猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

漫画「劇光仮面」感想(2巻まで)

 劇光仮面の2巻まで読む。前作がバチバチのキャラクター・オリエンティッドな作劇なのに、グラップラー刃牙で言うところの「全選手入場!」の段階で終わってしまったのは、記憶に新しいところです。作者本人が「キャラ中心の群像劇を描きあげる力量が無かった」みたいな弱音を吐露をしていましたが、30年選手のベテランがいまだに手クセや予定調和を退けて、ド正面から真剣に虚構へと向きあっていることは痛いほどに伝わってきました。手クセと予定調和まみれなどこぞのシンカイ某にも、この創作姿勢を見習ってほしいものです。その挫折を受けて始まった本作ですが、こちらは作者の来歴とアイデンティティに深く根ざしたストーリー・オリエンティッドな内容で、今度こそ中絶の心配は無いように思えます。

 はじめて現実を舞台にした(だよね?)この物語には、おそらく「虚構が現実に敗北(あるいは勝利)」する結末が用意されているはずですが、強い思想性の持ち主であるにも関わらず、さらに激しいフェティッシュがそれをかき消すという作風が、今度こそ思想性にオーバーライドされてしまうのではないかとひそかに危惧しています。ぶっちゃけて言えば、私が在住する県で発生した大化の改新以来の歴史的事件を下敷きにした最終章へと突き進んで行きそうな気がしてならないのです。そうなれば、これまでの彼の全仕事が新たな視点で再解釈されることにもなりかねません。ともあれ、いま本邦でもっとも緊張感のあるフィクションのひとつであることを疑う余地はないでしょう。劇光仮面、大きな期待と不安の狭間にゆれ動きながらも、おススメです。

映画「THE FIRST SLAM DUNK」感想

 2日連続でスポーツの話題を提供すると陽キャだと思われてしまいそうだが、スラムダンクの映画を見てきた。ご多分にもれず、ハネッかえりの若手クリエイターとクソ声優おたくどもによるネガティブ・キャンペーンに、嫌気がさしてはいた。しかしながら、本誌で連載を追いかけていたリアルタイム世代であることと、初日を越えて「くそ……なぜオレはあんなムダな時間を……」の画像がタイムラインに流れてこなかったため、散髪ついでに見に行ったのだが、このテキストを書きかけて、散髪するのを忘れて帰ってきたことに気づいたほどである。内容的には原作との補完関係になっており、作者本人が脚本と監督を手がけていることもあって単体でもそれぞれ楽しめるが、どちらも知っているとなお面白いという仕上がりになっている。正直なところ、感動に目頭が熱くなったし、結末を知っているにも関わらず、今度こそ本当に負けるかと思った。

 そして、この作品は井上雄彦という作家のフィルモグラフィー(この言葉の漫画版って何ですかね?)を読み解くにあたって、きわめて重要なピースである。スラムダンク連載終了後に始まったバガボンドとリアルがどちらも長く中断してしまっているのは、カラッとしたフィクションで現実を上書きしていく作風だったのが、依拠する現実の重たさにフィクションを浸蝕されるようになってしまったからだと指摘できるだろう。表面上だけは深刻なフリのシンカイ某みたいな脳天気パー子なら、他人の不幸を利用して創作を続けても罪悪感に自壊しないだろうが、彼は聾唖の天才剣士や筋ジスの車椅子バスケ選手を真摯に描こうとするうちに、自分が選んだテーマとその重さに耐えかねて、いつしか筆が止まってしまったのだと推測する。この意味において、本作は表現形式こそ漫画から映画へと移されたものの、創作者・井上雄彦の赤裸々な現在位置を示していると言えるのだ。

 NBAにおけるマイケル・ジョーダンの大活躍に影響される形ではじまったスラムダンクの連載は、本邦でも一大バスケットボールブームを巻き起こした。そして、スーパースターの引退と連載の終了は、そのブームの終焉とリンクしていたように思う。この映画で、チビのポイントガードが主役として焦点を当てられているのは、亡くなった兄の名前をユータにまではしなかったものの、スラムダンクから影響を受けて日本人初のNBAプレイヤーになった、あの選手への目くばせだろう(蛇足ながら、スラムダンクに登場するフォワードたちのような活躍をする選手は、現実には現れなかったからでもある)。自らの描いた虚構が現実へ影響を与えた実例に心理的なサポートを得る形で、創作者としての再起動をはかろうとしたのが本作に隠された裏の意図だと考えるのは、きわめて自然なことのように思える。ともあれ、「THE FIRST」の冠がスラムダンク第2部ーー雑誌掲載時の最終話は「第1部完」だったーーへの布石であることを強く祈っている。

