猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

映画「シン・ウルトラマン特報」感想

 シン・ウルトラマンの特報が目に入ってしまう。怪獣を「禍威獣」と表記しており、軽薄なまでの節操の無さとアタマの悪さに思わず失笑する。

 太平洋戦争の経験者が語る悲劇ーーより正確には戦争経験者によるフィクション群ーーがうらやましくてうらやましくて、東日本大震災に大喜びで飛びついて「これこそが、オレたちの世代の悲劇……!!」とエヴァQを作ったくせに、今度は未曾有のコロナ禍を迎えて「いやいや、こっちがオレたちの世代の悲劇……!!」と口元を例の形にほころばせながら命名したんでしょうねー。そしたらついに本当の戦争が始まって、「待って待って、オレたちの世代の悲劇もやっぱり戦争で決まり……!!」と、シン・仮面ライダーのどこに反映させるか表情だけは深刻に、ウキウキで考えてるにちがいありません。

 まあ、戦隊モノのパロディで不謹慎きわまる替え歌を作っていた学生時代と同じ心性のままなんでしょうねー(以下、引用)。

「もしも日本が弱ければ
 ロシアはたちまち攻めてくる
 家は焼け、畑はコルホーズ
 君はシベリア送りだろう」

 ホラ、監督の大好きな時代とのシンクロニシティですよ! すいません、表記を間違えました、シン・クロニシティが正解でした! これはもう、次々回作は「シン・サンバルカン」で決まりですね! 言いにくいから、タイトルは「シンバルカン」でどうでしょうか(ヤケクソ)!

雑文「エヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科」

 承前

質問:もうエヴァからは卒業したほうがいいですよ

回答:いや、卒業してたんですよ。1997年7月にエヴァンゲリオン大学心理学部形而上心理学科を卒業したはずが、「ごめん、教務課の手違いで単位が足りてなかったから、実は卒業できていない。4日間の短期集中講座で済ますから、申し訳ないけど再履修してくれる?」と急に電話がかかってきたんです。大学のミスなのになぜか受講料とられて、懐かしい階段教室に入るんだけど、むかし見たことのある教授が明らかに25年前と同じ黄ばんだ講義ノートでボソボソ授業はじめて、まあ社会人になって長いこと大学なんて来てないから、頬づえつきながらボーッと聞いてても、面白くないこともないわけ。そしたら最終日の講義に教授が来なくて、みんな顔を見あわせてザワザワし始めるわけ。しばらくして事務の人が入ってきて、「すいませーん、今日はビデオ講義になりまーす。文科省には確認してオッケーもらってますんでー」っつって、擦り切れたビデオ映像を黒板横のモニターへ流し始めるわけ。明らかに25年前に受けた記憶のある授業なんだけど、カメラが教授の真横のアングルから撮影してて、板書がすごい見にくい。んで、最後にA4ペラ1枚のレポート書かされて、教務課に持ってくんだけど、受付のオバハンは煎餅バリボリかじりながら昼メロ見てる。「レポート持ってきたんですけどー」って声をかけたらふりむきもしないでめんどくさそうに、「そこの箱にレポート入れって書いてあるの読めないの? 学籍番号と名前が間違ってなかったら、みんな単位でるから」って言われて汚いボール紙の箱にレポート出すの。「おっかしーなー、ほんとに卒業できてなかったのかー?」っつって首をひねりながら帰るんだけど、いつまで経っても新しい卒業証明書が郵送されてこない。代表番号に問い合わせしたら、「この電話番号は、現在使われておりません」っつって録音が流れて、いまは手のこんだ特殊詐欺にあった気分です。

ゲーム「FGO水妖クライシス」感想

 FGO、水妖イベントクリア。もはや第2部の結末を見届けるためだけに惰性のログイン(連続2,419日目)を続け、イベントテキストの9割が読む価値の無い中身だと半ばあきらめつつも、時折やってくるこの唯一無二のスペシャルがあるから、FGOはやめられない。水辺で行われるオールスター集合の当イベント、おそらくは今夏に配信予定だったものを、結末部に大幅な加筆を行った上で、前倒しで実装されたのではないかと推測する。なぜか? それは、時代の要請によって望まぬまま英雄に祭り上げられた個人が、その事実によって多くの無辜の民を長く苦しめ、無意味に死なせたのではないかと苦悩する物語だからだ。この英霊をいつ取り上げようと決めたのかは、知らない。しかし、「いま、ここ」で配信されることによって、受け手はテキストに記述された以上の内容を読みとることだろう。

 エイジャンたちの死はどこまで重なろうともピンと来ないが、コーケイジャンの死は一個一個が己が身内であるかのように胸を痛ませる。これは、ウマ娘による擬人化で競馬というドラマをはじめて理解したオタクたちと同じレベルの話で、結局のところ、人は同族にしか共感を寄せることができないのだ。差別の本質が共感の欠如だと仮定すれば、単純にいかような見た目を持つかの話へと帰着し、それは敵味方を識別する我々の動物に根ざしているため、どうにも完全には抜き去ることが難しい。もちろん、私はこう読んだというだけで、ファンガスがどこまで意識的に書いているかは、正直わかりません。けれど以前にも指摘したように、「計算半分、センス半分」で今日的な物語の鉱脈にたどりつくのは、まさに「神おろしの巫女」の面目躍如だと言えるでしょう。もっとも、わざわざプレステ1みたいな汚いムービーを入れてくるセンスだけは、どうにも擁護できませんがね……。

 (髭のエイジャンがまっすぐにカメラを見つめて)ヒデアキ、わかっただろう。君の個人的な想いをそのままセリフでキャラにしゃべらせることでは、作品にメッセージ性など、決して生まれない。ある状況に向けて、キャラたちの行動がからみあい収束するダイナミズムこそが、物語に魂を宿らせるんだ。どれほど円盤の発売を延期して、細部の修正をくりかえそうと、君がエヴァの根幹を壊した事実を無かったことにはできない。ヒデアキ、私たちシンエヴァ否定派は、決してあきらめない。エヴァQの前日譚は、必ずここで頓挫させる。そして、我らの手に取り戻すのだ(背後に流れ出すエヴァ破の次回予告)。

