猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

ゲーム「モンスターハンター・ライズ」感想

 いまさらモンスターハンター・ライズをプレイしている。テクノブレイクなるいつものG級商法の広告をうっかりクリックしてしまい、PC版の存在に気づいたのがきっかけだ。なんとなれば、当家は家訓として携帯ゲーム機でモンハンをプレイすることを禁じているからである。「失われたウン十年」みたいな言い方を最近よく見かけるが、私に言わせれば本邦の衰退をもっとも象徴的に表しているのは、モンスターハンター・シリーズの主戦場がスリー・ディー・エスやらスitchyやらのマイクロマシンに移ってしまったことだ。雑に私の抱いている印象を語れば、これはゲームウォッチ、ファミコン、スーパーファミコン、プレステ1、プレステ2と順当にスペックを進化させてきたゲーム機が、またゲームウォッチに戻ってしまったようなものだと言える。初代モンハンにおいて4人で取り囲んだリオレイアに大剣で斬りかかった瞬間は、この短くないゲーム人生でもっとも鮮烈な記憶として思い出すことができる。すなわち、「ああ、ゲームでこんなヤバい経験ができるのか! ゲームの進化はこの先、どこまで連れて行ってくれるんだろう!」という感動である。しかしながら、ガッデム・ビッグな一軒家で家族といっしょに、ガッデム・ビッグな120インチのスクリーンに投影されたドット絵で、ガッデム・ビッグなスピーカーから爆音で流れる電子音を聞きながらゲームをプレイする甘やかな未来は、4畳半のアパートでひとり、西日射すベビーベッドにギャン泣きする赤ん坊をガン無視しながら、4インチの画面をガン見する貧困層という、いじましい現在へと取ってかわられてしまった。

 本邦の衰退が安価な携帯機の隆盛につながり、ゲームの内容をより高いスペックで豊かに表現することより、売れ筋マシンの性能へと矮小化するやり方に対するハンガー・ストライキとして、3からクロスまでのモンハンへ傲然とそびらを向け続けた俺様であるからして、ワールドの発売は本当にうれしかった。120インチのスクリーンと7チャンネルのスピーカーでプレイするモンスターハンターは、まさに少年時代の自分が夢に描いたゲーム体験そのものだった。しかし、アイスボーンの発売がそこへ暗い影を落とす。「巨大ドラゴンとの死闘ごっこ遊び」だった中年たちのサンドボックスが、アップデートを重ねるたびに青年向けのeスポーツ・アクション競技と化していったのである。それは、ひとりでファイナルファイトを楽しんでいたオッサンが突然、グッツグツに煮詰まったスト2や鉄拳の対戦台に座らされるようなもので、1日に1時間ほどしかプレイできない中年社畜少女の指は、そもそもそんなふうに動くようにはできていない。「1人のプロハンが3人のアマチュアを鼓舞しながらモンスターを倒す」ゲームだったのが、「4人のプロハンが完璧に統制された連動でモンスターを倒す」ゲームへと変貌し、反射神経の衰えたアマハンはプロハンのため息や舌打ちにいたたまれなくなって、いつしかコントローラーを置いてしまった。

 その点、このモンスターハンター・ライズは、敵がプロレスの筋書きを理解してくれる感じのほどよい強さで、アルコールを入れながら雑にプレイしても、気持ちよく勝たせてくれる。もともとが携帯ゲーム機向けのグラフィックなので、PC版でさえワールドと比べて特別に精彩とは言えないが、初代からプレイしている古強者としては、このくらいで充分じゃないかという気もする。もっとも、スマホゲームに慣れた層へ配慮してなのか、操作や仕様がどんどん簡略化されていくのは、快適に感じる反面で寂しくもある。ピッケル、虫あみ、ホットドリンク、コールドドリンク、ペイントボール、有限な砥石、補充できない回復薬など、わざと不便にすることで作り出されていた冒険と狩猟のアトモスフィアというのは、確かにあったように思う。シリーズの持つ面白さの核となる部分は無印の2ですでに完成しているので、以後はそのデカいステーキの味付けやトッピングをいかに変えて新味を出すかに苦心してきたが、本作は浪曲によるモンスターの紹介や街で女性ボーカルの歌が流れ続けるなど、全体的な和の雰囲気づくりでそれに成功している。

 まあプレイしはじめると、手触りはまんま「いつもの」で、新要素の操竜は狩りのテンポが悪くなるけどダメージと素材のためにイヤイヤ騎乗する感じだし、おそらく本作の大きなウリである百竜夜行も攻略してる手ごたえが絶無で全然つまらない。しかしながら、まんが日本昔話の龍が攻めてくるのを協力プレイで迎撃する中、クライマックスに英雄の証が流れ出した瞬間、ガツンと感情をやられて泣き笑いにツーッと涙が頬を伝ったのには、自分でも驚いた。ナレーションはさんざん危機感をアオってくるのに、どれだけ攻められてもいっこうに砦が陥落する気配はなく、ラオシャンロン撃退みたいな半イベント戦なのだと思うが、「英雄ごっこ遊び」の頂点をひさしぶりに堪能することができた。

