マリアンヌ
めずらしく、原題よりも邦題がしっくりくる映画。メロドラマチックな内容を、邦題の方がより的確に言い当てている。家族と国家を天秤に、どちらをより重いとするかで、まったく別の物語になる。オーウェル・ファンのわたしは後者が好みだが、まあ、そこはそれ。女スパイが最後の最後で書く情動失禁的な手紙が、映画全体の99%をつらぬいている緊張を極甘のウェットに塗りかえてしまったことは、とても残念に感じた。あと、あらゆる状況であまりに泣かなすぎる赤ん坊を不自然だなあ、と思った。インファントに鉄の演技指導はできないものなあ、ゼメキスもおじいちゃんになったからかなあ、と思った。
アストロボット
半年ぶりに起動したPSVRでの官能体験の後、ほとばしりをぬぐいながら久しぶりにVRストアを眺めるうち、本タイトルへたどりついた。「オイオイ、今さらアストロロボ・ササの続編かよ(笑)」などとヘラヘラ笑いながら、中年の三段腹に置いたPSコントローラーからダウンロードしたら、30分後には居住まいを正したVRゴーグル姿のゴスロリ少女がそこに座っていた。あのさ、ゲームジャンルの更新っていうのはさ、他ならない体験の更新だと思うのよね。例えばスーパーマリオブラザーズは真のエポックメイキングだったけど、続編の2も3もワールドも、体験の部分では初代をまったく更新していないわけ。なに、USAは新しかったじゃないですか、だと? バカモノ! あれは夢工場ドキドキパニックだろうが! 同じシリーズで言えばスーパーマリオ64は、時のオカリナとともに以後の3Dゲームの標準器となるような、ゲーム体験を拡張する大更新だった。以後のサンシャインもギャラクシーもギャラクシー2もオデッセイも、シリーズを追うにつれてグラフィックは向上しギミックこそ増えたにせよ、ゲーム性のコアは64からの20年間(20年間!)少しも更新されていない。すれっからしのオールドファンであるところの小生も、マリオシリーズ、サンシャイン以降はプレイこそすれ、ひとつもクリアに至っていない(64はそれこそ数えきれないほど周回したというのに!)。オデッセイに至っては、開始10分ほどですべてわかった気分になってコントローラーを置いてしまった(つくづくハイコストな娯楽だ)。新奇さを嫌悪する市井の一市民ならば、水戸黄門や寅次郎のような同工異曲の繰り返しに怠惰な安らぎを覚えるのだろうが、極めて知性の高いリタイアを目前にした一皇族(おっと、身バレはカンベンにござるよ!)にとっては制作サイドが食っていくための、摩耗したクリエイティブとしか思えないのである。そして、このアストロボットである! ゲームの見かけを追えば64以降のマリオシリーズの忠実なフォロワーだと指摘できるだろう(特にサンシャインを強く感じる)。しかし本作は、ゲームが3Dに舞台を移したその瞬間から障害であり続け、プレイフィールに影響を与え続けたカメラワーク・イコール・視点の問題をVR空間に取り込んで融合し、新たなゲーム性にまで昇華した。これは正に、スーパーマリオ64から20年ぶりに行われる、3D空間でのゲーム体験の更新なのだ。いずれスミソニアン博物館に収められることを市井の一皇族が請け合うところのアストロボット、ゲーム好きを名乗る貴様ならばハードからすべてそろえて後悔のないマストバイであることを断言しようではないか! あとさあ、キャスリン・ビグロー監督じゃないほうのコケオドカシがゲーム史にどんな文脈を残すってえの? イーストちゃんさあ、雰囲気とかファッションだけでゲーム語ってんでしょ? 後々ふりかえって確実にメルクマールとされるだろうこういう作品をこそ、キチンと適時に見出して評価するのが本当のゲーム批評だし、ゲーム文化を称揚する土台になっていくんじゃないの?