 あと、同じハコから出てきたボンタン・ツーブロック・片耳ピアスの中高生ーーおそらく土建屋の父から見に行けと言われた、末は反社か鳶職かの一団ーーが、エスカレーターに座りこんでスラムダンクの話をしているのを見て、なんだかうれしくなってしまった。本邦の未来は、物心ともに君たちが作っていくのだ。タイムラインに生息するシングル・ルンペン・ブルジョワジーの戯言なんかに、耳を貸すんじゃあないぞ。アイツらは、自分の寿命が無いもののようにふるまえる一世代限りの徒花、学術名・デジタルキグルイだからな。

雑文「世界球蹴り合戦、その本質」

グループリーグ進行中

 7大会ほど世界球蹴り合戦を見続けてきながら、いまだにニワカファンを自認している場末の皇族である。「知識の蓄積によってバランスを失い、レーダーの感度が下がることを嫌う性向」は、どの分野においても私がおたくになりきれない原因だろう。話を戻すと、「4年に一度」というのは世代交代と技術継承を目途とした、人間版の式年遷宮みたいなものであり、世界規模の大きな流れに身を預けて浮いている感じがとても好きだ。いま記憶に残っているものを3つ挙げるとするなら、「高校選手みたいな動きなのに、なぜかヘディングだけで点を取り続けるジャーマン」「漫画なら明らかに脇役のオモシロ容姿なのに、なぜか一人で組織をブチ破るブラジリアン」「力石徹みたいなバシバシ睫毛で美形なのに、なぜか決勝戦で選手にヘディングして一発退場になったフレンチハゲ」であろうか。最後に挙げたものについては、激情のさなかでも手を使わない、ジョブ「球蹴り士」連中の本性を垣間見た気がしたものだ。ヤツらはきっとパブや路上におけるケンカでも、頭と足だけで戦うにちがいない。

 そして何より、このニワカが世界球蹴り合戦に強く感じ続けてきたのは、東洋人へ向けた西洋人のゾッとする差別意識である。普段の生活では理性の力によって99%を抑えこまれているその感情が、勝負のアヤを迎えたり形勢が不利になった瞬間、相手チームだけでなく審判のジャッジごと噴き出してくるのだ。言葉にすれば、「アジアの黄色いサルどもに、文明の長たる西洋諸国が劣るなどありえない」という、歴史に根ざした強烈な優越感情である。心の奥底に潜む殺意とも似たそれが、ゲームの結果にまで影響を及ぼすのが世界球蹴り合戦という舞台であり、その場所は令和を迎えてなお、私の中にある「物心ともに汚らしい昭和」と類似したイメージを保持し続けてきた。それが本大会ではどうだ、ピッチ全域に感情も国籍もない人工知能の目がはりめぐらされた途端、バーバリアニズム最後の聖域から人種差別は一掃され、清浄なる公正が実現したのである。球蹴りの本質と骨がらみで切り離せないと信じていた汚辱が、いとも簡単にヒョイと外科手術で分離されてしまったことに、得も言われぬ感動を覚えている。

 もしかすると人間世界は、良い方向に進むこともあるのかもしれない。

質問:サッカーワールドカップのことで質問です。VARのおかげで「人種差別は一掃され」と書かれていますが、どのへんを見てそう感じられたのですか?
回答:具体的には、アルゼンチン対サウジアラビアとスペイン対日本の試合です。これまでの大会ように人間のレフェリーだけだったら、どちらも結果は逆になっていたでしょう。いろいろ記事を眺めていたら、さっそくVAR廃止論が持ち上がってて、笑いました。西洋諸国のホワイトな方々は、悪い意味でブレませんねえ。自由があれば「自由を我らに」と叫ぶ必要はないし、差別がなければ「差別をなくそう」と叫ぶ必要はないのです。