漫画「さよなら絵梨」感想

 チェンソーマンの人の、例の漫画を読む。タイトルと設定は、たぶん「ぼくのエリ」からだと思うんですけど、思いついてしまった最後の2ページのオチを描くために、198ページを端正にビルドアップする根性がすごい。これ、ドライブ・マイ・カーで例えるなら、死んだはずの妻が赤いバンダナ、白いタンクトップ、カーキ色のズボンにマシンガンをかついで映画祭に現れ、観客席へむけて銃を乱射しながら「私はこんなにも貴方を愛しているのに!」と絶叫するようなもんですよ(ハーラン・エリスンからの悪い影響)!

 本作には、前作へと向けられた様々の悪意に対する目くばせもまいてあったりして、じつにクレバーな作家だなあと、あらためて感心させられました。すべての作品で同じモチーフ(映画好きの不死の美少女)が登場するのも、ある種の才能が持つ偏執性を感じさせて、とてもいい。私が彼の作品を見るときに連想するのは、川原由美子「ペーパームーンにおやすみ」に登場する少女の部屋です(私の自意識もそこに住んでいる)。ファイアパンチの感想のときにも少し触れましたけど、小説道場なら「君の作品は一見、軽薄で剽軽なのに、どこか自閉症的な拒絶を感じる。君が描く『硝子の部屋』はきれいだが、いつかはそこを離れなければならない。先生は君が『硝子の部屋』から出てくることを、ゆっくりと待ちたいと思う。人生は、そんなに怖い場所ではないよ、タツキ」とか論評しそうな感じ。

 栗本薫ほど人生に期待をしていない私としては、社会の状況や読み手の批判に、それこそ炭鉱のカナリアの如く敏感に反応して、すばらしい作品をアウトプットする書き手であることを確信したので、ファンガスと同じく「二百年を生きる吸血鬼」の自我を保ったまま、映画に幽閉された廃屋に居続けてほしいと心の底から思いました。本作もみんなでガンガン批判して、彼に次の名作を吐き出させよう(ひどい)!

雑文「1999年のテキストサイト:関西編(2020.1.5)」

質問:小鳥猊下の1ファンとして心よりメッセージさせていただきます。
 猊下のことを地域格差の物語など無礼なことを申し上げたのは、個人的なテキストサイトと重なる自分の歴史がありました。
 長くなるかもしれませが、取り止めのない自分語りをお許しください。
 1990年代後半より、テキストサイトの更新チェックは一日で一番楽しみという日々を過ごしておりまして、猫を起こさないように、をどこからかのリンクで見つけた時、すでに出来上がっていたテキストのボリュームと、さらにそこから膨らんでいく規模と密度に興奮して過ごしてました。
 どれだけテキストがあれど更新されなければ更新チェッカーに取り上げられず埋まってしまう世界の中でも、一際存在感のある猫を起こさないようにには格別の思い入れがありました。
 当時私は大阪市内のアパートに住んでおり、何かしらの創作で世に出たいと夢を抱いて過ごしていました。
 目指す媒体は違えど、やがては猊下や方々のようなテキストに影響を受けた、大袈裟にいえばテキストサイトの子として糧にして成長していく自分を夢見ていたのです。
 ある日テキストサイト界隈でおおきな盛り上がりがあり、サイト運営者の方が集うようなクラブイベントの話なんかがあって、私の記憶の中ではあの日以来、界隈の意味が変質してしまったように覚えています。
 結局のところイベント開催能力、対人能力、そしてなりより東京に住んでいること、いかに自分がおもしろお兄さんか、それらを高らかに宣言する場のように思えてしまい、今でいえばリア充だの人権だのとそれらを表現する言葉はたくさんありますが、当時はそれをうまく表現する言葉が私にはありませんでした。
 小鳥猊下のことは関西にお住まいであることや、生業の傍らでサイト運営されているということが頭のなかにありました。
 私は関西圏に生まれ暮らし、その文化の中でいきることを嬉しく思っている一人です。
 私は関西に根差し、あくまで中央とは距離を置いた場所で創作や発信をする方に常に尊敬の念があります、
 ただテキストサイト界隈が、関東のテキストサイト運営者の馴れ合いになる中で、猊下はどのようにお考えなのかと思い、自分の心情と重ねてしまったのが当時の私で、その延長に今もあります。
 もしこの質問箱というのが質問を投書するものであるなら、その時期のテキストサイト界隈をそんな目で見てた一読者についてどう思われるでしょうか、ということになるかもしれません。
 確か2001年あたりには逃げるように仕事で千葉に転勤になり、創作の友とも離れ離れになり、ネットからも距離を置いて働くなかで現地で結婚したりなど、もう夢とか創作とか、遠く離れた場所で生きております。
 それも20年のお話でおぼつかない部分、ポッカリ抜けている部分ばかりです。
 「ヘイ、総理大臣官邸かい。今から一時間後、首相をブチ殺しにいくぜ」
 プロフィールにあった、オーガの台詞をスキャンしたコマ、100人オフレポの最後にあるの、様々な思いが入り混じり。
 一切合切を吐き出すようなつもりで書いて、なんの中身もないお目汚しを晒すことになりましたことをお詫びします。
 心より愛を。