グリッドマン
グリッドマン最終回見る。おそらく、この解決編から逆算して構成されたストーリーであるがゆえに、少ない話数にも関わらず、一切の迷いを廃した力強いメッセージを発信することができたのだろう。むしろ中盤のエピソード群を冗漫に感じるほどで、二時間の劇場版にすればさらにスッキリとまとまるように思えるぐらいだ。演出面では特撮への偏愛に根ざした旧エヴァの手法をなぞりながら、旧エヴァではカントク(Cunt-Q)がインタビューなどで場外乱闘的にしか提示できなかった「現実へ帰れ」という悪態を極めてスマートに扱っており、もうシン・エヴァの制作が必要ないぐらい、テーマとしてきれいにオチをつけてしまった。何より感動的なのが、この解決を否定的なトーンでは描かない部分で、あらゆる虚構は人間の精神にとっての「フィクサービーム」だとする肯定的メッセージは、アニメというジャンルとそのファンたちを称揚してさえいる。旧エヴァの観客罵倒とは大違いの清々しさだが、これはかつて虐げられる側、圧倒的マイノリティであったおたく文化が、いまや権威の側、メインカルチャーとなりつつある状況へ多分に助けられていることは指摘しておきたい。まったく、「生きながら萌えゲーに葬られ」を書いた頃とは、隔世の感がある。
ボヘミアン・ラプソディ
フレディ・マーキュリーの神格化による、クイーンのしたたかな再ブランド化戦略。もちろん黒幕は御大ブライアン・メイであり、その事実は当初クレジットされていたサシャ・バロン・コーエンを「災難」とまで表現して降板させたことからも明らかだ。諸君もご存知の通り、ボラットでの怪演に魅了されてからこちら、小生はサシャ・バロン・コーエンの大ファンであるからして、フレディを「セックス・ドラッグ・アンド・ロックンロール」、つまり奇矯なヤク漬け同性愛者としての側面に焦点を当てたいとする彼の演技プランを見てみたい気持ちは強かった。しかしながら結果として、おそらく実像に近い「マジでセックス好きの精力旺盛なホモ」ではなく、「自傷にも似た代償行為としての愛を繰り返す、繊細な芸術家」としてフレディを再構築したことは、現在の世代を超えた大ヒットの状況を見るにつけ、やはり慧眼であったと言わざるを得ない。他の誰かがやったら大ヒンシュクだろうが、仕掛け人は御大ブライアン・メイ本人である。御大があの優しい目で「ぼくの知っているフレディは、こういう人だったよ」と言うなら、それをそのまま受け入れるしかない。個人的な洋楽の体験を言えば、クイーンはビートルズとマイケル・ジャクソンの狭間ですっぽりと抜け落ちてしまっていたバンドだった。もちろんベスト盤の曲くらいは聞いたことがあるし、ライブ・エイドの映像もかすかに記憶にある。しかし当時は、少女漫画界隈での黄色い悲鳴か、フレディの容姿をコメディ的に扱う芸能かに二極化しており、どうしてもイロモノ感がつきまとっていた。ちょうどクロマティ高校の同名キャラを思い浮かべていただくと、近い印象を抱いていただけるだろう。今回、「きれいなフレディ」を見たことでその呪いが解かれ、純粋に楽曲を再評価する気持ちになれたことは、最大の収穫であった。曲や映像もまた売れているようだし、これすなわち、御大ブライアン・メイの粘り勝ちと言えよう。ロジャー・テイラー? グリースを塗った車のマフラーとでもファックしてろ!
