猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「やおい女子とニクラウス(近況報告2022.5.21)」

 小鳥猊下がテキストを公開するときの心象キャラ(なんや、それ)のひとりに、「あした天気になあれ」のラスボスがいます。だれもが名を知る大傑作なのに「あしたのジョー」ほどは最後まで読み通した方は案外、少ないんじゃないでしょうか。最終戦の対戦相手であるジョン・ニクラウスとの延々と続くプレーオフは、「そろそろ終わらせなきゃいけないんだけど、もっとこの世界でこのキャラたちと遊んでいたいな……」という作者の気持ちがじんわりと伝わってきて、なんとも言えない温かい読み味だったのを思い出します。帝王の異名を持つこの人物、プレーが進むにつれて闘争心が剥きだしとなり、「ドウダァーッ!!」とか「カカッテキナサーイ!!」などと、向太陽をアオりまくるのですが、私がツイートしたり記事を上げたりするときの気持ちがまさにそれです。しかし、ほとんどの場合、観客席から「帝王V! 帝王V!」とは返ってこず、熱の無い拍手がまばらに響くばかりで、心の帝王は「ソッカー、アカンカッタカー」とトタン屋根のバラックにもどり、欠けた茶碗に一升瓶から注いだどぶろくをグイとやって、そのまま気絶するように眠ってしまうのが常なのです。

 んで、何が言いたいかといえば、小鳥猊下のテキストはやおい女子と相性がいいのではないかということです(唐突な飛躍)。先日、私のnote記事を「スゴく良い感想文だった。」と引用したツイートを発見し、ひさしぶりに心の帝王が「ア、ヤッパリソウナノ?」とスゴく喜んで、当該記事を連続で5回ほど読み返したぐらいでした。私の文章が中期・栗本薫から甚大な影響を受けたがゆえに、魔的でエロティックなことは以前お話しましたが、語るべき物語が存在しないこと、そして何より、中期・栗本薫のやおい小説が、強烈な原型として心に焼きついてしまっていることで、次第に書けなくなったのも事実なのです。さらに告白すれば、まったく小説というものが読めなくなりました。中期・栗本薫のやおい作品に比べれば、現行するあらゆる小説は「あまりにも下手クソすぎる」からです。

 だいぶそれた話を元へ戻せば、やおい小説の創生神に薫陶を受けた小鳥猊下のテキストは、その下流であるビー・エル含めて、やおい女子たち心の琴線をかきならすにちがいなく、この新たな客層にアピールできれば、nWo過去作の再発見からの捲土重来も夢ではないのではないかという野望を抱いた次第です。やおい女子たちはどんどん小鳥猊下をフォローし、積極的にその発言をリツイートしよう! あと、遺伝的類似を伴った存在を2つほど世間に放流し、そろそろ自分のことを新たに始める季節にさしかかったと感じつつも、やっちゃうよねー、ディアブロ2R(パッチ2.4で急浮上した召喚ドルイドーーめっちゃ弱いーーを育成しながら)。

映画「シン・ウルトラマン」感想

映画「シン・ウルトラマン特報」感想

 迷いましたが、個人的な感情の忘備録としてシン・ウルトラマンの感想を残すことにします。同監督の作品で比較するならば、端的に表現すると「シン・エヴァンゲリオンほどつまらなくはないが、シン・ゴジラほど面白くはない」といったところです。ちなみに、私にとっての初代マンは「M78星雲の宇宙人?」「そうだ、ワッハッハッハ……」というやりとりから、テーマ曲のようなものが流れるレコード盤の記憶のみで、たぶん本編はほとんど見ていません。

 本作の視聴中は、フィクションに触れたときに生じる心の熱量がほぼゼロで、プラスとマイナスが相殺しあった結果としてその地点に至ったのではなく、物語の開始から終盤まで感情の動きがほぼフラットだったという意味でのゼロでした。シン・ゴジラのときは、直近の作品(エヴァQ)がビックリするような駄作だったためか、期待値マイナスの状態からスタートしながらも、作品そのものの力強さに支えられて、マニア層から一般層へと燎原の火のように評価が広がっていくのを見ました。しかしながら、現段階で本作へと送られた賛辞は、特撮ファンおよびウルトラファンによる「自分たちにはすごく面白いので、一般層にも名作として受け入れられてほしい」という願望的なものが多く、今後シン・ゴジラと同じことが起きるような気はしていません。

