猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

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映画「オッペンハイマー」感想

 大量虐殺を受けた側の部族の末裔として、もはや義務感から「見なきゃな……」と思いつつも、3時間にもおよぶ長丁場に二の足を踏みまくっていたのが、いよいよ近隣のハコではIMAXから上映を追いだされ、終映間近(マジか!)の気配がただよってきたため、イヤイヤ劇場へ向かうこととなった。この億劫さがどこから来ているのかと問われれば、小学生時分の夏休みに近所の生協の薄暗い2階会議室に集められ、なぜかあずきバーをわたされてから視聴した劇場アニメ「はだしのゲン」に由来するものであろう。腕の皮がベロベロになって垂れ下がる様子とか、とびでた眼球が視神経を引っぱりだす様子とか、インターネットの無い時代に行われる手加減なしのハードコア平和学習に、しばらくはソーメンが食えなくなったし、あずきの味はいまだに好きではない。公開初日にIMAXを利用する意識の高い客はもう軒並み履修を終えており、日曜の昼さがりにノーマルシアターへ足をはこぶような「民放で話題だったから」「原爆で戦争反対だから」ぐらいの感度しかないボンクラどもに囲まれながらの視聴は、最悪の4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーー体験だったと言えよう。この映画は、オッペンハイマーを公職追放へといたらせる聴聞会をストーリーの柱として、何度も過去と現在をザッピングで行き来する三幕構成になっており、ノーラン監督による編集の妙技で混乱なくスッキリと見れるのだが、「戦争は反対です。なぜって、戦争は反対だからです」a.k.a.ショウワ・エラ・レフトウイングスにはどうも難解すぎたらしく、隣のジイさんは眠気を覚ますためか何度も左右へ大きな身じろぎをくりかえし、斜め前方のバアさんはアナーキーなヘッドバンキングから盛大にイビキをかきだす始末で、客の民度だけはまさに弩級(ドキュン、のルビ)の4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーークラスになっていて、「話題作は”必ず”公開初週にIMAXで見ること」という個人的ないましめをあらたにした次第である。

 気をとりなおして、周囲の状況を遮断しながら映画の内容へふれていきますと、第1幕では若き日のオッペンハイマーの遍歴からロスアラモス建設までが描かれており、マンジット・クマールの「量子革命」が面白すぎて、たて続けに2周読んだだけの知識を持つ物理学の徒(笑)は、アインシュタインを筆頭に、ボーアとかフェルミとかハイゼンベルク(ブレイキングバッド!)とか、カメオ的な「ご冗談」のように何度もカメラに抜かれるヤング・ファインマンさんとか、綺羅星のごとき物理学界のスーパースターたちが次々と登場するのに、ペンラやウチワをかかげてのプッシー(推し、の意)活動にいそしむオタクもかくやという恍惚状態でおりました。第2幕はロスアラモスにおける研究の日々と、原爆投下地の選定からトリニティ実験の顛末までがスリリングに描かれ、「京都は新婚旅行で行ったことがあるけど、いい場所だったから候補から外そう」みたいな軽い感じで白人トップが土人の生殺与奪を決める内幕とか、新劇序のラミエル戦を彷彿とさせる暗闇に浮かびあがった幻想的な鉄塔や誘導灯とか、実験の成功に狂喜してボンゴを叩きまくるファインマンさんとか、星条旗をバックに歓呼を受けて微笑むオッペンハイマーとか、もし貴方が被ジェノサイド側に属する極東スー族の子孫でなければ、エヴァンゲリオン的に楽しく見れること受けあいでしょう。印象に残ったのは、「原爆の核融合が大気の分子と連鎖反応を起こして、星ごと破壊する(セフィロスみてえ)可能性」という最悪のシナリオを打ち消せないまま、ただただ実験の成否を見たいがために計画を強行する、科学者の持つ宿業です。もはや引きかえせない段階になってから、オッペンハイマーが軍の責任者に「ニア・ゼロ」と言うときの卑屈さと傲慢さの入り混じった表情だけは、くやしいですが主演男優賞の名に値するものでした。

