猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

ザ・ボイシズ・オブ・ア・ディレッタント・オタク

 卓上に置かれたカセットレコーダー。
 突然、自動的にテープが回り始める。最初ただのノイズかとも思えた音は、二人の男のくぐもった話し声へと収束してゆく。
 「(なだめるように)わかった、わかった。15歳の少女がロボットに乗るという設定に蓋然性が薄いように思えるのは、俺が音楽屋で読解力に欠けるせいだからなんだよな。短気は押さえて、詳細を詰めていこうな。な?」
 「(すねた口調で)まったくその通りだよ。”ガ……”(我? 蛾? 何かの暗符と思われるが、詳細は不明)のだって、もっと若いヤツをロボットに乗せてたじゃん。全然おかしなことなんかないよ。(吐き捨てるように)プープカプープカ、ちんどん屋まがいの芸当しかできないくせに、ぼくのカッコいいアイデアに口を出すなよな。全然カッコ悪いよ」
 「(ひどく重い沈黙の数秒。つとめた明るい口調で再び始めようとするが、徐々に尻下がりに暗く)”人類の敵、火星人は主人公の搭乗する巨大ロボットと同じ大きさで……切ると赤い血を噴き出しま、す?” (故意に感情を空っぽにした調子で)なァ、火星人がなんで赤い血を吹くんだ?」
 「(何かを噛みながら)全部説明させて、全部陳腐にしちゃうんだ。君のそういう頭の悪いとこ、ぼくは嫌いだよ」
 「(凄みのある無感情で)俺はおまえの仕事の協力者であって、おまえの作品のいち視聴者ではないことを忘れるな。監督であるおまえが少しもコンセンサスを取ろうとしないから、こうしていま俺がおまえの目の前に座っているのを忘れるな」
 「(甲高く)そんなこと言っても、少しもこわくなんかないよ。(大きな音)ヒィッ! わかったから、机をたたくなよ。汚いよ、そういう脅すみたいなやり方。全然カッコ悪いよ」
 「(淡々と、棒読み調で)なんで、火星人が赤い血を吹くんですか」
 「(すねた口調で)ヒロインの15歳の少女の、初潮と、月経と、破瓜を代理してるんだよ。クラスで一番遅い、始まってない子でも、そろそろ始まっちゃうころだろ? だから、火星人の流血に代理させて、少女の初潮を先送りにさせてるんだ。いいだろ、これで。満足したろ」
 「(間。抑制された感情の底流をうかがわせる声音で)なんで、火星人が初潮を代理する必要があるんですか」
 「(心底意外なことを聞いたという口調で)ばッ、なに言ってんだよ、決まってるだろ! 初潮し、月経し、破瓜するということは、孕むかもしれないってことでしょ! 孕むってことは、男女の攻守が逆転するってことでしょ! ぼくは、精神的には圧倒的・絶対的に依存してくるけど、肉体的にはこのイヤな世界から盾となってぼくを守ってくれる、そんな初潮前の少女だけが欲しいんだよ! (吐き捨てるように)だいいちそんな、孕むなんて全然カッコ悪いよ。ひどく体臭がしそうだしさ(何かで何かをふくような擦れ音が聞こえる)」
 「(感情を爆発させないためのやけくそな大声で)わかった、わかった! 絵コンテと、おまえの説明からこの作品の特徴をまとめると、ひとつ”巨大ロボットに搭乗し、切ると赤い血が噴き出す異星人と戦う女子中学生”、ふたつ”火星で発見された先史文明のロストテクノロジー、この技術は少女の搭乗する巨大ロボットにも流用されている”、みっつ”登場人物のする驚愕の演出には瞳孔の収縮する様子をアップで”、(徐々に不安な調子で口ごもりながら)よっつ”真下から見上げた高圧電線と、その向こうに広がる夏の雲と青空”、いつつ”看板や新聞やモニターなどの文字は手書きではなく、パキッとしたレタリングで”……(長い沈黙)なァ、言っていいか?」
 「(すねた口調で)なんだよ」
 「これって、まんま”ガ……”の作品からのパク…」
 「(大声でさえぎって)大違いだよッ! あんな不潔なのといっしょにするなよッ! (ひどい癇癪で、唾をぶくぶくいわせながら)ぼくの少女はあんな性徴を際だたせるぴっちりスーツを着たりはしないし、あんな月経を中心に世界を回したりは絶対にしないんだよッ!」
