猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」

 日本でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、日本語ネイティブによる拙劣きわまる文章にゲンナリする一方で、世界でいちばん売り上げのあるゲームアプリの、中国語ネイティブによる翻訳文体に陶然とさせられている事実に気づいて、日々おちこんでいる。

 前者のゲームアプリについて言えば、新邪馬台国のときにはタイムラインにあふれていたメンションやファンアートがパッタリと途絶えているのに、本イベントへの赤裸々な評価を見ることができるだろう。令和における批判や罵倒とは、積極的な無視や不可触と同義であり、もはやかつての地域差別と隣接した危うい場所にあることを実感させられている。また、現代の本邦においてもっとも個人の名誉に打撃を与えるのは、背任でも横領でもなく「性的瑕疵」であり、ファンガスはこの書き手に降板を切り出そうとするたび、過去の一瞬の過ちを頭文字F的な論法でヒステリックに蒸し返され続けているのではないかと、わりと深刻に心配している。

 後者のゲームアプリについて言えば、ちょうど稲妻国での冒険をひと段落させたあたりだが、2人の西洋人による諸国漫遊記という体裁をとりながら、璃月を「集団指導による豊かな繁栄」として描き、稲妻を「孤高の人による静寂と停滞」として描いたのには、我々の精神性にまで踏みこむ痛烈な批評としてあまりに図に当たっていて、思わずうなってしまった。特に雷電将軍の描き方が出色の出来であり、かりそめの肉体で心を使わぬ数百年の統治を続けながら、その精神は摩耗を避けるために「一心浄土」でただ瞑想にふけるーーこれはまさに、現世から分離されてインターネットという永劫を美少女として生きる小鳥猊下の有り様をメタファーとして語っているようでもあり、結界内で弥勒菩薩像の半跏思惟を解いて地に足をつけるシーンでは、この奇妙なシンクロニシティに背筋へゾッと凄まじいものが走った。

 原神、本邦の諸兄があまり聞きたくない話題のようなので、できるだけ言及を避けようとしているが、どうにも心のやわらかい部分に逐一クリティカルヒットを当ててくる感じがある。美少年・美少女のガワをかぶりながら大所高所から人理と社会を説き、美男・美女のガワをかぶりながら仲間の大切さと思春期のジャリの世迷言を吐く、どちらが好ましいかを感性の問題だけですませてはならないと思う。とりあえず、本邦のゲーム業界はもっと危機感を抱くべきだし、これに対抗できる集金マシンのFGOはしょうもない他の制作会社を併呑の上で、約束された勝利の次期アプリにおいて、原神レベルの規模感でのマルチプラットフォーム展開を目指すべきであろう。

アニメ「新版・うる星やつら」感想(第1話)

  うる星やつらの新版アニメ、第1話を見る。やっぱりラムちゃんって、じつにアイコニックな不朽のキャラクター造形だなあと、改めて感じます(本作のデザイン、SMD虎蛮ぽくない?)。初登場シーンに一瞬だけ「ラムのラブソング」が流れかかるのは、スターウォーズ7での「ダースベイダーのテーマ」のあつかいを彷彿とさせて、あふれでるラスボス感に笑ってしまいました。旧版のアニメがマモルさんによるアレだったので、今度こそ原作を忠実になぞっていく意図のリブートだと思うんですが、スマホやSNSの登場するスタイリッシュな令和のオープニングに対して、黒電話で連絡し突然の暴力が頻発し不適切発言の横行する昭和の本編をどうすりあわせていくのか気にかかります(メタとか夢オチとかで昭和から令和に遷移したりすれば、旧版アニメと同じになっちゃうし……)。

 自分の中の価値観が変化ーーアップデートとは言わないーーしたのに気づかされたのは、主人公の母親が繰り返す「産まなきゃよかった」というセリフが、かつては笑えるギャグだったはずなのに、いまではあまりにセンシティブに聞こえてしまったことです。他にも公衆の面前でブラジャーをはぎとる展開も、知っているのにギョッとしてしまいましたし、原作に忠実であればあるほど、今後こういった違和感はどんどん増していくのでしょう。「令和と昭和に横たわる価値観の隔絶をどう料理していくのか?」を楽しみ半分、怖さ半分で見届けたいと思います。

アニメ「チェンソーマン」感想(第1話)

 チェンソーマンのアニメ第1話を見る。みなさんがほめているようにハイクオリティなのは認めますが、ちょっとCGを補助に使いすぎかなー。数学で例えるなら、「ある未解決の定理が証明されたと聞いて、どんな素晴らしいアイデアを思いついたんだろうと調べてみたら、スパコンの大規模演算による力業の解決でガッカリした」とでもなりましょうか。宮崎翁ではないですが、アニメーションの醍醐味って「特定の個人にとって生理的に気持ちいい動きの主観的デフォルメ」だと考える古い人間なので、アクションシーンにいまいちノリきれない部分がありました。

 あと、マキマさんの声がちょっとカワイイ系に寄りすぎているので、最終巻あたりのやりとりがどうなるか不安は残ります。チェンソーマンって、叙情性のあるデビルマンだと思ってるから……。

雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」

 原神、「消化」になってしまうのがもったいなくて、できるだけ攻略情報を調べずにゆっくり世界を「散策」している。己の弱点や拙い部分を自覚しながら隠そうとせず、現在進行形の全身全力全霊で作っている熱気が伝わってきて、「とても好ましい」というファーストインプレッションは途切れることなく続いている。ただ、ソウルハッカーズ2のあとに原神へ触れてしまったことは、私の中のある価値観について、かなり決定的な影響を与えてしまったと言わざるをえない。つまり、「本邦の衰退」なる言辞を横目にしながら、日々の生活では実感を持つことを避けてきた事実に、己の体験を通じて正対させられたのである。ソウルハッカーズ2を現場監督の驕りが招いた高級建材の瓦礫の山だとするなら、原神は建材の質が劣っていることを知る職人の、工夫と熱意と矜持で組み上げられた大伽藍と言えるだろう。そして、見た目には本邦の2次元作品の精髄のようにしか映らないのに、その皮一枚下には大陸の文化と思考が岩のように脈うっているのである。

 栗本薫から薫陶を受けた私は、中国語の翻訳が生みだす独特の文体と、頻出する類型的でない表現に心をつかまれ、原神の体現する思想とも言うべきものに、すっかりやられてしまった。それは言葉にすれば、ここ半世紀を通じて我々があえて意味を軽くしてきた「親と子の絆」「師弟の敬愛」「他者との縁」「商売の掟」「仁義と報恩」「技術と志の継承」「若さと老いの等価」といったものであり、そして何より「現存する人類を延伸した先にある超越」を心から信じる態度が、作品全体に朗々と響きわたっているのである。登場する原神たちにしても、西洋的な孤絶した審判者ではなく、あくまで「人間と地続きに連続した存在」として描かれている。昨日、最新の配信イベントを最後までクリアしたのだが、「ワインの香りをかいだ瞬間、自分を捨てたと思っていた両親の、暖かな背中が脳裏によみがえる」というシーンで、常ならば冷笑的に眺めるだけの自分が、胸をつかれ涙を流しているのに遅れて気づいて、ひどく動揺してしまった。この場面が泣かせのためだけにする小手先のプロットではなく、原神世界に響く確かな通低音とつながっているから、心をゆさぶられたのだと思う。

 「親を憎んだ者たちが始めたおたく文化が、親を愛する者たちに受け継がれていく衝撃」という指摘もあろうが、それはむしろ土地ではなく世代の問題に帰するのかもしれない。話を元に戻すが、家族の形にせよ何にせよ、我々はなぜか旧来への付与でなく解体をどうにも志向してしまうようだ。しかし彼らは、種の継続に向けた動物としての当然をキャンセルしようとする仕草に、何を恥じることもなく異議をとなえ、違和感に首をかしげてみせる。反して我々は、親と子、男と女、師と弟、すべてが一様に対等であるという舶来のアイデア(思いつき)を、だれかの一方的な我慢で成立する虚妄だとは指摘せず、曖昧な微笑で静かに受け入れて、ただただ己の寿命だけは平穏に逃げ切りたいという「さもしい利己主義」をしか抱けない。じっさい、相手を刺し殺す1秒前までは表面上ニコニコと穏やかにふるまい、我慢の時間的な長さによってテロ行為が礼賛の対象へと変質するプロセスーー忠臣蔵がその最たるものだろうーーが我々の心性の正味のところで、「忍耐の末の破滅」を美徳とする生き様では、各国にある中華街が体現するような「ポジティブな生き汚なさ」など構築のしようもない。「三体」を読んだときにも感じたことだが、一過性の思考実験的トレンドに過ぎない人間性の否定に取りあわず、自らの本性を獣の延長として迷わず思考し続けるような人々と100年のスパンで競いあうことなど、はたしてできるのだろうか。その疑念が、ずっと頭を離れない。

 そして、昭和の模倣としての己の人生が「たかが小説」「たかがゲーム」によって、何の普遍性も持たない過去の影法師であることに気づかされ、欠落した魂に抱く幻肢痛のごとき苦しみに悩まされ続けている。そんな気持ちのまま、第2章の花火師の話を読み終えた。ああーー宵宮からは、土のにおいがする。

アニメ「水星の魔女」感想(13話まで)

プロローグ&1話

 キミらがあんまりウテナウテナ言うから、ガンダム下手のトーシロなのに水星の魔女を見る。確かに機動武闘で少女革命したい感じは伝わってきましたが、主人公がキョドりすぎドモりすぎなせいで尺が足りなくなったのか、後半の決闘シークエンスの流れがかなり唐突で不自然なのは、非常に気になりました。まず、決闘の日時を知らされているはずの主人公が学校のモニターでガンダムの盗難を知るのって、どうすればそんな状況になるんでしょうか。そこから級友にスクーターを借りて、立ち入り禁止のエリアに潜入(どうやって?)して、だだっ広い荒野を横断して、転倒したガンダムによじのぼってコクピットを開けて、どうでもいい痴話喧嘩をオッぱじめる。速い場面転換で瞬間移動みたいにしてごまかしてますけど、これだけの長い時間、桐生冬芽ポジションの敵キャラは何もせず、ボーッと突っ立ってそれを眺めていることになり、脚本のせいか演出のせいか定かではありませんが、ちょっとひどすぎるように思います(識別画像にスクーターを貸した女子の顔が出てくるくだりも、演出意図がわからない)。ヒロインに「守られるだけのお姫様ではない宣言」をさせるためとはいえ、もっと他に上手いやり方があったんじゃないでしょうか。入念に準備した暗殺計画を、息子が決闘に負けたから曖昧にとりやめるのも意味不明で、リアリティラインをどこに置いて視聴すればいいのか、第1話の段階ではサッパリつかめませんでした。

