猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「エイト・デイズ・ア・ウィーク」感想(またもエヴァ呪)

 ネトフリでエイト・デイズ・ア・ウィーク見る。ビートルズのドキュメンタリーとしては、イマジンを擦り切れるほど(もはや黒電話とかフロッピーディスクみたいな表現)リピッてるんですけど、あっちはジョン・レノン中心の構成なので、解散後のオノ・ヨーコとの生活にかなり尺が割かれてるんですよね。本作はライブ・コンサートをやっていたアイドル時代に多くの時間を使っていて、とても新鮮な気持ちで見ることができました。シガニー・ウィーバーとか、少女の頃に彼らの熱烈なファンだった有名人たちのインタビューも挿入されてて、ウーピー・ゴールドバーグ(ガイナン!)が登場したのは、嬉しい驚きでした。母親がサプライズでチケットを押さえてくれていた話と、”They are colorless.”とため息みたいに言う様子が強く印象に残りました。ビートルズって、あれだけ豊かで多彩な音楽活動を繰り広げながら、デビューから解散まで実質9年くらいしかないんですよね。ちなみに、シンエヴァの制作期間も同じ9年で、両者の間に横たわる長大なクリエイティブの格差には、もはや愕然とするばかりです(鷺巣先生、かわいそう。まあ、特撮テーマの再録音以外はいっさい口出ししないし、ジャブジャブ無尽蔵にお金を使わせてくれる都合のいいパトロンぐらいにしか思ってないのかもしれませんけど!)。

 ビートルズに話を戻しますと、スーツ姿にマッシュルーム・カットで、互いに区別のつかない4人のイギリスの若者が、まったく異なる個性と見かけを持った大人の男性へとメタモルフォーゼしながら劇的に楽曲を変化させていくその過程は、まさに「創造の魔法」という表現がピッタリと当てはまるでしょう。そして、アイドル時代の記録映像は白黒だったのが、スタジオ録音へと移行する時期からカラーへと転じるのも、撮影技術の進化と並走したまったくの偶然ながら、「サナギから羽化した」ような印象をさらに補強しています。もしジョン・レノンが凶弾に倒れなかったら、再結成した四人がどんな音楽を作ったのかは、ファンたちの間にいつまでもたくましい想像(僕はビートルズ!)をかきたてます。シンエヴァみたいな自己模倣のサンプリング集と化してしまった可能性もゼロではないとうそぶきつつも、想像の中でだけ楽しめる点においては、じつに優雅な遊びだと言えるでしょう。エヴァンゲリオンに関しては、いまだ作り手が存命であり、海外メディアによる監督インタビューから判断しても、さらに「どん底」の底が開く可能性が残されている絶望的な状況なのですから!

 再びビートルズに話を戻しますと、有名なルーフトップ・コンサートが本作の締めとなるのですが、四人が屋上で「ドント・レット・ミー・ダウン」ーー「甘き死よ、来たれ」のサビは、この反転だと信じて疑いませんーーを演奏する姿には、なにか神々しいものさえ放たれているように感じます。以前、スーパーマン・リターンズの感想で「冒頭、スーパーマンが飛行機を不時着させるスタジアムの観客のひとりであれたら」と述懐したことがありました。もし立ち会うことができたら、どんな惨めな人生が後に残されていても、その瞬間を反芻するだけで生きていけるイベントがこの世には存在し、サヴィル・ロウの街路からアップル・コアの屋上を見上げる通行人であれれば、それだけでこの尊大な自意識を死ぬまで食餌していけただろうと夢想して止みません。そして私の生きる時代では、そこへもっとも近かったはずのシンエヴァ公開初日・初回の劇場が、そこからもっとも遠い場所だったというシンプルな事実に対する深い失望が、いつまでも、いつまでも、いつまでも、胸のうちから消えないのです。

漫画「ファイアパンチ」感想

 ファイアパンチ、読む。好きなモチーフや嗜癖(人肉食とか)をぎゅうぎゅうに詰め込んだ、作家としての良い部分と悪い部分のメーターがともに振り切れている作品でした。序盤から中盤にかけては世紀の大傑作なのではないかと興奮していましたが、終盤から最終話にかけて物語のテンションは次第に下がっていき、チェンソーマンほどは漫画読みたちの俎上にのぼることの少ない理由がわかりました。「どんなキャラでも、物語のためなら躊躇なく壊すことができる」「冷笑という言葉では生ぬるいほど、人間と人類に対する期待値が低い」、この2点が突出した彼の持ち味だと思うんですけど、殺せるからといってトガタを殺したのが迷走の引き金になったと思います。それは鳥が空を、獣が陸を、魚が海を否定するのと同じ作劇であり、氷の魔女に役割を引き継がせればまだどうにかなったかもしれませんが、本作のテーマが依拠する土台を完全に消滅させてしまった。ブッとんだセンスにばかり目が行きがちですが、基本的に物語文法への意識を強く持ったクレバーな作家なので、本作では「トガタを退場させたら、この物語はどうなるんだろう?」という悪魔の誘惑にあらがいきれなかったのだと思います。そして、「外見と演技によるアイデンティティ」というフレームが無くなり、そこから思想・信条・宗教・文化・歴史・地縁・血縁・道徳・倫理・勇気・信念を順に放棄していった上に地球まで破壊して、最後に残ったのが「愛」(と映画館)だったというのは、プラネテス級のドッちらけな幕引きでした。