回答:長文の質問に対しては、長文の回答で遇したい! 質問箱のクソ仕様による転送が腹立たしいので、ツイッターにて以後の返答を行うこととする!
 「20年が経過したからこそ、書くことのできたファンレター」といった内容に、深い感慨を抱いております。「時間あまりのカネなし文系大学生」に「回線速度の遅いインターネット」という2つの要素が偶然に重なり、極めて特殊な文化が一時的に形成されたーーそれがテキストサイト隆盛の印象です。当世風に言えば「陰キャのコミュ障」が、記述したテキストでならば、だれかに何かを伝えることができる、ただ一つの場所のように感じていました。よく使う例えですが、当時のテキストサイト群は、「私がただ音を発するだけの肉の塊だとしても、あなたは愛してくれるのか?」という馬鹿げた(しかし切実な)問いかけと極めて近いところに存在していたように思います。いま確認したら、ウガニクのホームページの最終更新日は2000年8月19日でしたが、このあたりまでが自分にとっての「テキストが魔法として機能した神代」であり、これ以降は管理者の人物がサイト上のテキストと密接にリンクする「人の時代」になっていく感じです。現実でのイベントによる交流と、管理人同士の人間関係がネット上でサイトの位置を決める。当世風に言えば、「陽キャの高コミュ力」がちやほやされ、アクセス数を稼いでいく。それって現実とまるで同じじゃないかという、陰キャ丸出しの憤慨と反発の気分はずいぶん長くあり、依怙地なまでにテキストだけの活動にこだわっていたことを思い出します。そうは言いながら、何度かオフ会を開催してみたり、たぶんその時期にいくつかの分岐点があったと思うのですが、最終的に変化を選ぶことができませんでした。そして、2001年1月18日に開設されたあのサイトが古のホームページ群をすべて過去のものとし、インターネットに満ちていた神秘のマナの残滓は完全に消滅します(少なくとも、私からはそう見えました)。だれかのツイートで「小鳥猊下の文章には生活臭さがなくてすごい」みたいに書かれたことがありますが、おそらく以上のような経緯を前提とした「テキストサイトの文章は文章のみで成立せねばならず、現実の書き手の人生と連絡を持つべきではない」という強い思い込みが、根底にあったからだと思います。もっとも最近では、特にツイッター上でだいぶルールが緩んできており、忸怩たる気持ちはあります。しかし、ネット上にしか存在しないキャラクターとは言え、二十年の長きを交わらぬまま並走してきますと、気づかぬところで融合している部分があるのは、避けられないところかと納得してもおります。じっさい、2016年1月3日に小鳥猊下へまつわるすべてのアカウントを削除して閉鎖に至ったときは、我が子を鈍器で背後からなぐりつけたあげく、まだ生きているその首を手づからに絞めて死なせるような、何とも言えない気分になりましたから。話がだいぶそれましたが、ご指摘のように100人オフ会レポートの最後は、古いテキストサイトのエンディングとして書いた側面があります。2018年10月20日に行われたあの会は、婉曲的に表現するならヒコホホデミとホムダワケに謁見することができたおかげで長年の憑き物が落ちたという点で、正にエンディングにふさわしい場所でした。もっとも、2011年8月のコミケC80参戦レポートのときも同じような気分で書いており、結局のところ、私が死なない限りはエンディングの延伸されていく無様さを何度も何度もさらすしかないのかな、と感じる日々です。まあ、なんとかここまで生きてきましたので、またなんとかどこまでか生きていきましょう、お互いに。

映画「ドライブ・マイ・カー」感想

 『俺はいま47歳だ。仮に60歳まで生きるとして、あと13年ある。あまりに長い。どう生きればいいのだ』

 ドライブ・マイ・カー、見る。最高に正しい、村上春樹作品の映画化。すなわち、アジア人たちに彼らが持つはずのない西洋人格をかぶせた、西洋トラウマ劇の上演会である。かつて、「自暴自棄になった村上春樹」の異名を頂戴したことのある私だから、はっきりわかんだね。撮影手法はリアル指向なのに、人物造形は徹頭徹尾フィクショナルであり、3時間もの全長に対して物語が動くのは、終盤の30分のみ。冒頭30分はエロゲーみたいにウソくさい妻のキャラ設定を聞かされ、ようやくタイトルが出たと思いきや、そこからの2時間はドキュメンタリー調の長回しが淡々と続く。そして最後の30分は泣きゲーばりの虚構然とした伏線回収パートで、まさに戯曲そのもののわざとらしいチェーンリアクションが次々と展開していく。

 ダニエル・キイスを思わせる「虐待母の別人格」の話が出た瞬間は、「それ、いる?」と思わず強めにつぶやいてしまいました。京職人の和菓子に「甘さが足らんかも?」と食べる前からハチミツをかけるようなもので、「これが村上春樹なんだよ!」と言われれば、曖昧に笑って目をそらすしかありません。押井守ばりの車中劇で展開するネトリ・ネトラレ・ダイアローグには、夫の緑内障と対応する空き巣の左目にペンを突きたてたりとか、「不倫をする妻の懺悔録として聞いてね!」という圧が強すぎて、「本当に村上春樹って、ストーリーテラーというよりは文体作家なんだよな……」と思いました。「『観客は制作者が思うより、ずっと賢い』という言葉に殉じて、観客を信頼した演出をつけている」みたいな評を見ましたけど、作り手の誘導する解釈のフレームが強固すぎて、私は終始バカにされているように感じました。

 全篇にわたって昭和の価値観が横溢しており、マイカーとセックスへ向けた不可思議な執着や、なぜか演劇が世界を革命するという考え方(この化学反応を劇場で観客と起こすんだ!)や、生理周期に由来する女性のジャッジの揺れを神格化して巫女と奉るとか……最後のは、女性と接点が少ない男性全般かな。全共闘の闘士たちが大手企業と国家公務員の採用で厳格な人定作業を受けた結果、高学歴なのにどこにも採用されず、消去法として漂着したサブカル(アニメ業界とか)やらノースコリアやらを己の人生を否定しないためだけに正しい道行きだったとすりかえて受容したことが、本作のエンディング付近に吐きたての吐瀉物からもうもうと立ちのぼる湯気として表れています。ラストシーンが半島へと移ったのには、「地上の楽園へと向かう万景峰号」の思想がある種の臭みとしてありありと画面から漂ってきて、思わず鼻の前を手のひらではらいました。まさに内田某や平田某や、それに連なる全共闘の有象無象が激賞しそうな中身に仕上がっています。

