猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「猫を起こさないように(nWo)・復活のテキストサイト」

 よい大人のnWo

 エイプリルフール限定で、伝説のサイトがまさかの復活! 管理職も新入社員も、入社式の合間にチラ見せよ!

 「エイプリルフール限定」というのが、エイプリルフールのネタであったわ! よい大人のnWoは、いつだってオタク諸君にとっての恒常スーパー・ウルトラ・レアであるッ! 読了し、賞賛し、拡散しろ!

 昭和のクドくてカンにさわる、不適切にもほどがあるテキストサイトの大復活を、みたびここに宣言する! 特に、サイト開設日である1999年1月10日から2024年の令和にいたる全テキストを時系列で読めるシン・機能(笑)は、まさに圧巻としか形容できないシロモノとなっている! そして25年という歳月は、一個の人格をいかに一貫性なく変節させていくのかという残酷な事実について、舌でねぶりころがすようにじっくりと味わうと同時に、これだけ書いても一銭にすらなっていない冷厳たる現実へ、心胆を寒からしめるがよいわ! また、この長きをただ沈黙のうちにながめていた、いまやギョーカイのジューチンとなった諸君らも、これが最後のチャンス(人間の耐用年数的に)と心得よ! すなわち、匿名による「におわせ」からの応援や推挙のメッセージ、あるいは萌え画像などを積極的に送りつけていけ!

 小鳥猊下にマシュマロを投げる

質問:2ちゃんねるが滅び、匿名だからこそのオタクの叫びの面白さが消え失せていく世の中、こういうサイトが存在していることに涙を禁じ得ない。
回答:これを思うことと書くことのあいだにある、長大な隔絶を理解しておりますので、貴君の勇気にまずは感謝を申し上げます。現世での実績はだいたい解除してしまったので、かつてインターネットに満ちていた空気感を、最後のひとりになっても守り続けてやるのだと、なかば意地になっている側面はあります。気分は初代ランボーがごときワンマン・アーミーであり、萌え画像の寄贈などがあれば号泣しながらかつての思い出ばなしを始めるでしょう。

雑文「続・ドラゴンボールとはずがたり」

 雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 訃報を受けて、一時代の終わりを再確認するため、ドラゴンボールを最初からぽつぽつ読みかえしている。原作をどこまで熱心に追いかけたかは、前回お話しした通りで、アニメ版はZの途中くらいまで、後番組のGTは内容をいっさい知らず、数ある映画版は1本も見ていません。ちょうど引きのばしに入る前後ぐらいで離れており、言ってみれば、まさに少年漫画として理想的な時期での邂逅と別離をはたしたわけです。この黄金期の少年ジャンプに連載されていた作品の、二次創作かカーボンコピーにしか見えない近年のバトル漫画群に対して、本作が持つオリジナリティの優位性に再評価を与えるため、「やっぱ、ドラゴンボールはピッコロジュニアを倒すとこまでだよなー」などとツウぶった古参ムーブで1巻を読みはじめたところ、目をおおわんばかりの「悪い昭和」が全編にわたって横溢しており、のけぞった勢いそのままにひっくりかえりました。うっすらと記憶にはあったものの、有名な「ギャルのパンティおくれ」を代表として、あの時代の「エッチ」「スケベ」「ムフフ」ーー換言すれば、公の場で男性がゆるされると思っている性欲の吐露ーーが、風味づけのフレーバーをはるかに超えた、驚くほどに高い頻度でこれでもかと連発されているのです。

 令和キッズたちにヒかれないよう、ほんの一部を婉曲的にお伝えするならば、女性の外性器に男性が土足で接触したり、男性の頭部をあらわになった女性の胸部ではさんだり、識字教育と称して児童たちに官能小説を音読させたり、それらが作品から切除の不可能なレベルで癒着してしまっており、不適切にもほどがあるため、天下一武道会がはじまるくらいまでは、近年の品行方正かつ親の監視が厳しいキッズに対して、とてもおすすめできるシロモノではありません。それが、エロオヤジとしての自意識を亀仙人にあずけ、女子のパンツぐらいに過剰反応して、いちいち大量の鼻血をふきださせていたのが、物語の後半においてナメック星へと向かう宇宙船の中で、Tシャツとパンイチでうろつきまわるブルマの「もっとレディとしてあつかってよね」という台詞に、「だったら、パンツ1枚で歩きまわらないでくださいよ……」とクリリンがあきれて返すシーンには、結婚して娘を授かり、その女性の成長をひとつ屋根の下でともに過ごしていくうち、おとずれた成長と言いますか、変化と言いますか、人生の変遷を強く感じてしまうわけです。この「パンツに関する温度感の変化」は、「父としての悟空、母としてのチチ」とならぶ、本来フィクションにすぎないものへ漏れだしてしまった、作者その人の自我だと指摘できるでしょう。

