ミッション・インポッシブル4
あれから一年、本邦にとって記念すべき今日、塩漬けの核弾頭よりも稼働中の原子炉がずっと危険であることがわかり、核技術の流出よりも原発へのテロがはるかに現実味を持つようになってしまった世界で、このフィクションは私たちにとってむしろ逆説的な批評性を帯びて迫って――こねえよ! この毛唐ども、みじんも俺たちのことなんて考えてねえ! エヴァ風に言うなら「私たちはいらないのよ! イーサンだけがいればいいのよ!」であり、島本和彦風に言うなら「なぜ地上130階にサーバールームを作るのかって? ハハハ、その方が盛り上がるじゃないか!」であり、某スイマー風に言うなら「ちくしょー、なんも考えられねー!」であり、小林秀雄風に言うなら「トム・クルーズのバカは疾走する。観客は追いつけない」である! イケメンのバカ、うなるほどの富と名声を持ったハイパーバカによる、「とりあえず味は考えずに具材を全部入れてみたアクション闇鍋」がこの映画なのだ! この時代にクレムリンを爆破してみようなんてプロットを思いついて、じっさい爆破してみるなんてもう頭が悪すぎる(褒めてます)! どうでもいいけど、ゴーストプロトコルって何だろうね! 見終わったいま、そんな瑣末なこと本当にどうでもいいんだけどね!
the definitive SIMON and GARFUNKEL
ただ鎮魂を願う心の静謐さを、いったい何に託せばいいだろう。あれは小学校に上がる前だったろうか。テレビの子ども向け番組から流れていた、透明な歌声を思い出す。意味もわからぬまま、ただ聞き入った。あの頃、幸福に、生きることに、何の条件も承認も必要なかった。幼少期の幸せな静けさと結びついたあのハーモニーこそが、鎮魂にふさわしい――ギャアーッ(左目を押さえて床を転げ回る)! 永く封印せし深奥の秘に共鳴し……忘却の彼方より来たりて我が懊悩を増幅させるッ……!! 其の深淵での逢瀬が記憶……慄然たる極寒との邂逅を、成熟せし我が魂縛へ魔術の如く齎す……當に……冬の散歩道……!! 何だ此の……懐かしくも疎ましい……禍々しく律動する、冥府の詩句は……ッ!! 聞いているあいだずっと、額と両脇からネバネバした変な汗が出てきて止まらない! どの歌詞もすごい中二病で、その病理のあり方が日本的なことに何より驚かされた! そういえばポール・サイモンって、よく見るとなんか「まさる」って感じだしな! 「(舌たらずの声で)ねえねえ、あんちゃん! きよしこの夜のバックに悲惨なニュースを流してみたらどうかな!」「(爆発した頭髪で)冴えてんな、まさる! すげえ風刺がきいてるぜ!」 「(青鼻を垂らしながら)えへへ」 なんかもう、鎮魂とかどうでもよくなった! 鎮魂って、そういやチンコと音が似てるもんな! (ヘビメタ風の衣装をした男がエレキギターをへし折りながら)アイ・アム・ア・ロオオォォォォック!
リアル・スティール
ロッキー+オーバー・ザ・トップ+プラレス三四郎。え、そもそもロボット物である必然性が感じられないだって? この大馬鹿野郎ッ! それを言い出したら、二足歩行のロボットを本邦の大企業が大真面目に大枚はたいて作る客観的な整合性なんざ一ミリもねえよ! 結局、理系なんてのは論理でもなんでもねえ、ガンダム近辺のロボット群に呪われた連中の文学的感傷でできてんだよ! 言ってみりゃ、男のロマンなんだよ! ともあれ、全国一千万の理系おたくa.k.a.超悪男子諸君にとって、必見の作品であることだけは間違いない!
