猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「おススメ麻雀漫画について」

質問:麻雀漫画で何かおすすめはありますか?

回答:インターネットで目にした中でもっとも残酷な言葉のひとつに、「タモリの地質学の知識は、ある年代からの学説が反映されていない。彼がそこで学ぶのを止めたからだ」というものがあります。他人の知識を地層に見たてた皮肉、受け取る相手のことをいっさい斟酌しないこの痛烈な批評は、「なんてひどいことを言うんだろう!」と私をいきどおらせると同時に、まるで自分ごとのようにふかぶかと胸に突き刺さりました。学生時代にマスターキートンを読んだため、「どんな状況でも学ぶのを止めない姿勢」というのが至上の美徳として刷り込まれているからで、それは文系アカデミアへの羨望の源泉でもあります。「空襲で瓦礫と化したばかりの街角で、民衆を鼓舞して講義を始める教授」は、あまりにも鮮烈な学びの象徴だと言えるでしょう。「は? まずは避難と衣食住の心配だろ?」というモニター外からの冷笑をふきとばす、個の熱量による知恵と勇気の伝播で、「もし、その場にいられたらなあ!」と私が思うフィクションの場面のひとつです。

 なので、面白い麻雀漫画を紹介したいのはやまやまですが、「小鳥猊下のレビューには、ある年代からの作品が反映されていない。彼がそこで漫画を読むのを止めたからだ」とか書かれるのを目にしたらと想像すると……うるせえ! じゃあ、オマエがオレの代わりに家族を養って、組織をマネジメントしてみやがれ! ウラナリの青瓢箪のネット弁慶めが、ブチころがすぞ!

 最初のおススメは、押川雲太朗「根こそぎフランケン」です。運の細い裏プロと運の太い素人による麻雀ロードムービーで、巻が進むにつれて単話完結からストーリーものへと変化していきます。最終話にかけての「竹ちゃんはいつも正しいです。麻雀のことでも、世の中のことでも……バカな人間の気持ちなど竹ちゃんにはわからんです」というセリフ、そして大切な人を失ったにも関わらず、「おれはバカだから、この気持ちもきっとすぐに忘れてしまうです」という独白は、いつ読み返しても涙がこぼれます。私の人生を通じた実感と、かなり近いところを言い当てているからでしょう。「身を売る女性は、かなりの確率で知能に」みたいな言説がタイムラインへ流れるのを視界の端に入れただけで、怒りに脳が沸騰して視界が狭くなります。自分と関わりのない不幸を安全な場所から論評するのは、さぞや楽しい遊戯でしょう。「根こそぎフランケン」に描かれているのは、そういった論評される側、搾取される側、壁に砕ける卵の側、つまりここには登場しない人々の物語なのです。最近、私が思いをはせるのは「インターネットにいない人々」のことばかりです。

 次のおススメは、片山まさゆき「理想雀士ドトッパー」です。全2巻という短さで、どうやら打ち切りらしいのですが、それを思わせない絶妙な起承転結のバランスで完結しています。最終話のナレーション「それは賞金もなにもない、ただの麻雀雑誌のエキシビション対局だった」という一行が、何年もずっと心の深い部分に残っています。個人の私生活までもが回線に乗り、世界のいかなる一隅さえネットに公開されている現在、いや、ネットに公開されていないものは、もはや世界には存在しないのと同義だと言えるでしょう。もっとも貴重なものはネットに対していつも秘匿されていると私は信じているし、この瞬間にも名も無きだれかがすんでのところで世界を破滅から救い続けていて、それはここではない場所においてであると感じます。スパイダーマンNWHがすばらしかったのは、米ドル札をバラまきまくるアホみたいなお祭り騒ぎの後に、ヒーローを1セント硬貨が机上に置かれた匿名の場所へキチンと戻したことだと思っています。「だれにも知られない場所に咲く、世界でいちばん美しい花」というのが、私にとってずっと大切なモチーフなのかもしれません。

 「それは賞賛もなにもない、ただのインターネットに記述されたテキストだった」。

雑文「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい」

 半世紀に5年前後足りない人々のお気持ち表明がここ数日、テトリスみたいに次々とタイムラインを下ってくるので、イヤイヤ目を通す。まず最初に感じたことを言葉にすれば、「オイオイ、パンピーは置くとして、オマエらは『医師』やら『京大』やら、現世のプレフィックスがついたネームドじゃねえか。こちとら20年ずっと、小部屋のアンアイデンティファイドなんだが? 近ごろのネットではプレフィックスのないテキストは読まれないんだが?」ってところでしょうか。「存在が知られて、テキストに金銭が発生する」のが小鳥猊下の目指す最終ゴールなので、それを達成した方々がショボくれた弱音みたいなのを吐いてるの、正直いらんなーって感じです。しかしながら、12歳の少女である我が実存に響くところがなかったわけでもないので、この件について少し感想を残したいと思います。