 どっかの炎上ユーチューバーもそうですけど、自己認識が「300年を生きる魔女」であるうちは、歴史や人類のすべては他人事だし、おのれの主観だけでいくらでも何かを断罪することができます。身体の内側から「ファイア」が消えて、ただの寒暖が身をさいなむようになり、だれもが自分よりは優れていると感じるようになってからが、人生の本番なのではないでしょうか。 え、アンタが他人のこと言えるのかって? 小鳥猊下はネット黎明期から生きているレジェンドなので、すでにそのくびきからは逃れているよ! いつまでも安心して見ていられるね!

アニメ「劇場版シティーハンター新宿プライベート・アイズ」感想

 懐かしのナンバーに乗せてお送りする、北条司オールスター歌舞伎。開始10分で、このあと何が起こるかすべて知ってる感じがたまりません。キャッツアイのオープニング(レオタードのけぞり)で精通を迎えた諸兄にとって、本作は鈴口から垂涎の一品でありましょう。当然ながら、性に関する昭和の奔放な価値観ーーセックスを禁じられた鬼畜王ランスーーを含めて、新規ファンの参入を完全に拒絶する仕上がりであり、いったいどこのどいつがどういう政治力を駆使して、この令和の御世にこの企画を通したのかについては、首を斜め45度に傾けて不思議がるばかりです。もちろん視聴中、小生の心の鈴口からはずっと半透明の我慢汁が垂れ流れており、狭い狭いターゲット層の内側におのれがピッタリと収まっていることを、痛いほど実感させられた次第であります。

 また同時に、後期高齢者となったオリジナル声優たちによる最後の同窓会の様相を呈しており、セリフの間合いは倍速で映画を再生するオタクになりたい若者たちにとって、おそらくピッタリの速度でした。今回はネトフリで鑑賞したのですが、声優たちの座談会が副音声で収録されているならば、改めてブルーレイ版を購入することもやぶさかではありません。しかしながら神谷明だけは、ストーリーが進むにつれて演技を35年前へとアジャストしていて、第一声に感じた猛烈な違和感は、エンディングを迎えるころには見事に消えていました。

 あと、エンディングでゲット・ワイルドとか流しておけば、かつてのオタクどもは圧倒的な読後感で名作認定するなんて思ってんじゃねえだろうな! 平成生まれどもは白けた顔でながめてやがるが、二階建てのバスは、確かに俺を追い越して行きやがったぜ……(バスタオルに顔をうずめながら)

質問:シティーハンターを見に行ったらシティーハンターが出てきた!
回答:声優陣がおじいちゃん、おばあちゃんになったことと、男性器のたかぶりを表現するためにズボンをフランクフルト状に盛り上げる演出(乳袋の文化的対偶)がオミットされたことを除けば、倫理感ノー・アップデートでそのまんまでしたね。届くべき層にのみ届いたのが、炎上しなかった理由かもしれません。

ゲーム「FGO第2部6章」感想

 FGO第2部6章の感想、まずは謝罪から。5章終了後の感想で、「すでに語りつくされたブリテンとアーサー王をどうも再話しそうな感じ」とかシャバゾーがチョーシこいて、本当にすいませんでした。ファンガスの野郎、無印Fateのセイバーの話と第1部6章を下敷きに、現代社会の戯画を織り込んだファンタジー世界をまるまるひとつ構築する(しかも、壊すために!)という離れ技をやってのけやがりました! Fateシリーズって、基本的に「キャラクターの物語」であり続けていると思うんですけど、アヴァロン・ル・フェはそれを維持しながら「社会と関係性の物語」へと進化しているのには、口はばったい言い方ながら、ファンガスが「成長する書き手」であることをあらためて強く感じました。彼の作劇が優れている点は、まず物語全体を結論まで鳥瞰して、構成の骨格をキッチリ組んでから、キャラを配置していくところでしょう。行き当たりばったりの「神待ち」シンエヴァとは違って、作り手が「神その人」であることへ常に自覚的なのです。その上で、「どの部分を厚くして、どの順番で提示すれば、もっとも効果的に読み手の感情をゆさぶることができるか?」を計算半分、センス半分でやっている。第2部6章も、ひとつひとつのモチーフだけで別の作品が作れそうな内容をぎゅうぎゅうに詰め込むことで、第三村のようなスカスカの書割とは違う実在する世界が、眼前で本当にどうしようもなく壊れていくのを当事者として読み手へ体験させるというすさまじさです。妖精国って、昨今のインターネット界隈と現実社会の醜悪なリンクを比喩的に描いている側面があると思うんですよね。だから、このストーリーを読んだ誰もが自分をどの登場人物かの境遇に仮託してしまう作りになっていて、世界全体を俯瞰的に見下ろす傍観者の立ち場へ逃げ込むことを許さない。市井のモブにも目配りを忘れず、「破滅が迫る中、恩人の元へ駆けもどって、二人で抱き合いながら地割れに呑まれて死ぬ」とか、読み手を信頼して背景の想像を預けてくれる感じが常にあり、それが奥行きを作り出している。シンエヴァの「受け手の読み方をコントロールするため、クダクダ説明してゴテゴテ描写するくせに、肝心なところは盲のような空洞になっている」とは真逆の態度です。「地割れに呑まれる二人」のくだりを読んで、栗本薫がトーラスのオロの話を何度も自慢していたのを、ふと思い出しました。グイン・サーガの1巻で死んだ端役が、その後いかに長きにわたって読者の心を離さなかったかという話です。小説道場の文体模写やってる人をどこかで見かけたけど、あれで栗本薫のシンエヴァ批評やってくんないかなー。