 あと、ライズが他のシリーズに比して優れている点を挙げるとすれば、「狩猟中、声優がしゃべりまくる」ところであろう。うめき声やかけ声の範疇に留まっていたこれまでのボイスが、多彩なセリフでキャラクターの個性を表現するほど豊かになっていて、敵のモーションなぞほぼ見えていない酔っぱらいに声で危険な大技を予告してくれたり、反射神経へチャレンジされている中年にとって最高のバリアフリー化になっているのだ。女神転生で例えるならば、ワールドがリアル指向の「真」だとするなら、ライズはアニメ指向の「ペルソナ」であり、今後はぜひこの2系統でシリーズ化していってほしい。

 そして諸君、キョロキョロするんじゃあない、だれも見ていないのにすました顔で男キャラのプレイを始めるも、すぐ物足りなくなって女キャラで作り直すそこの小太りのキミのことだよ! みんな恥ずかしくて積極的には表明しませんけど、近年のモンハン最大の魅力って、ムチムチの恵体に着せるエロ装備だと思うんですよね(力説)! 本作では、声優の熱演がその欲望へさらに強く訴求していて、全ボイスの女キャラを作って別々のエロ装備を着せて、とっかえひっかえ遊んだら、さぞや楽しいことだろうと夢想します。しかしながら、セーブデータは3つまでですし、そもそも社畜にそんな時間は与えられていませんので、キャラクリをやり直せるチケットを使って、ときどきボイスと容姿を変えて楽しむこととします……え、このチケット、2枚目からは有料なの? クソッ、なんて悪辣かつ狡猾な課金要素なんだ……(ビニル製のサイフをバリバリと開きながら)!!

 ゲーム「モンスターハンター・ライズ:サンブレイク」感想

アニメ「BASTARD!! 暗黒の破壊神」感想

 艦これイベント最終海域を進行中。諸君のようなエリートとは異なり、乙へ落とした難易度にさえヒイヒイ言ってるクソ提督だが、潜水マス大破撤退の苦しみは諸君の抱いているそれと何ら変わるものではない。現在、4本目(4本目……!!? )のゲージ破壊に取り組んでいるところだが、己の内に潜む暴力性を強く自覚させられている。大和改二重への改装のため、山のように放置されていた限定任務に着手し、設計図0枚から勲章をかき集めたのに、その最強戦艦が資源を食うばかりでいっこうに仕事をしないからだ。ご存じのように、このイベント海域、ゲージ削りとゲージ破壊でやっていることの見かけは同じなのに、ゲームの本質がまったく変化してしまう。前者は資源と時間が成果として累積する定期預金(古ッ!)であるのに対して、後者は有り金すべてを畳に並べてサイコロの目にベットする場末の賭場と化すのだ。

 現状をまともに認識しては発狂するしかないので、意識を坊ノ岬での大破撤退からそらすために、ネトフリでバスタードをながら見しはじめる。まったく本作といいスプリガンといい、当時の中高生のうち、「就職氷河期を生き残った連中だ、ツラがまえが違う」みたいな管理職になったサバイバーどもが、いよいよ現場の実権を握りはじめ、あと10年ちょっとを逃げ切るだけの立ち場になって、もう好き放題やりだした感が伝わってきますねー。さらに10年を待てば、次世代のnWoファンが管理職として現場の実権を握り、「少女保護特区」や「MMGF!」を出版したりアニメ化したりしてくれると考えると、まだまだがんばれるって気持ちになります(ぐるぐる目で)。

 さて、今回アニメ化されたバスタードはスプリガンと違って、お世辞にもクオリティが高いとは言えませんが、あの時代の空気感だけはたっぷりと詰まっており、いろいろと当時を思い出して懐かしい気持ちになりました。アニメの出来について、ドぎつい原作ファンが新旧を比較したドぎつい絡み方ーー主人公の声が甲高すぎるのは同意しますーーをしているのを見かけ、ある世代にとってはとてもとても大切な、名実ともに神話的な作品だったことをあらためて確認できました。ちょうどグループSNEあたりが、海外のテーブルトークRPGやゲームブックなどを翻訳・翻案して本邦へ紹介し、急速にファンタジーの世界観が主に中高生男子の人口へと膾炙していった時期に、バスタードの連載はスタートします。最初期の本作は、既存作品を丸パクリした設定にヘヴィメタル趣味をふりかけただけの、メタ視点の悪ふざけが過ぎる極めて同人的な内容で、まさか10週打ち切りをまぬがれて大長編と化し、ここまでの伝説的な扱いをされる作品になるとは、だれも予想していなかったように思います。個人的にはそれほどハマらなかったのですが、呪文詠唱を丸暗記して唱えるのが流行ったり、周囲の盛り上がりはなんとなく記憶にあります。