テラビシアにかける橋
もっとも大きな喜びの裏側で、もっとも大きな悲惨が行われる。両者の無関心、無関係こそが、この世界にある残酷さの正体だ。ぼくは喪失を知らない。ぼくはなにも好きではないし、ぼくにとってなにも大切ではないからだ。この命が消えるとき、ぼくはきっと喪失を感じるだろう。それはたぶん、 はたされなかった夢への後悔にちがいない。ぼくはただ、喪失を知りたかった。
ドラゴンズ・ドグマ
ディアブロ3の長すぎるメンテに苛立ちながら続きをプレイ。オープンワールド風味のモンスターハンター風アクションという所感はゆるがず。スカイリムを知らなければ、あるいはもっと楽しめたのかもしれない。そういえば3DOのゲームって、全般的にこんなプレイ感覚だったよな。
米国のスラムを思わせる街並み。稲光。カメラの端を巨大なドブネズミが走り去る。カメラは雑居ビルの階段を上昇してゆく。いくつかの踊り場を過ぎ、“ワイドプリンス・プロダクション”の表札がかかった扉の前で停止する。室内には本や雑誌、書類などの紙類が散乱しており、床が見えないほどである。脳卒中を疑わせる重低音のいびき。ソファの上に、文庫本を顔に乗せた中年男が寝そべっている。やがて、廊下から慌ただしい物音。
「(デブとチビ、二人の男が息を切らせて駆けこんでくる)廣井さん! 廣井さんはいますか!」
「(いびきが止まり、廣井と呼ばれた男の顔から文庫本がずり落ちる)ンだよ、うるせえなあ。明け方まで仕事して、ようやく寝かかったってとこなのによ」
「(デブ、ぶるぶると肩を震わせながら)なに、悠長なこと言ってるんですか! 大事件になってますよ! こ、これは、これは本当のことですか!(手に持ったスポーツ新聞の束を廣井の足元へ叩きつける)」
「ああン? (スポーツ新聞の一つを手にとりながら)最近は老眼が進んじまって、細かい字が見にくくっていけねえよ」
「(デブ、荒々しくテレビのリモコンを取り上げ、震える手でボタンを押す)……あの超人気アイドルグループ、悪罵四六時中(略称:AKB46)のリーダーである顎門罪科(あぎとざいか)さんの自宅マンションから、昨日の早朝、中年の男が出てくるのが目撃されました! こちらがその、衝撃のスクープ映像です! (残念な造作の女がジャージ姿の廣井をドアの隙間から見送る写真が映し出される)この冴えない男、名前を廣井王子と言いまして、この冬、罪科さんが主役を演じる予定のミュージカルの演出を任されているとか。一部では枕営業の噂も?(デブ、テレビを切る)」
「(チビ、青ざめた顔で)アンタは、アンタは、やっちゃいけないことをしちまったんだ!(激昂して廣井に殴りかかろうとする)」
「(デブ、チビを後ろから羽交い締めにして)やめろ! まだそうと決まったわけじゃない! まずは廣井さんの話を聞くんだ!」
「(心底めんどくさそうに)チッ、童貞どもが浮き足立ちやがって。なんで俺がお前らに話をすると思うんだよ。てめえんとこの両親は、昨日セックスしたかどうか朝食の席で尋ねたら、朗らかに教えてくれたのか? とんでもねえ家庭だな!(馬鹿笑いする)」
「(チビ、デブを振りほどこうと身をよじりながら涙ぐんで)ぼ、ぼくの罪科ちゃんに指一本でも触れててみろ! 社長だからってただじゃおかないぞ!」
「(両手をかかげて大仰に)おお、怖い。もちろん、指なんて触れてませんよ」
「(チビとデブ、明らかな安堵に表情を緩めて)ほ、ほんとうだな」「ほ、ほんとうですか」
「(真剣な苦悩の表情で)この国のメディアの未成熟ぶりには目を覆うものがあるね。男女が一晩同じ部屋にいたら、必ずセックスをするはずだなんて、無理にでもゴシップを、つまりは自分たちの飯のタネを作らんがためだけの、下衆の勘ぐりにもほどがある。まったく、『下男の目には英雄なし』の金言は、真理であるということを実感したよ。もちろん、指で触るなんて、(突如立ち上がり、邪悪に顔を歪めて)そんな童貞くさいことするわけねえだろ! 俺のポケットモンスターが風邪であんまり寒がるもんだからよ、罪科ちゃんのいちばん深くてあったけえ部分に頭からずっぽりと潜り込ませてやったのよ! こんな具合にな!(近年逝去した黒人整形ダンサーを想起させる動きで腰を前後に動かす)」
