猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト」感想(ハサウェイ未遂)

 「よし、ハサウェイ見に行くぞ!」と何度も声に出すことで己を鼓舞し、イヤイヤ映画館に行ってきました。んで、ハサウェイのチケット買おうとしたら、タッチパネルのボタンが暗転してて押せないの。「エッ エッ 大人気……ってコト?」などとスモプリ(small and prettyの略で、nWoの登録商標)の顔でうろたえてたら、単に上映開始時間を過ぎているだけでした。どうやら、違う映画館のサイトを調べていたようで、オマケになぜか1日1回しか上映してません。やはり、ガンダムには縁が無いのだと、ガックリ肩を落として帰ろうとしたら、「待って、劇場でハサウェイのブルーレイ販売してるよ」って、インターネットがささやいてきました。「ワッ ワッ 買って帰れば、家でハサウェイ見られる……ってコト?」などとスモプリの顔で喜んでいると、「でも、劇場でハサウェイ見ないと売ってもらえないよ」ってインターネットが再びささやいてきたのです。これには無数のクエスチョンマークがスモプリの脳裏を乱舞し、「エッ エッ ハサウェイ見たらもうハサウェイ見る必要ないのにハサウェイ見ないとハサウェイ見られない……ってコト?」と大混乱に陥りました。ビニル製のサイフに千円札と小銭がパンパンに詰まっている、サウジアラビアの王族とは縁もゆかりもない富豪だというのに、欲しい商品を売ってもらえないのです。

 ちなみに、ビニル製のサイフをバリバリゆわせながらオープンし、おつりの出ないよう1円単位の小銭までキッチリ支払うことの文化的対偶が何か、この場を借りてお伝えしておきましょう。赤銅色の肌をした白人ファーマーがガッデム・ビッグなトラクターで荒野のガススタンド兼雑貨店に乗り付け、ジーンズのポケットから直に取り出したシワくちゃのドル紙幣を指で伸ばしながら、コークと洋ピン誌とともにカウンターへ置くことが、それに相当します。

 閑話休題。シンエヴァの興収が100億を超える一方、ハサウェイは15億どまりなので、エヴァがガンダムに勝ったなんて話も聞こえてきますが、興収なんて飾りに過ぎんのですよ、偉い人にはそれがわからんのです(ガンダム下手が露呈)。客単価を考えれば、シンエヴァの各種割引もある1500円に対して、ハサウェイは定額1900円(ひどい)プラス特典付きブルーレイ1万円と、単純計算で8倍ほどにもなります。興収に変換すれば120億、いや、シンエヴァはハサウェイの5倍ほど長く上映していますから、実質は600億ほどの売り上げを達成したと見なしてよいでしょう。40年間にわたり時代に応じた派生作品たちを次々と生み出し続ける豊饒な商いは、25年間にわたり依怙地なまでに固執した同じキャラと同じロボットと同じストーリーをさらにパチンコで薄めてほとんど軟便みたいになった単品コンテンツとは、比較にすらなりません。閃光のハサウェイ、ファンの記憶に汚物をなすりつけてでも記録に残りたいシンエヴァとは真逆の、成熟した大人を転がして喜んでカネを払わせる、堂々たる商売だと言えましょう。まだ見てへんけど。

 んで、このまま帰るのもシャクなので、ロビーで時間をつぶして、ハサウェイの代わりに話題のレビュースタァライトを見ました。そしたら、あまりにビックリして、腰が抜けました。タイムラインへあれだけの激賞しか流れてこないのに、ここまで1ミリも気持ちがシンクロしない映画って、ある? もしかすると、演劇や舞台に関わった方にだけ、引っかかるフックが仕込まれているのかもしれません。一言でまとめてしまうと、「宝塚音楽学校を舞台にした少女革命ウテナ」なんですけど、徹頭徹尾、頭で考えて、理性の内側で作ってる感じがしました。一見して不条理にうつる演出とか同じモチーフの執拗な繰り返しって、絵画で言うとゾンネンシュターンとか、映画で言うとヤン・シュヴァンクマイエルとか、アニメで言うと幾原邦彦とか、作り手が内的衝動に突き動かされて、どうしようもなくそう表現してしまうところに、観客は圧倒されるわけです。この作品は、そういった欲動の放出を一方的に浴びせるのではなく、勉強に使ったノートを隣りに座って丁寧に説明してもらっているような印象を受けました。破綻と不条理を表現のよすがとしながら、どこどこまでも理性的で、けっして狂うことがないと見すかされてしまう感じです。あと、デュエルとデュエルの間に挿入される回想シーンがけっこう長くて、ダレました。それと、歌劇モノなのに歌唱が耳に残らないのも、説得力を弱めているように感じました。マクロス方式で、歌パートだけタカラジェンヌに任せた「アタシ・再録音」バージョンを作りましょう(無茶ぶり)。

 いろいろ言いましたが、これらは偶然みかけたラーメン屋の行列へならんで味にガッカリするような、個人的な「好悪」の話であって、作品への「評価」でないことは強調しておきます。たぶん、私はこの舞台の「観客」ではなかったということでしょう。え、家人の感想を聞きたいって? 生粋の関西圏パンピーであり、「しょうもな。これやったら倍はろて、大劇場のB席とるわ」とか言われたらイヤなので、連れてってません。もちろん、見に行ったことも言いませんよ!