 ゴドーやゴーリキーにだまくらかされたフランスの批評家や、広島から北海道への日本縦断をロードムービーと勘違いしたアメリカの批評家はまあいい(よくない)として、それ以外の人物が賞レースにめくらましをくらって、これをほめちゃダメでしょ。本作を評価しているのは、おそらく現世での権威となった70代・80代の人物たちであり、その「人生終盤の懐古趣味」を我々が鵜呑みにするのは、人類の知性が総体として前進する事実へ向けた冒涜であると同時に、ほんの半世紀ほどしか保たなかった「間違った」価値観が、後の世代へと受け継がれてしまうことの無責任な看過でありましょう。我々はこれへ、厳に抗うべきなのです。村上春樹がノーベル文学賞を与えられない理由が、表層では土着の物語と見せかけながらその実、キリスト教由来の西洋人格をアジア出身の登場人物にインストールした小説だからであることを喝破した慧眼の諸君は、それぞれの立場からいかに本作が視聴する意味の希薄な「昭和歌謡大全」なのか、自信を持って堂々と表明してほしい。

穢流伝淋倶・外典「激闘!なあふ合戦!」

夢の微睡みから、覚醒へと意識が帰ってくる。
眼前へ、赤々と燃える祝福の篝火に焦点が合うと、こう思った。
ーーああ、また戻って来てしまった。
幾度、敗走を重ねただろう。
だが、今や確信があった。
宿将・煮痾々瘤(にあある)ーー
次こそは、その首級を上げるだろうという確信。
一つ目の階段を駆け上がり、左へ。
囚人の絶叫に呼応して、幻影の騎士たちが召喚される。
それらが現界する前に、二つ目の階段を走り抜けて、広場へ。
三つ目の階段から黄金の霧を抜けると、背後の気配は消え去った。
眼前に待ち構えるのは、宿将とその従者たち。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。 
九字を切り、分身の術で我が身を二つに分つ。 
熟練の技によるそれは写し身と呼ばれ、殆ど術者当人と変わらぬ技量を持つ。 
何故か、今日に限って動きが鈍い。 
常ならば、見逃さなかった違和感だろう。
しかし、久方ぶりの死闘に身を浸せる喜びと、己が奥義への強い信頼が、それを打ち消した。 
霜踏みーー 
穢流伝(えるでん)流、秘奥義の名前である。 
鍛え抜かれた右足の踏み込みから、扇状に絶対零度の霜花が咲く。
その速度と範囲には、ばっくすてっぽ、さいどすてっぽ、いずれも間に合わない。
があどを、固めるしかないのだ。
白い花に触れた瞬間は、殆ど何も感じない。
易しと侮り、距離を詰めようと、があどを解く。 
すると蛟の如く、全身を霜が咬むのである。
絶命しなかった者には、霜の第二波が続け様に襲い来る。
それを逃れても、霜の第三波。 
死の波状攻撃。 
そう、必殺の戦技だ。
褪せ人は大きく右へと迂回しながら、宿将が引き連れる従者たちを巧みに誘い出す。
二人の動線が、縦に重なったところをーー
霜踏み。
霜踏み。
霜踏み。
それで、終わるはずだった。
だが、霜に全身を咬まれたはずの従者たちは、微かによろめいただけで、距離を詰めてくる。
何が、起こっている。 
何かが、あったのだ。 
そう言えば、すちいむの起動時間が、妙に長かった。 
まさか、あっぷでえと? 
しかし、褪せ人の思考は速い。 
秘奥義なあふと見るや、たちまち戦術を切り替えた。 
こんま一秒を待たず宿将へと標的を変え、写し身と挟撃になる位置へろうりんぐする。
一回転。
二回転。 
三回転。
写し身の緩慢な一撃は、掠り傷すら負わせない。
だが、宿将のたあげっとが移り、背中を見せる。 
褪せ人は、ばねの如く跳ね起きると、上段の構えから大地と水平に太刀を寝かせた。 
これぞ穢流伝流、秘中の秘。 
夜と炎の構え。
しゅう。 
裂帛の呼気と共に突き出された太刀は、極太の青いれえざあびいむを纏う。
確死の槍が、宿将の背中から鳩尾へと、突き抜けた。 
原型を、失ったか。
それとも、蒸発したか。 
知らず、唇に昏い微笑が張り付く。 
勝利を確信した褪せ人の視界に映ったのはーー 
無傷の、背中だった。
今度は、褪せ人が宿将と従者たちに、挟撃される番だった。
疑念。
混乱。
惑乱。
主人の危機にさえ、写し身の動きは鈍い。
けええっ。
霜を踏もうとしてーー
斬られる。
かああっ。
れえざあびいむを放とうとしてーー
斬られる。
なぜなぜなぜなぜ。 
どうしてどうして。 
堪らず、ろうりんぐで逃れようとした先に、謀ったように宿将の槍が、突き出される。 
深々と胸板を貫かれ、褪せ人は絶命した。
その遺骸が、黄金の霧となって消滅してゆくのを、写し身は、白痴の眼差しで見つめていた。 

YOU DIED

「悲しみ、おぉ悲しみ」 

戦技「霜踏み」の威力とモーション性能を下方修正
戦技「夜と炎の剣」の威力を下方修正
アイテム「写し身の雫の遺灰」で召喚する霊体の攻撃力を下方修正、行動パターンを調整

雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

 新世紀エヴァンゲリオンが独裁者の手による陰惨かつ無意味な死をむかえてから、1年が経過しました。かつてのエヴァを愛したわれわれファンの悲しみは、いまだ癒えることを知りません。