 そして、ネットミームと化した「まだもうちょっとだけ続くんじゃ」の段階で、作者が物語の着地点をどこに定めていたかを推測するならば、主人公の出自が解明されるという意味でも、ベジータとの決戦までだと思います。これ以降、当初の予定を外れた引きのばしパートになっていったのだと思いますが、ナメック星でのストーリーテリングがそれを感じさせないほどよくできていたため、まるでひとつながりの美術品のように見えてしまったことは、もしかすると作者と読者と編集者の三方にとって不幸だったかもしれません。ここから入りこんでしまった迷路である、「攻撃手段は肉弾戦とエネルギー波の2つ」「強さの指標は物理的なパワーの多寡のみ」という、指数関数的かつ直線的なエスカレーションをどう回避するかという視点が、ジョジョやハンターハンターをはじめとする後発のバトル漫画を難解なギミックで複雑化させ、「永遠に語り続けること」を可能にしてしまい、結果として「少年漫画」というカテゴリを衰退させることへつながっていったのは、じつに皮肉なことです。

 ついでに、絵柄の変遷に関しても触れておくと、連載初期のアラレちゃん時代の延長上にある曲線によって構成された表現に始まり、ナメック星ぐらいからはあるアニメーターに影響を受けた直線中心の描線に変わってゆきます(世界中のファンが持つ鳥山明のイメージは、後者が優勢でしょう)。じつのところ、連載終了後にもう一段階の「変身を残して」いて、いま手元にあるのはジャンプコミックスではなく、2002年に刊行された「完全版」なのですが、新たに描きおこされた表紙絵は、どれもバードスタジオ所属の別人の手によるものと言われてもおかしくない、線に伸びやかさを失ったカチコチの自己模倣みたいになっているのです(自身の作風を3DCGに落としこむ過程だったのかもしれませんが、私の好きな作品とは何の連絡もない改悪なので……)。

 また、ドラゴンボールはかつての国民的RPGであるところのドラゴンクエストと、相互に影響を与えあってきました。アイコニックなパッケージデザインを順に見ていくと、「123がやわらかな曲線、456が力強い直線、7以降がCGのようなカチコチ」となるでしょうか。4のデスピサロが戦闘中に形態を変化させるのはフリーザからの逆輸入でしょうし、もしかすると6から導入された新たな転職システムーー「互いの苦手や弱点をおぎないあう」というパーティの概念をたたきつぶし、最終的に全員がなんでもできるスーパーマンになる、個人的に大ッキライな仕様変更(「ドラクエは5まで」派)ーーも、「スーパーサイヤ人のバーゲンセール」以降、強さの点でキャラクターの個性が消えてしまった状況に、少なからず影響を受けているのかもしれません。

 今回、ドラゴンボールをいちから読みかえして思ったのは、我々が訃報を受けて語っているのは「30年前に終了し、完成した作品」のことであり、その後の氏による細かい設定のつけ足しや、絵柄の好ましくない変遷のいっさいを見ない、「少年期の美しい記憶」をなつかしむような性質の言葉なのでしょう。この意味において、「ドラゴンボールは四十代、五十代のオッサンのもの」という若い世代から向けられる揶揄は正鵠を射ており、ぢぢゅちゅ廻銭(原文ママ)がそう呼ばれるようになる遠くない未来では、どんな少年漫画が流行っているのだろうかと、いまから楽しみでなりません。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(ゴールドソーサー到着)

 開始20時間

 ファイナルファンタジー7リバース、インターネットが存在しなかった時代のように遊びたくて、攻略サイトのいっさいを遮断し、検索ウィンドウに文字列すら入力せず、本当にゆっくりと、ゆーっくりと進めている。ゴールドソーサーに入ったばかりの段階で、プレイ時間はすでに40時間へとせまるいきおいである。たったいま、同園長との格闘ミニゲーム・バトルを終えたところだが、ノムさん手づからデザインしたというこの人物の造形の「もしかしなくても、ギャグではやっていない」シリアスさは、ものすさまじいレベルにまで達している。サルバドール・ダリとセルジオ・オリバを「足し算だけして、いっさい引いたり割ったりしない」筋骨隆々の見た目に、胸毛から腕毛からすね毛までビッシリ生えそろっているという、ある種の性癖を持つ人々の脳内にあるファンタジーを完璧に再現ーー「筋肉マッチョも毛むくじゃらも大好きだけど、ビルダー連中は体毛を剃っちまうしな……ひらめいた!」ーーしたようなデザインになっているのだ。この人物がするポージングにモブの女性たちは黄色い歓声あげ、忍者娘はまるでエロいものでもあるかのように指の隙間からその肉体美をのぞき見たかと思えば、彼のするウインクになんと卒倒してしまうのである!