漫画「奈良へ」感想

 「奈良へ」読む。奈良県北部在住なので物語の舞台が生活圏と重なり、ほぼすべてのコマのロケーションがわかって、メチャクチャ面白かった。「奈良高やったら大丈夫やろ」みたいな、下手な帝大より公立トップ校の方が通りがいいのも、わかるなーって感じ。

 県民ではない人物の感想は巻末の解説を読んでいただくとして、奈良の住人(非ネイティブ)から見ても、土着の方々(ネイティブ)の無意識に流れているナチュラルな差別意識の感じが、とてもうまく描かれていると思いました。「奈良町ってオシャレですよね!」「あんなもん、花街やないの。三条通りから向こうに子ども行かしたらあかんで」とか、「王寺って日本一住みよい町なんですって!」「あんなもん、××業者の溜まり場やで。すぐ水つかるし、住むとこやないわ」とか、呼吸するように出てきますからね!

 これこそ、私がネットを「世界の半分」だと感じる理由であるし、いくら「正しい」と思われる「進歩的な」場所へと目盛りを指す矢印を押していったところで、手を離せば土着の方が座っているあのゼロ地点へと向かって、自動的にジワーッと戻っていくと感じるわけですよ。それに、目盛りの矢印を押してる方々って、末代が多いように見えるし……って、アンタもだいぶ意識を奈良県に毒されとりますな!

 観光向けに作られた奈良のイメージではなく、粗野で猥雑な「卑」の部分を味わいたい向きに、「奈良へ」、超オススメです。

映画「三島由紀夫vs東大全共闘」感想

 そろそろオのつくイベントの舞台裏感動垂れ流しが始まりつつあるので、テレビの電源を引っこ抜いてアマプラのクソ重いユーアイをグリグリと先行入力していたら、「三島由紀夫vs東大全共闘」が配信されているのを発見した。大海を思わせる膨大な配信コンテンツの中で、何を視聴するかというのは、もはや意志を伴わせることが難しく、運や偶然でしかなくなってきましたね。昔、まともに就職できなかった学生運動崩れの溜まり場みたいな中小企業に関わったことがあり、あの手の連中を感化させた思想の上澄みに触れておきたい気分もありました。昔の大企業は、SNSを若手に実名サーチさせる以上の人定作業をキチッとやっていたので、全共闘の幹部とかコミュニストは書類段階ではじかれるんですけど、人事の甘い中小企業なんかがいったんひとりを入れてしまうと、どんどん仲間を呼んで企業風土を汚染して、過去との断絶を作っちゃうんですよね。

 まあ、これはどうでもいいので、話を「三島由紀夫バーサス」へと戻します。感想としては、三島由紀夫があまりに強すぎることと、トーキョー・ユニブだろうがトーヨー・ユニブだろうが文系はおしなべてクソで、いつの時代も感情で都度ブレるうわごとしか発さないことがわかりました。どいつもこいつもこれまで見てきた学生運動崩れのオッサン、オバハンの話法にソックリ(当たり前)で、人間の集団に生かしてもらう程度の才覚しか持たないのに、その運営へ責任を負う気はいっさい無い連中の放言を我慢強く聞いて、駄々ッ子をさとすように言いふくめる三島先生の姿には、我が身の過去を重ねて涙が出てきました(やはり、「転生したら小鳥猊下だった」のでしょうか?)。学生サイドは、全体として言っていることが観念的で弱すぎ、特定の思想を運動の支柱にしたというよりは、土着の同調圧力で全国的な暴動にまで至ったんだなーとあらためて感じました。当時SNSがあったら暴動は起こらなかった気がするし、今日SNSがなければ暴動が起きておかしくない素地はすでに存在するでしょう。いずれにせよ、感情の乗り物である文系人間は昆虫と同じで環境への反射以外の行動を持たず、いつの時代も本当にクソだな、という印象を強くしました。