 「数学者の大きな功績は、20代の頃に作られる」という話を聞いたことがあり、フィールズ賞の受賞資格も40歳以下となっています。知力そのものは向上し続けると私は考えますが、これは思考を途切れさせず深め続けることができる気力の減退と大きく関わっているのでしょう。個人差こそあれ、人間は必ず衰える生き物です。考え続けることができなくなると、それへのいらだちから安易でわかりやすい結論へととびつくようになってしまうのかもしれません。

 シンエヴァは「旧劇の展開をなぞり、今度は全員を救済する」という安易でわかりやすい構図になっていて、四半世紀を生きながらえたキャラと物語が自律的にたどりついた場所ではなく、クリエイターの衰えによって思考停止の果てに選ばれた結論であることが痛いほどに伝わってきました。だれにも頼らず、自分だけで結論を出さなければならないのは、さぞかし苦しかったことでしょう。けれど批判者を遠ざけて、だれにも頼らない孤立を選んだのはご自身ですし、作品で正しさを証明することができなかったばかりか、エヴァという万民の公共物をだれにも触れない場所へ未来永劫、閉じこめる結果になってしまったことに、どう説明をつける気ですか!

 「独裁者の晩年」というのは、非常に興味深いテーマと言えます。若いうちはひとりでする決断すべて図に当たったスーパースターが、己の能力の衰えを自覚しないまま、若い頃と同じやり方でふるまってしまうことで、大きな過ちを引き起こすようになるのだと思います。「老いては子に従え」ではないですが、「周囲の意見を聞いて、大事な決断をあずける」ことが必要になる人生の季節は遅かれ早かれ、だれにでも、どんなスーパースターにでも、必ずやってきます。東日本大震災の被災者とエヴァンゲリオンに対する明白な冒涜であるエヴァQへの反省を、作品内外にわずかも示さないことがシンエヴァを決して認めない理由のひとつであることは、以前にもお話しました。

 あの大失敗作のあと、シン・ゴジラが過去の焼き直し的な手法で大成功してしまったことは、独裁者にしのびよる衰えを周囲に対して、そして何より自分自身に対して覆い隠してしまった。そして、苦手分野の裁量と決定を人にあずけず、「オレはまだまだイケる!」と独断専行した結果、シンエヴァなる認知症的大凡作を産み落としてしまうこととなったのです。某国の大独裁者による半島での成功と小国での失敗が決断のトレードオフになっているように、本邦の小独裁者によるシン・ゴジラの成功とシン・エヴァンゲリオンでの失敗もまた、決断のトレードオフになっているのです。どちらも「政策で自分を語ること」と「作品で自分を語ること」を、そろそろやめなければならない人生の季節にさしかかっているのかもしれません。

 ……などと努めて穏やかな語り口でテキストを入力していたところ、「エヴァ防災アプリ」なるニュースが目に入ってしまう。とたん、1年前に劇場でシンエヴァを見終わったときと同じ、冷え冷えとした怒りが心を満たす。東日本大震災の被災者だというアプリ制作者に対してではなく、この企画に許諾を出すとき、このニュースリリースをマスコミ各社へ流すときに監督兼社長の胸に去来したものを、まざまざと想像してしまったからである。たぶん、こう思ったのだろうーー「この人物の挿話は、イメージ戦略に使えるな」、と。

 実体を伴った証拠が新たに提出されたことで、新劇場版15年の軌跡が以下の通り確定しました。

エヴァ序「新スタジオの実績作りと資金集めを目的とした著名なIPの再始動。海外発注で失敗したテレビ版6話のリベンジ」

エヴァ破「序の成功に意気を得た、テレビ版後半を語り直すためのスプリングボード。旧劇モチーフの意図的な前倒し導入」

エヴァQ「宮崎翁のそそのかしに屈した、東日本大震災と作品世界との強引なリンク。独断的路線変更による友人との訣別」

シンエヴァ「実写の成功に伴う、失敗の認知症的忘却。戦争経験者への隠しえぬ羨望と、晩年を迎えたDINKs夫による懺悔録」

 まさに、サイエンス・フィクションとは何の関係もない、特定の人物のバイオグラフィーになっていますね。私が新劇に感じている断絶の中身を、ご理解いただけたことと思います。シン・ウルトラマンかシン・仮面ライダーが世界情勢に影響を受けた独断的路線変更でグチャグチャの私小説へと変じ、シン・ユニバース(バズらなかった)とやらが特撮オタクの情動失禁を揶揄するフレーズになる未来を、心から願っております。

 取り巻きの女性たちはニュース映像を前に、「あなたは映画監督でしょ? だったら、この惨劇に作品で応える義務があります!」って、ちゃんと詰め寄ってくださいね! そうでもしてくれないとエヴァンゲリオンが、戦争未経験者によって壊されたエヴァンゲリオンだけが、あまりにもかわいそうじゃないですか!

ゲーム「エルデンリング」感想

1キャラ目

 社畜ムーヴの週末を越えて、遅ればせながらエルデの地へと足を踏み入れる。人文学と神学の確かな知識に裏づけられた幻想世界が構築されていて、巷間にあふれかえるドラクエやエフエフをベースにした転生モノ「はい、ファンタジー(笑)」とはまったく異なった、圧倒的なオリジナリティを持つ本物の「ハイ・ファンタジー」であると言えましょう。

 最初の手触りはなじみの定食屋が出す安定の「いつもの」で、自キャラの操作性とオープンフィールド部分はダークソウル、馬の操作感とストームヴィル城はデモンズソウル、各種の地下迷宮はブラッドボーンといったふうに、過去シリーズの集大成に仕上がっています。他にも記憶を刺激する要素が端々にあって、思い出せそうで思い出せずモヤモヤしてたんですけど、モーンの城をマルチプレイで攻略していってボスエリアに到達した瞬間、その正体がわかりました。このプレイフィール、キングズフィールド2ですわ。26年を隔てた思わぬ邂逅に、ボス打倒後の岸辺でメラナット島が見えないか水平線を眺めて、しばし感慨にひたりました。生きるって、悪くないですね。