スリービルボード(ズ)
なんだろう、高評価をつける方々は全員、映画の中身というよりは自分の解釈に感動しているように見えてしょうがない。私の印象を言えば、「理に落ちたデビッド・リンチ」かな。現実世界の問題を、登場人物の造形とストーリー展開に仮託して比喩的に読ませるという点で同じ作家性を感じるんだけど、この作品は妙に理屈っぽい。脚本の都合でキャラクターが動かされていると強く感じるし、監督が戯曲作家であることも原因だろう、あらゆる出来事があまりに連鎖的に、悪く言えばご都合主義的に、順序よく発生していく。「混沌・暴力」から「秩序・対話」への移行を描きたいんだろうけど、作り手がそういうメッセージを送りたい気分が前提にあり、不自然に物語が組み立てられる。この映画の他者評を知りたいと思えども、「アダルトもチルドレンも、ティッツも」で有名な例の人物が取り上げたスピリチュアル映画評に妨げられ、一般大衆の感じ方へアクセスすることができない。どれほど有名だろうと、フォロワー数が多かろうと、にんげんだもの、間違えることはある。エス・エヌ・エスの弊害は、「有名人の誤謬による、真理への不到達」なのだ。
ローマ
一言で申せば、「この世界の片隅に・イン・メキシコ」。監督が過ごした幼少期を忠実に再現する前半の1時間はもうタルくてタルくて(タルコフスキーぽくてタルコフスキーぽくて、の略)、特に親戚の農場に出かけて山火事になるあたりはひどい睡魔におそわれた。しかし後半の一時間、市井の一市民が生活よりも大きな流れに翻弄される様子には、大いに心を動かされた。ネタバレになるが、「子を失ったのに、悲しむのではなくホッしている自分」に気がついて涙を流す場面には、久しぶりに強く文学を感じた。なに、ありがちな展開じゃないですか、だと? このブクブク肥満の、ヘラヘラ笑いの享楽乞食めが! 貴様らのような情報と地獄に飽食した、いわば性病持ちの年増処女どころではない、知恵もなく教育も与えられない若い有色の端女が、本来ならばたどりつかないはずの感情を、否応に体験させられたことが文学なのだろうが!
アリータ
CGと世界観の表現はA級、シナリオと構成はB級。描きたい場面優先でつないでるもんだから、登場人物の行動原理がグチャグチャで、原作を読んでいないといったいだれがどういうキャラクターなのかさっぱりわからない。おまけに続編ありきのブツ切りエンディングで、一本の映画としての満足度も高くない。銃夢って、B級SFっぽい始まりから、少年漫画の王道を経て、「臓器のみならず脳さえ置換可能なら、意識と魂はどこに宿るのか?」という深い哲学へと至る、たった9巻に凝縮されたその「駆け上り感」が本質だと考えているので、個人的に本作はいいところなしであった。あとネットの顔文字が表すように、東洋は顔の上半分、西洋は顔の下半分が表情を読み解く上での主要素である。目を誇張したCGは東洋へ寄せていると言えるが、原作ファンとしてはアンジェリーナ・ジョリーばりのタラコ唇をCGにて移植して欲しかったところである。
万引き家族
少女保護特区の最終話にも書いたが、個としてのヒトは神であり、神をヒトに抑制するのが家族や共同体である。そして異なる家族や共同体から離れたヒトたちを抑制するのが法である。家族や共同体の内側は本質的に法の埒外であり、さらに蛇足ながら現代の問題の多くは法が直接に神を裁くことから生まれているように思う。さて、本作のテーマは「誰も知らない」のそれを延伸ないし踏襲したものであるように感じる。前作のラストが血によらない新たな家族の誕生を予感させたのに対して、本作のラストは血のつながらない家族の解体であり、テーマの後退を感じた向きもあろう。話はそれるが、今回の子役たちが「誰も知らない」の子役たちとクリソツであり、ペド方面での監督のブレなさを実感した。