 「(半ば投げやりに、なだめるように)わかった、わかった。もしそんなしたり顔の指摘をする分からず屋がいたとしても、オマージュって言っておけばいいよな。オマージュ。だから、短気は押さえて、ひとつひとつ詳細を詰めていこうな。な?」
 「(すねた口調で)ちょっとカッコいいところを借りただけだよ。全然カッコ悪くないよ。これがダメなら、歌舞伎の再演だってダメってことになるよ」
 「(少しも同調してないことを声音だけで表して)まったくその通りだ。ところで、登場人物が少年と少女の二人しかいないようなんだが。宇宙船の乗組員とか、他のロボットの操縦者とか、そういうキャラクターは…」
 「(絶叫して)ぼくの少女にセックスをさせたいのかよ! 宇宙船の中に他に誰かいたら、少女はぼくが閉じこめたロボットから出てきちゃうだろ! 何考えてんだよ! (ひとつ大きな鼻息。冷静に)でも、少年の周辺に誰かを配置するというのは、アリかもしれないな。例えば少女の母親とか」
 「(ほっとしたように)いいじゃないか。話に深みが出そうだ」
 「(得意げに)少女の母親は22歳、身よりのない少年を引き取っていっしょに生活している」
 「(間。しぼりだすように)少女の年齢は何歳だったっけ?」
 「(苛立って)本当に、君は物覚えが悪いなあ。15歳って言ったじゃん。そこに書いてあるし。字、読めないの?」
 「(不自然な陽気さで)よくわかった。俺が悪かった。やっぱり、登場人物は二人だけにしよう。その方が、余計な雑味がなくて、きっといい。(強引に話を変えて)ところで、絵コンテのここの描写、よくわからないんだが」
 「(不満げに)だったら最初から言うなよな……どこだよ。(ひどく馬鹿にした調子で)本当に芸術オンチだなあ、君は! セミに決まってんじゃん、夜空を埋めるセミの群れだよ。”ガ……”の映画でもセミの声使ってたろ。全然カッコいいよ」
 「(数瞬の意味深い沈黙のあと)なァ、おまえ。セミ、見たことあるか?」
 「(得意げに)もちろんさ! ぼくは30年も丸々引きこもっているような連中とは、ワケが違うからね。あれは小学生のときだったろうか、(陶酔した調子で)粉雪の舞う中、四枚の羽をピンと水平に伸ばして、やかましく鳴きながら大気をグライダーのように滑空するセミの群れ……あれは、ぼくの原風景と言っていいだろうね……」
 「(不自然な陽気さで)よくわかった。このセミのカット、やめよう。”ガ……”みたいに、鳴き声だけにしよう。その方がきっとずっと効果的さ。な、そうしよう。な?」
 「(苛立って)音楽屋ふぜいが、さっきからいちいちぼくに指図するなよ。ぼくの完璧な絵コンテにケチつけるなよ。今回試みるフルデジタルという方法論には、意識したアナログ感覚が必要なんだよ。コンビニやケイタイの持つデジタル的なリアリティと、セミの持つアナログ的なリアリティを意図的に混郁させることで生じる違和感が、作品に現実という名前の新たなパースペクティヴを与えるんじゃないか。どうせ何もわからないんだから、黙ってろよ」
 「(一瞬絶句した後、聞こえるか聞こえないかの、ドスのきいた低い声で)つまるところ、世界と交接したことがねえんだ。コンビニやケイタイっておまえ、おまえの提示するリアリティなんざ、同棲してるオンナが使った便器からする大便の残り香の当たり前さを、童貞のしたり顔でリアリティと言っているのと同程度に、クソ薄っぺらなんだよ」
 「(癇癪を起こして)ぼくの前で体臭の話はするなよ! ぼくは人間の身体のニオイが本当に嫌いなんだ! こうして君と、1メートルほどの近距離に座っていても、君の体臭の分子がぼくの身体に付着するんじゃないかって、ほとんど物理的な脅迫を感じるくらいなんだよ!」
 「(げんなりした調子で)わかった、わかった。もういい。つまりこいつは、この企画は、(何か紙の束を叩く音がする)”ガ……”的な演出・視覚要素を取り除けば、ほとんど最近のエロゲーが好んで提出するのと同じ、(嫌みに)体臭の無い恋愛未満の男女のリリカルが主眼なんだよな。(嘲弄するように)ここまで露骨にエロゲー的なんだから、もっとこう、チューくらいさせたらどうですか、先生。ふとももとパンツの間を執拗にアップで写したコマも多いことですし」
