような、そんなプロフェッショナルの仕事が確かに存在していたと思う。

 長々と書いたが、十三機兵防衛圏をプレイしていて、ひさしぶりに良質なプロのサービスを感じることができて嬉しかったという話です。プレイフィール以外でも、十三人の主人公がしっかりと別々の個人として書き分けられているのには感心しました。ひとつ例を挙げると、過去の国防少年が未来へ飛ばされたときの反応が、語彙レベルだけでなく意識レベルでも齟齬なく表現されていたり、書き手の真摯さと苦労の深さが端々に感じられます。ここまでの自分語りに共感を覚えた向きは、女房を質に入れてーー誤解がないように付け加えると「女性の配偶者を私有物品として担保に預けることで金銭の貸し付けを受ける」という意味で使っているーーマストバイでしょう!

 さて、以降は制作者の目に届かないことを祈りつつ、自分のために書き留める日記のような内容になります。

 たぶんシナリオを書いている人物は、同年代なのだろうと思います。「ピコピコ少年」のような少年時代を過ごし、映画・小説・マンガ・ゲームなど、私と同じフィクションを通過してきているのでしょう。本作はそういった過去の体験が複雑に織り込まれたガウディの建築物のようになっていて、すべての要素がどこに出典を持つかが同じ世代には手に取るようにわかります。昭和から平成にかけての虚構を、制作者のフィルタを通じて一個の集大成へとまとめあげていくさまに、私などは感動すら覚えるのですが、はたして若い世代が同じ感想に至ることができるのか、正直わかりません。本作は高校生を主人公に据えたジュブナイルの見かけなのに、三十代後半から四十代にもっとも強く訴求する内容になっている気がします。ジュブナイル物の本来のターゲット層である十代後半から二十代がこのシナリオを読んで何を感じるか、もしかすると意味不明と思われないか、とても気になりました。

 そして、システム面で言えば「追想編」「崩壊編」「究明編」はひとつながりのゲーム進行の中にまとめられればよかったのにと思います。「究明編」はメニュー画面の図鑑要素に過ぎないし、ADVパートの「追想編」とSLGパートの「崩壊編」がバラバラに提示されているのには、過去の同種のゲームと比して、違和感があります。こうなった理由の一部として、時間が足りなかったことはあると思いますが、御社の強みであるところの「ドット絵風2D横スクロール」が、本作では「必ず使わなければならないモノ」として、枷になってしまっているのではないでしょうか。このシナリオを表現するのには、ビジュアルノベル方式のほうが内容的にもコスト的にもベターな気がするのです。

 いや、結果として出力されている中身は素晴らしいの一語に尽きるのですが、「英国女王がバズーカでするキツネ狩り」と表現したように、目的に対する手段のアンバランス感が否めません。アストロ球団的試合運びとでも言いましょうか、「全力で180キロを投げた絶対エースは右腕を骨折、しかもその球が打たれる」ような状況をグラウンドに見せられれば、観客席の女子マネージャーはただ両手で口元をおおって、涙を流すしかありません。

 さて、まだクリアには少し残していますが、パッケージ売りの大作ゲームが持つ、他の創作ジャンルに比した大きな利点を噛みしめています。それはエンディングまでがすでに作られており、プレイヤーの反応を見てそれが改変されたりする心配のないことです。福音戦士の新3部作とか、銀河戦争の続3部作みたいに、登っている途中のハシゴ(イコール伏線)へ他ならぬ作り手から足払いをかけられて、大転倒の大怪我をするのではないかと恐れる必要がないのは、本当にストレスフリーですね。制作者の大きなフトコロに抱かれて、ああでもないこうでもないと今後の展開を自由に想像できることは、なんて素晴らしいのでしょう!

 え、某潜入ゲームの第2作みたいなこともありますよ、だって? (少女が涙目で)そ、そんな怖いこと言わないでよッ!

 なんかサーティーン機兵が一周年みたいなので、感想を再アップしてみた。え、クリアしての評価はどうでしたかって? ファミコン時代からのアドベンチャーゲーム好きにとって、読後感は「メタルスレイダーグローリー」というより「ジーザス恐怖のバイオ・モンスター」でした。