猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

アニメ「艦これ第2期」感想(3話まで)

 艦これアニメ、第2期?の3話まで見る。2話以降、無視と称賛しかないタイムラインに、まったく感想が流れてこなくなった理由がわかりました。うーん、どうして毎回こうなっちゃうんでしょうねえ。最大限に譲歩したとして、10年近く提督をやってきた戦史研究家なみに太平洋戦争にくわしい人物が、1ページあたり3行しか書かれていないラノベの行間をスーパー早口のウンチクで埋めないと楽しめない感じが、全体にただよっています。前シリーズの1話に「クロモソームの少ない学芸会における気のくるった出しもの」みたいな書き方をしましたけど、本作での真っ暗な背景でキモいクリーチャー相手に美少女の上半身だけが動きまくる戦闘シーンは、「車椅子バスケの幕間で行われる残念なパラパラダンス」にしか見えません。9年目の古強者プレイヤーとして、何の素養もない一般人がこれを目にしたときの感想を想像するだけで、悶絶しそうになります。

 艦これのプロデューサーが自分の考えに固執するという意味で、ファンガスばりの超弩級おたくであることは有名ですが、初期の炎上に懲りたのか最近ではめったに表舞台へ姿を見せなくなりました。しかしながらその影響は消えるどころか、本作にも彼のブランド(焼印)からたちのぼる臭気がむせかえらんばかりに横溢しているのです。みずから構成と脚本までを手がけて、イベント海域の難易度調整のようにグリップをきかせているこの第2期?は、教室で自作のイラストノートをクラスメイトに取りあげられ、「へー、おまえこういうのが好きなんだー」と辱められるときの記憶、泣き笑いの表情で絶句するような感覚に満ちあふれています。だからさあ、ちゃんとプロの脚本家を雇えよ! なんでただの軍艦好きのアマにプロと同じことができると思ってんだよ! 出ッ歯を水平方向に突き出しながら、「ラノベやアニメの脚本ぐらい、だれにでも書けると思いましてー」じゃねえんだよ! ストーリーテリングは言語運用能力とは無関係の、ことほぐべき「異能」なんだよ! 幼少期のアガサ・クリスティの逸話を読んでこいよ! 小鳥猊下の挫折を20年も追いかけてきて、そんなこともわからねえのかよ!

 ……すいません、年甲斐もなく少し興奮してしまいました。あと、オープニングの曲も大作映画のエンディングがごとき壮大さで、例のプロデューサーの作詞らしいんですけど、あのさあ、なんでプロの(以下略)! ……非常にバランスが悪く、これを冒頭に配して毎回を聞かせる自己陶酔の雰囲気に、失敗の原因がまざまざと表れていると思いました。おたくが忌避されてきた理由の最たるものが客観性の欠如、いわゆる「空気の読めなさ」であることを、あらためて他者のふるまいから自覚させられています。何年もこんなゲームをプレイし続けているのが、とても恥ずかしいです。

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」感想(8話まで)

 諸君ら陰キャのコミュ障がモーレツにおススメしてくる「ぼっち・ざ・ろっく!」を7話まで見る。前に指摘した「ほとんどの人間が知恵と才覚を持っているが、胆力の無さに出力の上限をはばまれて成功できない」を地で行っており、「けいおん!」の令和ネガ・バージョンといった感じでとても楽しめました。ただこれって、中年男性の趣味を女子高生にやらせる作品群のバリエーションでもありますね。主人公のぼっちっぷりが、完全に男性のそれ。女性の人間関係からイヤな部分を脱臭して、そのグループに女子高生へと扮したコミュ障男性を配置することで、現実でなら少しも笑えない状況をコミカルなグルーヴへと昇華させているのです。最終話に向けて、主人公の成長譚に寄せすぎると陰キャ男性から向けられる「等身大の自分」への共感が消滅してしまうような気がしますが、彼らは地下アイドル時代から応援していたプッシー(推し、の意)のメジャーデビューへと視点を移動させて、それを回避するんでしょうか。