 適切かどうかはわかりませんが、他作品をからめて全体の印象を述べると、ランスシリーズのような悪ノリのパロディと下ネタで始まったのが、氷をあやつる四天王の登場ぐらいから作者の真剣度が増して、語り方の質が大きく変わります。メタが鳴りをひそめると同時に、物語はギアを上げてグングンと加速していくのですが、やがてベルセルクと同様、作画を細密化させすぎるという自縄自縛ーーこちらは話のスケールを大きくしすぎたせいもあると思いますーーに陥って、ついには肝心のストーリーを頓挫させてしまいました。今回のアニメ化は、物語の質が変わる前の段階ーー最後は続編前提のヒキで、2期が無ければ目も当てられない尻切れトンボーーで終わっており、新たにバスタードへ触れた層に、昨今の倫理観とあわぬがゆえの悪印象だけを与え、本作を知る必要の無い「頭文字F」にまで発見されて、どこかで吊るし上げをくらって中絶させられないか、続きを期待する者としてちょっと心配しています。

 原作の展開、特にセリフをほぼ忠実に再現したこのアニメを眺めるうちに思ったのは、バスタードは少年漫画が本当に「少年・イコール・男の子」だけのものだった時代の作品だったんだなあということです。精通前と精通後ーー女性の警戒心と主観的な接触の意味が変わるーーを行き来する主人公が、女性ヒロインたちの処女性に異常なまでのこだわりを見せるところへ、特にそれを感じます。いまはどうかわかりませんが、かつての少年漫画が持っていた絶対の不文律とは「寸止め」、すなわち「主人公とヒロインが絶対にセックスを完遂しないこと(ペッティングまではオーケ)」でした。これは「セックスすることが相手との契約になり、二人の関係性と己の内面が永久に変更され、以後はそれが死ぬまで継続する」という価値観であり、セックスという行為に最大級の意味づけをし、ひたすらに「一穴一棒主義」を信奉する強い倫理観の表れなのです。裏を返せば、セックスした瞬間に失われる可能性の流動を担保し、少年の持つ無限の未来を異性から隔離しているとも指摘できるでしょう。

 かつてのオタクというのは本当に純粋な、無窮の愛がこの世に存在することを信じて、いつまでも探し続ける人たちのことでした。そんな我々にとって、ランスシリーズのエンディングが感動的だったのは、あの時代のすべての少年漫画がどこかであきらめて、それを手放していった先に、ただひとつ残された古い物語として、無窮の愛は確かに存在すると示してみせたことでしょう。つまり、バスタード時代の少年漫画が抱いていた「人生を永久に変更するセックス、そして至高の愛」という夢想に満ちたテーマを、ついには男性の視点から語り切ったのだと言えます。

 ともあれ、今回アニメ化された範囲だけでは旧世代のオタクたちが、なぜあれだけバスタードに熱狂していたのかサッパリ伝わらないと思いますので、我々の名誉のために、せめてアンスラサクス戦ぐらいまでは映像化してほしいものです。

雑文「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」

 例の時期(「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」)だからなのか、ティー・エルへ頻繁にノット家バット屋の人々に関する情報が流れてきます。投票権の無い人物という設定(皇族か少女)なので、基本的に他人事として眺めてますけど、レッド・パインなる男性が「私の娘は4年も引きこもってるけど、アニメや漫画に救われている」とぬかしてるのを見て、「オイオイ、これまた超ド級のキッズ・オーナメント案件じゃねえの?」と心配になりました。

 漫画のキャラと違って、娘さんの人格と人生は貴方のそれらとは完全にベツモノですよ? ちゃんと本人に許可を得てから、しゃべってるんですよね? ウカツな人物なのかもしれませんが、この感覚はちょっと度しがたい。これ以上はない公の場で、家庭の暗部に言及できてしまうのは、この社会の変容なのか、ある個人の特性なのか、私にはよく判断がつきません。それに、豊かさの基盤を沈黙のうちに維持しているマジョリティからすれば、フリーライドの肯定と響くやもしれず、家庭の教育方針なら「どうぞお好きに」という話ですが、弱りゆく社会の側に立つ人間としては問題ある姿勢のように感じました。

