猫を起こさないように
<span class="vcard">小鳥猊下</span>
小鳥猊下

パアマン(?)

 知らず折り曲げた指が地面を掻き、伸びた爪の間に侵入する砂の不快感が、私を覚醒させた。
 私は先づ自分の身体を見下ろし、其れから、周囲へと視線を向ける。
 其処は、莫大な伽藍だつた。否、正確には莫大な伽藍だつた物の廃墟と云ふべきか。
 振り返れど、其処には何も無ゐ。
 見回し、壁も天井も、踏み締める地面を除ひては、此の膨大な空間を限定する物は何も無かつた。
 立ち並ぶエンタシス式の柱が、辛うじて人の存在を許す回廊を、莫大な空間の中に切り取つてゐた。
 「やあ、ようやくこの場所へたどり着いたか。君も存外間抜けだな」
 莫大な空間を響き渡る風のうねりのやうな物が、鼓膜の上へ集約し、意味の有る音像を結ぶ。
 気が付ひて振り仰ぐと、遥か上方から、薄ゐ光が射してゐる。
 天井は、矢張り見えなゐ。
 差し込む微かな光に舞ふ塵埃は、嘗て其処に在つた物共への、栄耀の残滓を思はせた。
 「環境の起伏が人間の中へ価値判断の基準を生じる。起伏とはつまり、完全な平面状態からのいくつかの欠落を意味すのだけれど、ぼくたちが生まれたとき、ぼくたちを取り巻く環境にはその起伏がまったく無くなっていた。つまり、ぼくたちは何の欠落も無い状態で、完全に正しく育てられすぎてしまった。だから、ぼくたちの中には何の価値基準もない。そのかわりに、ぼくたちは他の世代すべての等しく持つ価値の歪みを客観的に察知でき、場合によっては適切な批判を加えることもできる。しかし、その客観性はあまりに客観的すぎるんだ。価値基準が世界と反応して生まれた違和感が個人に発信をさせるが、価値基準を持たないぼくたちには発信することができない。せいぜいがその永劫の客観性の中で、批判の言葉を加えるくらいだ」
 身を起こさうと前傾すると、頭の上に乗つてゐた帽子のやうな物が床に落ちて、渇ひた音を立てた。
 両目の為の覗き穴が刳り抜かれた、丁度青ひ洗面器のやうな其れは、私の感情に細波一つさへ、起こさなかつた。
 私は肩にへばりつく、ぼろゝの外套を剥ぎ取つた。
 何か鋭ひ爪のやうな物で裂かれた跡の在る其の外套は、不自然な程長く宙空に留まつた後、フワリと床へ落ちた。
 「その意味で、ぼくたちはつねに自分たちを例外的な存在としてきた。つまり、世界の埒外にいて、そこから世界を観察し、ときに批判する存在として存在してきた。ぼくたちは、永遠の聖なる傍観者なのだ。現実を、そこに汚れることを誰よりも強い焦燥感で熱望しながら、本当の意味では一生涯、そこにわずかでも触れることはかなわない、さまよう幽霊のような存在がぼくであり、そして君さ。この状況は極めて絶望的だが、絶望は現実に属するものなので、ぼくと君は本当の意味で絶望したことなど一度もない。ぼくも君も、そう、あの人が死んだときだって、実際少しも悲しくなかった。次の朝目が覚めたとき、昨日は確かにあった絶望のポーズのようなものはすべてきれいさっぱり消えていて、いつものような生きていないものの持つ気怠さだけが、唯一最も愛おしいものであるかのように身体の芯にあった。すべての現実に属する感情は、ぼくや君にとって一種の演技であり、ポーズなのさ」
 頭の底に軽ひ頭痛がある。
 声の内容は良く理解出来なかつた。
 だが、声の伝えやうとする気分は、恐らく殆ど完全に理解する事が出来た。
 「だからもう、このへんで終わりにしないか。世界はどこにも確定しないらしい。どれだけ言葉を積み上げても、世界は確定しない」
 突如、映像が脳裏にフラツシユバツクした。
 木漏れ日と、少女と、在り来たりな午後と。
 其の意味する処は解らなかつたが、其れは何故か私に力を与えた。
 私は屈み込むと、洗面器と外套を拾ゐ上げた。
 軽く砂を払ふと、再び其れらを身に纏ふ。
 「どれだけ繰り返したところで、それはきっと同じなんだ。同じ絶望に、何度も繰り返し気がつくだけなんだ」
 焦るやうな早口で、声が告げた。
 絶望は、無い筈では無かつたのか。
 其の裏腹さに、微かな愛おしさを覚えてゐる自分に気が付く。
 私は知らず真直ぐ上へ、微かに光の漏れる遙かな上へ、人差し指を掲げてゐた。
 其れは自分の為と云ふより、寧ろ声の主に感じた愛おしさの為だつた。
 完全な沈黙が降りた。
 確かめるやうに、床から僅かに浮揚する。巻き上がる砂埃が円を描くやうにして、周囲へと散る。
 瞬間、柱の間を吹く風が鳴り、私の鼓膜に声を結んだ。
 最後に聞ひた声は、酷く力無く、そして、酷く優しく響ゐたやうに思えた。
 「君は、本当に強情だな」
 私は、微かな光を目指して、上昇を始めた。
 この物語は私ひとりのものではなく、私ひとりが語るものでもない。しかし物語は一つである、そしてまた事実として語られる事柄が、語り手によって、違った響きをもつときは、貴方がもっとも好ましいと思われる事実を、事実として選べばよい。かといってそのいずれもが虚偽ではない、そしてすべては一つの物語なのだ。

(ル・グィン、『闇の左手』)

