*はじめに
今回の更新は「五十六万ヒット御礼小鳥猊下基調講演」での声明を元に書かれた、「少女保護特区(5)」のリライトバージョンです。ご要望やご不快に思われる点がございましたら、ただちに改変いたしますので、遠慮なくおっしゃってください。
最後に、これまでみなさまの味わわれた心痛に対して、nWoスタッフ一同、心から謝罪いたします。本当に、申し訳ありませんでした。
「あ……」
さくら色のくちびるから吐息のような声をもらして、少女が目をあける。
ほおにはひとすじ、涙のあと。
どうやら、かなしい夢をみていたようだ。
ぼくは親指でやさしくほおをぬぐってやる。マシュマロのようなやわらかさが、おしかえしてきた。
さりげなく、はだけた両脚にスカートをおろしてやりながら、そっとたずねる。
「夢を見ていたの?」
ぼんやりとみひらかれた少女の瞳に、焦点がもどってくる。
「こわい夢をみていたの」
安堵の表情が、ふたつの泉に満たされてゆく。
「ヨくんがいなくなってしまう夢……あたし、ヨくんがいなくなったら、きっと胸がさけて死んでしまうわ」
ぼくはほほえみながら、少女のひたいをかるくこづく。
「そんなこと、口にするもんじゃないよ」
「だって、ほんとうにそう思ったんですもの」
少女は心外だ、とばかりに口をとがらせる。
「言葉にしたことは、本当になってしまうからね」
感じやすい瞳が、みるみるうちにうるんでゆく。
「あたし、もうぜったい言わないわ。だってほんとうにこわかったんですもの……」
しゅんとして、肩をおとす少女。
お灸がききすぎたかな、とぼくはすこし後悔する。
「だいじょうぶだよ、ムンドゥングゥ。ぼくはずっときみのそばにいるから」
「ほんと? ぜったいぜったい、ほんとうに?」
ムンドゥングゥが目をかがやかせる。
「ああ、ほんとうだよ。ぜったいぜったい、ほんとうだ」
この先、どうなってしまうかなんて、だれにもわからないけど――
いまの言葉だけは、ほんとうだ。
「ねえ、ヨくん」
安心したのか、ムンドゥングゥがあまえた声をだす。
「ひとつおねがいがあるの」
うわめづかいにみつめてくる少女に、ぼくはうろたえてしまう。
「ぎゅーってして、いい?」
だきつきたいとき、いつもこうやってきいてくるのだ。
なによりぼくの心臓のために、いつもははぐらかすんだけど――
「いいよ」
罪ほろぼしをしたいような気持ちになって、うなずく。
ムンドゥングゥはおそるおそる、といったようすでぼくの背中に両手をまわした。
最初は、天使のようにかるく。
それから、息がくるしくなるほどきつく。
「ち、ちょっと、苦しいよ、ムンドゥングゥ」
「だって、まだ夢がさめてなかったらどうしようと思って」
ムンドゥングゥが、ぼくのシャツにうずめた顔をあげる。
あんまりつよく顔をおしつけすぎたのか、ほおにボタンのあとがついている。
ぼくは思わず苦笑してしまう。
そこぬけの無邪気さに、なんだかまた、からかいたいような気持ちになる。
「もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれないよ?」
「あら、それはないわ」
ムンドゥングゥはうけあってみせた。
「だって、ヨくんのにおいがするもの。夢の中ではにおいなんてしないでしょう?」
とつぜんのふいうちに、顔が熱くなっていくのがわかる。
「ムンドゥングゥ、ヨくん、晩ごはんができたわよ。冷めないうちに食べにいらっしゃい」
リビングから救いの声がかかる。
ぼくは顔を見られないように、たちあがった。
ムンドゥングゥは、すっと、手のひらをぼくにすべりこませてくる。
きっと愛らしいその顔には、いたずらな笑みが浮かんでいるのにちがいない。
ぼくの名前は予沈菜(ヨ・チャンジャ)。大陸うまれの日本人だ。
ワケあって、ムンドゥングゥの家にいそうろうをさせてもらっている。
グウーッ。
1ぱい目のごはんを食べたのにもかかわらず、ぼくのおなかが音をたてる。
くすくすと笑いだすムンドゥングゥ。
「育ちざかりですものね。好きなだけ食べていいのよ」
ためらうぼくの茶碗へ2はい目をよそってくれた美人は、ムンドゥングゥのお母さん。
ほとんどムンドゥングゥとかわらない年にみえる……と言ったらいいすぎだけど、すごくわかくみえるのはほんとうだ。
「そのとおり! 私がきみくらいのときは、どんぶりでかるく4はいは食べたものさ」
がっはっはっ、と豪快に笑いながらわりこんできたのが、ムンドゥングゥのお父さん。
あさ黒い健康そうな肌は、テニスのインストラクターをしているからだ。現役時代は、ずいぶんとならしたらしい。
ふたりともいそうろうのぼくに、ほんとうによくしてくれる。食卓ではなんとなくだまってしまうけど、それは気まずいってわけじゃない。幸せな家族の時間を、ぼくなんかが邪魔しちゃわるいような気になるからだ。
「む、どうした。すこしもごはんがへっていないじゃないか」
娘の茶碗をみとがめて、お父さんが心配そうに顔をちかづける。濃い眉毛のかたちがムンドゥングゥとそっくりで、ふきだしてしまう。
「うん、なんだか胸がいっぱいで、のどをとおらなくって」
「むかしから、この子は食がほそかったから」
手のひらをほおにあてるしぐさがかわいらしいお母さん。