 ただ、娘を連れて討論に参加していた演劇畑の学生だけは、圧倒的な「狂」と「暴」の雰囲気をはらんだ老人になっていて、目の奥には半世紀を経た今でもまだ革命の火が燃えており、文系が意思の力で保てる一貫性もあるのだと感心させられました。この人物は反体制派の極北ですが、体制側に入り込むことのできた演劇人が見せる、驚くような臭気を放つ傲慢さの根っこには、彼の抱く革命思想と共通したものがある気がします。そして、いまの若いネット論客たちにこういう人物と差し向かいで議論する胆力があるとは思えません。晩年の三島由紀夫が肉体改造と武芸に傾倒していったのは、「いつでもお前を殺せる」という感覚で人と対峙するためでしょう。だから、スネかじり大学生どもの無礼な態度にも、寛容な微笑で対応することができたのです。なんとなれば、この世界では「死」だけが、いつでも、いつまでも特別だからです。「死」に至る「暴力」を封鎖されたこの場所で、革命は起こり得ません。もし私が体制側に属していれば、大衆をコントロールする有効な手段として、SNSでの言論にパワーがあると思い込ませることを目指すでしょう。そして、SNS以外の場所でいま、だれが、どう考えて、何を準備しているのかを想像することは、とても楽しい遊びです。あるいは、SNSの外にもう人間と呼べる存在はいないのでしょうか。

映画「ホーリーチキン」感想

 ホーリーチキンの監督ですけど、父親から受けた虐待への怒りをファストフードに、虐待を止めなかった母親への恨みを女性へのセクハラに、それらに起因する生きづらさをアルコールへの耽溺に向けているように見えます。数学の才能が無いグッド・ウィル・ハンティングとでも申しましょうか、良いセラピーを受けたら負の感情がすべて消えて宗教家にでもなりそうな、典型的な西洋型トラウマ人格であると指摘できるでしょう。前作のスーパー・サイズ・ミーは、ドキュメンタリーのていをしながら、ビックマックを食べてからゲロするみたいに、落とし込みたい文脈への誘導が非常に強くて、個人的に社会批評としてはあまり刺さらず、視聴後もモリモリとバーガーを食らい続けてきました。それが今回は、鶏肉産業が抱える問題に対して警鐘を鳴らすためだけにファストフード店の設立へまで至っており、前作と比べても社会批判の強度が格段に上がったように感じました。

 このへんの経緯には、アカデミアの雇われを辞して会社を設立したイーストちゃんの手法を想起させられました。ブロックされてるので何が起きてるかあまりわかってませんけど、わざわざ低みへと下りていって感情でプロレスするところも似てるような気がします。前にも書いたけど、彼にはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。みなさん、すぐルッキズムとかおっしゃいますけど、人前で話をするのって、声のコントロールを含めた外観の総合を見せる技術だと思うわけですよ。その訓練を受けていない人が、純粋に話の内容だけで判断してくれと言っても、外見に引っ張られず聞くには受け手側へ相当の知性と自制が要求されます。イーストちゃん、社員に軽んじられることを著書で嘆いてたけど、原因の7割くらいは話し方だと思うんですよねー(残りの3割は、本人が克服したと信じているマッチョイズム)。最後に彼の語りを聞いたのは、シンエヴァ公開当日の動画ですけど、まー、これがひどかった。忖度の眼差し(「シンエヴァが傑作だ」というトーンが決まるまでの様子とか)を向けながら、表向きは無頼なマッチョのようにふるまう追従者2名を前に、酔っ払いながら甲高い声で早口に話す様子は、彼の来歴とエヴァとの関わりを知らない者が見たら、即座に印象だけでチャンネルを変えたことでしょう。何度でも繰り返しますけど、イーストちゃんにはやっぱり酔わずにしゃべってほしいし、できることなら文筆だけで思想を表現してほしい。

 だいぶ脱線したので、話をホーリーチキンへ戻します。最初の店舗が2016年にオープンしたみたいですけど、現状はどうなってるんでしょうか。ちょっと調べた感じだと、2019年で更新の止まったツイッター・アカウントと、フランチャイズを募集するホームページが残っているだけのようです。もし、ホーリーチキンがフランチャイズで全米へと広がって、ナンバー1シェアのチキンサンド・チェーンとなり、同時に鶏肉産業の闇が明るみに引き出されて衰退して、結果ホーリーチキンも順に閉鎖へと追い込まれるみたいな展開になれば、実効的な究極の社会批評が完成するのになあと思いました。