 あと、マーリンとオベロンを別人物として表裏の存在に置こうとしているのは、スキルの効果説明から理解できましたが、作中のテキストのみでは同一人物にしか感じられず、けっこう混乱しました。以前、「マーリンはFGOにおける作者アバター」という指摘をしましたが、オベロンもやはり虚構内のキャラというよりは、ファンガスのアバター色が強く出ていて、それが混乱を招いた原因だと思います。マーリンが「人間から距離を置いた、酷薄な虚構摂取ジャンキー」であるのに対して、オベロンは「人間へ積極的に関わり、世界への失望を深める信頼できない語り手」の配置になっていて、前者はFGOを始める前のファンガス、後者はFGOがメガヒットした後のファンガスなのではないかと邪推してしまいます。「もっとも高貴な者が、もっとも卑しい者に救われる」モチーフーーこの構文、6章にも出てきましたね! イエーイ、ファンガス、見てるぅ? 生けるネット呪詛だぞぅ!ーーは以前からありましたが、「高貴な者が救われるとき、卑しい者を疎んじる」視点がそこへ生じたのが、今回の大きな変化でしょう。じっさい、インターネットを通じて眺める人間や世界というものは、地虫のクソ溜めとなんら変わるところはないですからね! イヤな言い方をしますけど、オベロン視点の「虫」は最後のアレを含めて、FGOファンの暗喩だと思いますよ。愛憎が常にぐるぐる回転していて、どれだけ魅力的な世界を紡いでも、ファンの底なしの欲望へと吸い込まれて、すべて消えていく。

 けれど、現実とインターネットが互いに照射しあえば、ときに掃き溜めへ白い鶴がすっくと立ち、ときに泥の内から蓮の華が薄紅色に咲く。ダビンチちゃんが刺し殺されるフラグーー偉大な英雄の功績が、その情けによって生まれたモンスターに中絶させられるーーをさんざんに立てておきながら、最後の最後で「彼をそうさせない」(オーロラと美醜の対比になっているのが、また素晴らしい)。先日、ネット局所で話題となった「怒りをこめてふりかえれ」と同じ問いかけでありながら、回答が異なっている。これはしかし、正誤ではなく資質の違いとしか言いようがありません。真摯に書かれたあらゆる表現は、書き手の人格のすべてをあますところなく他者に読み取らせてしまうものなのです。「作品と作者は切り離すべき」という話は、法律とか社会というレベルでは「是」なのでしょう。けれど、作者と読者が一個の人間として互いに向きあうとき、その命題は絶対的に「否」なのです。本当に作品と作者が切り離せるとしたら、虚構を紡ぐという営為は、人工知能が自動生成したテキストと何ら変わらなくなってしまうでしょう。同じ時代の、同じ世界で、同じ空の下、同じ大地を踏み、同じ空気を吸って、違うできごとに笑い、違うできごとに励まされ、違うできごとに絶望し、それでも生きていくのを選ぶだれかが、心から真実に発する言葉にだけ、語られる意味がある。私はそれを聞きたいし、それを知りたいと思う。

 FGOは過去の神話や英雄譚に依拠した本質的に荒唐無稽の物語で、幕間の物語などを読むとき、その拙さ、もっと言えば幼稚さが浮き彫りとなって、暗澹たる気分にさせられます。しかし、いったんファンガスが筆をとれば、FGOは現在進行形の「いま」を鮮やかに描き出す至高の物語装置へと変化するのです。他の書き手が調べた設定をキャラに落とし込むのに四苦八苦する段階なのに対して、唯一ファンガスだけが設定を利用して「いま」の深層をえぐる物語を紡ぐことができる。第2部6章ではオベロンが特にそうで、シェイクスピアの劇中設定を使いながら、現代社会の在り方への批判とフィクションを紡ぐ者の覚悟が平行して描かれている。第2部4章では、おそらく現実の事件に寄せて、有益と無益で生命の価値を弁別することへ向けた猛烈な反発を描いたファンガスが、今回はいまの時代に漂う欺瞞に満ちた空気に対する強烈な違和感を表明している。「過去の人間のマネゴトをして、過去の人間に依存しなくては生きられない」妖精たちは、いったい何の戯画なのかを考えてみて下さい。キャスターの足の指が凍傷で何本か欠損していることがサラッと書いてあったり、見えなければ他者の痛みを無視できる我々の無自覚性への批判も痛烈です。主人公の脳内にリフレインして、窮地を伝えたペペロンチーノの言葉も、「死んだ者は、生者の中でカッコつきの『死者』として生き続ける」を今日的に表しており、あの一連の展開は年齢の順に人が死なない世界における、ある種の「しるべ」に思えました。これらの表現を、意識的にやってるか無意識的なのかはまったく不明ながら、ファンガスの書くFGOこそ、いまの時代を生きる人々がリアルタイムに追いかけるべき作品であることは間違いありません。