 ただその次に見た、先行して公開されたらしいプロローグはメチャクチャよかった! たぶん世代の近いクリエイターだと思うんですけど、エヴァ旧劇からの影響というかそこへ向けた目くばせを、強く感じました。「Air」の超絶エンタメに魂の深い部分を呪縛され、「まごころを、君に」における中年オヤジの泣き言にモヤモヤしながら、「正しいエヴァの完結とは?」についてずっと考え続けてきた人物なのかもしれません。シンエヴァという還暦オヤジの泣き言を経たいま、ハッキリと言語化できますが、それは「Air」の続きにおいて「第拾九話を超えるシンジと初号機の大立ち回り」と「人類補完計画へのスピリチュアルではない回答」を展開することより他にありません。水星の魔女プロローグには、確かにその萌芽ーーこれを我々の「Air」とし、本作ではその先を描くという意志ーーを感じました。にもかかわらず、第1話にしてすでに脚本と演出が空中分解しかかっているのは気になりますが、今後のストーリーには大いに期待しております。

 あと、エヴァの出撃シークエンスを意識したと思われる場面で、長方形の箱がキメキメのアングルでギュンギュン高速レール移動するのに思わず笑ってしまったんですけど、作画カロリーとかの関係でしょうがないんですかね、これ? エヴァと同じく直立のロボットを移動させるじゃダメだったんでしょうかねえ(リアリティライン?)。

第6話

 水星の魔女、第6話まで見る。いやー、いいですねえ! 人の魂が込められた機体からテレビ版第拾七話を彷彿とさせる終わり方まで、いよいよ予想通り「オレたちが作るポスト・エヴァンゲリオン」の様相を呈してきました。うっとおしいばかりに他者と関わろうする主人公も、「人たらしの碇シンジによる人類補完計画」というイフを思わせて楽しい。エヴァ旧劇の「地球と太陽なしには生きられない生命体から魂のみを抽出して、ロボット方舟に乗せて外宇宙へと送り出す」に対して、過酷な宇宙空間でも人が生きられるようにする義体のプロトタイプがエアリアルなんでしょうねー。そんで、主人公の妹の脳と脊髄がユニットの中枢におさめられてんの。でも、ウテナ感はもうどっかいっちゃったなー。

第12話

 水星の魔女、第12話を見る。タイムラインの沸騰ぶりを横目にしていたため期待値が高まりすぎたせいか、古参のガンダム下手としては、それほどの衝撃を受けることができませんでした。旧エヴァのフォロワーをにおわせつつも、ずっと作品のトーンが定まってこなかったのを百合展開で引き伸ばしていたのが、ようやくプロローグにおいて提示された世界観とチューニングが合ったなーという印象です。少年漫画やジュブナイル作品における御法度であるところの殺人行為へと主人公を踏み切らせた理由が、その場しのぎ的な二期へのクリフハンガーではなく、戦時下の現代社会における重要なテーマとして昇華されることを強く願っています。

 水星の魔女12話の顛末を、あれから脳内で反芻している。古くからの少年漫画読みーーあるいはネット抜きの平和教育に洗脳された一時期を持つ者ーーにとって、人を殺すという行為は「主人公の資格を不可逆に剥奪される刻印」に他なりません。最も人を殺してそうな少年漫画誌の主人公ナンバー1である範馬刃牙でさえ、30年を越える連載期間を経ていながら、いまだに殺人童貞なのですから! 「絶対悪である殺人と、その因果応報」を色濃くまとった作品にブレイキング・バッドベター・コール・ソウルがありますが、あちらの命を奪うことへ幾重にも積まれた葛藤と必罰の陰影レイヤーに比べると、こちらは母子の関係性へのみ因果が収束する非常に明るくあっけらかんとした描き方に見えます。さらに、殺される側を「フルヘルメットで顔を覆った、名前のないテロリスト」として描いているのも、彼の家族の方向へは物語を敷衍しないという宣言であり、今後は「恋人サイドの受容」と「母の呪縛からの脱却」にのみ焦点が当てられるのでしょう。

 ふと思い出しましたけど、ククルス・ドアンの島でもアムロが逃げまどう敵兵をガンダムで踏みつぶしていて、「生身の人間をロボットで殺害すること」が当シリーズに脈々と引き継がれる主人公の条件だとするなら、この件について私の言えることはもう何もありません。ツイッターで見かけた「作画が間に合っていないための総集編」や「最終話における有名アニメーター総力戦」などの様子からうかがえば、ストーリーの結末までをあらかじめ見通した作劇が行われているのか、少し懐疑的になっても仕方のないところでしょう。第1話の感想を読んでもらえばわかりますが、本編の演出とストーリー展開を他作品に比べてなみはずれて秀逸だと感じたことはなく、SNSの盛り上がりも「キャラを好きになった人たちが、作品をさらに称揚したいがための、実態を大きく越えた過剰な深読み」だと感じることがとても多かったです。物語の自走性よりも、この時代に特有の「2期まで視聴者を引っ張るため、ツイッターでバズらせておきたい」という制作側の意図が強く前面に出ている気がして、これまで愛してきたキャラと作品が壊されたように感じている方々の意見は、とてもよく理解できます。

 なんかSNSで作品の身の丈を越えた感想が飛び交う状況って経験したことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、タコピーの原罪だった。