「生まれたときもふつうよりちいさくって、小学校にあがるまでバナナをはんぶんしか食べられなかったのよ」
ぼくを見ながら、苦笑する。
たちまち、ムンドゥングゥがまっかになった。
「もう、お母さん! ヨくんの前でそんなこと言わないでよ!」
お父さんとお母さんが、ほう、と声をあげた。そしてふたりで顔をみあわせて、意味深な目くばせをする。
「あー、母さん。ヨくんの茶碗がもうあいているじゃないか。山もりにしてあげなさい、山もりに」
「はいはい」
お母さんがふくみ笑いを隠しながら、炊飯器をあける。
「あら、やだ」
両手をほおにあてるしぐさが、妙にかわいらしい。
「白いごはんがもうないわ」
「なんだ、もっと炊いておかなかったのかい?」
「ほら、うちはムンドゥングゥひとりでしょう? 十代の男の子がどのくらい食べるのか見当がつかなくって」
「そいつは困ったな」
心の底から困ったという表情で、腕組みをするお父さん。筋肉がもりあがっている。テニスのインストラクターというよりは、重量上げの選手みたいだ。
「いいわ、ヨくん、あたしのをあげる。だってきょうはもう食べられそうにないから」
茶碗をさしだすムンドゥングゥ。
「あげるって……半分も食べてないじゃないか。もうすこし食べなよ。のこったときに、もらってあげるからさ」
ぼくの言葉に、ふるふると首をふる。
「ううん、もうきょうはごはんがはいる場所がないの」
手のひらで胸をおさえながら、ほほえんだ。
「だって、しあわせで胸がいっぱいなんですもの」
なんのくもりもない、とびきりの笑顔。
ぼくはまたしてもふいをつかれ、ごはんをうけとってしまう。
「なんだ、しあわせで食べられないなら、この家じゃ、飢え死にするしかないぞ」
がっはっはっ、とお父さんが笑う。
「じゃあ、ムンドゥングゥがすこしでも食べてくれるように、おこづかいをへらしましょうか」
おっとりと、お母さんが加勢する。
「もうっ、またふたりでからかってるでしょ!」
にぎやかな家族のやりとりを聞きながら、ぼくはなんだかみちたりた気分でごはんを口にはこぶ。
あ。
これもやっぱり、間接キスになるのかな?
「ちょっと仕事をもちかえってるんだ。顧客のリストを明日までにしあげなくちゃならない。おそくなると思うから、母さんも先に寝てていいぞ」
早々に食事をきりあげると、エクセルは苦手なんだよと頭をかきながら、お父さんは二階のじぶんの部屋へひきあげてしまった。
テーブルにはムンドゥングゥの焼いたパウンドケーキが、半円だけのこっている。
ずず、と日本茶をすする。濃いめに煎れるのが、この家の流儀みたいだ。
どうやら、すこし食べすぎてしまったらしい。ときどきこみあげるおくびに、食べものがまじってる気がする。
からだはすっかり重いが、気分は上々だ。ソファに身をあずけながら、やくたいもないテレビ番組をながめるのも、これはこれでわるくない。
とくに、かわいい女の子といっしょならね。
ムンドゥングゥがぼくのおなかを枕がわりにして、横になっている。クジラがぐるぐるまわる音がするよ、とつぶやきながら、目はとろんとしている。
ときどき、かくっと首がおちて、いまにもねむりそうだ。ねむったムンドゥングゥをベッドにつれていくのが、最近ではぼくの日課のようになっている。
いとしさにたまらなくなって、そっと、ちいさな頭に手をおこうとしたそのとき――
ドーン。
天井から大きな音がした。
おどろいたムンドゥングゥが、猫のようにはねおきる。
ドーン。またひとつ。
そして、しずかになった。
顔をみあわせるぼくとムンドゥングゥ。
耳をすませると、ぎしぎしという音とともに、天井から細かなほこりが落ちてくるのがわかる。
「お父さんの部屋だわ」
言うがはやいか、ムンドゥングゥはかけだしていた。
お父さんのことが心配なんだろう。なんて親孝行な娘なんだ。
思わず感動して、うんうんとうなずいてしまう。
が。
ぼくは事態を思いだすとはっとして、あわててあとを追った。
「お父さん、あたしよ、ここを開けて!」
ちいさなこぶしをふりあげて、ムンドゥングゥが扉をたたく。
涙をいっぱいにためて、階段をあがってきたぼくにすがりついてくる。
「たいへん、お父さん、くるしそう。どうしよう」
扉に耳をあてると、たしかに苦しそうなうめき声がする。
ドアノブをまわそうとするが、内側からロックされているらしい。
「すこしはなれていて」
ドカッ。
ムンドゥングゥをさがらせると、扉にキックする。
足はじーんとしびれるが、びくともしない。
さらに大きく助走をつけ、2発目のキックをおみまいする。
ドカッ。
「は……づッ……」
全身の骨が軋み、砕ける音。
灼けるような塊が喉めがけて駆け上がる。
やはり、僕では無理なのか。失望より先に浮かぶのは、自嘲。
はは、最後の最後まで、ダメなヤツだ。いつだってオマエは途中で諦めちまう。
そして、途切れゆく意識の中で浮かぶのは――
儚げな、ムンドゥングゥの横顔。
右手を壁面に喰い込ませ、爪の剥げる痛みに我を踏み止まらせる。
ゴクリ。僕は味蕾を浸す熱した海水を飲み下した。
まだだ、まだだ。
いま、ここで倒れたら――
誰がムンドゥングゥを助けられるっていうんだ!