そうそう、テーマの話だった。本作では老婆の死と逮捕後の展開において、「当事者に対する部外者のクソリプ」「お父さん、お母さんとは最後まで呼ばせない」「私たちじゃダメなの(親にはなれない)」「おじさんにもどるよ(父親をやめる)」など、物語的なカタルシスを徹底的に排除していく。しかしこれは、クソリプの部外者から犯罪行為の肯定と受け取られる要素を慎重に、注意深く排除したゆえである。そして、最後のカットで犯罪者に教えられた数え歌を歌いながらビー玉を拾い上げる少女の視線の先に、誘拐犯であり窃盗犯であり殺人犯である者たちが彼女を迎えに来る現実を、視聴する誰もが幸福な結末として幻視させられてしまうという点に、監督の意図が粛々と完璧に積み上げられていく怖さがある。観客たちの、弱き者たちの犯罪を肯定するその視点をもって初めて、この映画は完成するのだ。深い感情移入の後に、何も知らない連中の安全圏からするクソリプを浴びることで、見るもの全員を犯罪の当事者に共感させるという没入の深度は、監督の過去作のどれをも超える高みに達している。ただひとつ瑕疵を指摘するとすれば、ジェイ・ケー・リフレの下りであろう。松岡某演じる売春婦の膝枕を涙で濡らす吃音のキモオタとの交流は、かつてネットに存在した「善良な一市民」と名乗るテキストサイト運営者(よもや我々を捨て、実名でテレビ出演などしておるまいな?)が好んで使ったところの「レイプファンタジー」そのままと言える。逮捕後の展開において松岡某だけ扱いが雑なことも相まって、監督の趣味でこのシーンを撮ってる感が強く、本作からはひどく浮いた感じを受けてしまう。オーッ! ミーもマイセルフのブサメンをマイフィストでワンパンしてからオーバー・トゥエニィのジェイ・ケーもどきとタダマン、エー・ケー・エー、フリー・エフ・ユー・シー・ケーしたいヨー!
ペルガナ市国は半島の先端、ペルガナ史跡群と呼ばれる古代遺跡を覆うように成立した国家である。「鋤を入れれば遺跡に当たる」と言われ、古代遺跡をそのまま住居とする一帯も見られる。観光と学術研究がペルガナ市国の主産業であり、ふんだんに与えられた過去の遺産が国民の気質を穏やかにしている。
半島の先端から海岸を沿って、二本の街道が伸びている。それらは市国の市街地を貫き、行政府であるブラウン・ハット頂点とした山型に折り返しており、本来はひとつづきのものだ。だが市国の住民は特に、東の海岸沿いを走る街道をエイメス、西をイムラーナと呼称している。刃一枚さえ通さないほど精緻に組まれた石畳の街道だが、敷設の労を担ったのは市国民ではなく、やはり古代人である。
そして、街道をなぞるように進む馬車が一台。
まわりくる轍に小動物は逃げ隠れ、昆虫たちはひき潰される。だとしたら、ぼくは虫けらとあまり違わない。そして、虫けらと大して変わらないのに、いまやおまえはずいぶんと世界を救う気じゃないか。
窓の外へ視線をやると、昼の光の下でなお黒く見えるほどに緑の深い広葉樹が枝を密集させているのが見える。ペルガナ市国が永世中立を保つのに大きな一役を買う、通称「黒い森」だ。
鳥の視点からペルガナ市国を北上してゆけば、ひとつであったふたつの街道がみるみるお互いに離れていくのがわかるだろう。まるで、半島の中央にくろぐろと広がる深い森をきらうかのようだ。
黒い森が街道を覆いつくしてしまわない理由はふたつある。ひとつは、森の背をわずかまたぎこす高さで立てられた監視塔、通称「やぐら」だ。市国警備隊が巡回と斥候を行う戦術的拠点(便宜上は)であるが、実際のところ数百年もの平穏が続く中で、隊員たちの主な仕事のひとつとなった草むしりが存外、森の侵食を防ぐことに役だっているらしい。