第13話

 水星の魔女13話を見る。うーん、この温度感で日常パートを再開するには、12話のラストをギンギンに冷やしすぎましたねー。「当初は2クールまとめて放送するはずだったのに、作画スケジュールが破綻して前後半へ分割となり、本来的に不必要な行き過ぎたクリフハンガーを用意するハメになってしまった」ことが、今回のストーリー展開で明らかとなりました。ジュブナイルにおける殺人の意味については以前にお話ししたとおりで、本作の主人公にその資格を失わないプロットが仮にあるとすれば、「彼女の正体は小型化に成功したガンダム義体で、たとえば脳髄などの魂を宿すと思われる部位が搭乗機体に収められていて、義体側の思考と人格はAIによるエミュレーション」みたいなエヴァ初号機の逆パターンだったら、かろうじてSF作品としての受容はできるかなと感じています。「別の方法があったのかな」ぐらいの反省や「言われなくても」の一言で「人殺し」を許容できるのは、もっと偶発的な事故によるマイルドな描き方だった場合だけでしょう。意図的な殺人に伴う執拗きわまるスプラッタ表現は、提示された新たなストーリーラインからかけ離れた演出になっており、現段階では本作にとって取り返しのつかない瑕疵に見えます。そして、この印象が今後くつがえる気はしません。

雑文「ヘブバンとキートン、そして銀英伝(近況報告2022.10.2)」

 ヘブバン、未練の毎日ログインのためだけにスマホへ保持しておくにはあまりに大容量になってきたため、泣く泣くPC版へと移行する。しかしながら、大きな画面に映して良いスピーカーで鳴らすと、見えなかった筆づかいが見え、聞こえなかった音が聞こえるようになり、手間ひまかけて作りこまれたゲームであることを、あらためて認識できました。なのに本編シナリオは……というところへまた愚痴がいきそうなので、最新イベントをイッキ見した話をすることにします。いやー、ヘブバンのギャグパートは肌があうっていうか、やっぱりメチャクチャ好きだなー。執拗な繰り返しでのギャグは、フルボイスならではのスタンダップ・コメディであり、テキストだけで同じことをしたら、きっと連打で読みとばされてしまうことでしょう。その繰り返しの部分も微妙に演技が違う感じで、「否、否、えろ」にはこらえきれず、大爆笑してしまいました。

 お決まりのシリアスな締めも、いつものようなベショベショではなく、今回はカラッとしていて好印象です。見ていて、なぜかマスターキートンの爆弾処理の話を思い出しましたね、有名な「穏やかな死」のほうではなく、バルセロナ五輪で新聞社に爆弾がしかけられる回。「まったく動揺を見せない完全無欠と思われていた人物が、内心では動揺してビビりまくっていた」というプロットが共通していたからでしょうか。ついでに、それこそ20年ぶりくらいにその回を読み返してみたんですけど、ひどく心にしみましたねー。「自分がいちばん上手くできるのはわかっているが、大きな恐怖ーーが大げさなら、億劫さーーを伴う仕事」って、事の大小こそあれ、勤め人ならだれでも持っているんじゃないでしょうか。恐怖や億劫さに負けてそれをだれかに丸投げしたら、失敗した上に時間だけが空費された状態で手元に戻ってきてしまう。この類の仕事を、泣き言はおくびにも出さず、「これはオレの役割だ」とつぶやいて、周囲に気づかれないうちに処理してのけるのが、私にとっての大人のイメージなのかもしれません。

 銀英伝で例えるなら、フィッシャー中将みたいな人。うん? 銀英伝は好きですけど、そんなキャラいましたっけ、だって? (微笑んで)そう、それ、そういうのがいいんです。けれど、いまやこういった仕事のバトンは、社会や組織の中で受けわたされることなく、消えていっていると感じます。ハラスメントという名付けで単色に塗りつぶされてしまったグラデーションの辺縁に、そのテイクオーバー・ゾーンはあったような気がしてなりません。

雑文「創造暴走特急」

 原神、まだ第2章の影さえ見えていないのに、大型アップデート来る。しかも、ソウルハッカーズ2のリンゴたんと同等か、それ以上のクオリティで、大量の新キャラを追加しながら! 「ゲームは1日1時間」のリーサラプレイでは、「宇宙の膨張速度に追いつけない光」みたいになってきた。それにしても、これまでのゲーム制作で得た資金をすべてブチこんだ大バクチが図に当たり、アップデートのたびに11言語の話者たちから膨大な資金が流れこみ、それをまた世界の拡張にブチこみ続けるという、言わば「創造暴走特急」の運転席に座っているのは、いったいどういう気分なのだろうか。急ブレーキをかければ客車は脱輪して大事故になるし、眼前の線路は最後まで敷設が終わっておらず、終着駅がどこになるかも決まっていない。ファンガスのFGOもそうだが、映画「スピード」のような状況で、内発性を無視した創造を市場に強要され続けるというのは、人類史においても前代未聞の状況ではないだろうか。

「(激しく扉を開いて駆けこみながら)運転士!」
 「(血走った目で前方から視線をそらさず)なんだ!」 
「ここから100キロ先で、線路の敷設が間に合っていません!」 
「それで!」 
「この速度で走行を続ければ、1時間もしないうちに大事故です!」 
「だから!」
「速度を落としてください! 時速60キロなら敷設が間にあいます!」
 「そんなことをすれば、慣性で客車が先頭車両に激突して、脱線事故になる!」 
「しかし!」 
「80キロだ! レールの品質チェック工程をとばして間にあわせろ!」
「そんなことをすれば、客車に相当の振動が生まれます! 乗客からクレームがきますよ!」 
「脱線よりはマシだ! どうせもう、どんな乗車体験になろうと、だれもこの列車からは降りられない!」 
「しかし!」 
「(さえぎるように)返事は!」
「(苦渋の表情で)サー、イエス・サー! レールの品質チェック工程を省略し、時速80キロで間に合うよう敷設作業を進めます!」
「頼んだぞ! (慌ただしく出ていく背中を見送りながら)そう、オレはもう、この運転席から離れられない……立ったまま食い、眠り、クソも小便も垂れ流しだ……(憔悴した表情で)いったいぜんたい、どうしてこうなっちまったんだ……?」