「(チビ、顔の筋肉が消失したような虚脱の表情を浮かべ、その場に崩れ落ちる。デブ、呆然と)そ、そんな……」
「だがよ、童貞ども、安心しな。俺も遊び人の端くれだ、とうの昔にパイプは切断済みよ! 年食った非処女ちゃんの人生を背負う可能性は、まだお前たち一般人男性どもの上へ残されてんだからな!(馬鹿笑いする)」
「(デブとチビ、巨大な蛾が登場する怪獣映画の双子のように手をとりあって)ひどい、ひどすぎる! あーん、あんあん、罪科ちゃん、罪科ちゃぁん!」
「(ゆっくりとソファに腰を下ろして煙草に火をつける)……まあ、最初はほんとに舞台の稽古をつけてやるくらいの話だったんだぜ。ついつい興が乗っちまってさ。おまえにゃ色気が足りねえって、気がつきゃ下半身と下半身のぶつかり稽古よ。(スポーツ新聞を取り上げて目を細める)まあ、この報道ぶりじゃ、二番はねえかな」
「(チビ、もはや話を聞いているふうもなくすすり泣いて)うう、罪科ちゃん、ぼくの罪科ちゃんが汚されてしまった……」
「(デブ、チビの背中をさすりながら)馬鹿、こんなときこそファンの俺たちがしっかりしなくてどうするんだ。一番辛いのは、(涙に声をつまらせて)罪科ちゃんなんだぞ」
「(呆れたように)いま、お前らの様子を見るまで実感なかったけど、悪罵四六時中ってのは、やっぱすげえ商売だな! ゲームがらみで長いこと声優業界に関わってきたから、わかってたつもりだったけどよ、おたくどもの心根を冷徹に分析した、見事なシステムだわ。まず、この不況下で最も活発な消費活動を行うのは、独身のおたくだってこと。次に、おたくは美人の非処女より、多少ブスでも処女が好きだってこと。芸能界なんて場末で美人を探すのは骨が折れるが、ブスならいくらでも虫みてえに集まってくるしな。そして、木を隠すなら森、ブスを隠すならブスの集団ってわけだ。くっそ、考えれば考えるほどに完璧じゃねえか! どうして声優転がしでおたく様どもからカネを巻き上げるのが得意だった俺が、これに気づけなかったかな……」
「(チビ、真っ赤に泣き腫らした目で)ぼ、ぼくは、それでも罪科ちゃんを愛し続けます! 今までも! これからも!」
「(デブ、涙声で)うん、うん。それでこそ罪科ちゃんのファンだ」
「(呆れ顔で二人のやりとりを眺めて)まあ、よっぽど気をつけてやらないと、おたくの自意識に立てられた砂上の楼閣だ、簡単に土台ごと崩れちまうがな。たぶんプロデューサーの野郎、恋愛禁止ぐらいのことしかメンバーに言ってなかったんだろうさ。メンバー全員に最初ッから、ちゃんとこのシステムの成り立ちを詳しく説明しとくべきだったな。強すぎるおたくの猜疑心にかかりゃ、すぐに他のメンバーにも非処女の疑惑は飛び火するだろうよ。まさに蟻の一穴ってわけだ。もっとも、その一穴は罪科の処女膜に開いてんだがな!(馬鹿笑いする)」
「(チビ、勢いよく立ち上がって)よ、呼び捨てにするな! ぼくの罪科ちゃんを呼び捨てにするなよ!」
「おっ、元気あんじゃん。(ニヤニヤ笑って卑猥に腰を振りながら)まずはそのふざけた処女幻想をぶちこわすぅ~」
「(チビ、膝から床に崩れ落ちて)ううっ、財科ちゃん、こんなヒヒ親爺に汚されたって、ぼくは君のことを愛し続けるよ……」
「(肩をすくめて)おまえさァ、そろそろ冷静になって、誰に給料もらってるか思い出したほうがいいんじゃねえの? 安心しろよ、あんな女のこと、すぐに忘れるさ。芸能界にゃ、他にもたァくさん、若い処女がごろごろしてるからな。女アイドルの仕事ってさ、忘れられることも込みだからよ。まあ、長くて一週間ってところかな」
「(チビ、膝の上でぶるぶるとこぶしを震わせて)侮辱するな! ぼくの純粋な恋心を侮辱するなよ!」
