ペルソナ4ザ・ゴールデン
ペルソナシリーズは罪までをプレイして、「これは私のためには作られていない」と感じ、ずっと遠ざかっていた。アイギスという名詞を提示されて「オーヤマ?」と返すくらいのペルソナ隠遁ぶりである。しかしながら、大きなプロジェクトを終えたばかりのスイーツな俺様は、がんばった自分へのご褒美として本作を本体ごと購入し、このたびプレイしてみた。結果、非常な感銘を受けた。西洋のゲームがひたすらに3Dを指向し、プレイアブル・ムービーとなっていったのに対し、本邦ネイティブのゲームはひたすらに2Dを指向し、プレイアブル・アニメーションとなっていったことは改めて指摘するまでもない。その意味で、ペルソナ4と真に並列して語られるべき相手は、実のところスカイリムである。洋の東西の文化比較として、これほどの好対照はなかなか見られないように思う。ギリシャ・ローマへ端を発した彫刻文化は本邦には根ざさず、鳥獣戯画や浮世絵が特異なオリジナルとして西洋を驚かせたまさにその瞬間から、両者は決定的に袂を分かち、スカイリムとペルソナ4へ向けて歩み出したのだ。大陸の広大さを享受した誰かは、神の御業を寸分も歪めずそのまま落とし込むことのできる3Dへと向かい、島国の狭さに生きて神を知らない誰かは、自らの理想と欲望をその歪みのままに落とし込める2Dへと向かった。ゲームとしての面白さはさて置くとして、スカイリムとペルソナ4は、それぞれの進化の終着点に鎮座する偉大なイコンであることは疑いがない。両者の市場規模はいまや著しく乖離し、傍目には勝負にさえなっていないのかもしれないが、なァに、我々は再び島国の内側に引きこもり、西洋の文化なんて知らなかったときのように、我々だけがその価値を知る宝としてこれを愛でればよい。ただひとつ、どうしても夢想することをやめられない。PC-FXが次世代機の覇権争いに勝利し、その後継機の世界同時発売のキラータイトルがペルソナ4であったような未来を。それはもしかすると、あり得たかもしれない並行宇宙のひとつだ。あと、日本のアニメ文化こそがこの作品を作ったみたいな言い方、違うよ! 「雫」プラス「ときメモ」、イコール「ペルソナ4」だよ! ノベルゲーとギャルゲーのケッコンカッコカリだよ!
めんまへの手紙
貴様らがあんまり泣ける泣けるうるさいから、さめだ小判氏のアナル・オブ・ザ・デッドの知識しかないテレビ版未見の俺様は、この度ようやく劇場版を試聴する機会を持った。前半のビルドアップは、キャラ名しか知らない身にとってかなり興味をそそられる展開だった。しかしながら、ストーリーの後半に進むにしたがって、幾度か小休止を挟まないと試聴を進めることは困難となった。西野カナの主題歌の時点でイヤな予感はあったが、ただでさえギトギトの豚骨ラーメンへ、食べる端から店主が柄杓で背脂を足してくるみたいな怒涛の泣かせ演出は、すれっからしの物語乞食の忍耐の閾値をさえ軽々と越えてきたからだ。この異様にプッシングな泣かせのやり口は、ゼロ年代前半に大流行したセカチュー系難病ものを彷彿とさせ(そう言えばセカチュー映画版も回想形式だった)、制作側がなぜアニメと親和性の低そうな西野カナをわざわざ主題歌にひっぱってきたのかだけは、とても腑に落ちた。ネットで評判のいい実写映画はその口コミと主観にズレが生じることはあまりないが、ことアニメとなるとネット評はまったく当てにならないとの自戒を新たにさせられた次第である。もちろん、セカチュー系の感動を求める層は常に一定数いるだろうし、今回の空振りをアニメであることを理由にするのはアンフェアかもしれない。今回の俺様はセックスに例えれば、前戯のあまりの執拗さに性器はひりつき、しまいに熱をもって痛みだし、挿入したかどうかのところで中折れとなって、射精に至ることはできなかった。日常的に物語に接さない一般層はここまでねちっこくやらないと泣けないのだろうが、徹頭徹尾くどい感動の演出に負けてしまって、乗せられようと努力はしたが、まったく入れなかったのだ。