 ただ、この物語を成立させている「必然性のある偶然」には、壊れたインターネットという実家の押し入れで20年以上をテキスト垂れ流しのbot-i(ぼっち)ちゃんとして存在する身としては、強くあこがれてしまいます。万単位のフォロワーを持つ美少女が私のテキストを見初めて「bot-iちゃん、すごーい!」とキラキラしたリツイートで拡散してくれたり、現世のパブリッシングの権威である妖艶な美女に「このテキスト力、まるで小鳥げ……いや、まさかね」などと気づかれたりしたいなあなどと妄想しながら、押し入れから過去テキストをエス・エヌ・エスに放流する日々を送っています(壁面にピン止めされた故人を含む集合写真をながめながら)。

 ぜんぜん話は変わるけど、パイモンってポートピア連続殺人事件におけるヤスのポジションな気がするなー。

 「ぼっち・ざ・ろっく!」の第8話を見る。わかる。世界は、前傾姿勢で目の届く手元にしかない。

雑文「SUZUMARI IMPACT」

 原神、伝説任務で民衆にむけたナヒーダの演説を聞く。ゲーム内のできごとを語っているようでありながら、「寝そべり族」や「Z 世代」へのメッセージとも取れるのは、あいかわらずうまい。クラクサナリデビ様には、私の人生も統治してほしい。なに、早々にゼットを使ってしまって、次の世代はどうするんですかね、ダブルゼータ世代ですかね、だと? バカモノ! このガンダム世代めが! 次の世代が出現するのを待たず寿命を迎える金満の老人が、自分たちが楽しめる最後の若者の貧困に名付けたネーミングだということがわからんのか! 「ボクたちZ世代!」などと、高層ビルの鉄骨渡りの馬主からつけられたゼッケンを嬉々として見せびらかしとらんと、もっと真剣に侮辱されている事実へ激怒せんか! 貴様らの起こす暴動蜂起は、かつての学生運動よりはよっぽど正当性を担保されたものになるわ!

 あと、昨日アップしたnote記事に、東日本大震災で津波被害を受けた高校の公式アカウントから、ひっそりと「スキ」がつけられているのに気づきました。その静かな怒りを重く受け止めるとともに、あらためて関係者のご冥福をお祈りします。マコト、エヴァを偏愛するあまり、その臭気はなつ負の部分までをコピーしてのけたのは、ファンとして見事という他はない。ただ、作ってしまったフィクションの言い訳に奔走するのはもうやめて、観客の受け止め方をコントロールしようとするのはもうやめて、あとは作品のみに語らせるべきじゃないか。それこそが、クリエイターの「覚悟」ってもんだろう。

映画「すずめの戸締まり」感想

 すずめの戸締まり、愛最大(アイマックス)で見てきた。nWoからおずおずと提案させていただいた持続可能な創作目標であるところの「地方行政と結託したご当地巡り」を素直に受け入れた九州を舞台とするオープニングから、四国・神戸・東京を順に旅していくロードムービー感がたいへんにすばらしく、何より女子高生からスナックのママまで女性の描き方があらゆる年齢層で過去最高に気持ち悪くない。おそらくよくできた奥さんと、たぶん中高生になった娘さんと日々むきあう中で、彼の中にあった「おたく特有の女性に対する偏見」が希釈されていった結果なのでしょうね。カタカタ椅子の走り回る奇想天外な序盤も、奥さんが娘さんに読み聞かせた「ふたりのイーダ」なんかが着想の原点なのかな、などと微笑ましい気持ちで眺めていました。じっさい、物語の中盤までは「新海誠の集大成にして最高傑作!」というタガの外れた宣伝文句に同調していく気分さえあったのですから。それを、民俗学をフレーバーとした類似ケースの匂わせに止めておけばいいものを、突如「ボクは覚悟を決めました!」と絶叫するやいなや、懐メロをバックにフルスロットルで不可触ゾーンへと特攻していったのです。これには、前半の好印象がすべて蒸発・気化するレベルで吃驚仰天しました。東京が水没していないことからもわかるように、本作は意図というより結果として「君の名は」「天気の子」と舞台やキャラを継続させた「東京3部作」ではなく、テーマだけを引きついだ「震災3部作」の完結編であることがここで明らかとなります。