遊児 vs 酷男 ファイナルウォーズ

 土間から座敷へ上がる式の、和風居酒屋。額と頭頂部が一体化しつつある、薄く色の入った眼鏡をかけた男が背中を丸めて、周囲のざわめきに埋没するように食事をしている。大柄な白人女性と、その半分ほどの背丈の小男が店に入ってくる。少し遅れて、”腰を低くする”言葉どおり、ガウォーク状に腰を屈めた男が、作り笑顔と、指紋の消えた手でする蠅のごとき高速の揉み手で後に続く。揉み手からぶすぶすと立ち上る煙。
 小男、白人女性との会話――よく聞くと、数種類の四文字語をイントネーションを変えて話しているだけ――に没頭しているふりで通り過ぎるも、突然大仰に振り返る。
 「(プリマのような必死の背伸びで、白人女性の肩口から胸部へ手を回そうとしながら)おやおや、どなたかと思えば、これはホーリー先生じゃありませんか! 先生ともあろうお方が、こんな場末の居酒屋でひとりお食事とは、なんとまあ(額に手のひらを打ちつける)」
 「(薄くなった頭頂部から大雪山の角度でなでつけた前髪に、こめかみの青筋を隠しながら)贅沢というのは、やりすぎると慣れてしまいますもので。いまではこのくらいに落ち着いています。(白人女性と枯痔馬の頭頂部のそれぞれの位置の差を、首を上下にしながらためすがめつして)身の丈に合わないことをすると、『芸が逃げる』と言いますからな。(充分な間。首をかしげて)ところで、どちら様でしたかな?」
 「(つんざく怒号で)賢和ッ!」
 「(回転レシーブの要領で枯痔馬の前に飛び出す)はイィッ、監督ッ! なんでございましょうかァッ!」
 「ホーリー先生に名刺をお渡ししろ(立てた親指で指示する)」
 「了解しましたァッ!(回転レシーブの要領でホーリーの前に飛び出し、名刺を手渡す)」
 「(眼鏡を額に上げて、目を細める)なるほど、あなたがご高名な枯痔馬酷男さんでしたか。私は名刺を持ち歩かなければならないほど、人に知られていないという状況が少ないものでして……(片手で髪を掻き上げる)ホーリー、遊児、です」
 「(右頬にチック症状が現れる)一度、ホーリー先生とは個人的にお話をしてみたいと思っていました。(ホーリーの前の席に目線をやる)よろしいですか?」
 「(手に持った杯を一飲みに干して)なァに、そんなに恐縮することはありません。ときどき出すゲームをせいぜい400万本しか売り上げることができない、しがないゲーム作家の晩酌、どなたに同席されようとも、(鷹揚に缶入りの煙草を抜き出して、火を付ける)孤独を癒す喜びでこそあれ、(煙を枯痔馬に向けて吹きつける)邪魔だ、などということはあろうはずがないです」
 「(煙を左手で払いのけて)賢和ッ!」
 「(回転レシーブの要領で枯痔馬の前に飛び出す)はイィッ、監督ッ! なんでございましょうかァッ!」
 「(千円札のみで構成された札束を床に放り投げて)その、(口端から泡を吹く発声法で)ビィィィィッチに支払いを済ませておけ」
 「了解しましたァッ!(背筋をのけぞらせて軍隊式の敬礼をすると、困惑する白人女性の手首をつかんで店の外へ出てゆこうとする)」
 「(つんざく怒号で)賢和ッ!」
 「(白人女性を突き飛ばし、直立不動の姿勢をとる)はイィッ、監督ッ! なにか不備がございましたでしょうかァッ!」
 「(本人は決めポーズだと思っているのだろう、傍目には『屠殺場の直立できる家禽』としか形容しようのない有り様で上半身だけで振り返り、ウインクに失敗した片目だけの半目で)お釣りは全部、俺のものだぜ?」
 「了解しましたァッ!(背筋をのけぞらせて再度軍隊式の敬礼をすると、困惑する白人女性の手首をつかんで店の外へ出てゆく)」
 「(ゆっくりとホーリーの方へ向き直る。頬のチックは消えている)これで二人きりです、ホーリー先生」
 「(鷹揚に煙草をもみ消しながら)やれやれ、どうにもぞっとしませんな。そんな大きな声を出されたら、どんな偉大な人物がこの場末の酒場の一角を占めているのか、気づかれてしまう(懐から色紙と極太マッキーを取りだし、試し書きを始める)」
 「(カウンター席で銚子の山に埋もれていびきをかいていた男、女店員に揺り起こされて涎をふきながら)なんだ、女将。デュアルスクリーンが右の乳房と左の乳房でそれぞれ占拠されるという夢を見ていたのに……ヤヤ、もしかしてあそこにいる二人は……(突如垂直に1メートルほど跳び上がり、その跳躍の頂点で180度の角度になるまで前後へ開脚する)た、たいへんズラ! こんな場末のハッテン場で、ホーリー遊児と枯痔馬酷男が対談を繰り広げているズラ! とッ、特ダネだァ! 輪転機を止めろォい!(下駄を鳴らしながら店外へ駆けだしてゆく)」
 「(その後ろ姿を満足げに見やりながら)全く同感です。誰もがその言葉を”千金の千倍を積んでも”聞きたいと思うホーリー先生。そして、シアトル在住のおばが国際電話で『酷男ちゃん、ゲーム作ってるんだってねえ! 酷男ちゃんにハリウッドからオファーが来たりしたら、オバチャンのとこにもテレビカメラ来るのかしら。ねえ、カメラ来るの?』と、個人的感想を思わず赤裸々に語らざるを得なかったほど、全米を揺るがした最新作を上梓したばかりの私。この二人がここにいるんですから」
 「(試し書きの手を止めて、上目づかいにジロリと見て)枯痔馬さんは、思っていたよりもずっとお若いんですな」
 「(小鼻を膨らませて)不惑を目前にした12月24日、独身仲間との毎年恒例のサバゲーの最中に突然開花した、ボクの瑞々しい感性、青々と繁りゆく天賦の才能。ホーリー先生がそのことを意識なさっているのはよくわかります。なぜって、人生も半ばをとうに越えられた先生が、日々の衰えのうちに最も感じざるを得ないはずのものを、目の前のこの男は持っているんだから!(両手を広げて回転する)」
 「(卓に押しつけすぎて先端部の粉砕したマッキーを土間へ放り投げて)お若い、お若い。若いというのは恐れを知らないということですからな。(煙草に火をつける)しかし、お若いからなんでしょうかなあ……(煙を吹き上げて)枯痔馬さんの新作、拝見させて頂いたんですがね」
 「(小鼻を膨らませて)天下のホーリー先生にお見せするようなものではないのですが、先生から積極的にご覧になったというのなら、感想を聞かないわけには参りますまい」
 「そうですな、(真顔で)ゲーム進行中、場面の合間の実写活劇が省略されて話がつながらないことが頻繁にありましたが、あれは枯痔馬さん、どういう演出意図をもっておられたのです?」
 「(頬のチックが再開する)あれはッ! あれは、単純に製造工程上の問題で、私の手元を離れた後での、ボクは悪くないッ! きっと工場のブルーワーカーたちがボクの才能に嫉妬していらぬ細工を…クソッ(拳で卓を一撃する)」
 「(愉快そうに)では、あれはただの不具合だったんですな。ハハ、年を取ると気が長くなっていけない。十年前の私なら、そうとわかっていれば、ジグソー状にノミでもって丹念に粉砕した光学式円盤に、ナタで切断した雄鶏のとさかの部分を同封して、そちらの販売会社さんか、さもなくば枯痔馬さん宅かへ、直接郵送していましたものを(呵々と笑う)」
 「(1秒の10分の1に一回ほど発生する右頬のチックを顔の角度を傾けることで相手に見えないようにして)乱丁・落丁の取り替えを作家本人に請求する筋は聞いたことがありません。賢明なご判断でしょう」
 「(真顔で)冗談ですよ。お互い嘘を商売にするのに、枯痔馬さんは少し発想が真面目過ぎるんじゃないですか。私が深夜にバイク便へ電話するのを思いとどまりましたのは、その言動の一つ一つが肌に皮膚病の痒みを生じさせるよう緻密に計算された、前作の例の(悪意を込めて愉快そうに)イケメン君の大活躍が消しがたく念頭にありましたので。敵陣営の中核に当たる人物を確かに打倒したにも関わらず、実写活劇は挿入されず、他の登場人物の誰もその一件に触れない状況に遭遇したときなぞ、またぞろ前作の後半部のようにメタメタ(この場合、メタフィクション・メタフィクションの略)に展開してゆくための大胆な伏線に違いないと、いつ突然場面が転換して無線の”デンパ”が飛んでくるか冷や冷やしていました。(肩をすくめて半開きの両手を全面でゆらゆらさせながら焦点の合わない両目で、女性の声音で)『ピー。ガ・ガー。癩伝、あなたの倒したと思った敵は実在しないの。それは社会的偏見と呼ばれるもので、人々の頭の中や、あなたの頭の中にしか存在しない、決して打倒し得ないものなのよ!ピー。ガ・ガー』。(両眼球を連動しない動きで一回転させて焦点を戻す)いやあ、私の思いこみに気を取られていたもので、枯痔馬さんが意図なさっていたようには、楽しめていないのでしょう。いやはや、反則そのもののミスリードですな(言いながら、煙草の缶をのぞき込む)」
 「(店内へ息を切らせて駆け込んでくる)監督、例のビッチに支払いを済ま」
 「(おもむろに立ち上がると、脇腹を蹴りつけて)賢和ッ! ホーリー先生が煙草を切らしてらっしゃるじゃねえかッ!」
 「(蹴られた勢いで転倒するも、そのまま回転レシーブの要領で立ち上がり)了解しましたァッ!(店外へと走り出てゆく)」
 「(下卑た笑みで)ヘヘ、賢和ってんで、住み込みの弟子としてここ2年ほど飼ってんですが、どうにも気のきかない野郎で。ご指摘のリトルグレイ・インプラント編も、試しにあの馬鹿に書かせてみたんですが、案の定のできあがりってわけでして。抽象性を高めて高尚に見せようってのは、最低のハリボテですな。あっしの”人物眼が”間違ってたってことですかねえ」
 「ハハ、異なことをおっしゃる。(顔を上げる。照明が眼鏡に照り返し、表情が読めなくなる)枯痔馬さんはゲーム作家なんでしょう? ”人物”を見る目の無い者が、どうして人間を適切に描写できることがありましょうか」
 「(もはや顔面の右半分全体に伝播したチックを手のひらで押さえながら)は、話は変わりますが、ホーリー先生、『トラ喰え8』のことです。御作品、遊ばせていただきました。他の点に関しては右斜め45度に固定した頸椎でもってすべて判断を保留にするとしても、国籍不定の地名と悪役名を考えつく先生の御才能”だけ”は、未だこの業界で誰の追随をも許していないようで、安心しました。(上半身を乗り出す)しかし先生、お言葉ですが、件の”マペット放送局”(『トラ喰え8』の物語中盤に登場する、右手と左手にそれぞれ動物を模した指人形を装着した、数人の全身黒タイツ男性から構成される末期ガン専用ホスピス慰問団のこと)のくだりには、この枯痔馬酷男、しばらく大きく開いた顎の両端から唾液がとめどなく垂れ流れるのを止める術がありませんでした。ホーリー先生は昔から、『俺たちは死ぬまで同性愛だぜ!』とか、ぎょっとするような直接な表現やオマージュを好まれましたが、最近の漫談ブームに乗ってここまで露骨にやられるとは(わざとらしく手のひらで額を打つ)、この厚顔さが『トラ喰え』の現在までを形作ってきたのだと改めて気づかされ、不肖この枯痔馬、夜中に一人モニターの前で羞恥に悶絶しておりました(両腕を身体に巻きつけて悶えてみせる)」
 「(引き寄せようとしていたアルミ製の灰皿のへりの一部が、親指と同じ形に変形する)そうだ、枯痔馬さん。私はお礼を言わねばならないと思っていたのです。なんと言いましたかな、あの登場人物。枯痔馬さんの作品に登場した、射精の速度に苦悩する大学院生」
 「”THE・早漏(ざ・そうろう、と読む)”のことですか」
 「(わざとらしく大きくうなずく)そうそう、確かそんな名前でした。枯痔馬さんが、彼の人物設定を深めるために与えた、射精毎の口ぐせ、『哀しい…』は拙作のドリペニス(終末医療のための施設を占拠する犯人が、警察に送信した犯行声明のメールの送信者名欄に書かれていた名前。以後、”ドリペニス事件”と呼称され、社会的に定着する。犯人は小便の最中に施設へ突入した警官隊に射殺され、虎状のペニスを隆々と露出したまま、二重の意味で直立不動のまま、絶命する)の決め台詞『悲P…(かなぴー、と読む)』への巧妙なオマージュ、つまり『トラ喰え』へのレスペクトの顕れですね。ありがとうございます」
 「(両手を激しく振って)いや、いや、いや。ホーリー先生は勘違いなさっていらっしゃる。売れない漫才コンビによるショートショート百連発、あるいは単品ではさばけない品物を寄せ集めたデパートの福袋の如き、”ギリシャ悲劇小品集”とでも形容するしかない前作『トラ喰え7』への私の感想を、登場人物に仮託して思わず吐露してしまっただけのことですよ。お恥ずかしい」
 「(口へ持ち上げかけた猪口にヒビが入るのをそのまま卓へ戻して)いやいや、往年の名作『かぼちゃ状ボイン(かぼちゃ状のボインを有した婦女が蚤の如き小男に懸想する大正時代を舞台にした少女漫画。最終回で結ばれた二人は、朝鮮半島へと政治亡命する)』を否応なしに想起させるほど、登場人物名にことごとく”THE”をとりあえずあてがう、日の出の如き才能をお持ちの枯痔馬”監督”ですから、一般人のするような私の作品へのその手放しの賞賛には及びますまい。ゲーム作家に過ぎない自身を”監督”と敬称させてはばからない感性は驚愕に値しますが、先ほどご慧眼により看破なさった点、漫談ブームに関してのご指摘ですが、私は監督が漫談ブームへの造詣に関して人後に落ちることはあるまいと、半ば確信しております。枯痔馬”監督”の最新作に登場した”THE・醜女(ざ・ぶす、と読む。顔面の生まれながらの不出来に懊悩する中年OL)”役の斜陽中年女子声優へする、監督の演技指導ぶりといったら! 妙な裏声でもって、『間違いない』を決めフレーズとするあの漫談師と寸分狂わぬ抑揚を忠実に真似るそのアテレコぶりは、まさか漫談ブームを意識しなかったとは言わせません。加えてその発話内容の放つ政治臭ぶりは、学生自体にゲバ棒を握って機動隊の一員の脳頂を強打したことのない、膣内ではなく、ちり紙の上に放出した精液と同じ青臭さをふんぷんとまき散らしておられました。無論、『ゲームと現実の線引き』を常に遊戯者に意識化させる手法をお取りの”監督”のことですから、当然照れ隠しとしての結果、ひいきの斜陽中年女子声優にする体当たりの演技指導に熱が入りすぎてしまった結果のことだとは推察しますが! しかしこの業界に長くいる先達から忠告させて頂きますなら、『ゲームと現実』より、『ゲームと映画』の線引きを、まずご自身に対する周囲からの敬称から、改めていってはいかがかと存じますね(口端を歪める)」
 「(顔を真っ赤にして、異様な早口で)わ、私が推測するに、やつらは本当は、心の奥底ではゲームなんて全然プレイしたくないと思っているはずなんです。ゲームに対してあまりにも膨大な時間を費やしてきた結果、ゲームそのものには致命的に飽いてしまっているはずなのに、それが無い時間は不安でしょうがないから、ゲームをしている。ちょうど重度のアルコール依存者が、血中にアルコールの含まれていない状態に精神的な不安を生じるように、ゲームの存在しない日常に不安を生じるまでに依存してしまっているのです。ここで不幸なのは、他の依存症と同じく、周囲からはそれ無しではいられないかのように耽溺しているように見えるのに、当の本人は少しも状況に楽しんでいない、ゲームをすることを楽しんでいない、むしろ不愉快と苦痛を感じている場合がほとんどということなのです。私の意識する私のゲームの購買層は明確です。『20歳を越えてまだゲームをし、映画館に出かけて行く程度の能動性の無い成人男性』がターゲットです。ゲーム内にパロディ化された特定映画の一場面に、彼らが微苦笑を浮かべるのではなく、むしろ感涙を浮かべるとすれば、それは彼らの無知と精神性の低さを間接的に戯画化し、批判していることになる。私の手法とは、他の健全な人々が社会的居場所を築くために使っている膨大な時間をすべてゲームに費やしてきている彼らの無為を、彼ら自身にはそうと気づかせぬまま徹底的に愚弄することなのです。ネット上で彼らがゲームにする批評の舌鋒が時に気狂いじみているのは、つまらないゲームは自分たちの日常の、ひいては自分たち自身のつまらなさとオーバーラップするからです。自己存在の否定に対して、人間は最も強く抵抗を示します。彼らは無意識的に、自分たちの営為のつまらなさ、意味の無さを知っているのです。私は彼らの存在の位置を、私の作品を通じて社会の中にマッピングすることが目的なのです。消費するばかりで生産することを知らぬ彼らの平面的な実在の有り様を、立体化する作業なのです。だから、あんな同人誌みたいな二次創作ではないんですゥ! すべて意図を持った演出技法の一環なのですゥ!(両腕をぐるぐる回しながら、絶叫する)」
 「(飛び散る唾に対して左手を風防にして、煙草に火をつける)私の好きな言葉に、『人生について考えるのはいいが、人生の意味について考えてはいけない』というのがあります。人生の意味とは、すなわち死の意味ということで、他の事象とは違って死が個別的であるという点から、死の意味も決して一般化のできない個別的なものです。つまり、正解が無く、他者へ言葉を使ってその意味を疎通することもできません。思考が言葉によって定義されるというなら、言葉が他者への伝達を基とするというのなら、究極的には、言葉で死を考えることはできません(ゆっくりと煙を吐き出す)。君が愚弄するまでもなく、彼らはすでに社会的制裁を受けているじゃないですか。それこそ、暗黙のうちに。この社会での断罪とは、かつてのような石もて追われ罵られることではなく、完全にその存在を無いものとして扱うこと、無視と同義ですよ。愛と憎悪はベクトルを変えた同じ力です。君の絶叫はつまり、彼らを愛しているという絶叫とも考えられる。更に言えば、君は自分自身を社会へどう位置づけるかに未だ執着しているように見える。君が、無視された者たちに心ざわめかせるのは、自分の商売に必要な相手という以上に、かつて自分が彼らの一人だったことを知っているからじゃないですか? (顔面総チックとなった枯痔馬が言いつのろうとするのを手で制すと、眼鏡の位置を直す。眼鏡のガラスに照明が照り返し、表情が読めなくなる)君の作品から判断するに、君は童貞ですね。君に足りないのは、成功体験ならぬ、性交体験なのです。見かけのハードさによらず、君の銭入ゲーム(銭湯闖入ゲームの略)が子ども向きだと私がどうしても考えてしまうのは、君の提示しているものがセックス未満の世界理解、セックス未満のエロスに満ち満ちているからです。ひとつもっとも顕著な例を挙げるなら、乳の揺れです。君が知っているように『トラ喰え8』の乳は、ことごとく揺れます。対して、君の作品の乳はそのサイズの大小に関わらず、ことごとく揺れない。ぴっちりバイクスーツの隙間からのぞいていようとも、黒い下着に包まれていようとも、眼前で揺れない乳はどんなに巨大な乳であろうともグラビア写真に過ぎない。つまりせんずりネタに過ぎないということです。実際に眼前で自身の動きにあわせて揺れる乳を見たことがあるものは、あんなふうなリアリティの無さには陰茎を硬直させることはできません。逆に、自身の動きにあわせて眼前で揺れる乳を見たことがあるものは、その表面上の差異にとらわれず、『トラ喰え8』にこそ真のエロスを感じることができるのです。『トラ喰え8』は、セックスを終えた大人、あるいはセックスをする予定の子どもたちに捧げる人生賛歌なのです。君の好んで選ぶ題材であるところの政治にしても、あんなに青白い書生ふうな、個人的な神経さでは進んでいかないものです。比較の問題ですが、私にとっては下着を着用しない婦女が肉を熱い汁の中で弄ぶ類の接待を受ける官僚の方が、よっぽど人間的で好感が持てますね。私はもちろん、君の願望の投影として受け取っていますが! 君の作品の人物は、腺病質な内面は自身の投影としてリアルに、マッチョや奇形はアニメーションに影響を受けたのだろう、外挿的な”設定”が人物の本質に先行した戯画的な造形で作られている。
 「君は私の地名や悪役名の名付け作法のことを指摘しましたが、現実に存在する固有名詞はすべて歴史的情報や歴史的記憶というものを蓄積しているという事実に意識を向けたことはあるでしょうか。つまり、すでに物語を含有している名詞を積み重ねて、俗に”リアリティ”と呼ばれるものを作り出すのは、実に簡単だという事実に気がついているのでしょうか。現実に存在するものの名前を物語の中へ取り込むのは、死ぬほどデリカシーのいる作業です。その選定を怠ったり、或いは全く無自覚だったりすれば、たちまち他人の蓄積してきた現実に君の物語は取り込まれ、圧倒されてしまうでしょう。私の観察を言わせてもらえば、物語作法の順序を違えたせいで、本来不可欠であるはずの自分の現実と他人の現実の境界を意識することのないまま、君は自己定義の袋小路に迷い込んでいます。微に入り細に入ったギミックを膨大に積み重ねることで外殻を作りあげると、その外殻を遠目から一見したものはそれが形を成しているので、そこに中身が存在するかのような錯覚を生じます。君たちの世代の物語作法とは、まさにこれです。世界観や思想とは、個人の傷や偏見と同義であるにも関わらず、それを徹底的に排除するように教育を施されてきた君たちの世代のする物語は、すべてこの方法でできています。(遊児、立ち上がる。ほんの一瞬、数倍にも膨れ上がったように見える)おまえの世代の歪み、同情には値するが、物語を愚弄することだけは許さねえ!(悪鬼の形相。気迫が突風となって吹き上がる)」
 「(頭を抱えて這いつくばって)ヒイィッ!」
 「(穏やかな表情で)ただ、THE・醜女の人物造形には感心した。美容整形に成功し、社会的に容認され、いまや周囲の誰からも求められる新しい自分を、自分自身が実は一番求めていないことに気がつくことを描写する下りは、私の見ている”現実”に肉薄していた。外挿的設定、外観的パーツへの偏執愛から人物造形する世代にはわからないかも知れないが、本来人物造形とは、キャラクター本人が自身の自我をどのレベルにまで深めて言語化できる知性を持っているか、によっている。若しくは、それを視聴するものが、キャラクター本人によって言語化されない自我の部分をどのレベルにまで言語化して補うことのできる知性を持っているか、によっている。意識してのことかどうかは知らないが、おまえの描いたTHE・醜女は、この両翼から、既存の人物造形のレベルを一段階押し上げていた。なぜならTHE・醜女の自我と知性は、本来中年OLのそれに過ぎなかったはずなのだから。彼女の持つ苦悩の深みは、そして彼女の愚かしさは、私を泣かせるに足る。その点に関しては、この通りシャッポを脱いで賞賛しようじゃないか(言いながら、頭頂のカツラを一瞬持ち上げて、また元のように下ろす)。
 「おまえはまだ人間を知らない、世界を知らない。おまえはまだ物語という広大な広がりの、端緒についたばかりだ。おまえが今まで俺の前へ提出したおまえ自身の物語は、THE・醜女の悲哀だけだ。これを殿軍に実作の世界から遁走し、無朽の位置に自分を押し込めようとする気じゃないだろうな。(親指で自分を指し)俺という、真実からの評価には目をそむけて。おまえはまだ、偉そうに誰かを指導できるほどの物語を物語ってはいない!(テーブルを一足飛びに乗り越えると、酷男の肩口を蹴りつける。たまらず土間に転がり落ちる酷男) もう一度地面に這いつくばれ! 人間という名前の巷間を、吐かれている反吐と同じ目線でいざってこい! (座敷から土間を見下ろして)そうして、ここまで登って来るんだ。俺を脅かすところまで(口の端で笑みを作り、人差し指で招いてみせる。ジャケットを羽織ると、息を切らせて店に駆け込んできた賢和の手から缶入りの煙草を取り上げて、出てゆく)」
 「(土間に寝そべり、呆然と天井を見上げる枯痔馬に気づいて)監督ッ!」
 「(ゆっくりと賢和を見る)賢和、か。悪いが、俺とお前の師弟関係は、今日この場で解消だ」
 「(うろたえて)な、何を言っているんですか。あんな才能の枯渇したとネットで評判のロートルに言われたことを、気にしてるわけじゃないでしょうね。(ノートパソコンを取りだして)ほら、監督の新作もネットでこんなに好評を博しているじゃないですか! ネット上での人気調査でも、『トラ喰え8』を押さえて監督の新作がトップですよ(前歯の抜けた口腔を見せながら笑顔を作る)」
 「(悲しそうに見返して)そうか、わからないんだな。あの遊児が、ホーリー遊児が、俺を敵として認めたんだ。あの膨大な力に対抗するのに、弱い者はいらない。足手まといはいらないんだ。俺はいま、一瞬の油断も許されない、戦いの密林へ踏み込んでしまった。俺はおまえの世代を導くほど、まだ自分の世代に責任を果たしちゃいなかった。(陶然と)いまになって気がつく。俺は、俺の浅薄な世界理解を、何の反論も許さないほどに粉々にうち砕いてくれる”シ”を求め続けていたのだと。家族、学校、会社、社会、みなが俺の価値を認めてきた、尊重してきた。その温情と愛情と平等の錯綜する地獄のような穏やかさの中で、俺は常に違和感を感じてきていた。俺はようやく、”シ”と呼べる人に出会った! そうだ、俺はずっと、俺よりも力強い誰かに、俺自身を強く否定されたかったんだ!」