アニメ「逆襲のシャア」感想

 古いオタクとして恥をしのんで告白しますが、わたくし、ガンダムの単位を履修していないと申しましょうか、ストーリーをほとんど理解できていないんです。なぜ唐突にこんな話をしてるかというと、タイムラインに「閃光のハサウェイ」の激賞ばかりが流れてきて、これは見に行くしかないのかと、復習のため「逆襲のシャア」をアマプラで流し始めたら、ガンダムに対して長く抱いていた劣等感みたいな気持ちを、またぞろ追体験してしまったからです。特にこの逆シャアは、例えるなら私大文系にとっての高等数学みたいなもので、必死に理路を追いかけようとしても、途中で毎回ふり落とされてしまいます。なんとかストーリーに食らいついていっても、突然の場面転換や独特の台詞回し(汚なプレシャア?)に一瞬、理解を脱線させられ、そうなると元の線路へと戻る前にストーリーが先へと進んでいって、視聴するというより、ただ眺めているだけになってしまう。ならば、モビルスーツのアクションを楽しもうと試みても、付けられた効果音が少ない(宇宙空間だから?)せいか、流麗な動きがスーッと目の前を流れていって、いま何が起きているのか、だれとだれが戦っているのか、やはりわからなくなってしまうのです。ストーリーもアクションもわからなければ、残されるのは言語化できない印象だけとなり、私にとってガンダムはずっと「夢と記憶の物語」ーー以前Fallout3について書いた雑文のようにーーであり続けているのです。内容が理解できないから、ガンダムを思い出すときは、それに紐づいた現実の記憶ばかりがよみがえってきます。小学生の頃、主人公機のプラモはすべて売り切れで、駅前の模型屋で作中に登場しないゾゴックと姫路城の抱き合わせを買わされた話は、すでにしたような気がします。イズミヤのワゴンで見つけた、作中に登場したかは知らないギャンとかいうのに、加減がわからず元の造形が変わるほど塗料をドボドボに塗りつけ、部屋へ充満したシンナー臭に気分が悪くなったのが、人生でプラモを作った最後です。あと、「144分の1スケール」という意味があるのかわからない中途半端な縮尺に首をかしげたことが、私を理系から遠ざけたのではないかと少し疑っています。「逆襲のシャア」は、たぶん神戸の映画館で見ていると思うのですが、脳裏に浮かぶのはロビーから直接スクリーンが見える、扉も壁も無い劇場のイメージで、それが記憶なのか夢なのかさえ定かではありません。そのとき、劇場で見た(と信じる)エンディングは、ガンダムが隕石を押し戻せたか不明のまま、カメラが引いていって地球の輪郭から太陽の光が広がるというもので、エンドロールには女性ボーカルの曲が流れていました。今回、アマプラで最後まで見たら内容がまったく違っていて、己のガンダム作品に対する親和性の低さと記憶の不確かさへ、あらためて愕然とさせられた次第です。この程度のガンダム解像度で「閃光のハサウェイ」を見に行って楽しめるだろうか、そろそろ上映も終わるし、どうしたものかな……などと、いつもの保留グセで決断を先送りにしながら、今日も今日とてFF11をプレイしつつ、ホーリーチキンを見てしまいました。このドキュメンタリー、ガンダムで例えるなら、連邦の気持ちを理解するためにシャアがイチから反乱軍を組織するみたいな内容なんですよ。え、的外れな要約からガンダム下手が伝わってきますね、だって? スーパー・サイズ・ミー(不条理オチ)!

映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

 見終わった直後、オレの両のマナコからは熱い涙がほとばしっていた。これこそ、ほんの30年ほど前のハリウッド映画に満ち満ちていた熱気ーー最高にアタマの悪いシナリオで、最高に政治的にも倫理的にも正しくなくて、最高に無駄な爆薬を使いまくった、最高に女どもに配慮しない、最高の男たちが演じる、最高の超B級アクション映画である! ネコ飼いにとってはトラウマになるだろう、むやみと気持ち悪いエイリアンの造形も、ギーガーのそれを更新していて(言い過ぎ)必見級の仕上がりだ!

 まあ、改変可能な直列宇宙の設定で始まったのに、父娘の会話ではいつのまにか互いを改変できない並列宇宙の話になっていたりとか、細かいツッコミどころはそれこそ無数にある。特に終盤、娘が生命を賭して父に託した対エイリアン毒薬を持参しながら、ロシアの凍土に眠る敵の宇宙船を結局は爆破で始末したのには心底ビビッたし、そこからメスが一匹逃げ出したのには脚本家が伏線を忘れていなかったとホッと胸をなでおろした。大爆発を背に両手足をジタバタさせながらスローモーションで退避ジャンプする主人公の姿にはアナクロな懐かしさで胸がジンとしたし、スノーモービルをエイリアンの横ッ面にぶちかましたときにはインディージョーンズを思い出して少年のような歓声をあげた。よく見れば、主人公の父親ってショーン・コネリーに似てない(言い過ぎ)? そして、メスのエイリアンを父と子の共闘で追いつめたあげく、なんとステゴロで倒しかけたのには映画前半の脚本家が途中で降板させられたのかとドキドキしたし、毒薬入りの試験菅を握りしめて口腔へのパンチをぶちかましたときには思わずガッツポーズが出た。にもかかわらず、主人公が「死ねーッ!」と叫びながら繰り出したナガブチキックと崖からの落下ダメージがエイリアンの直接の死因になったのには、心底ビビッた。