アルゼンチン対オランダ戦後

 ごめん、やっぱこれ撤回する。サッカーって、バーバリアニズムの聖域だわ。

雑文「HEVBUNとFGO、そしてKANCOLLE+α(近況報告2022.12.3)」

 ヘブバンの新イベント進行中。前回の心霊イベントと同じく、うわすべりするシリアスパートが厚めでギャグにキレがない。「剣術免許皆伝で首斬り介錯人の女子中学生、しかしてその剣は非情ならぬ有情」みたいな設定を大まじめに語られても、わたし、こんなときどういう顔をしたらいいかわからないの。まあ、この作品自体が転スラならぬスラ転(スライムが転生したら美少女だった件)なわけで、いまさら目くじらを立ててもしょうがないことは百も承知です。……などとヘラヘラ譲歩を見せていたのに、イベント戦闘がオートで突破できない調整の上に、リトライのたび大幅な巻きもどしをくらうため、「はい、クソー」と叫んでスマホを放り投げて、3度目の引退が決まりました。セガサターン時代のゲーム制作者が、盤外で行われているコンマ1秒単位の可処分時間戦争にまったくセンシティブではない、ノー・アップデートの感性で実作に当たられているのは、端的に言って最悪ですね。

 そういえば、FGOのボックスガチャに併設してあったコンティニュー無し高難易度も、実装キャラの90%以上を持っているにも関わらずメンドくさすぎて、ひとつもクリアせずに終わりました。艦これイベント海域のカリカリにチューンされた甲難度もそうですけど、ゲームにまで求道的な要素を入れてくるのって、我々の国民性に由来してるんでしょうか。その点では、中年おたくがみんな嫌っている原神の「8割ぐらいの育成で、余裕をもってエンドコンテンツをクリアできます。時間と手間とお金をかければさらに強くなりますが、そこは各自の判断でご自由に」というバランス調整は、もはや昨今の世界標準であるような気がしてなりません。ホニャララ「道」という言葉の体現していた、かつては美点だった本邦の特性が、いまや反転して弱点と化してしまっているんじゃないですかねえ。

アニメ「艦これ第2期」感想(3話まで)

 艦これアニメ、第2期?の3話まで見る。2話以降、無視と称賛しかないタイムラインに、まったく感想が流れてこなくなった理由がわかりました。うーん、どうして毎回こうなっちゃうんでしょうねえ。最大限に譲歩したとして、10年近く提督をやってきた戦史研究家なみに太平洋戦争にくわしい人物が、1ページあたり3行しか書かれていないラノベの行間をスーパー早口のウンチクで埋めないと楽しめない感じが、全体にただよっています。前シリーズの1話に「クロモソームの少ない学芸会における気のくるった出しもの」みたいな書き方をしましたけど、本作での真っ暗な背景でキモいクリーチャー相手に美少女の上半身だけが動きまくる戦闘シーンは、「車椅子バスケの幕間で行われる残念なパラパラダンス」にしか見えません。9年目の古強者プレイヤーとして、何の素養もない一般人がこれを目にしたときの感想を想像するだけで、悶絶しそうになります。

 艦これのプロデューサーが自分の考えに固執するという意味で、ファンガスばりの超弩級おたくであることは有名ですが、初期の炎上に懲りたのか最近ではめったに表舞台へ姿を見せなくなりました。しかしながらその影響は消えるどころか、本作にも彼のブランド(焼印)からたちのぼる臭気がむせかえらんばかりに横溢しているのです。みずから構成と脚本までを手がけて、イベント海域の難易度調整のようにグリップをきかせているこの第2期?は、教室で自作のイラストノートをクラスメイトに取りあげられ、「へー、おまえこういうのが好きなんだー」と辱められるときの記憶、泣き笑いの表情で絶句するような感覚に満ちあふれています。だからさあ、ちゃんとプロの脚本家を雇えよ! なんでただの軍艦好きのアマにプロと同じことができると思ってんだよ! 出ッ歯を水平方向に突き出しながら、「ラノベやアニメの脚本ぐらい、だれにでも書けると思いましてー」じゃねえんだよ! ストーリーテリングは言語運用能力とは無関係の、ことほぐべき「異能」なんだよ! 幼少期のアガサ・クリスティの逸話を読んでこいよ! 小鳥猊下の挫折を20年も追いかけてきて、そんなこともわからねえのかよ!