 生活感情を物語へと翻訳できるのは、たいへんな異能力だと思いますし、たぶん社長のジャッジで遠ざけてると思うんですけど、ツイッターとか(例の日記も少しそう)やりだしたら、メッセージ性が極限にギュッと濃縮されて特異点化したこの感じが薄まる気は、すごくしています。なのでファンガスには、「生きながらフィクションに葬られ」た者として、今後も最果ての塔(タイプムーン本社?)に幽閉されたまま、すべての感情を余すところなく物語にだけ落としこんで欲しいと思います(最後の2行はルーン文字についた日本語キャプションとして読んで下さい)。

漫画「ゴールデンカムイ」感想

 ゴールデンカムイ全巻無料、読む。最初のほうは単行本も買ってたんですけど、土方歳三が博徒を鏖殺するあたりでノレなくなって、なんとなく読むのをやめてしまいました。群像劇で大長編化していき、そのうち連載が間遠になり、ついに完結を見ずに終わる例の作品群と同じにおいをかぎとったせいもあります。作者がキャラを愛しすぎるようになり、だれも殺せなくなって、ストーリーが停滞するというアレね。それが、いよいよ最終章に突入して、どうやら完結するらしいとのふれこみに、出戻ってきた次第です。一気に読むとダレ場も多く、既視感あふれる大ゴマのアクションと脇役の過去編に割かれる話数とで3分の1くらいは削れると思うんですけど、要所要所の伏線回収話はさすがに面白い。そして、ページをめくったときの転調を効果的に使っているのも本作の特徴で、一瞬でシリアスをギャグに、ギャグをシリアスに変じるのがとてもうまい。最新話ラスト2ページの転調も、本当にうまい(雑誌掲載時のアオリ文を書く担当は変えた方がいいと思いますが……)。

 ただ一点だけ気になるのは、あれだけホモホモしい、チンポ・スケベ・フェロモン・ギャグ(ムワアァァ)をくりかえし挟んでくるのに、少女アシリパの描写にセクシャルな視点がいっさい無いところです。キャラ崩壊スレスレの変顔をさせたり、チンポやキンタマの話をさせたりするのに、見事なまでに性的なニュアンスを消しているんですよ。300話近く連載しているのに、彼女がどんな体型をしているかさえわからない。アイヌの衣装がドラえもんレベルのデザインとしてキャラと一体化してて、身体の曲線を想像すらできないようにしている。男性作家だったら必ず入れるだろう川での沐浴とか、顔以外の肌を見せるシーンが本当に1話もない。男どうしの同性愛ギャグでごまかそうとしているのは、作者の性別なのではないかという話も、どこかうなずけるところがあります。もし、この指摘が何らかの大オチを隠すためだったりしたら、面白いのになあと思ってます。

 あと、マンガが良かったのでアニメをFF11のオトモに流し始めたら、ひどい出来でビックリしました。原作の持ち味がすべて消された、昭和によくある納期優先の量産型アニメなんですよ。アシリパに説得力を持たせられるかが序盤のすべてなのに、声優の演技が魅力にとぼしいのもマイナスです。もっと原作を大事にする制作会社に預けてほしかったなー、もしかして雑誌掲載時のアオリ文を書いてる偏差値の低そうな担当が美人局でやらかしたのかー(妄言)?

 それと、ゴールデンカムイのギャグにところどころ漂うこの感じ、前にどっかで体験したことあるなー、どこだったかなーと考えていたら、えの素だった。

 ゴールデンカムイ、最終話まで読む。列車に例えるならば、長らく時速60キロの運行だったのが突如、時速200キロに加速した感じ。男たちの「死に様」を次々と描いた後は、歴史大河として我々の現実に接続させるための怒涛のナレーションからの、この作者らしい余韻をブッたぎる人を食ったラスト。そしてついに、近年のインターネットに顕著である胸部サイズをめぐる不可思議な争いを避けるため(違う)なのか、少女アシリパの裸体は7年半におよぶ長期連載にも関わらず、ただの一度も描かれませんでした。

 主人公との関係も恋人というよりバディに留まったままで、本作では一貫してすべての男性を「女性を性愛の対象としない人物」として描いているのです。人間を細分化する近年の知的遊戯にはついていけてないので、私にとって当カテゴリに入るのは2種類しかないんですけど、この作者はどっちなのかなー。どちらにも入らない読者の多くは、主人公とアシリパのロマンスの行く末を知りたかったと思うのですが、またいつでもそれを語り始めることができる場所としての「3年後」を、いったんのエンディングに置いたのかもしれません。

 まあ、解釈違いの実写版では、胸やけするほど描かれるんでしょうけどね!