 アクションパートはエヴァのオマージュ元と聞いて期待していたカイジュウとの戦いが、エヴァほどの緊張感も迫力もなく拍子抜けで、ドラマパートもメフィラス星人のシーンだけが、役者の力によって劇空間としてかろうじて成立しているのみで、他はその水準に達しているようには感じられませんでした。早口の台詞も、言われるほど内容が難解なわけではなくて、書き言葉としてしか使わない漢語を多用するため、脳内変換に時間を食われて理解がいそがしいだけのことです。カトクタイの隊長とゾフィー?が、どっちも「残置」という希少度の高い単語を使っていたり、監督が単独で脚本を手がけるときに顕著な「すべての登場人物が同じ語彙プールから選択する」悪癖からは、本作もまた逃れられていません。

 そして、シン・ゴジラではうまく作品テーマへと落としこめていた「宗主国と属国」「核使用の恐怖」というリフレインが、本作では完全に浮いてしまっています。この原因は、「体制への抵抗運動が頓挫した結果の左翼思想」が、監督にとって「昭和のフィクションで頻繁に提示されたカッコいい雰囲気の考え方」に過ぎないことが露呈したからでしょう。あれだけ政治家や官僚を登場させ、「官邸」というワードを連呼しながら、面白いことに作品のトーンはまったくのノンポリなのです。オリジナルがそれぞれ志向していた、「ゴジラ的なるもの」「ウルトラ的なるもの」という相容れない2つの要素を、「すべての映像を己のフィルモグラフィーとして統合したい」という欲求から、本作で無理やり1つに合流させた結果、水と油になってしまっているのを強く感じました。

 余談ながら、セクハラ云々の指摘については昭和のオッサンなので、1ミリも気になりませんでした。この程度のことが気になってしょうがない「繊細な感覚」に、己をアップデートしたくはないものですね。

 さて、ここまで指摘した内容は実のところ、個人的な最近の関心に比べては、些末事であるとさえ言えましょう。シン・ウルトラマンを視聴して私がもっとも気になったのは、理論物理学と素粒子物理学の停滞を打破するために捏造され続けたマセマティカル・フィクションが、皮肉にも半世紀にわたってサイエンス・フィクションへ元ネタを提供し続けてきたという共犯関係を、本作においては特撮作品の荒唐無稽な設定を無矛盾化するための方便として使っていることです。理系と文系の異なる分野において、不都合な断絶を乗り越えるために数学を用いたファブリケーション(作話)が行われているのは、非常に興味深いことです。

 マーベル最新作の副題であり、本作でも連呼されるマルチバースやら11次元やらが、超弦理論の数学モデルを破綻させないためだけに導入された概念であることは、最近になって知りました。自然の中で観測されるいくつかの数値のうち、なぜ他の数値ではなくその数値なのかについて「ただ我々の世界ではそうなっている」という説明に満足できず、そこへ何らかの意味を見出そうとした結果、「同じ事象に異なる数値を持つ他の宇宙を仮構すると、数学的に派生を説明できるようになる」のが、多元宇宙を導入した最大の動機のようです。文系クソ人間にとって、数学という突き詰めればパターン認識に過ぎない学問ーー最高学府の学生が提供する、アホみたいな脳トレ問題ーーが最も洗練された知性とされるのには、ずっと納得がいきませんでした。数学や音楽の分野は、明示的に遺伝的影響が優位との調査を見たことがあり、特定の脳の器質がたどる発達の偏りがパターン認識に重要だとするならば、ダーレン・アロノフスキーの「パイ」に描かれた内容のアカデミア版が超弦理論の正味ではないかという気にさせられます。「パターンが整合することに意味があり、パターンが破れているのには理由がある」という思考で半世紀を追い求めた結果、いまや万単位の論文ごと研究分野そのものが完全に消滅する可能性に脅えているのを、観客席からビール片手に眺めるのは、文系人間にとってこの上ない愉悦と言えるでしょう。

