「いいお湯だったねえ、おまえさんっ」
底抜けに無邪気な声音に、ふとつられてふりかえった。
「あんまりはしゃぐとあぶないよ」
洗面器を小脇にかかえた女の子が、楽しそうにくるくると回る。苦笑しながらかたわらでいさめているのは、兄だろうか。両目が隠れるほどに前髪をおろしている。上着を脱ぐと、さりげない仕草で女の子の両肩へと乗せた。たちまち不満そうに口をとがらせるのが可笑しい。
「もう、保護者きどりなのね! そんなカッコじゃ、寒いでしょ」
タンクトップから健康な二の腕がのぞいていた。春が近づいたとはいえ、夜の大気はまだ冷たい。
「このくらいなら、へいちゃらさ。大陸はもっと寒かったからね。それより、――に風邪をひかせて、あとでお父さんにしめあげられるほうがこわいよ」
めずらしい名前だったが、一回では聞きとれなかった。とたん、ころころと鈴のような笑い声がひびく。
もし、きょうだいでないとすれば、輝くばかりの桃色に染まった頬は、湯ばかりが理由ではあるまい。なつかしい、痛いような気持ちが喉元へこみあげた。なんとなく立ちつくしたまま、この幸せなやりとりをながめる。
ふたりの後ろ姿が曲がり角に消えると、コーデリアは寒さを思い出したかのように襟元を寄せた。小鳥尻とのあいだにも、たしかに蜜月はあったのだと思う。また、あんなよろこびはやってくるのだろうか。
問いかけるように顔を上げた先に、答えが見えた。カーブミラーに映るゆがんだ鏡像は、すでに百年もうみ疲れているようだった。
そして、先ほどの女の子はもしかすると、じぶんとそれほど変わらぬ年齢かもしれないと思いいたり、コーデリアは身内に真冬のような底冷えを感じたのである。
小鳥尻が一週間ぶりにもどるというその日、コーデリアは近所の銭湯へ出かけた。もともとあまり汗をかかない体質に質素な食生活があいまって、風呂の無いアパートでの暮らしは苦にならなかった。ときどき、小鳥尻が酒を割るさいあまらせた湯で身体をふいた。
切りつめた生活のなか、正直かたちに残らない三百円の出費は痛い。しかし、久しぶりに帰宅する恋人に、最良の姿を見せたいという想いがまさった。つまるところ、失望されたくない、捨てられたくないという共依存が、ふたりの関係へ力学として作用しているのだが、幸いにもというべきか不幸にもというべきか、コーデリアはそれを言葉にできるほど賢明ではなかった。
オレンジ色に射す西日の中で味噌を溶くと、鍋からふわりと暖かさが広がる。この、幸福に満たないぬくもりをコーデリアは愛した。むくわれて然るべきと感じられるこのささやかさが、願いのはかなさによくみあうからだろう。
卓上の夕食はいつもより一品、菜が多かった。小鳥尻の帰宅は、すべてが冷えてからだった。案の定、ひどく酔っていて、そして舞台にいるときのように上機嫌だった。
「ごめんね、昔のファンが集まって、宴会になっちゃってさ……でもすごいのよ、もう大盛りあがりで、私ひさしぶりにすごく楽しくって」
玄関でひさしくなかったような熱い口づけをすると、コーデリアに菓子袋を押しつけた。
「ファンのひとりにもらったの、すごく上等なお店のケーキなんだって」
袋には、大量生産で有名なチェーン店のロゴが刻印されていた。だまされているのか、だまそうとしているのか、コーデリアにはわからなかった。気が高ぶらぬよう、声がかすれぬよう、ゆっくりと唾を飲みこんでから、言った。
「お水くんだげるから、座ってて」
蛇口をひねると、白く濁った水道水がプラスチックのコップへ満たされてゆく。この上機嫌は良くない兆候だ。こころはまるで振り子のように、上がったぶんだけかならず下がる。なぜみんな、そっと静止させておいてくれないのだろう。
「もうすごいのよ……みんなずうっと私のことをほめてくれてね、アンタはすごい芸人だって、大好きだって、愛してるって……だから、うれしくなってね……みんな私のオゴリにしちゃった……」
語尾をひそめてうかがい見るのは、やはりすこしは後ろめたいからか。おそらく酒が言わせたのだろう、ファンと名乗る人物たちの無責任な発言を、コーデリアは呪いたいような気持ちになった。ふだんは臆病で人嫌いの小鳥尻なのに、どういうわけか己を肯定してくれる言葉だけはびっくりするほど素直に信じこんでしまう。