アニメ「スタートレック:ローワー・デッキ」感想(かなりエヴァ呪)

 「スタートレック:ローワー・デッキ」見る。サブタイトルとシンプソンズふうのキャラデザから、下層デッキの一画だけを舞台にした一話完結の「スタートレックあるあるシチュエーション・コメディ集」なのかと思ってたら、ちゃんとストーリーになってて驚きました。たしかに、本編では不可能なシモネタやグロ描写も多くあるんですけど、TNG世代をねらいうちーー「あの船、毎週事件起きてるよね」みたいな小ネタにクスッとさせられてしまうーーにした良質のスピンオフでした。最終回ではライカーが救助に来た瞬間、いい大人が笑いながら泣いてしまいましたもの! スタートレック・シリーズ(特にTNG)って、昔からずっと「自由の価値」と「多様性の正しさ」と「それらを維持するコストと責任」を嫌味なく描き続けてきた、「アメリカの国家的理想」を体現したフィクションであり続けていると思います。スターウォーズ・シリーズがシークエルでぜんぶ台無しにして途絶させた「作品固有のテーマ」というものが、敬意をもって未だに脈々と引き継がれていっているのです。二次創作的な悪ふざけスレスレのラインを攻める本作でも、「ルールを守ることと破ること」とか、「リーダーに必要な知恵と蛮勇のバランス」とか、過去のシリーズに込められてきたテーマがエッセンスとして凝縮されており、スタートレックの本質をわかっている人が脚本を書いているのが伝わってきました。

 TNGのシーズン4第2話が好きで、時おり見返すんですけど、宇宙艦隊のエリートである弟と父祖の代からの葡萄畑を守る兄の人生が交錯する瞬間を対比的に描き、ピカードは艦長の仮面を脱ぎ捨て己の弱さを吐露するとともに、銀河の何百光年を飛翔しようと自分がこの土に根差しているのだと気づくのです。この挿話は、ジャン・リュックというキャラクターを説明する上でとても重要なパーツであり、TNGの後日譚である「スタートレック:ピカード」の第1話で艦隊を辞した彼があの葡萄畑で隠居しているのには、強い感動を覚えました。もちろん、老境にさしかかったSir. パトリック・スチュアートの存在感に依るところ大なのですが、長く続いたこのSFシリーズはついに「老いること」を肯定的に描けるほどにまで成熟したのだと、本邦の「若さに価値を置いた」虚構群をかえりみて、とてもうらやましく思いました。ラバール村での描写は、新旧ともにピカードのアイデンティティへの敬意と愛にあふれています。これを見せられた後では、現実のミニチュアセットとだけ紐づき、作中のどのキャラクターとも連絡の無い空疎な書割である第三村(また!)を前にすると、恥ずかしさのあまり赤面して立ち尽くす他ありません。エンタープライズ号の識別番号NCC-1701が碇シンジのネルフIDであることは有名ですが、なぜ再びシンエヴァの方向へ感想が曲がっていったかと言えば、ローワー・デッキの余韻に浸りながら、ひさしぶりにスタートレックについて検索するうち、第三村でケンスケの乗っているジープ?のナンバーが1701だという小ネタを見つけてしまったからです。

 新スタートレック好きを公言ーーどうせエンタープライズ号の形が好きなだけでしょうけど!ーーし、作中にオマージュまで忍ばせるくせに、このシリーズが一貫して描いてきた深い精神性や人間の気高さにはいっさい学ばなかったの、ホンマにハラたつわ! ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー出身のナイト爵の毛並みの良さは、山口県民には理解できなかったのかもしれませんね! いや、ケベック州出身のウィリアム・シャトナーからオタクのディスり方だけを学んだのかな! 8月13日からアマプラでシンエヴァが全世界に配信されるそうですけど、目の肥えた本場のSFファンたちがどんなふうにこれを見るか想像するだけで、奈良県の土人は恥ずかしさのあまり悶絶しそうですよ! 執拗なチャイルド・アビュースにセクシャル・ハラスメントのあげく、ドローン・アタック・イン・ウベ・シンカワですからね! エヴァTV版とシンエヴァ、新スタートレックとスタートレック:ピカード、どちらもほぼ同じ年数を隔てた続編なのに、どうしてこんな天文学的な単位で差がついてしまったんでしょう! まあ、答えは明々白々としていて、「脚本家の軽視」なんですけどね! 背景としては、組織的なロジスティクスではなく英雄的なパーソナリティを讃えてきた、先の戦争と同じ病裡をエム・ロリの御大が長編アニメ制作へ持ちこみ、興収に目をくらまされた配給会社がそれを看過することで、次の世代へ「ムラの習わし」として固着させたのが悪いんですよ! つまり、スーパーアニメーターが何の試験もなく空気でフワッと監督へ昇格し、専門的訓練もいっさい受けないまま、演出から脚本から感性でぜんぶやっちゃう例のアレですよ! 私小説にするならするで、中年なら中年の、老人なら老人の実感をビビッドに描写すればいいのに、どいつもこいつも少年少女に「想い」を仮託しようとするから、年齢を重ねるごとにどんどんメッセージが歪んで、悪臭を発するようになるんですよ! ベビーブームの時代には市場戦略だとごまかせたかもしれませんが、少子高齢化の現代では性癖の披歴にしかなってませんからね、それ!