死んだ者の無念へ想いをはせることと、その理不尽な死へ生きる者がどう折り合いをつけるかというテーマは極めて今日的で素晴らしいと思うだけに、非常に残念である。個人的なことを言えば、子どもというのは直面した「死」を徹底的に封印するものである。それは忘却どころではなく、ちょうど心の一隅に虚の黒いスポットが生じるようなもので、そこへのあらゆる投げかけは一切が無効化されてしまう。不条理な死を経験した子どもが、こんなふうに多量の涙を流して大声で泣いて、きれいな弔いですべてを清算できれば、どれほど救われるだろうか。
ダークソウル2
前作はプレイを進めるうち、全エリアが立体的に鳥瞰されたマップが頭の中に構築され、その精緻に組まれた有機的つながりに強い感動を覚えたものだ。ひるがえって本作は、すべての篝火からお手軽に相互移動できることもあって、エリアとエリアが平面的に分断されているように感じられ、スペランカーかロードランナーのように短い面をトライ・アンド・エラーで順にクリアしている気分になる。また、これまでのようにステージ全体をギミックとして使って戦うボスが一体もおらず、その攻略法も時計回りでリーチの長い攻撃を繰り返すことに終始するせいか全体的に印象に残らない。武器・防具は数あれど、強化方式がひどく簡素化され、加えてテキストフレイバーも非常に淡白になり、お気に入りを選ぶというよりはデータ上の強弱だけで使用の判断をしている感じが強かった。細かいところで言えば効果音の付け方が不自然で、サラウンドで聞くと草の鳴り方など特に足下の環境音が気になってしょうがない。モンスターハンターが初代から2に移行したときにも感じたことだが、独自の世界観とその雰囲気を包括的な体験として楽しむ方向性から、対人を強く意識したアクションゲームへと大幅に舵が切られたように思う。昔から作家性を感じるゲームがすごく好きで、このシリーズが正にそれだったのに、ディレクターの変更に伴って作家性の部分がすっぱりと切り捨てられ、「作り込まれた良質なアクションゲーム」の位置へと、個人的には格下げされてしまった。そして、何より強く感じるのは、ああ、自分はデモンズソウルと初代ダークソウルがこんなにも好きだったんだという喪失の悲しみである。とは言え、四月のクソ忙しい中、睡眠時間を削って2キャラ作って合わせて3周して、その間にコントローラーを3つ破壊したので、ゲームとしてはすごく堪能したと言える。ダークソウルではなくキングスフィールドの新作だと思えば、フロムソフトウェア好きには大納得の仕上がりと言えよう。しかしながら、本作にとって最も楽しい季節は、全くの未知をオンラインの薄いつながりで攻略していく最初の一週間であり、早くもその黄金期は過ぎ去ってしまった。スカイリムのMODみたいに、ファンが新しいエリアを自作し、追加し続けるような動きがPC版であるといいなと思った。
ランス9
80年代後半から90年代前半にかけてが、和製ファンタジーの全盛期だったように思う。それらの物語は大きく二つに分けることができる。主人公を中心に異世界の歴史を編年記として描くものと、主人公が世界の成り立ち自体に深い関わりを持ち、その謎の解決とストーリーの展開がリンクするものだ。残念なことに、スレイヤーズ!はシリーズの半ばから世界の謎の深奥へは迫らないことを決めてしまった。現実の世界史の固有名詞を置き換えただけのような物語には、元より興味は無い。さて、ランスシリーズである。ヴァリスが会社ごと消滅し、ドラゴンナイトはエロゲーからの脱却に失敗して頓挫し、イースはいつしか物語ることを止めてアクションゲームとなり、英雄伝説はいつまでも同じ場所で牛歩とも言えない足踏みを続けている。そして、ただただ会社や作家が食べていくためだけの理由で、終わることを許されなくなった多くの物語たち。