 「人生は重荷を背負いて遠き道を行くが如し」を家訓とする小生(おっと、身バレはカンベンな!)が20年以上を律して、同じ生活と節制を繰り返してきたのは、ひとえに核家族時代の家長が抱く恐怖であるところの「オレが倒れたら、一家全滅」に支配され続けてきたからに他なりません。これはつまり、田舎の大家族の次男坊以下が与えられた「家を出て、都会で独立」という人生観、言わば「子消し・口べらしの呪い」を先代から受け継いでしまっているからに他ならず、やはり地元実家住みの、「ママとは友だち」マルチプル・インカム高卒若年多産ヤンキーこそが時代に対する最適解であったなと、己の無用の苦しみをふりかえって今ごろ痛感しておる次第です。近年では「オレが倒れても、まあ大丈夫」という心境へと次第に変化しつつあり、日常生活にせよ、仕事での決断にせよ、かなり楽にできるようになってきた実感があります。「失敗・イコール・死」のくびきからマインドが解放されて、肩の力が抜けてきたからかもしれません。

 「エンダーのゲーム」の続編である「死者の代弁者」の最後で主人公が語る、「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい。ぼくの生涯の仕事はすべてやり終えている」という告白へ、隣接した状態になってきているのでしょう。「年をとるごとに、なんだか楽になってくなー、いいのかなー」というのが最近の感じなので、ネームドたちが吐露する苦悩も、文学として読めば「かっけえ!」なのかもしれませんが、生活として読めば「んー?」と首をかしげざるをえないわけです。少女のような「ふわふわタイム」を過ごしてきた末代か資産家か高等遊民が、「己のアイデンティティに比べれば、取るに足らぬもの」と放置してきた人生の宿題に追いつかれはじめているだけじゃないの、とか意地悪く思っちゃう(最後まで高楊枝で「取るに足らぬもの」とうそぶいてくださいよ、もう!)。その「宿題をやっていない8月31日の子ども」に対して、7月中に宿題を終えることができそうな私は、本当に「おそらく死んでもいい」瞬間が訪れたときの解放感を心待ちにしながら、これからも日々を振り子のようにコチコチ生きてゆきます。

 まあ、この語りさえバリバリの生存者バイアスであると同時に「虚構日記」の一環なので、真に受けんほうがええよ。

アニメ「地球外少年少女」感想

 ネトフリで地球外少年少女を見る。感染症の季節に、持っててよかったシアタールーム! 1話ずつ日を分けて再生していくつもりだったのが、あまりの面白さに止めどきを失って、食事も忘れて最終話までひといきに見てしまいました。このクオリティの作品が全話セットでポンと配信されるとは、まったく恐ろしい時代になったものです。確かに毎週をリアルタイムで追いかけながら、ああでもないこうでもないと与太話をする楽しみは無いんですけど、どっかのライブ感の監督みたいにストーリーがおかしな方向へと曲がっていく心配がなく、セリフや演出による伏線やドラマを安心して楽しむことができます。

 本作を見てつくづく思ったのは、かつて私が愛したエヴァンゲリオンの設定・演出・脚本・セリフ回し・構図・アニメーション、そしてセンス・オブ・ワンダーはすべて、この監督の手によるものだったんだなあということです。死んだはずの我が子がよみがえったのを見る気持ちになって、視聴中ずっと正体のわからない涙を流し続けていました。この類まれな才能による成果物たちを、十数年にわたって繰り返しカーボンコピーした成れの果てがシンエヴァなる私情まみれの残骸であり、本作の監督へ平に頭を下げて権利を預け、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:急+?」を作っていただく以外に毀損されたブランドを回復する術は無いと断言いたします。

 基本的にネタバレ上等な当アカウントですが、作品への敬意から今回は配慮しつつも、少しだけ。科学とネットから切り離された子どもが古い人間のふるまいへと回帰し、科学とネットが復旧するとたちまち元通りになる描き方には、思わずうなりました。私が日常に人間を止める時間を持てるのも、科学によって生命の危機から守られ、ネットが外界との緩衝材になってくれるからこそです。ただ、物語の終わらせ方は……まあ、このテーマのSFで新味を出すのって、難しいよね。でも、ブルーレイが出たら必ず3セット買います! ……え、劇場で見ないと売ってくれないの? なんでまた閃光のハサウェイ方式なんだよォォ! 千円札を輪ゴムで止めたズクで売ってくれよォォ! ホームシアターで見た意味ないじゃんかよォォ!

 地球外少年少女、こっそり追記(若干ネタバレ)。物語の盛り上がりとしては、4話をピークに5話・6話と少し下がって終わる感じでした。もちろん、4話がエベレストなら5話・6話はK2であり、他作品を寄せつけぬ次元での比較の話です。4話で内通者がだれかを詮索する場面で、ハーバード君を意味深に画面の中央において視聴者をミスリードしてからの種明かしには、作り手がちゃんと我々の上位に座って感情を翻弄してくれる喜びがありました。最近は、どうにも作り手がこちらに対して劣位に入って、「ボクを理解して!」と哀願する作品が多いですからね! シンのエヴァとかね!