 いま流行りの「超弦しぐさ」は、検証不可能な高エネルギー領域(天の川銀河と同サイズの粒子加速器!)に「正解を隠すこと」だそうで、いやあ、センセたちの誠実な学問探求の姿勢にはドタマが下がりますわ! うち、アホやからようわからへんねんけど、それ、「1兆度の火球」となにがちがいますのん? あれやわ、これザビーネ・ホッセンフェルダー監修のシン・ウルトラマンやったら、ゼットンから発した1テラケルビンの高エネルギー下で超対称性を成立させる素粒子の不在が明らかとなり、超弦理論の予測した事象がその観測によってことごとく否定され、結果として余剰次元のプランクブレーンが科学者による虚妄であることが確定し、ゼットンをどこへも追放できないまま天の川銀河ごと地球が消滅して、ゾフィーが悲しそうに光の国へ飛び去るゆうエンディングになっとるで! せやけどな、こっちの展開のほうがよっぽど21世紀のフューチャー・サイエンスに忠実なんとちゃいまっか?

 え、途中から超弦理論ディスに話がすりかわってる上に、期待してたシンエヴァへの言及もないですよ、だって? うーん、本作を通じて初代マンのストーリーを把握して思ったのは、これを換骨奪胎した旧エヴァのほうがずっと洗練されてたなってことと、ゼットンに相当するのがゼルエルだったんだなってことです。もし人的にも時間的にも余力があったなら、テレビ版の第弐拾話以降は新マンのオマージュみたいな展開になっていたのかもしれません。だとすれば、すでにネットでリークされている「シン・帰ってきたウルトラマン」が、私にとって次の主戦場になる予感がしております。

 *参考記事
雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」
雑文「数学に魅せられて、科学を見失う」感想

 シン・ウルトラマン追記。全編にわたって感情がフラットだったと書きましたが、冒頭の30秒だけは大興奮でした。ウルトラQのオマージュだなんて知らない私は、シン・ゴジラのタイトルがシン・ウルトラマンへとモーフィング?した瞬間、「やった、ツソ・ウノレトラマソだ! 他社IPを私小説でメタメタ(メタフィクション×2)にする気だ!」と心の中で喝采をあげましたからね! まあ、そのあとはずっとフツウに最後までウルトラマンだったわけですが……。

 本作とシンエヴァとの共通点を挙げるとすれば、どこか息苦しい閉塞感みたいなものがあることでしょうか。ずっと監督の自意識の内側にいる感じで、しかもその場所は閉所恐怖症を誘発するぐらい狭く、エヴァ破までは確かに存在した外界への解放的な「抜け感」が消えて、破綻が無いことへ偏執的にこだわって編まれた球体の内側にいる感じなのです。ただ、本作にシンエヴァのような不快感が無いのは、あっちは毛糸じゃなくて髪の毛で編んであったからでしょうねー。それも手触りに違和感を覚えて、よく顔を近づけてみたら人毛だったみたいな恐怖体験です。

 シンエヴァとの比較で、エヴァ旧劇があんなにも心の深い部分に刺さったのは、「圧倒的に嘘をついていない」印象が貫かれていたからだと思うようになりました。「他人だからどうだってのよ!」から始まるシンジへ向けたミサトの語りかけに、「他人を傷つけたほうが、自分がより深く傷つく。だから、あなたは自分が嫌いなので、他人を傷つけようとする」みたいな理路の話があり、ほとんどイジメっ子かサイコパスみたいな理屈で、劇場ではじめてそれを聞いたときから二十数年が経った現在に至るまで、まったく意味がわかりません。けれど、物語内の状況と声優の鬼気迫る演技に気おされて、毎回なぜか泣いてしまうのです。これこそが語り手のその時点の本当にすべてで、「まったく偽りが混入していない愚かなほどの純粋さ」を正面からぶつけられて、すっかり感情をやられるからでしょう。シンエヴァはこの真逆になっていて、表面上は整合しているように見せかけているのに、すべて嘘と偽りから成り立っており、そのごまかしが深甚な怒りを誘発する源になっているのだと考えるようになりました。

 さて、シン・ウルトラマンへ話を戻しますと、最近シティーハンターの実写版を見たんですよ(またも戻ってない)。特にアニメ版への愛にあふれた作品で、かなり楽しんで視聴したんですけど、これ、オリジナルを熟知している人物からの情報補完が前提のストーリー理解になっている気がしたんです。原作を知らない方が見れば、おそらく「Mr.ビーン・カンヌで大迷惑」をさらに支離滅裂にしたような中身にしか映らないことでしょう。あれから、シン・ウルトラマンの感想をいくつも読んで、私が見た物語は昔からのファンが読み解いた物語とは、まったくの別物だったんだと気づきました。例えば、「そんなに人間が好きになったのか」という台詞は、ウルトラマンが戦う動機を指摘しているはずなのに、本作がほぼ初見の私にとって、かなり唐突な内容であり、無辜の地球人を殺してしまったことへの贖罪が理由としか読み取れなかった。おそらくテレビシリーズを前提として、「人間を好きになる」過程を外部からの情報として補完するからこそ、響いてくる台詞なのでしょう。