 「(絶叫して)馬鹿なこと言うなよッ! 少女に初潮も破瓜もまだ来ていないことを確認するだけの、実にさりげない演出じゃないか! それに、自転車に二人乗りするシーンで、少女が制服の布越しに男の肩を触ってるだろッ! あれ以上に二人を接近させるのはグロテスクだし、何よりあれ以上接近したら体臭がするじゃないか! それに、(絶叫とも言える大声で)肩を触ったら、次はチンポに触ることになるだろ!」
 「(声をひそめて)馬鹿、隣に聞こえたらどうすんだ」
 「(聞こえないふうで)だから、困るから、チンポに触られたら困るから、少女を宇宙船でまず木星へ、それでもやっぱり不安だから、次は太陽系の外へ飛ばすことにしたんだ。それくらい遠くに離せば、チンポにとってはまずまず安全な位置と言えるからね。少年はようやく安堵して、胸のうちを独白する。『届かぬ愛撫を待ち続けることのないように、チンポを固く、冷たく、強くしよう』。オナニー宣言、全然カッコいいよね(へらへらと笑う)」
 「(唖然としたふうで)物語の展開が唐突だとは思っていたが、まさかおまえ、本気でそういう。物語の必然とか、そういうのは…」
 「(あきれたふうに)なに、物語なんてカッコ悪い言葉使ってんだよ。ストーリーなんて、カッコいい絵と、ぼくの願望に従属するためにある方便だろ。なんたって巨大ロボットの活躍はカッコいいし、猫を殺したら責められるけど、火星人を殺したらほめられるだろ。それに、ロボットはカッコよく殺すだけじゃなくって、巨大な鉄の貞操帯になって少女の貞操に誰も触れられないようにしてくれるし――精液を暗示する雨粒ぐらいさえもね――、少女はと言えば貞操帯の中で火星人の流血に初潮を代理させ続け、そうやって肉体的には清らかなまま、精神的には何といっても体臭のしないケイタイでぼくに依存してくれて、一方で悪い敵からは捨て身でぼくの世界を守ってくれるんだ。それに、光速で宇宙を旅することのパラドックスで、30歳のぼくが15歳の少女を好きだと公言しても、誰もぼくを、ロリコンとか、そういう異常な性癖の持ち主として糾弾したりできない必然的社会状況が生まれるだろ。これが、ぼくにとっての一番大切なポイントなんだよ! ストーリーなんて、カッコいい絵と、ぼくの願望から逆算すればいいんだよ! 物語の必然だって? そんなのレトロで、全然カッコ悪いじゃん(へらへら笑う)」
 「(もはや涙声で絶叫して)真面目にやれよ! おまえ、真面目にやれよ! おれ、このために仕事辞めたんだぞ! 本当に、冗談ごとじゃすまないんだよ! どこのおめでたい誰が、こんなオタくさい、文字通りの前世紀のアニメを金払って視聴したいと思うんだよ! お願いだから、真剣にやってくれ!」
 「(癇癪を起こして)ぼくはいつだって真剣だよ! ぼくは自分の作りたい、カッコいいものだけを作るんだ! それと君の音楽だけどさ、ドラムとか、エレキとか、ああいう青臭いのは、ぼくの作品ではやめてくれよな。反体制とか、体臭とか、そういうのが一番嫌いなんだ、ぼくは。(言い終わるか言い終わらないかのうちに、獣のような絶叫とともに、凄まじい騒擾が始まる)何するんだ、離れろ、音楽屋め、体臭が、ぼくに、臭い、臭いィィィッ! (気狂いのような悲鳴で)ぼくに触るなァァァッ!」
 (男性の声のナレーション)残念ながら、このテープはここで終わっている。この後、二人がどうなったのか、果たして輝けるアニメ界の超新星となったのかどうか、それは誰も知らない。

逆愚痴卑露野侮

 ただ聞き手に何の感興も起こさせないことをだけ目的に作られたバックミュージックのためのバックミュージックが軽々しく流れる中、応接間を想定したのだろう、奇妙に生活感の欠如したセットの中央に男女が差し向かいに座っている。セットは以前より明らかに簡素な作り。女性、カメラに対して深々とおじぎをする。