 おっと、カン違いしちゃいけないぜ、オレはこの作品をけなそうとしてるわけじゃあない。この映画では、旧来的な家父長制に対するトラウマ由来の神経症的疑念など一秒たりとも脳裏をよぎったことのない、最高に熱い男たちによる家族賛歌というテーマが、剛直した鉄棒のように2時間18分をズドンと貫いていた。「オレの未来はいつだって、目の前にいる家族なんだと気づいたぜ!」みたいな強い胸ヤケを誘発するセリフから、主人公の顔面の堂々たるアップでエンドロールへと移った瞬間、オレは全裸のまま立ち上がって拍手をしていた。同時に、両のマナコから滂沱と流れる熱い液体が頬を濡らしていた。結局のところ、アタマが悪い制作陣がひらきなおって全力で作ったアタマの悪い映画は、ストーリーの整合性が支離滅裂でも、ほとばしる熱いパトス(笑)でぜんぜん見られるし、なんなら感動までさせられる。本邦で言えば、島本和彦作品(失礼)がそれに当たるだろう。

 一方で、シンエヴァみたくアタマの悪い制作者がアタマの悪いことに自覚的でなく、観客にアタマが良いと見られたいという作り方をした映画は、ふんぷんたる自意識の悪臭にまみれて、とても見られたものじゃない。旧劇はかしこいオレたちのための映画だったのに、シンエヴァはアホのヤンキーどもがベソベソとエヴァ泣きする、心底アタマの悪い映画にさせられちまった。どんな映像作品を見てもシンエヴァのことが思い出されちまうのは、最悪の精神汚染だぜ。なに、今週末に予定されている最後の舞台あいさつは見に行くんですか、だと? 確認はしてないが、どうせ安全圏の太鼓持ちゲストばかりと台本ありでする、ノット感謝・バット集金の銭ゲバあいさつだろうな! 本当にファンの方を向いて感謝していれば、Qを破棄して当初の予定通り破の続きを語る続編になっただろうし、いまみたく無様にジタバタすることもなく、もっと早い段階で興収100億を突破できていたはずだ! ただ、安野モヨコが司会をつとめ、降板した副監督と退社したイラストレーターをゲストとして招いて、監督の前でカヲル・加持・冬月の声優がアスカの声優にウザがらみするのを台本なしの時間無制限でやるなら、万難を排して見に行くことを約束しよう!

 最後に話をトゥモロー・ウォーに戻すが、デジタル配信のおかげでアメリカの映倫的な組織を通さず、こんなにも倫理観のアップデートされていない、最高に古臭い最高のバカ映画を見られているのだとしたら、とんだ怪我(人類規模の)の功名だったと言えよう。そして、最高の映画を最高の悪文で紹介した最高のオレは、今夜は最高にクールに去るぜ。

アニメ「オッドタクシー」感想

 恩人が言及してたオッドタクシーをなにげなく見始めたら、脚本がとてもとてもすばらしい。「ミステリー仕立ての群像劇長編漫才」ってコンセプト、メチャクチャ新しいなーと感心してたら、第4話が心のいちばん深くてやわらかい部分へ、返しのついた針の如く斜めにブッ刺さって、抜けなくなった。待って待って、これドグラ・マグラの売り文句みたく、心の防壁(ATフィールド)を立てずに受け入れたら、気が狂うか人を殺すまで行くやつ。油断してたとはいえ、ちょっと尋常じゃない。

 オッドタクシー、最終話まで見終わった。シナリオの構成が海外ドラマのトップ層と同じレベル。早晩、ハリウッドで西洋文化に翻案したものが実写化されると思います。なんとなれば、近年はクソどうでもいい(私にとって)ヒーローもの映画が、マルチバースの名の下に連発されているように、現地では良質な原作が枯渇状態にあるからです。「ODD TAXI」が「OD TAXI」でもあった(私的解釈)というオチには感動しましたし、名作に対しては「まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから」以外に費やす言葉は無いわけですが、気になった点を少し述べたいと思います。もちろん、これらの難クセが作品の価値を減じることは、いっさいありません。まず、大オチを隠すためだとは重々承知しながら、オド川がいない場面のカメラが彼の主観と同じものを映していたのは、ミステリーとしての説明が難しいところです。あと、タクシー運転手と精神科医とチンピラと大学生の動画配信者が同じ知能の同じ語彙で話をしているというのは、冷静に考えると不自然かもしれません。語彙つながりで言えば、「魂と肉体が『剥離(はくり)』してる」ってセリフがあって、明らかな誤用です。この場合は、「乖離(かいり)」が正しいでしょう。これだけの脚本を書く方が間違えるとも思えませんから、声優の誤読を音響監督がスルーした可能性があります。クレバーな雰囲気が一瞬シラけましたから、ぜひ再録で修正して下さい。それと、優しい読後感は嫌いじゃないし、個人的な好みの話になるけど、第4話の彼はジョーカーとしてキッチリ破滅させてほしかったです。