「(背もたれに両腕を投げ出し、天井を向いて)女ってのは、つくづく大変だよなあ。若い処女もすぐに非処女になってさあ、じきに若くもなくなってさ、子どもができたらカアチャンになってさあ、容色も衰えていってさ、しまいにゃ、生理までアガッちまう。人生にたどるべき明確なステージがあって、まあ、肉体の変化が先行するせいだけどよ、同時に心もメタモルフォーゼさせないといけなくてさ、失敗すると羽根が伸びきらない蝶々みたいな奇形か、さもなきゃ怪物になっちまう。その点、男ってのは楽でいいよなあ。セックスしたって、たとえ子どもができたって、死ぬまで少年漫画読んでりゃいいんだからさあ。(目を伏せ、小声で)まあ、ガキでもいれば、それが長すぎる人生の時計ぐらいにゃ、なるんだろうがよ」
「(デブ、たまりかねたふうに)いったい廣井さんは何が言いたいんですか!」
「(チビ、加勢して)そうだそうだ! 何が言いたいんだ!」
「(目を細めてチビを見て)おまえ、愛するって言ったけどさ、愛するってのは、女が歩むそのすべての階梯をいっしょに寄り添うってことだよ。若くて処女の罪科ちゃんが好きだったおまえが、処女でもなく、若くもなくなった彼女の何を愛せるんだ? 少年漫画を読む以外のことをしたくなくて、現実から俺の事務所に逃げこんできたおまえがさあ? なあ、もう一度言ってみろよ、罪科ちゃんを愛していますってさ」
「(チビ、嗚咽とともに床に顔を伏せる。デブ、チビの背中をさすりながら)ど、どうして廣井さんはミュージカルの演出なんか引き受けたんですか。柘榴vs.禅(ざくろたいぜん)からこっち、ゲーム制作に関わろうともしない。お言葉ですがそんなミュージカル、演出のことなんか何もわかりゃしないおたくたちが、悪罵四六時中のメンバーを観に来るだけの、半年も経たないうちにすべて消えてしまう泡沫じゃないですか。貴方の才能はゲーム制作でこそ、最大に輝くはずなのに、それをどうして……」
「(目を細めて)そして、舞台にかかわらなきゃ、顎門罪科の処女を散らされることもなかったと言いたいわけだ」
「そ、それは……」
「はは、おまえら本当に純粋だな。なんで俺とヤるまで顎門罪科が処女だったって前提なわけ? 非処女だったよ、当たり前じゃねえか(床に突っ伏したチビの嗚咽がいっそうに高まる)。で、なんだっけ? 俺がゲーム作らずに舞台演出やってる理由か? 簡単だよ。才能がある者は公の場で認められたいと思う。俺には才能がある。そして、ゲームは公の場じゃない。どれだけギャルゲー作ったって、世間は俺を尊敬してくれねえのよ。五十がらみのオッサンが、ゲーム作るときにだけその才能が輝くって、どういう罰ゲームだ、こりゃ? ……俺のカアチャン、九十近くってさ、すげえ田舎に住んでんだよ。メディアといや、テレビとラジオと新聞でさ、やめろって言ってんのに、まだ俺に仕送りしてくんだよ。ゲーム制作で名を上げて、もうカネにゃ何の不自由もない五十がらみのオッサンにさ。俺ってさ、こんなに成功してるのに、この世にいないも同然なの。ゲーム作ってんのが、心底恥ずかしいの。それが俺の理由(窓の外へ視線をそらす)」
「(デブ、その横顔を見つめて)廣井さん……」
「(事務所の電話が鳴る。顔を見合わせる三人。廣井、顎でデブに促す。おそるおそる受話器を取り上げるデブ)はい、ワイドプリンス・プロダクションでございます。え、廣井ですか? (廣井に視線を向ける。廣井、無言で首を振る)少々お待ちください。いま廣井にかわりますので(子機を差し出す)」
「(三白眼で睨んで)テメエ、社長をマスゴミどもへ売ろうってのかよ」
「(微笑んで)お母さんからですよ」
「(毒気の抜けた表情で子機をひったくり、部屋の隅へ行く)あ、カアチャン、ひさしぶり。ゴメン、ずっと電話できなくて。あ、テレビ見た。え、取材来たの? ごめん、なんか騒がせちゃって。言ったろ、おれ、有名人だって。カアチャン、ぜんぜん信じてくれねえんだもん。仕送りいらねえって言ってんのに……ほんと、ゴメン。うん、俺はだいじょうぶだから。うん、うん。近いうちに顔出すよ。うん、じゃ、切るね(子機の切ボタンを押す。無言)」