げんりけん

 都心にある大学の学生会館といった風情の建物。壁面にはペンキやスプレーで思想めいた言説が、無秩序に書きちらされている。昼間だというのに、薄暗い廊下。人の足が踏んだ場所以外はほこりがうずだかく積もり、ときどき視界の端を小さな黒い物体がうごめく。左右の壁には等間隔で鉄製のドアが並んでいる。そのうちの1つのドア。店屋物の空の食器が置いてある。木製の、『現代世界を読み解く汎原理的思弁研究会』と筆で横書きにされた看板が、ドアノブに斜めにかかっている。中は廊下よりさらに薄暗い。どういう精神構造によるものか、唯一の窓をふさぐように背の高い本棚がいくつか並べられており、もはや検索の絶望的に不可能な順序で漫画本が詰め込まれている。部屋の片隅には小型のテレビが明滅を繰り返しており、画面にはもはや記号的認識が不可能なほどに記号化されたキャラクターが投影されている。その前には重箱式に無数のゲーム機が積み上げられている。部屋の左側にはバネの飛び出たソファが置いてあり、その上には等身大の人形――人類にあり得ない水色の髪の毛と、顔面の3分の2を有する赤い光彩を持った瞳と、口元に張り付いた白痴的な微笑と、身体の曲線を際だたせる目的以外を想定されたとは思われない不自然な着衣の――が横たえられている。ソファの反対側の壁には、”モオツアルト的祝祭空間”と赤いペンキで殴り書きにしてある。部屋の中央には丸い卓があり、男性2人、女性1人がそれを囲むように座っている。女性は、腰まで届くロングヘアに頬骨と鼻先を覆い隠すように前髪が垂れていて、くるぶしまで隠れるスケバン風のロングスカートに靴底の異様に厚い靴、上着の袖は指の第一関節までを覆い隠す長さで、一種異様だが、信仰の種類によっては倫理的賞賛を受けないこともないようないでたちである。男性の1人は黄ばんだタオルを海賊風に頭に巻いており、着衣は何故か灰色の作務衣、裸足の足はほこりまみれ、老翁風の長いあご髭を人差し指と中指で作った輪っかでもって、無意識のものだろうか、卑猥さを感じさせる仕草でしきりとしごいている。もう1人の男性は、工事用の黄色いヘルメットに底の厚い眼鏡、風邪を引いているのだろうか、中央に赤い丸を染めた長方形の白地のマスクをしており、洗いすぎて色落ちしたタータンチェックの赤いシャツに、ハムを作るときの外の皮のように引き延ばされたジーパンをはいている。女性、卓の上においた左手をときどき痙攣的に跳ね上げながら、話し始める……
 「グローバリズムや文化的多様性なんて言いますけれど、畢竟、人類は増えすぎてしまったんです。旧約のバベルの神話は、畢竟、神の怒りの表現などではなくて、人類の多様化への嘆きではないでしょうか。異なった価値観を持つ者どうしが、畢竟、”うまくやっていく”なんてことは、畢竟、不可能です。資源が、若しくは、富が構成員のすべてに平等に行き渡ることを、畢竟、前提としない限り。9.11以降、よく米国の市場主義と言いますか、競争原理が批判されますが、畢竟、社会主義が崩壊し、共産主義が版図を縮小し、米国とその追従者が生き残ったことだけを考えても、畢竟、『資源は有限であり、人類の全構成員には行き渡らない』ことを皆が無言のうちに承認した、その証拠じゃありませんか。米国はその点を強調して、畢竟、もっと開き直るべきなのです。グローバリズムというのは、飽和した国内市場の外で俺達の商品を買う相手と、俺達のためにほとんど無償で働く相手を見つけるための方便なんだぞって、畢竟、明言して居直ればいいんです。どこまで話しましたか、そうです、平等な資源と富の分配が不可能であるという現実は、多様性を拒絶します。つまり、ここに来て人類という種が取るべき道は、畢竟、2つだけなのです。『富の分配が可能な規模にまで、人間の数を間引きする』か、『富の不平等な分配を容認できるよう、その価値観を単一のものへと統一する』か、どちらかです。現実的に考えれば、畢竟、この両者を兼ねあわせた『単一の価値観を共有するものだけを残しての、徹底的な人間の間引き』が、最も”実行可能である”という意味合いにおいて、畢竟、有効でしょう。そして、私たちはその残されるべき単一の価値観を共有するグループに”含まれてはなりません”。なぜなら、畢竟、私たちは客観的な自己憎悪を手に入れた人類最初の文化集団であり、社会組織に対する自分たちの非有益性を誰よりも強く知るからです。――拳を握りしめて敢然と立ち上がり――手首に刃物が埋まってゆく感覚を嫌いな女子なんていません! ――座って元のようにうつむき――私の言うことに間違いはありません、エヴァンゲリオンでもそう言っていました、畢竟。」
 「――あご髭をしきりとしごきながら――フーム、懊悩(おおの)くんの考え方は他者に表現することを意識してか、パフォオマンスが極端に過ぎる部分はあるが、共感できる思想が含まれていないでもない。要するに、科学的思考の産物が人類種を劣化させているという事実を、もっと積極的に汲むべきだと言うことだね。例えば、火をおこす技術の無い者、食料を自給する技術の無い者、つまり生物として劣った者がそれをそれと自覚しないまま生きてゆくことができるのは、科学的思考の功罪ゆえであるということができる。人間すべてを頭でっかちの総合職、ホワイトカラアにするのが、科学的思考なのだね。君は土にまみれた赤銅色の農婦がテレヴィに現出する時、微かな、しかし理由の無い軽侮の感情を一度でも抱いたことが無いと、果たして言えるだろうか。科学的思考とは、人間の手から、それを高めることで生存の確率を同時に高める、あの生物としての技術を奪い、本来的に無価値な愚鈍を量産しながら、その”命令あるいは指導する権利があると信じている”愚鈍たちに根拠薄弱の支配的な優越感を代わりに与えるのだよ。自覚した時が、手遅れの時と同じなのは、阿片の類と同じさ。ただの無知よりも更に悪い、致命的な愚鈍が骨髄までをボロボロに蝕んでしまっているのを見つけ、見なかったふりをし、スゴスゴと元の心地よい穴ぐらに尻から這い戻る結果を迎えることになる。イヤイヤ、どれだけ首を振ってみせたって、ソモソモ君は汗と、肉が痛むことが不快なんだろう? 本当はそうじゃないんだよ、汗と肉の痛むことは不快じゃないのだよ、と拙が言うのを聞くと、懐疑的に眉根をひそめてみせることで、君の内側の衝撃をうち消してみせたじゃないか! オヤ、『科学的思考を捨てて、野に出よ』と言うつもりだったのが、『人間の精神は科学的思考に蹂躙され尽くしており、そこから離れてあることはできない』という結論に落ちてしまったぞ。つまり、人類種の劣化とは、科学的思考を発明した段階で、本質的に不可避であったということだね。では、俄然、懊悩(おおの)くんの発言が真実味を帯びてくるね。我々は、我々が堕落しきらない前に、自らの尊厳を守るために自死しなければならないということだ。この結論を拒否することは、つまり自身の愚鈍を認めることになるのだからね。」
 「――痙攣的に左手首を跳ね上げながら――単一の価値観を唯一選択的に残すためには、畢竟、自死では足りません。自死は自己への憎悪を基調としていますが、畢竟、憎悪を超克した理想をこそ、私たちの行動の基調としなくてはなりません。どの価値観を残すのかを注意深く選択した後は、畢竟、私たちはその実現のために自らを捧げなくてはなりません。私たちは理想に気づいていますが、理想郷に達するににはふさわしくないほど”穢れて”しまった、天国と地獄を見ながらどちらにもたどりつけずにさまよう、畢竟、リンボ界の幽霊のような存在なのです。畢竟、私たちはこの段階を迎えて、思弁ではなく、一人一人がどれだけ多くの選択的他者を道連れにできるかという方法論にこそ、最も執心しなくてはならないはずです。『理想郷は今そこに来る、ただし私たちはそこにはおられない』。私の言うことに間違いはありません、ナウシカでもそう言っていました、畢竟。」
 「――マスクの下から、神経そうに細い悲鳴のような空咳を繰り返しながら――僕の考えが正しいならば、僕の論は懊悩(おおの)氏と奈落豚(なふた)氏の論を補強できると思います。生物は種全体として、それぞれ単一の目的を持っています。それはつまり、情報を永続させるということです。その『情報』とは、僕たちは近視眼的にほとんど無条件に重要視してしまうような知性のことでは、断じてありません。知性は個の段階で、ほぼ消滅します。伝播力が非常に弱いのです。ドストエフスキーやマンが死んでしまったら、僕たちはまた振り出しから始めなくてはいけないでしょう? 情報の永続を目的とするなら、知性はあまりに弱すぎるとしか言えない。文学や芸術が、その非有効性を戦争やら飢餓やらに証明されて以降も未だに根強いのは、知性の伝播力の弱さ、自己消滅の容易さに対する抵抗を示してのことかもしれないですが、これは僕の論と少し外れます。生物がバトンしたい、つまり永続化を求める情報とは、何のことはない、遺伝情報に他なりません。人間の努力や知恵は遺伝子に刻まれてゆく、ですって? 馬鹿をおっしゃい。どこの歴史に二代目が先代よりも有能だった試しがありますか! 有効な知性があるとすればそれは、生物種が自身の情報の断絶を回避するためにときどき自らの系の内に作成する、天才という名前の奇形だけです。それすら、急流をゆくカヌーからぶつかりそうな岩へするオールでの一撃に過ぎません。話がそれましたが、言いたいのは、すべての”人間的”営為は、ほんのつけ足しに過ぎないということです。……なるほど、文明、文化ときましたか。個の知性を長く続けるための装置、文明と文化を人類は持っているではないか、それこそが知性の優越性に他ならぬ、とそう言いたいわけですね。人間の知性に対する、遺伝情報の優越性を証明するのには、一言で足ります。よろしいですか、『人類という種の履歴と同じだけの長さを長らえた文明・文化は存在しない』のですよ! ――下卑た含み笑いで――あるとすれば、それは性行為でしょうが、これはどちらかと言えば遺伝情報の伝播に属する”文化的”行動でしょうねえ。つまり、人間の知性を待つまでもなく『単一の価値観』はすでに存在し続けてきており、これからも存在し続けるのです。人類の中から選択する必要はない、人類を含めた知性を展開させる可能性のある種を皆殺しにすれば用は足りるのです。3人の見解を統合して、これを『ユートピア的ジェノサイド』と名付けましょう。蛇足ですが、反論を封じるために付け加えますと、進化という概念は自己存在の称揚を常に求める人間知性の産物です。進化という言葉の持つ高揚感を取り除いてより正確に現象を把握して言うなら、『周辺状況の変化に対する刹那的反応の永久的固着化』に過ぎません。生物とは、究極的に自己存在の止揚には、関心が無いのです……」
 「それは他人についてのことばかりでしょう――失礼ですけど――それとも他人についてばかりじゃないんですか。」
 部屋の隅の暗がりに坐っていた茶髪の女性が、大きく伸びをしてから両手をぶらぶらさせて口を挟むと、彼らは一様にぎくりとしてそちらを見た。彼らは彼らの会話に没入しているように見せかけながら、その女性のことをどの瞬間も常に意識していたのだった。
 「もうそれでおしまいですか、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん。」
 「いいえ。しかしもうなんにもいいません。」
 「ほんとにこれで充分ですわ。――返事を待っていらっしゃるの。」
 「返事があるんですか。」
 「あると思いますけど。――わたしよく伺っていましたの、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん、始めからおしまいまでね。それで今日いまそれぞれおっしゃったことの、どれにでも当てはまるような返事をしてあげたいの。それがまた、あなたたちをそんなにいらいらさせている問題の解決になるんですよ。さあいいましょう。解決というのはね、あなたたちはそこに坐っていらっしゃるままで、なんの事はない、一個のおたくだというんです。」
 「私が」「拙が」「僕が」と彼らはきき返して、少したじろいだ。
 「ほらね、ひどいことをいうとお思いになるでしょう。そりゃ無論、そうお思いになるはずですわ。ですからわたし、この判決をもう少し軽くしてあげましょう。わたしにはそれができるのですから。あなたたちは横道にそれたおたくなのよ、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん――踏み迷っているおたくね。」
 ――沈黙。やがて彼らは決然と立ち上がって、男子間の肛門性愛が記述された冊子とアニメ柄の抱き枕と股関節の穴までが忠実に再現された少女型ラバードールをそれぞれ手に取った。
 「ありがとう、滓蚊醜(かすかべ)さん。これで僕たちは安心して家に帰れます。しかし、これで”げんりけん”は解散にすることにしましょう。なぜって、僕たちはあなたの言葉に反論の余地無く、片付けられてしまったのですから。」