 5話・6話では、少年少女を主人公としたジュブナイルものにとって逃れえぬくびきである「少年の想いが聖なる少女を運命から解き放つ」「自由意志による無限の可能性を肯定する」「人生のすばらしさと人間讃歌を高らかに歌いあげる」という言わば不変の結論を、いかに先行作品群から離れてハンコ的でないように描くか、苦労のあとがしのばれました。6話の後半は「幼年期の終わり」のクライマックスをビジュアル化したような内容で、ここからイデオンのように2人が肉体を捨てて高次元(11次元!)へシフトする展開もあったのかもしれませんが、いまの時代を生きる子どもたちへ向けるメッセージとしては、あまりに不誠実だと考えたのでしょう。

 肉体って若いうちのほうが、性欲は別として、無いもののように生きられますからね。くたびれて、ほつれて、やぶけて、常に湿気をふくんだ乾くことのない鈍重な布の如く、肉体が魂にへばりつくようになってからが、人生の本番だと言えるでしょう。無尽蔵の生命を燃焼させる子どものようではなく、残り少ない燃料をときに盛大に燃やしてみせる痩せ我慢こそ、大人の本懐なのです。「肉体を捨てる」ことを進化や救済として描くのは、「目玉を取り出して洗いたい」やら「内臓を裏返して日干ししたい」やらのたまう、くたびれたオッサン・オバハンに対する慰問みたいなもんです(ひどい)。

 ともあれ、本作のすべてはいまを生きる子どもたちへと向けられた内容であり、膨大な過去の記憶と比較してグチグチ難癖つける大人の解釈(オマエが言うな!)は似つかわしくありません。これを見た子どもたちが言葉にできない贈り物を受け取って、十年後、二十年後に「そういえば昔、宇宙に行くアニメあったよな……」と、もしかすると地球外(!)で思い出して、プレゼントの包装を解くように語られるのにこそ、ふさわしい作品だと言えるでしょう。それではみなさん、答えあわせの未来まで、どうかご壮健で!

アニメ「キャロル&チューズデイ(12話まで)」感想

 ネトフリでキャロル&チューズデイ見る。カウボーイビバップの監督の、スペースダンディ後の作品なのに、ネットでの評判がまったく無音の状態なので、ずっと気になっていたのです。ツイッターや2ちゃんねるやグーグルで検索してみても、五つの試練のユーザーシナリオぐらい情報が出てきません。

 12話までの印象は、「悪くはないが、良いわけでもない」といった感じでしょうか。カウボーイビバップが「王道にスパイスとしてのケレン味」で、スペースダンディが「邪道にたっぷりのケレン味」なら、本作は「正道にケレン味ゼロ」と表現できるかもしれません。小ぶりの砂糖菓子みたいにスーッと口の中でほどけて何も残らないので、味の印象を聞かれても「甘かった……と思う」ぐらいしか答えられないのです。「カウボーイビバップの余録でネットフリックスの企画が通ったので、カウボーイビバップの大ファンである海外の有名アーティストに英語の歌を作らせて……」みたいな内幕をありありと感じてしまったのは、私の底意地が悪いせいでしょうか。「好事家たちがひっそり楽しんでいたのを、海外に発見されてバズる」という浮世絵方式と真逆の作り方ーー西洋の皆様の文化と嗜好に合わせた心づくしのオーダーメイドーーになっているのが、本邦で言及されない理由かもしれませんね。この「ジャパニメーションのグローバライゼーション」に対する海外の反応が知りたいところです。

 オーディション番組編に突入してからは、毎回ノーカットでまるまる一曲を聞かされるんですけど、トーン・デフの身にとっては挿入される観客や審査員の様子で良し悪しを判断するしかなく、ちょうど色の無い世界に生きる人が言葉で色の説明をしてもらっている気分になりました。「銀河のアイドルが敵の攻撃を無力化しているから、すごい歌にちがいない!」ぐらい(なにロスやねん)のケレン味とドぎついアニメ声なしでは、歌唱デュエルの結果をもったいつけて聞かされても、「それって個人の好みの問題では?」としか思えず、主人公たちの快進撃にいまいちノレませんでした。監督がインタビューで「2人の気持ちがすれちがっているときの歌だから、わざとハーモニーの合っていない録音を採用した」とか語っているのを読んでも、可憐な少女である私の中にいるスキンヘッドでタンクトップの大男は「オデの耳、柔道のやりすぎでギョーザになってて、よくわかんねえッス」と困惑の表情で立ち尽くすばかりです。

 あと、「不遇や苦悩や葛藤が、才能を通じて高みへと昇華する」話が大好きなので、主人公たちの不幸の描き方がちょっと薄味すぎるなーと感じました。政治家の娘としての悩みは母の叱責を含めて他作品のコピペみたいでしたし、捨て子の孤児という設定も「なぜか両親とも他惑星に赴任中」ぐらいの軽い扱いにしかなっていません(なにが「私はここにいる」や! 捨てられとんねんで、ジブン!)。令和の御代なので、グッド・ウィル・ハンティングとまでは言いませんが、「オヤジはアタシを殴るとき、きまって机の上にアコギ、エレキ、ベースをならべて聞くの、『どれがいい?』って」「君はどれを?」「アコギよ。木片の飛び散り方がドリフっぽくて、アタシがクズ野郎であることがわかるから」ぐらいの背景がないと、キミの歌声には深みを感じられないなー(無茶ぶり)。