 「人の心がよくわからない」からこそオタクにならざるをえなかった私たちは、それゆえウルトラマンやヴァイオレット・エヴァーガーデンのような「人の心を必死に理解しようとする」キャラクターの造詣に、無条件で強く共鳴してしまう。この皮肉屋にしたところで、一般社会で日々の生活を送り、ときに文章で秘めた感情を表現しながらも、それらが擬似的な人間のエミュレーションに過ぎないのではないかと、いつも疑っている。「人の心がよくわからない」ことは、我々の実人生において、怒らせたり、恥をかいたり、惨めだったり、少なくとも積極的には思い出したくない過去であるはずなのに、それらを美しく気高い試みだったとして、彼らの物語は語りなおしてくれる。どれだけ「人のまねごと」をしようとつきまとう、ある種の人々が持つ「本質的な疎外感」に寄り添ってくれるキャラクターたちに、私たちはどうしようもなくひかれてしまうのかもしれない。

雑文「数学に魅せられて、科学を見失う」感想 

 「数学に魅せられて、科学を見失う」読了。みずからを「何も生み出していない世代」と自虐する女性物理学者が、理論物理学の歴史を素人にもわかりやすく噛みくだいて俯瞰しながら、いかに自分がこの分野に失望しているかをグチグチグチグチ語ったり、各地の権威者を訪問してはネチネチネチネチとウザがらみしたり、端的に言って、ここ10年で読んだ中で最高のノンフィクションでした。サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」が大好きで、今でもときどき読み返すんですけど、本書は物理学にテーマを移したそのネガティブ版って感じですねー。まあ、あっちと違って証明も結論も無いので、尻切れトンボ感はすごいんですけどね!

 しかしながら、「量子力学は醜く不快なもので、物理学者はみんな嫌っている」とか、自分が知らない専門分野に携わる人々の「感情」を読めるのは、本当にすばらしいことです。「1970年代から半世紀近く、私たちは何も発見しておらず、何ひとつ標準模型に付け加えられていない」という苦悩の独白には、本当にゾクゾクさせられます。そして、たぶん私は「文章の美しさに魅せられて、物語を見失った」人なので、筆者の感じていることはとてもよく理解できる気がするのです。文系人間なんて、自分の身体が物理(物理!)的に稼働する40年ほどをどうやり過ごすかくらいで日々を生きているのに、理系の選ばれた知的エリートにとって、自分が何の根拠もない研究分野に数十年を費やしたかもしれないことは、この上ない絶望なのでしょう。

 あと本作には、女性だからこそ可能な男性社会への冷めた鳥瞰ーーマウンティングに知を使うか暴を使うかの違いーーという読み方もできるのではないでしょうか。それと、経済学者が使う数学を物理学者の視点からボロクソに言うのはフィジクス暗黒要塞(なんや、それ)って感じで、「争え…もっと争え…」と愉悦にひたりました。

雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」

 この連休中でもっとも胸のすいたできごとと言えば、「超弦理論の台頭により、数十年を停滞する物理学」の実態について知ったことでしょう。アホの文系アタマにできる最大限の要約をすれば、原子以下のあまりに微細な事象を取り扱うために実地の検証がほぼ不可能であり、理論だけが先鋭化していって、現実に有効な予言が生まれないという批判です。予測されていた超対称性が粒子加速器の実験では確認できなかったのを、「単に精度の問題であり、ないはあるを否定しない」みたいな理屈でダチョウが砂地に首を埋めるようにふるまっているのが現状だとかなんだとか。高度に発達したケトゥ族の知的遊戯が、やがて数式による創世神話と化していき、いまや論理の正しさではなく多数決と政治力が研究予算に直結する世界になっていると聞きおよび、思わず頬がほころんでしまいました。なあんだ、やっぱり理系クンたちもそうなんじゃん。