逆愚痴卑露野侮

 ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。セットは以前より明らかに簡素な作り。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
 「ご無沙汰しておりました、ホステスの宵待薫子でござます。長らく放映を自粛しておりましたnWoの部屋ですが、多方面より応援と励ましをいただき、このたび深夜枠という形ではありますが、再びみなさまにお会いすることになりました。スタッフ一同を代表しまして、お礼を述べさせていただきます。本当に、ありがとうございました(立ち上がり、カメラに向かって深々と頭を下げる)。更なる番組のクオリティアップをもって、みなさまからのご恩に応えていきたいと思っております。それでは、新たに生まれ変わったnWoの部屋、記念すべき第一回目のお客様をご紹介させていただきます。人気ロールプレイングゲーム『最終偏執狂的接片愛~ファイナルフェティッシュ!~』シリーズのディレクターであり、総監督でもある、逆愚痴卑露野侮さんです」
 「(長すぎる鼻の下に台形の口ひげを生やした男へカメラが向けられる。深く刻まれた笑い皺の下の、少しも笑っていない目で穏やかに)どうも、今日はお招きありがとうございます」
 「(おじぎして)こちらこそ、お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます。ご存じのない方のために付け加えますと、ファイナルフェティッシュ!シリーズは、あのトラ食えシリーズと双璧を為す国民的な人気ゲーム作品です。(資料に目線を落としながら)昨年は映画化もされていますよね」
 「(一瞬顔面神経痛を抑えようとしている人の表情になって)映画? (何かを思い出そうとしていると他人に感じさせるのに充分な間を置いて)ああ、FFM(ファイナルフェティッシュ・マゾヒズムの略)のことですか。いま言われるまで忘れてましたよ。まあ、あれはほんと、片手間でしたね。あの作品は商業主義的に、もっといえば享楽主義的にやりすぎました。欧米中心に公開されたんですけど、(自然つり上がる片頬)むこうの人間の大ざっぱさをぼくは考慮に入れていなかった。つまり、(徐々に早口に)あちらの毛唐の方々の生得的な精神状況の低さの現状を、ぼくが軽く見積もりすぎていたということなんですね。でもそれは、あまりに予想を覆すほどのレベルで低劣だったから、神ならぬ身ではしょうがなかったとも言えるでしょう。誰がやっても同じ結果になったと思います(無意識に、激しく顎が縦方向に上下する)。ぼくは本当にいい人間で、他のスタッフからも、逆愚痴さんはゲームにせよ何にせよ、受け手に期待しすぎじゃないんですかってよく言われるんだけど、(膝の上で、関節が白くなるまで握りしめた両拳をぶるぶると震わせながら)芸術の作り手が受け手、鑑賞者に期待しない態度っていうのは、芸術家にとっての敗北だという気がするんですね、ぼくは。同業者に聞かれたら、甘い考えだと言われるのはわかっているんですけど。(何か身内にわきあがってくるものを押さえようとするかのように、荒い息で肩を上下させながら)ぼくは、本当にお人好しでいい人間なので、観客を想定するあまり、作品の内包するテーマ性を制作初期の段階でより低いものに変えたんです。ただただ、受け手にとってわかりやすいことを追求するためにですよ。ぼくの頭の中にあった元々のものは、実はもっと高級なんです。(うつむいて、親指と親指を触れあわないようにぐるぐるまわしながら)それに、ぼくの持っている深淵かつ壮大なテーマをそのままに彫刻するのに、映画というジャンルはあまりにエンターテイメント寄りすぎますから…(テーブルに頭をつかんばかりの前傾姿勢から、突如上半身をバネようにはねあげて、宵待の左肩をつかむ)ねえ、わかるでしょ!」
 「(自分の何気ない問いかけが、なぜここまで激烈な反応を引き出してしまったのかわからず、大きく目を見開いて硬直したまま半泣きの口元で)あの、わかります。(おびえのあまり、ほとんど素の状態で)私も仕事でいろいろあるけど、友だちに相談してもしょうがないなってこと、いっぱいあるし」
 「(あざけるように口元で笑って、手を放す)フン、凡人の生活感覚ぐらいといっしょにしてもらっちゃ困るね。ぼくの言った受け手って、君みたいな人のことなんだろうな。(脱力してソファにもたれかかって)わかりゃしねえんだよ、おまえらくらいにはな」
 「(なぜかはわからないが、相手の激情が去ったことにほっとして)あ、ええと、そう、ゲームの方のファイナルフェティッシュ!なんですが、先日最新作が発表されたところですよね。(ジロリとにらみ返してくる相手にうろたえて)ええと、11作目。そう、今回はシリーズ11作目ということで、すごいです、長いです(なぜか拍手する)」
 「(口元を歪めて)どこぞの遊児だか豚児だかとは、才能の密度が違うってことだな。(ブツブツと)資金集めも、組織運営もまともにできねえくせに……カネを使わずに、いい物語を書けば、だと? ハッ、樋口一葉の昔から、日本人ってのはそういういじましいのが大好きだからな……(突然激して立ち上がる)このインターネット時代に、原稿用紙と万年筆でゲーム作ってんじゃねえ!(机を蹴り上げる)」
 「(縮み上がり、上半身はほとんどスタジオの外へ向かって逃げているが、下半身で踏みとどまって)あの、インターネットというお言葉が出ましたが、この最新作はネットワーク専用ゲームだと聞きました。あの、(顔色をうかがう。思い切って)これまでのゲーム業界には例を見ないような、すごい進取の精神ですよね!」
 「(うつむいて、間。突如笑み崩れた顔を上げて)でしょう? ぼくはモジュラーケーブルやLANケーブルの暗示的な逆さ凸が、みっしりと電話線の差込口に満たされるのを見るのが、本当に大好きなんですよ(得意の鼻息で口ひげが揺れる)」
 「(ほっとした様子で)逆愚痴さんがインターネット上に創造なさった、全く新しいファンタジー世界である、(視線を原稿に落とす。凍り付く笑顔。きっかり3度またたきした後、真っ赤になって口ごもりながら)ま、ま、ま、ま、ま」
 「(握った親指と人差し指を左ふぐり、握った薬指と小指を右ふぐりに見立て、下方に垂らした中指をぶらぶらと前後させながら)マラ、でぇぇる!」
 「(顔を真っ赤にして、うろうろと視線を机上にさまよわせ)あの、ファンタジー世界である、ま、ま、ま、ま」
 「(握った親指と人差し指を左ふぐり、握った薬指と小指を右ふぐりに見立て、下方に垂らした中指をぶらぶらと前後させながら)マラ、でぇぇぇぇぇぇる!」
 「(背筋を伸ばし、視線の焦点をどこにも作らないようにして)ま、ま、マラ・デエルでの冒険劇は、これまでのロールプレイングゲームの概念を大きくくつがえすものである、とのことですが…(徐々に涙声になる)」
 「(独り言のように、しかし聞こえるのに充分な大きさで)やれやれ、ようやくか。よもや、男性生殖器を露出するの意でとらえたのではあるまいね。まったく、最近の若いのときたら、性倫理や性道徳などという言葉が定義できるような範疇を超えているね。本当に嘆かわしい限りだ(言いつつ、ズボンの後ろポケットに入っていたテレコからカセットを取りだし、極太マッキーで”ヨイマチ、マラ”と書く)」
 「あ、あの(助けを求めるようにスタッフの方へ視線をやる)」
 「(跳ねるようにカメラに正対し、突然調子を変えて)日本のようなIT後進国で、ネットワーク専用ゲームの製作に踏み切るのは、たいへん勇気のいることでした。専用ということはつまり、プレイを続けるためにいくばくかの料金を電話局なり、我々の会社へ継続的に払い続けるということですから。(作者近影のときのお気に入りの苦悩の表情で)樋口一葉の昔から芸術にカネを払わないいじましい国民の方々が、このゲームにカネを払い続けてくれるのだろうか? その心配は、制作中も離れずありましたね。(わずかに長すぎる口ひげをなめながら)ですが、考えてもみて下さい。美術館に入るのには然るべき料金を支払いますね。そしてあなたがあの素晴らしい人類史的な作品群をもう一度見たいと思ったとき、またきっと美術館にカネを払うでしょう。その反復に疑問を感ずる人はいないはずです。まあ、お上に頭のあがらぬいじましい農耕民族の国民のみなさんに関しては、(鼻息で口ひげをゆらして)何らかの権威づけがそこには不可欠なのでしょうけれどね。じっさいのところ、日本では無名であっても世界的に有名な人物はたくさんおります。(とりすました表情で)私にしたって、極力ひかえめにいったところで、”世界の”という冠を名字につけて呼ばれるくらいのレベルの人間ではあるんですけどね。(見えざる何者かの追求を遮るように慌てて)外タレにサインをねだられたことはありませんが、それは私が一度も外タレと遭遇したことがないというだけの話なんですよ、じっさいのところ。ですから、何の話でしたか、今度のFF11(ファイナフフェティッシュ!11の略)は、『継続的に体験するためには継続的にカネを支払い続けねばならぬ』というこの一点において、芸術作品と同義であるということができるのです。今までの作品は、まあ悪くはなかったですが、単品切り売りの、肉屋につり下げられた牛か豚のような類のものでした。それは、私の作品の提出方法としては、私の意図とかなりかけはなれた不本意なものでした。ぼくのファイナルフェティッシュ!という名前の芸術作品は、ネットワークという概念空間を使って、形而下から形而上へと存在のステージを写したんですよ。つまりこれは、人間が神に昇華するという比喩と、まったくの同義の移行なんです。(口ひげを引っ張り、アゴを突き出して得意げに)この移行が人類にとっていつ以来のことだかわかりますか、宵待さん?」
 「(うつむいて親指のささくれを引っ張っていたが、急に話をふられてとびあがって)は、はい! わかりません!」
 「(右の掌を額に打ち当て、左手で口ひげを数本引き抜く)本当に馬鹿だなあ、あんたは! 宗教学を知らぬ人間に、世界というパラダイムが理解できるものか! (嘲るように)あんたみたいのが俺の想定していた観客だったとすると、FFMの興行収入の数字にも納得がいく。(片頬を吊り上げて)その納得を手に入れただけ、今日このくだらない席に、(一息入れて強調して)激務の合間を縫って座っている意味があったってことか。(声をひそめて、蛇を思わせるやり方で下方から宵待ににじりよる)いいか、俺はいまファイナルフェティッシュ!がネットワーク専用ゲームになったことは、人間が神になったこととイコールだと言ったんだ。つまり、それは、(重大な秘密を明かすようにささやいて)キリストだよ。新たな千年紀を生きる人類が迎えたキリストの復活、それが、俺の、(立てた左手の親指を自身に突きつけながら)ファイナルフェティッシュ!11だ!(かわいた鼻水でてかてかになった口ひげが、頭上のライトを照り返す)」
  「(かみ殺したあくびで両目をうるませながら)なるほど、なるほど。すばらしい。(スタッフが示す板を横目で確認する。書かれている内容に激しく首を横に振るが、スタッフの強い調子にやがて押し切られて)し、しかし、マナ・デエルへの接続に必要不可欠であるプレステHHユニット(プリーズ・レット・マイサン・エレクト、ハーマイオニー、ハーマイオニー!ユニットの略)の品薄や、ネットを経由しないと入手できない仕組みの煩雑さや、加えてプレステHHそのものの高額さや、(唾を飲んで)それに先ほどもおっしゃられましたが毎月継続的に、それこそ半年で別のゲームが購入できてしまうほどのプレイ料金を払わなければならないことなどが相まって、FF11は一般のゲームユーザーには非常に敷居が高いものになってしまっているのではないでしょうか?(目をつむり、首をすくめる)」
 「(悠然と煙草を取り出そうとするが、ぶるぶると震える指先がそれを裏切っている。フィルターを外側に向けて煙草をくわえながら)芸術とは常に時代にとって、もっと言うなら、人間が命をつないでゆくことにとって、余剰であったわけです。生きるために必要ではないが、魂が求めるその余剰にこそ、人間を他の畜生と聖別する何かが含まれている。(大仰に両手を広げて)そして、ダ・ヴィンチの例を挙げるまでもなく、芸術という余剰には常にパトロンの存在が不可欠です。なぜなら、この世の大半を占める、ただ増えて死ぬために生きている蒙昧の群れどもは、日々口を糊することと、オメコにしか興味が向かないからです。(わずかに均衡を崩した目で自身の言葉に埋没するように)この連中は、オメコには恐ろしいほどの労力やカネをつぎこんで省みませんが、芸術となるととたんに、これはもう間違いなく彼らの低脳からくる劣等感でしょうが、オメコ汁に濡れた口元を半開きに激しくどもりながら批判めいたことを口にし、あるいはオメコの入り口はもう締めようもなく荒淫に弛緩しているくせに、財布のヒモをことさらに固く締め上げたりするわけです。(何かを振り払おうとするように大声で)彼らの精神はもう本当に低劣極まりますから、これを啓蒙しようなどと少しでも思わないほうがいい。私は本当にいい人なので、彼らに手をさしのべようとして一度ひどい目にあっていますから言うんです。(ほとんど涙ぐみながら)映画というのは本当に間口が広すぎて、やつらの方が選択する側の人間なんだと勘違いさせ、増長させてしまったんだ。(袖口で口ひげに垂れた鼻水をぬぐって)芸術にカネを払うことは知的に、そして何より人間的に高度でなくてはできませんから。つまり、(妄執にとらわれた人の目で、身を乗り出して)FF11のプレイヤーは、FF11をプレイしているというその事実だけで、すでに存在論的優位者として選民されているのです。敷居の高さゆえに売り上げが伸び悩んでいるという指摘は、ですから全くの的はずれなのです。(口の端から泡を吹きながら)私は私の芸術へとたどりつく資格のある人たちを、電子的な方法論で選民したのです。彼に竹ひごでぶたれるためなら進んで急所を差し出してもいいとお考えの、ノブナガ好きの民主主義国家の主権者のみなさんには、危険思想の持ち主と思われてしまうかもしれませんがね(声を上げて笑う)! FFMの時とは違ってな、(自分のしゃべる言葉に後追いで得心した満足な笑みで)わざと間口を狭くすることで、おまえたちが選ぶんじゃなくて、俺が、俺こそがおまえたちを選ぶ芸術的絶対者なんだってことをわからせてやってんだよ、このオメコ愛好者どもが(テーブルを蹴り上げる)!」
 「(無表情で)選民する。なるほど、よくわかりました。あなたはオメコという言葉を連発なさいましたが、それは食料と交換可能であるという意味合いにおいて、生命と限りなく等価値であるカネを、生命を物理的に養わない抽象事象に支払うことができるかどうか、という比喩として受け取ってよろしいですね(無表情のままのぞきこむ)」
 「(鼻白んで、目をそらす)ああ、まあ、そうとも言えるかもな」
 「(無表情で)少なくともFF11という名前のネットワークゲームは、”公共”を作ろうとしている。”公共”の究極とは『どんな対価をも伴わずに、誰のものでもある』ということだと、私は考えます。知性と財による選民、私にはFF11は、貴社からの様々のプロパガンダが表現するような、開かれた無謬の理想郷にはとても思えません。(ゆっくりと)あなたがおっしゃられたキリストの比喩をなぞるなら、マラ・デエルは人造の失楽園なのではないですか(無表情のまま小首をかしげる)」
 「(うろうろと視線を漂わせて)なあ、急にそんな…やめようぜ。(作り笑いで)本気に取るなよ、ほんの冗談じゃねえか!」
 「(口元の両端を機械的に吊り上げて)虚構の現実化によるアンチクライマックスです。いつまでも、好き勝手に暴れられるものではないですよ(立ち上がる)」
 「(周囲を見回す。人形のような無表情のスタッフが見つめ返す。泣きそうに)なあ、やめようぜ、こういうの流行らねえよ。なあ」
 「(さえぎって)今日のゲストは逆愚痴卑野侮さんでした。お帰りはあちらからどうぞ(腰を折り曲げて、深々とおじぎをする)」