 ともあれ、「良くはないが、悪いわけでもない」ので、1話冒頭での大風呂敷であるところの「奇跡の7分間」に期待しながら、後半パートも視聴したいと思います。

雑文「萌え画像寄贈記念・大茶番テキスト(2022年1月27日・8月22日)」

茶番・第1幕(2022年1月27日)

 あれだけ元気だった年末年始がひっそりと息を引き取るのを枕元にて看取り、四十九日を終えてのろのろと立ち上がったところへ、薄い窓をガシャーンと突き破って(恐怖新聞のイメージ)、まさかの萌え画像が寄贈された!

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 「3億円ほしいっすねー」「あー、ほしいなー」「3億円あたったら、おれ、仕事やめるっすよ」「あー、やめろやめろー」というふうに深夜のファミレスで言及される3億円、当たることを露ほども信じていない3億円、そもそも宝くじさえ買っていない3億円が、なぜか当たったのである!

 たちまちにすべての憂悶と憂鬱は吹き飛び、ディスコテーク・イン・シバウラのお立ち台でジュリ扇をふりまわしながら、スーパー・アーパーのアゲアゲ・ハイテンションで堂々たるタワシを開帳するボデコン・ギャルどもの自意識へとメタモルフォーゼし、もう現実なんて怖くないところの小鳥猊下であるッ!

 よろしいか、この萌え画像は諸君のようなトーシローがスーパーのチラシの裏に恥垢まみれの鉛筆をなめなめ(まあ、汚い!)記述するポンチ絵とは大違いの、リアルでカネの発生する正真正銘のクリエイティブなのだ! ヘンシュウ(変臭?)とやらがかぎつけて迷惑がかかるといけないので、寄贈者の名前は仮に「SMD虎蛮ちゃん」としておく。

 ちなみに「『SMD虎蛮ちゃん、初上洛』、ンの巻」がこちらである。
MMGF!~もうやめて、みんなゴア表現に震えてるわ!~外典・狂都奈落鏖断阿修羅地獄変(2011年6月)

 この萌え画像の価値をイラスト偏差値32くらいの諸君にわからせ(わからせ!)るため、SMD虎蛮ちゃんの過去ツイートから少し引用する。
 『お金の話はなるべくしないようにしてますが、絵の値段というかフリーランスのクリエイターを起用するなら一般的に正規雇用者の三倍稼がないといずれ積む、とも言われていますので最低日給3万円、と仮定すると一週間かかる案件なら20万以上かかるというのがごく普通の計算だと思いますね』

 おそらくSMD虎蛮ちゃんは、ノトーを始めたばかりの小生の、課金記事が売れないとの嘆きを見て憐れに思い、萌え画像の制作に着手してくれたのだろう。そしてその記事とは、2019年11月14日の忘備録「MMGF!のサブ・テキスト(あるいはC80への軌跡)」のことで間違いない(現在は課金設定なし)。

 では、この日を起点とし、SMD虎蛮ちゃんの言い値(いいね!)で計算してみよう。

2019年11月14日~2022年1月27日(805日)
805日×30,000円=24,150,000円

 つまり、このスプレンディドな萌え画像の価値を計算すれば、2400万円超となる。オップス、ドウドウ! そこなオールド・ギーク・ボーイズよ、ここな二次元美少女たちに対する全裸五体投地をおッ始めるには早い! なんとなれば、私はまだ説明を4ツイートも残しているのだから!

 さらにこの君は、12年前のオフ会にて「毎月でもnWoのトップ絵を寄贈しますよ」などと酒と場の雰囲気に言わされていたベネズエランでもある。
雑文「新宿オフ始末書(2009年2月)」

 公平を期すため、別人物からの同日オフレポも並記しておこう。
「所究研合總學科理心槻大」立国

 そして、最後にSMD虎蛮ちゃんから寄贈いただいた萌え画像は、C80にて頒布した土人誌のイラストだ。では、そこを起点に計算しなおしてみよう。

2011年8月13日~2022年1月27日(3,820日)
3,820日×30,000円=114,600,000円

 ご理解いただけただろうか。このプレシャスな萌え画像の価値を正しく計算すれば、優に1億円を超えていくのだ。

画像2

 ちなみにこちらは、ゲルハルト・リヒターによる1億円の絵です。

画像3

 では、この2枚を比較してみよう。これも公平を期すため、モノクロ版で提示する。See? 芸術的素養や現代的文脈など薬にもしたくない諸賢にとって、どちらの絵がおちんちんをより混乱させないかは、火を見るよりも明らかであろう!