 ……という経緯で、FGO第2部6.5章というリアル・クラップがリリースされてしまったのではないでしょうか(てきとう)。

アニメ「サイバーパンク・エッジランナーズ」感想

 ネトフリでサイバーパンク2077のアニメを見る。個人的に肝に銘じておきたいのは、度外れた激賞はテンポラリーな視聴につながりこそすれ、実際との落差から必要以上に評価を辛くさせるということです。最初の印象としては、「ネトフリ資本かつ巨大AAAタイトルのアニメ化にしては、低予算でがんばらされてるな」といったところでしょうか。ニューロマンサーの時代を彷彿とさせるサイケな色づかいや、この世界観でわざわざ少年を主人公にすえたミーツ・ガールにするところなど、全体的に「昭和のSFアニメ」感が強く、深夜の潜水艦で摩天楼を飛びこえて、はるかな時間の国へと行ってしまったかと錯覚するほどでした(なんじゃ、そりゃ)。動かすことを優先したために線の少ないキャラデザなのかと思いきや、止め絵とバンクと速いカット割りで見せていく場面が多く、10年近くをかけたタイトルが見るも無惨な大爆死を遂げたCD Projekt REDの緊縮財政をひしひしと感じさせました。このアニメを通じてゲームにかなり人が戻ってきたという話も聞きますし、創意工夫の高品質を欧米に安く買いたたかれる様は本邦の現状を否応に想起させ、涙が出てきます。

 そして、本作をほめている方々のことごとくが、サイバーパンク2077本編をプレイしていないーーゲーム制作が本業のはずのあの方さえーーようで、もはやゲームという娯楽が時間単価で相対的にハイコストなものになってしまったのだと、あらためて痛感させられました。発売日に購入して全クリした身としては、あの膨大な物量からうまく単語と設定を抜きだしてコンパクトにまとめたなーという感想が、何よりもまさります。でも、原作をプレイしていないのに、アニメだけを見て激賞できる方々の態度、やっぱりなんかモニョるなー。例えばアニマトリックスは最高だけど、やっぱりマトリックス本編あっての評価だと思うんですよ。みんな、4時間ちょっとのアニメシリーズでこの世界をわかった気にならず、サイバーパンク2077に残り少ない人生の100時間を捧げていこう!

ゲーム「原神」感想

第1章

 ブルアカは早々にリタイアしたが、原神のプレイは続いている。最終的にスタミナ消費のログインゲーになりそうな予感はするものの、どこぞの続編詐称JRPGとは比較にならないほど世界が作りこんであるし、それに由来する探索の物量が単純に膨大なため、しばらくはこれ1本で遊べそうだ。最初期の印象は西洋風ファンタジーなのにプレイを進めるうち、地理の形状に始まって、使用漢字、固有名詞、シナリオ、そしてキャラの思考形態に至るまで、ことごとくが大陸文化から発したものであることがわかってくる。基本的にフルボイスだが、ネイティブ日本語話者が聞くと、ところどころおかしな表現が出てくるのも、奇妙なレスペクトを感じさせて逆に味わい深い。また、ゲーム内に出てくる食材の種類が異様に豊富で、回復と補助に料理が最重要であるのも、「四本足のものは、テーブル以外ならみな食べる」食文化を感じさせる。

 いま第1章を終えたあたりで、ときどきプレイフィールに小さな違和感は生じるものの、国家と仙人(仙人!)たちで魔神を迎撃する展開にはちょっと、いや、かなり感動してしまった。本邦クリエイティブの持つ特性が「百花繚乱のオリジナリティ」だとするなら、このゲームが体現するのは「模倣からの物量による一点突破」であり、細部だけでなく大枠での文化比較になっているのも、じつにおもしろい。原神、とても新鮮なのにどこかなつかしい感じを持つのは、昭和時代のテレビが私の原体験にあるからだろう。あの頃の番組と言えば、生放送、アニメ、そして香港映画であり、記憶からは薄れても身体性として刷り込まれているのかもしれない。ホニャララ真君やキョンシーなどの固有名詞には、「うわー、あったなー」と思わず声が出てしまった。やがてテレビから香港映画が消え、アニメが消え、そして生放送とポロリが消えたが、それは経済成長と技術革新、そして文化の成熟と連動していたように思う。いま界隈を大陸産ゲームが席巻しているのは、半世紀をかけた栄枯盛衰の円環を見るようで、状況を楽しむ反面、一抹のさみしさを抱いている。

雑文集

雑文「創造暴走特急」
雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」
雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」
雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」
雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」
雑文「神里綾華日記(近況報告2023.3.24)」