 新海誠が公には言えないほど重度の「異常福音戦士偏愛者」であることは「ほしのこえ」の昔から有名な話で、本作もミミズ消滅の演出など、映像的にはエヴァ序破ーーと、たぶんシン・ゴジラーーの強い影響下にあります。しかし、それは表層だけの話であり、根深いのは空虚な駄作にすぎないエヴァQから、真剣に意図を読み解こうとする過程で被った思想的な侵蝕です。彼はエヴァリブート第3作目が無惨にも大失敗した理由を真摯に考え続け、同作が東日本大震災との関連を明示しなかったために「依拠する現実を失った荒唐無稽な作りごと」へ堕したのだという結論に至った。そして、エヴァQができなかった東北の災禍と震災孤児を真正面から描くことを「逃げずに」やらねばならないと、真面目な監督はついに「決意して」しまったのでしょう。商業サイドからの要請に過ぎない、いくらでも回避できる外挿的な圧力を、例えば「作家の宿業」などといった言葉で内在化して、自己陶酔的に「覚悟を決めた」様子が物語の後半からありありと伝わってきます。さらに指摘しておくと、本作は九州から東京までがエヴァ序破の映像的オマージュ、東京から東北までがエヴァQが隠蔽した裏テーマへのアンサーという構成になっているのです。

 「天気の子」の感想に、「フィクションなんだから街のひとつやふたつ壊したって構わない」と書きましたが、それはその災害がフィクションだからこそです。「この世のすべての問題の当事者であり、いずれにも関与して解決することができると信じる」のは極めて少年漫画的、もっと言えば幼児的、あるいは昨今のSNS的な誇大妄想に過ぎません。人の世を生きていけば否応に立ち位置は生じてくるもので、この作品のメッセージを受け止めた上で肯定的なまなざしを送れるのは、陰キャのクリエイターを焚きつけて理性のネジを外させた陽キャのプロデューサーか、現世のあらゆる事象から等距離を保つ独居ディレッタントぐらいしか思いつきません。「批判は覚悟の上で、被災児童と里親との関係性を鋭くえぐりだした」みたいな言い方は、この世には軽々に部外者が踏み込んではいけない場所があることを意識的に無視した暴挙であり、人としての無神経とデリカシーの欠如について、興行収入を盾に「作家の覚悟」と読みかえる傲慢さのあらわれでしょう。昔からのファンが「異常性欲者」なる言葉で揶揄するように、嬉々として「あの場面の力点は適齢期を逃した叔母の心情ではなく、どれだけ女子高生の心を深く傷つけられるかというサド的性癖によるチャレンジだ」などと語れる規模の作家ではもはやなくなっているのを、他ならぬ当人が自覚すべきでしょう。

 物語の終盤、震災孤児へと送る励ましのメッセージがでてきますが、医者に呼ばれた親族だけの病室へ見知らぬ人物が闖入し、「それでは、健康優良かつ五体満足かつ赤の他人である私から、末期ガンで名前も知らない病床の君へ、心づくしのエールを送らせていただきます!」と叫んでフレーフレーとやりだしたとき、親族の一員である貴方の行動がどんなものになるか想像してみてください。それと同質のものを、美麗な映像と壮大な音楽で逃げられない劇場の椅子へ押さえこまれて聞かされる怒りと失望ったらないですよ。エヴァQへの批判に「けたたましい鎮魂があるものか」と書きましたが、本作の終盤はまさに「ひどく神経にさわる、けたたましい鎮魂」となっていて、もはや作家性という言葉では擁護できないほどの、現実のだれかに対する厚顔無恥な狼藉の域にまで達しています。