 ……すいません、年甲斐もなく少し興奮してしまいました。あと、オープニングの曲も大作映画のエンディングがごとき壮大さで、例のプロデューサーの作詞らしいんですけど、あのさあ、なんでプロの(以下略)! ……非常にバランスが悪く、これを冒頭に配して毎回を聞かせる自己陶酔の雰囲気に、失敗の原因がまざまざと表れていると思いました。おたくが忌避されてきた理由の最たるものが客観性の欠如、いわゆる「空気の読めなさ」であることを、あらためて他者のふるまいから自覚させられています。何年もこんなゲームをプレイし続けているのが、とても恥ずかしいです。

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」感想(8話まで)

 諸君ら陰キャのコミュ障がモーレツにおススメしてくる「ぼっち・ざ・ろっく!」を7話まで見る。前に指摘した「ほとんどの人間が知恵と才覚を持っているが、胆力の無さに出力の上限をはばまれて成功できない」を地で行っており、「けいおん!」の令和ネガ・バージョンといった感じでとても楽しめました。ただこれって、中年男性の趣味を女子高生にやらせる作品群のバリエーションでもありますね。主人公のぼっちっぷりが、完全に男性のそれ。女性の人間関係からイヤな部分を脱臭して、そのグループに女子高生へと扮したコミュ障男性を配置することで、現実でなら少しも笑えない状況をコミカルなグルーヴへと昇華させているのです。最終話に向けて、主人公の成長譚に寄せすぎると陰キャ男性から向けられる「等身大の自分」への共感が消滅してしまうような気がしますが、彼らは地下アイドル時代から応援していたプッシー(推し、の意)のメジャーデビューへと視点を移動させて、それを回避するんでしょうか。

 ただ、この物語を成立させている「必然性のある偶然」には、壊れたインターネットという実家の押し入れで20年以上をテキスト垂れ流しのbot-i(ぼっち)ちゃんとして存在する身としては、強くあこがれてしまいます。万単位のフォロワーを持つ美少女が私のテキストを見初めて「bot-iちゃん、すごーい!」とキラキラしたリツイートで拡散してくれたり、現世のパブリッシングの権威である妖艶な美女に「このテキスト力、まるで小鳥げ……いや、まさかね」などと気づかれたりしたいなあなどと妄想しながら、押し入れから過去テキストをエス・エヌ・エスに放流する日々を送っています(壁面にピン止めされた故人を含む集合写真をながめながら)。

 ぜんぜん話は変わるけど、パイモンってポートピア連続殺人事件におけるヤスのポジションな気がするなー。

 「ぼっち・ざ・ろっく!」の第8話を見る。わかる。世界は、前傾姿勢で目の届く手元にしかない。

雑文「SUZUMARI IMPACT」

 原神、伝説任務で民衆にむけたナヒーダの演説を聞く。ゲーム内のできごとを語っているようでありながら、「寝そべり族」や「Z 世代」へのメッセージとも取れるのは、あいかわらずうまい。クラクサナリデビ様には、私の人生も統治してほしい。なに、早々にゼットを使ってしまって、次の世代はどうするんですかね、ダブルゼータ世代ですかね、だと? バカモノ! このガンダム世代めが! 次の世代が出現するのを待たず寿命を迎える金満の老人が、自分たちが楽しめる最後の若者の貧困に名付けたネーミングだということがわからんのか! 「ボクたちZ世代!」などと、高層ビルの鉄骨渡りの馬主からつけられたゼッケンを嬉々として見せびらかしとらんと、もっと真剣に侮辱されている事実へ激怒せんか! 貴様らの起こす暴動蜂起は、かつての学生運動よりはよっぽど正当性を担保されたものになるわ!