画像4

 ともあれ、テキストサイト管理人という職業は、実際のところ非正規社員と同等なのであり、この素晴らしい萌え画像の寄贈により、エヌ・ダブユ・オーの管理契約が1年間更新されたことを諸君の王ーー更新4回、最大5年で雇い止めーーから高らかに宣言しておこう。

 そして、小鳥猊下を崇める(単にフォローしている、の意)他のエシ(壊死)たちよ! いつまでさめだ小、じゃなかった、SMD虎蛮ちゃんだけに負担をかけ続けるつもりか! 商業連載の隙間をぬっての暴挙とも言える寄贈、涙目で青息吐息の様子を見て、まだ立ち上がることをためらうというのか!

 貴様らの怯懦を追いはらい、内なる蛮勇を鼓舞するため、これまた12年ほど前にミクシーで公開された「萌え画像オルグ演説(オリーブ少女主義的ビジュアルで)」を再掲しておこう!
再録「エンクレイブ・レイディオ(mixi日記09.6.12)」

 あれ、そういえば「安全ちゃん」っていたよね? いまどこで何やってるの? みんな、みんなここからいなくなっちゃうよォーーッ!

茶番・第2幕(2022年8月22日)

レイジ・コトリ「この作品は構図の優秀さゆえに多くの模写がなされたが、ご覧なさい、左下にNWOの意匠が隠されている。コイツは間違いなく……シャーク・オーバルの真筆ですぜ!」

Note: nWo(special) > Sunday(generic)
4,025days X 30,000jpy =120,750,000jpy

漫画「3月のライオン」感想

 FGO第2部6章つながりで気になっていた「3月のライオン」を読む。予想以上に面白くて、既刊16巻までイッキ読みする。オベロンのキャラ造形が何の影響下なのか明らかになったことを喜びながら、完結の報を聞いてから手に取ればよかったと、いまは少し後悔しております。いろいろ先の展開を予想して、自分の妄想で勝手に深く感動して、それが外れるとたちまち評価が辛くなるという己の性質を熟知しているからです。この作者の持ち味は、ベシャベシャに湿気を含んだ状態から一瞬でカラカラに干上がらせる語り口の落差だと思うんですけど、ちょっとすべてのキャラを愛しすぎるきらいがあるようで、各棋士の生き様を掘り下げるサブシナリオはどれも120点なのに、巻が進むにつれて主人公のメインストーリーが弱くなっていくように感じました(あらためて、カウボーイビバップのバランスの良さを思い返し、感心しておる次第です)。

 連載開始当初のプランでは、容姿と髪色からもわかるように、主人公とネガポジの対比に置かれた宗谷名人と「『人間を捨てた者』と『人間を回復した者』とでは、いったいどちらが強いのか?」を争う展開が用意されていて、オベロンの内面を造形する上でのヒントにもなっていたと思うんです。それが名人の実家を掘り下げたことで、「将棋好きの小学生がそのまま大人になった」という描き方の土橋九段にキャラを寄せてきているので、主人公との最後の対局は「自由な子どもの発想から定跡や研究を離れて、将棋を指す純粋な喜びを互いに盤面で表現する」展開になるような気がしています。ホラ、あれですよ、ラオウとケンシロウが奥義を捨てて殴りあうのに、解説役の外野が「ああ、二人とも透き通って……!」とか言いながら、子ども時代の両者の影を見るってヤツですよ。個人的には、初期プロットの方でキッチリ勝ち負けつけて、どちらかに破滅してほしいですが、作者の愛が深すぎるゆえにそうはならないでしょうねえ(あらためて、鬼滅のキャラの突き放し方を思い返し、感心しておる次第です)。

 競技モノにおけるハッピーな最終戦の極北としては、川原泉の「銀のロマンティック」がただちに思い浮かびますが、あれも強い作家性に基づいた感動なので、どうにも余人にはマネしにくいよなー。ただひとつ確実なのは、獅子王(ライオン!)戦の終わりをもって物語の幕が引かれると仮定するならば、その前後でハチクロみたいに作品タイトルをだれかの台詞で回収することだと予言しておきます。

 「3月のライオン」追記。以前も書きましたけど、連載期間が長くなった作品って、FGOで言うところの固有結界よろしく、物語そのものに作者の心象風景が同化してくるところがあると感じます(あらためて、むこうぶち作者の作品との距離感を思い返し、感心しておる次第です)。「庇護者の下、無知で無垢なる者が無知で無垢なるまま、だれにも傷つけられず楽園に遊ぶ」ことが作者にとって究極の理想郷であり、ヒロインがどんどん幼児退行していく原因もここに根ざしていると思うのですが、本作の後半ではいよいよ男性キャラにまでこれが波及していっているのは気にかかります。苦しい場面を描くときはキャラの心に寄りそって、本当に同じ苦しみを苦しむ書き手で、その「ともに傷つき、もがくさま」をこそ読者は見たいと思っているのに、いまは物語の総体がヒロインの幸福に引っ張られて、魂が救われたあとの世界、すなわち死後の世界に片足をつっこんでしまっている。もうそうはならないことを半ば受け入れながら、やはり主人公と宗谷名人の最終決戦は、楽園から足を抜いた地獄の底で、いずれかの破滅を賭けて戦われてほしいのです。