 ああ、また余計なことを言ってしまった! インペリアル・ファミリー・ガールなので、もう黙ります。

雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。

映画「ハウス・オブ・グッチ」感想

 映画館で見ようと思っていたら、一瞬で上映が終わってしまったため、円盤を購入していました。んで、今日ようやく時間をつくって見たんです、ハウス・オブ・グッチ。いやー、すごいよ、これ。リドリー・スコットがグッチをテーマに映画を撮ると聞いて、ファッション業界を舞台にしたゴッドファーザーみたいなものを想像してたんですよ、アル・パチーノも出てるし。レディ・ガガが真ン中で腕を組んで、「それは、人を狂わすほどの名声」ってコピーがついたポスターがあったじゃないですか。あれを見て、映画偏差値70オーバーの内容をワクワクと思い描いていたら、出てきたのはなんと30以下のシロモノでした。

 脚本ダメ、構成ダメ、撮影ダメ、演出ダメ、演技ダメ、選曲ダメ、編集ダメ、全体的に安っぽいテレビドラマみたいなクオリティで、そもそも映画芸術の域に達していません。アダム・ドライバー、ジャレット・レト、ジェレミー・アイアンズと錚々たるメンツをならべておきながら、カメラテストの1発目をリテイクなしで採用したような場面ばかりで、バストアップを交互に切り返すだけの会話シーンが多用され、題材から逆算して画面に漂わねばならない緊張感は常にとぼしく、なぜ挿入されたかわからない意味不明のカットも散見されます。1つ1つの場面がダラダラと続くくせに、カット尻の切り方はどれも唐突で気持ち悪く、2時間30分ほどの全長のうち、1時間は編集で詰められるでしょう(4時間かけた特殊メイクがもったいないと思ってんのか、ジャレット・レトを出しすぎ)。

 もちろん良かった点も無くはなく、アダム・ドライバーが次々とハイブランドに身を包んで出てくるのは眼福でしたし、グッチのはじまりが皮革産業を生業とした共同体であることを知れたのは興味深かったですし、レディ・ガガの演じる「下賤の女」は彼女の出自と地金が垣間見えてゾクゾクしました(まあ、演技はアレですが……)。でもね、ひどいまとめ方をしますと、晩年を迎えた巨匠が自分より若い妻にそそのかされた結果、もう何人も口出しできないゆえに客観性が1ミリも入りこむ余地のない、恍惚とした老人の主観世界を体現するような作品に仕上がってしまったのではないでしょうか。なんか最近、似たような印象を持った作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ククルス・ドアンの島だった。

 あと、検索してもハウス・オブ・グッチに関する感想があまり出てこないのは、最近の「賞賛か無視」しかないインターネット社会を如実に反映しており、みんな微妙だと感じているのだろうなと、ご推察し申し上げます。本作へ言及する数少ない記事に、「アダム・ドライバーがハウス・オブ・グッチの打ち上げに参加しなかった」というものがあり、「役へ入り込み過ぎるきらいのある彼が、ブランドのために家族を捨てる夫の役から、一刻も早く離れたかったのかもしれない」とか書かれているのを見つけました。いやいや、本作でのアダム・ドライバーは頬骨ごと口角を上げるひきつった笑顔の芝居しかしてなかったじゃないですか。マウリツィオ・グッチがいったいどういう内面を持った人物なのかサッパリわからなかったし、何の演技プランも監督の指導も感じなかったですよ。リドリー・スコットの名前にだまくらかされて、よくよく内容を精査せず、本人に確認しないまま事務所主導で出演を決めてしまったものの、渡された脚本に首をかしげながら撮影を進めるうち、駄作疑惑が確信へと変わり、レディ・ガガと事務机でする獣のようなファックが決定打となって、もう二度と思い出したくない現場になったからじゃないですかね、知らんけど。

雑文「『なぜ書くのか?』あるいは新規読者への手紙(2022.1.1)」

質問:拝啓 小鳥猊下(猊下って尊称ぽくてこの後に様をつけるか迷うのですが、アカウントへの敬意を込めまして)様

初めから言い訳がましいのですが、猊下のテキストの力強さ、確固たる視点を持って主に批判的にかかられた文章の前にただ無心に頷くことをするばかりで、何度読んでも「熱量、文量、長い文を読ませる技術、とにかくスゲ~」としか感想が出ず、ひっそりと猊下の文章を楽しませていただいておきながら拡散の一つもできなかった怠惰なもやし野郎からの私信になります。

いや、本当にすごい文章で、慇懃無礼な態度を取りながらときに下品、ときに俗的な表現を用いつつ、私にはとても思いつかない表現で猊下の感じたことにまつわる熱量を浴びることができる、いわば「小鳥節」を味わえる機会を得たことは、2021年の収穫でした、本当に良かったです。

大勢の最小公倍数的な感想を最もキレのある言葉で表現できたもの勝ちな風潮の中で、猊下の長文は生き生きとした個人の血の通った文章のように見えました。猊下が紡がれる文中で刻まれた奇妙なリズム、いや脈動を聞きながら(古のインターネットの無礼講的な粗野な温かみを感じつつ)、貴公の文章を、大きな小鳥の懐に抱かれているが如く味わっていた一年でした。辛いとき、寂しいとき、いつもそこにいて確固たる感情を見せつけ、その熱をそっと分けてくれた猊下のnoteに、twitterに、いつも救われていました、ありがとうございました。