 書いてるうちに怒りがぶり返して大脱線(いつもの)しましたが、もしかしてエヴァにあり得たかもしれないーー公式が下品な未成年エロ絵を量産する過去や、公式がアホな解釈ミス絵を量産する現在とは異なるーーシリーズものの芳醇な可能性を示す「スタートレック:ローワー・デッキ」、オススメです!

アニメ「トップをねらえ2!」感想(だいぶエヴァ呪)

 ピのつくイベントがもたらした唯一の恩恵である連休を使って、「トップをねらえ2!」を通して見る。はてブ民との死闘でも伝えたと思いますが、原典至上主義者なので、この2も「あの名作の監督を変えて、パロディみたいな続編を作るなんて!」と、持ち前の潔癖さから視聴を拒否していました。それがシンエヴァで呪いが解けーーあ、カン違いしないで下さいよ! 監督がクリエイターとしての良心を持っているという思い込みが消えたという意味ですからね!ーーて、17年越しに本作の視聴へと至ったわけです。感想としては、これ、エヴァンゲリオンを主題とした変奏曲の第一楽章って感じですね。さらにグレンラガンの第二楽章、見てないけどダリフラ?の第三楽章へと続いていく、エヴァに影響を受けた作り手たちによるアンサーのひとつだと言えます。端的に言って、シンエヴァで見たいと思っていたものが少しは見れて、かなり楽しんだと思います(1話で主人公の下半身ばかりを執拗に映し続けるのには、正直どうしようかと思いましたが……)。

 そしてトップ2を見たことで、シンエヴァの構成について解像度が上がりました。トップ2はシンエヴァの副監督が作っており、前者の要素を後者から引き算すれば、監督が手がけたパートが明らかになるという寸法です。この視点でシンエヴァを腑分けすれば、序盤の第三村のロケハンが監督(レイ回りはたぶん副監督)、中盤から終盤にかけての戦闘が副監督、最終盤の補完計画が監督といった構成になるでしょうか。つまり、シンエヴァは表現手法による三幕構成の芝居になっているのです。序盤はロケハンとアングルの模索に特撮の手法、中盤から終盤はトップ2を彷彿とさせるロボットアクションの描写に「間に合わないから」コンテを切る従来の手法、最終盤は旧劇・新劇の過去素材に風景写真と鉛筆画を加えたテレビ版弐拾伍話・弐拾六話と同じコラージュの手法で、それぞれ作られています。シン・ゴジラのときも、最後の最後は「すべての素材を人質に、編集室へ立てこもった」ようですが、今回は編集のための素材が足りないあまり旧劇まで引っ張り出すハメになって、さぞかしご苦労なさったでしょう。まあ、マラソンを走るためにバットを素振りするみたいな、無駄な努力の総天然色見本となってしまったわけですが! 余裕があるときは社長先輩(笑)の顔で後発の育成の真似事をしたって、追い詰められると「100%自分の意志だけで画面を作れる」コラージュの手法へと退行してしまうことからもわかりますが、監督は自分以外のだれも信用していないし、だれかを育てる気なんてさらさらないんです。もっとも近くで彼を見てきたジブリの翁が「大人になれないひと」だと言明するように、監督は成長どころか「トップをねらえ!」の当時から一貫して何も変わっていません。シンエヴァ終盤の手法と終わらせ方が、それを強烈に裏書きしているではありませんか。

 考えれば考えるほど、この作品をもってして成熟や前進を語る人々の内面には、「精神の盲点」とも呼ぶべき病裡が潜んでいるとしか思えません。彼らの態度は、皮層的な雰囲気だけに流される、所謂「B層」と申しましょうか、為政者がいかようにも操縦可能な「大衆」そのものです。「なぜならば」、本邦においては学校教育の偉大な成果から、正解を持った人物が常にいると信じこまされ、社会に出た後も脳内に仮構したその「先生」へ向けて品行方正にふるまうタイプの人種が、かなりの数で存在するからです。そして、集団を指揮する側にとって彼らの態度は好都合なので、長じてからその心的な指向性を修正されることはありません。「:呪」のリンクを公式アカウントにぶら下げて、「こういうのも悪い影響を及ぼすと思う」とご注進に上がる人物を見たときは、愕然としましたね。「校則を守らない不良を、先生に言いつけて指導してもらう」という心性が、大人になっても維持され続けているんですもの!(ちなみに、この先生への信頼が反転したものが、野党的な言説です)