わずかばかりを節約したところで、破滅への秒読みはいつも大幅に繰り上げられる。コーデリアはじっさい視界が狭まるような錯角を感じ、わずかに首をふった。やさしくて純粋なこの人は、左右からふたりを圧しつぶそうと迫る絶望の壁へさしわたすつっかい棒が、この世に金銭しかないということがわからないのだ。いっしょにいられるなら死んでもいいと思ってついてたきたはずなのに、いざそれが現実的な結末として近づいてくると、なぜこんなにも悲しくてつらくて、胸が痛むのだろう。
後れ毛をはねのけるふりで、そっと目尻をぬぐう。笑顔を作ってふりかえったところで足に力が入らなくなり、コップを抱えたまま膝からその場にへたりこんだ。
「怒ったの? ねえ、怒ってるの?」
小鳥尻は台所の板敷きに正座する形のコーデリアへいざり寄ると、膝に顔を埋めて腰へ手をまわした。コーデリアは思う――この人がじぶんからやってくるのは、だれかにゆるしてほしいときだけだ。
「でも、聞いて! 集まりに局の人がいてね、十年も同じ芸でもつのがすごいって言ってくれて……で、私の芸はあんまりすごいから、いっしょに仕事してみたいって。だからきっと、またテレビに出られるわ……そうしたら、こんなアパートひきはらって、ふつうの人みたいに……」
小鳥尻の声はそこで小さくなっていった。
「ねえ」
――落ちる。
コーデリアには次の言葉がもうわかっていた。こぼさぬようコップをかたわらへ置くと、広い背中をさすってやる。
「死のっか」
魅惑的な負の演技に引きこまれぬよう注意しながら、じゅうぶんな間をとって、言った。
「テレビ、出るんでしょ」
「出れるわけないじゃない」
驚いたことに、小鳥尻は即答する。妙にきっぱりとした口調だった。
しかし、続く言葉は夢見るようにかすんだ。
「私ね、舞台に上がる前は奇跡が起きるような気がするの。もし、この舞台をうまくやり終えたら、みんなが私に拍手をして、そうして次の日からは誰からも愛されるように、誰からも必要とされる私になれるんじゃないかって思うの」
「うん、うん」
小鳥尻の求める愛は、無条件の愛だ。赤子が母親に求めるような、本人にとっては生命の存続にかかわる重大な愛だ。けれど、この世のだれがその重さを引き受けてくれるというのか。
「でもね、私わかってるの。それは祈りみたいなものなの。いつもかならず、裏切られるの」
コーデリアは黙って背中をさすり続けた。
「昔ね、みんなが私を見て笑ってるときにね、いま心臓マヒとかで死ねたらなって、よく思った。だれか、私の芸でみんながいちばん盛りあがってるときに、撃ち殺してくれないかな。みんなが私だけを見て笑ってるときに、うしろからぱぁんって」
まばたきすればこぼれそうで、コーデリアはただやさしく目を細めた。
「じゃ、こんどテレビ出たとき、殺してあげる」
「うん、殺して。きっと殺してね」
曖昧な、子どものような口調でそうつぶやくと、小鳥尻はそのまま眠りに落ちた。
月光が照らすその横顔は、死人のように青白かった。きっと、小鳥尻という存在はとうの昔に死んでしまっているのだ。人工呼吸器につながれた脳死患者のように、むなしい希望を永らえさせているだけなのだ。
だが、またひとつの危うい瞬間を乗りこえ、小鳥尻の生命を明日へとつないだことに、コーデリアはある種の満足を覚えているじぶんに気づいた。そしてそれは、ひとつの決意へと昇華する。
この人の、最期の瞬間を看取る。できるだけ長く、小鳥尻を生かしてやろう。
そう、まるでひとつの季節をしか生きない昆虫が、虫かごという牢獄で越冬するように。
WALL・E
永遠に生きれば死なないのに、愛は永遠より短い。人間嫌いでフランケンシュタイン好きの小生にとって、物語前半は呼吸が停止するほどの傑作であった。けど、宇宙に出て舞台が広がった途端にテーマが狭まるのはどないやねん。
イントゥ・ザ・ワイルド
世の中の真理は実のところ簡単な標語のようなものだが、そこへ血肉の実感を通わせるためには死に近い場所をくぐりぬける必要がある。この映画には頭でっかちな我々が、現代をたいらげるための皮肉な処方箋が描かれているのだ。つまり、「家族を大切にしよう」。
生存報告として、合意を伴わない公での性交や出産を伴わない生命の経膣などを主眼としたゲームが毛を伴う唐の国家で問題視されている件について、自由連想法的にお届けしようかな。時間がありません。推敲はありません。申し訳ありません。