「(デブとチビ、二人で)廣井さん……」
「(振り向かないまま袖で顔をぬぐって)あー、なんかすっきりしたわー。お前ら、ごめん! たったいま、事務所たたむことに決めた。ごめんな、なんかずっと、つまんねえことにつきあわせちまって」
雑居ビルの外。ロングコートにサングラスの女がビルを見上げている。やがて意を決したように一歩を踏み出し、階段を登ってゆく。引いてゆくカメラ。米国のスラムを思わせる街並みに、雲間から射し込む一条の陽光。
痛んだ傘を折りたたむのにてまどって、ちょっとぬれてしまう。舗装の悪い道路には、雨が何か所も水たまりを作っていて、いくども足をとられかけた。
その店は、目ぬき通りからすこし路地裏へ入ったところにあった。どぎつく明滅するネオンサインを水たまりが照りかえし、コーデリアはなんだか異国の地に迷いこんでしまったような気がして、かるいめまいをおぼえた。
やせぎすのからだをあずけるようにして重いスチールの扉を開けると、手すりのないひどく急な階段が地下へとつづいている。
せまいおどり場にあるさびた傘たてには、すでに傘が何本か入れられている。そのうちのひとつに、見おぼえがあった。「背の高い人用」と書かれた購入時のラベルがそのまま柄に貼られている。
コーデリアが、小鳥尻の誕生日に贈ったものだった。
小鳥尻は傘を持つことをきらっていた。どんな大ぶりでも、コートひとつで出かけていき、海の底を散歩してきたみたいになって帰ってくる。
「なんか雨にうたれてると、すこしだけ気もちが楽になるの」
なぜ傘を持たないのか、いちどたずねたことがある。さいしょ、小鳥尻はじっと黙ったままだった。その反応はとくだん珍しいことではなかったので、コーデリアもそれきり黙ったまま、つくろいものをはじめた。
ゆうに五分は経ったろうか、そう小鳥尻が答えたのである。
「どうして楽になるの?」
小鳥尻の両目が一瞬、遠くを見るようにさまよって、やさしくゆるんだ。
「私ね、子どものころ、悪いことをするとよくお母さんに家の外へ追いだされてね。そんなときはなぜか決まって雨が降ってたわ」
コーデリアはいちど、小鳥尻の母親に会ったことがある。
このたびは、うちの娘がたいへんなご迷惑をおかけしまして――
病室の敷居にきっちりとつま先をそろえ、定規をあてたような深いお辞儀をする姿をおぼえている。示談の話しあいにきたのらしかった。ぜんぶ両親が対応したので、コーデリアは二言三言を交わすきりだった。
印象は悪くなかった。すこしやせすぎのきらいはあったけれど、品のいい、知的な女性だったと思う。
いっしょに暮らすようになったさいしょのころ、小鳥尻が母親のことを悪しざまに言うのを何度か聞いたことがある。それはあまりに病室での印象とちがっていて、コーデリアが「冗談でしょう」とか「思いちがいじゃないの」とか相づちをうつうちに、いつしか小鳥尻は母親の話をもちださなくなった。
「雨の音ってやさしいでしょ。知ってる? 雨ってね、あったかいのよ。家のなかはうるさくて冷たくて、雨にうたれてるほうが、ずっとよかったわ」
コーデリアには、小鳥尻がなにを言っているのかわからなかった。それどころか、すこし意地わるく、「ちょっと悲劇ぶってるわ」と考えたりもした。
「でも、雨にぬれると風邪をひくでしょ。もう子どもじゃないんだから、雨の日は傘をさしてね。こんど、プレゼントしてあげるから」
コーデリアの言葉に、小鳥尻は悲しそうにほほえむきりだった。
玄関の傘が二本になり、この話題はそれきりとなった。
壁に手をつきながら、すべらないように一段一段をふみしめる。階段のつきたすぐ右手が、喫茶店のようになっていた。できるだけめだたないよう、すみのテーブルに腰をおろす。
すわったことにホッとすると、人心地がもどってくる。
コーデリアは、前かけにサンダルをつっかけているじぶんに気づいた。大またに前を行く背なかを見うしなわないようにするあまり、気がまわらなかった。はずかしさに顔があつくなる。