 同じことを感じている作品に「ヴィンランド・サガ」があって、半眼から真円のマナコとなって悟りきった主人公(プラネテスみてえ)が未開の部族とハートフルな外交ゴッコをする展開が、なんとも味気なくつまらない。作品テーマを真に完遂するには、「本当に大切なものを壊され、それでもなお殺さずにゆるす」ことが描かれるべきだと思うのです。「主人公はもう充分に奪われたし、苦しんだのだから、そろそろ安寧の場所を与えたい」というのは、書き手による神の視点でしょう。そして、「ゆるす」というのは行為ではなく状態であり、「目もくらむような極寒の激情が日常をさいなみ、その原因がいつも視界に存在する中で、油断すれば殺しにいく手を押さえつけながら、ずっとゆるし続ける」ことが外交、すなわち人間関係の本質なのです。これを抜きにしては、現代社会に対する有効な批評とはなりえません。

 またもや先の展開を妄想して勝手に感動し、物語へ「現実に対して有効であること」を求める精神の陥穽を披露したところで、きょうはお開きとさせていただきます。

漫画「タコピーの原罪」感想

質問:あけましておめでとうございます。「タコピーの原罪」どうですか?

回答:元・いじめられッ子のバ美肉ロリコンおじさんたちが、イビツな自己投影とオナニー的欲情を次々と表明するのを横目には眺めていました。語っている面々を含めて、エロ漫画の佳作みたいな取り上げられ方だなーと感じました。話題作に乗っかったSNSらしい激賞は多く見かけながら、1話のインパクトが最大で、読み手の受ける衝撃はそこから漸減しているように思います。絵柄でごまかされますが不幸の描き方も類型的であり、個人的にストーリーテラーとしてはまだ評価できる段階にありません。一過性の話題にとどまらないブレイクスルーを期待する一方で、モルカーのようになってしまうーー風刺性が消滅し、キャラだけが残るーー可能性は大いにあるでしょう。いま抱いている印象は以上で、完結するまでは評価を保留します。

質問:タコピーは昨今氾濫する人生やり直し系(ループもの・転生もの)を否定して更新する作品だと思ったんですが大袈裟でしょうか。完結時の感想を楽しみにしてます。

回答:タコピーの原罪、この質問もそうですけど、「賢明な読み手による解釈」が先行していて、その中身が作品の身の丈を越えている気がするんですよね。それに、新井英樹の作品群にもときおり感じる、「2つの可能性がある場合、必ず悪い方の分岐へ話が転がる」という負の予定調和は、作者の意図とは逆に読者へ安心感を与えちゃうんですよね。あ、これも作品を越えた「賢明な読み手による解釈」になってますね。「語りたくなる作品」であることは、間違いないのかもしれません。あらためて、完結までは黙りたいと思います。

 「2つの可能性がある場合、必ず悪い方の分岐へ話が転がる」で真っ先に思いだす作品は、新井英樹のRINなんですけど、「恋人ないし配偶者が自分以外の異性と肉体関係を持つことに興奮する性癖」ってあるじゃないですか。ネットでキャラ付けとして「グフフ、小生NTRは大好物ですぞ」などと発言する方々って、アダルトビデオで同性側に感情移入しない視聴態度を持っているか、元より人生に恋人がいた瞬間が無いため、他人の不幸として溜飲を下げているぐらいのものだと感じるんです。前作のSUGARでは「性格に難がありながら、才能はピカイチのボクサー」を魅力的に描いているのに、続編のRINでは手クセとも言える負の予定調和で、どんどん話が悪い方へ悪い方へと曲がっていくのです。圧巻は想い人との破局の描き方で、男女両性にとってーーえ、ノンバイナリーなので傷ついた? ならペドフィリアも社会的に認知しろ!ーー究極のネトラレとなっていて、これを読んで興奮できる向きをだけ、ただのファッションではない、両親との関係性に起因した「病としての性癖」だと認定しましょう。

質問:タコピーの原罪が最終回を迎えました。感想をお願いします。

回答:忘れてた。読んできた。やはり作品の身の丈を越えて騒がれすぎましたね。ここまで毎週を激賞してきた方々が、タイムラインへ流す感想にどう落としどころをつけるか、四苦八苦しているように見えます。私はてっきり、主人公の母親を登場させるんだと思ってましたよ。なんか似たような読後感の作品あったなー、なんだったかなーと考えていたら、正解するカドだった。こんな凡庸なテーマを語るにしては、不必要に子どもたちを不幸にしすぎだし、「かわいそう」という言葉の裏に少女への嗜虐心というか、性的な興奮が透けているように感じていました。子を殴った親が殴ってから理由を探すようなもので、この漫画の構造そのものが児童虐待と同じになってませんかねえ。俺は好きだなって感想、僕は嫌いだな。