 しかしながら、そこから始まる「いったい、だれがオッペンハイマーを陥れたのか?」を描く第3幕は、端的に言ってエデンの東に住むスー族の末裔にとって盛大な蛇足になっていて、まあクソ長いったらありゃしない! 原爆2発を積載したトラックが研究所から遠ざかっていく場面を目にした段階で、もう間接的な当事者の亡霊たちは、あますところなく「私たちは、いかにして殺害されたのか?」を追体験できたため、心情的には成仏レベルの満足を得てしまっているわけです。「原爆の父」がアメ公(アメリカの公共、の意)にどう評価されようと、それはすべて我々にとって後づけの言い訳であり、ほんのわずかさえも聞きたくありません。やがて来る本邦の地上波では、トラックのシーンから湖畔で交わされる2大物理学者の対話までスッとばしてつなげて2時間にした再編集版を放送すべきだと、強く進言しておきましょう。作中の現在にもどって語られる第3幕の存在は、テーマを複線化させるだけでとっちらかった印象をしか与えておらず、このパートさえなければ、卑しいアイアンマン芸人ーー職業差別はいけませんね!ーーは助演男優賞を得られないままで、ボクらのジャッキー・チェン(の、ソックリさん)もきらびやかな舞台の上で、世界が衆人環視するさなかに濃厚なアジア人差別を浴びるというトラウマ体験をしなくてすんだでしょうに! それもこれも、ムンバイとかトーキョーの田吾作賞に甘んじさせておけばよいものを、ポリコレなる一過性の風潮が閃光弾となって審査員の目をくらまし、スピルバーグのレイトワークをガン無視した上で、ディルドーを両手に構えた小太りアジア娘がラスボスのマトリックス・パロディなんかに権威あるアカデミー賞の、しかも7冠をウッカリ与えてしまったことは、ハリウッド史上最大級の屈辱として白人社会へ深く静かに潜航していたのでしょう。今回のオッペンハイマー7冠受賞は、舞台上におけるあの凄惨なできごとを含めて、「言語化することもはばかれる、アジアの黄色いサルどもから受けた恥辱」をウランの爆風で吹きとばすがごとき、まさにアトミック・ボム級に胸のすくリベンジだったというわけです!

 爆風で思いだしましたけど、近年におけるノーラン監督の「CGをいっさい使わず、すべて実在のヒトとモノを撮影する」という信念が、人類最初の核爆発を目撃するシーンではアダになっている気がしました。まさか本物の原爆を使うわけにはいかないでしょうが、多感な幼少期の十数年にわたって毎年毎年アニメやら実写やらでキノコ雲を見せ続けられてきた、言わば世界有数の「アトミック目利き」にとって、本作のそれは大量のTNT火薬(おそらく16キロトン)を使っただけのフェイクにしか感じられないのです。長々とスクリーンに映しだされる大爆発の様子をながめがら、この胸に去来したのは「ダメだよ、オッピー。こんなキノコ雲じゃ、22万人も殺せない」という冷笑にも似た気分でした。4Dーー「ドアホ」「ダメ」「ドカタ」「ドジン」の頭文字ーーー劇場を去るさい、もっとも大きかった感情は、ひとりの科学者の好奇心に先祖を殺された無念ではなく、白人の無意識にひそむ人種差別への怒りーー独露に住まう白人の同胞とちがう、黄色人種が相手だったから投下を決断できたーーではさらになく、理論物理学が文字通り世界の趨勢に影響を与えていた、もっとも輝かしい時間はとうの昔に去り、1970年代以降はスーパーストリングスやマルチバースなどの、数学にだけ依拠する一大フィクションと化していった現実に対する、熱狂のステージが終幕したあとに無人のライブハウスを訪れた者が感じるだろう、一抹の寂しさでした。あと、視聴前はオッペンハイマーの名前をオッパッピーとかオッペン化粧品とか、クソミソに茶化してやろうと身がまえていたのですが、じっさいに呼ばれていた愛称である「オッピー」がオタクの想像力をはるかに越えた面白さだったため、泣く泣く断念したことを最後に告白しておきます。

映画「アステロイド・シティ」感想

 ブルーレイ版を買ったきり、「皿の上の好物は、最後まで残しておく」みたいな一種の精神疾患から、長く積んであったアステロイド・シティを、連休の隙間にようやく見る。なぜか小鳥猊下が、よりによってウェス・アンダーソン監督作品だけ、ザ・ロイヤル・テネンバウムズ以降、あまり内容を理解できていないにも関わらず、ぜんぶ見ていることは、すでに周知の事実かと思います。予告映像から事前に想像していたのは、アラモゴード近郊に建設された「原爆の町」における日常を描くストーリーで、オッペンハイマーをイヤイヤながら履修し終えたいまがちょうどいいタイミングだろうと再生を開始したのですが、悪い意味で期待を裏切られる結果となりました。「窓から身を乗りだして、キノコ雲のスナップ写真を撮る」という、ほんの数十秒のシーンだけが作品中における唯一のロスアラモス案件であり、アジアの悲惨をオシャンティに消費するその欧米仕草を目にした瞬間、脳の血液が沸騰するーーレフト村の同族殺しの抜け忍なのに、敵を前にしたときだけ、かつての記憶と両手に染みついた殺人術がよみがえるイメージーー感覚があり、これから記述する内容は「殺る気スイッチ」が入ったゆえの、一般性をいちじるしく欠いた放言かもしれないことを、あらかじめ公平を期すためにお伝えしておきます。