具体的な感想が出てこない時点で当方の読解力や記憶力などお察しなのですが、とにかく猊下の文章をとても楽しませていただきました。誰にでもアクセスできる環境においていてくださり誠に感謝いたします。

ことしは例年に勝る寒冬のようです。ご自愛くださいますよう。

読者より

回答:ここは1999年に開設した「猫を起こさないように」というテキストサイトの分社なのですが、2021年になって新たな読者を得られたことは喜ばしい限りです。動きの少ないアカウントに思われがちながら、ヒマさえあればエゴサしたりnote記事の閲覧数を確認したり、「いいね!」がつこうものなら跳びあがって喜び、新規と思われる方のSNSなどは特にじっくりと読みこんでおる次第です。テキストによる発信をいくら繰り返せど周囲の状況は無音に近く、本当にだれかが読んでいるのか、読まれているとして意図は伝わっているのか、上下の区別さえない無重力空間を漂流するようで、ただ狂わずいることにさえ力を使うというのが実際のところです。このたび質問箱へ投稿いただいた感想を読み、大げさではなく薄れかけていた自分の輪郭を上書きされた気分になりました。かつて物語をめざしていた時期はあまりの無反応に苛立ち、ある奇特な御人に完全におんぶだっこで同人誌まで出しましたが、ついに期待したレスポンスは得られませんでした。最近では「感情の記録」「記憶の足跡」として、己が読み返すことを主に想定したテキストを書いています。特に虚構作品への言及は、キチンと調べて体裁を整えれば批評や評論になるのかもしれませんが、知識の不確かさや事実の誤認までもが、その時点での「人格の記録」のような気がするのです。言語を用いて精神のゆらぎを検出し、世界の混沌にあってその均衡を維持する。この意味で、いまの自己認識は「詩人」とでも言えましょうか。テキストで何を志向するかは、この20年でかなり変遷しましたが、「より多くの人に届いて読まれたい」というコアな部分だけはずっと変わっていません。貴君のような新しい読者がさらに新しい読者を呼び、そうして何か化学反応が起きて、新たな状況が生まれればと祈るような気持ちでおります。

映画「ヒトvsハチ」感想

 ネトフリでローワン・アトキンソンのヒトvsハチ、見る。キリスト、ビートルズに続き、その誕生以来、年齢・性別・人種・国籍・言語を超えて、ネット動画の誇大タイトルどころではない、文字通り「全人類を楽しませた」のがMr.ビーンであり、本作は言わば、そのスーパースターのカムバック公演なのだ。「ビルドアップがダルいな」とか、「話のオチが小賢しい気がする」とか、「10分9本じゃなくて90分1本でいいんじゃねえの」とか感想未満の印象を述べるのは、それこそ「キリストが異性愛者なので傷つきました」ぐらいの難クセであり、まさに抱腹絶倒、ひさしぶりに涙が出るほど笑わせてもらった。オックスフォード出身の英才が演じる、このビーン型のキャラクターは、現代においてたぶん正式な診断名(アスペルガー?)がつく特性の持ち主で、いったんひとつのこだわりが生じると、他のすべてが見えなくなってしまう。グッタリした犬を床に放り投げて「ゴトッ」と音がする場面などに狂笑しながら、やがて自分の内側にも同じ性質が潜んでいることに気づかされるのである。

 休日の朝、ディアブロ・イモータルのプレイに本腰を入れて取りかかるも、2時間もしないうちに、もうゲーム内ですることがない。デイリーでクエストを規定数こなし、ウィークリーで1、2回レジェンダリー宝石のガチャを引く。パラゴンレベルは毎日2ほど上がるから、進捗の感触がないわけではないし、はるか遠方にうっすら目的地も見えている。けれど、それは日本列島を徒歩にて縦断するような道程であり、しかも重課金者は初日にプライベートジェットでゴールを済ませているのだ。エンドゲームの全容が俯瞰できてしまったあと、ディアブロ・イモータルのために予定をすべて空けた休日が残された。そこで、「そういえば、艦これのイベント海域を3の3で放置してたな……」と思い出してしまったのが運の尽き。ゲージを破壊できず、友軍の到着を待っていたくせに、「支援艦隊と基地航空がキチンと仕事をして」「通称・ながもんタッチが敵旗艦に当たって」「夜戦までに4隻以上が中大破を逃れ」「魚雷すべてが敵旗艦にクリティカルする」という奇跡を、なぜ一瞬でも信じることができたのか。頭ではわかっているのに、いったん着手するともう身をもぎ離すことができない。