 本邦における超弦理論の研究者が、「理論をゼロから構築するのではなく、すでに存在する真理を発掘しているような手触り」と語っているのをどこかで読んだことがあり、用意された解答を探る快感に陶然となっているのが伝わってきて、まさに受験勉強を最大に延伸した究極の果てという印象を受けました。先日、国営放送で流された宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる騒動のドキュメンタリーも、正味の中身(踏韻)は「文系しぐさ」そのもので、「千人がひとつの物語を読むとき、そこには千通りの解釈がある。しかし、千人がひとつの公式を見るとき、そこにはひとつの意味しかない」との豪語は、いったい何だったのかという気にさせられます。同理論が高度な数学を用いながら、文学的世界解釈のファンタジーに過ぎないとするなら、日々をクソ文系仕事に従事する小人の溜飲も大いに下がろうというものです。

 あと、連休中に快慶の仏像を見る機会があったんですけど、この仏師、グラップラー刃牙の強い影響下にありますねー(たぶん、逆)。

映画「バブル」感想

 全方位的に悪評判しか流れてこないことに興味をかきたてられて、ネトフリでバブル見る。絵はキレイだし、1980年代のオリジナル・ビデオ・アニメって感じで、懐かしく視聴しました。なんかマクロス2のダメさーーラバーズ・アゲインの副題が肌に生じさせる蟻走感ーーを思い出しましたね。

 ここまでSNSで悪しざまに言われる理由を考えてみたんですけど、楽曲を含めて全篇に横溢する陽キャが陰キャを小馬鹿にしている感、「オタク君、こういうの好きでしょ?」感が透けて見えるからでしょうねー。オタク趣味が市民権を得てしまった現在、ここまでアニメーションを見下した感じ、もっと言えば差別心を出せるのは、逆にすごいと思いました。

 心底オタクをバカにしている陽キャのパリピ・ディレクターが、企画会議と称する半年におよぶキャバクラ通いの末、海外資本を脚本家のネームバリューでだまくらかすことに成功して、その漏れだす侮蔑を敏感にかぎとった陰キャのオタク・ライターが、キャバクラ接待で言われた通りのプロットで推敲ゼロのうんこ脚本を半ば当てつけで渡したら、ノー・リテイクで採用されてしまい、「え、マジで? この作品にオレの名前がクレジットされんの?」と頭を抱えているみたいな背景があるんじゃないですかねー、知らんけど。

 え、これ劇場でも公開されんの? 東京も水没してるし、天気の子の続編ってことにすれば、客が入るんじゃないですかね(適当)?

質問:何か気の利いた批評的な事を書こうとしましたがそもそも見てないんで辞めとこう、知らんけど
回答:いや、見てもらうとわかりますけど、「批評的な言葉」というのがいっさい湧いてこない作品なんですよ、バブル。オタク趣味が市民権を得ていなかった昭和のイジメっ子が、かつてイジメていたクラスメイトに笑顔ですり寄ってくるみたいな感じとでも言えばいいんでしょうかね、知らんけど。

映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版」感想

 アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感想

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン劇場版、ネトフリに入っているのに気づいて見る。目を真っ赤にしてボロボロ泣きながら書いている前提で読んでほしいんですけど、物語としてはテレビ版の余韻を台無しにするレベルでもう完全に蛇足なんですよ。フィクションとは言え、人間の、しかも子どもの死を泣かせの題材に使ってんじゃねえぞって、怒りに似た気持ちもある。この少佐とかいうヤツは一貫性の無い女々しいロリコン野郎だと感じるし、二人がついに触れ合うシーンも描写に力を入れ過ぎて、FF7リメイクのセフィロス戦みたいになっとるでとツッコミたい。おまけに、主人公がなぜあんなに強かったのかも、ついには明かされないまま終わる。

 でもね、制作会社が経験した事件を考えると、もう描かれるすべてが献花台に手向けられた花々、失われた生命に向けた鎮魂歌としか思えなくなって、胸がつぶれるような気持ちにどうしようもなく涙が流れてしまうのです。私たちの人生は凡庸で、ときに醜く、この物語のようにはいつも美しくないけれど、同じだけの重さを持った、他に代えられないとそれぞれが信じる感情を生きている。日々のニュースの裏側にも、無数のそれらが等価値に存在していることへ半ば気づきながら、己の感受性を仕事や暮らしや酒や遊興に鈍麻させることで、ただただやりすごしている。ふとしたきっかけで人としての感覚が戻った瞬間には、濁流のように注ぎ込まれる悲しみに立ち上がれないほど泣き、その疲労の果て、ほとんど失神するように眠り、目を覚ませば再び泡のような麻痺が心を覆っていることに気づく。我々はだれしも視界を閉塞させることでしか生きていくことができないし、望んで認識を狭めることでかろうじて発狂からまぬがれているだけなのだ。