 いろいろ言ったけど、まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから。

アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 スーパーカブ、最終話を見る。富士山に登る話とシーちょう救助の話をはぶいて、このツーリングを3話くらいかけてやれば、かなりマシな読後感になったのになーと思いました。しかし、最終話を見て強く感じたのは、これが多くのファンタジーと現実のオミットによって成立している物語だということです。まず私がシーちょうの親なら、うろんな友人たちとのバイク(しかも、スーパーカブ)による西日本横断の旅なんてぜったいに許さないでしょう。ソロでキャンプをするアニメもそうですけど、単独行動する若い女性たちへ向けた男性たちの危険な劣情を、わざと脱落させることで物語を成立させてませんか。次に、スーパーカブの「スーパーカブが守ってくれる 」という言葉は大ウソで、単車での交通事故がライダーにどれほど悲惨な結果をもたらすかは、皆さまもよくご存じのことでしょう。「出発1時間後に入念な整備をすることで安全が得られる」みたいな語りがありましたけど、どれだけ注意したところで、無謀な運転手からのもらい事故は避けようがありません。そして最も大きなファンタジーは、本作において乗用車と歩行者がほとんど申しわけ程度にしか描写されないところでしょう。車なしでは生活できない試練の大地・ナラフォルニア在住だからわかるのですが、乗用車と歩行者とバイクによる三すくみのトライアングルは、互いが互いを「死ね」と思っている実線で構成されています。つまり本作では、狭い車線を時速40kmくらいでチンタラ先行するバイクへと向けられた乗用車からのまなざしと舌打ちが削除されており、だからこそ爽やかなロードムービー感を醸成できているのです。

 スーパーカブ、1話は主人公の語りがほぼ存在せず、演出のみで見せていく形だったため、まんまとだまされてしまいましたが、この人物(イコール作者)の自意識がかなり独特であることが、あとになってどんどん判明していきました。原作では男性バイカーのむこうずねを靴で蹴り上げるシーンまであるようで、ファーストインプレッションからカン違いしたこちらが悪いのですが、やはり相当に奇矯な性格のキャラクターだと言えましょう。話は少しそれ、たぶんそれたまま終わりますけど、フィクションの中で女性が男性にフィジカルで優越する描写って、近年とみに多くなってきたように思います。これ、現実の若い女性にとって悪い教育になってませんかね? むこうずねを蹴り上げた男性は逆襲してこないし、逆襲してきても返り討ちにできるって思いこむようになりません? まあ、現代社会で全力のフィジカルをぶつけあう瞬間なんてスポーツ以外にほぼないわけですが、フィクションによる補正を無視して、「男性とやりあっても勝てる」という刷り込みが若い女性たちに生じるのだとしたら、日常のある瞬間に決定的な悲劇をもたらす原因になってしまわないか、心配します。ネットでペロペロと論議なさってる方々もそうですけど、「対面することの圧力」と「肉による暴力の予期」って、現実のコミュニケーションにまま生じる摩擦係数で、これを無視した計算でシューッと気持ちよく滑っている感じは、私にとってなんだかモゾモゾと気持ち悪いものです。

アニメ「終末のワルキューレ」感想

 FF11へ社畜なりに復帰すると、勢いモニターの前へ座る時間が増えます。そうすると同時に、映像作品を見る機会が多くなるわけです(「ながら見」と「倍速見」のどっちがより罪深いかは、私にはわかりません)。シンエヴァはてブ全レス祭りで「もっとアニメを見なさい」と言われたので、根が素直な私は海外ドラマをわきによせて、最近はアニメばっか流しています(オタクになりたい中年なので)。んで今日、やたらとリコメンドに上がってくる「終末のワルキューレ」ってのを見たんですけど、これがまー、すごかった。未見の向きに一言で説明すると、「刃牙風味のジェネリックFGO(止め絵)」とでもなりましょうか。しかも、両手にプラモをつかんで戦わせる小学校低学年の脳内に展開しているような、小学校中学年のファンガスがジャポニカ学習帳にひらがなで書いたような、そんなストーリーなのです。ひとむかし前なら、このテ(レベル)の物語のニーズはマガジンのヤンキー漫画が満たしていたと思うんですけど、オタク文化の低偏差値化が進行していく中で、こういった合体事故みたいな作品をそのまま楽しめる層が生まれていることへ、我々はずいぶんと遠くに来てしまったのだという感慨を抱きました。