そんな中で、様々にプラットフォームを変えながら、ゲームジャンルにさえ囚われず、ただ一つの物語を物語るという一点のみをよすがに、ここまでたどりついた製作者の執念に敬意を覚える。このシリーズは主人公の造形を含めて、イースシリーズに対する極めて自覚的かつ露悪的なパロディとしてスタートしたと理解している。本家は複数の同一ナンバーやオンライン化など迷走を重ね、初期設定にあった大帝国とアドルの直接的な対立へ物語が至ることなど、もはや望むべくもない状態である。一方で、ランスシリーズはエロゲーという鬼子的出自を逆手にとった破天荒のストーリーテリングで、四半世紀をかけ、ついに一介の冒険者を大軍事帝国の革命へとたどりつかせた。私はこの事実に、胸を突くような哀切にも似た、深い感動を覚える。シミュレーションとしての出来を云々する向きもあるようだが、私にとってこのシリーズは、もはやゲームとして批評する段階を超えてしまっている。この作品は、年齢制限を伴った数あるゲーム群の一つどころではない、かつて市場のニーズを失い、世の片隅にガラクタとして放擲された、一つの物語類型の眩いばかりのよみがえりであり、最後の輝きなのだ。すべてのお膳立ては整った。次作ではいよいよ、世界がかくあるという謎にひとりの人間がどう立ち向かうかが描かれるだろう。多くの和製ファンタジーがそれぞれの理由で頓挫させてきた究極の命題へ、正面から向き合おうとしているのだ。それがどんな内容であろうとも、私はある時代の生き残りとして、この物語の最期を見届けたい。
ゼロ・グラビティ
ようやくゼロ・グラビティ見たんだけど、ネットでの評判とか7部門受賞とか、さんざんハードル上がってたせいも大きいと思うんだけど、びっくりするほどおもしろくなかった。オープンウォーターとか、パラノーマル・アクティビティとか、ディセントとか、リミットとか、若手監督の低予算シュチュエーション映画と同じ路線の脚本なのに、なまじ映像に予算かかってるのがわかるもんだから、メリットだけ手放してどうすんだよって思った。もっと本当に無重力の暗闇を遊泳するだけで、地上との会話劇とかで90分持たすと思ってたら、宇宙ステーションとか家族のトラウマとか入ってきて、一気に冷めてしまった。昔のSFが好きなので、宇宙までくんだりきてヒューマンドラマとかトラウマ解消とかやる作品はぜんぶ消滅しろって思う。木星だかまで行っときながら「愛しあうことだけはやめられない」とかゆう寝ぼけた台詞の見開きにカッとなって、他に言うことねえのか、殺すぞって、単行本を老婆の処女膜のようにビリビリに引き裂いたあの怒りは、昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。プラネテスや宇宙兄弟より、私がだんぜん度胸星の方を好きなのはそういう理由なのだった。へうげものが国営放送の大河ドラマに採用されれば、いい加減、先生も満足して宇宙に戻ってくると思うので、そろそろ国営放送は本気を出しなさい。
エンダーのゲーム
発表から40年近く経つことが信じられないほど未だに新しい、もはやSFの古典と化した大傑作だけに、どう作ったところで原作原理主義者の脳内に蓄積された身勝手なイメージを超えられるわけはなく、不評にさらされることがあらかじめ決まっていた映像化である。しかしながら、正にその原作原理主義者の俺様は、この映画化は大成功であり、まぎれもない傑作だと断言する。視聴後に原作を読み返してみたのだが、相変わらずバーチャルゲーム内の情景描写は何度読んでもピンとこないし、バトルルームでの動きの説明も何度読んでも何がどうなってるのかよくわからない。当時は自分の理解力が低いせいかと読み飛ばしていたのだが、つまりはだれも見たことのない、だれも知らないものを描写するという点で新しすぎたのだと思う。あれから長い年月が経過し、例えば単に「デスク」とだけ表現されていたものが実はiPadのようなデバイスなのだとわかったり、現実の側がようやくこの弩級の想像力に追いついた感がある。