オマエはこんなものか! 弱い自分を叱咤する。
俺は知ってるぜ、オマエはこんな程度じゃないはずだろ?
力を出せ!
力を出せッ!!
枯れた井戸の底が割れ、奔流の如くエネルギーが吹き上がるイメージ。
精度を上げる視界。およそ、人の視力では有り得ない程の――
扉の木目に沿って、黄金の光線が走る。
僕はすでに、“それ”が粉々に爆ぜる未来を“知って”いた。
一度は砕けたはずの右足に、再びパワーが漲ってゆくのがわかる。
確信という名のボルテージは、いまや最高潮だ。
そして、3発目のキック。
ズボアァッ。
それは名称を同じうするだけの、全く別次元の技と化していた。
バリバリバリ。
音の壁を遥か置き去りにする速度。
金剛石を粉砕せしめる莫大な威力。
がつッ。
なんと、扉は健在。
だが、技の威力も減衰していない。
「当てがはずれたな! 悪いが、俺のキックの半減期は二万四千年だぜ!」
僕は頭の中だけで考え、実際言ったことにした。
その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
最初の衝撃波は堪らず水平方向へ逃げ、中規模な地震の如く家屋を揺籃せしめる。
やがて扉の硬度と技の威力が同等のエネルギー波として干渉し合い、傍目には完全な均衡を生じる。
だが、分子レベルの振動は静電気を生じさせ、それはやがて複数のボール・ライトニングと化して扉と僕を取り囲んだ。
正に、天然の要害。ここからは鼠一匹、逃げられない。
「小癪な童め!」
僕は自分で言って、扉が言ったことにした。
その方が気分が盛り上がって、遥かにパワーが増す気がするからだ。
僕はニヤリと嗤う。
「さて――もう暫くだけお付き合い願いますよ」
こうなりゃ、もう技は関係ない。相手さえ関係ない。
肉体と魂の全てを盆に乗せて、神サマに裁定してもらうだけだ。
俺と扉――
どっちが上?!
「うおおおおーッ!」
メリメリメリ、ズドーン!