 いやいや、手をふれずに若い女子を気絶させるなんて芸当ができるのは、ブカレストでのマイケル・ジャクソンぐらいのものなのよ。そもそも、十代の女子が体毛の濃い半裸のカイゼル髭にほほえまれたときの反応は「きんも」か「きっしょ」の二択で、性的に興奮するなんてことはぜったいにないのよ。女性陣にリアクションを仮託してはるけど、このシーンを思いついた人物の性的嗜好はぜったいにGかBーーいやだなあ、ゲームボーイの略称ですよ!ーー以外ありえないのよ。衝撃のあまり、口調がオネエだか例の芸人だかみたいになってしまったが、「かつて低ポリゴンで表現されていた冒険の舞台が、じつはこんな場所だったんだとわかるのを楽しんでほしい」という作り手の意図以上に、生々しくも余計な情報まで遊び手に伝わってしまっているような気がしてならない。ボクらのKURAUDOが「性に臆病なノンケで童貞の中学2年生」として送られている秋波に気づかず、すげなくソデにしたときの園長にただようひどく濃厚な薔薇族感(なんや、それ)は、夜の街における歴戦のGかBにしか描写できない境地にいたっていると言えるだろう。前作で言えば、ハニービーでの女装ダンスと同じレベルのアタオカ展開なので、ゲームをしない諸君にもぜひ、動画サイトなどで確認することをおススメしておく。

 それにつけても本作の白眉は、ボクらのKURAUDOの見事なまでにキョドった挙動であろう。30年前の当時より、それこそ星の数ほどの二次創作が行われてきたにちがいないが、ノムさんの描写するKURAUDOだけが唯一のホンモノであることを、あらためて痛感させられた次第である。思いうかぶのは、孤独のグルメを実写化するにあたり、店選びや脚本は他のスタッフにまかせながらも、原作者が井之頭五郎のモノローグだけはすべて監修して、「ゴローが使いそうな言い回し」に書きかえているという逸話だ。これとまったく同様に、ノムさんがほんの少し手をくわえるだけで、朴念仁のつっけんどんな言い回しから、小心な臆病さを周囲に悟られないよう無表情をよそおう芝居まで、かつてオタク男子たちのハートをワシづかみーー「クラウドは……まるでオレみたいだ……」ーーにしたキング・オブ・ジュニアハイスクール・セカンドグレイド・シンドローム(だから、なんやねん、それ)の名に恥じぬキャラクターへと化身するのである。

 あと、本作はフィールドパートとストーリーパートに加えて、「怒涛のミニゲーム」から成りたっているのですが、オリジナルの本質をふまえたうまい再構築だなーと感心しています。このミニゲームがじつはかなりのクセモノで、最高ランクの景品を手に入れようとすると、射的やら球蹴りやら腹筋(特に腹筋)やらで数時間は簡単に消しとんでしまい、フィールド探索の楽しさとあいまって、いっこうにストーリーを進めることができません。それと、エフエフ6からエフエフ7にかけて廃止されたものに「かぶと」「よろい」「たて」「みぎて」「ひだりて」があるのですが、「源氏シリーズの防具に身をかため、エクスカリバーとラグナロクの二刀流ができないこと」にひどくいきどおっていたのを、昨日のことのようになつかしく思いだしました。リバースをプレイしていると、ポリゴンで見た目の差分を用意できなかった以上に、いまより若くてトガッていたノムさんが自らのキャラデザを常に優先して見せたい気持ちが強かったのだろうと、どこか納得する感じがあります。バルダーズゲート3を経たあとだからこそ確信を持って言えますが、リアルな源氏の兜と鎧におおわれたTIFUAの上半身なんて、見たくもないですからね!

漫画「ブルージャイアント・エクスプローラー9巻」感想

 ブルージャイアント・エクスプローラーの最終巻を読む。驚くことに、これまでの石塚真一ならぜったいに描かなかった、虚構による称揚で現実の冷たさを温めるようなエピソードが語られる。この変節の理由は、まちがいなく劇場版アニメによる無印ストーリーの結部改変を見たことによるものだろう。「右腕を潰せば、もう演奏家としての再起はかなうまい」としてトラックをつっこませたのに、劇場版のラストでは上原ひろみの楽曲と本物のピアニストによる技巧が、その漫画家の想像力をはるかに超えてきたのだった。結果として、このボストン編はこれまで積みあげてきた、前だけを向いて進むダイ・ミヤモトにフォーカスしたストーリー・テリングからわずかに浮いてしまっているし、もし劇場版アニメが2作目、3作目と作られた場合、完全に不要の蛇足パートになってしまうだろう。これは鬼滅の刃における賛否両論の最終話と同じで、メタ的に言うならば、「作者が作中の人物に、強いてしまった苦しみを心から謝罪する」ような性質をともなっていて、近年の「作り手の意志に隷属するパペット」をあやつる類の物語ーーシンエヴァがその最右翼ーーとは、圧倒的にキャラクター強度の作り方がちがうことを、同時に意味している。