いすの背もたれは毛羽がたっていて、なにかの液体がかわいたようにゴワゴワしていた。手をふれたテーブルの表面はわずかにねばっている。いまさらながら、ひどく場ちがいなところにいる気がした。
口ひげをはやした小太りの店員が、水をもって近づいてくる。コーデリアは手ぐしに髪をなでつけた。
「ご注文は?」
あわてて前かけのかくしをさぐると、がまぐちに指がふれる。すっかり紙のくたびれたメニューをひらくと、よくわからないカタカナがならんでいた。アルコールのたぐいらしい。
「あの、ウーロン茶をください」
一週間分の食費と同じ値段だった。店員が失笑めいた鼻息をもらしたような気がして、コーデリアは思わずうつむいた。
それでも注文をすませてしまうと、居場所をえたような気もちになった。
まわりには、すでに何人かの客がすわっている。奥にひとつ高くなったところがあり、左右にカーテンのようなものが下げてあって、どうやらかんたんな舞台になっているらしい。
ウーロン茶がはこばれてくると照明がさらにしぼられ、カーテンのそでからだれかがあらわれた。かん高い声の、ふたり組の女性だった。
すぐにかけあいがはじまる。漫才のようだ。言葉が多すぎて、どんな内容なのかコーデリアの頭にはまったくはいってこなかった。あたりを見まわしても、客たちはだれも舞台を見ていない。どういうお店なのだろう。
すぐ目の前のテーブルに、若い男がひとりですわっている。ゲーム機なのか携帯電話なのかよくわからないもので、アニメを見ていた。画面の中では、馬に乗った制服姿の少女が刀をふりまわしている。場面が変わるたび、ちがった色の光が横がおにうつりこむ。
なんだかコーデリアは、ひどく正しくない、ふつうではないことが行われているような気がした。
まばらな拍手に、はっと我へかえる。ふたり組の女性は大きく一礼して、舞台のそでへとひっこんでいった。
入れかわりに、セーターに巻きスカートの女性が、グラスとビンを片手でひっつかみ、小さなテーブルをひきひきあらわれる。
とたん、コーデリアの心臓ははねあがり、あたまの芯にはしゃきっとしたものがもどってきた。小鳥尻だ。
すでにひどく酔っているようで、足もとはふらつき、目は赤く充血している。
「飲めば飲むほどおもしろく、ってわけにはいかないけど、しらふでできる芸でもないのよね」
卓上にグラスを置き、こはく色の液体をそそぐ。
「とりあえず、きょうの出会いに乾杯」
客たちへむけてグラスをかかげると、いっきにあおった。とたんせきこんで、ほとんどを床にこぼしてしまう。長身をおりまげてせきこみ続けるようすに、コーデリアはそばへかけよりたい衝動にかられる。
やがて口もとをぬぐいながら、
「それじゃあ、はじめましょうか」
小鳥尻が巻きスカートをはぎとり、客席へと投げる。それはだれにも触れられることなく床に落ちた。肌色のタイツには、股間のところに亀の子タワシがはりつけられていた。
「わたしのタワシ、気持ちいーでー、わたしのタワシ、気持ちいーでー」
芸をはじめたとたん、酔いに正体をうしなっていた小鳥尻の声がぴんと張った。家でのぼそぼそと聞きとりにくい話し方とはまったく違っていて、コーデリアはファンとして観客席にいた昔を思い出して、胸がつまるような気もちになった。
「なーなー、わたしのタワシ、気持ちいーでー、わたしのタワシ、気持ちいーでー」
がにまたで上半身をそらせ、いくどもタワシをこすりあげる。やはりだれも舞台を見ようとはしない。ただひとり、目の前のテーブルの若い男だけが、アニメから目を離し、食い入るように小鳥尻を見つめていた。
「うるせえぞ!」
さけび声とともに、客席から舞台へグラスがとぶ。酔っぱらい相手の舞台には、よくあることなのだろう。
けれどこのとき、運の悪いことにそのグラスは小鳥尻のこめかみを直撃した。たまらず長身を折りまげ、卓に手をつく。こめかみを押さえた手のすきまから赤いものがしたたり、小鳥尻の両目はむきだしの、凄惨なものをたたえていた。