予想に反して、ちょうつがいだけがふきとんだ。
廊下に女の子座りで雑誌を読んでいたムンドゥングゥが、顔をあげる。
「お父さん、しっかりして!」
倒れた扉をふみつけに、部屋へとびこんでゆく。あとを追うぼく。
「きゃあ!」
そこには、しんじられない光景――
お尻をまるだしにしたお父さんが、ベッドで茶髪の女の子にのしかかっていたのだ。
ちいさくふるえるムンドゥングゥを、まもるようにだきかかえる。
ぼくはふたりをキッとにらみつけた。
お父さんはおどろいた顔で、こまかく腰をうごかしている。
女の子はといえば、まだらに茶色くなった髪の毛に、よれよれの制服。まるで野良犬みたいだ。
お父さんのうごきにあわせて茶色い髪をばさばさとゆらしながら、めるめるとメールをしている。
「あなた、いったいこれはどういうことなの!」
げ、まずい。
うしろには、まっさおになったお母さんがママレモンの泡もおとさずに立っていた。
わなわなとふるえ、手にもったお皿がまっぷたつに割れる。
「ちかごろ、すっかりごぶさたと思ったら、こういうことだったのね! わたしをだましていたのね!」
「ち、ちがう、それは誤解だ」
さすがに、腰のうごきをとめるお父さん。
「誤解も六階もないわ。もう、りこんよ! りこんよ……」
エプロンに顔をうずめながら、お母さんは背をむける。
「待つんだ、グィネヴィア」
声のトーンが変わっている。
お母さんの肩がびくり、とふるえた。
「まだ、わたしをそう呼んでくれるのね、アーサー」
前をまるだしにしたまま、お父さんがベッドを降りる。
「どうかわかってほしい。わたしにとって、おまえは神聖すぎる誓いなんだ。あまりにも清らかで、わたしぐらいでは汚すことのかなわない。わたしの汚れを、おまえに注ぐなんて、おお、考えるだに恐ろしいことだ」
涙を流しながら、お母さんがひざまずく。
「ああ、ああ、あなた! 浅はかなわたしをゆるしてください! あなたの苦悩を知らず、毎晩を売女に注がせていたわたしの愚かさをゆるしてくださいますでしょうか? そして、お願いします、どうかわたしを抱いてください! わたしはあなたに高められこそすれ、汚されるだなんて思ったこともありませんわ!」
ふたりは熱烈に抱きしめあうと、みているぼくたちのほうが赤面するような口づけをかわした。
お父さん――いや、アーサーはグィネヴィアをかかえあげると、優しくベッドへ横たえた。
そう、まるでナイトがプリンセスにするように。
「ねえ、ふたりだけにしてあげましょう……」
ムンドゥングゥが微笑んだ。
なぜか、とてもさみしそうな微笑みだった。
「ほら、あなたもいっしょにいくのよ!」
そう言って、茶髪の女の子の手をひっぱる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
伝説の王と王妃は、千余年の流浪を経て、いまお互いの正統な持ち主の元へと還ったのだ。
剣が必ず、収まる鞘を持つように。
ぼりぼりと茶色い髪をかきまわしながら、女の子がごちる。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
聞こえないふりをした。
夜の戸外は、夏だというのに冷気をふくんでいて、ほてった身体に心地いい。
かすかに聞こえるのは、アーサーとグィネヴィアのむつみ声だろうか。
「そんなに走るとあぶないよ」
はしゃぐムンドゥングゥに声をかける。
「だって、夜のおさんぽなんて、ほんとうにひさしぶりなんですもの!」
スカートに風をはらませて、くるくると回転する。
「わたし夜ってだいすきだなあ。だって、もうあしたがはじまってるみたいで、なんだかワクワクするの。ヨくんは、そんなふうに考えたことない?」
ぼくはちょっと考えて、
「ないなあ。明日がこなければいいっておもうことは、むかしよくあったけど」
「ふーん、フコウだったんだ」
「どうかな。いや、幸せだったことがなかったから、不幸だってわからなかっただけ」
「あたしもフコウってよくわからなかったけど、いまはちょっとわかるかな」
後ろに手をくんだムンドゥングゥが、小石をけりあげるしぐさをする。
そして、とてもちいさな声で、
「ヨ君がいなくなったら、あたしはフコウになると思う」
聞こえた。
「え、なんて言ったの?」
でも、ぼくはいじわるに聞き返してみる。
みるみるまっかになるムンドゥングゥ。
不自然に視線をうろうろさせてから、
「あ、公園だわ!」
言うがはやいか、駆け出してゆく。ぼくはあわてて追いかける。
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
聞こえないふりをした。
公園の入り口で、ぼくは思わずたちどまる。
遠くからみるムンドゥングゥが、すごくきれいだったから。
茶髪の女の子がぼくの背中にぶつかってくる。ひじをつかって、邪険にふりはらう。
ムンドゥングゥは、ブランコのくさりに手をかけて、表情をゆるませる。
「ブランコって、ひさしぶり。ちょうど向こうに小学校があって、子どものころは帰りによく乗ったんだけど」
手についた赤さびに鼻をちかづける。
「そう、このにおい。鉄のにおい。なつかしい……ねえ、ちょっとすわっていかない?」
ふたりの女の子にはさまれて、ぼくは真ん中のブランコに腰かける。すこしきつい。
でも、ムンドゥングゥにはちょうどいいみたいだ。
「あたしってば、あんまり成長してないのね」
深夜の公園で、ブランコに腰かける3人。はた目には、いったいどんな関係にみえるのだろう。
遠くの外灯にはセミやかぶと虫がかんちがいをして、ぶんぶんととびまわっていた。