 この物語はフィクションである。死者のよみがえりを疑うことができない、我々の弱い心につけこんだ、ただの作りごとである。だが、いまこの瞬間を生きる者たち、民衆のみならず王たちまでが求めるイフ、「ああ、時間がまきもどり、死んだ者たちが戻ってくれば!」という切実な祈りでもあるのだ。私にはこの物語を、現実と何の連絡も持たない虚構として視聴することは、できなかった。

雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

承前

質問:きっしょ

回答:オタクの定義って、子どもの頃に大人にとって感情が厄介なので抑圧するよう教育されてきた結果、自分の抱く感情が正しいのどうかいつも自信が無くて、その感情への自信の無さから、とにかく言葉が多くなってしまう人たちだという気がするのね。だから、いつも自分の抱く感情を周囲に正しいものとしてケアされてきた人たちの言葉が持つ、短いけれどまばゆいばかりの強さに目をくらまされて、すっかりやられてしまうところがあると思うわけ。エヴァ旧劇にしたって、あれだけ精緻にシナリオを計算された25話と、情動と音とイメージの洪水である26話と、当時から現在に至るまで、本邦のアニメ史上において永久に越えられないクリエイティブの頂点だったわけでしょう。にも関わらず、それを編み上げた究極のオタク自身が、自らの感情を疑ったこともない人物が思いつきで発した「気持ち悪い」という言葉に、完全にノックアウトされてしまった。じつは今、それと同じような気分です。私の記した数万文字の不快に対する不快として、この言葉はなんらの過不足がない。

 我々はこの3月8日に、エヴァという名前の建築物が完成するのを見たわけですが、入り口部分はGUCCIの店舗みたいな外装で、接客も控えめながら要点はおさえた上質さで、入店した若い女性の2人連れは「いいじゃん、私これ好き!」とか言いながら店の奥へと進んでいく。すると、内装はまるで昭和の秘宝館のようなチープなものになり、古い蝋人形とかハリカタが雑に並べられているばかり。60代の館長と思しき人物がムッツリと黙り込んで座っていて、話しかけてくるでもなく不躾にジロジロとこっちを見てくる。ここで不安を感じて引き返せればまだよかったものの、若い女性たちがさらに薄暗く狭い連絡通路を進んだ先は、高級ブランドの見かけはどこへやら、もはや乱雑と汚濁の極み、さながら九龍城の阿片窟へと変貌していく。室内は薄くけぶっており、水ギセルをくわえた全身刺青だらけの大勢のジャンキーたちが、赤いビロードをかけられたソファへ気だるげに身をもたせかけていて、若い女性たちが室内へ踏みいれるや否や首を起こして、いっせいにドロリと濁った視線を向けてくる。「なにこれ、キッショッ!」と叫びながら若いお嬢さん方が逃げていかれるのも、理の当然、無理からぬことなのです。エヴァとは元来、そういうコンテンツなのですから(水ギセルをふかしながら、黄色く濁った目で悲しげに)。

映画「クライ・マッチョ」感想

 クライ・マッチョ、見る。俳優人生の最晩年を迎えた齢91歳のクリント・イーストウッドによる、もしかすると最後かもしれない演技を愛でるドキュメンタリーとしては素晴らしいですが、一般的な映画として視聴すると彼が主演でなければ劇場公開どころか、撮影にすら至らなかったレベルの内容でしょう。この脚本が想定する人物像を演じるには、クリント・イーストウッドは20歳ほど年を取り過ぎています。10代の少年が想像するより身軽だったり、館の女主人に閨で恥ーー90代でチンポが勃つかいな! ーーをかかせたり、パンチ一発で暴漢に膝をつかせたり、60代のメキシカン未亡人とラブロマンスへ至るには、せめて70代前半でなければ成立しません。