 でも、Netflixオリジナル作品ってことは、日本だけではなく諸外国にも同時配信されてるんですよね? ギリシャ神話はフィクション枠というか、現実の信仰とほとんど関係がないからいいんですけど、旧約聖書とかインド神話からの登場人物がいるのって、ヤバくないですか? この物語偏差値(目測で32くらい)だと、ブッダでもキリストでもないあの御方を、何も考えずにキャラ化ーー毛筆で「天国百人処女性交」などの技名がカットインするーーして、全世界を巻き込んだ大炎上から現代の「悪魔の詩事件」に発展しないか、否応に緊張感が高まります。終末のワルキューレ、盤外戦的な意味で今後、目が離せない作品と言えましょう。

 また余計な追記をしますけど、エヴァ旧劇がFGOなら、シンエヴァは終末のワルキューレですね。

アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(10話まで)」感想

 あかん、スーパーカブの11話がおもしろすぎる。あとでなんか書くかも。

 スーパーカブ11話、見る。作画崩壊って言葉があるじゃないですか。納期に追われて絵が間に合わなくなるやつ。いや、作画は安定してますよ。問題なのは、それ以外のすべてです。今回ついに、シナリオが崩壊し、演出が崩壊し、極めつけは主人公の一人称が「スーパーカブ」になって人格が崩壊しました。

 前回も言いましたけど、友人の遭難事故に際して、まず警察と相手方の両親に電話してから、それでも居ても立っていられなくなって、カブで走り出すならわかるんですよ。それを「スーパーカブが行く」などと自我と無機物との境界が壊れた言葉を放ったあと、無連絡の単機で救援へと向かうのです。そのあげく、ぬかるみに車輪を取られて二次遭難しかかる描写が丁寧に入っていたり、視聴者の情動をどう誘導したいのかサッパリわかりません(主人公のアホさへの苛立ち?)。

 そして、沢で倒れている友人を発見したスーパーカブはほとんど垂直に見える濡れた岩肌を伝い下ります。てっきりスーパーカブが友人を背負って斜面を登るのかと思いきや、「オレはオマエをかつげない。サポートはするが、ひとりで登れ」などと星一徹だか百獣の王だかみたいなことを言い放ちます。これにはFF11をプレイする手が止まり、思わず「えー!」と声が出ました。友人が垂直の壁面を自力で登ったあと(登れるんかい!)、スーパーカブはカブキチガイの友人に電話をし、何ごとかを頼みます。間接的にですけど、ようやく相手方の両親と警察か消防に連絡してくれるのだとホッとしていたら、何を思ったのかスーパーカブは友人を抱き上げ(さっきかつげないゆうてたやんけ!)、スーパーカブの前カゴにダンケダンケとブチ込みます。困惑する友人が見上げたスーパーカブの顔は、ネットで道交法違反だと重箱の隅をつつかれたことへの怒りに燃える鬼の形相をしており、KOGUMAというよりAKUMAのようでした。しかし、BPOへの配慮からか、凄腕アニメーターの欠如からか、前カゴに女子高生を乗せたスーパーカブがサイレンを鳴らす多くのパトカーに追われながら公道を疾走する様を長尺で描かなかったのは、とても残念です。

 そして、てっきり病院か両親の元へ連れて行くのだと思っていたら、なんとスーパーカブは女子高生を自宅へと持ち帰ります(流行ってんの、この設定?)。沢に落ちて、その姿勢のまま動けなかったのだから、打身や捻挫や骨折や外傷性ショックや低体温症や脳震盪を疑ってしかるべき状況です。いや、一人称がスーパーカブの級友へまっさきに電話するぐらいですから、頭を強く打っていることは間違いありません。

 スーパーカブはこごえる友人を温めようとバスタブに湯をためるのですが、熱湯を水でうめるタイプの蛇口なのに、青へは触れず赤のハンドルだけをグイと強く回したのです。沢落ち以降、すべての行動が社会常識から逸脱していくことを考えれば、いよいよゆるふわ日常系アニメの枠から離れ、友人を熱湯風呂へダンケダンケと放り込み、全身やけどを負わせるようなサイコホラーへと変じたのではないかと疑いました。あやういところでカブキチがスーパーカブの自宅へと到着し、団塊老人の横顔で「オフロ、オフロ」と言いながら女子高生の煮汁たっぷりの浴槽へ向かって、かろうじて日常は回復します。