 あと、昨日アップしたnote記事に、東日本大震災で津波被害を受けた高校の公式アカウントから、ひっそりと「スキ」がつけられているのに気づきました。その静かな怒りを重く受け止めるとともに、あらためて関係者のご冥福をお祈りします。マコト、エヴァを偏愛するあまり、その臭気はなつ負の部分までをコピーしてのけたのは、ファンとして見事という他はない。ただ、作ってしまったフィクションの言い訳に奔走するのはもうやめて、観客の受け止め方をコントロールしようとするのはもうやめて、あとは作品のみに語らせるべきじゃないか。それこそが、クリエイターの「覚悟」ってもんだろう。

映画「すずめの戸締まり」感想

 すずめの戸締まり、愛最大(アイマックス)で見てきた。nWoからおずおずと提案させていただいた持続可能な創作目標であるところの「地方行政と結託したご当地巡り」を素直に受け入れた九州を舞台とするオープニングから、四国・神戸・東京を順に旅していくロードムービー感がたいへんにすばらしく、何より女子高生からスナックのママまで女性の描き方があらゆる年齢層で過去最高に気持ち悪くない。おそらくよくできた奥さんと、たぶん中高生になった娘さんと日々むきあう中で、彼の中にあった「おたく特有の女性に対する偏見」が希釈されていった結果なのでしょうね。カタカタ椅子の走り回る奇想天外な序盤も、奥さんが娘さんに読み聞かせた「ふたりのイーダ」なんかが着想の原点なのかな、などと微笑ましい気持ちで眺めていました。じっさい、物語の中盤までは「新海誠の集大成にして最高傑作!」というタガの外れた宣伝文句に同調していく気分さえあったのですから。それを、民俗学をフレーバーとした類似ケースの匂わせに止めておけばいいものを、突如「ボクは覚悟を決めました!」と絶叫するやいなや、懐メロをバックにフルスロットルで不可触ゾーンへと特攻していったのです。これには、前半の好印象がすべて蒸発・気化するレベルで吃驚仰天しました。東京が水没していないことからもわかるように、本作は意図というより結果として「君の名は」「天気の子」と舞台やキャラを継続させた「東京3部作」ではなく、テーマだけを引きついだ「震災3部作」の完結編であることがここで明らかとなります。

 新海誠が公には言えないほど重度の「異常福音戦士偏愛者」であることは「ほしのこえ」の昔から有名な話で、本作もミミズ消滅の演出など、映像的にはエヴァ序破ーーと、たぶんシン・ゴジラーーの強い影響下にあります。しかし、それは表層だけの話であり、根深いのは空虚な駄作にすぎないエヴァQから、真剣に意図を読み解こうとする過程で被った思想的な侵蝕です。彼はエヴァリブート第3作目が無惨にも大失敗した理由を真摯に考え続け、同作が東日本大震災との関連を明示しなかったために「依拠する現実を失った荒唐無稽な作りごと」へ堕したのだという結論に至った。そして、エヴァQができなかった東北の災禍と震災孤児を真正面から描くことを「逃げずに」やらねばならないと、真面目な監督はついに「決意して」しまったのでしょう。商業サイドからの要請に過ぎない、いくらでも回避できる外挿的な圧力を、例えば「作家の宿業」などといった言葉で内在化して、自己陶酔的に「覚悟を決めた」様子が物語の後半からありありと伝わってきます。さらに指摘しておくと、本作は九州から東京までがエヴァ序破の映像的オマージュ、東京から東北までがエヴァQが隠蔽した裏テーマへのアンサーという構成になっているのです。

 「天気の子」の感想に、「フィクションなんだから街のひとつやふたつ壊したって構わない」と書きましたが、それはその災害がフィクションだからこそです。「この世のすべての問題の当事者であり、いずれにも関与して解決することができると信じる」のは極めて少年漫画的、もっと言えば幼児的、あるいは昨今のSNS的な誇大妄想に過ぎません。人の世を生きていけば否応に立ち位置は生じてくるもので、この作品のメッセージを受け止めた上で肯定的なまなざしを送れるのは、陰キャのクリエイターを焚きつけて理性のネジを外させた陽キャのプロデューサーか、現世のあらゆる事象から等距離を保つ独居ディレッタントぐらいしか思いつきません。「批判は覚悟の上で、被災児童と里親との関係性を鋭くえぐりだした」みたいな言い方は、この世には軽々に部外者が踏み込んではいけない場所があることを意識的に無視した暴挙であり、人としての無神経とデリカシーの欠如について、興行収入を盾に「作家の覚悟」と読みかえる傲慢さのあらわれでしょう。昔からのファンが「異常性欲者」なる言葉で揶揄するように、嬉々として「あの場面の力点は適齢期を逃した叔母の心情ではなく、どれだけ女子高生の心を深く傷つけられるかというサド的性癖によるチャレンジだ」などと語れる規模の作家ではもはやなくなっているのを、他ならぬ当人が自覚すべきでしょう。