 劇場版アニメにうちのめされて、「現実以上の現実を」と満身の全霊をこめてきたはずの虚構が、現実のしなやかさに敗北する様を見せつけられて、これまでとの一貫性やおのれの信念を投げうってまで、おそらく作家人生で初めての「物語に尋ねるのではない、作者本人のワガママ」で、このエピソードを描かなければならない激しい衝動を得てしまったのではないかと推察する。それを証拠に、同時発売された続編のモメンタムでは原作から完全に身を引いて、作画担当へ自らを降格させてしまった。これは石塚氏の漫画に対する、もっと言えば物語をつむぐことに対する誠実さの表れであろうと思うと、どこか胸のつまる感じさえおぼえるのだ。作者本人すらも、その衝撃に生き方を変えてしまう無印ブルージャイアント劇場版はやはり、いまのレベルの注目と称賛ぐらいに甘んじるべき作品ではなく、現在を生きる十代、二十代の若者たちはこれに触れることで、「かつてそこにあり、失われてしまった熱」に感染してほしいと強く願うものである。

雑文「ドラゴンボールとはずがたり」

 以前、一方的に好意を寄せていた面識のない恩人がご逝去された際、おずおずとお気持ちを表明したところ、「故人を利用して自分語りをすることの、なんという醜悪さか」みたいなエアリプを頂戴したことがありました。もう脊髄反射的な情動失禁は決してすまいとおのれを律してきたのですが、今回はゼロどころかゼット規模の訃報なので、すこしくらい昔話をしても太古の森の濡れ落ち葉くらいに目だたぬことでしょう。ドラゴンボールを読みはじめたのがいつだったのかは記憶にありませんが、リアルタイムで追いかけるのをやめた瞬間だけはハッキリとおぼえています。星ひとつを破壊するまでに至る、巨大なドラマツルギーの奔流を真正面から浴びる法悦のすぐ翌週、あれだけ苦労してたおしたはずの強敵がサイボーグになってシレッと復活しており、おまけに父親まで帯同して地球にやってきたかと思ったら、ポッと出の新キャラにたった1ページで斬り殺されてしまいます。これを読んだ瞬間、満面の笑顔は半笑いにはりつき、あれだけ毎週を心待ちにしていた気持ちが一瞬で冷めてーー昔から、そういうとこがあるーーしまい、週刊少年ジャンプの購読自体をやめてしまったのでした。

 その後の展開も友人や親戚宅の単行本などで読みましたが、意に染まぬ引きのばしを強いられているせいでしょう、次第に作者の生活感情が作品の内部へ混入するようになっていくのが気になったものです。具体的には、育児に関わらなかった父親が子どもの本当の気持ちに気づけないことをなじられたり、地球の命運よりも子どもの塾通いや学校の成績を気にする妻が夫をヒステリックに怒鳴りつけたり、週刊連載にかかりきりで莫大な稼ぎやファンから寄せられる思慕にも関わらず、家庭内では「いつも仕事でいない父親」として冷遇されているのではないかと、ひどく心配させられました(クリリンに「ひでえ、悟空だって苦労してるんだぜ」とかフォローさせたり、読んでてつらくなる)。長期連載による変節でいちばんワリを食ったのがこの牛魔王の娘で、男女の別なくオタクはみんな「感情的になってヒスる母親」を苦手としているため、かつて孫くんの冒険パートナーだった女性ーー「なーんだ、ぱふぱふとか、きょいきょいとか、いんぐりもんぐりとかされるのかと思っちゃった」「へ、へんたいだー!」ーーより、連載のある時期を過ぎてからは、二次創作などで取りあげられる頻度がずっと少なくなったように思います。マシリトの指摘するように、ナメック星で連載を終了できていれば、まちがいなく3作目の国民的ヒット漫画が生まれていたでしょうし、鬼滅の刃によって呪いを解かれるまで続いてしまった「固定ファンのついた人気作品は、物語の自走性やキャラクターの意志を無視して、10年でも20年でも連載を引きのばしてよし」という少子化時代の少年たちではなく大人たちのための、本邦の長い低迷を象徴するイビツな”勝利の方程式”を生む前例とならずにすんだのかもしれません。

 ともあれ、国家を越え、人種を越え、世代を越えた「精神のインフラ」とも形容すべき物語は、作り手の肉の実在から切りはなされた高い場所で、これからも地球人類が存続する限りは途絶えることなく、脈々と受け継がれていくことでしょう。そして、百年後の息子/父親も「このチチってキャラクター、なんだかママ/妻にソックリで好きになれないな……」という感情を抱きつづけるにちがいありません。

ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想

 ファイナルファンタジー7リバースを驚愕しながらダウンロード。なんとなれば、まさかこの「リメイク2」が発売どころか開発にいたっていたなんて、夢にも思っていなかったからである。前作はタイトルからもわかるように、オリジナルの全長を現在の技術で作りなおすプロジェクトとして始まったはずなのに、参加メンバーのだれも進捗とリソースの管理を行わないまま、キャッキャ言いながらーーチームとは名ばかりの、かつてのスタークリエイターとそのファンたちの集まりなのだから、無理からぬことであろうーー制作を進めた結果、バイクと新羅ビルと夜の街にカネと時間をかけすぎ、当初に予定していた制作費の半分をキャバクラ通いーー「オラッ、いつまでキーボード叩いてやがんだ! ウォールマーケットの現地取材に行くぞ!」ーーに使いこんだあたりで、業をにやした経営サイドの執行役員から追加予算の打ち切りを宣言されたにちがいない。ここにいたって、ようやく二重の意味での酩酊状態から我にかえったスタークリエイターとその信奉者たちは、「作りかけのハイウェイ」(ロストハイウェイ!)というメタファーに、セフィロスとの因縁を語りつくす一大ラストバトルからザックスの顔見せまでを無理やり巻きでブチこんで、「もし制作費を回収できずに続きが頓挫しても、終わったっぽい雰囲気だけはかもすようにした」ものに、”ミッドガル編”と手書きのラベルを貼って、ギリギリで宿題を提出したのがリメイク1の実状であろう。出番のなかった人気キャラであるユフィを登場させた完全版商法であるところのインタールード発売も、この推測の正しさを裏づけるものだった。だが、制作側にとっても予想外だったのは、国内だけで400万本の超ヒットとなったオリジナルによって罹患した中2病の保菌者たちは、全国の津々浦々に多種多様な業種や役職で散らばる400万人のKURAUDOとなって症状を潜伏させており、本作にまつわるすべてを力強く買いささえてしまったのである(挿入される「暴走族の総長の復活を喜ぶかつての悪ガキたち」や「上司に早退を告げる勤続35年無遅刻無欠勤のサラリーマン」のイメージ)。

 現在、第4章に入ったあたりだが、すでにプレイタイムは20時間へとせまるいきおいである。「ミッドガルを出たところで、どうせまたアンチャーテッド方式の一本道なんでしょ」とナメた態度でヘラヘラとプレイしていたところ、広大なワールドマップがドンと出現するのを目のあたりにした瞬間、かつてのエフエフ魂(ファイファン派は極刑)に火がついてしまったのだ。ファイナルファンタジー16とは比較にならないほど高密度で遊ばせるフィールドは、ミニゲームと探索要素にあふれており、気がつけば丸1日をブッ通しでプレイして、グラスランドの達成率を100%にしていたぐらいである。すべての若い女子が両腕を背中側に回して腰をかがめ、双乳を前方へと強調しながらウワメづかいに話す様子とか、ダブルヒロインのかけあいの女子校ノリというか夜職の同僚ノリというか昭和の深夜番組(ギルガメッシュも登場)ノリも、ゲーム部分が手抜かりなくキチンと作られていると、令和の倫理感にアップデートされたはずの目にも好ましく映るのは、我ながらじつに不思議だった。のちのPC版を想定しているのか、グラフィック優先の描画にするとPS5なのにモッサリ重たくなる場面があるのはどうかと思うが、逆に気になる点はいまのところ、それくらいだとも言えるだろう。レベリングとマテリア育成を行いながらのフィールド探索は、かつてファイナルファンタジー・シリーズをプレイしていたときの感覚をまざまざと思いださせてくれるし、ストーリーもオリジナルの展開をなぞりながら、「じつはザックスがキムタク」という有名なネタバレ・ミームを謎解きのミスリードに使っている感じで、エアリスのあつかいをどうするのかをふくめて先がとても気になりつつも、この良作を早解きはせずにじっくりと楽しみたいと思う。

 あと、女性をふくめた全登場キャラクターのうちでクラウドがいちばんエロくてかわいいのは、いったいぜんたいだれ目線の、どういうサジ加減なんでしょうか。「学校いちの美少女と巨乳とボーイッシュ、そして裏番の長髪パイセン、みんなが夢中でゾッコンなオレの愛しい彼氏」みたいな強いビー・エルの気配ーー妻帯者だからか、バレットはそんなに”さぶ”くないーーを感じるんですけど、まさかノムさん、そうなの? そうだったの? それと、リメイク3が作れるほど本作が売れたなら、サブタイトルはまちがいなく「リユニオン」になると予言しておきましょう。

ゲーム「風来のシレン6」感想

 小鳥猊下が、全盛期のファミ通ーーいま発刊されているのは、ハッピーそねみ等を代表とする当時のアナーキズムをわずかも残さない、ゲーム会社たちの広告誌ーーの広めた用語である「シレンジャー」の重篤な状態であったことを知る人間は、もはや少ないであろう。スーパーファミコン版「風来のシレン」こそがローグライク至高のオールタイムベストであり、土曜の晩から日曜の朝にかけて徹夜で99階ダンジョンを踏破した経験は、血脈に埋設された運命力による偶然から、「毎日きまった時間に、必ずその場所へ肉体を移動させる」だけで高額おヒネリちゃんにありつけている氷河期世代の死にぞこないにとっては、おのれの人生において片手に足らぬ数ほどしかない「努力と才覚による意志をともなった達成」だったと言えるだろう。ブラウン管だけが明滅する電気を消した暗い部屋から始まり、気づけばカーテンを透かした陽光のうす明かりが差す中での絶叫とガッツポーズの瞬間は、甲子園優勝投手もかくやという生々しい喜びとして、はるか過去から現在のこの身を暖めてくれている。風来のシレンは、たびたび告白しているように、「時間の経過が成果として積みあがらない」ことを現実の似姿として忌み嫌い、日々の憩いであるゲームにそれを求めたくない性向の、ほとんど唯一と言っていい例外なのである。その強烈な成功体験を持つがために、以後のシリーズや派生作品へ向けるまなざしはいきおい、最大級に厳しいものとなるのだった。最後にふれたのは、たしか世界樹の迷宮とのコラボ作品で、最初のダンジョンにもぐって5分ほどプレイしたあと、「これのどこが不思議のダンジョンなんじゃ、ブチころがすぞ!」と叫んでスリー・ディー・エスなるマイクロマシンごと床にたたきつけて、2度と手にとらなかったのを昨日のように思いだす。