合意を伴わない公での性交という欲望は、人類が知恵を手に入れる前に持っていた、メスをおさえてすぐにしないと逃げられて、逃げられるとオスもメスも遺伝子残せないっていう、動物の古い慣習的な欲望なので、いつまでも顔を出してぬぐいさるのが難しいんだろうなあ。出産を伴わない生命の経膣という欲望は近代が男性に要求した新しい義務に対する反動なんだろうなあ。しんどいもんなあ、一瞬で果たせない責任や義務って、すごくしんどいよなあ。昨日と一週間前と一年前と十年前に連続性があるって前提、すごくしんどいよなあ。たくさんの承認を得てしまうと人類の存続が難しくなったり、滅亡にまで続くような個人の欲求っていくつかあって、反社会的とか禁忌とか名前をつけられるんだろうけど、反社会的とか禁忌とかの類があとからあとからカテゴリを追加され続けて、それで大本の理由が薄まってしまって、忘れられてしまって、なんでこんなやっちゃいけないことばかりなだろう、しんどいよなあってとこへインターネットがやってきて、反社会と禁忌を大量生産する既存メディアを旧弊だってあげつらって、うっかりうまくいって反動的に承認形成装置として機能してしまって、あらゆる欲望が許容される巨大なるつぼになってしまって、何言ってんだよ、本当はぜんぶだいじょうぶだろ?みたいな。絶妙のタイミングだったよなあ。でもさあ、人類が存続してきたからこそ、その連続の先にある今日の文化を楽しめるのであって、楽しんでいる以上は人類の存続を消極的にでも求めるべきじゃないのかなあ。現在の最突端からは少しだけ遅れて何か言うことを生業にする人が複雑にして、複雑にしたから当人をいれて何人かにしか届かなくなってて、そんな届かない啓蒙より届く陰茎をさわるほうが気持ちいいになってるので、人間を1人作るのに人間が2人必要だから、2人が2人を作れば人類は存続し、2人が1人を作れば人類は半減し、2人が0人を作れば人類は滅亡するという単純さへ回帰するべきなんじゃないかなあ。でもこの理屈で言えば、0人を作り、人類から楽しみを搾取し、死を選択する予定がない誰かというのは、人間なるものに対する最悪の背信行為を行っているということになるなあ。こいつ、連想のくせに俺を追い詰めて死にたくさせるなあ。あと、某福音アニメで「使徒は知恵を身につけはじめています」「残された時間はあとわずか、ということか」だったかの台詞が最近、妙にひっかかってて、何でだろうって考えてて、あれは自分がクズであることに気づいている親が小さい子どもから、子どもの知恵の無さを利用する形でクズであることを隠していて、そうして子どもが成長していろいろ分別がつきだして、もしかしてうちの親ってクズなんじゃないの?と気づきはじめていることを見て親が恐れている場面を想像させるからかなあ。子どもをあれしてしまう親って、そんな恐怖に耐えられなくなってするのかしら。どうなのかしら。また冒頭に戻るけど、表現の自由ってみんな言うけど、もう表現は圧倒的に自由で、そのおかげをこうむって手で配布するより大勢に猥褻まみれ不道徳まみれのnWoを見てもらってるんだけど、表現の自由って聞くとカネもらわずにやってると、うんこを金銭売買する自由を守ってよって聞こえるなあ。ステーキは売っていいけど、うんこは売っちゃいけないよなあ。口から入ったステーキが内臓を通ってうんこへ変わるどの過程までを売っていいのかってことなのかしらん。いや、これってむしろ、ただのひがみだよなあ。
とりあえず、日々こんなうわごとのような妄想に包まれながら、怠惰な性根の許す限りの懸命さで生きてます。
シティオブゴッド
ぼくは人嫌いだ。君がこころを告白をするとき、ぼくはぞっとして、ますます人間のことが嫌いになる。でも、リトル・ゼはこころを何も語らない。愛と嫉妬と怒りと悲しみの違いがわからなくて、友の死にも、ひとつの叫びとみっつの空砲だけ。ぼくは少しだけ、人間のことを好きでいたくなる。
マンデラの名もなき看守
ネルソン・マンデラが初めて映画化を許諾したというふれこみに、ドキドキしながら視聴を開始したのであるが、結論を申すならば小生の彼への評価が下がった。無論、元・名誉白人で政治嫌いの一おたくが極東で何を感じ何を放言しようとも、南アの英雄にとっていかなる痛痒もないことは言うまでもない。あと、シーン末尾の切り方がヘンだなあ、と思った。