 「ご無沙汰しておりました、ホステスの宵待薫子でござます。長らく放映を自粛しておりましたnWoの部屋ですが、多方面より応援と励ましをいただき、このたび深夜枠という形ではありますが、再びみなさまにお会いすることになりました。スタッフ一同を代表しまして、お礼を述べさせていただきます。本当に、ありがとうございました(立ち上がり、カメラに向かって深々と頭を下げる)。更なる番組のクオリティアップをもって、みなさまからのご恩に応えていきたいと思っております。それでは、新たに生まれ変わったnWoの部屋、記念すべき第一回目のお客様をご紹介させていただきます。人気ロールプレイングゲーム『最終偏執狂的接片愛~ファイナルフェティッシュ!~』シリーズのディレクターであり、総監督でもある、逆愚痴卑露野侮さんです」
 「(長すぎる鼻の下に台形の口ひげを生やした男へカメラが向けられる。深く刻まれた笑い皺の下の、少しも笑っていない目で穏やかに)どうも、今日はお招きありがとうございます」
 「(おじぎして)こちらこそ、お忙しいところお越しいただき、ありがとうございます。ご存じのない方のために付け加えますと、ファイナルフェティッシュ!シリーズは、あのトラ食えシリーズと双璧を為す国民的な人気ゲーム作品です。(資料に目線を落としながら)昨年は映画化もされていますよね」
 「(一瞬顔面神経痛を抑えようとしている人の表情になって)映画? (何かを思い出そうとしていると他人に感じさせるのに充分な間を置いて)ああ、FFM(ファイナルフェティッシュ・マゾヒズムの略)のことですか。いま言われるまで忘れてましたよ。まあ、あれはほんと、片手間でしたね。あの作品は商業主義的に、もっといえば享楽主義的にやりすぎました。欧米中心に公開されたんですけど、(自然つり上がる片頬)むこうの人間の大ざっぱさをぼくは考慮に入れていなかった。つまり、(徐々に早口に)あちらの毛唐の方々の生得的な精神状況の低さの現状を、ぼくが軽く見積もりすぎていたということなんですね。でもそれは、あまりに予想を覆すほどのレベルで低劣だったから、神ならぬ身ではしょうがなかったとも言えるでしょう。誰がやっても同じ結果になったと思います(無意識に、激しく顎が縦方向に上下する)。ぼくは本当にいい人間で、他のスタッフからも、逆愚痴さんはゲームにせよ何にせよ、受け手に期待しすぎじゃないんですかってよく言われるんだけど、(膝の上で、関節が白くなるまで握りしめた両拳をぶるぶると震わせながら)芸術の作り手が受け手、鑑賞者に期待しない態度っていうのは、芸術家にとっての敗北だという気がするんですね、ぼくは。同業者に聞かれたら、甘い考えだと言われるのはわかっているんですけど。(何か身内にわきあがってくるものを押さえようとするかのように、荒い息で肩を上下させながら)ぼくは、本当にお人好しでいい人間なので、観客を想定するあまり、作品の内包するテーマ性を制作初期の段階でより低いものに変えたんです。ただただ、受け手にとってわかりやすいことを追求するためにですよ。ぼくの頭の中にあった元々のものは、実はもっと高級なんです。(うつむいて、親指と親指を触れあわないようにぐるぐるまわしながら)それに、ぼくの持っている深淵かつ壮大なテーマをそのままに彫刻するのに、映画というジャンルはあまりにエンターテイメント寄りすぎますから…(テーブルに頭をつかんばかりの前傾姿勢から、突如上半身をバネようにはねあげて、宵待の左肩をつかむ)ねえ、わかるでしょ!」
 「(自分の何気ない問いかけが、なぜここまで激烈な反応を引き出してしまったのかわからず、大きく目を見開いて硬直したまま半泣きの口元で)あの、わかります。(おびえのあまり、ほとんど素の状態で)私も仕事でいろいろあるけど、友だちに相談してもしょうがないなってこと、いっぱいあるし」
 「(あざけるように口元で笑って、手を放す)フン、凡人の生活感覚ぐらいといっしょにしてもらっちゃ困るね。ぼくの言った受け手って、君みたいな人のことなんだろうな。(脱力してソファにもたれかかって)わかりゃしねえんだよ、おまえらくらいにはな」
 「(なぜかはわからないが、相手の激情が去ったことにほっとして)あ、ええと、そう、ゲームの方のファイナルフェティッシュ!なんですが、先日最新作が発表されたところですよね。(ジロリとにらみ返してくる相手にうろたえて)ええと、11作目。そう、今回はシリーズ11作目ということで、すごいです、長いです(なぜか拍手する)」