 物語の終盤、震災孤児へと送る励ましのメッセージがでてきますが、医者に呼ばれた親族だけの病室へ見知らぬ人物が闖入し、「それでは、健康優良かつ五体満足かつ赤の他人である私から、末期ガンで名前も知らない病床の君へ、心づくしのエールを送らせていただきます!」と叫んでフレーフレーとやりだしたとき、親族の一員である貴方の行動がどんなものになるか想像してみてください。それと同質のものを、美麗な映像と壮大な音楽で逃げられない劇場の椅子へ押さえこまれて聞かされる怒りと失望ったらないですよ。エヴァQへの批判に「けたたましい鎮魂があるものか」と書きましたが、本作の終盤はまさに「ひどく神経にさわる、けたたましい鎮魂」となっていて、もはや作家性という言葉では擁護できないほどの、現実のだれかに対する厚顔無恥な狼藉の域にまで達しています。

 さらに最悪なのは、真面目で小心な監督が自ら選んだ結末へどんな非難が向けられるか不安になったのでしょう、来場者全員に同人誌を配布して等身大の己を見せることで、観客へのエクスキューズとしたことです。冊子のタイトルが「すずめの戸締まり読本」ではなく「新海誠読本」となっているのがミソで、これはシンエヴァが本邦の創作界隈に残してしまったバッド・イグザンプルの最たるものでしょう。作品に語らせるのではなく、作家個人に対する共感を観客に引き起こし、瑕疵のあるーーと本人が疑っているーーフィクションへの強い風当たりをあらかじめ弱めようとする無様な試みで、もっと言えばクリエイターの敗北なのです。どうも舞台挨拶で「本作がこうなったのは、皆さんにも責任がある」とか言ってるみたいで、真面目すぎる性格の人物が身の丈を大きく越えた題材を扱ってしまった結果、それに潰されないための精神的高揚と攻撃性を無理に作りだしているように見えます。人為的な躁状態は簡単に反転しますので、彼を焚きつけた周囲の大人たちはちゃんと精神状態をケアしてあげてくださいよ! マコト、大丈夫だから、震災孤児とその里親以外は、だれも本作を正面から受け止めて「世の悲惨をエンタメ化する手つきの、なんという醜悪さか」なんて言わないから(言ってる)! 問題作を世に問うてしまったことへの鬱状態から回復した監督の次回作は、間違いなくコロナ禍を題材としたものになるでしょうし、シンエヴァで庵野秀明から送られた目配せに頬を赤らめながらウインクを返す内容になるだろうと予言しておきます。おい、こんなのは二人で喫茶店とかでやれよ! おたくどうしの気持ち悪いやりとりを、全国の劇場を占拠してやってんじゃねえ(幻視)!

 しかしながら、「ほしのこえ」のときにはこの世におらず、「君の名は」にドはまりしてノートに「お前は誰だ?」と大書きし、「天気の子」にはさして興味を示さず、いまはもうここにいない人へ想いをはせると、同じアニメ作家を20年以上追い続けることの普通でなさを客観的に自覚させられますねー。

雑文「いつも心にデンジ君を」

 チェンソーマンのアニメ見とるけど、漫画のほうはパワーの顛末から始まる後半戦の印象が強烈すぎたさかい、なんやデンジ君のキャラがどんなんやったかすっかり忘れとったわ。ええか、おなごども、これだけはゆうとくで、男っちゅうもんはな、みぃんなデンジ君なんや。博士や大臣から大卒のカシコから中卒のトビまで、男の人生にはまちがいのぉデンジ君やった時期があんねん。心の中のデンジ君とどう向きおうたかが、男の一生を決めると言い切ってしまってもええと思うわ。よろしか、どんなごっついべべ着てカネをぎょうさん持ってようと、男はすべからく心のどこかにデンジ君を飼ぉとんのや、それだけは忘れんとってや。