思わず、コーデリアは席を蹴って立ちあがった。椅子の背もたれが床にたたきつけられて、大きな音をたてる。まわりの客から、いぶかしげな視線が向けられた。
「いってーなー、おい! いってーなー、おい!」
ことさらな大声が、みなの視線を舞台へともどす。小鳥尻は背中で床をそうじするみたいなオーバーアクションでおどけて、のたうちまわっていた。その表情は、すでに芸人のそれにもどっている。
観客から笑い声があがる。たちの悪い笑い声だった。
コーデリアはもう見ていられなくなって、狭い階段をかけあがるようにして店を出た。
「傘、忘れてるわよ」
看板のネオンが消えると、背の高い人かげが細い路地から出てくる。傘をさしだすコーデリアを肩ごしにちらりと見ると、そのまま何も言わず歩きだす。
「ねえ、傷はだいじょうぶなの」
うしろをついていきながら、声をかける。小鳥尻は、猫背に首をうめるように両肩をもちあげて、話しかけられるのをこばんでいる。コーデリアは一瞬、ひどく悲しくなった。しかしすぐにそれは、むかむかとした怒りにとってかわられた。
「こんなに心配してるのに、その態度はなによ!」
じぶんでもびっくりするほど大きな声だった。
その剣幕におどろいたのか、小鳥尻は足をとめてふりかえる。こめかみにはガーゼが雑にはりつけてあった。
「仕事のときはくるなって言ったじゃない。それに、あんなのいつものことだから、心配なんていらないわ」
先ほどの舞台とは別人のように、ぼそぼそとした言いわけだった。それがますます、コーデリアをいらだたせる。
「わたしをなんだと思ってるのよ! 猫のせわ係じゃないんだから! わたしにだって、心配する権利くらいあるんだから! こわいんだからね! わたし、怒ったらこわいんだから!」
むちゃくちゃを言っているなと思ったが、もうとまらなかった。
体はおおきいくせに、小鳥尻にはひどく気のよわいところがある。このときもうろたえたふうにコーデリアから目をそらして、「これはわたしのことだから」とつぶやいた。「ぜんぶ、わたしひとりで証明しなくちゃいけないのよ」
「だれに証明するのよ! なにを証明したいのよ! だれも見てない舞台で、みんなわすれた芸をして、どうやって証明できるのよ!」
小鳥尻が大またに近よってきて、手をふりあげた。これだけ言われれば、そうするしかないのはわかっていた。山のように大きくてまっ黒なものがおおいかぶさってくる。
わたしは逃げない。逃げてたまるもんか。
コーデリアは小鳥尻を受けとめるように、両手をいっぱいに広げた。いつかまえにもこんなことがあった、と考えながら。
のけぞるあまり、ふんばった足がぬれた地面にすべった。
ネオンにふちどられた空が見えたかと思うと、すぐにあたりはまっくらになった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
目をあけるとコーデリアのかたわらに、ぬれるのもかまわずすわりこんで、小鳥尻がすすり泣いていた。
「私、きょうね、本当はね、すごくうれしかったの。はじめて、家族が舞台を見にきてくれたから」
体には力がはいらず、頭のうしろは割れるように痛んだ。小鳥尻を心配させまいと、コーデリアはなんとかあいづちをうつ。
「昔、なんども行ったじゃないの」
「あれはファンとしてでしょ!」
口をとがらせるようすがひどく幼く見え、コーデリアの胸はしめつけられるように苦しくなった。視界がじわりとにじむ。
「どっか痛むの?」
具合のわるい親を心配するときの子どものような、あどけない表情。コーデリアはなぜか、カッコウの托卵のはなしを思いだした。
「ううん、だいじょうぶよ。ねえ、さっきの話、くわしく聞かせてくれる? だれに証明したかったの?」
恋人どうしのはずなのに、対等ではない気がしていた。ずっと一方通行なかんじがしていた。それはきっと、小鳥尻の想いが、親を求める子の想いと同じものだったからだ。
のどの奥にうまれた氷のような嗚咽のかたまりを飲みくだすと、コーデリアはやさしくたずねた。