 カメラワークとカット割りと、たぶんスタントでごまかした荒馬を乗りこなすシーンもそうですけど、スロー極まるクリント・イーストウッドの動きがもう本当に高齢のおじいちゃんで、そもそものところ台詞が言えてなかったり、別の意味で終始ハラハラさせられっぱなしでした。前作の「運び屋」ではまったく違和感を覚えなかったのに、わざわざマッチョをテーマにした脚本で当て書きなんかするから……。本作はここ5年、いや10年で最大のミスキャストのひとつであり、「映画好きなら、これをこそ褒めるべき」みたいな風潮に流されて、好意的な感想を述べる映画ファンとやらの盲目さには、もはやあきれかえるしかありません。

 あと、アメリカの1970年代におけるメキシコって、本邦のある世代にとってのノースコリアみたいなもんなんですかね?

映画「シン・ウルトラマン特報」感想

 シン・ウルトラマンの特報が目に入ってしまう。怪獣を「禍威獣」と表記しており、軽薄なまでの節操の無さとアタマの悪さに思わず失笑する。

 太平洋戦争の経験者が語る悲劇ーーより正確には戦争経験者によるフィクション群ーーがうらやましくてうらやましくて、東日本大震災に大喜びで飛びついて「これこそが、オレたちの世代の悲劇……!!」とエヴァQを作ったくせに、今度は未曾有のコロナ禍を迎えて「いやいや、こっちがオレたちの世代の悲劇……!!」と口元を例の形にほころばせながら命名したんでしょうねー。そしたらついに本当の戦争が始まって、「待って待って、オレたちの世代の悲劇もやっぱり戦争で決まり……!!」と、シン・仮面ライダーのどこに反映させるか表情だけは深刻に、ウキウキで考えてるにちがいありません。

 まあ、戦隊モノのパロディで不謹慎きわまる替え歌を作っていた学生時代と同じ心性のままなんでしょうねー(以下、引用)。

「もしも日本が弱ければ
 ロシアはたちまち攻めてくる
 家は焼け、畑はコルホーズ
 君はシベリア送りだろう」

 ホラ、監督の大好きな時代とのシンクロニシティですよ! すいません、表記を間違えました、シン・クロニシティが正解でした! これはもう、次々回作は「シン・サンバルカン」で決まりですね! 言いにくいから、タイトルは「シンバルカン」でどうでしょうか(ヤケクソ)!

雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

 承前

質問:もうエヴァからは卒業したほうがいいですよ

回答:いや、卒業してたんですよ。1997年7月にエヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科を卒業したはずが、「ごめん、教務課の手違いで単位が足りてなかったから、実は卒業できていない。4日間の短期集中講座で済ますから、申し訳ないけど再履修してくれる?」と急に電話がかかってきたんです。大学のミスなのになぜか受講料とられて、懐かしい階段教室に入るんだけど、むかし見たことのある教授が明らかに25年前と同じ黄ばんだ講義ノートでボソボソ授業はじめて、まあ社会人になって長いこと大学なんて来てないから、頬づえつきながらボーッと聞いてても、面白くないこともないわけ。そしたら最終日の講義に教授が来なくて、みんな顔を見あわせてザワザワし始めるわけ。しばらくして事務の人が入ってきて、「すいませーん、今日はビデオ講義になりまーす。文科省には確認してオッケーもらってますんでー」っつって、擦り切れたビデオ映像を黒板横のモニターへ流し始めるわけ。明らかに25年前に受けた記憶のある授業なんだけど、カメラが教授の真横のアングルから撮影してて、板書がすごい見にくい。んで、最後にA4ペラ1枚のレポート書かされて、教務課に持ってくんだけど、受付のオバハンは煎餅バリボリかじりながら昼メロ見てる。「レポート持ってきたんですけどー」って声をかけたらふりむきもしないでめんどくさそうに、「そこの箱にレポート入れって書いてあるの読めないの? 学籍番号と名前が間違ってなかったら、みんな単位でるから」って言われて汚いボール紙の箱にレポート出すの。「おっかしーなー、ほんとに卒業できてなかったのかー?」っつって首をひねりながら帰るんだけど、いつまで経っても新しい卒業証明書が郵送されてこない。代表番号に問い合わせしたら、「この電話番号は、現在使われておりません」っつって録音が流れて、いまは手のこんだ特殊詐欺にあった気分です。