なぜそれがわかったかと言えば、史学科と生物学科のハイキングを兼ねた共同研究――あるいは共同研究を兼ねたハイキングというべきか――の成果である。学科長会議でこの発表が行われたとき、数秘学科の某メンターは烈火の如く怒った。
「学園の学際的発展を切に願い続ける一方で、共同研究の名目を借りて論文にも満たぬ感想文を学科長会議へ提出する蒙昧ぶりには極めて深刻な遺憾を呈さざるを得ない。だが、学科の思想的独立へ踏み込んでまで、この感想文の価値を論議するつもりは毛頭無い。問題は、この日の昼食代が各学科づきの予算ではなく、国庫支出に該当する共用費へ計上されていることだ。再度確認するが、この感想文の学術的価値について私は何か批判する立場にない。だが、この紙きれが背任収賄を隠蔽するためだけにここへ提出されたと仮定するならば、話は全く変わってくる」
ぼくは思わず噴きだしそうになった。この男の舌鋒の鋭さは、事の大小なんて全く関係がないのだ。できるだけ姿勢を正したまま、膝に爪を立てて神妙な表情を保とうと努力する。
というのも、ペルガナ市国全体を巻きこんだ、とある大きな出来事からこちらというもの、会議中にみじろぎひとつでもしようものなら、皆の顔がいっせいにぼくの方を向くようになってしまったからである。
先日も旧棟の補修工事にかかる補正予算の審議中についあくびをしてしまい、全くつつましやかに妥当なその原案が否決されるという椿事があった。ぼくはあわてて動議を出して再投票からの可決に落ち着いたが、そのときの某メンターの形相はすさまじいものだった。ぼくに訪れた感慨は、こうだ。
ああ、こうやって独裁制は始まってゆくのだなあ。
「ともあれ、学園の版図は武ではなく知によって広がるべきだと考える。我々は、他の土地へ拡充するのではなく己の精神をまず拡充するのだ」
この件以来、危機感を強めた某メンターは、発言の最後へ常にこの言葉を付け加えるようになった。ぼくと学園長へ順番に視線を送りながら、である。やれやれ。あのできごとはぼくにとってすでに遠い昔のように霞んでいるのに、周囲の見方はどうやらそうではないらしい。
ふと、鼻腔を潮風の匂いがくすぐる。黒い森が街道を侵食しないもうひとつの理由だ。海と森、あと少しでもいずれかに近ければ、この街道は数百年という歳月を永らえなかっただろう。偶然ととらえるか、人の叡智ととらえるか。ぼくは両方だと思う。いつも人に優しいわけではないこの世界で、真空のように人が生きる余地を切り出すのに、どちらが欠けてもいけない。
轍が小石を噛んだのか、馬車は大きく弾む。ぼくの肩に頭を預けたまま眠っていたスウを、そのまま胸元に抱きとめる格好になった。腰に回した手に伝わるほっそりとした感触とは裏腹の量感にうろたえる。
純粋な知的好奇心に促され、進行方向とは逆の、幌の外へ視線をやるふりで、量感の正体を実地検分しようとしたそのとき――
「よく眠ってますね。よほど安心しているんでしょう」
落ち着いた声音に、自分の置かれた状況を思い出した。ぼくの向かいには、豊かな白い髭をたくわえた老人が腰かけている。
『学園長は国王』の言葉が体言する決裁権を一手に握る、事実上のペルガナ市国最高権力者、正にその人と旅程を共にしているのであった。
ぼくはひそかに唾を飲んで、若干の声音を作る。
「しかし、これでは護衛になりませんよ」
「君さえ起きていれば、全く問題ないでしょう」
穏やかな微笑みが示すのは、揶揄か、皮肉か。どうやらどちらでもないらしいのが、ぼくにとってすごく重いところだ。
「それに、到着前に二人きりで話をしておきたかった。評議員会の耳に入ると少々まずい部分もあるのでね」
この非才の持ち物で最も有用なものが、空気を絶妙に読む能力である。学園長は、隣に眠る少女のことを言っているのだろう。スウは、評議員の娘である。
ぼくは、内面のさざ波を隠そうと表情を作る。けれど、それはわずかにこわばったに違いない。