 しかし、なんや、あれやな、「食欲が満たされたら、次は性欲」ゆうんは、昭和やったら恰幅のええ背広のオヤジが金むくの指輪をはめた手ぇで歯にはさかったイタメシを楊枝でせせりながら、同伴のワンレンボデコンおミズをねっとり眺めるようなイメージやったやんか。いやいや、そうやったって、記憶を美化したらあかんて、駅のホームは痰壺から黄色い痰がはみでとったし、街の道路は吸い殻とプルトップでおおわれとったって。チェンソーマンのアニメ見ててな、令和の「衣食足りて性欲を知る」っちゅうのは、こんなにもつよぉ貧困のイメージとむすびつくんやなって思たら、なんや切のうなってきてしもてん。ワシがおなごやったら、デンジ君みたいのがおったら、なんぼでもタダでオメコさせたるけどなあ。デンジ君からただよう悲しみはな、男であることの本質的な悲しみや。おなごどもは最近、ちょっと自分をたこぉ売りすぎとちゃいまっか。そんなん、ぼくらデンジ君には買われへんで。

ゲーム「ブルーアーカイブ・エデン条約編」感想

 ブルアカを早々にリタイアしたと言いましたが、第3章の評判がすごくいいので始めた側面があり、それを読むためにコツコツAP消費でレベル上げだけはやっていました。そして、昨日ついにエデン条約編を読んだのですが、たしかにみなさんおっしゃる通り、とてもおもしろかった! 第1章のさわりだけ読んで、あとはテキスト全スキップで進めてきたため、最初はかなり懐疑的な気持ちだったのですが、冒頭シークエンスから一気に引きこまれました。ここに至るまでストーリーをほぼ読んでいないので、対立する組織と人間関係を理解するのに苦労したものの、ドーンと落としてからガーンと上げてタイトル回収までする、少年漫画の王道を映画化したような内容に胸をうたれました。特に、後半のパートで示された「自分のものではない憎悪」というのは、いまを生きる上で重要な考え方だと思います。「継承される他者への憎悪」とは、養育者から感情を伴った身体性として与えられるため、体感としてのリアルを否定しにくい。それを克服する道筋は人の数だけあり、憎悪を解消できない者がひとりでも残れば、その人物の社会的な属性によって本邦が経験し続けているテロから海の向こうで始まった戦争まで、あらゆる破滅の萌芽に至る可能性を排除できないことなってしまう。

 エデン条約編、全体としては好意的に受け止めながら、気にかかるところを3点ほど挙げておきます(これをやるから、人が離れる)。1つ目は、「歴史の闇」「累積する憎悪」そして「人を殺すということ」、これだけ今日的でハードな中身を描いておきながら、言ってもせんのないこととは承知しつつ言葉にするならば、登場人物の全員が美少女かつ未成年だというところです。現代の男たちは己の性別に対する懐疑と多くの矛盾した要請を投げつけられ、そのどれをも果たそうともがき続けた結果、確実に好意だけを寄せてくれる美少女たちに励まされることでしか、社会的な課題や人間関係の軋轢とは対峙できないほど弱りきっているということなのかもしれません。

 2つ目ですが、「人を殺すことによる不可逆の変容」を説得力ある筆致で描写しておきながら、第3章を通じて結局だれひとり死んでいないのには拙者、「おろ? 不殺の誓いにござるか?」と反射的に揶揄してしまったで御座候。ガチャに入っているキャラを退場させられないのは、アプリゲーのストーリーテリングにおけるメタ的な弱点であると感じた次第に回転焼。そういえば、殺人への大きな意味づけをしながら最後の一線を越えられない作品って、なにかあったなー、なんだったかなーと考えていたら、グラップラー刃牙だった。

 3つ目、ブルアカは半島の制作会社によるゲーム(大陸産とカン違いしてて、すいません)で、この物語をつむぐ日本語がノンネイティブによるものだとしたら、もしかすると我々は我々の言語が本質的に変容していく、その端緒にいるのかもしれません。ブルアカや原神のプレイヤーは若い世代に多く、彼らが復唱したくなるセリフや心うたれるフレーズは、いまや他言語の話者によって書かれているのです。だとすれば、旧世代の最後の生き残りである言語魔術師(笑)として、古ぼけたこの秘儀をインターネットの片隅で細々と伝えていくことが、私に残された最後の使命なのかもしれません。