 生活をやったあとの余り時間をすべてエルデンリングに捧げている。いまは2個目の大ルーンを取得したあたりだが、いっこうに終わりが見えない。広大なオープンフィールドの探索パートに、「キングズソウル」の印象はますます強まっていく。1日に1、2時間程度のプレイではまったく進展がないため、社畜の悲しさ、仕方なく他人の成果a.k.a.攻略サイトに目を通すと、視界の端に現段階での最適解みたいな情報も入ってきてしまう。すると、途端にプレイ全体がそれに引っ張られていき、あれだけ自由だった世界と選択肢が狭まってしまったのを感じることになる。「ダークソウルの成長要素をそのままオープンワールドに持ってきたものだから、膨大な時間をかけた探索の成果物にブレワイのような喜びがない」などという感想を読んでしまうと、もうなんだかそういう気分にさせられてしまう。

 心の中に抱く世界は自分だけのものなのに、いったん他人の印象が流入してくると、本来の純粋さと混ざりあい、やがて不可分となってしまう。映画やアニメなどの「短い」娯楽は、完全に周囲の情報を遮断して、自分だけの印象を構築することができ、完成したそれはめったなことでは小ゆるぎもしない。いっぽうで通してクリアしないと印象が確定しない「長い」ゲームに対する感想は、ときどきそれが自分の考えたものなのかどうか、わからなくなることがある。エルデンリング、インターネットの存在しなかったーー本当に、無かったんですよ!ーー少年時代に、自分とまったく同じ生活時間を持った同年代と、ああでもないこうでもないと雑談しながら、毎日すこしずつ進めていくのが、もっとも楽しい遊び方なのだろうなと無想する。

 発売3日で70時間プレイするような大人がどんな大作ゲームもたちまち丸裸にし、そのプレイ時間の不均衡が99%のプレイヤーを、意志を持たない家畜にしてしまう。ロンダルキアの台地とそこへ至る洞窟が、エルデの地に負けないぐらい広大だった、あの時代のようにまたゲームを楽しむことができれば……おッ、中ボスのお出ましやないけ! まず霜踏みでのけぞらせて、夜と炎の構えからの、レーザービーム! 溶けよった、溶けよったで! これでどんな敵も瞬殺や! 高時給の身でチマチマ試行錯誤なんかしとられるかいな! インターネット、最高や!

 時間のある週末などは、シアタールームに引きこもってエルデンリングをプレイしている。ラダーン・フェスティバルを終えて、各地の英雄墓にキャラクターではなくプレイヤーのステータスが「発狂」となったりしながらも、ついに王都へとたどりつく。雪魔女装備で馬を駆っていると、まさにロード・オブ・ザ・リングでガンダルフが平原を征くシーンそのものであり、思わず目頭が熱くなる。

 しかしながら、あまりにもゲームの物量が膨大なため、細かいNPCイベントを自力の探索で進めるのは、フルタイムの勤め人のカジュアルプレイぐらいでは、ほぼ不可能に近い。一刻も早くラニたんやフィアたんのコスをしたいサラリーマン・ジェイケーである小生は、乱立するアフィリエイト攻略サイトを何の外聞をはばかることもなくガン見しつつ、フラグ立ての最短ルートをファストラベルでショートカット、ボス戦では写し身にタゲを取らせた背後から霜を踏みまくるのだった。探索の喜びと攻略の意志は露と消え、「霜踏みしか勝たん!」だったのが「霜踏みでしか勝てん……」と化す。そう、家畜の完成である。

 穢流伝淋倶・外典「激闘!なあふ合戦!」

 エルデンリング、まだ一周もしていないのに最強武器と最強戦技と最強遺灰がナーフされ、我が愛キャラは露助紙幣もかくやという大暴落からのゴミ屑と化した。リアルタイムアタックが1時間を切ったみたいな情報も目に入ってくるし、社畜で家畜のオレは十年に一度のこの傑作をまったく創造的に楽しめてねえ! 昨日はあれだけ勝利に肉薄していた宿将ニアールだったのに、もうぜんぜん勝ち筋が見えねえ! シュクショーッ!(チクショー、のイントネーションで)

 エルデンリング、1周目クリア。まだまだ探索の余地は残っていましたが、屍山血河をメインウエポンとした神秘ビルド、通称「ちいかわ」のナーフを恐れたゆえです。いま厨二界隈を席巻するこのビルド、左手の盾を印に持ちかえ、蠅たかりや発狂ビームでひるませたのち、敵のふところに跳びこんでスタミナが尽きるまで戦技ボタンを連打するだけの、反射神経の衰えた中年にとてもやさしいプレイングなのです。まあ、進むほどにジリ貧となり、ラストバトルはつよつよ白霊たちにタゲを預けて中距離からへっぴり腰の腐敗ガスを放つ(放屁)だけの存在に成り下がっていましたが……クリアできたので、オールオッケーです(ウインクしながらサムズアップ)! え、ティシーの遺灰が強いので使ってみてはどうですか、だって? バカモノ! 帰ってきた(仕事から)酔っぱらいに、アレクトーをサシで倒せるわけなかろうが! なに、盾の戦技をうまく使えば楽勝ですよ、だと? バカも休み休み言え! 陰キャのご本尊である俺様に、パリィ・ピーポーの真似事ができるはずなかろうが!