小鳥尻は視線をさまよわせて、しばらく考えるそぶりをみせた。
「やっぱり、パパ、かな」
「お父さん?」
意外な答えだった。父親のことを聞くのは、これがはじめてかもしれない。
「うん。わたしのパパ、すごいのよ。……の社長でね」
だれでも聞いたことのある、少し大きな会社の名前だった。
小鳥尻はどこか浮世ばなれしていて、芸人なのに、生活によごれた感じがなかった。良くも悪くも、お金に頓着がない。それは裕福な家庭に育ったことが理由なのかもしれないと、コーデリアは思った。
「小さいころからずっと、パパのこと、自慢だったなあ。でもね、わたし、勘当されちゃったの」
小鳥尻の口もとが、泣くのをがまんする子どもみたいに、への字にまがった。
「お母さんが、わたしがこうなのは、こころの病気のせいだって。育て方とかじゃなくて、病気なのが悪いんだって。プロだから、わかるんだって。わたしのことでパパとケンカするとき、いつもそう言ってた。病気なんかじゃないのに」
頭は熱いのに、手足が冷えてきて、みぞおちのあたりには吐き気があった。小鳥尻は気づいたふうもない。
「プロって、なんのプロ?」
かろうじて、そううながす。わたしはいつでも聞き役だわ、とコーデリアは思った。
「私のお母さん、こころのお医者さんだったの。パパと結婚してから、働くのはやめたみたいだけど。じぶんの生まれた家はケッソンカテイだったって、いつも言ってた。ねえ、知ってる? そういう壊れた家庭にそだつと、子どものころの失敗をとりかえそうとして、大きくなってからも同じ環境を作ろうとするんだって。絶対にうまくいかない人間関係を、のぞんで作ろうとするんだって」
ああ――
小鳥尻は、いまじぶんが話していることがどういう意味なのか、わかっているのだろうか。
「わたしずっとヘンだなって。子どもだったから、言葉にできなかったけど、病気の人が病気の人の病気をみるってすごいヘンだなあ、って思ってた。お医者さんになるために病気になるみたいで、すごいヘン」
小鳥尻の母親はきっと、成功しないことに成功したのだ。呪いを、次へと手わたして。
「わかったわ。お母さんの言ってたことがまちがいだったって、お父さんに証明したいのね」
「そうそう!」
うまく伝えられない話を大人が先回りしてくれたときの子どものような、とびきりの笑顔だった。
「ねえ」
「なあに?」
コーデリアはあらためて、この一方通行な関係を悲しく思いながら、言った。
「これだけは信じてほしいの。わたしはあなたを本当に助けたいと思っている。しあわせになってほしいと思っている」
小鳥尻をまっすぐに見つめる。
「わたしは、あなたのことが好き。でもね、すこしだけ、つかれちゃった」
まぶたを閉じると、とたんに全身が重くなって、背中から地面にすいこまれるような感じがした。小鳥尻の泣き声が遠のいていくのを心地よく思うじぶんにぞっとしながら、コーデリアは意識を手ばなした。
カンフーハッスル
いつ見ても、日本のサブカルの精髄が、他国民によって深く尊重され、みごとに換骨奪胎される様に、歯噛みをする思いになる。本邦の自称・映像作家たちになぜこれができないかと言えば、スクールカーストにおける位置づけが実社会でも保持されるからに違いない。おたくどもの手なぐさみを、リア充の俺がカッコよく昇華してやろうという勘違いが修正されず、名作の普遍性が個人の自己実現に卑小化される。閑話休題。この作品が真にすばらしいのは、アジア人の貧相なオッサンを底の知れない、不気味な達人として描いている点だ。西欧からの根深い人種的蔑視を取り除くには、この手法しかない。今こそ我々には、第二のショー・コスギが必要である。すなわち、「日本人はみな、ニンジャかサムライ」というステレオタイプを虚構の側から補強する映像作品だ。西欧の街並みを行けば、十戒の如く日本人の前に道ができる。それくらい徹底的にやって欲しい。「中間管理職の悲哀」がテーマみたいな、リアル貧相オッサンがターゲットの時代物はもうおなかいっぱいです。