 「(口元を歪めて)どこぞの遊児だか豚児だかとは、才能の密度が違うってことだな。(ブツブツと)資金集めも、組織運営もまともにできねえくせに……カネを使わずに、いい物語を書けば、だと? ハッ、樋口一葉の昔から、日本人ってのはそういういじましいのが大好きだからな……(突然激して立ち上がる)このインターネット時代に、原稿用紙と万年筆でゲーム作ってんじゃねえ!(机を蹴り上げる)」
 「(縮み上がり、上半身はほとんどスタジオの外へ向かって逃げているが、下半身で踏みとどまって)あの、インターネットというお言葉が出ましたが、この最新作はネットワーク専用ゲームだと聞きました。あの、(顔色をうかがう。思い切って)これまでのゲーム業界には例を見ないような、すごい進取の精神ですよね!」
 「(うつむいて、間。突如笑み崩れた顔を上げて)でしょう? ぼくはモジュラーケーブルやLANケーブルの暗示的な逆さ凸が、みっしりと電話線の差込口に満たされるのを見るのが、本当に大好きなんですよ(得意の鼻息で口ひげが揺れる)」
 「(ほっとした様子で)逆愚痴さんがインターネット上に創造なさった、全く新しいファンタジー世界である、(視線を原稿に落とす。凍り付く笑顔。きっかり3度またたきした後、真っ赤になって口ごもりながら)ま、ま、ま、ま、ま」
 「(握った親指と人差し指を左ふぐり、握った薬指と小指を右ふぐりに見立て、下方に垂らした中指をぶらぶらと前後させながら)マラ、でぇぇる!」
 「(顔を真っ赤にして、うろうろと視線を机上にさまよわせ)あの、ファンタジー世界である、ま、ま、ま、ま」
 「(握った親指と人差し指を左ふぐり、握った薬指と小指を右ふぐりに見立て、下方に垂らした中指をぶらぶらと前後させながら)マラ、でぇぇぇぇぇぇる!」
 「(背筋を伸ばし、視線の焦点をどこにも作らないようにして)ま、ま、マラ・デエルでの冒険劇は、これまでのロールプレイングゲームの概念を大きくくつがえすものである、とのことですが…(徐々に涙声になる)」
 「(独り言のように、しかし聞こえるのに充分な大きさで)やれやれ、ようやくか。よもや、男性生殖器を露出するの意でとらえたのではあるまいね。まったく、最近の若いのときたら、性倫理や性道徳などという言葉が定義できるような範疇を超えているね。本当に嘆かわしい限りだ(言いつつ、ズボンの後ろポケットに入っていたテレコからカセットを取りだし、極太マッキーで”ヨイマチ、マラ”と書く)」
 「あ、あの(助けを求めるようにスタッフの方へ視線をやる)」
 「(跳ねるようにカメラに正対し、突然調子を変えて)日本のようなIT後進国で、ネットワーク専用ゲームの製作に踏み切るのは、たいへん勇気のいることでした。専用ということはつまり、プレイを続けるためにいくばくかの料金を電話局なり、我々の会社へ継続的に払い続けるということですから。(作者近影のときのお気に入りの苦悩の表情で)樋口一葉の昔から芸術にカネを払わないいじましい国民の方々が、このゲームにカネを払い続けてくれるのだろうか? その心配は、制作中も離れずありましたね。(わずかに長すぎる口ひげをなめながら)ですが、考えてもみて下さい。美術館に入るのには然るべき料金を支払いますね。そしてあなたがあの素晴らしい人類史的な作品群をもう一度見たいと思ったとき、またきっと美術館にカネを払うでしょう。その反復に疑問を感ずる人はいないはずです。まあ、お上に頭のあがらぬいじましい農耕民族の国民のみなさんに関しては、(鼻息で口ひげをゆらして)何らかの権威づけがそこには不可欠なのでしょうけれどね。じっさいのところ、日本では無名であっても世界的に有名な人物はたくさんおります。(とりすました表情で)私にしたって、極力ひかえめにいったところで、”世界の”という冠を名字につけて呼ばれるくらいのレベルの人間ではあるんですけどね。(見えざる何者かの追求を遮るように慌てて)外タレにサインをねだられたことはありませんが、それは私が一度も外タレと遭遇したことがないというだけの話なんですよ、じっさいのところ。