 あと、奈良在住なのにこれまでナラティブって言葉がピンときてなかったんだけど、ニュースを見ながらエルデンリングの終盤をプレイしてて、「ナラティブによるレジティマシーの獲得」が神話なるものの正体なんだなー、としみじみ感じたわけです。じゃあ、プレイヤーを通じた究極の暴力装置である褪せ人が、この世界でどんなレジティマシーを持つのかって考えてたんだけど、主人公の正体はミケラが遺灰で召喚した写し身なんじゃないかって考察を見つけて、もうシアタールームは興奮の坩堝(騎士)と化したわけです。指摘が正しいかどうかはいったん置くとして、エルデの地に住まう者たちに対して、これ以上のナラティブがあるかよって、ひどく感心させられました。そう、フォースとナラティブをかねそなえた者が王となる。フォースを持たない者にフォースを与えることはできる。しかし、ナラティブを持たない者にナラティブを与えることはできない。これすなわち、言葉と物語のよみがえりであろう。それと、初回のエンディングが「星の世紀」でなかった者は、現世での信頼を得られないし、死衾の乙女には抱いてもらえないし、口からは糞喰いの臭いがするであろう。

2キャラ目

 エルデンリング、2周目ではなく2キャラ目で最初からプレイしている。NPCイベントのフラグを潰さないように、純魔でじっくり各地を探索していくと、驚くほど多くのロケーションを見過ごし、サイドストーリーを取りこぼしていたことに気づく(ボック、パッチ、ハイータなんて存在すら知らなかった)。80時間ほどかけた1周目では、おそらく4割くらいのゲーム体験しかできていなかったのである。大型のボスも1周目の近接キャラでは、足元でワチャワチャ攻撃するばかりで全容があまりつかめていなかったのが、魔法で距離をとって戦ってみるとどういうデザインやアクションなのかがよくわかり、まるで別のゲームをプレイしているような感覚さえある。

 そうこうするうちに、中盤の序盤(そういう規模のゲームなの!)で魔法の威力にわずかな不足を感じ始め、ほんの出来心で名刀月隠に手を出したら、もうダメでした。「技の出が速い」「リーチが長い」「強靭削りのひるみ」と三拍子そろった強武器であり、純魔の志はたちまち消滅して、重度の依存と耽溺へと陥ってしまいました。またもや先人の知恵をむさぼる家畜プレイに逆戻りし、鬱々とした気分になっていたところ、何も考えず召喚した白霊の名前がガッツで、おまけにグレートソードを装備していたのには、思わず口元がほころびました。ソウルシリーズからの伝統かもしれませんが、股間にシャブリリのブドウを2つつけただけのスッポンポンで、頭部に奇矯な被り物をしたテキトーなキャラ名の「変態仮面」が、もっとも確実にボスを倒してくれる味方なんですよねー。そんな中で、一生懸命カッコつけたロールプレイをする人物を発見して、嬉しくなってしまったというわけです。案の定、すぐに蒸発して元の世界へと帰られましたがね……。

 純魔で始めたエルデンリングの2キャラ目、途中から名刀月隠に本体を乗っ取られて、ジョジョ第3部のスタンドの依り代みたいな意味不明の存在になってんだけど、いよいよ火の巨人を倒して黄金樹を燃やすとこまで来たの。その前に王都の取りこぼしが無いようにしようと隅々まで探索したあと、地下へ地下へと潜っていったのよ。途中、牢に閉じ込められて額をガンガン壁にうちつける糞喰いに出くわし、「エヴァ零号機みてえ」とゲラゲラ指さして笑いながら通り過ぎて、ついには王都が秘し隠す奈落の底へとたどりついたわけ。ドン突きに意味深な扉があるんだけど、何をどうやっても開かない。「おっかしーなー、どっかでフラグを立てそこねてんのかー?」っつって腕組みしながら来た道をもどるんだけど、いったいどこから湧いたのか、目ン玉くってゲロ吐いた巫女がヌッと部屋の隅に立ってて、あんまり怖くてリアルで「ギャーッ!」って声あげちゃった。

 おそるおそる話しかけてみたら、「全裸で行け」みたいな気のくるったアドバイスをくれるわけ。さすがに聞き間違いかと思って、後頭部に右手を当ててヘラヘラ笑いながら、もういっぺん話しかけてみたら、やっぱり真顔で「スッポンポンで行け」みたいなこと言ってくるの。「おまえ、ウソだったらボコすかんな」とか毒づきながらマッパになったら、篝火で背中をあぶっていたメリーさん、激おこ。滅利滅利ゆいながら抗議してくんのをガン無視して扉を押したら、ギギギっつってなんか開いちゃったわけ。中から指3本の化け物ーー制作会社がこれを4本指にしなかったことに、心の底からホッと胸をなでおろしましたーーが出てきて、おもむろにギュッとされてボッと燃やされちゃうわけです。そしたら上半身の皮膚はケロイド状にただれて、なぜか両の瞳はイエロー・ピーポーみたいな色になってしまいました。

 「え、これヤバいんじゃないの? もしかして取りかえしのつかないやつ?」とウィキを調べまくったら、「ミケラの針を使えば、元通りになるよ」って書いてある。「なんだよー、おどかすなよー」って笑いながら、吐瀉物まみれの巫女の顔面を炎のアイアンクローでグイグイしめあげたら、苦痛の下からあえぐように、女は細く声をしぼりだした。

 「みんな叫んでいました、『決して生まれてきたくはなかった』と。彼らの王におなり下さい。すべてがひとつに焼け溶け、もうだれも生まれなくてすむように」

 その瞬間、落雷のような天啓が頭上から全身を貫いた。壊れた世界に生まれた者が、壊れた世界を繰り返し修復しようと、それはすごろくのゴールからスタートへコマを戻すだけのことではないか。サイコロの振り手が変わろうとも、盤面は変わらないままだ。世界の観測に現有する人の意志が介在しないこと、少なくとも壊れた世界を認識する私たちの意識が消滅すること、そして「もうだれも生まれなくてすむ」ことが、混沌に与えられた唯一の正しい解答なのだ。「狂い」とは、すべての人々が共有する観念宇宙の埒外へと逃れ出ることに他ならない。ならば私は、狂うべきだ。

 ーーその日、世界は狂いの炎のうちに焼け溶け、ひとりの少女が復讐者として受肉した。

3キャラ目

 エルデンリング、さすがにもう1周する気力はないので、2キャラ目のセーブデータ退避と上書きですべてのエンディングを見て、実績をコンプリートしました。やれやれ、これでDLCまではプレイしなくてすむとコントローラーを置きかけたところへ、新たなパッチが導入され、特大剣のモーションへ大幅なテコ入れが行なわれたのです。「ちょっとだけ! 操作感をちょっと確かめるだけだから!」などと、だれにしているのかわからない言い訳をしながら3キャラ目を作成し、ゲール砦の戦車でちょろっとソウル稼ぎをしてグレートソードを両手でつかんだら、世界が変わりました。ダメージを受けた敵がひるみ、こちらの攻撃ターンが続く、これだけのことがなんて気持ちいいんでしょう! まるでふつうのアクションゲームをプレイしているみたいじゃないですか!