 新劇に「世界がまだ見ぬサイファイの新たな地平」を求めたのが求めすぎだったことは、もう残念ながら認めざるをえません。しかしながら、あんなグズグズの、煮過ぎて原型を留めなくなった豆腐みたいな結末を迎えるくらいなら、シンエヴァはトップ2水準のエンディングで必要十分だったし、監督が余計な色気(キモッ!)を出さなければ、まちがいなく達成できたと思いますよ。エヴァ変奏曲に携わったスタッフを擁しているのだから、せめて第三幕をすべて彼らの差配に預けて、普通のフィクションとして語り終えていれば、新劇の当初の志に含まれていただろう「ファンにエヴァを返す」という目的を、象徴的にも実際にも達成できていたのにと、いつまでも悔やまれてなりません。

 これが最後のシンエヴァ語りになることを祈りつつ、終わります。

映画「ブルージャスミン」感想

 リのつくイベントの開会式が、「よーちよち、就職アイスエイジのうるさがたのボクがだいちゅきな、ゲーム音楽でちゅよー、ドラクエうれちいねー」とあやしてきたので、正拳突きで画面を叩き割り、テレビの残骸に傲然とそびらを向けると、シアターの棚に7年ほど眠っていたブルージャスミンを再生する。あれ、なんでこれ買ったんだったかなーと思ってたら、ケイト・ブランシェットが主演だったからでした。最近は小さな画面でアニメばかり見ていたこともあり、大きな画面に映し出される生身の人間の情報量に圧倒されました。姉妹の関係性に説得力を持たせる、絶妙なルックスをしたサリー・ホーキンスだけでもスーパーカブの100倍くらいあるのに、ケイト・ブランシェットの演技ときたら、さらにその1000倍ぐらいの情報量が濃縮されているのです。アニメで作れば、とても間が持たないようなストーリーなのに、女優の肉の実在へどうしようもなく視線を釘づけにされてしまう。輝くような笑顔から突然すべての表情が消失し、涙に溶けたマスカラで隈取られた老木のウロのごとき視線がカメラを向いた瞬間、ほとんど金縛りのような感覚を味わいました。

 あと、社会的地位を得るために出産適齢期を消費した男女が養子を取って家族を作るのって、キリスト教文化に根差してるんでしょうけど、本邦ではあまり見ない選択肢ですね。新世界だからこそ、ヨーロッパ的な「氏」とか「家」とか「血」の否定に、逆張りみたいな力学が作用しているのかもしれません。まあ、監督・脚本がウディ・アレンなので、彼の個人的な生育史から来ているアンコモンなケースという可能性もありますが、実際のところはどうなんでしょうか。女性たちの愚かさへ向けた視点が非常に皮肉っぽいのも、ウディ・アレンだなあって感じです。「まあボクの経験上、女なんていうのはすべて、ブルージャスミンの姉か妹にカテゴリできるんだよ」ぐらいに思ってるのかもしれません。

 それと、妹の子どもたちが男の子でよかったと思いました。女の子だったら、作品テーマがそこに向けて曲がっていったでしょうから!

映画「劇場版 少女☆歌劇レビュースタァライト」感想(ハサウェイ未遂)

 「よし、ハサウェイ見に行くぞ!」と何度も声に出すことで己を鼓舞し、イヤイヤ映画館に行ってきました。んで、ハサウェイのチケット買おうとしたら、タッチパネルのボタンが暗転してて押せないの。「エッ エッ 大人気……ってコト?」などとスモプリ(small and prettyの略で、nWoの登録商標)の顔でうろたえてたら、単に上映開始時間を過ぎているだけでした。どうやら、違う映画館のサイトを調べていたようで、オマケになぜか1日1回しか上映してません。やはり、ガンダムには縁が無いのだと、ガックリ肩を落として帰ろうとしたら、「待って、劇場でハサウェイのブルーレイ販売してるよ」って、インターネットがささやいてきました。「ワッ ワッ 買って帰れば、家でハサウェイ見られる……ってコト?」などとスモプリの顔で喜んでいると、「でも、劇場でハサウェイ見ないと売ってもらえないよ」ってインターネットが再びささやいてきたのです。これには無数のクエスチョンマークがスモプリの脳裏を乱舞し、「エッ エッ ハサウェイ見たらもうハサウェイ見る必要ないのにハサウェイ見ないとハサウェイ見られない……ってコト?」と大混乱に陥りました。ビニル製のサイフに千円札と小銭がパンパンに詰まっている、サウジアラビアの王族とは縁もゆかりもない富豪だというのに、欲しい商品を売ってもらえないのです。

 ちなみに、ビニル製のサイフをバリバリゆわせながらオープンし、おつりの出ないよう1円単位の小銭までキッチリ支払うことの文化的対偶が何か、この場を借りてお伝えしておきましょう。赤銅色の肌をした白人ファーマーがガッデム・ビッグなトラクターで荒野のガススタンド兼雑貨店に乗り付け、ジーンズのポケットから直に取り出したシワくちゃのドル紙幣を指で伸ばしながら、コークと洋ピン誌とともにカウンターへ置くことが、それに相当します。