ですから、何の話でしたか、今度のFF11(ファイナフフェティッシュ!11の略)は、『継続的に体験するためには継続的にカネを支払い続けねばならぬ』というこの一点において、芸術作品と同義であるということができるのです。今までの作品は、まあ悪くはなかったですが、単品切り売りの、肉屋につり下げられた牛か豚のような類のものでした。それは、私の作品の提出方法としては、私の意図とかなりかけはなれた不本意なものでした。ぼくのファイナルフェティッシュ!という名前の芸術作品は、ネットワークという概念空間を使って、形而下から形而上へと存在のステージを写したんですよ。つまりこれは、人間が神に昇華するという比喩と、まったくの同義の移行なんです。(口ひげを引っ張り、アゴを突き出して得意げに)この移行が人類にとっていつ以来のことだかわかりますか、宵待さん?」
 「(うつむいて親指のささくれを引っ張っていたが、急に話をふられてとびあがって)は、はい! わかりません!」
 「(右の掌を額に打ち当て、左手で口ひげを数本引き抜く)本当に馬鹿だなあ、あんたは! 宗教学を知らぬ人間に、世界というパラダイムが理解できるものか! (嘲るように)あんたみたいのが俺の想定していた観客だったとすると、FFMの興行収入の数字にも納得がいく。(片頬を吊り上げて)その納得を手に入れただけ、今日このくだらない席に、(一息入れて強調して)激務の合間を縫って座っている意味があったってことか。(声をひそめて、蛇を思わせるやり方で下方から宵待ににじりよる)いいか、俺はいまファイナルフェティッシュ!がネットワーク専用ゲームになったことは、人間が神になったこととイコールだと言ったんだ。つまり、それは、(重大な秘密を明かすようにささやいて)キリストだよ。新たな千年紀を生きる人類が迎えたキリストの復活、それが、俺の、(立てた左手の親指を自身に突きつけながら)ファイナルフェティッシュ!11だ!(かわいた鼻水でてかてかになった口ひげが、頭上のライトを照り返す)」
  「(かみ殺したあくびで両目をうるませながら)なるほど、なるほど。すばらしい。(スタッフが示す板を横目で確認する。書かれている内容に激しく首を横に振るが、スタッフの強い調子にやがて押し切られて)し、しかし、マナ・デエルへの接続に必要不可欠であるプレステHHユニット(プリーズ・レット・マイサン・エレクト、ハーマイオニー、ハーマイオニー!ユニットの略)の品薄や、ネットを経由しないと入手できない仕組みの煩雑さや、加えてプレステHHそのものの高額さや、(唾を飲んで)それに先ほどもおっしゃられましたが毎月継続的に、それこそ半年で別のゲームが購入できてしまうほどのプレイ料金を払わなければならないことなどが相まって、FF11は一般のゲームユーザーには非常に敷居が高いものになってしまっているのではないでしょうか?(目をつむり、首をすくめる)」
 「(悠然と煙草を取り出そうとするが、ぶるぶると震える指先がそれを裏切っている。フィルターを外側に向けて煙草をくわえながら)芸術とは常に時代にとって、もっと言うなら、人間が命をつないでゆくことにとって、余剰であったわけです。生きるために必要ではないが、魂が求めるその余剰にこそ、人間を他の畜生と聖別する何かが含まれている。(大仰に両手を広げて)そして、ダ・ヴィンチの例を挙げるまでもなく、芸術という余剰には常にパトロンの存在が不可欠です。なぜなら、この世の大半を占める、ただ増えて死ぬために生きている蒙昧の群れどもは、日々口を糊することと、オメコにしか興味が向かないからです。(わずかに均衡を崩した目で自身の言葉に埋没するように)この連中は、オメコには恐ろしいほどの労力やカネをつぎこんで省みませんが、芸術となるととたんに、これはもう間違いなく彼らの低脳からくる劣等感でしょうが、オメコ汁に濡れた口元を半開きに激しくどもりながら批判めいたことを口にし、あるいはオメコの入り口はもう締めようもなく荒淫に弛緩しているくせに、財布のヒモをことさらに固く締め上げたりするわけです。(何かを振り払おうとするように大声で)彼らの精神はもう本当に低劣極まりますから、これを啓蒙しようなどと少しでも思わないほうがいい。