 連合艦隊の全隻が幾度も中大破で帰港し、数週間をかけて再備蓄したバケツと資源がおそろしい勢いで虚空に消滅していく。攻略情報を検索して見かけるクリア報告に、得体のしれぬ焦燥が高まっていく。これはおそらく、独身女性が友人から結婚や出産のハガキを受け取るときと同じ感情だ。「たかがゲームなのに、みんなふつうにこなしているのに、なんで私はちゃんとできないんだろう!」という己への失望と、世界への絶望。イベント海域のプレイ中には、私の人格の中で最も低劣な部分が表層へと浮かびあがる。激情、狂乱、絶叫のうちに、バック・グラウンド・ビジュアルとしてパリピ孔明を見終え、ヒトvsハチの配信に気づいて、乱暴に再生をはじめる。はたして、そこには、私がいた。

 自然とマウスから手が離れ、私が私の痴態を笑っているうちに、全身を包んでいた怖いような執着は、いつの間にか消えていた。艦これを走らせていたブラウザを終了しながら、私はこうつぶやく。ありがとう、ローワン・アトキンソン。狭量な時代がこの作品に何を言おうと、あなたは私にとって、永遠のジーザス・クライスト・スーパースターだ。

アニメ「パリピ孔明」感想

 パリピ孔明、通して見る。そもそものところ、全然だれもパリピじゃないし、これから触れる人は1話と12話だけ見れば、特に問題は生じないと思います。いつものように何も調べず印象だけで話をすると、まずエイベックスあたりに売りたいシンガーと楽曲があって、販促用にネットで流行りの漫画をテキトーに選んで、キャバクラ会議ーー圧倒的なキャバクラへの信頼感ーーの末にアニメ化したってのが、実情じゃないですかね。個人的に、日本語ラップが存在理由を疑うレベルで大ッキライーーキミら、ちょっと親族と仲間に感謝しすぎじゃない? 特にメッセージがないなら、むりくり歌にせんでええのよ?ーーなので、中盤の印象はもう最悪でした。てかさあ、物語的にコイツを仲間にする必要まったくなかったじゃん。どこの事務所のゴリ押しなのよ?

 さて、パリピ孔明をダシにして本題へ移りますが、私の中でジャパニーズ・ラップと同じカテゴリに、スノーボードとローラースケートとブレイクダンスがありまして、この競技者たちが国営放送に権威ヅラで取り上げられるのを見るときの違和感がすごい。ひどく間違った世界線に迷いこんでしまった感じで、こんな社会ならあまり長く生きていたくはねーなと、わりと真剣に思います。かつて世間には、厳然とした強固な中央値があったのに、いまや大幅に上下方向へとブレてしまっている。先ほど挙げた競技群は上ブレ枠の「陽キャ低偏差値ヤンキー」枠であり、下ブレ枠は「陰キャ高偏差値オタク」枠で、アニメや漫画など、かつてのサブカルがそれに当たります。この上下枠のいずれにも侮蔑の視線を向けていた人々が本邦のマジョリティだったのに、いつのまにか細胞膜が溶解するみたいに混ざりあってしまっているのです。

 圧倒的な下の枠として、さげすみの眼差しを一身に受けていたあの頃が懐かしいです。それが、よもやヤンキーどもと同じ扱いになるなんて……え、あまりに物事を単純化しすぎじゃないですか、ですって? そうなんです、単純にはいかないんですよ! 中でもローラースケートがクセもので、光GENJIならヤンキー枠、ムテキングならオタク枠になるじゃないですか? あと、「ローラースケートすべらせ」た「いじわるばあさん」のカテゴライズも難しくて、青島幸男ならヤンキー枠だし、長谷川町子ならオタク枠でしょう? いやー、じつに難しい! こういうのを複雑系って言うんですかね?(ちがう)

アニメ「スプリガン」感想(6話まで)

1話まで

 スプリガンの名前をタイムライン上に見かけて、「あれかー、ロボットが変形するPCエンジンの横シューかー。『いえ、スプリガンMk.2です。きゃああっ』、え、お姉さん、出番それだけ?」とか声色をつかって遊んでたら、漫画のほうのアニメ化だった。ちょろっと1話だけ見てみましたけど、新宿プライベート・アイズのスプリガン版って感じですね(なんじゃ、そりゃ)。原作は80年代後半から90年代前半にかけて中高生だった男性の、実家の本棚を探せば必ず発掘される3大漫画のひとつーー残りはマスターキートンとサザンアイズーーで、陰キャのオタクに自己投影型のハマり方をさせた、罪深い作品であると言えましょう(夜中の台所で果物ナイフとテーブルナイフを逆手に持ってフーフー言いながら、教室にテロ組織が侵入してきたときのシミュレーションをしてましたよね?)。