しばしの沈黙のあと、ムンドゥングゥが話しはじめる。
「あたし、ひとりっ子じゃない? お父さんとお母さんはとってもだいじにしてくれたけど、ずっとふたりのあいだには入れないような気がしてたなあ」
ぼくはなにも言わずに、さびしげな横顔をみまもる。
「学校の友だちでも、3人いるといつのまにか、なんかひとりあまっちゃうでしょ。あんな感じ。お父さんとお母さんが結婚して、あたしが生まれたんだから、あたりまえなんだけど、なんだかあたしだけ遅れてきたみたいに思ってた。――おたふく風邪で4月に1週間くらい休んだことがあって、クラスにもどったらみんな仲良くなっちゃってて。ぽつんとひとり座ってたら、お弁当のときとか呼んでくれるんだけど、みんなが楽しそうにしてるのを見てると、もう遅れたぶんはぜったいとりもどせないんだなあ、って――わかんないよね」
下を向いて、はにかんだように微笑む。
こんなに長く、ムンドゥングゥが自分のことを話すのをはじめてきいた気がする。
「わかるよ」
「ほんと?」
ぱっと顔を上げると、まるで花がさいたようだ。
「それとも、同情してる?」
「ぼくは4月に、水ぼうそうで休んだ」
鈴のようにころころと笑いだすムンドゥングゥ。よかった。
となりでは茶髪の女の子がくわえタバコで、カチカチとメールしている。
視線に気づいたのか、顔をあげると、
「ねー、あちし、まだおカネ……ぐほッ」
みぞおちに肘を突きこみ、吸いさしのタバコをとりあげる。これは間接キスじゃないな。
肺いっぱいに煙を吸いこむ。にがい。
「いけないんだ、不良みたいなことして」
あんまりきれいな告白に、ぼくは自分を汚したいような気持ちになったのだ。
アーサーの言葉が、よくわかる。
「わたしねえ」
ちいさくブランコをこぎながら、ムンドゥングゥがいう。
「ヨくんがいっしょにいてくれるとね、がんばろうって思えるの。もちろん、身長とか、胸がちいさいこととか、がんばってもダメなことはあるけど、がんばったら変えられるところは、がんばろうって」
ほっそりとした足がまげのばしされるたび、ブランコは大きくゆれうごく。
「だれかのことを考えたとき、ひとりのときよりも力がでるって、すごいことだよね」
ぼくをほんろうするように、声が前と後ろからきこえる。
それはぼくも同じだよ。
思ったけれど、声にはださなかった。なんだかこわいような気がしたから。
「あーっ!」
突然すっとんきょうな声をあげて、ブランコをとびおりるムンドゥングゥ。
声の大きさよりも、ころばずにひらりと着地したことへおどろくぼく。
「わたし、すっごいことに気がついちゃった!」
一筋の月光が、ムンドゥングゥの額から顔に流れる。
紅潮したほおは、夜の底でかがやく星のようだ。
ぼくはなんだか泣きたいような気持ちになって、やさしくたずねる。
「なにに、気がついたの?」
「あのね、お父さんとお母さんも、はじめは他人どうしだったんだよ!」
言いたいことがわからない。
ムンドゥングゥはおかまいなしで、興奮のきわみ、といったかんじで手をふりまわして力説する。
「だからね、家族って、他人どうしが作るものなんだよ。だからね、わたしたちが家族になっても、ぜんぜんふしぎじゃないんだよ! これって、すごい発見よね! カクメイテキだよね!」
ずきり。
痛ましいような想いが胸にささる。ムンドゥングゥは何もわかっていないのだ。
革命っていうのは、これまでにあるぜんぶを捨てること。たとえば、ぼくが大陸に捨ててきたぜんぶを、 ムンドゥングゥは知らない。
いずれこの世界の悪にであったとき、ムンドゥングゥの純粋さは手ひどく傷つけられてしまうのではないだろうか。あまりにも信じすぎるこの純粋さは、いつかムンドゥングゥを殺してはしまわないだろうか。
――だから、おまえがいるんだろ?
ぼくはおどろいて、あたりをみまわす。
――そのために、いたみ、くるしみ、よごれてきたんだ。
それは、天からふってきたような言葉だった。
なのに、ぼくの胸の真ん中へ、すとんと落ちた。
「こらっ! こんなおそくに子どもがなにやってんだい!」
ぼくたちは、いっせいにふりかえる。
公園の入り口で、むらさき色のパーマをかけたおばさんがぼくたちをにらみつけていた。
ピンクのネグリジェを着て、手にはなんと金属バットがにぎられている。
「たいへん!」
ムンドゥングゥが大きく目をみひらいて、両手を口にあてる。
「逃げましょう!」
言うがはやいか、駆けだしている。ぼくはあわてて追いかける。
ぼくの人生の先を素足でかけていく少女。
どちらがどちらをみちびいているのか。
もしもころんだら、そのときは優しく抱きしめてあげよう。
ぼくは少女のナイト。
このいのちは、すでにプリンセスへささげられている――
「このへんで民生委員やってるマスオカってんだけどね。アンタ、変わってるね。逃げないのかい?」
「ねー、あちし、まだおカネもらってないんだけど」
全裸に襦袢だけをひっかけた遊女が、抜き身を片手に猛然とコミュニティ方面へ走っていく。
「ご乱心、ご乱心ーッ!」
「(男の声で)儂をこうしたのは誰じゃ、儂をこうしたのは誰じゃ」
サウスパーク無修正映画版
サントラCDまで買った。エンディングテーマの作詞・作曲メソッドに、「リライト版少女保護特区(5)」は強い影響を受けています。
――今日のゲストは、女優の小鳥尻ゲイカさんです。
小鳥尻(以下、尻):(仏頂面で)どもー。
――さっそくですが、今回なぜあのような更新をなさったのですか? そこに至る心理状況といいますか、経緯をお聞かせ願えますでしょうか?