映画「スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホーム」感想

 スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホームを見てきました。こちらは前作の感想ですが、こういったヒネクレた視点を持つ人物に平手打ちして、ハッと目を覚まさせるような快作でした。ネタバレ厳禁みたいなふれこみに、「どうせ別世界でロバート・ダウニーJr.と再会して、アベンジャーズのリーダーを改めて任されるんやろ?」とかなり斜に構えた態度で見始めたのですが、最初の敵の登場に「あれっ、まさか」と思ったらそのまさかで、あとは2時間半が瞬く間に過ぎ去る大号泣の大冒険。よくぞ思いつき、よくぞ権利をクリアし、よくぞ撮ったと思います。

 アメイジング2の感想を読み返すと、かなり辛辣にこきおろしていますが、ラスト直前で落下していくヒロインへ必死に追いすがり、地面から数十センチのところで彼女の胴体を糸でつかまえるも、引き上げる衝撃で海老反りとなって後頭部をしたたかに打ちつけ、死ぬ。このシーンを真横からのカメラで見せつけられたのが長年のトラウマになっていたことに、今日ようやく気づきました。手を伸ばすトム・ホランドが敵の攻撃に吹きとばされ、「ああ、また!」と脳裏にあのビジュアルがまざまざと再生された次の瞬間、颯爽と現れたアンドリュー・ガーフィールドが追いすがり、ついに8年越しの無念をはらしたのです! 救出直後の彼の表情にとても強くシンクロしてしまい、知らず多量の涙がマスクの上にまでほとばしり出ました。トラウマの存在を自覚したと同時に、それがそのままスーッと消滅していく体験であり、「憑き物が落ちる」とはまさにこのことでしょう。

 そして、怒りに支配されるトム・ホランドがあわや人殺しとなるのを、すんでのところでトビー・マグワイアが食い止めた場面は、憤怒の演技がヘイゼン・クリステンセンそっくりだったせいか、「ジェダイ聖堂でアナキンの殺戮を阻止できたオビワン」を連想して胸が熱くなったのは、自分でも驚きでした。それにしてもトビー・マグワイア、相変わらず童顔ですけど、いい年の取り方をしましたね。口元のはにかみ方が若い頃のままで、すごくいい。

 ノー・ウェイ・ホーム、少年が喪失を乗り越えて大人になる話であると同時に、スパイダーマンという作品を本来あった場所へと戻す話でもありました。アベンジャーズは東映まんがまつりのヒーロー大集合に過ぎないのに、各主人公の本編を乗っ取っていく感じが気に食わなかったのですが、今後の展開がどうなるかはいったん置くとして、本作でかなりその溜飲が下がりました。シンエヴァも、シンジがアスカを鳥葬から助けて日本に四季が戻るぐらいの展開でよかったんですよ、本当に。また愚痴になってしまいましたが、ともあれ、「スパイダーマン8部作」という新たな概念が誕生したことに、ブラヴォの拍手を送りたいと思います。

 余談ながら、3人のかけあいがどれも楽しくて、特にトビー・マグワイアが「君はアメイジング」とアオりまくり、アンドリュー・ガーフィールドが「オレなんて」と自己卑下しまくるのには、大笑いしました。当時はあんなに悪しざまに言って、ごめんね。いまさらながら、アメイジング3を撮らせてあげてほしいなあ。内容に期待はしてないけど、9部作のほうが収まりがいいからね(ひどい)!

映画「スパイダーマン・ファー・フロム・ホーム」感想

 ここ数日、スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホームの大絶賛がタイムラインに続々と流れてくるので、もうマーベルのヒーロー物は見るまいと思っていたんだけど、ネトフリで前作のファー・フロム・ホームーーこちらもずいぶんと評判がいいーーを視聴する。あのさあ、キミたち、サム・ライミにはあれだけ辛辣で、アメイジングも2作で中絶させたくせに、アベンジャーズに組み込まれた途端、評価基準がダダ甘になってない? コロナ以前を強く感じさせるヨーロッパ観光地巡りみたいな中身で、「よーし、エンドゲームも公開されたし、スタッフの慰安旅行をかねて、軽くもう1本撮影すっか!」みたいなノリでカメラ回してません? やっぱり、私にとってのピーターは幼少期を孤児院で過ごした(サイダー・ハウス・ルールと混同)トビー・マグワイアだし、私にとってのMJは顔面アファーマティブ・アクション女優のキルスティン・ダンスト(一目で処女ではないとわかるド迫力)なのです。

 シネマティック・ユニバースとやらに組み込まれちゃうと、映画単体で主人公の運命が決まらないからどこか緊張感に欠けるし、現代社会に対する批評性が消滅してコミック世界の内側へと閉じてしまうような感覚があります。

 あと、金髪碧眼少女とアジア人のおたくデブが恋仲になるみたいな挿話だけど、ちょっとあからさまにポリコラれすぎてて、逆にバカにされてる気になりません?