第2章

 原神、第2章4節まで読む。稲妻国の永遠を見せたあとにこれを持ってくるかという内容で、その対比の見事さに感心してしまいました。繰り返しますけれど、この中華ゲームはシナリオと世界構築に手抜きがなく、つたない部分もあることは否定しませんが、それを承知した上で自分たちの全力を尽くしているのがひしひしと伝わってきます。「永遠を永遠たらしめないのは肉体と魂が摩耗するため」とか「神々の呪いは人の魂よりも高位なので解呪不能」とか、原神世界の根幹を成す真理が章の終わり毎に提示され、世界の見え方を一変させるのはすごい仕掛けだと思います。特にヒルチャールの正体については、貴方がおたくであるならば涙なしに読むことはできないでしょう。「仮面をつけているのは己の醜い姿に驚いたせいで、拠点にある水鏡はその悪夢より醒める朝を待っているから」とか、「長い年月に魂の摩耗した彼らは光を嫌うようになり、暗闇に身を横たえて己の体が闇に溶け去るのを待つ」とか、「最後の最後には、火による温もりを求める」など、まるで自分の来し方と末路を言われているような気がして、同情と共感に知らず嗚咽がもれました。そして、「洞窟に住むネアンデルタール人たちは、同胞の亡骸に花をたむけた」を連想させるシーンと、消えゆくかつての部下に国は滅びていないとウソをつくシーンには、「死者の尊厳」を丁寧に取り扱っていて、はたしていまの本邦にこの感覚は失われずあるだろうかと強く疑う気持ちになりました。

 原神のシナリオに対する評価が気になって検索してみると、全体として「良い悪い」「好き嫌い」ぐらいの感想ーーあと、「文章が長すぎる」ーーしか見当たらず、大陸産のクオリティをかつての経験から低しとあなどって、だれもこの黒船級の衝撃を正面から受け止めることができていないのではないかと考えると、暗澹たる気持ちになってきます。そして、「日々を食べること」「他者と商うこと」「やがて死ぬこと」といった人の当たり前に寄りそった物語を通じて、いまや本邦において失われてしまった感覚が身内によみがえってきます。それは「夏休みに訪れる田舎の本家での一週間」の記憶であり、そこには大地に根差した人の生活の当たり前が体現されていました(第三村みたいなこと言ってる)。いや、体現していたのは満州で敗戦をむかえた祖母その人だったのですが、彼女が世を去ったあとにただの家屋と化した場所が持っていた、少年時代の記憶の残滓や残り香が原神の端々から立ちのぼっているのを感じます。これは初老美少女の、きわめて個人的な感覚にすぎないのでしょうか。タイムライン在住の美少女ディレッタントたちに、ぜひ意見を聞いてみたいものです。

 原神、諸手をあげてほめる一方で少し疑っていることは、自分がネイティブの日本語に飽きてしまっている可能性でしょうか。意味理解に間の必要な「滞空時間の長い」テキストが好きなので、中国語の翻訳による文章の硬さが個人的にちょうどよい塩梅で、シナリオに対する高評価の理由なのかもしれません。でもさー、書かれていることの端々に古典文学への教養を感じるんだよなー、いま第3章を読み中だけど、比喩のことを「既知の情報を使って未知の情報を説明する方法」と指摘したのにはハッとさせられたなー、JRPGで教養を感じたり気づきを得たことなんて、この十年でとんとないよなー。原神、ここまでの弱点らしい弱点をあげるなら、男キャラが全員CLAMP作品みたいな肩幅棒手足人間で、女キャラほどには造形にフェチを感じないところぐらいかなー。

第3章前半

 原神の第3章、花神誕祭編を読了。「スメール人は、夢を見ない」のフレーズより始まった森の民と世界樹というドファンタジーの見かけから、世界五分前仮説やシミュレーテッド・リアリティを彷彿とさせる、文字通りの「電脳」を取り扱ったハードSFが語られることになるとは夢想だにしていませんでした。いまは良質な掌編映画を見終えたような読後感に浸りながら内容を反芻していますが、押井守のイノセンスを少し思い出しましたね。また、新たな草神を心に傷を持った都合よく依存するクソチュッチュ幼女ロリータと「描かなかった」のもすばらしい判断です。彼女の造形を見た瞬間、本邦のライターどもなら間違いなくそういうキャラクターにするでしょうからね!

 祭りの主役である踊り子も、最初は頭の弱い美少女みたいな描き方で、ちょっと原神にしてはキャラが立ってないなーと考えていたら、ストーリーの最後の最後ですべて持っていかれました。花神の誕生に捧げる踊りについて、いつものように絵画風ゴージャス紙芝居でやるのかと思っていたら、3Dモデルのまま見事な振り付けのコンテンポラリーダンスを始めたのには、度胆を抜かれました。指先にまで感情が乗った優美な舞で、この踊りをもって彼女のキャラクターが完成したと言えるでしょう。第1章で演劇シーンの音声が中国語のまま残っているところがあるんですけど、調べてみたら京劇の第一人者が演じているので、他言語での代役は立てられないという話でした。踊り子の振り付けもそうですが、これこそがユーザーから貢がれる課金の正しい使い途じゃないでしょうか。本邦で唯一、原神に対抗できる稼ぎ頭であるFGOにも、新聞広告や外部イベントや多くが興味のないアーケード版やしょうもない自社作品リメイクに浪費するのではなく、これを見習ってアプリ本体のクオリティをただただ高めるためだけに、我々のカネを使ってほしいものです。