尻:(そっぽを向いて)別に……。
――何か、昔からのファンへの裏切りだとか、そういう声も聞かれますが……
尻:(激昂して)ウルセエよ! うちあわせと内容がちがうじゃねえか! そのことには触れないんじゃなかったのかよ! オイ、カメラとめろ!
――落ち着いてください、生放送中ですから。ファンへの謝罪の言葉はないのですか?
尻:なま……(小声で)ちくしょう、いつもアタシをそうやって罠にハメやがんだ……(沈黙。ふるえる手で前髪をかきあげながら)オタどもの喜ぶようなものを書こうと思ったんだよ。奇抜な名前で精神遅滞のガキがする情緒たっぷりの世迷言や、神話の世界観を借用した奥行きのゾッとするような遠浅ぶりや、自動化された物語のする白痴的精神愛撫をオタどもにブチこんでやりたかったんだよ!(無理に笑い声をたてる)
――ごうごうたる非難を聞けば、その試みは少なくとも成功したとは言えないと思いますが?
尻:(びくり、と身体をふるわせて)も、萌えやら、ね、熱血やら、オマエらがオッ立つ要素はなんでも入ってんだろがよ! ぜんぶタダで読んどいて文句言うなんてよ、不法侵入の上で狼藉・乱暴しながら戸締りについて説教する強盗と変わらねえよ! ちがうかよ!
――(さえぎって)読者の方から一通のメッセージが届いていますので、読みあげさせていただきたいと思います。『私たちが変わってしまっても、貴方だけは変わらないでと、そう思うのは私たちのエゴなのでしょうか』。いかがですか? 真摯なファンの姿勢に、少しでも反省の気持ちは生まれませんか?
尻:ケッ、ソープに沈んだ昔のオンナにかけるブンケイの寝言じゃねえか。テメエが身請けしてやらねえから、生活のために仕方なくお客とってンだろ? それ、「ぼくには経済力がなく、そしてきみには処女膜がない」って意味でしょオ? ちがうのオ?(馬鹿笑いする)
画面の外でサングラスの男が「もっと挑発して」と書かれたカンペを掲げる。目の端でそれを見るインタビュアー。
――では、私の感想を述べさせてもらいますと、しかし重度の萌え不自由でしたね(笑)。
尻:(頭髪の薄い男があの単語を言われたように、顔面を硬直させる。何か言おうとして、泣き出す)ひっく、ひっく……ひどいじゃないの……わかっててアタシにそれを言うなんて……なにさ、かってにキレキャラみたいにあつかってさ……きょうだって、アタシがあばれだすのをみんなニヤニヤしながら待ってんでしょう? アタシ、女優なのよ……ネット界のおさわがせである前に、女優なの。でも、いまじゃ女優だからキレるのをゆるしてもらってるんじゃなくて、キレるから女優をやらせてもらってるみたい……こんなのって、ないわ……ないわよ……(両手に顔をうずめると、すすり泣く)」
インタビュアー、当惑してサングラスの男を見る。サングラスの男、身体の前で両腕をクロスさせながら、口パクで「つかえない」と言う。
――小鳥尻さん、ご自分で招いた結果です。泣いたってしょうがないでしょう。ほら、これ使って。
尻:ありがと……(ティッシュで鼻をかむ)バカだね、アタシ。オンナが泣くのって、サイテーだね。なんだか、ゆるしてくれって甘えてるみたいでさ……。
――落ち着かれましたか? みなさん、小鳥尻さんの言葉を待ってますよ。
尻:(前髪をかきあげる。鼻の頭が真っ赤である)あー、なんか、昔のこと思い出しちゃったわ。中学のときさ、ちょっとからかうと、ムキになってキモい反応するデブがクラスにいてさあ。イジメ、だったのかな、あれ。みんな、ソイツになら、なに言ってもいいってフンイキだったワケ。んでさ、国語の時間にウザいセンセーがさ、クラスの前で作文とか読ませんのよ。はは、ムナゲってあだ名だったわ、そういや。中身は忘れたけど、将来の夢とか希望とか、きっとそういう漠然と前向きなヤツ。みんなジブンの番が心配だからさ、まばらな拍手とか、ユルい冷やかしとかに終始すんの。もっと正直に意見を交換していいんだぞって、ムナゲがさ。公立だったし、ただ同じ地元だってだけで集まってる連中が、おたがいに深いとこまで通じるハナシなんて、そもそもできっこないじゃん。オカマバーにノンケをつれてってゲイの話をさせるって例えなら、だれだってムリだってわかんのにサ。でもまあ、ガッコってそういうトコだしね。でさ、毎時間、何人かずつ発表してってさ、ついにソイツの番になったワケ。