私は本当にいい人なので、彼らに手をさしのべようとして一度ひどい目にあっていますから言うんです。(ほとんど涙ぐみながら)映画というのは本当に間口が広すぎて、やつらの方が選択する側の人間なんだと勘違いさせ、増長させてしまったんだ。(袖口で口ひげに垂れた鼻水をぬぐって)芸術にカネを払うことは知的に、そして何より人間的に高度でなくてはできませんから。つまり、(妄執にとらわれた人の目で、身を乗り出して)FF11のプレイヤーは、FF11をプレイしているというその事実だけで、すでに存在論的優位者として選民されているのです。敷居の高さゆえに売り上げが伸び悩んでいるという指摘は、ですから全くの的はずれなのです。(口の端から泡を吹きながら)私は私の芸術へとたどりつく資格のある人たちを、電子的な方法論で選民したのです。彼に竹ひごでぶたれるためなら進んで急所を差し出してもいいとお考えの、ノブナガ好きの民主主義国家の主権者のみなさんには、危険思想の持ち主と思われてしまうかもしれませんがね(声を上げて笑う)! FFMの時とは違ってな、(自分のしゃべる言葉に後追いで得心した満足な笑みで)わざと間口を狭くすることで、おまえたちが選ぶんじゃなくて、俺が、俺こそがおまえたちを選ぶ芸術的絶対者なんだってことをわからせてやってんだよ、このオメコ愛好者どもが(テーブルを蹴り上げる)!」
 「(無表情で)選民する。なるほど、よくわかりました。あなたはオメコという言葉を連発なさいましたが、それは食料と交換可能であるという意味合いにおいて、生命と限りなく等価値であるカネを、生命を物理的に養わない抽象事象に支払うことができるかどうか、という比喩として受け取ってよろしいですね(無表情のままのぞきこむ)」
 「(鼻白んで、目をそらす)ああ、まあ、そうとも言えるかもな」
 「(無表情で)少なくともFF11という名前のネットワークゲームは、”公共”を作ろうとしている。”公共”の究極とは『どんな対価をも伴わずに、誰のものでもある』ということだと、私は考えます。知性と財による選民、私にはFF11は、貴社からの様々のプロパガンダが表現するような、開かれた無謬の理想郷にはとても思えません。(ゆっくりと)あなたがおっしゃられたキリストの比喩をなぞるなら、マラ・デエルは人造の失楽園なのではないですか(無表情のまま小首をかしげる)」
 「(うろうろと視線を漂わせて)なあ、急にそんな…やめようぜ。(作り笑いで)本気に取るなよ、ほんの冗談じゃねえか!」
 「(口元の両端を機械的に吊り上げて)虚構の現実化によるアンチクライマックスです。いつまでも、好き勝手に暴れられるものではないですよ(立ち上がる)」
 「(周囲を見回す。人形のような無表情のスタッフが見つめ返す。泣きそうに)なあ、やめようぜ、こういうの流行らねえよ。なあ」
 「(さえぎって)今日のゲストは逆愚痴卑野侮さんでした。お帰りはあちらからどうぞ(腰を折り曲げて、深々とおじぎをする)」

げんりけん

 都心にある大学の学生会館といった風情の建物。壁面にはペンキやスプレーで思想めいた言説が、無秩序に書きちらされている。昼間だというのに、薄暗い廊下。人の足が踏んだ場所以外はほこりがうずだかく積もり、ときどき視界の端を小さな黒い物体がうごめく。左右の壁には等間隔で鉄製のドアが並んでいる。そのうちの1つのドア。店屋物の空の食器が置いてある。木製の、『現代世界を読み解く汎原理的思弁研究会』と筆で横書きにされた看板が、ドアノブに斜めにかかっている。中は廊下よりさらに薄暗い。どういう精神構造によるものか、唯一の窓をふさぐように背の高い本棚がいくつか並べられており、もはや検索の絶望的に不可能な順序で漫画本が詰め込まれている。部屋の片隅には小型のテレビが明滅を繰り返しており、画面にはもはや記号的認識が不可能なほどに記号化されたキャラクターが投影されている。その前には重箱式に無数のゲーム機が積み上げられている。部屋の左側にはバネの飛び出たソファが置いてあり、その上には等身大の人形――人類にあり得ない水色の髪の毛と、顔面の3分の2を有する赤い光彩を持った瞳と、口元に張り付いた白痴的な微笑と、身体の曲線を際だたせる目的以外を想定されたとは思われない不自然な着衣の――が横たえられている。