ザ・ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタク

 卓上に置かれたカセットレコーダー。
 突然、自動的にテープが回り始める。最初ただのノイズかとも思えた音は、二人の男のくぐもった話し声へと収束してゆく。
 「(なだめるように)わかった、わかった。15歳の少女がロボットに乗るという設定に蓋然性が薄いように思えるのは、俺が音楽屋で読解力に欠けるせいだからなんだよな。短気は押さえて、詳細を詰めていこうな。な?」
 「(すねた口調で)まったくその通りだよ。”ガ……”(我? 蛾? 何かの暗符と思われるが、詳細は不明)のだって、もっと若いヤツをロボットに乗せてたじゃん。全然おかしなことなんかないよ。(吐き捨てるように)プープカプープカ、ちんどん屋まがいの芸当しかできないくせに、ぼくのカッコいいアイデアに口を出すなよな。全然カッコ悪いよ」
 「(ひどく重い沈黙の数秒。つとめた明るい口調で再び始めようとするが、徐々に尻下がりに暗く)”人類の敵、火星人は主人公の搭乗する巨大ロボットと同じ大きさで……切ると赤い血を噴き出しま、す?” (故意に感情を空っぽにした調子で)なァ、火星人がなんで赤い血を吹くんだ?」
 「(何かを噛みながら)全部説明させて、全部陳腐にしちゃうんだ。君のそういう頭の悪いとこ、ぼくは嫌いだよ」
 「(凄みのある無感情で)俺はおまえの仕事の協力者であって、おまえの作品のいち視聴者ではないことを忘れるな。監督であるおまえが少しもコンセンサスを取ろうとしないから、こうしていま俺がおまえの目の前に座っているのを忘れるな」
 「(甲高く)そんなこと言っても、少しもこわくなんかないよ。(大きな音)ヒィッ! わかったから、机をたたくなよ。汚いよ、そういう脅すみたいなやり方。全然カッコ悪いよ」
 「(淡々と、棒読み調で)なんで、火星人が赤い血を吹くんですか」
 「(すねた口調で)ヒロインの15歳の少女の、初潮と、月経と、破瓜を代理してるんだよ。クラスで一番遅い、始まってない子でも、そろそろ始まっちゃうころだろ? だから、火星人の流血に代理させて、少女の初潮を先送りにさせてるんだ。いいだろ、これで。満足したろ」
 「(間。抑制された感情の底流をうかがわせる声音で)なんで、火星人が初潮を代理する必要があるんですか」
 「(心底意外なことを聞いたという口調で)ばッ、なに言ってんだよ、決まってるだろ! 初潮し、月経し、破瓜するということは、孕むかもしれないってことでしょ! 孕むってことは、男女の攻守が逆転するってことでしょ! ぼくは、精神的には圧倒的・絶対的に依存してくるけど、肉体的にはこのイヤな世界から盾となってぼくを守ってくれる、そんな初潮前の少女だけが欲しいんだよ! (吐き捨てるように)だいいちそんな、孕むなんて全然カッコ悪いよ。ひどく体臭がしそうだしさ(何かで何かをふくような擦れ音が聞こえる)」
 「(感情を爆発させないためのやけくそな大声で)わかった、わかった! 絵コンテと、おまえの説明からこの作品の特徴をまとめると、ひとつ”巨大ロボットに搭乗し、切ると赤い血が噴き出す異星人と戦う女子中学生”、ふたつ”火星で発見された先史文明のロストテクノロジー、この技術は少女の搭乗する巨大ロボットにも流用されている”、みっつ”登場人物のする驚愕の演出には瞳孔の収縮する様子をアップで”、(徐々に不安な調子で口ごもりながら)よっつ”真下から見上げた高圧電線と、その向こうに広がる夏の雲と青空”、いつつ”看板や新聞やモニターなどの文字は手書きではなく、パキッとしたレタリングで”……(長い沈黙)なァ、言っていいか?」
 「(すねた口調で)なんだよ」
 「これって、まんま”ガ……”の作品からのパク…」
 「(大声でさえぎって)大違いだよッ! あんな不潔なのといっしょにするなよッ! (ひどい癇癪で、唾をぶくぶくいわせながら)ぼくの少女はあんな性徴を際だたせるぴっちりスーツを着たりはしないし、あんな月経を中心に世界を回したりは絶対にしないんだよッ!」
 「(半ば投げやりに、なだめるように)わかった、わかった。もしそんなしたり顔の指摘をする分からず屋がいたとしても、オマージュって言っておけばいいよな。オマージュ。だから、短気は押さえて、ひとつひとつ詳細を詰めていこうな。な?」
 「(すねた口調で)ちょっとカッコいいところを借りただけだよ。全然カッコ悪くないよ。これがダメなら、歌舞伎の再演だってダメってことになるよ」
 「(少しも同調してないことを声音だけで表して)まったくその通りだ。ところで、登場人物が少年と少女の二人しかいないようなんだが。宇宙船の乗組員とか、他のロボットの操縦者とか、そういうキャラクターは…」
 「(絶叫して)ぼくの少女にセックスをさせたいのかよ! 宇宙船の中に他に誰かいたら、少女はぼくが閉じこめたロボットから出てきちゃうだろ! 何考えてんだよ! (ひとつ大きな鼻息。冷静に)でも、少年の周辺に誰かを配置するというのは、アリかもしれないな。例えば少女の母親とか」
 「(ほっとしたように)いいじゃないか。話に深みが出そうだ」
 「(得意げに)少女の母親は22歳、身よりのない少年を引き取っていっしょに生活している」
 「(間。しぼりだすように)少女の年齢は何歳だったっけ?」
 「(苛立って)本当に、君は物覚えが悪いなあ。15歳って言ったじゃん。そこに書いてあるし。字、読めないの?」
 「(不自然な陽気さで)よくわかった。俺が悪かった。やっぱり、登場人物は二人だけにしよう。その方が、余計な雑味がなくて、きっといい。(強引に話を変えて)ところで、絵コンテのここの描写、よくわからないんだが」
 「(不満げに)だったら最初から言うなよな……どこだよ。(ひどく馬鹿にした調子で)本当に芸術オンチだなあ、君は! セミに決まってんじゃん、夜空を埋めるセミの群れだよ。”ガ……”の映画でもセミの声使ってたろ。全然カッコいいよ」
 「(数瞬の意味深い沈黙のあと)なァ、おまえ。セミ、見たことあるか?」
 「(得意げに)もちろんさ! ぼくは30年も丸々引きこもっているような連中とは、ワケが違うからね。あれは小学生のときだったろうか、(陶酔した調子で)粉雪の舞う中、四枚の羽をピンと水平に伸ばして、やかましく鳴きながら大気をグライダーのように滑空するセミの群れ……あれは、ぼくの原風景と言っていいだろうね……」
 「(不自然な陽気さで)よくわかった。このセミのカット、やめよう。”ガ……”みたいに、鳴き声だけにしよう。その方がきっとずっと効果的さ。な、そうしよう。な?」
 「(苛立って)音楽屋ふぜいが、さっきからいちいちぼくに指図するなよ。ぼくの完璧な絵コンテにケチつけるなよ。今回試みるフルデジタルという方法論には、意識したアナログ感覚が必要なんだよ。コンビニやケイタイの持つデジタル的なリアリティと、セミの持つアナログ的なリアリティを意図的に混郁させることで生じる違和感が、作品に現実という名前の新たなパースペクティヴを与えるんじゃないか。どうせ何もわからないんだから、黙ってろよ」
 「(一瞬絶句した後、聞こえるか聞こえないかの、ドスのきいた低い声で)つまるところ、世界と交接したことがねえんだ。コンビニやケイタイっておまえ、おまえの提示するリアリティなんざ、同棲してるオンナが使った便器からする大便の残り香の当たり前さを、童貞のしたり顔でリアリティと言っているのと同程度に、クソ薄っぺらなんだよ」
 「(癇癪を起こして)ぼくの前で体臭の話はするなよ! ぼくは人間の身体のニオイが本当に嫌いなんだ! こうして君と、1メートルほどの近距離に座っていても、君の体臭の分子がぼくの身体に付着するんじゃないかって、ほとんど物理的な脅迫を感じるくらいなんだよ!」
 「(げんなりした調子で)わかった、わかった。もういい。つまりこいつは、この企画は、(何か紙の束を叩く音がする)”ガ……”的な演出・視覚要素を取り除けば、ほとんど最近のエロゲーが好んで提出するのと同じ、(嫌みに)体臭の無い恋愛未満の男女のリリカルが主眼なんだよな。(嘲弄するように)ここまで露骨にエロゲー的なんだから、もっとこう、チューくらいさせたらどうですか、先生。ふとももとパンツの間を執拗にアップで写したコマも多いことですし」
 「(絶叫して)馬鹿なこと言うなよッ! 少女に初潮も破瓜もまだ来ていないことを確認するだけの、実にさりげない演出じゃないか! それに、自転車に二人乗りするシーンで、少女が制服の布越しに男の肩を触ってるだろッ! あれ以上に二人を接近させるのはグロテスクだし、何よりあれ以上接近したら体臭がするじゃないか! それに、(絶叫とも言える大声で)肩を触ったら、次はチンポに触ることになるだろ!」
 「(声をひそめて)馬鹿、隣に聞こえたらどうすんだ」
 「(聞こえないふうで)だから、困るから、チンポに触られたら困るから、少女を宇宙船でまず木星へ、それでもやっぱり不安だから、次は太陽系の外へ飛ばすことにしたんだ。それくらい遠くに離せば、チンポにとってはまずまず安全な位置と言えるからね。少年はようやく安堵して、胸のうちを独白する。『届かぬ愛撫を待ち続けることのないように、チンポを固く、冷たく、強くしよう』。オナニー宣言、全然カッコいいよね(へらへらと笑う)」
 「(唖然としたふうで)物語の展開が唐突だとは思っていたが、まさかおまえ、本気でそういう。物語の必然とか、そういうのは…」
 「(あきれたふうに)なに、物語なんてカッコ悪い言葉使ってんだよ。ストーリーなんて、カッコいい絵と、ぼくの願望に従属するためにある方便だろ。なんたって巨大ロボットの活躍はカッコいいし、猫を殺したら責められるけど、火星人を殺したらほめられるだろ。それに、ロボットはカッコよく殺すだけじゃなくって、巨大な鉄の貞操帯になって少女の貞操に誰も触れられないようにしてくれるし――精液を暗示する雨粒ぐらいさえもね――、少女はと言えば貞操帯の中で火星人の流血に初潮を代理させ続け、そうやって肉体的には清らかなまま、精神的には何といっても体臭のしないケイタイでぼくに依存してくれて、一方で悪い敵からは捨て身でぼくの世界を守ってくれるんだ。それに、光速で宇宙を旅することのパラドックスで、30歳のぼくが15歳の少女を好きだと公言しても、誰もぼくを、ロリコンとか、そういう異常な性癖の持ち主として糾弾したりできない必然的社会状況が生まれるだろ。これが、ぼくにとっての一番大切なポイントなんだよ! ストーリーなんて、カッコいい絵と、ぼくの願望から逆算すればいいんだよ! 物語の必然だって? そんなのレトロで、全然カッコ悪いじゃん(へらへら笑う)」
 「(もはや涙声で絶叫して)真面目にやれよ! おまえ、真面目にやれよ! おれ、このために仕事辞めたんだぞ! 本当に、冗談ごとじゃすまないんだよ! どこのおめでたい誰が、こんなオタくさい、文字通りの前世紀のアニメを金払って視聴したいと思うんだよ! お願いだから、真剣にやってくれ!」
 「(癇癪を起こして)ぼくはいつだって真剣だよ! ぼくは自分の作りたい、カッコいいものだけを作るんだ! それと君の音楽だけどさ、ドラムとか、エレキとか、ああいう青臭いのは、ぼくの作品ではやめてくれよな。反体制とか、体臭とか、そういうのが一番嫌いなんだ、ぼくは。(言い終わるか言い終わらないかのうちに、獣のような絶叫とともに、凄まじい騒擾が始まる)何するんだ、離れろ、音楽屋め、体臭が、ぼくに、臭い、臭いィィィッ! (気狂いのような悲鳴で)ぼくに触るなァァァッ!」
 (男性の声のナレーション)残念ながら、このテープはここで終わっている。この後、二人がどうなったのか、果たして輝けるアニメ界の超新星となったのかどうか、それは誰も知らない。

祈りの海

 点々と反吐をまき散らしながら、外へ出た。
 ほとんど一歩ごとにつまづき転倒し、全身に擦り傷をつくりながら、のめるように石段を降りる。
 薬の効果か、意識がだまし絵のように伸び縮みを繰り返し、ひとつに焦点を結ばない。これがついには致命的なことへつながるのかどうか、それすらもいまはわからなかった。
 突如、これまでになかった強烈な嘔吐が胸を灼く。私はたまらず足をもつれさせ、もんどりうって、ほとんど棒立ちのまま前へと倒れ込む。
 幸い、もう石段は続いていなかった。全身を波打たせるようにして、吐いた。そのまま大の字に裏返ると、長い長い石段の先に、私の葬儀をとり行った寺の全容が見えた。かたわらの反吐の臭気が鼻をつく。
 結局、何ひとつ自分で決めることができなかった。わずかこの身の始末すら。伸縮を繰り返す意識がその限界まで広がり、はじける。
 あれは、何の言葉だったろう。籐椅子の中の午睡から目覚めた男が、側にひかえる召使いに言う。『私は傷ついてしまったんだよ、本当に。そしてもう二度と癒されることはない』。たとえ近親殺しであったとしてさえ、それが人の営為であるならば、人は共感に涙を流すことができるだろう。世界に悪は存在しない。つまり人の関係とは、客体化された現象に集約してゆくからだ。けれど、心の神性の中には、純粋な悪が存在し得る。その悪の純粋さは、人間の魂を本当の意味で破壊する。純粋な悪に一度魂を触れられてしまったら、二度ともう元のようには戻れない。かれは、それを知った。おのれの魂が不可逆に傷つけられ、もう二度と癒される日が来ないだろうことを、知った。恐ろしい。あれらの悪の様相は、人間の手に負える、人間の触れていいものではなかった。あれらの甘い砂糖菓子の口あたりは、純粋な悪だけが持つことのできる真の安堵に満ちていた。私は、あそこから逃げなくてはいけない。もう、ここにいてはいけない。
 指先が砂を掻き、海面へと浮上するように、意識が覚醒する。身を起こそうとすると、再び強烈な嘔吐がやって来た。かたく目をつむり、全身を硬直させて、私を嘔吐が蹂躙するにまかせる。眼球が小刻みに回転して、意識が浮遊する。血が滲むまで、唇に歯を立てた。すんでのところで、自我の消失から我が身をもぎはなすことに成功する。膝をついて、立ち上がった。萎えた足はぶるぶると震えたが、それでも私の身体を無理にも先へと押しやろうとした。しかし、それは私の中にあるというのに、いったいどうやって逃げだそうというのだろう。ほとんど這うようにして私の身体が坂道を下ってゆくのを、私の意識ははるか高見から眺める。人ごとのように? 遠のき、眼下に矮小化してゆく私の身体。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 万華鏡のような自失。次の瞬間、私の意識は私の身体と合致していた。
 三たび、強烈な嘔吐。視界の端から溶暗が始まる。私は今度こそ本当に打ちのめされ、意識から手を離してしまう。
 ふいに強い衝撃を受けて、目を開く。白い金属のつらなりが視界に入る。護岸道路のガードレールを乗り越えて、私は転落したらしい。身体を起こそうと手をついて、そこが砂地であることを知る。大気には、重たい湿気が混じっている。私は立ち上がった。
 陽光がすべてを漂白してゆく。足下を泡立った波がすくう。波間に億もの反射光が同時にきらめく。
 嘔吐は、どこかに消えていた。
 自分が薄く、涙ぐんでいるのに気がついた。左右に首をふる。このような世界への親和は、私にふさわしくないだろう。魂は、感情という因子に影響を受けて、いくらでもその形を変容させる粘土細工のようなものだ。平板な舞台装置による突発的センチメンタリズムと、世界への悟りを混同してはいけない。こんなふうな安易さで、世界を理解してしまってはいけない。私は、何からも、少しも救われてなどいない。
 腰がひたるまで海中に歩を進める。高い波が近くではじけ、全身にできた擦り傷を洗った。わずかに遅れて、じわりと痛みが広がる。ほとんど美しいとさえ言える海が、眼前へパノラマ状に広がっている。波間に浮かぶ錆の浮いた空き缶が、私の身体へと流れついて、止まった。空き缶の周囲には、油膜が形成されていた。それは、まるで老婆のような染みだった。
 背後で声が聞こえた。振り返ると、数人の若者の群れがこちらを指さして、けたたましい笑い声をあげているのが見えた。あるいは、私に向けられたものではなかったのかもしれない。きっかけは何でも良かったのだ。いまは、それだった。だから、不意に染み出した感情を私は止める気にならなかった。染み出た感情はいっぱいに広がると、次にしたたり落ち、ついにはすさまじい勢いで噴出した。私は波をかきわけ絶叫し、砂地に足をとられながら絶叫し、若者のひとりに飛びかかりながら、私にはあり得ないような絶叫を絶叫していた。
 ぎざぎざした分厚い靴底が私の顔面をとらえた。首を支点に身体を前へと投げ出され、背中から墜落する。倒れたところへ、続けざまにみぞおちへ鈍い衝撃が走った。呼吸が止まる。感覚はなぜか、人間の意識と微妙に同期を外している。激しい痛みが来た。そして次の衝撃と、その次の衝撃が同時に来た。私は申し訳のように、のろのろと身体を丸める。繰り返し重ねられる無数の痛みが境界を無くし、やがてぼんやりとした大きなひとつに感じられるようになったとき、横倒しのカメラからのような視界が、何の劇的効果をねらったものか溶暗する。
 まばたきほどの時間でしかなかったと、私は感じた。
 目を開くと、陽光はすでに力を失っていた。意識が焦点を結ぶ直前の、あの数瞬の自失の後、髪を赤と黄のまだらに染めた若い男が、私をのぞきこんでいるのに気がつく。とっさに両手で顔をかばって、身体を硬直させる。いくら待っても何も起こらなかった。どうやら、先ほどの若者たちではないようだ。愛想のよい笑顔で手をさしのべてくる。沈黙をどう解釈したのか、男は肩をかして私を立ち上がらせると、どこかへ連れてゆこうとする。私は、わずかに身をよじってみせた。だが、声も出せないほどに口腔は腫れ上がり、全身は痛み以外の感覚を持った場所を見つけだすのが難しいほどだった。結局私はこうやって、いつも何ひとつ自分で決めることができないのだ。そのまま男の示す先についていったのは、受け入れるという怠惰さをすら意味していなかった。
 一歩ごとに、足の裏で砂がきしむのが感じられる。世界は動いてゆく。保留は停止を意味しない。男の横顔に、なつかしい面々の面影が次々に重なる。かれらとは最も似ていないはずのこの男に、いったいどうしたことだろう。私は、あの頃を思い出す。そして、私がかれらとの日々に少しなりとも心地よさを感じることができたのは、かれらが決定できないほど弱かったからだと気づく。かれらはまるで、私の鏡写しのようだった。その弱さを憎むことで、私は自分を傷つけないまま、自分と対峙するふりをすることができた。永遠の保留の無解決の中で、穏やかに遊ぶことができた。
 私は深く息を吐くと、大きく男に寄りかかった。足をひきずりながら、そのまましばらくいっしょに砂浜沿いを歩いた。一言も話さなかった。水平線に漂う陽光の残滓が、徐々に光を失っていくのが見えた。
 手当をしてくれた若い女の皮膚の柔らかさが、自然と反芻される。別のひとりが、紙コップに入った生ぬるいビールを手渡してくれた。打ち上げられた流木の上に腰掛ける。数匹のフナムシが両足の隙間をすり抜けていった。私は気取られぬようズボンに片手を突っ込み、軽く勃起して座りの悪くなったペニスの位置を正す。
 口の中がずたずたに裂けているので、ひとすすりほども飲むことはできなかったが、大勢の人間が集まった場所の空気は、どこかアルコールと同じような効果があるらしい。たき火の周囲を十数人の若い男女が踊り、歌い、笑いさざめいている。砂浜に置かれたラジカセから流れる音楽はひどく割れていて、炎の喧噪ごしには、いったい何の曲なのかも判然としない。私はほとんど放心して、その様子を眺める。大勢の人間の中にいるときに必ず感じるあの所在の無さを、私はなぜか感じていなかった。そして、何のきっかけを得たのだろう、かれらの誰ひとりとして、他の誰かと同じようではないことに、私はふと気がつく。その理解のあきれるような素朴さに、私は愕然とする。
 背の高い者、背の低い者、痩せた者、太った者、あけすけな者、はにかんだ者、髪を染めている者、髪を染めていない者、俊敏な者、のろまな者、顔立ちの整った者、ひどく不器量な者、声の高い者、声の低い者、輪の中心にいる者、輪を遠巻きにする者、うまく歌う者、調子外れな者――それらのすべてが、そして対立する極端から極端を埋めるグラデーションが、ひとりの中にいくつもあって、かれらをかれらがいまあるようにしていた。感動とも違う、それは当たり前の何かが、はるかな遠回りの果てに初めて、私の胸の欠落に落ちた瞬間だった。
 長髪の男が、身を投げ出すようにして私の横に座った。かなり酔っているらしい。私の肩に手をまわしながら、大きな声でまくしたててくる。脇の下のじっとりとした汗の感触が、衣類越しに伝わってきた。胃腸を悪くしているのだろうか、男の吐く息には、アルコール以外に腐ったような匂いが混じっていた。私は、不快を感じた。だがそれらは、私がこの男を拒絶したり、愛さなかったりする理由には、もはやならなかった。不思議ないとおしさに突かれて、ぎこちなく、同じ流儀で男の肩に手をまわそうとする。男の横顔に視線をやると、長髪の隙間からひどく奇妙な形をした耳が見えた。かれが長く髪を伸ばしているのは、不格好なこの耳を隠すためなのだろうと、私は理解した。そのことを口にすると、かれは一瞬びっくりしたような目で私を見た。それから、照れたように笑った。私は、笑い返した。
 やがて男は踊りの輪の中へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら私は、ああ、こういうことなのか、と思った。それは、不思議な感覚だった。しかし、悟りのようではなかったから、ずっと続くだろうと信じることができた。
 祭りは、いつか終わる。
 ひとりまたひとりと、帰る場所のある者たちは帰り、そうして、夜の浜辺に私だけが残された。
 泡立つ波が足下をさらってゆく。
 ふと見上げると、どういう大気の影響か、月の周囲におぼろな白い光の輪が浮かんでいた。
 目の前に広がる夜の海は、幻想的で、広大で、限りなく清らかだった。身をかがめて、海水を手のひらにすくってみる。そこにあるのは油じみた、卑小で、汚れた水に過ぎなかった。
 手のひらを返すと、水はまた、夜の海の一部になった。
 私は波間に立ちつくしながら、そっと口の中につぶやいてみる。
 「しかし、それではあまりに生きることがつらくありませんか?」
 驚いたことに、答えが返ってきた。あるいは、波音に聞いた幻聴だったか。
 「なに、四六時中ってわけじゃないさ」