ナニしゃべってたのかは忘れたけど、その日はみんなでしめしあわせてさ、黙って下向いてたの。クラス全員で。発表が終わっても顔あげずに、ただヒジでつつきあったり、クスクス笑ったり。そんで、これは一番うしろに座ってたアタシの役目だったんだけど、頃合いにとびきり大きなため息をついたわけ。ハーッ、って。そしたらさあ、ソイツ、いままでになかったくらい、ものスゴイ逆上しちゃってさあ。教卓を蹴りたおして、アタシのほうめがけて突進してくんの。さいわい、他の男子がとりおさえたけど、まえに座ってた女の子がひとり、倒れた教卓でおデコをケガしちゃってさ。結局、ソイツひとりだけ停学くらうことになるワケ。なんであんな怒ったんだろ。あれは、あと味わるかったわ……(内側へ沈み込むように、小声で)なんであんなに、怒ったんだろ……」
サングラスの男、空中をチョップする真似をしながら、口パクで「切って切って」と言う。インタビュアー、細かくうなずく。
――(わざとらしく腕時計に目を落としながら)えー、時間も残りわずかとなってきたようです。最後にファンへ一言だけ、お願いできますか?
尻:(聞こえていない様子で、ひとり言のように)アタシさあ、前にダンナに不倫されて殺すとこまでいっちゃう役やったことあんだけど、最近なんかそのことばっか考えるっていうか、すごいよくわかんだわ。内助の功ってえの? 影で支えてたダンナがさ、どんどん社会的に立派になってってさ、気がついたら築いた地位を利用して別の若いオンナつれてんの。当時は、なにこのうすっぺらなハナシって思ってたけど、いまは想像するだけで目の前が真っ赤になる感じがする。日の当たらない場所で耐えてきたアタシはどうなんのって。アンタは表の顔だけして生きてるけど、アタシがアンタの下着まで洗ってんだって。アタシがアンタの汚い部分をぜんぶ引き受けてきたから、いまのアンタのきれいな成功があるんだろって。だから、nWoの閉鎖が決まったりしたらアタシ――(臍を噛んで、三白眼で)きっと殺すと思うな……」
サングラスの男が台本を放り投げると、スタッフが撤収を始める。セットから順番に照明が落ち始める。インタビュアー、ソファへぐったりと身体を投げ出す。
――(興味を失った様子で)だいじょうぶですよ、たぶん、どうでも。
尻:(険のとれた表情で)あー、泣いて愚痴ったらスッキリした。なんだって出すとスッキリするのは、動物らしくてイイね。(立ち上がり)ゲイカ、次からはいつもどおりがんばります。みんな、心配かけてゴメンナサイ、てへっ(頭を下げ、舌を出す)。
――(失笑して)がんばるって、萌えを、ですか?
尻:(瞬間的に血涙が吹く)ブワッハッハーのハー!! けっきょく、アンタたちはアタシのこれが見たいだけなんだね!!
小鳥尻、インタビュアーの胸ぐらをつかむと、ともえ投げに投げ捨てる。テレビカメラは激突したインタビュアーごと倒壊し、画面は大音響とともに横倒しになる。サングラスの男、小さくガッツポーズをとると、スタッフに指示を出す。セットに照明がもどる。しらけた雰囲気から一変、にわかに活況を呈する現場。
お茶の間のテレビ画面。ガラスのテーブルにヒールで仁王立ちになり、何事かを宙空に向けて絶叫している小鳥尻ゲイカの口から、炎のCGエフェクトが発している。かぶせるように、怪獣の鳴き声。流れる血涙は、水色に塗りかえられている。BGMにはドリフのコントでオチに用いられる、例のスラップスティックな曲が流れている。大爆笑のお茶の間。
「ああ、よかった! メンタルヘルスみたいな告白を始めたときにはどうなるかと思ってドキドキしたけど、やっぱりゲイカ様ね! いつだって最後の最後には、私たちの期待どおりまとめてくれるわ!」
「(あからさまに戯画的な白人が流暢な日本語で、しかし英単語だけは極めて英語的な発音で)おっと、そこの君! そうそう、顔の造作に問題がないとは誰にも断言できない、ふくよかな脂肪の、そこの君のことだよ! もしかして、nWoがまた、死なない程度のヘルシー・リストカット、予定調和の大暴れで、従来の自閉路線に戻ったと安心してるんじゃないのかな? ノンノン、nWoの未来はいまだにたゆたっている……(雑木林が風になびくときのような擬音)。このウェブ2.0時代にいつまでも昔ながらのテキストサイト的運営じゃ、(そうでないことを確信する口調で)取り残されてしまうからね! 