 映画「スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホーム」感想

漫画「むこうぶち(56巻まで)」感想

 漫画「むこうぶち(20巻まで)」感想

 むこうぶち、既刊56巻まで読了。途中から読み終わるのが惜しくなって、1日1話にペースダウンしたので、ずいぶんと時間がかかってしまいました。こんなすごい漫画を20年も知らずにいたという事実に、古いおたくとしてはただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。舞台だったバブル時代はこの巻で終焉を迎え、いったん物語にはピリオドが打たれた感じですが、作品テーマを語り終えてから主要人物のひとりをキッチリ退場させましたので刃牙シリーズと同じく、ここからはどういう形で作品が途絶しても大往生と呼べるステージに入ったと言えるでしょう。基本的に単話完結なので、優秀な闘牌ブレインさえいれば、延々とバブル期の設定で連載を続けることはできたはずですが、いったん最終回を描いておきたい心境の変化が作者にあったのかもしれません。最後の頂上対決はたったの6話で完結しており、作者インタビューからも感じる、自作にのめりこみ過ぎない距離感に感服しました。アゴの尖った方の作劇なら、6話どころか20年かけて250話くらいに引き伸ばせただろう勝負ですのに!

 「長期連載はどこかの段階で必ず作者の人生や思想と骨がらみになり、大御所になっていく過程で編集者も口を出せなくなるため、歪みが修正されず大きくなってどんどん狂っていく」というのが私の持論だったのですが、むこうぶちは見事なまでにこれへ当てはまりません。あのね、強調しておきますけど、作画・ストーリー・キャラクターが20年の連載で少しも狂わないというのは、空前絶後の驚異的なバランス感覚ですよ! さらに主人公を「無人格の狂言回し」に置いたまま、最後まで正体を明かさなかったのも非常にポイントが高いです。本作は「人生で最高の漫画を10本あげよ」と言われたら、必ず入る一作となりました(もう一本は「ラーメン発見伝」シリーズ)。

 どの話もよくできてるんですけど、56巻478話のうちでもっとも印象的な回を2つ挙げるとしたら、まずは「石川さんの戦い」でしょう。軽度の知的障害を持つ工員が、作中はじめて御無礼の人にオーラスで振り込ませてトップを取るという展開に、いたく感動しました。他の作品だったら「聖なる白痴」みたいな描き方の女子高生とか出してきそうなところに、短躯でロンパリのオッサンを持ってくるのがすごい。そして、振り込んだときの御無礼の人の「信じられない」という表情が、とてもいい。これまでの何百話にわたる無敗があるからこその衝撃で、1分ほどまじまじとそのコマを眺めちゃいましたよ。もうひとつは事実上の最終話「バブルの終わり・完」で、御無礼の人がはじめて対戦相手の名前を呼ぶところです。これも475話の積み重ねがあっての名シーンで、いったんその台詞でページを繰るのを止めて、しばし虚空を見つめて感慨に浸りましたからね。勝手な投影ではありますが、麻雀を通じてしか他人と関われない奇形、そのディスコミュニケーションの極地が「思わず」ほどけた瞬間のように見えたのです。この作品を読むと、書き割りではない生身の人間が生き生きと描かれていて、いかに近年の虚構群が「記号によるキャラ化」で作られているかを対比的に痛感させられます。

 そして、エログロやギャンブルといった出自を持つ物語が高い普遍性を持ちながら、本邦では人口へ膾炙していく段階で、ある閾値を超えられないという現実は、じつにくちおしいことです。みんなもっと学校や職場や町内会やマンションの自治会で「ランス10」や「むこうぶち」を宣伝しよう!(無茶ぶり)

質問:麻雀出来ないので、麻雀漫画をスルーしてきた人生なのですが先日漫画家さんから麻雀漫画は麻雀を知らなくても面白いと言われ勧められたのがむこうぶちでした。猊下も推しとの事でしたら何を差し置いても読んでみようと思います!

回答:貴君の画業に間違いなくプラスの影響があることを確信しながら、「何を差し置いても」読むとの宣言には懊悩の微笑を浮かべる始末であります。むこうぶちの持つ美点として、男性の登場人物がじつに多彩であることが挙げられるでしょう。近年の虚構における男性はどれも、「イケメン」「イケオジ」「ブサメン」「キモデブ」ぐらいの単語を骨格に肉付けしてある感じといいましょうか、美醜と老若という2つのスライダーしか持たないキャラメイクになってると思うんですよねー。むこうぶちは基本的に単話完結になっていて、毎回ゲストキャラが入れ替わるのですが、外見を含めてひとりとして同じ造形の男性がいないのです。職業にもよると思いますが、現実でも日々交流がある人たちって、けっこう均質じゃないですか。そして年齢を重ねると、ますますその均質性は高まっていく。むこうぶちはフィクションなのに、「ああ、現実ってこんなにも多様だったんだ」とどこか気づかされる感じがあるのは、すごいなあと思っています。おススメである「石川さんの戦い」までは、ぜひ読んでほしいです。この人物をフィクションに登場させて、どの団体からも非難や抗議を受ける隙がないというのは、よく考えればとんでもない脚本力です。