 さらに最悪なのは、真面目で小心な監督が自ら選んだ結末へどんな非難が向けられるか不安になったのでしょう、来場者全員に同人誌を配布して等身大の己を見せることで、観客へのエクスキューズとしたことです。冊子のタイトルが「すずめの戸締まり読本」ではなく「新海誠読本」となっているのがミソで、これはシンエヴァが本邦の創作界隈に残してしまったバッド・イグザンプルの最たるものでしょう。作品に語らせるのではなく、作家個人に対する共感を観客に引き起こし、瑕疵のあるーーと本人が疑っているーーフィクションへの強い風当たりをあらかじめ弱めようとする無様な試みで、もっと言えばクリエイターの敗北なのです。どうも舞台挨拶で「本作がこうなったのは、皆さんにも責任がある」とか言ってるみたいで、真面目すぎる性格の人物が身の丈を大きく越えた題材を扱ってしまった結果、それに潰されないための精神的高揚と攻撃性を無理に作りだしているように見えます。人為的な躁状態は簡単に反転しますので、彼を焚きつけた周囲の大人たちはちゃんと精神状態をケアしてあげてくださいよ! マコト、大丈夫だから、震災孤児とその里親以外は、だれも本作を正面から受け止めて「世の悲惨をエンタメ化する手つきの、なんという醜悪さか」なんて言わないから(言ってる)! 問題作を世に問うてしまったことへの鬱状態から回復した監督の次回作は、間違いなくコロナ禍を題材としたものになるでしょうし、シンエヴァで庵野秀明から送られた目配せに頬を赤らめながらウインクを返す内容になるだろうと予言しておきます。おい、こんなのは二人で喫茶店とかでやれよ! おたくどうしの気持ち悪いやりとりを、全国の劇場を占拠してやってんじゃねえ(幻視)!

 しかしながら、「ほしのこえ」のときにはこの世におらず、「君の名は」にドはまりしてノートに「お前は誰だ?」と大書きし、「天気の子」にはさして興味を示さず、いまはもうここにいない人へ想いをはせると、同じアニメ作家を20年以上追い続けることの普通でなさを客観的に自覚させられますねー。

雑文「いつも心にデンジ君を」

 チェンソーマンのアニメ見とるけど、漫画のほうはパワーの顛末から始まる後半戦の印象が強烈すぎたさかい、なんやデンジ君のキャラがどんなんやったかすっかり忘れとったわ。ええか、おなごども、これだけはゆうとくで、男っちゅうもんはな、みぃんなデンジ君なんや。博士や大臣から大卒のカシコから中卒のトビまで、男の人生にはまちがいのぉデンジ君やった時期があんねん。心の中のデンジ君とどう向きおうたかが、男の一生を決めると言い切ってしまってもええと思うわ。よろしか、どんなごっついべべ着てカネをぎょうさん持ってようと、男はすべからく心のどこかにデンジ君を飼ぉとんのや、それだけは忘れんとってや。

 しかし、なんや、あれやな、「食欲が満たされたら、次は性欲」ゆうんは、昭和やったら恰幅のええ背広のオヤジが金むくの指輪をはめた手ぇで歯にはさかったイタメシを楊枝でせせりながら、同伴のワンレンボデコンおミズをねっとり眺めるようなイメージやったやんか。いやいや、そうやったって、記憶を美化したらあかんて、駅のホームは痰壺から黄色い痰がはみでとったし、街の道路は吸い殻とプルトップでおおわれとったって。チェンソーマンのアニメ見ててな、令和の「衣食足りて性欲を知る」っちゅうのは、こんなにもつよぉ貧困のイメージとむすびつくんやなって思たら、なんや切のうなってきてしもてん。ワシがおなごやったら、デンジ君みたいのがおったら、なんぼでもタダでオメコさせたるけどなあ。デンジ君からただよう悲しみはな、男であることの本質的な悲しみや。おなごどもは最近、ちょっと自分をたこぉ売りすぎとちゃいまっか。そんなん、ぼくらデンジ君には買われへんで。