⊥(ターンティー)の癒し

 1999年1月17日が、個人サイト『nWo』のスタートだった。
 サイト運営をするということは、自己の概念とか美意識を表現することで、それを不特定多数の人々にしめして、理解され楽しんでもらわなければならない。
 更新した、というところにとどまっているのであれば、素人である。
 インターネットという未成熟の媒体でも、創作することに関与できたおかげで、ぼくは正常でいられたらしい。
 創作をしてインターネットという広い場に発表できるということは、サイト運営というだけでなく”情”を吐き出すことができるのだ。マスターベーション的にひとりお部屋の中で精をだすことでもなければ、アクセス数を増やせたとひとりだけの満足にひたることでもない。
 だれかが見てくれている、だれかがメールをくれるかもしれないという想像は、自閉症になることを予防してくれる。
 自己が安定するのだ。
 サイト運営をしてこなければ、ぼくは、どこかで禁治産者の烙印をおされていたか、精神的なものが原因の事件をおこしていただろう。昨今、ニュースにとりあげられている事件そのままにおこなっていただろう。
 ゆるゆると3年が過ぎた。
 新陳代謝の早いこの場所では、新参が古参になるのに、充分な時間だ。
 年々、ぼくは身内に危機感をつのらせていた。
 言葉というのは、最大公約数の共通認識を伝達にのせる手段だが、現実とは完全に重ならないという意味合いにおいて、それは虚構と呼ぶことができる。言葉の持つ虚構性については多くを語ってきたと思うので、ここではさらには触れない。
 伝達、というポイントが重要である。なぜ言葉が存在するのか、という本質的な問いに少しでも思考を与えたことがあれば、言葉の本義を踏み外すことは無いはずだ。言葉の力点は個人の上ではなくて、個人と個人の間にある漠然としたつながりの上にあることが容易に理解できると思う。
 言葉とは、伝達とイコールなのだ。
 そこで、最大公約数的である言葉の持つ曖昧さは、時間と場所は異なるとしても、世界の包含する事物への共通体験によって補われる必要が出てくる。例えば、『樹木』という言葉を発するとき、『樹木』という言葉以上に説明を加えないのは、我々の全員がそれを現実に見、嗅ぎ、触れたことがある、という前提によっている。
 これに対し、例えば『正義』であるとか、共通の前提を伝達の条件とできない、概念だけの言葉もあることは、少し考えればわかることだ。モニター上でなくマンコの襞を押し広げる現実体験を持たないものにとって『マンコ』という言葉は、『正義』という言葉と同じように概念でしかない。
 言葉には、大ざっぱに分けてこの二つの種類がある。そして、概念を表す言葉群は、生活への出現頻度や絶対数において、対立する言葉群よりもはるかに少ない。
 だが、二者間のバランスは今や崩れつつある。ネットを日常とする若い世代は、圧倒的にぼくなどよりも少ない前提をしか持っていないことに、ぼくは気づいた。つまり彼らは、『正義』と同じ響きで『樹木』や『マンコ』を発信している。この由々しき現代病に、ぼくは力及ばぬながら、『nWo』でわずかなりの抵抗を示してきたつもりだ。
 そんな漠然とした危機感を抱きつつも、日々の雑然さに流されるしかできない中、一通のメールが届いた。
 そこには、『テキストサイト大全』なる企画本に、テキストサイト系現役ネットカリスマとして寄稿してもらえないか、といった趣旨のことが一見慇懃な調子で書かれていた。
 テキストサイト系!
 それこそ、言葉に不可欠な前提と伝達の無いままに、インターネットという広い場に放言を繰り返す、現代病の病理の最たるものではないか! 『nWo』の文脈を読みとれぬ、なんという明き目盲の申し出であることか!
 ぼくはひさしぶりにキレた。
 「この、母親のマンコ臭の頭髪から抜けきらない、くっきり蒙古斑のボウフラ水め! ネットワーク上に自己を投射するために不可欠な、あの明確極まる枠組みの絶望的な相互孤絶を意識化することができないから、孤絶を孤絶のままで集合させたところに名付けをして、これぞコミュニティでございとふんぞっていられるんだ! おまえ、コミュニティというのを、近似値的な概念集団と勘違いしてるんじゃないのか? 互いの姿を形作る領域の境界が重なって、どちらをどちらと指摘することのできないグラデーション化した部分を持ち、その曖昧な部分においてはそこに重なるどの個も重要ではない。理知の明解さの照らさない、その黄昏の場所の持つ怪しさこそが、小さな社会集団と曲がりなりにも呼べるものの、本質なんじゃないか! この怪しさを見ないから、清潔で単純な概念へと一足飛びできるんだ。そもそも、ネットワークは致命的に肉を欠いているという物理的な事実だけからも、セックスを内包した生活集団足り得ない、すなわち社会足り得ないことが理解できるはずだろう。なに、すでに現代社会はマンションの一室一室として、ホームページ状に分割されている、だって? バカヤロウ! このパパとママの庇護下のオナニー野郎め! 両親と同じメシを喰って、自分の女とセックスできるか! セックスできないから、おまえはいつまでもパパとママの生殖器の下なんだ! セックスが家族と訣別させ、家族というドロドロの融合から、両親へ社会という距離感を与えるんじゃないか! そうやってすぐに肉を無視する先鋭化した観念に一足飛びするのは、ノットセックス(掌で机を一撃)、バットオナニー(掌で机を一撃)の自分をだけ納得させるための歪んだ世界観に過ぎないんだ! 人類種の本義を外れた、セックスレスを進歩的と鼻高々な、腐臭放つ悪魔崇拝者の姦夫姦婦め! 今は何者でもないが、いつか何者かであれるかもしれないなんてグズグズの、ぬぅるいぬぅるい澱んだ温泉水の譲歩に首までつかった、ブヨブヨ精神のシワシワ余り皮め! その、社会と時代を度外視した、自分に都合の良いものだけを採択するという意味合いでだけの暴走した個人主義が、(顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系などという名付けの、僭越極まる自己欺瞞を増殖させてるんだろう! だいたいあんなものは、対立する素封家の一人娘との、深夜のご神木の裏で村人に隠れてするセックスのようなもので、もっと言えばそのとき膣外射精した精液がご神木の表皮を伝い落ちるのを雲間の月明かりに見る虚脱のようなもので、むしろ誰にも知られないまま消えて欲しいと望む類に過ぎない。(咳払いして)おまえ、ここが何かのマイナーリーグとか思ってないか? つまり、今は日の目を見ないが修練次第でメジャーの一線級の大舞台を踏むことができると、どこか心の片隅でチラとでも思ってるんじゃないか? 醜いアヒルの子どもをさらに自意識で醜悪にした顔面で、救われることを前提としたハーレクインロマンスの悲劇の中で、優越に満ちた一時的な自虐を盛大に微笑んでるんじゃないか? ハ・ハ・ハ、(笑いに咳き込んで)いや、申し訳ない。まさかね…まさかそんな(突如激し、机をこぶしで強打する)薄ら白痴めが! もっと深刻で、決定的で、致命的な隔絶があるんだよ! (顔を真っ赤にしてどもりながら)テ、テ、テ、テキストサイト系ってのは、おまえ、マイナーリーグどころじゃない、パラリンピックなんだよ! 不倶と健常者が同じ舞台に立てると思ってるのか! どれだけ心がパラリってるか、社会性の最後の残滓を締め出し、どこまで心をパラリらせる様を見せることができるか、これはそういう類の争いなんだ! そこを意識しなければ、おれたち不随の歯茎の黄色の乱杭歯ぐらいでは、健常者たちのあの分厚いのどぶえを、少しでも噛みやぶれるわけないじゃないか!」
 そう一息に叫ぶと、ぼくは飲みさしのビール瓶を、ノートパソコンが置いてある文机に叩きつけて割ってみせた。
 『やめなさいよ。見せかけの大手サイトのポーズなど……』
 しかし、そのメールは行間で、ぼくを非難した。
 <潮流から外れているという自覚が無ければ、ビール瓶の割れた方を飼い猫に押しつけ、その頭部をクール宅急便でてめえの自宅に直送していた!>
 そうきっちりと考えながら、
 「そうだ……ポーズだよ。こうしなければ、この申し出をおさめることはできない」
 そうやって承諾の返信をしてみせたのも、ポーズだった。
 結局申し出を断ることができなかったのは、かくも『nWo』は読み手の”慣れ”のうちに、ついにはこういったオファーを許すほど毒気を喪失したものになっていたのか、という認識が強まっていたからである。
 テキストサイト側だって、『nWo』的なサイトづくりが明らかに潮流を外れていることは知っていても、いくらアクセス数で劣っていても、ネット上の年功序列から声をかけざるを得ないというジレンマをしのがなければならないのだ。
 なんで、長いことやってる割りに人気が出ないのか? その自問自答に、
 「あいつらが邪魔してるんだ!」
 そう言ったのは、小鳥猊下という名前のインターネット上の疑似人格だった。
 あいつら、というのは、旧来のテキストサイト・ファンというよりも、おたくたちのこと。
 「あんたは才能がないんだから、頑張りなさいよ」
 2001年暮れに、そういった内容のメールをくれたファンがいたが、それは当たっていたのである。
 才能――力があれば、取り扱っている中身がどうとか、おたくたちがいようがいまいが、人気はでるはずなのだ。
 それが低迷するというのは、力がない証拠である。
 ぼくがおたくだったら『nWo』は承認しない。そんなことはわかっている。
 いいサイトであればヒットするという原則は、この世界にはないのだが、まったく新しいものにしていかなければ、今後の『nWo』の展望などは絶対にないという確信も、またゆるぎない。
 が、それにしてもどうしてだ……という状況のなかで『nWo』の全盛期は終了した。
 それでも、諸君、ぼくは、
 日々大量生産される妄想美少女たちの架空とはいえ”人格”と呼べるものを蹂躙し消費するおたくは道徳的・倫理的・神学的に醜いよ、そういう自分の内外を問わぬおたくを侮蔑し嘲けりついには憎悪する視点というものを獲得してもらいたいと願ったから、『nWo』をこのようにしたのだとわかってほしい。
 そういう心をもてば、心は外にむいて、おたくにならないですむから! と……。