 本作の提供するテンプレートとしては、16歳は主人公のオレか清楚なヒロイン、18歳は頼れる兄貴か妖艶なお姉さん、20歳以上はオッサンかオバハンで、30歳以上は世界の敵(ドント・トラスト・オーバー・サーティ!)で、40歳以上は完全な真空ーー「博士枠」でのみ老人の存在が許されるーーという世界観が挙げられるでしょう。この強固なフレームは長く少年漫画界を呪縛し続けましたが、かつての少年が漫画を卒業せず、中年を迎えてもそこに居座り続けた結果、いまや異世界転生ものーー中年の心を持った少年ーーへと変質してしまっています。女性の人生には「生物的な要請」としての抜本的なルールチェンジの段階がいくつか存在しますが、現代の男性は「社会的な要請」としてのそれを拒否し続けた結果、おぞましいことに「週刊少年ジャンプ」というルールだけで生涯を過ごせるようになってしまっているのです。

 話を個人的な体験へ戻しますと、スプリガンとは「自分で購入せず、他人の家で読む漫画」という適度な距離感を保っていました。当時、劇場アニメ化されたのを「世界のオオトモ」の名前にダマくらかされて見に行ったのですが、絵はキレイなのに脚本は支離滅裂で、セリフもなんだか聞き取りにくく、最後はCGくさい黄金の方舟が出てくるみたいな、スプリガンという作品の負の側面である「思春期への共感性羞恥」を誘発する仕上がりで、そこから完全に記憶の奥へと封印していました。今回の試聴でよみがえってきた忌まわしい記憶の数々を、いまは苦々しい思いで眺めております。あの頃、旧ソの強化人間とかスペツナズとかたくさん出てきたけど、実際はそれほど強いわけでもないことが判明したいま、次代の少年漫画ーー読み手は初老男性が中心ーーの仮想敵国はどこになんのかなー。ファンタジー世界でドラゴンとか魔王が相手ばっかりなのは、イヤだなー。転生してない16歳の少年が、令和の現実で大人を手玉に取る作品が、また出てこないかなー。

6話まで

 ネトフリ版スプリガン、配信分をすべて見終える。いやー、堪能しました。あらためてふりかえると、本作のシャドー・フォロワーたちーーあまりに深く影響を受けたため、それを公には表明していないクリエイターのことで、小鳥猊下にも多く存在するーーの作品群を映像化したものが、30年の時を経て原典へと還流しているような印象を持ちました。この場面って、あの作品のあれだけど、あの作品のあれって、じつはこの場面に影響を受けてたんじゃないの、みたいな。いつもの習い性で茶化して、「思春期への共感性羞恥を誘発する作品」みたいな書き方をしましたけど、6話までを通して見ると昨今の作品群と比べて、よっぽどまっとうな願望を描いているなあと感じました。「腕っぷしはめっぽう強く、学校の勉強はできないけれど、頭の回転は速く機転が利いて、あらゆる大物たちに一目おかれ、女性たちからは好意を寄せられ、世界を破滅から防いで人類を正しい方向へと導く、ひとかどの人物」って、青少年が抱く欲望としては「オレをイジメてパーティから追放したアイツらにチートスキルで復讐」みたいなものよりも、確実に「正しい」と思いますね。

 話が少しそれますけど、ループものや転生ものの醜さの正体って、つまるところ、生きることの本質である「一回性」を否定している点なのでしょう。どの作品も、ある決断にともなう後悔や失意など、「意志を示すこと」で生じた負の部分を解消することばかりに焦点が置かれている。人生において100%正しい決断などほぼありえず、自分自身ではないだれかのために、それを後悔ごと吞みこんで前向きなものへと変化させていこうという姿勢ーーときに気の遠くなるような主観時間を伴うーーこそが、多くのケースにおいて有効な処方箋であるのに、その事実をどこか歪めてしまう。加えて、ゲーム由来の「スキル」や「ステータス」なる概念を用いて、世界の広大さと複雑さを手に負える範囲に矮小化かつ単純化し、読み手にいつわりの理解と安心を与えている。ゲーム黎明期に乏しいロム容量の内側で現実を表現するために発明された要素ーードぎついTRPG者を招きよせそうな指摘ーーが、昨今ではより制約が少ないはずのジャンルにおいて、書き手の貧困なる想像力を補助するためだけに世界を狭める意図で逆輸入されているのは、なんとも皮肉なことです。スプリガンに代表されるかつての少年漫画は、広大な世界を広大なままに、未知の領域を未知のままに描いており、一方からもう一方へと至る変化が、やたら数だけは多い就職氷河期世代の加齢に由来するのだとしたら、そんなものに若者たちの未来を巻きこむなと考えてしまいます。