ゲーム「ブルーアーカイブ・エデン条約編」感想

 ブルアカを早々にリタイアしたと言いましたが、第3章の評判がすごくいいので始めた側面があり、それを読むためにコツコツAP消費でレベル上げだけはやっていました。そして、昨日ついにエデン条約編を読んだのですが、たしかにみなさんおっしゃる通り、とてもおもしろかった! 第1章のさわりだけ読んで、あとはテキスト全スキップで進めてきたため、最初はかなり懐疑的な気持ちだったのですが、冒頭シークエンスから一気に引きこまれました。ここに至るまでストーリーをほぼ読んでいないので、対立する組織と人間関係を理解するのに苦労したものの、ドーンと落としてからガーンと上げてタイトル回収までする、少年漫画の王道を映画化したような内容に胸をうたれました。特に、後半のパートで示された「自分のものではない憎悪」というのは、いまを生きる上で重要な考え方だと思います。「継承される他者への憎悪」とは、養育者から感情を伴った身体性として与えられるため、体感としてのリアルを否定しにくい。それを克服する道筋は人の数だけあり、憎悪を解消できない者がひとりでも残れば、その人物の社会的な属性によって本邦が経験し続けているテロから海の向こうで始まった戦争まで、あらゆる破滅の萌芽に至る可能性を排除できないことなってしまう。

 エデン条約編、全体としては好意的に受け止めながら、気にかかるところを3点ほど挙げておきます(これをやるから、人が離れる)。1つ目は、「歴史の闇」「累積する憎悪」そして「人を殺すということ」、これだけ今日的でハードな中身を描いておきながら、言ってもせんのないこととは承知しつつ言葉にするならば、登場人物の全員が美少女かつ未成年だというところです。現代の男たちは己の性別に対する懐疑と多くの矛盾した要請を投げつけられ、そのどれをも果たそうともがき続けた結果、確実に好意だけを寄せてくれる美少女たちに励まされることでしか、社会的な課題や人間関係の軋轢とは対峙できないほど弱りきっているということなのかもしれません。

 2つ目ですが、「人を殺すことによる不可逆の変容」を説得力ある筆致で描写しておきながら、第3章を通じて結局だれひとり死んでいないのには拙者、「おろ? 不殺の誓いにござるか?」と反射的に揶揄してしまったで御座候。ガチャに入っているキャラを退場させられないのは、アプリゲーのストーリーテリングにおけるメタ的な弱点であると感じた次第に回転焼。そういえば、殺人への大きな意味づけをしながら最後の一線を越えられない作品って、なにかあったなー、なんだったかなーと考えていたら、グラップラー刃牙だった。

 3つ目、ブルアカは半島の制作会社によるゲーム(大陸産とカン違いしてて、すいません)で、この物語をつむぐ日本語がノンネイティブによるものだとしたら、もしかすると我々は我々の言語が本質的に変容していく、その端緒にいるのかもしれません。ブルアカや原神のプレイヤーは若い世代に多く、彼らが復唱したくなるセリフや心うたれるフレーズは、いまや他言語の話者によって書かれているのです。だとすれば、旧世代の最後の生き残りである言語魔術師(笑)として、古ぼけたこの秘儀をインターネットの片隅で細々と伝えていくことが、私に残された最後の使命なのかもしれません。

雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」

 日本でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、日本語ネイティブによる拙劣きわまる文章にゲンナリする一方で、世界でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、中国語ネイティブによる翻訳文体に陶然とさせられている事実に気づいて、日々おちこんでいる。

 前者のゲームアプリについて言えば、新邪馬台国のときにはタイムラインにあふれていたメンションやファンアートがパッタリと途絶えているのに、本イベントへの赤裸々な評価を見ることができるだろう。令和における批判や罵倒とは、積極的な無視や不可触と同義であり、もはやかつての地域差別と隣接した危うい場所にあることを実感させられている。また、現代の本邦においてもっとも個人の名誉に打撃を与えるのは、背任でも横領でもなく「性的瑕疵」であり、ファンガスはこの書き手に降板を切り出そうとするたび、過去の一瞬の過ちを頭文字F的な論法でヒステリックに蒸し返され続けているのではないかと、わりと深刻に心配している。