40年を待たなければ、映像化は不可能だったのだ。本邦において海外SFの傑作は、その傑作度が高ければ高いほど、一般の認知がますます低くなる傾向にある。なぜなら、自分のネタ元として担保しておきたいあまり、作り手側があえてその喧伝を避けるからである。例えばエヴァンゲリオンは明らかにエンダーのゲームの影響下に作られたし、マクロスフロンティアは明らかにギャラクティカの影響下に作られている。そして、それらをはじめとした日本のアニメーションから本作でのデザイン全般が逆輸入的な影響を受けているのは、相互リスペクトが意図せぬ円環を成しているようで面白い。それにしても、本邦のSF愛好家ほど度量の狭い、偏屈きわまる存在はないだろう。いいものは自分たちのために秘し隠し、身内から出てきた新しいものは徹底的な粗探しをし、攻撃する。世間から一等低いものとして長く差別されてきたがゆえに、「理解されないこと」へ殊更に軸足を置いて、その純度だけを高め続けてきた。結果として、膨大な前提を踏まえなければ楽しむことのできない、センス・オブ・ワンダーとは真逆の袋小路へとたどり着いてしまっている。もっと知的ガードを下げて、衒学趣味は放り投げて、少々脇が甘かろうと誰にでも「理解される」物語を語る方向へと進むべきだったのに。海外におけるSFドラマの隆盛の理由は、被差別民がいっそうに己をやつすことで聖なる不可触へは“進まなかった”という、本邦とは真逆の一点に尽きる。ジャニタレの学生恋愛劇や結婚以前の腐女子へ媚びるドラマがテレビを席捲している事実へ、貴様らSF愛好家は客観的な批評を加える立場にはないことを理解せよ。センス・オブ・ワンダーを啓蒙する柔らかなSFをすべてフニャ子フニャ夫エフ先生に丸投げして、矮小なプライドの砦へ遁走し引きこもったこの数十年を貴様らは恥じるべきである。閑話休題。本作は原作を踏まえながらも、原作を知らない層に向けて制作されているように思う。そしてディズニーがこれを作ったということに、欧米でのSFなるものの位置づけと、その文化を次世代へ継承していくことへの意思を強く感じさせる。個人的には、エンダー役の少年に感銘を受けた。彼は、私の脳内に蓄積されていた身勝手なエンダーのイメージそのものであった。意図せず知的生命体のジェノサイドへ加担してしまった主人公の贖罪の物語、それは次作「死者の代弁者」で完結を見る。この傑作が間を置かず、続けて映画化されることを切に願う。え、死者の代弁者って絶版なの? 世界の皆様、身悶えするほどにお恥ずかしい……ご高覧あれ、これが本邦のサイエンス・フィクションの惨憺たる現状でございます……!!
キック・アス ジャスティス・フォーエバー
この腐れロリコンどもめ! 貴様らが救いようもないクズである理由は3つある! ひとつ目は、その性癖が人類の未来を汚染することだ! 正しい教育や適切なカウンセリングが無ければ、心の傷を含めた母親の持ち物はそっくりそのまま次世代へと引き継がれる! 可能性の母体を汚すことは、ヒトラーの例を上げるまでもなく、人類共同体への脅威の種を蒔くことと同義である! ふたつ目は、性と父性の混乱を自覚さえしていないことだ! 社会的に然るべき年齢に達しながら家庭を持たないがゆえに、己が性を子孫を繋ぐという意味での正しい形に昇華できない! みっつ目は、ある個人を愛するとき、彼らに訪れるほんの短い季節をしか愛せないということだ! ただその季節が過ぎたというだけで、どれほど高い内面の精神性をも一言下に否定し、即座に無価値なゴミにするように路傍へと廃棄する! もう一度言う、貴様らロリコンどもは、あらゆる卑劣な犯罪者のうちの最悪の犯罪者、人類カースト最底辺の更に下に置くことさえはばかられる、真性のクズだ! ああ、さようなら、クロエ・モレッツちゃん! 君の数年間は、ぼくたちにとって本当にキラキラと、この上ない宝物のように輝いていたよ!