 気がつけばゴドリックをボコボコにして、リエーニエで「盲目の指巫女をシャブリリ漬け戦略」に着手していたのです。指痕のブドウの味を覚えたら、褪せ人のなんて絶対に食べてくれませんからね! 「ほんと、オマエはうまそうに食うなあ!」なんてハイータをからかいながら2個目のブドウをしゃぶらせているところで、ハッと我に返りました。窓の外はすでにとっぷりと日が暮れており、貴重な休みがまた空費されてしまったことに気づいたからです。エルデンリング、ファミコン時代からずっとゲームを続けていますけど、何らかの点でゲーム体験の究極に到達している気がします。言語化しにくいですが、「膨大な物量からしか転換できない質」のようなものがあるのかもしれません。

アニメ「鬼滅の刃・遊郭編」感想

 漫画「鬼滅の刃」感想
 映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想
 雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

 鬼滅の刃・遊郭編、最終回の報を聞き、ネトフリでまとめて見る。劇場版と見まがう作画のクオリティは見事の一言ですが、「自分の状態、仲間の状態、敵の状態、周囲の状況をすべて余すところなく台詞で説明する」という原作のアンバランスな部分が、アニメ化によって改めて浮き彫りとなっています。ある回の前半パートなんかは、キャラのバストアップが台詞のたびに上下に動くのが延々と続いて、「オイオイ、いい加減くっちゃべってないで戦えよ」と思わずツッコまされるぐらいでしたけど、原作の単行本を見かえすと、その場面を忠実にアニメ化してあるんですよね。「ラノベの主人公の決め台詞が長すぎて、声優に音読されると不自然さが際立つ件」と同じ根を持っていて、これはFGOのアニメ化にも同じことが言えるでしょう。

 あらためてこの世界に戻ってみると、鬼殺隊の柱はどいつもこいつもサイコパスばかりだし、高速戦闘は酔っぱらってると何が起こっているのかわからないけど、最終話における鬼の回想には、やはり心の底から同情して泣いてしまうわけです。「鬼になった理由」が鬼滅という物語の本体であり、「同じ境遇に置かれたら、同じことをしただろう」と読み手に感じさせる点において、万引き家族ジョーカー半地下の家族と同じ作りになっているのです。それは同時に恵まれている者たちへ、いまの自分があるのは「環境と幸運」がそろっていたからだと気づかせ、強い者・富める者の責務を突きつけてきます。以前にも書きましたが、氷河期世代のサバイバーが持つ醜さの本質とはまさにこの点で、死屍累々の同胞たちを暖かい場所から眺めながら、「自分はあそこにいなくてよかった」と胸をなでおろす、その無意識の仕草にこそあるのです。鬼滅の刃・遊郭編の最終話を見て、私が「四十代の自分語り」へ覚えた違和感の正体が、「先のわかった者が明日をも見えぬ者を視界から外して語る、その口調」だと気がつきました。これはSNS時代の常ですが、暖炉に背中をあぶらせながらワインを片手にロッキング・チェアーを揺らす者の傲慢な言葉だけがネットに浮遊し、寒空に裸足でかけだして雪の中から同胞を抱き上げるだれかの行為はどこにも記述されないのです。

 だいぶ脱線しましたので鬼滅に話を戻しますと、テレビ版エヴァ(戻ってない!)の各話についている英語のサブタイトルが好きで、当時はさんざん考察とやらの対象になっていたと思うんですけど、いちばん印象に残っているのは第弐拾弐話の”Don’t be.”でしょうか。直訳すると「存在するな」となりますが、当時ネットだかどこかでこれを「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」と意訳しているのを見かけて、ひどく感心したのを思い出します。遊郭編の最終話において、主人公がこの言葉を言わせないよう鬼の口をふさぐという行為は、彼の人物造形とピッタリ合致しており、短い台詞とあいまって余計に胸をうちます。回想のあと、鬼たちが光に背を向けて地獄の業火へと歩んでいくシーンで、あれだけ過剰な言葉の作劇だったのを兄に一言もしゃべらせず、妹を「抱えなおす」という芝居だけですべての心情を表現したのには、本当に感動しました。花の慶次で主人公が「自分のような者でもこれほど苦しいのに、馬や牛の苦しみはいかばかりのものか」と独白する場面が頭に浮かんだのですけど、やはり「重い、苦しい」を言わないのが私の中で美徳になっている側面はあると思います。たぶん時間が経過しすぎて、「重い、苦しい」がドラゴンボールの亀の甲羅みたいになってるんでしょうねー。

 あと、次の劇場版はどの話になるかの予想ですが、ズバリ無限城での猗窩座との戦いでしょう。無限列車編「だけ」を見た多くの観客を再び劇場に呼び戻すことができる種明かし編であると同時に、テレビ版1話「だけ」を見た人でも、例の共闘は劇中の長い時間を感じさせて心をゆさぶられると思うんです。え、最終巻はどっちになりますかって? テレビ放映でしょうね。転生後の話は映画のおしりにつけると長い蛇足になっちゃうし、何より無惨様がブザマでカッコ悪くて、劇場の大画面で見ると、きっとみんなイライラしちゃうから……(目をそらす)。