 後者のゲームアプリについて言えば、ちょうど稲妻国での冒険をひと段落させたあたりだが、2人の西洋人による諸国漫遊記という体裁をとりながら、璃月を「集団指導による豊かな繁栄」として描き、稲妻を「孤高の人による静寂と停滞」として描いたのには、我々の精神性にまで踏みこむ痛烈な批評としてあまりに図に当たっていて、思わずうなってしまった。特に雷電将軍の描き方が出色の出来であり、かりそめの肉体で心を使わぬ数百年の統治を続けながら、その精神は摩耗を避けるために「一心浄土」でただ瞑想にふけるーーこれはまさに、現世から分離されてインターネットという永劫を美少女として生きる小鳥猊下の有り様をメタファーとして語っているようでもあり、結界内で弥勒菩薩像の半跏思惟を解いて地に足をつけるシーンでは、この奇妙なシンクロニシティに背筋へゾッと凄まじいものが走った。

 原神、本邦の諸兄があまり聞きたくない話題のようなので、できるだけ言及を避けようとしているが、どうにも心のやわらかい部分に逐一クリティカルヒットを当ててくる感じがある。美少年・美少女のガワをかぶりながら大所高所から人理と社会を説き、美男・美女のガワをかぶりながら仲間の大切さと思春期のジャリの世迷言を吐く、どちらが好ましいかを感性の問題だけですませてはならないと思う。とりあえず、本邦のゲーム業界はもっと危機感を抱くべきだし、これに対抗できる集金マシンのFGOはしょうもない他の制作会社を併呑の上で、約束された勝利の次期アプリにおいて、原神レベルの規模感でのマルチプラットフォーム展開を目指すべきであろう。

アニメ「新版・うる星やつら」感想(第1話)

  うる星やつらの新版アニメ、第1話を見る。やっぱりラムちゃんって、じつにアイコニックな不朽のキャラクター造形だなあと、改めて感じます(本作のデザイン、SMD虎蛮ぽくない?)。初登場シーンに一瞬だけ「ラムのラブソング」が流れかかるのは、スターウォーズ7での「ダースベイダーのテーマ」のあつかいを彷彿とさせて、あふれでるラスボス感に笑ってしまいました。旧版のアニメがマモルさんによるアレだったので、今度こそ原作を忠実になぞっていく意図のリブートだと思うんですが、スマホやSNSの登場するスタイリッシュな令和のオープニングに対して、黒電話で連絡し突然の暴力が頻発し不適切発言の横行する昭和の本編をどうすりあわせていくのか気にかかります(メタとか夢オチとかで昭和から令和に遷移したりすれば、旧版アニメと同じになっちゃうし……)。

 自分の中の価値観が変化ーーアップデートとは言わないーーしたのに気づかされたのは、主人公の母親が繰り返す「産まなきゃよかった」というセリフが、かつては笑えるギャグだったはずなのに、いまではあまりにセンシティブに聞こえてしまったことです。他にも公衆の面前でブラジャーをはぎとる展開も、知っているのにギョッとしてしまいましたし、原作に忠実であればあるほど、今後こういった違和感はどんどん増していくのでしょう。「令和と昭和に横たわる価値観の隔絶をどう料理していくのか?」を楽しみ半分、怖さ半分で見届けたいと思います。

アニメ「チェンソーマン」感想(第1話)

 チェンソーマンのアニメ第1話を見る。みなさんがほめているようにハイクオリティなのは認めますが、ちょっとCGを補助に使いすぎかなー。数学で例えるなら、「ある未解決の定理が証明されたと聞いて、どんな素晴らしいアイデアを思いついたんだろうと調べてみたら、スパコンの大規模演算による力業の解決でガッカリした」とでもなりましょうか。宮崎翁ではないですが、アニメーションの醍醐味って「特定の個人にとって生理的に気持ちいい動きの主観的デフォルメ」だと考える古い人間なので、アクションシーンにいまいちノリきれない部分がありました。

 あと、マキマさんの声がちょっとカワイイ系に寄りすぎているので、最終巻あたりのやりとりがどうなるか不安は残ります。チェンソーマンって、叙情性のあるデビルマンだと思ってるから……。

雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」

 原神、「消化」になってしまうのがもったいなくて、できるだけ攻略情報を調べずにゆっくり世界を「散策」している。己の弱点や拙い部分を自覚しながら隠そうとせず、現在進行形の全身全力全霊で作っている熱気が伝わってきて、「とても好ましい」というファーストインプレッションは途切れることなく続いている。ただ、ソウルハッカーズ2のあとに原神へ触れてしまったことは、私の中のある価値観について、かなり決定的な影響を与えてしまったと言わざるをえない。つまり、「本邦の衰退」なる言辞を横目にしながら、日々の生活では実感を持つことを避けてきた事実に、己の体験を通じて正対させられたのである。ソウルハッカーズ2を現場監督の驕りが招いた高級建材の瓦礫の山だとするなら、原神は建材の質が劣っていることを知る職人の、工夫と熱意と矜持で組み上げられた大伽藍と言えるだろう。そして、見た目には本邦の2次元作品の精髄のようにしか映らないのに、その皮一枚下には大陸の文化と思考が岩のように脈うっているのである。

 栗本薫から薫陶を受けた私は、中国語の翻訳が生みだす独特の文体と、頻出する類型的でない表現に心をつかまれ、原神の体現する思想とも言うべきものに、すっかりやられてしまった。それは言葉にすれば、ここ半世紀を通じて我々があえて意味を軽くしてきた「親と子の絆」「師弟の敬愛」「他者との縁」「商売の掟」「仁義と報恩」「技術と志の継承」「若さと老いの等価」といったものであり、そして何より「現存する人類を延伸した先にある超越」を心から信じる態度が、作品全体に朗々と響きわたっているのである。登場する原神たちにしても、西洋的な孤絶した審判者ではなく、あくまで「人間と地続きに連続した存在」として描かれている。昨日、最新の配信イベントを最後までクリアしたのだが、「ワインの香りをかいだ瞬間、自分を捨てたと思っていた両親の、暖かな背中が脳裏によみがえる」というシーンで、常ならば冷笑的に眺めるだけの自分が、胸をつかれ涙を流しているのに遅れて気づいて、ひどく動揺してしまった。この場面が泣かせのためだけにする小手先のプロットではなく、原神世界に響く確かな通低音とつながっているから、心をゆさぶられたのだと思う。

 「親を憎んだ者たちが始めたおたく文化が、親を愛する者たちに受け継がれていく衝撃」という指摘もあろうが、それはむしろ土地ではなく世代の問題に帰するのかもしれない。話を元に戻すが、家族の形にせよ何にせよ、我々はなぜか旧来への付与でなく解体をどうにも志向してしまうようだ。しかし彼らは、種の継続に向けた動物としての当然をキャンセルしようとする仕草に、何を恥じることもなく異議をとなえ、違和感に首をかしげてみせる。反して我々は、親と子、男と女、師と弟、すべてが一様に対等であるという舶来のアイデア(思いつき)を、だれかの一方的な我慢で成立する虚妄だとは指摘せず、曖昧な微笑で静かに受け入れて、ただただ己の寿命だけは平穏に逃げ切りたいという「さもしい利己主義」をしか抱けない。じっさい、相手を刺し殺す1秒前までは表面上ニコニコと穏やかにふるまい、我慢の時間的な長さによってテロ行為が礼賛の対象へと変質するプロセスーー忠臣蔵がその最たるものだろうーーが我々の心性の正味のところで、「忍耐の末の破滅」を美徳とする生き様では、各国にある中華街が体現するような「ポジティブな生き汚なさ」など構築のしようもない。「三体」を読んだときにも感じたことだが、一過性の思考実験的トレンドに過ぎない人間性の否定に取りあわず、自らの本性を獣の延長として迷わず思考し続けるような人々と100年のスパンで競いあうことなど、はたしてできるのだろうか。その疑念が、ずっと頭を離れない。

 そして、昭和の模倣としての己の人生が「たかが小説」「たかがゲーム」によって、何の普遍性も持たない過去の影法師であることに気づかされ、欠落した魂に抱く幻肢痛のごとき苦しみに悩まされ続けている。そんな気持ちのまま、第2章の花火師の話を読み終えた。ああーー宵宮からは、土のにおいがする。