 今回のシリーズ最新作も、人生の美しい思い出をけがす失望を味わいたくないため、視界に入れまいと意識して避けていたのに、タイムラインへ続々と高評価が流れてくる。かつてのおもいびとを遠目に見るため同窓会へ参加する感覚で、FGOの星5地獄ガチャに比べれば採算がとれるのか心配になるほど安価なダウンロード版を購入し、それこそ5分で会場を離れるつもりでプレイを開始したのだった。すると、なんということでしょう、あれだけ新規層を取りこもうと四苦八苦してきたパーマネント・デスの緩和施作をすべてブン投げて、初代シレン時代の難易度とプレイフィールそのまんまになってるじゃないですか! 長居するつもりのなかった同窓会が楽しすぎて、2次会、3次会とすべてのダンジョンを千鳥足でハシゴして、いまは「とぐろ島の真髄」で酩酊中といった有様です。シレン6が初心者と熟練者のどっちに向けた調整なのか、グッツグツに煮つまったシレンジャーには判断できませんが、初回エンディングを見るまで無死の一発クリアだったのには、酒におぼれて身を持ち崩した甲子園の優勝投手が、かつてのチームメイトに乞われて参加したトライアウトで、初球から160キロの豪速球がミットに音高くおさまった感じがありました。スタッフロールの流れる中、おのれの右腕を見つめながら「おまえ、まだそこにいてくれたのか……?」とつぶやき、うっすらと涙さえにじんだくらいです。

 正直、幾度もの死にもどりを前提としたシナリオや道具の解放要素を、あとから飛脚で往復しながらアンロックするのはダルかったですし、新しく導入された神器とデッ怪と風来救助は空気にすらなれていないーーシレン本来のゲーム性を邪魔しないことだけが美点ーーですし、脳死周回で完成させた印30の秘剣カブラステギ+99と螺旋風魔の盾+99へは試し切りにすら値しないダンジョンしか用意されていないし、もしかするとこれらは初代シレンへのレスペクトが強すぎることによる弊害なのかもしれません。結局のところ、「もっと不思議の」である99階ダンジョンで過ごす時間がプレイ総時間の99%へ限りなく近づいていくのですから、1%部分のバランスを論評することに意味はないのでしょう。最後に習い性で批判的なことを申しましたが、我が人生において数少ない栄光の瞬間を思いださせてくれたことへ最大限の感謝を表しつつ、もっともとぼしいリソースである時間をかなり集中的にシレン6へとそそぎこみぎていますので、そろそろ3日で1トライぐらいにペースを落としつつ、所謂「フェイの最終問題」クリアを気長に目指したいと思います。なに、今回の攻略はおにぎり増殖でドスコイ状態をいかに維持するかがポイントですよ、だと? だまれ、サテラビュー版をプレイしたこともない微笑みデブめが! プレイヤーに有利なだけの安易な強化要素を得々と語って、歴戦のシレンジャーであるバードマン軍曹猊下にくさい息を吐きかけるでないわ!

映画「ナポレオン」感想

 ホアキン・フェニックス目的でナポレオンを見る。「暴の雰囲気を濃厚にまとわせる無表情から、突然のチャーミングな大破顔」というどこぞの宮崎駿みたいな役作りをしていて、現代へいたる法体制を整備した「稀代の政治家」ではなく、戦争ですべてを解決する「狂気の戦術家」としての側面に強いフォーカスがあり、そこへジョセフィーヌとの関係性を歴史ミステリーの軸にすえた「人間ナポレオン」の物語として全体は進行していきます。戴冠式のアレを始めとして、有名な西洋画の構図をそこここにノールック・スリーポイントシュートーーあれ、オレまたなんか新古典主義キメちゃいました?ーーでバシバシに投入してくる撮影はさすがの大巨匠リドリー・スコットであり、「同氏にとってブレードランナー以来の傑作」という、褒めてんだか貶してんだかわからない評も大いにうなづけるところではあります。アウステルリッツからワーテルローまでをド正面から四ツに組んで映像化しており、堂々たる歴史大河として「これぞ映画芸術の真髄なり!」と思わず膝をうつほどの快作であるのに、本邦ではいつ劇場にかかっていたのかわからないほど、一瞬で上映が終了してしまいました(たぶん、スパイ家族のせい)。配信ドラマや一分動画が全盛の現在、それこそブランデーを片手にドッシリと腰をすえて二時間半を銀幕の幻想に没頭する姿勢が、珍奇でまれな心理的外傷のケーススタディになる日も、もはや遠いことではないでしょう。