 スーパーカブが友人のパンツを部屋干ししようとすると、シーちょう(C調?)だかゆうこの人物は一種異様なまでにうろたえ、激しい羞恥を露わにします。いまどきの女子が、下着ぐらいでこれほどうろたえるものでしょうか。このシーンは団塊老人による願望、すなわち昭和の少女幻想を強く感じさせます。そして、なんでもレトルトで済ませる一人ぐらしの女子高生が、卵をあらかじめゆでておき、カラに極太マッキーで「ゆで」と書くだろうかという深淵な命題(演出の失敗)を我々に残したまま、カレーうどんの夕食(スカトロジーの暗喩?)が終わります。

 罪悪感から皿洗いに従事するシーちょうへ向かって、カブキチが唐突に満面の笑顔で「オマエの高級自転車はフレームがイカれてて、もう廃車だ」と告げ、スーパーカブからの電話が両親・警察・消防への連絡を依頼したものではなく、自転車の引き上げのみをお願いしていたという衝撃の事実が判明します。シーちょうの手にしたうどん鉢から水道水があふれて感情の高まりと決壊を暗喩するという、ツバキの落下が処女喪失を示すみたいな演出のあと、シーちょうは「冬はイヤなんで、いますぐ春にしてください」などとスーパーカブにウワメヅカイでしなだれかかるのです(前から思ってましたけど、この子ちょっと知能の発育に問題があるんじゃないですかね? FGO第2部ふうに記述するなら「恥丘白痴化」ですか?)。その未就学児ばりのムチャぶりに、スーパーカブは「それは、スーパーカブにもできない」と返答します。このくだり、くしくもブロント語と似たような話法になっており、不意をつかれて(ふいだま)思わず爆笑してしまいした。

 翌日、大きなママチャリに乗って登校してきたシーちょうを、スーパーカブはネットリと視線で追いかけます。1話からの行動を順にならべてもわかるように、スーパーカブはかなり発達に特性を持った人物です。しかしながら、シーちょうがママチャリに乗ってきたことを脳内で描写するト書きはその特性を越えて、リタイア後にブンガクをやり始めた団塊老人みたいなキモチワルイ筆となっていて、キャラとシナリオ崩壊の印象をいっそう強めるのです。

 さらに場面はシーちょうの実家である喫茶店へと移りますが、ご両親はスーパーカブとカブキチに手放しの感謝をしか示さないんです。ケガが無かったからよかったようなものの、ふつうの親ならスーパーカブのおかしな判断に嫌味のひとつも言うでしょうし、娘には奇矯な級友たちと今後は距離を置くよう裏でささやくかもしれません。山奥の自営業とアメリカ人だから、常識がブッとんでいるんでしょうか。かてて加えて、ご両親はスーパーカブとカブキチに向こう1年の飲食無料券まで渡すのです(このカード、店にあらかじめ備えてあったものみたいですが、どういう一般的な商いの状況で客に渡すんでしょうね?)。娘の生命と1年分の飲食代金が等価というのは、なんとも下品かつ卑しいジャッジで、山奥の自営業とアメリカ人だからこそ為せるワザなのかもしれません。これまでも娘の友人のよしみ、タダで飲み食いさせてもらっているのだろうと好意的に補完してたんですけど、このやりとりから食費を切り詰めるために自炊をするかたわら、500円以上する高級豆のコーヒーを自腹でガバガバ飲みまくっていたことが確定してしまいました。

 そしてラストシーン、シーちょうから白痴的笑顔を向けられた瞬間、なぜかスーパーカブの頭髪は前方から送風機を当てられたようになびきはじめ、初代SAWラストシーンばりの回想フラッシュバックが始まるのです。1話の坂道でスーパーカブの自転車を後方からブッちぎっていったのが、じつはシーちょうだったことが明らかになったり、スーパーカブが「このままではフユ(?)に殺されてしまう」とか言い出したり、マーダーミステリーにでもジャンルが変わったのかと一瞬、本気で戸惑いました。

 次回が最終話とのことですが、春の鹿児島でカブキチがスーパーカブの左足をスーパーカブの前輪で轢断し、「嗚呼、フユの毒素が下半身から抜けていく」とか言いながら息絶え、その遺体が団塊老人にメタモルフォーゼして終わったりしないか、怖くなってきました。

 ともあれ、「SHIROBAKO」を見てアニメ業界に入ろうと思っている諸氏は、シナリオ・演出ともに超高校級のバッド・サンプルであるスーパーカブ11話をケンケンフクヨーし、他山の石としましょう。

 アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想