今回、nWoは来訪者のみんなへ向けたアンケートを実施することにしたよ! ホームページはインタラクティブ性が重要だからね、LDゲームのようなね! もちろんキミの匿名は完全に守られるので、「こんな下品なのが好きなんて、私ってやっぱりエッチなのかな?」と性に臆病な女性読者もひと安心だ! nWoの今後の方向性について、忌憚のない意見を聞かせてくれたまえ! なんの権威による裏づけもない、こんな場末の泡沫サイト、どっちに転んだところで人類は滅亡しないって寸法さ(腹を抱えて爆笑する)! (目尻の涙をぬぐいながら、真顔で)アンケート回答者が規定数に達しない場合は、ノーコンテスト。(暗い声で)そのときは、閉鎖します」
サンキュー・フォー・スモーキング
タバコ会社の広報マンの話で、舞台はアメリカ。この設定だけでニヤニヤが止まらないが、脚本も期待通り素晴らしい。タバコが主題なのに、喫煙シーンを一度も映さない点もお見事。大当たり。必見です。
アフロ・ヘアーの男が猛然とピッチをかけあがる。両目の下には陽光の反射をふせぐためか、黒い塗料が塗られている。アフロ、華麗なドリブルで浅黒い肌の選手を二人抜き去り、パスを出す。
ピッチの反対側、アニメプリントのTシャツを着た巨漢がフーフーとカンにさわる呼吸音を漏らしながら走りこむ。腹部にある脂肪の盛り上がりの裏側から、豚足をかろうじて飛来するボールの落下地点へ差し入れ、ワン・ツー・リターンを完成させる。直後、盛大にスッ転ぶアニメプリント。
ふらふらとゴール前に高くあがったボールはそのままラインを割るかと思われたが、アフロ、身長の三倍ほどの高さを跳躍するスローモーションの背面宙返りでコマ送りのボールを逆さ蹴りにする。インパクトの瞬間の静止画からカメラはボールを回りこむように追い、ゴール隅に吸い込まれるのを映す。ネットに包まれてなおしばらく回転を続けた後、ピッチへ落ちたボールからは摩擦熱による煙が上がっている。
呼吸をひとつにしたスタジアムの観客が、いっせいに息を吸い込む瞬間の静寂と、それに続く爆発するような歓声。
「ゴォール! 小鳥猊下Vゴォォーール!」
絶叫するアナウンサー。
自陣で膝の関節を従来とは反対の方向に曲げたまま倒れているイガグリ頭の青年が、両腕で上体を起こして、
「へへッ! やっぱりアイツは別格だ……必ず決めてくれると思ってたぜ!」
イガグリ頭、うッとうめくと再びピッチに身を横たえる。
地面をこぶしで打ってくやしがる浅黒い肌のゴールキーパー。
「ありえないッ……ヤツの萌えは不自由じゃなかったのか! まさか、まさかこんな土壇場で合わせてくるなんて……おたくたちの趣味嗜好に……ッ!」
ユニフォームを脱ぎ、ピッチの中央でもみくちゃにされるアフロの男を見ながら、監督風のアジア人が背広姿で腕組みをしている。その目に光る涙。「滝沢健二は思い出していた」の一節で始まるモノローグが流れはじめたところで、アフロ、アフロのカツラをむしりとる。まとわりつく選手を振り払い大声で、
「おい、もうやめだ。おまえら全員帰れ」
スタッフらしき一人が拡声器で、
「どうも今日はおつかれさまでしたー。バイト代と交通費は後日ご指定の口座に振り込ませていただきますんでー。気をつけておかえりくださいー」
オー、という低い落胆の声がピッチと観客席を満たすが、元・アフロの男があぐらをかいて座り込み、考えを変えないようなのを見ると、三々五々、帰りはじめる。
誰もいなくなったスタジアムの中央に、ぽつんと残される男。スタッフらしき一人が全員が帰った旨を伝えるのに、振り返りもせず片手で追い払うしぐさをする。
やがて夜のとばりが降り、誰もいないスタジアムに照明が点る。男の影があらゆる方向へ放射状にのびる。
「もう、金にならない大がかりはやめだ。どいつもこいつも、なんでアンケートに答えようとしないんだ……なんで……」
男、両手に顔をうずめる。人気のないスタジアムには、男へ手を差しのべる者は誰もいない。上空を渡る風の音が、与えられた唯一のいらえであった。
「辛いんだよ……『集まった親族一同に取り囲まれ年かさの孫のすすり泣きと年若い曾孫のあどけない質問とが交錯する厳粛な空気の中もはや虫の息で起き上がるはずのない祖父が突然ハネ起き下半身の局所を死後硬直ではない方で硬直させ“デリバリー・ヘルス! デリバリー・ヘルス!”と叫びだした』のを見るような、周囲の視線が辛いんだ……」