 ウェス・アンダーソン作品の持ち味って、非常にロジカルな部分と乾いたエモーショナルな部分が作中でずっとせめぎあいながら進行してゆき、最後にスクリーン上というよりは、観客の胸中で「エモが勝つ」ところだと思うんですよね。もう少し具体的に説明すると、カメラアングルと物語フレームがロジ要素で、色彩とシナリオがエモ要素になっている。本作においては徹頭徹尾、前者のエレメントが後者のそれを過半の分水嶺付近でまさり続けていて、同監督のファンが好む「なんか話はようわからんかったけど、ええもん見たような気がするわ」という読後感を、残念なことに大きく損なってしまっている気がしました。それもこれも、「隕石によるクレーター周辺に建設された核兵器の町へ、UFOに乗った宇宙人がやってくる(ネタバレ)」というストーリーラインが単純すぎると考えたのか、はたまたそれだけでは思ったほど面白くならなかったからなのか、おそらく追加撮影とパッチワーク的編集による「あとづけ」感の非常に強い、本来的には不要のメタ的な設定を導入したことが原因ではないかと推測します。「アステロイド・シティ」をかつて上演された演劇作品にみたてて、その制作秘話と舞台公演を行き来しながらストーリーを進めていくのですが、話の筋と客の理解がややこしくなるだけで、面白さの点はもちろん、ストーリーにいかなる深みも加えていないことは、大きな問題でしょう。

 演劇を意識した真横からの観客席アングルも徹底できておらず、UFOを真下から見上げてみたり、人物の表情をアップで写してみたり、「どっちつかずのふりきれていなさ」はとても気になりました。前作のフレンチ・ディスパッチにも感じたことながら、物語フレームの難解さが「難解になること」自体を目的としていて、謎解きによる収束や驚きの結末による構造からの解放をどうやら意図していない。個人的な体験を言えば、ダージリン急行のエンディングで持っていた荷物をトランクごとぜんぶ捨てて、汽車の最後尾にとびうつるスローモーションのシーンは、映画の内容すべてを忘れてさえ、非常に鮮烈なイメージとしていまだに脳裏へ焼きついていますもの! それが、本作のラストシーンで再登場する「タッパーウェアに納められた妻の遺灰」というあざといエモ小道具に対しては、意地悪く「こっちは熱線で蒸発して、壁のシミしか残せんかったけどなあ?」としか思わなかったのは、やはり題材と国籍と世代の食いあわせが最悪だったせいなのかもしれません。

 最後に白状しますが、ストーリーに入りこめなかった理由はもうひとつあって、「英語による高速かつ膨大な情報提示を、字幕ではフォローしきれない」という、主に個人的なリスニング力の欠如によるものです。もちろん翻訳担当が悪いのではなく、「機銃掃射みたいな高速ナレーションを聞きながら、文字のビッシリ詰まった看板から情報をスキミングする」ような状況に対応できる字幕なんて、この世には存在しないからです。まさに、シン・ゴジラが海外では流行らなかった理由を、別の視点から追体験させられているような状況なのでしょう(シドニィ・シェルダンかナツコ・トダによる「超訳」なら、あるいは……)。もしかすると、旧帝大卒の日英バイリンガルで平和教育のくびきから解かれた若い世代なら、アステロイド・シティをもっとも屈託なく知的に楽しめるのかもしれません、知らんけど。