 個人的には、LGBTQF(レズ・ゲイ・バイ・トランス・クイア・フィーメイルを表すnWoの造語)以外に属する者として、同胞たる市民に向けて散弾をこめた大砲を水平射撃して鎮圧する様ーー足を失った婦人が血塗れで這いずるーーには背筋がゾクゾクしましたし、歴史の教科書でしか知らなかったナポレオンの大勝と大敗を象徴する2つの戦闘を、あたかもその場にいるような砂かぶり席で見られたことに、アドレナリンが全身へ充満する昂揚を感じました。歩兵・騎兵・砲兵を基軸としたファイアーエムブレム時代(まちがい)の戦争は現代のそれと異なり、「肉に食いこむサーベルの感触と、血しぶきとともに冷えていく遺体」を否応にともなっており、誤解を恐れずに言うならば、LGBTQF以外を心の底からワクワクさせる、ホンモノの闘争であると言えましょう。特に、アウステルリッツで砲撃をくらった露助どもが、極寒の湖へ血煙とともに沈んでいくのを幾度も幾度も執拗に映す様子は、「撮影時、私はナポレオンその人だった」とふりかえるリドリー翁が感じている「殺戮の悦楽に、硬く反った陰茎」がまざまざと伝わってくるようでした。そして、「勝っている戦争ほど、楽しいものはない」「異人を殺すとき、胸は寸分も痛まなない」という身もフタもない興奮状態から編集時にハッと我へかえったのか、外人傭兵部隊が設立される理由にもつながる「ナポレオンが戦場で死なせた、おびただしいフランス兵の数」をエンドロールの手前に申しわけ程度のテキストで列挙することによって、「せんそー、はんたーい」みたいな弱々しいシュプレヒコールをあげるフリで物語の幕を閉じるものの、この映画が表現しているのはそれとは真逆の内容ーー「祖国のための戦争で他国を蹂躙するのって、ハッキシ言って最高におもしろカッコイイぜ!」ーーであると指摘しておきます。

 あと、レ・ミゼラブルの感想のときにも言いましたが、フランスというのは若者の無軌道な衝動性をレボリューションなる語彙で称賛する短慮短絡な国家であり、賢明な老人諸氏にはさぞかし生きづらい場所だろうと推察するとともに、心からの同情をお寄せいたします。本邦に根強い仏国に対する好印象は、主にベルばらと宝塚によるプロパガンダ的な由来を持っており、まだ大聖堂が燃え落ちておらず、中心街が移民によって釜ヶ崎みたいにはなっていない時分に渡仏(ぬりぼとけにあらず)し、埃っぽいシャンゼリゼ通りでバケツ一杯のムール貝をむさぼり食った経験を持つ貴人に言わせれば、パリなんてのは錆びた鉄塔と治安の悪い地下鉄があるだけの小汚い下町に過ぎず、その意味で新世界周辺となんら変わるものではありません。「イラついたので王を引きずりおろしたクセに、なんだか不安になってすぐさま次の王を立てたかと思えば、やっぱりムカついたのでその王を引きずりおろしたあげく、尻のすわりが悪いのでまた別の王をすえなおす」みたいな、前頭葉に欠陥のあるとしか思えない、感情の抑制がきかないバーバリアンどもから、ローマ帝国の浴場的末裔であるプレーン・フェイス族の我々は、くれぐれも何かを学んだりしないようキモに銘じたいところです。それと、ナポレオン式着衣後背位(高速)ーー「なんで妊娠しねえんだよ、チャクショーッ!」ーーが史実なのかどうかは、とても気になりました。

ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想

 崩壊スターレイル、ピノコニー編を実装部分までクリア。本作のシナリオは、同社の他作品と比して「情の原神、理の崩スタ」とでも評すべき、仮面ライダーみたいなテイストの棲み分けになっています。「新規のSF的概念」「組織と人物の相関図」「各キャラの台詞と、その裏」を、かなり丁寧に読みこんでいかないとストーリーの本筋が理解できない作りになっていて、グラフィックというよりテキストに強く依存した形式は、かつてのゲームブックを彷彿とさせます。その一方で、JRPGに向ける怖いような畏敬から造形されたフィールド部分に、イヤというほど盛りこまれた大量のギミック群は、本邦のユーザーに「知育玩具」と揶揄されるぐらい、わざわざプレイさせる意味を哲学的なレベルで考えてしまうほど単純なものばかりで、「漢詩の教養が市井の一市民にまで浸透しながら、理系分野においてはいまだひとつもノーベル賞の受賞がない、スーパー文系国家」である事実に由来しているのではないかと、邪推しておる次第です。理系分野の根幹を成す数学という技術は、乱暴な言い方をすればIQテストのパターン認識と事物の抽象化であり、「重厚なシナリオと対極をなす、簡素きわまるパズル遊び」は、中華のその特性にピッタリと合致するように感じられます。