「いや、君のプロテジェを貶めようというわけではなかった。もしそのように聞こえたのなら、すまない」
老練な最高権力者は、隠そうとした感情にさえ先回りをした。ぼくは肩から力を抜く。この人物に、かけひきや隠しごとは無しだ。
「ご心配になっているのは、評議員会で私が行う報告についてでしょうか」
「それもありますね」
学園長は白い髭をゆっくりとしごきながら、完璧に抑制された微笑でうなずく。
「あの事件の真相に最も近いメンターとして、召喚されたと聞きました。ですから、私情や憶測をはさまず、事実として確定している部分だけを話すつもりです」
「君が提出したレジュメは、読ませてもらいました。報告があの通り行われるならば、何ら問題はありません」
ただの確認と思わせるさりげなさの裏には、静かな圧力がある。
「ただ――」
言いながら、白髪の下にある眉間が、ふっと曇った。
「こちらが節度を保っても、相手の出方がそうならない場合は往々にしてある。特に、権力の位置関係がはっきりしているときにはね。イレギュラーな展開も想定しておいた方がいいでしょう」
数百年の昔、学園設立の基盤を作った7つの素封家からの代表が、評議員会を構成している。大元の2つはすでに血筋が絶えているが、常に7という数字を保つように、随時補充される。
聞いたところによると、どうも名家のプールのようなものがあるらしい。立身し財を成した人物が最後にたどりつくのは、芸術であったり教育であったり、より抽象度の高い「上品な」社会貢献である。学園の運営に、お願いしてでも金を積みたい層は少なくないのだ。
ペルガナ学園は研究機関として、思想的な独立を得ている。しかし、それが経済的な独立につながるかどうかは、また別の話である。要するに、評議員会とは学園にとっての巨大なパトロンなのだ。学園長が示唆しているのは、その隠然たるパワーゲームのことだろうか。
「今回の一連のできごとは、君にとって今後の立場を決める非常に大きなものだったろうと思います。しかし、それはまた、学園を預かる私にとっても非常に大きなことでした」
買いかぶりだと思う。同時に、買いかぶりという表現で己の能力に見合った責任から逃げているのだ、という気分にもさせられる。学園長の言葉は水のようにさりげない。そのくせ、実はわずかの粘度を伴っていて、知らず心へまとわりつくのだ。ぼくの軽口とは言葉の質が違う。意思を通わせること――つまりは人間というものを信じていることから来るのだろう。
「私は、半世紀近くを学園に捧げながら、その潜在力を不当に低く見積もっていたことを思いしらされました。これは、私自身の来歴に由るところも小さくないのでしょうね。まるで年端のいかない子どもを庇護するように、学園を庇護してきた。もしかするとそれは、間違っていたのかもしれません」
ふと学園長の表情から、微笑が消える。そしてぼくは、生じた変化へ吸い込まれるようにその人を見た。
「君は、学園の閉塞した状況に選択肢を与えてくれたのです」
そこへ現れたのは、湧きでる清水の如き静かで深い活力。
長く学園を運営してきた、絶え間ない克己と精神力の源。
ぼくはただ、視線を外さないようにするだけで精一杯だった。そんな様子に気づいたのだろう、学園長が目元をゆるめる。どっと汗が吹きだし、ぼくは解放される。
「こと理不尽な何かに相対するとき、実際に行使するかは別として、選択肢を持っているかどうかは非常に重要なことです。切り札、と言い換えてもいいでしょう。もちろん、いかなる理不尽にも理性で処するべきですが、理性の裏へ理不尽をはらませることができれば、望む局面へ相手を誘導することも容易でしょう」
わからない。おそらく、わざと焦点をぼかすことで解釈を引き出し、ぼくの思考を探ろうとしているのか。逡巡さえ、情報になる。ならば、考えても仕方があるまい。