ゲーム「ステラーブレイド」感想

 エッキス局所で話題のステラーブレイドを、連休を有効活用してプレイ。いやー、すごいよ、これ。またなにも調べないままテキトーにしゃべるけど、スペースハリアーの擬似3D表現からはじまった欲望がドゥームあたりを始祖とするFPSに引き継がれ、マリオ64の三人称カメラ革命によるジャンル超新星爆発で3Dゲーム繚乱の時代が幕を開け、時のオカリナ、フォールアウト3、ドラゴンエイジ・オリジンズ、アンチャーテッド2、スカイリム、デモンズソウル、ウィッチャー3(順不同)あたりが、その時々のマイルストーンだったように感じています。ステラーブレイドのすごいところは、それらすべてを参照した上で「ええとこどり」だけに徹して、オリジナル要素への色気をいっさいにおわせず、言わばサンプリングの手法のみでゲームシステムの根幹部分を作りあげていることです。おまけに世界観はまんまマトリックスで、ストーリーはまんまエイリアンだし、「我々が生まれる以前に、クリエイティブの鉱脈は掘りつくされて枯渇しており、オリジナル鋳造の技術も失われている以上、過去のジャンクを解体して取り出したパーツを使って、模造品を組みあげる他はない」という最後発ゆえの割り切りは、ものすさまじいレベルにまで達しています(個人的な愚痴ながら、シャレオツな極小の白いアイコンだけは、ミドルエイジの眼にとって視認性が最悪なので、改善してほしい……)。

 しかしながら、たったひとつだけ、凝縮された欲望の一点突破による生のオリジナリティが強烈な香辛料として、すでに名前のある郷土料理の皿にふりかけられていて、それはまず遠回しに言えば、「キャラクターメイキングの撤廃」だと指摘できるでしょう。近年の3Dゲームは、どれもキャラメイクのパラメータが膨大になっていて、それこそ骨格から頭蓋骨の凹凸までを調整していくようなレベルのもので、早く遊びたいイライラのうちに数時間を費やさされたあげく、”必ず”どこか自キャラへの不満を抱えたまま、モヤモヤした気持ちでプレイを開始するハメになるのは、みなさんもご経験がおありでしょう。ゲーム愛好家の過半数を越えるLGBTQF以外に属するアジア人たちの、声なき声を図々しくも代弁させていただくならば、「見た目のいい美少女で(と)遊びてえ」という身もフタも無い内容であり、アンケートフォームには恥ずかしくて記入できないその無意識の欲望(情)を、スティーブ・ジョブス的な慧眼ですくいあげたがゆえに、本作は世界的なスマッシュヒットになったのだと言えるでしょう。

 ここからが本題ですが、すなわちステラーブレイドの本質とは、あどけない10代半ばの美少女の顔(かんばせ)に、水平方向へ満々にふくらみきるも重力にはまだ負けていない20代半ばの乳房に、わずかに脂肪の乗りはじめた10代半ばの腹部とまだ骨ばった腰に、たっぷりと脂肪をたくわえた30代半ばの臀部とふとももに、軽量級のローキック1発でへし折れそうなふくらはぎと足首という「男の欲望まんぷくキメラ」しかメニューにない専門店であり、お品書きを見ながら店主になにか尋ねようと口を開きかけると、「お客サン、ダメヨ! ダメダメ! ウチはコレしかヤッてないアル! ダイジョーブ、コレが宇宙でイチバン美味しいダカラ! 調味料と生卵はテーブルにあるノ、好きなダケ使って味ヘンするイーヨ!」と大声でかぶせてくる感じ。少しでも料理を残したり、不満げな表情を見せたり、味の批評なんかはじめようものなら、顔を真ッ赤にして「ナニ、ナマ言ってるカ! ラバースーツの下でテカテカ・パンパンになったシリを、ロングポニーテールがシャラシャラなでまわス! ゲームの中でイチバン長いあいだながめる光景に、コレ以上のモノなんてないアルヨ!」と絶叫しながら、菜切り包丁を片手に厨房からとびだしてくる感じ(ほめてます)。

 文字通りの半世紀近くをゲームの歴史と伴走してきた、エコノミック音痴のドメスティック・ビジネス従事者にとって、何より「海外における本邦のプレゼンス低下」とやらをまざまざと実感するのは、こういった本来ならば我々が世に問わなければならない作品を、半島や大陸の若い世代に先回りで上梓されてしまったのを見るときです。本作の持つ偏執狂的なまでの、むせかえるようなフェティシズムとエロティシズムに対抗できるのは、近年の国産ゲームにおいてファイナルファンタジー7リバースのクラウドさんくらいしか思いつきません。あと、エスエヌエスの著名人(笑)たちがセクシャル要素に目くらましをくって、ゲーム部分を両手ばなしで激賞しているのをいくつか拝見し、「男って生き物、チョロいよな……」と思わず微苦笑してしまいました。「ステラーブレイド、スゴい! ハシゴを裏側からさわっても、自動的に表側へ回りこんでのぼってくれる!」ーーいやいや、それ、「美少女アバターもえくぼ」ですやん。おあとがよろしいようで。