夢の終わり

 「(まぶたの下で瞳を痙攣させて)いや~んばか~ん、そこはおイドなの」
 「あっ。小鳥猊下が張りついた白痴の微笑みとともに薄目を開けて自身の無意識を探索なさっているぞ」
 「(着物のすそをまくり上げて)猊下、私のおイドも使って!」
 「(まぶたの下で瞳を痙攣させて)いや~んばか~ん、そこはおイドなの」
 体育館。整然と並べられたパイプ椅子。その一番後ろに少女が一人座っている。他には誰もいない。演壇には、ひどく痩せ衰えた男。演壇の隣には、袴姿の男と着物姿の女が立っているが、その様子はひどく人形じみて生気を持たない。演壇の痩せた男、細かく痙攣する手で水差しを取り上げ、盛大に零しながらコップへとそそぐ。コップの中身を飲み干すと、男の手の痙攣が止まる。男、咳払いして痰をきる。少女、立ち上がって拍手をする。男、かすれた、そしてろれつの回らない声でしゃべり始める。
 「まァ、俺が言うのはエヴァンゲリオンだ。8割、9割、エヴァンゲリオンだと思ってもらってかまわねえ。俺はじつは不感症で(甲高い笑い声を上げる)、いままであんまりすごいとか感じたことがねえから、もう8割、9割、俺が言うのはエヴァンゲリオンだと思ってもらってかまわねえ。あー、実存の可能性としては、2つあると思うんだな。ひとつの実存は、永遠の命と知恵を持っている。こりゃ、もう神様だな。もうひとつの実存は、知恵も永遠の命も持っちゃいねえが、死というプログラムによって種としての存在を永遠へと連鎖させる。これは植物も含んだ、生物全般のことだな。人間ってのは、(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)どっちにも当てはまってねえよな。知恵というのは、死と同居しにくいんだ。本能は死を理解するが、知恵は死を本当の意味では理解できないからな。それに、知恵ってのは、単発なんだよ。受け渡せない。ドストエフスキーが死んだら、また次のヤツは一から始めなきゃならねえ。人間ってのはその意味で、存在を続けること自体が奇跡的な、言ってみれば奇形に過ぎないんだな。なぜっておまえ、知恵は死と同居しにくいからな。だからさ、親子の情とかさ、そういうのは生物の側に属するものなわけだろ。その反対で、なんでもかまわねえが、例えばいまおまえたちがここで聞いてるダベりは、知恵だろ。神様の側に属するもんなの。だからさ、わかるかな、若いうちは、死ぬことが近くないから、知恵なわけよ。親が俺の感性を理解しないとか言って、飛び出すのよ、例えばさ。なぜかってえと、知恵だからさ。それがさ、ある程度年とってくると、生家に戻ってさ、お父さん、私が悪ゥございましたァってな演歌で泣き崩れて、父親は父親で一番いい羊を屠るわけよ、息子のためにさ。なんでって、お互い死が近くになってっからさ。もう二人とも生物なんだよ。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)こんな具合にさ、一生のうちに神様と生物の間を行ったり来たりすんのが、どっちつかずの人間のバランス取りなわけよ。俺、バランス取りって言葉よく使うけどさあ、神様と生物の間のバランス取りってのは、かなりいい例えじゃん。んで、エヴァンゲリオン。宇宙に飛んでったエヴァンゲリオンさあ、あれは永遠の命と知恵と、神様じゃん。神様っつわれたって、本当にいるのかどうかなんてわかんねえから、人間が目に見える次元と形で、哲学やら神学やらの仮定を実在させたのがあのエヴァンゲリオンなわけよ。んで、地球に残ったのが生物と、そして二人の人間な。3つの実存を、正確に言や、2つとその中間ってことだが、人間のうだうだを全部ブッ壊すことで仕切りなおして、も一回最初のように切り分けたんだな。壮大な実験が始まるようにさ、どの実存が世界にとって一番ふさわしいんだろう、ってさ(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)。
 「あとな、文章で人間がわかるんですかって、おまえさあ、わかるに決まってんじゃねえ。言葉が人のカタチを規定しねえってんなら、いったい何が規定するってんだよ、まったく。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)そりゃ、自己防衛の薄ら笑いで、小学生の作文コンクールをひとりでやってるぐらいにはわかんねえだろうよ。おまえな、本当の言葉ってのは、すべての防衛とは遠いところにあんだよ。馬鹿なヤツは馬鹿な文章を書くし、軽薄なヤツは軽薄な文章を書く。そんなん決まってんじゃねえか。言葉には、すべての愚かしさと、すべての無知と、そして、(声を低めて)すべての気高さがあんだよ。言葉は、それを書いた当人が気づいていないような、無意識の澱の、その奥底の醜さまで、勝手におまえの言葉を読んだ相手にささやくんだ。(コップに水差しからそそぎ、飲み干す)あのな、本当の言葉を書くためにはな、世界と人間を理解しなきゃダメなんだよ。少なくとも、世界と人間を理解しようと思わなきゃなんねえんだよ。それを、さかしげに人類史や世界や、そういった巨大な流れから切り離された個人の感情だけで言葉を語りやがって。俺たちゃ、お互いみんな違うように見える。けど、少し踏み込んだら、みんな同じなんだ。そして、もう一つその奥では、やっぱり全然違うんだよ、俺たちは。この人間理解の道程をもたどらず、最初に感じる世界への違和感にだけ拘泥した愚かしさで、誰か自分以外の人間に届いてしまうかもしれないここで、言葉を吐こうなんて少しでも思うんじゃねえ! (水差しを取り上げるが、中身が入っていないのに気がついて、床に叩きつける。粉々に砕ける水差し)本当の言葉ってのはなァ、個人の浅薄な意識を超えたところですべてを知っていて、そして外に出したが最後、すべて勝手にみんなに教えちまうんだ、こいつは差別主義者ですよ、こいつは性的倒錯者ですよ、おおっとダンナ、こいつは両親からひどく虐待されていたようですよ、うへへ過剰色欲者、たまんねえ! そしてな、その出歯亀に終わらねえ、言葉ってのは個人の意識をはるか超え、個人が世界へ死にものぐるいでつながろうとするときの、究極の手段なんだよ! (気狂いの目で口の端から泡を飛ばして)その丸裸の恐怖と栄耀を知らずに、少しでもここで言葉を吐こうと思うんじゃねえ! 文章で人間がわかるんですか、だと? おまえの魂胆はまるわかりなんだよ!(絶叫し、演壇をひっくり返す。演壇の倒壊する、もうもうたる粉塵の奥から姿を現し)いいか、よく聞け、俺は常に答えを出す。まァ、本当はどっちかなんて誰にもわかんないんだけどね、なんて腐れた防衛の言葉で、俺は答えを、真実を濁らせたりはしねえ。ここで独白に終わらねえ言葉を吐こうとおまえが少しでも思うのなら、おまえが何者であれ、例え間違っていようとも、何か答えを出さなきゃなんねえんだよ! (一瞬の静寂。ゆっくりと)俺は、答えを出す。その瞬間瞬間に俺が見い出し、確かにそうだと信じた答えを、世界という名前の莫大な問いかけへの答えを、おまえたちがどれだけ耳を覆おうとも、俺はひとりで叫び続けてやる! そして時々に形や位相を変え続ける世界へと、決死の丸裸でむしゃぶりつき、俺の言葉で噛みやぶり、引きずり出し、咀嚼して、耳をふさぐおまえたちの上に嘔吐し続けてやる! 俺が弱くなり、荒れ野に朽ち倒れるそのときまで、俺は究極の答えを、嫌がるおまえの口の中に無理矢理ゲロし続けてやるって言ってんだよ! この終始薄ら笑いの白痴めが!(喉の裂けた血煙を吹く)
 「(拍手をしながら近づいてくる少女の姿に気がつき、脅えたように)どうだった、今日の講演は?」
 「(小動物へ向けるような、この上ない優しい微笑みで)良かったわ。とても良かった」
 「(突如激し、少女を突き飛ばす。整然とならぶパイプ椅子の列へ、倒れこむ少女)そんな、つたないセックスをした客をなぐさめる商売女のような調子で、俺に話しかけるんじゃねえ!(散乱したパイプ椅子の列から、少女の髪をつかんで引きずり出す。大きく振りかぶり、平手。そしてまた平手)」
 「(赤く腫れたまぶたに、切れた口の端から血を流して、棒読みに台詞を読むように)自分の感情と行為の非を、心が理解してしまわないために、逃げるようにさらなる激情に身を任せる(髪をつかまれたまま、目だけを動かして男を見る)」
 「(慌てて少女の髪を離し、脅えたように背を向ける)何が講演だ! こんな誰もいない場所で、何が講演だ! あいつら、俺を誰だと思ってんだ!」
 「(両膝に手を当て、自分を支えるように立ち上がり)『猊下の虚構力が弱まってきている』、そう言った人がいたわ」
 「(激しく振り返り)弱まってなんかいねえ! それを証拠に、見ろ! (男、演壇の横に立っている着物姿の女に向けて指を鳴らす。女、それに応じて着物のすそをまくりあげる。かすかな狂気を思わせる様子で目を剥いて)どうだ、これでも弱まってるって言えんのか!」
 「(哀しそうに首を振る)あれには魂が入っていないからよ。自分でも、もうわかってるんでしょう? 魂を持ったものたちは、みんな行ってしまったわ。ドラ江さんも、D.J.FOODも、パアマンたちも、CHINPOも、みんなここから行ってしまった」
 「(両耳をふさいで)違う! あいつらは、全員俺が殺したんだ」
 「(淡々と)ここに誰もいないのは、あなたがいつからか殺せなくなってしまったことに、みんな気がつき始めたからよ。どうしてかは知らない、あなたは自分が生み出したものたちに対して、真摯にならざるを得なくなってしまった。いつの日からか。(哀しそうに)そう、いまのあなたにできるのは、せいぜいが魂の無いものたちに猥褻な行為を強要するぐらいのもの」
 「(一瞬サッと顔を紅潮させるが、すぐに泣きそうな表情になって、その場にくずおれる)知ってたよ……魂があるものたちに対して、俺は俺の虚構力を及ぼせなくなっているのに、とっくに気がついていた。俺ができたのは、せいぜいかれらの様子を詳細にスケッチすることぐらいだけ」
 「(憐れみの視線で)あの人が言った、あなたの虚構力が弱まってきているという言葉。でも、それは正確じゃなかったのね。少しでも魂を持ったものたちは、あなたの指の間からすり抜けて、ここからおりて行ってしまう」
 「だからといって、いったい何を変えることができるっていうんだ……俺だって、たくさんの一人に過ぎないのに(両手に顔を埋める)」
 「(近寄り、優しく肩を抱き寄せて。勇気を奮い起こすように)もう、やめましょう? あなたが自分の中に生まれた、魂への真摯さを裏切りたくないのなら、もう、やめましょう。ここで行われていることは、あまりにあなたのその気持ちを裏切っているわ」
 「(すがるような表情で顔を上げて)江里香」
 「(右頬にゆっくりと涙を伝わらせて)私をまだ、名前で呼んでくれるのね」
 「(苦悩に顔を引き歪めて)それは、無理なんだ。何度そうしようと思ったのかわからない。でも、それは、無理なんだよ。本当に」
 「(歌うように)じゃあ、私を殺しなさい」
 「(予期していた絶望に悲鳴を上げて)江里香!」
 「私を殺して、あなたの持っていた虚構力をわずかでも取り戻しなさい。そうすれば、あなたはここで多少長らえることができるでしょう。それができないのなら、(いまや滂沱と涙を流しながら、両手を広げ)私といっしょに、ここをおりて」
 「(ほとんど音にならない悲鳴で)あ、あ、あ……ッ(両手の指を額に食い込ませる。裂けた皮膚から血が流れ出す)なぜ、どうして、いつのまに、こんなことに……!」
 一人の痩せこけた男が、入り口の扉へ身体をぶつけるようにして出ていく。男が出ていった途端、演壇の横に立つ二人の男女が、糸の切れた人形のようにくずおれる。誰もいなくなった体育館の床に転がる少女の生首。長い髪の毛に隠されて、切断面は明らかでない。ほとんど生きているように見えるその顔は、まぶたを閉じて、すべてから解放された永遠の安らかさをたたえている。

愛のうた

 砂嵐舞う荒野。頭上に双葉を装着したダイビングスーツの男が3人、腰まで地面に埋もれている。スーツの色はそれぞれ赤、青、黄。スーツの下には、劇画調の彫りと陰影を持つ顔面とまったく不釣り合いな、みすぼらしく痩せこけた身体。
 「(青、強風の中、ライターに点火しようと幾度もカチカチと鳴らしながら)くそ、アカンわ。全然つきよらへん」
 「(赤、肘をついて横目に)おまえ、たいがいにしとかんと、しまいに肺から血ィ吹いて死んでまうど。ホレ、おれのジッポー使うか」
 「(青、ひったくって)ボケ、最初からよこせや……フーッ、しかしなんやな、俺たち、いつまでこんなとこ植わっとらなアカンのやろな」
 「(黄、うつむいたままつぶやくように)……我々巨視的存在は、その実存性の基底部分に滅びを内包していなければならない」
 「(赤、青を肘で小突いて)おい、おい。また黄色が始めよるで」
 「(青、フィルターを噛みつぶすようにして煙草をふかしながら)ほっとけ。おれが煙草を吸うみたいなもんや」
 「(黄、独り言を繰り返すように)よろしい。では、実存とは何だろうか。それは、情報の系だ。時間の流れに従って、系には情報が増大してゆく。やがて情報の総量は飽和という名前の臨界点に達し、系は崩壊する。すなわち、実存の終焉だ。衰退や減少ではなく、増大によって実存は死を迎える。このプロセスは、私にとって示唆的な意味を持たないこともない」
 「(赤、あくびして)おい、青色。やっぱワシにも煙草くれや。(青、無言で煙草の箱を投げる)」
 「(黄、独り言を繰り返すように)わかりやすくしよう。巨大な、一本の樹木を想像して欲しい。この樹木は不思議なことに根っこを持たない。これの幹と枝が、私の表現するところの”系”に相当すると考えて欲しい。結実する果実は”情報”だ。根っこを持たないとしたのは、時に樹木は人間的な視点から永続と同義に映ってしまうからだ。それでは、私のする解釈に齟齬を来してしまう。だから、諸君は、数学的な仮定のごとき思考の依り代としての樹木と考えてくれればいい。この樹木は、生物に限らない、すべての実存に対して包括的に当てはまる動きをするが、この際に限っては説明と理解をシンプルにするために、人間のみを表すと想定しよう。時間の始まり、つまり実存の誕生において、かれの持つ樹木には何の果実も無い。この時点で、系の持つ情報はゼロだ。そして、時間は流れ始める。かれが生きることを始めたからだ。かれの時間が流れるにつれ、様々の果実が枝へと結実してゆく。ここで注意して欲しい。最初に言ったように、この樹木には根っこというものがない。だから、情報の総量が増えるに従って、自発的なバランス取りが必然になるんだ。わかりにくいかい? 例えるなら、完全に均衡を保っているやじろべえの片方に、重しを付け加えるようなものさ。もしその重しが重すぎるのなら、やじろべえは倒れてしまうだろう。情報の質量とは、系にとっての意味性の重大さと同義だ。(皮肉っぽく)もし、右の枝に『両親の不貞』やら『性的虐待』やらの巨大な果実が実ったなら、左の枝に『心理学』やら『宗教』やらの同じ大きさの果実を実らせてやらないと、樹木そのものが倒壊してしまうからね! これこそ、バランス取りというものさ!」
 「(青、輪っか状に煙草の煙を吹き上げる)フーッ……樹木やて。わざと皮肉ってるんなら、それこそ大したもんやけどな」
 「(赤、二本目の煙草を取り出す)お、すまんな、青色。これでしまいや(ねじった煙草の箱を遠くへ投げる)」
 「(黄、独り言を繰り返すように)さて、くだくだしく見てきたように、時間軸に沿って増大する情報のバランシングが、実存にとってのほとんどすべてであると言ってもいい自己保存の過程なんだが、ここにもう少しの複雑さを付け加えることにしよう。それは、”情報の切り離し”だ。すべての枝々に実らせることのできる果実の総数には限界があるからね。左様、系は情報を手に入れるだけでなく、手に入れた情報を切り離すこともできる。系が『情報を手に入れる』というとき、それは外側にある情報をそのまま直に取り入れることを意味しているのではないんだ。外側からの刺激を受けて、内側から同質の情報を系内に作り出すことが、系が『情報を手に入れる』ことなんだ。思い出して欲しい。この樹木には根っこというものが無いと言った。それは、系にあらかじめ封じ込められた、何と呼ぶべきか、仮にエネルギーとしよう、エネルギーの総量が誕生の瞬間に決定してしまっているということと同義なんだ。そして、バランシングのためには、系の許容量を超えて増え続ける果実を、ある段階で切り離さなければならない。系内のエネルギーの総量は、そのとき、自然減少することになる。先に話したような均衡を失した倒壊は実存にとっての突然死と言えるが、エネルギーの消滅もやはり実存にとっての死であるということができる。うまくバランス取りをし続けようとも、それは決定された死を先送りするだけのことに過ぎない。つまり、実存は滅びを内包していると定義づけることができる。そう、実存は実存する限りにおいて滅ばねばならぬ……おお、この必滅の定めよ!」
 「(青、もはやフィルターだけになった煙草を噛みしめながら)あー……砂嵐止まねえかな」
 「(赤、唇に煙草を張り付けたまま)どうやろな。もう三日も続いとるしな」
 「(黄、独り言を繰り返すように)しかし、人間が死ぬということを、私たちはこのような思考実験を外したとて、まざまざと知っている。それを疑うことはできないだろう。だが、人間という名前の系は滅びるとして、人間の作り出したものはどうだろうか? 例えば、そびえ立つ無数のビルディング。それは、滅びを超越している。いや、違う、それは滅びを超越しているように見えるだけだ。(徐々に口調に熱を帯びて)私のした樹木を介する滅びの大統一理論は、その正しさゆえにすべてへと適合され得るはずである。眼前の状況を整理しよう。ひとつ、すべての実存は滅びを内包していなければならぬ。ふたつ、人間による被造物だけは滅びを免れることができる。この2つの間に存在する矛盾は、3つ目の条項によって大統一理論に背理せぬよう解消されなければならない。すなわち、みっつ、人間による被造物は、人間そのものによって滅びを迎えさせられる! (陶然と)それを証拠に、見よ、あの不朽不滅を約束された巨大な二つの摩天楼は、灰燼のうちに滅びたではないか! 人間による被造物は、だとすれば人間という系のうちなのだ。人間たちの迎えたあの破局への綻びは、正に必然だった。そう、あの最初の綻びは、確かに予見できたはずなのだ。荒野に打ち捨てられたビニル袋を見るとき、私はそこに滅びを予感した。それは、嗚呼、そういうことだったのか。(肩で息をして)私の感慨は、いい。それはおくとしよう。いまは、あの巨大な二つのビルディングとの滅びの合わせ鏡の対、人間へと大統一理論を縮小するとしよう」
 「(青、フィルターを噛みながら、気のないふうに)サイズで見たら確かに縮小しとるけどな」
 {(赤、青の言葉を受けるように)実存としてやったら逆に拡大してるとも考えられるわな」
 「(青、フィルターを噛みながら)結局は言葉だけのことや。終わったあとに何言うたかて、それは、むなしいやろ」
 「(黄、我にかえると、驚いたように目を見張り)まさか、君たちからそんなふうに突っ込まれるとは思わなかったな」
 「(青、口の端を歪め)なんでや。関西弁やからか」
 「(赤、口の端を歪め)関西弁やからやろ。見くびったらアカンで。言葉だけのやつは、すぐ現実をみくびりよるからな」
 「(青、煙草のフィルターを噛みちぎると、地面に吐き捨てる)哲学が無力なんは、例えば物理学なんかと比べたら、世界を想定するときに実証があり得へんという点においてや。哲学が正当かどうかは、それをするものの良心にだけ、唯一委ねられとる。良心! なんというどうしようもない頼りなさやろうな! 黄色よ、おまえは人間について話しとったな。人間という実存の特異性はどこにあったんやろう。それは、きっと、『食べられない』ことにあったんやろうと思う。この場合、捕食されない、ちゅう意味やな。世界ゆう名前の系の中で、そこにあるエネルギーの総量はあらかじめ決まっとって、エネルギーの総量は保存されなアカンはずで、その前提の中で、すべての実存は『食べられる』ことによって、自身の持つエネルギーを別の実存へと受け渡す、あるいは世界へと還元するプロセスを持っとった。けど、人間にはそのプロセスが完全に欠落していたんやな。エネルギー保存の法則を唯一破壊する人間という実存は、世界が本来持っていたものとは、何かまったく別の次元のものではあるやろうけど、新たなエネルギーを世界という系に作り出すという、生物の本義とは異なったプロセスで、自身の存在が世界のエネルギー総和を乱してしまうことへの矛盾を解消しようとした。自分たちの依る世界という系を壊さないためにや。けど、それは生物の本義を外れた、実存の消滅を伴わないエネルギーの歪んだ受け渡しやった。なるほど、エネルギーの総和はそれで守られたかも知らんが、ここで人間は必然、実存の消滅という行為を代行する別の代償を必要とし始める。それは、ずっと長い間、土俗宗教のイニシエーションやムラのマツリによる”疑似死”によって補完されてきていたんや。けど、その基盤となる地域社会はやがてゆるやかな崩壊を遂げ、人間たちは再び実存の消滅の代償行為を探さなければならなくなる」
 「(黄、ふるえて)それは、戦争かい?」
 「(赤、首を振って)拡大して、人類史的な視点から考えるんやったら、確かに戦争が代償したと読みとれへんこともないが、それは飽くまで個々の人間がそれぞれにただ在ることから引き起こされた相互作用的現象であって、『食べられる』ことを喪失した一個の生物としての人間が、実存の消滅という行為自体の消滅に対してどのようにふるまうかを説明せえへん。不完全な知恵という名前の解釈装置を放棄し、究極的な全へと和する快楽、知恵が実存の消滅へと対面したときに感じる恐怖――これは人間がものを造ることに由来する恐怖だとも言えるやろ――をうち消す快楽、つまり、死イコール恐怖やなくて、死イコール快楽の生物性へと回帰させる人間たちの代償行為、それは……」
 「(黄、苦悶に顔を歪め)……ゲームかッ!」
 「(青、無表情で淡々と)その通りや。ゲームは殺す。ゲームは死ぬ。そして、ゲームは快楽を与える。実存の消滅を喪失し、相互のつながりを喪失し、人間は、最後にゲームという名前の疑似死へとたどり着いたんや」
 「(黄、切迫した表情で)それじゃ、それで、人間は完全になったんじゃないのか? だったら、なぜ」
 「(赤、絶望的な青白い無表情で)簡単や。人間の失った二つを失えば、それはもはや生物とは呼べへんからな」
 「(青、絶望的な青白い無表情で)そして、覚えとけ。これさえも、ただの言葉や」
 降りる沈黙。やがて、砂嵐の遠くからきれぎれに兵隊ラッパの音が鳴り響く。
 「(赤、煙草を人差し指ではじいて捨てる)おい、そろそろ出番のようやで。(地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
 「そのようやな(青、地面に両手をつくと、埋まった下半身を引きずりだす)」
 「(黄、下半身を地面に埋めたまま、自身を両手で抱くようにして)怖いんだ……ぼくは食べられるのが怖いんだよ、本当に」
 青、赤、行きかけるが、その言葉に振り返って黄を見る。口を開きかける青と赤。
 突如として、3人の上を巨大な影がおおう。
 振り仰ぐ青と赤。そこには、果たして――
 「(赤、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)確かに、怖くないといえば嘘になる」
 「(青、奥に何を隠すこともない完全な無表情で)だが、それが、生物や」
 激しさを増した砂嵐が、すべての騒動をかき消してゆく。
 『でも私たち愛してくれとは言わないよ』