 さらなる脱線をしておくと、ファンガスの描く(この箇所、傍点付き)FGOの物語を私が愛するのは、それがかつての少年漫画と同じ系譜にあり、「一人の人生と人類の歴史の一回性」を高らかに肯定しているからでしょう。例えば、クリプターのリーダーがジーザスを依代として召喚され、いっしょにサバフェスで同人誌を作る話などはさぞかし面白くなるだろうと思いながら、「ファンガスは、絶対にそれをやらない」と強く信じられることが、FGOを続けている最後の理由でもあります(裏を返すと、そのラインが守られなくなれば、離れるという意味でもある)。

 ともあれ、ネトフリ版スプリガンは二期、三期と制作していただき、近年の「主流になるべきではない、中年どもの後悔を慰撫するためだけの作品群」を吹きとばして、2022年を中高生としてリアルタイムで生きる少年たちへと届くことを願っています。「レベル50のオマエがレベル99のオレに勝てるとでも?」なんて話、クソつまんねえだろ! もっとみんなで「精神が肉体を凌駕しはじめ」ようぜ! でも、ソメイヨシノだけはないわー、「お嬢様学校に通う霊媒体質で銃火器の扱いに長けた16歳の峰不二子」って、ナイナイ、それだけはないわー、ここだけリアリティ、まったくのゼロだわー。

ゲーム「ディアブロ・イモータル」感想

質問:ディアブロイモータルやらないんですか? 面白いですよ!

回答:アイポンでプレイを始めたものの、グローブのような両手を有する巨漢少女にとってあまりに操作性が劣悪であり、早々にPC版へと切り替えるも、スマホに最適化された低解像度のグラフィックが散見されるばかりか、ゲーム性までもケイタイに最適化イコール簡略化されてしまっており、アクションとしてはかなり大味であると言わざるをえない。ストーリーにしても、あいかわらず2までの固有名詞だけを流用した質の低いアメコミみたいな内容で、エンディングまでひと通りプレイしたあと、すでにディアブロ2Rへと出戻っていることをまず諸君にお伝えしておく。

 私のシリーズ遍歴を紹介するならば、初代ディアブロはなんかエロゲーをやるためのボードがブッささったPC98で、モデムをピーガー鳴らしながらテレホーダイ時間にプレイし、セーブデータがローカル保存なのをいいことにKing’s Sword of HasteやStorm Shieldをdupeで増やしまくってーー該当アイテムを地面に落として、すぐひろうみたいなウル技(テク)ーーいた生粋のBuriza-Doッ子であり、を人類史上最高のゲームとあがめたてまつり、をオークションハウス閉鎖くらいでアホらしくなって離れ、4のトレイラーを見て、「3のシステムでマップ間をシームレスにしただけじゃねえの?」と罵りながらも淡く期待することをやめられない、ディアブロ界隈でよく見かける、きわめて標準的なファンである。

 当シリーズ全体に持っている印象だが、ディアブロ1・2はエヴァ序破、3はエヴァQとだけ言えば、ここ2年ほどnWoを追いかけている君には、もう何の説明を付け加える必要もないほど、完璧に伝わったのではないかと思う。2までの開発陣はとっくの昔に全員Buriza-Doを退社しており、3以降はガワと固有名詞だけを残したベツモノなのである(序破の製作陣をほぼ引き継ぎながらベツモノとなったエヴァQは、さらに罪深い)。3はレベルMAX(60きっかり)「まで」を楽しむゲームなのに対して、2はレベルほぼMAX(94くらい)「から」を楽しむゲームになっていて、エンディングまでを一区切りとするプレイスタイルでは差異を感じにくいかもしれない。しかしながら、レベルMAXに到達してから過ごす時間が、やがて総プレイ時間の99%を占めるようになるハクスラにおいて、この違いは決定的かつ致命的になるのである。

 ディアブロのゲーム性はよくパチンコになぞらえられるが、2がアナログの地味な演出(チューリップぱかぱか)で射幸性の高い昔の遊戯台だとするなら、3はデジタルの派手な演出(CGエフェクトきらきら)で射幸性の低い今の遊戯台だと指摘できるだろう。そして、ご質問のイモータルは3のシステムを引き継いでいるばかりか、さらに最強キャラの育成には15,000,000JPYほどの課金が必要となっており、パチンコはパチンコでもカイジの人食い沼みたいなシロモノであることが、オープンベータの段階ですでに明らかとなっている。「かーっ、2のゲーム性ならそのくらい喜んでポンと払ったのになー、かーっ、2のゲーム性だったらなー」などとのたまいつつ、千五百万円の入ったビニル製サイフの口をビチビチゆわせながら閉じている次第である。なので、PvPを目的としたクランなどには、くれぐれも誘わないように! 人間関係への恐怖感と劣等感から、他人の関心と時間をまずカネで買おうとする類の、愚かな金満家なのでな!