 閑話休題。シンエヴァの興収が100億を超える一方、ハサウェイは15億どまりなので、エヴァがガンダムに勝ったなんて話も聞こえてきますが、興収なんて飾りに過ぎんのですよ、偉い人にはそれがわからんのです(ガンダム下手が露呈)。客単価を考えれば、シンエヴァの各種割引もある1500円に対して、ハサウェイは定額1900円(ひどい)プラス特典付きブルーレイ1万円と、単純計算で8倍ほどにもなります。興収に変換すれば120億、いや、シンエヴァはハサウェイの5倍ほど長く上映していますから、実質は600億ほどの売り上げを達成したと見なしてよいでしょう。40年間にわたり時代に応じた派生作品たちを次々と生み出し続ける豊饒な商いは、25年間にわたり依怙地なまでに固執した同じキャラと同じロボットと同じストーリーをさらにパチンコで薄めてほとんど軟便みたいになった単品コンテンツとは、比較にすらなりません。閃光のハサウェイ、ファンの記憶に汚物をなすりつけてでも記録に残りたいシンエヴァとは真逆の、成熟した大人を転がして喜んでカネを払わせる、堂々たる商売だと言えましょう。まだ見てへんけど。

 んで、このまま帰るのもシャクなので、ロビーで時間をつぶして、ハサウェイの代わりに話題のレビュースタァライトを見ました。そしたら、あまりにビックリして、腰が抜けました。タイムラインへあれだけの激賞しか流れてこないのに、ここまで1ミリも気持ちがシンクロしない映画って、ある? もしかすると、演劇や舞台に関わった方にだけ、引っかかるフックが仕込まれているのかもしれません。一言でまとめてしまうと、「宝塚音楽学校を舞台にした少女革命ウテナ」なんですけど、徹頭徹尾、頭で考えて、理性の内側で作ってる感じがしました。一見して不条理にうつる演出とか同じモチーフの執拗な繰り返しって、絵画で言うとゾンネンシュターンとか、映画で言うとヤン・シュヴァンクマイエルとか、アニメで言うと幾原邦彦とか、作り手が内的衝動に突き動かされて、どうしようもなくそう表現してしまうところに、観客は圧倒されるわけです。この作品は、そういった欲動の放出を一方的に浴びせるのではなく、勉強に使ったノートを隣りに座って丁寧に説明してもらっているような印象を受けました。破綻と不条理を表現のよすがとしながら、どこどこまでも理性的で、けっして狂うことがないと見すかされてしまう感じです。あと、デュエルとデュエルの間に挿入される回想シーンがけっこう長くて、ダレました。それと、歌劇モノなのに歌唱が耳に残らないのも、説得力を弱めているように感じました。マクロス方式で、歌パートだけタカラジェンヌに任せた「アタシ・再録音」バージョンを作りましょう(無茶ぶり)。

 いろいろ言いましたが、これらは偶然みかけたラーメン屋の行列へならんで味にガッカリするような、個人的な「好悪」の話であって、作品への「評価」でないことは強調しておきます。たぶん、私はこの舞台の「観客」ではなかったということでしょう。え、家人の感想を聞きたいって? 生粋の関西圏パンピーであり、「しょうもな。これやったら倍はろて、大劇場のB席とるわ」とか言われたらイヤなので、連れてってません。もちろん、見に行ったことも言いませんよ!

漫画「奈良へ」感想

 「奈良へ」読む。奈良県北部在住なので物語の舞台が生活圏と重なり、ほぼすべてのコマのロケーションがわかって、メチャクチャ面白かった。「奈良高やったら大丈夫やろ」みたいな、下手な帝大より公立トップ校の方が通りがいいのも、わかるなーって感じ。

 県民ではない人物の感想は巻末の解説を読んでいただくとして、奈良の住人(非ネイティブ)から見ても、土着の方々(ネイティブ)の無意識に流れているナチュラルな差別意識の感じが、とてもうまく描かれていると思いました。「奈良町ってオシャレですよね!」「あんなもん、花街やないの。三条通りから向こうに子ども行かしたらあかんで」とか、「王寺って日本一住みよい町なんですって!」「あんなもん、××業者の溜まり場やで。すぐ水つかるし、住むとこやないわ」とか、呼吸するように出てきますからね!

 これこそ、私がネットを「世界の半分」だと感じる理由であるし、いくら「正しい」と思われる「進歩的な」場所へと目盛りを指す矢印を押していったところで、手を離せば土着の方が座っているあのゼロ地点へと向かって、自動的にジワーッと戻っていくと感じるわけですよ。それに、目盛りの矢印を押してる方々って、末代が多いように見えるし……って、アンタもだいぶ意識を奈良県に毒されとりますな!

 観光向けに作られた奈良のイメージではなく、粗野で猥雑な「卑」の部分を味わいたい向きに、「奈良へ」、超オススメです。