 第三章前半のストーリーについて言えば、今回も世界情勢との意識的なリンクをうかがわせる内容になっていて、故郷を失った「星間難民」であるヒロイン(ホタルたん!)が違法なデバイスを使って夢の世界に密入国したことを告白するくだりは、世界各国の12言語を相手に物語をつむぐホヨバにしか、正面から取りあつかえないだろうと思わせるもので、そこへさらに「筋ジス患者にとってのバーチャル・リアリティ」とでも表現すべきハードな詩情を盛りこんでくるのです。最近、タイムラインに流れてきた「現実が厳しい者は仮想現実を選び、現実に満足している者は拡張現実を好む。それを証拠に、メタクエストは500ドルで、ビジョンプロは5000ドル」という記事を読んださいには考えもしなかった、「現実への充足」とはカネや社会的地位だけを意味するのではないという気づきを前に、五体と五感が不足なく動くことを当然とみなす人物の背筋は、内省によってわずかに伸びる感じさえありました。パイモンのしゃべくり一人称で進行してゆく原神と比べて、崩スタは無言の主人公と距離をおいた三人称のカメラで語られるせいか、ただでさえ速いストーリー展開は緩へ急へとさらに大きな振り幅を見せ、そのドライな筆致によって重要と思われる人物を拍子抜けなほど、アッサリと退場させたりする。もしかするとその唐突ささえ、第三章の後半であつかわれるだろう「夢の中での死は、精神的な死である」という指摘が、いかなる実相をともなうかを種あかしの中心にすえたミステリー要素の一部なのかもしれず、いまはあらゆる想像や予断を外して心静かに続きを待ちたい気分でおります。

 そして、ここまでのマジメな考察と分析をすべて台無しにする萌えコションならではの視点を、我慢できず露出狂のようにまろびださせていただくならば、ピノコニー編に登場する多くの新キャラのうち、なんといってもその白眉は金槌花火(たぶん偽名)たんでしょう! この少女は、下品なワードなので自分のテキストに残すのも正直はばかられますが、いわゆる「メスガキ」というエロマンガ由来のネットミームからその造形をスタートしつつ、その概念をいったんすべて脱構築してから、異なる位相で再構築したキャラになっているのです。同ワードを用いて、本邦の創作者たちが描くだろうエレメンタリー・ガールを想像してみましょう。いま貴君の脳内にうかんでいる、魚類に関するワードを連発する記号まみれのコピーキャットから遠ざかって一個の人格を編みあげた上で、なお「メスガキ」と呼ぶにたるというのは、じつに見事な手腕です。これはまさに、足し算と掛け算をいったん別宇宙に分離してから再構築するがごときアクロバットの所業であり、金槌花火(おそらく偽名)たんの存在は、美少女ゲーにおける宇宙際タイヒミュラー理論だとさえ言えるでしょう(言えると思う……言えるんじゃないかな……まあ、ちょっと覚悟はしておけ)。画面外の大きなお友だちは大興奮なのに、画面内のキャラたちはだれもがうっすら彼女のことを嫌っていて、すでに「どうしてみんな、しかめっ面するの」みたいな負けフラグも口にしており、「登場時に必敗を前提とした優越を持つ」みたいなルールを付与されているところまで再現されていて、花火たんが今後いかに敗北するかを想像するだけで、もうワクワクがとまりません。

 あと気になったのは、特に三月なのかや今回のヒロインであるホタルたんに顕著なんですけど、朗読されるセリフに息つぎのブレスが入りまくるところです。これって本来は編集で消すべきなのか、話し手がブレスの瞬間にマイクを外すべきなのか、どっちが正解なんでしょうか?(旧エヴァ第弐拾弐話のビデオフォーマット版で、「時計の針は元へは戻らない」というゲンドウの台詞の直後に、本放送版ではなかったかなり大きめの息を吸いこむ音が収録されていて、演出意図なのか消し忘れなのかわからず延々と悩んでいたのを、いま思いだしました) 最後に、中華サイファイから理論物理学へと連想ゲームを飛躍させた近況報告で終わります。以前、ピーター・ウォイトのブログを週イチでチェックしていることをお伝えしましたが、あれだけ厳しく弦理論をとりまく状況を批判しておきながら、リジェクトされた論文未満の万物理論に関するアイデアを科学誌のインタビューで得々と語ってしまい、ストリングスの専門家と同じ不健全さでマスコミを利用しているとブログのコメント欄が炎上していることに、満面の笑みを浮かべております。もっとも冷静かつ論理的であらねばならない理系分野のテニュアどもが、ほとんど2ちゃんねるやツイッターみたいなレスバトルをくりひろげている様子を極東の観客席から眺めるのは、(ビールの泡を白ヒゲに、破顔して)本ッ当に最高の娯楽ですね!

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。