ザ・マペッツ
本邦の文化は長い歴史を持ちながら、本質的には古いものを嫌っているのではないかと感じることがある。すなわち、石と葡萄酒の文化を異質とした、存続と成熟を拒否する文化だ。古いものは冷えた尊重を与えられこそするが、熱狂的に迎えられるのはいつだって新しく登場した何かである。未だ死を未踏とする処女性と、あらかじめ失われることを内包しているという事実へ向けた先駆的な哀悼こそが、その理由だろうと思う。ひるがえって、古いものが持つ死の予期を裏切り続けたがゆえの存続を、おそらくある断絶を境として、醜く潔さに欠けるものとして捉えるようになったのではないか。我々の多くにとって、死と消滅こそが真であり善であり、そして美なのだ。この意識の根幹に、先の大戦を越えて“死ななかった”者たちの末裔である己の実存を深く恥じ、潜在する罪悪感から一刻も早い破滅を切に求め続ける、ほとんど民族レベルの集合無意識を見ずにはおられない。以前、「けいおん!」にからめて似た話をしたら、どぎついティータイマーを召喚してしまったことを思い出したので、このへんで閑話休題。この映画を見て考えるのは、ジム・ヘンソン亡き後も多くから愛され、幾度も忘却からよみがえるマペットたちと比べて、ただ新しいものへ更新することを目的とする文化の中に生まれた本邦の古いキャラクターたちは、いったい誰によって救済されるのだろうかということだ。ガチャピンは? ムックは? ゴン太くんは? ピッコロは? ポロリは? じゃじゃ丸は? きかんしゃやえもんは? マルチは? なに、マルチ商法はキャラクターじゃないですよ、だと? 黙れ、こわっぱが! 1クール三ヶ月で少女たちを記憶から埋葬する貴様らの欺瞞に満ちた倫理観と、二次元へ人生ごと捧げた俺様の鋼鉄の貞操とでは、比較にすらならんわ!
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全体的にアメリカ国民としての常識を前提に進んでいくため、あらかじめ想定外の視聴者として拒絶されている感が強い。ジャッキー・ロビンソンの生涯と南北戦争からこちらの黒人差別についてある程度まで知悉していなければ、どこに共感すべきかわからないまま、盛り上がりに欠ける二時間がいつのまにか経過することになるだろう。伝記映画のはずがメジャー昇格一年目までしか語られず、作中に行われる差別描写も相手監督からの執拗な言葉責めぐらいがせいぜいで、極東在住の名誉白人にはイマイチ当時の黒人の置かれた苛烈な状況が伝わらず、アホなジー・エイ・エルが見れば適度な悪意で退屈な日常にスパイス、適度な放射線ホルミシス効果でお肌ツルツルぐらいにしか感じないに違いない。ベースボール部分の描写も甘く、野球ファン的な盛り上がりも期待できないため、ジェイ・エイ・ピーにとって視聴のハードルが非常に高い作品であると言える。もしかすると、69というタイトルで双葉山のバイオグラフィーを制作すれば、奴らに同じ感情を味わわせることができるのやも知れぬ。主人公の名前を聞いて、スラントバックナックルからサマーソルトしそうだな、ぐらいにしか思わなかった貴様は手を出さぬが無難だろう。あと、老齢を迎えたハリソン・フォードの台詞のしゃべり方がヘンだなあ、と思った。