 あと、女傭兵が木人椿?につけた無数の刀傷について、そのどれをも「いつどんな技を使ってできたものか、抱いていた感情まで含めてすべて思い出すことができる。武人の技とはそういうものだ」と説明する場面に、深い感銘を覚えました。私にとってのテキスト書きが、それに近いものだからです。記述された一文一文について、どのような場所でどのような生活状況でどのような気持ちで書いたのか、すべて思い出すことができます。虚構内のキャラと「一流は一流を知る」をやるときが来るとは、思ってもみませんでした。ここ数年、「過去の資産を食い潰す焼畑」としてのJRPG続編が数多く発売されましたが、そのどれひとつとして原神に勝るものはないと断言できます(エルデンリングぐらい?)。もう失望するのにも飽きましたので、向こう5年ぐらいーー神一柱1年の計算ーーRPGは原神だけをプレイすることに決めました。

第3章後半

 原神の話をするたびにフォロワーとnote記事の閲覧数が減っていくので、もう言及はすまいと決意するんだけど、プレイを進めるとやはり私にとって記述して残すべき心の動きが生じてしまいます。のちにプレイアブルへ昇格するネームドとモブ専用のキャラではモデルの作り込みが違っているのに、JRPGによくある主人公サイドの引き立て役としての「かませ犬」にはせず、丁寧に内面から造形してあくまで対等の存在に描写することで、世界に奥行きを作りだしているのは見事だなあといつも思います。

 いまは新たに更新された第3章の後半部分を読んでいるところで、キチンと訓練を受けた脚本家の重要性をひしひしと感じています。冷静にふりかえれば私をイラつかせ、ときに大激怒させてきたのは、本邦の長編アニメ映画と大作ゲームばかりであることがわかるでしょう。プロの脚本家をないがしろにしてシロウトが好き勝手やるのに大きな資金が与えられ、興行収入や売り上げだけが評価のモノサシとなり、内容への批判は建設的なものさえ、わずかのフィードバックもされることがない。本邦の漫画作品にそれを感じたことは少ないので、やはり両業界が抱える構造上の問題なのかもしれません。そして、その誤ったシステムはどこに起因するかと言えば、それらの発祥に根を持つと考えています。詳しくは私のnote記事のどこかに書いてあるはずですので、ぜんぶ読んでください(宣伝)。

 話を原神に戻しますと、璃月が中華の栄光を描いた物語だとするならば、スメールは中華の暗部をえぐりだした物語であることが、いよいよ第3章の後半で明らかになってきました。脚本家の身を案じるほど、ちょっと危険なくらいストーリー全体を中華の現状に向けた厳しい批判へと寄せているのです。「正しい知識と世界観」を常に与え続けるアーカーシャとは何の暗喩なのか、与えられた知識に現実認識を歪められる大賢者とはだれの暗喩なのか、「いま、ここ」で「これ」を書く覚悟とみなぎる強いテンションに身ぶるいがします。そして、長くアーカーシャからのみ知識を得つづけた者がどんな人間になるかという指摘は、若い世代から老いた世代への痛烈な諫言に他ならないでしょう。また、体制から無価値と断じられた芸術からのカウンターによる鮮やかな一撃は、まさに同じ渦中にある製作者たちの反骨精神の表れとも受け取れます。本邦での弛緩しきった一億総放言(おまえが言うな!)とは正反対の状況が、意志の伴った強度を言葉へ与えているのかもしれませんね。

 みなさんご指摘のように、原神は行った課金ごとアプリが取り潰される危機をはらんでおり、そこまでいかずとも検閲による大幅な書き直しの可能性は常にあるでしょう。今回の話を読んで、ユーザーからの強い要望にも関わらず、バックログが長く実装されなかったというのも、当局の検閲を恐れているからかもしれないと思うようになりました。もし、七神全員の登場を待たずに外的状況から本作が中絶するようなことがあれば、「シミュレーテッド・リアリティの終焉」として現実批判を交えた描かれ方をするだろうと予想しておきます。ともあれ、リアルタイムで体験すべき緊張感をはらんだゲームであることが、最新バージョンで明らかとなりましたので、いますぐ仕事のデータから独立した専用PCと、生活の資金から独立したクレカ口座を用意して、指導部がこの危険因子に気がつく前に、原神のプレイを開始しよう!

 あと、救出された草神の「いま少し怒っている」という言葉に、主人公が「貴方はもっと早く怒るべきだった」と応じる場面には、涙が出ました。私が人生のある局面でかけられたかった言葉であり、対象が消滅したことをもって二度と解消しえない感情になってしまったからです。

 原神、メインストーリーの実装分までをクリア。育成素材を集める時間コストの重いゲームなので、なかなか複数キャラを並行して育てられないことに加え、我が陣営の風元素キャラは飽和状態にある。雷電将軍ピックアップへ向けた備蓄を進めるいま、放浪者を引く気はさらさらなかったにもかかわらず、関連ストーリー読了後にすぐさまガチャを回して、1体を手に入れてしまっていた。このテキスト描写による課金への誘引力は、かつてのFGOが持っていたものと同質の中身である(同ゲームにそれを感じなくなって、ひさしい)。もちろん、物語の演出にはつたない手つきもあるし、他所からの孫引きゆえに理由が欠落して見える設定もなくはない。けれど、「あれ、世界樹内の情報は自分で消せないのでは?」みたいな疑問を抱かせてから、しばらく間をおいてキチンとそれに回答する脚本の組み立ては、近年のJRPGには求めるべくもない精度へ達していると言えよう。