ぼくはずばり切り出した。
「その選択肢とは、メンター・スリッドが危惧するような内容をおっしゃっているのでしょうか」
学園長は、プロテジェの優れた答えを聞くときのメンターのように、優しく目を細める。しかし同時に、この笑顔は隠蔽や拒絶の意味を含むことがあるのだ。
「学園が装う永遠に続く平穏は、見かけほどは磐石ではない。そして、つきつめられた自由ほど人を堕落させるものもない」
投げかけた質問への返答は、巧妙に回避されたようである。
「ですが、こうも考えるのです。自由を維持されてこそ、人は最も尊い成果を生むことができるのだと。陥りがちな二元論の狭間で、どこまでいずれにも染まらずにいられるかを追求したいと思っているんですよ、私はね」
もしかして、いまのは某メンターについての人物評も含んでいるのかな。
「元より、我々は皆、学究の徒として学園に奉職している。メンターとしての立場さえ、『教えるは学ぶの半ばなり』を実践するためです。誰も好んで、政治の方をやりたいわけではない。選ぶのではなく、たどりつくのです。研究者としての私は、まあ二流だった。少なくとも君のような才覚を発揮できたわけではなかった」
習い性で口を開きかけ、つぐむ。これは告白だと気づいたから。ならば、ぼくの謙遜は余計だ。
「けれど、学園を愛していました。いったいどこに、年齢も出自も異なる人々が、共に生きることのできる場所があるでしょうか。殴り合いの議論の後に笑って杯を交わす、私はこの闊達な気風がいつまでも廃れぬことを望んだのです。ただペルガナ学園である、というだけの理由でつなぎあわされた多種雑多な人々が、住まう場所を失い、世界の各地へと離散してゆく。その想像に、私は耐えられなかった。そうして、四半世紀――ただひとつの想いから始まった見よう見まねの仕事も、ずいぶんと板についてきた。まったく、人生とはわからぬものですよ」
そして、話してしまったことを恥じるような、自嘲めいた微笑み。その気持ちをわかる、とは言わない。誰かの生き方をわかると思うこと、それは傲慢だ。
「今回のできごとで――」
だからぼくは、共感の言葉の代わりに、ただ自分の話をする。
「学園の窮地へ接して、ぼくが感じたのは人の営みへの責任、市国の歴史への責任でした。自分よりも長く続く何かを、自分のてのひらの内で終わらせてはいけない、そう思ったのです」
今度こそ――
学園長は掛け値なしにプロテジェを褒めるときの、満足げな微笑みを浮かべた。
「君は、私よりもずっと、組織の長としてふさわしい視座を持っているようですね」
また、馬車が大きく跳ねた。
「うぅん」
ちょっとドキリとするような艶めいたうめきと共に、スウが目を覚ます。これで学園長との会話はおしまいか。
「おはよう。よく眠れたかい」
内心、少しがっかりするのを悟られぬよう、できるだけ優しく声をかける。起きぬけのスウは、なんだかまだ目の焦点が合わないみたいにぼんやりしていた。学園長は孫でも見るような好々爺の笑顔で、実際に孫ほども年の離れたプロテジェとメンターのやりとりを眺めている。
「まあ、一番の問題が何かと言えば――」
学園長は外へと視線をやりながら、釣りこまれそうなほど細く、深いため息をついた。
「この世には悪が存在しない、ということでしょうね」
視線を追って、御者の肩越しに外を見る。そこへ、盆地の傾斜へ沿うように、小さな町が石壁の内側へ包まれていた。
「まあ、大した悪人だよ、あれは」
学園長とぼくとスウの道行きから、話は少しだけさかのぼる。それは、体技科長の送別会とボスの復帰祝いをかねた宴でのできごとだった。
バルコニーに身をもたせて、夜風に柔らかな金髪をなぶらせながら、少年の見た目をしたその人物は、盃を音高くテーブルに置くと、忌々しげにそう吐き捨てた。(続)