枯痔馬酷男(1)

 「(右手にペンを走らせ、左手の服の袖でよだれをぬぐいながら)ククク…おしゃれだ、こいつァ、たまらなくおしゃれだよ」
 「(大気を震わせる重低音で)ゴルルコビッチ、ゴルルコビッチ」
 「(ハッと顔を上げ)この重厚かつ珍奇な移動音は、まさか…(おびえるように振り返る)こ、こ、(暗闇から染み出すように、中肉中背の特徴に薄い男が現れる)枯痔馬酷男監督ッ!」
 「(造作は普通のはずなのに内面からにじみでる何かがその印象を一種異様なものにしている顔面と、異様にくぐもった聞き取りの困難な発話で)どうだ、リトルグレイ・インプラント編の執筆は順調に進んでいるか、賢和(口元だけを泣き笑いに歪める微笑みで、男の肩へ鷹揚に手を置く)」
 「(嬉々として机の上に置いてあった原稿を差し出しながら)もちろんですよ、監督ッ! 今日も今日とて主人公とその恋人のとびきりおしゃれな会話シーンを完成させたところです!」
 「(原稿を取り上げる)どれどれ…(音読する)『それから君の部屋に行って朝までキングコングを見た。2人で、何度も何度も』」
 「(腰を浮かせて)どうですか、枯痔馬監督。最高におしゃれでしょう? (屈託の無い笑顔で)会心の出来です」
 「バカヤロウッ!(振り向きざま、裏拳を男の顔面へめり込ませる)」
 「ぐはぁッ!(糸の切れたマリオネットのようにフッとび、コンクリートの壁に叩きつけられる。泣き出しそうな表情で首だけ持ち上げて)こ、枯痔馬監督?」
 「(もはや隠しようもなく露出した頭皮からもうもうと蒸気を立てながら)おれこないだ言ったよな、安直な比喩に頼るなって。おまえ何度言やわかんだ、賢和? つい先日自分史を書き始めた50代デパート店員みてえな、コタツにこぼれた醤油臭え文章書いてんじゃねえ! 世界の枯痔馬の名前に泥を塗るつもりか、コラ(”世界”という語を殊更に強調して発話しつつ、倒れた男の脇腹に靴のつま先をねじ込む)」
 「(せき込みながら、血と欠けた歯を床に吐き出して)そ、そんなつもりは、本当に、私ぐらいは枯痔馬監督のような深い洞察や文章感覚は到底持ちあわせておりませんので…よ、よろしければ、私めに道を指し示しては下さいませんでしょうか(うるんだ瞳で、床へ身体を投げ出すようにひれ伏す)」
 「(肥大した自意識を刺激される心地よさを見せまいとする、装った見下す無表情で)フン、才能に乏しい後発どもを指導するのも、まったく骨が折れることだぜ。(原稿を手の甲で叩きながら)キングコングを媒介とし、殊更にそれへの焦点を高めることで、おまえは2人の激しい情事を読み手へと婉曲的に示そうとした。そうだな?」
 「(がくがくと首を縦に振って)はい、その通りです、ご推察の通りでございます。ですが、猿めの浅知恵でした」
 「わかってりゃ、得々とおれに手柄顔で近寄るんじゃねえよ。失敗した比喩が放つ悪臭にも気がつけない、この最低の明き目盲めが。(床に唾を吐いて)…まァ、いい。こんな(口の端を歪める)状況設定自体、世界の枯痔馬酷男にはありえない話なんだが、あえて、もし、おまえが提出しようとしたこの状況をおれがリライトとすると、こうなる。よく聞いとけよ、一行10万の大シナリオ書きの言葉だ、一字たりとも聞きもらすんじゃねえぞ」
 「(大慌てで)か、紙。え、鉛筆」
 「(咳払いして、しかしくぐもった声で)『夜の底の街路樹たちは愛液を含んだ陰毛のように、夜霧のうちにしっとりと濡れていた。空に浮かぶ摩天楼の群れは、まるで林立する黒人の禍々しいチンポの如く傲然と屹立しており、発情猿の、下から見上げる群衆へと向けて挑戦的にパックリと開いた血のように真っ赤な巨大オメコを、それらのビルヂングは端から順に荒々しく突き上げていっているようにも、当時のおれの目には映ったものだった。もっとも、君のあえぎ声といえば間違いなくキングコング並だったが(苦笑)』(左頬をひきつるように上げて)どうだ?」
 「(筆記する手を止めて、おそるおそる)あの、”(苦笑)”はどうかと思うんですけれど」
 「バカヤロウッ!(男の頬にこぶしが根本までめり込む。”く”の字に折れ曲がる顔面。ガラスの粉々に砕けるような音とともに部屋の壁へと叩きつけられる男) 自身が虚構であることを自覚した明確なそこへの線引き、物語の最高潮にも読み手を没入しすぎない冷静へと立ち返らせる客観的な視点、それがおれの、世界の枯痔馬様の、枯痔馬節のうなりなんじゃねえか! テメエの悪臭放つ排便シナリオを大音響とともに棚上げして、よくもおれの極上のウィットに薄汚ねえ自己防衛と批判のゲロを浴びせることができたもんだな、アア?(男の襟をつかむんで引きずり起こす)…おまえ、どんなエロがこの世で一番エロかわかってんのか?(男の頬を平手で痛打する。その言葉を言うときだけ激しくどもりながら)イ、イ、イ、インポの男が持つエロに決まってんだろうが! (感情の昂ぶりから左頬に現れたチックを隠そうともせず)エロなんてのはしょせん、誰も見たことのない抽象、ほとんど神話とも呼べる幻想に過ぎん。女と交接すりゃ、幻想は現実と重なり、ついには入れ替わっちまう。だが、エロという名前の幻想を少しも放出せずに、最も純粋な幻想のままに放置しておけば、そうさ、ホースの穴の詰まった(どもりながら)イ、イ、イ、インポ男の中でそれはグズグズに腐り、ドロドロに醗酵し、ついには脳髄の芯の芯まで酔わせる極上のエロへと醸造されるんだよ! おたく野郎どもは現実との交接を相互関係によって生きる命としての極限まで薄めているという一点において、どれだけチンポをオッ立ようと(どもりながら)イ、イ、イ、インポとほとんど同義であるということができんだ。食べるに殺さず、交わるに犯さず、歴史上のどんな聖職者よりも清い、最低の売女の息子どもめが! 目もくらむようなやつらのエロへの妄想の中で、こんな三文新聞小説みてえなくすぐりに、どのおたくが本気でオッ立てると思ってんだよ! (襟を持ったまま激しく揺さぶりながら)毎晩の安いオナニーでエロを殺してんじゃねえ! おまえ、それを売って生きようってんだろうが! 情欲は鈴口じゃねえ、カラス口からほとばしらせんだよ、俺たちは! (ズボンの隙間から男のパンツの中へ手を突っ込む)どうだ、賢和、おまえもおれと同じ(どもりながら)イ、イ、イ、インポにしてやろうか? おまえに才能がありゃ大作家、才能が無けりゃキチガイ病棟!(つかんだ手に力を込める)」
 「いひィィィ(涙と鼻水を垂れ流しながら、おこりのように震えると失禁する)」
 「(近づけた顔からのぞきこんで)なぁに本気にしてんだよ。おまえのチンポを直々に握りつぶしてやるほど、おれがおまえの才能を信じてると本気で思ったんじゃねえだろうな? (男を床へと突き飛ばすと、取りだしたハンカチで手をぬぐう)とはいえ、このまま賢和にすべてを任せることで、我らが主人公”ソリッド・スネエク”の完成し、ある意味では肥大化を始めている英雄像を崩すわけにもいかん。…ときに賢和、今回のサブタイトルである『ピンチ・オブ・ポヴァティ』には、二重の意味が込められているんだが、わかるか?」
 「(ひどく脅えた様子で)わ、私ごときの痩せた感性で、枯痔馬大監督の深淵かつ高邁な思想がいったいわかるはずがありましょうか」
 「(自尊心をくすぐられた様子をあからさまに小鼻に表しながら)フン、追従者めが。このサブタイトル、表面の意味をそのまま汲み取ると”金が無くて大変”の意味になる。だが、ピンチ(PINCH)をアナグラムしてみろ。どうだ、チンポ(CHINPO)となるだろう? つまり、ここには本来の意味を越えた”貧相な男根”の意味がサブリミナルに与えられてるんだよ!(口元を歪めて、得意げに両手を広げる)」
 「(紙に筆記してためすがめつしながら)あの、監督。でも、”O”が足りませ…」
 「バカヤロウッ!(男の半開きの口元に、革靴の尖ったつま先を蹴り入れる。口腔から血を吹きながら後頭部方向に倒れる男)そんな枝葉末節にこだわってるヒマがあったら、テメエのシナリオの不備の方を考えやがれ! (床をのたうちまわる男を尻目に)しかし、納期も目前に迫ったいま、賢和の才能の突発的な開花に期待してすべてにリテイクを出すことはあまりに危険すぎる――(目を閉じて)考えろ、その世界を席巻した素晴らしい頭脳で考えるんだ、酷男――(カッと目を見開き)見えたッ! 賢和、リトルグレイ・インプラント編の主人公をソリッド・スネエクではない別の人物に設定しなおせ。これなら、シナリオのマイナーチェンジで事は足りるだろう。その新しい主人公の名は、名前は、(突如両手を前傾姿勢から後ろ向きに伸ばし、異様な光をはらんだ目で宙空を凝視しながら)最も敏感な類の警備兵が異変に気づく……大気中に混じるかすかな腐臭……生きながらただれてゆく肉の放つ腐臭……まるでモーセする奇跡のように、兵士の海は2つに割れる……その衆人環視の中、”潜入”を果たすその男の名は……(後ろ向きに伸ばした両手を激しく羽ばたかせる仕草で)癩ッ、伝ッ!(窓の外を稲光が走る。部屋に落ちる恐ろしい沈黙)」
 「(自失から回復して)あ、あの」
 「(手で制し)待て。連絡が入ったようだ。(懐中から携帯電話を取り出す仕草をするが、その手には何も握られていない)もしもし、私だ。何かあったのか。(相手の返答を待つような沈黙)何ッ! 北米で先行発売だと!? それは上層部が決めたことなのか…(慌てて)いや、カナダはまずい! あそこには、セリーヌ・ディオンがいるだろうが! (相手の返答を待つような沈黙)とにかく、おれが行くまでなんとかお偉方の決断を先延ばしにしておいてくれ。(沈黙。苛立ったように)わかってる、漫談でもなんでもかまわん! (親指で空を押す仕草をする。男の方へ向き直り)聞いての通り、緊急の用件が入った。おまえはシナリオの執筆を続けろ、賢和。いいか、(立てたひとさし指を左右に振って)安直な比喩はタブーだ。では、また来る(きびすを返し、歩み去ろうとする)」
 「待って下さい! (ためらうように)あの、以前から、前作の頃から聞きたかったんですが……ソリッド・スネエクという主人公の命名には、いったいどんな意味が含まれているんでしょうか。あの、よろしければ、参考にお聞かせ願えませんか」
 「(口の端を歪めて)いいだろう。スネエクは西洋文化におけるチンポの陰符。ソリッドのソリは”反りくり返ったチンポ”の”反り”、ソリッドのドは”怒張したチンポ”の”怒”、だよ。(自分より背の高い女性へと手を回し、肩越しにその胸をもみしだくパントマイムを行いつつ、立ち去る。重低音で)ゴルルコビッチ、ゴルルコビッチ」
 「(後ろ姿を見送りながら、人差し指で鼻の頭をこすって)へへッ、やっぱり枯痔馬監督は別格だ。いつ見てもすげえや!」