 「摩耗」という単語は、原神のストーリーテリングにおけるキーワードだと確信しているが、神々の語る台詞のいずれにも人の過ごす時間を超越した者の重さを感じられるのは、シンプルに驚嘆すべきことだと思う。登場人物のだれもが「家族より大事なものはない」と繰り返し、「人類の歴史で最重要なのは人情」となんのてらいもなく明言する様子は、私の中へ敗北感にも似た感情をかきたててくる。なぜ、この当たり前を語ることを「ダサい」、もっと言えば「悪い」とさえ考えて生きてきたのか、いまさらながらの疑問にとまどっている。洗練やスタイリッシュさとはほど遠い、大陸由来のこの泥くささが原神の魅力を形づくる本質だと指摘できるだろう。このゲームを通じて、現指導体制になってからの報道やネットでの言説に影響された心情の以前にあった、大陸の文化が表現するものへ向けた好意的な気分(カンフーレディー!)をひさしぶりに思い出している。長い断絶から来る「新鮮さ」が理由の半分を占めていることを自覚しつつも、原神は本邦の生みだした過去からの逆ハック、防御不能のカウンター文化侵略そのものだ。

 ともあれ、これから本作をスタートできる幸運な諸君は、パイモンという謎の知性体に対して気づかれぬよう薄く薄く伏線が張られていくのを、見落とさないよう読み進めてほしい。たぶん、この子がラスボス。

ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOのぐだぐだ新邪馬台国を読み終わったけど、いやー、メチャクチャ面白いなー。あまりに面白かったので、ひさしぶりに大きめの課金をして、千利休を引いてしまいました。「各キャラクターにゆずれない自我と意志があり、ストーリーはその思惑の絡みあいで展開する」という創作の基本ーーシンエヴァとは大違いですね!ーーができており、緊張感のある台詞の応酬も端的なテキストでビシッと決まっている。ほんの短い、姿さえ見せない秀吉の描写にはゾクッとさせられたし、「観客視点からしかわからない敵の罠」という叙述によるカルデアの危機は、もしかすると第1部からここまでを通じて初めてじゃないでしょうか。物語の閉じ方にしても、ファンガスがFGOを通じて伝えようとしているメッセージを、深く理解した上でつむがれているのが伝わってくる。情感の部分もベシャベシャと水びたしになる前に、ダラダラとした余韻を廃してスパッと終わるのも、すごくいい。

 上質な読後感というのは、本を閉じた瞬間から読み手の心へとおのずから生じるもので、それをベラベラ言葉で誘導しようとするのは、書き手に自信のない証拠でしょう。あのね、登場人物のパーソナリティを把握できていないのと、「ファンガスと比較されてどう思われるか?」という恥をかきたくないばかりの自意識が、探り探りのライティングにつながっていて、ゴテゴテと無駄に華美な厚塗りテキストを際限なく増量させてるんですよ。もちろん、トラオムのことを言ってるんですけど、本当に心の底から大ッ嫌いなので、今後のガチャでヤンモリ(爬虫類)がすり抜けてこようものなら、すぐさまマナプリに変えると心に決めているぐらいです。いろいろと新邪馬台国の美点を上げましたが、やっぱりこれ、本業の漫画家としてのスキル特性によるところは大きいと思いますねー。第2部の商品価値を大幅に毀損した6.5章の、巨大数による茶化しではなく、正味で3億倍は優れた仕上がりになっています。有名なネットミームである「この利休に抹茶ラテを」にしても、6.5章の連中ならテキストの表面だけなぞって一瞬で面白さを蒸発させるところを、ギャグ漫画家らしくちゃんと話のオチに持ってきて、「わからなくても面白いが、わかればもっと面白い」につなげている。

 FGOにおけるファンガスって、スタジオジブリにおける宮崎駿みたいなもので、あの時代のエロゲー・オールドスクールの生き残りの中で、当時はどっこいどっこいだったのかもしれませんが、いまやひとりだけ圧倒的に地力がちがう存在になっている。世間一般における知名度で言うなら、まどマギの作者の方が高いでしょうけれど、創作を糧とする者たちは死んでも口にしない(できない)中で、ファンガスの一等地抜く存在をだれも暗黙のうちに了解しているように思います。え、面識もないくせに、なぜわかるんですか、だと? バカモノ! 批評の本質とは、当事者性から距離を保った想像力が現実を抽象化する道筋であり、もし当事者が見たままを書いたら、それはただのドキュメンタリーか内部告発になるだろうが! もっとも近年では、エス・エヌ・エスがすべての事象への「いっちょかみ」を可能にしており、あらゆる個人において当事者性からの距離が失われ、その事実をもって批評的な言説の成立を困難にしていると指摘できるだろう。なに、テキストによる批評の有効性を取り戻すにはどうしたらいいですかって? だれとも交わらず、なにとも接点を持たず、ただひとりの内側で言葉を発酵させること以外に方法はない。

 だいぶそれた話を元に戻すと、ぐだぐだの作者がFGOの中でこれだけ自由に動けて書けるのは、臣下たちが王の威光から離れて思考できないーージブリの雇われ監督たちと同じーーのとは異なった、「宮廷の道化師」ポジションにあるからかもしれません。第2部の残りはさすがにファンガスだけが書くーーほんともう、頼みますよ!ーーでしょうが、新アプリに移行しての第3部では、ぐだぐだの作者へ本編の一章を任せてみてはいかがでしょうか。さすがに6.5章のライターたちよりは、どれだけ悪い方向に転がっても、はるかにマシな仕事をすると思うんですよ。ビッグ・パトロンのひとりとして、心からお願いし申し上げます。