ソファの反対側の壁には、”モオツアルト的祝祭空間”と赤いペンキで殴り書きにしてある。部屋の中央には丸い卓があり、男性2人、女性1人がそれを囲むように座っている。女性は、腰まで届くロングヘアに頬骨と鼻先を覆い隠すように前髪が垂れていて、くるぶしまで隠れるスケバン風のロングスカートに靴底の異様に厚い靴、上着の袖は指の第一関節までを覆い隠す長さで、一種異様だが、信仰の種類によっては倫理的賞賛を受けないこともないようないでたちである。男性の1人は黄ばんだタオルを海賊風に頭に巻いており、着衣は何故か灰色の作務衣、裸足の足はほこりまみれ、老翁風の長いあご髭を人差し指と中指で作った輪っかでもって、無意識のものだろうか、卑猥さを感じさせる仕草でしきりとしごいている。もう1人の男性は、工事用の黄色いヘルメットに底の厚い眼鏡、風邪を引いているのだろうか、中央に赤い丸を染めた長方形の白地のマスクをしており、洗いすぎて色落ちしたタータンチェックの赤いシャツに、ハムを作るときの外の皮のように引き延ばされたジーパンをはいている。女性、卓の上においた左手をときどき痙攣的に跳ね上げながら、話し始める……
 「グローバリズムや文化的多様性なんて言いますけれど、畢竟、人類は増えすぎてしまったんです。旧約のバベルの神話は、畢竟、神の怒りの表現などではなくて、人類の多様化への嘆きではないでしょうか。異なった価値観を持つ者どうしが、畢竟、”うまくやっていく”なんてことは、畢竟、不可能です。資源が、若しくは、富が構成員のすべてに平等に行き渡ることを、畢竟、前提としない限り。9.11以降、よく米国の市場主義と言いますか、競争原理が批判されますが、畢竟、社会主義が崩壊し、共産主義が版図を縮小し、米国とその追従者が生き残ったことだけを考えても、畢竟、『資源は有限であり、人類の全構成員には行き渡らない』ことを皆が無言のうちに承認した、その証拠じゃありませんか。米国はその点を強調して、畢竟、もっと開き直るべきなのです。グローバリズムというのは、飽和した国内市場の外で俺達の商品を買う相手と、俺達のためにほとんど無償で働く相手を見つけるための方便なんだぞって、畢竟、明言して居直ればいいんです。どこまで話しましたか、そうです、平等な資源と富の分配が不可能であるという現実は、多様性を拒絶します。つまり、ここに来て人類という種が取るべき道は、畢竟、2つだけなのです。『富の分配が可能な規模にまで、人間の数を間引きする』か、『富の不平等な分配を容認できるよう、その価値観を単一のものへと統一する』か、どちらかです。現実的に考えれば、畢竟、この両者を兼ねあわせた『単一の価値観を共有するものだけを残しての、徹底的な人間の間引き』が、最も”実行可能である”という意味合いにおいて、畢竟、有効でしょう。そして、私たちはその残されるべき単一の価値観を共有するグループに”含まれてはなりません”。なぜなら、畢竟、私たちは客観的な自己憎悪を手に入れた人類最初の文化集団であり、社会組織に対する自分たちの非有益性を誰よりも強く知るからです。――拳を握りしめて敢然と立ち上がり――手首に刃物が埋まってゆく感覚を嫌いな女子なんていません! ――座って元のようにうつむき――私の言うことに間違いはありません、エヴァンゲリオンでもそう言っていました、畢竟。」
 「――あご髭をしきりとしごきながら――フーム、懊悩(おおの)くんの考え方は他者に表現することを意識してか、パフォオマンスが極端に過ぎる部分はあるが、共感できる思想が含まれていないでもない。要するに、科学的思考の産物が人類種を劣化させているという事実を、もっと積極的に汲むべきだと言うことだね。例えば、火をおこす技術の無い者、食料を自給する技術の無い者、つまり生物として劣った者がそれをそれと自覚しないまま生きてゆくことができるのは、科学的思考の功罪ゆえであるということができる。人間すべてを頭でっかちの総合職、ホワイトカラアにするのが、科学的思考なのだね。君は土にまみれた赤銅色の農婦がテレヴィに現出する時、微かな、しかし理由の無い軽侮の感情を一度でも抱いたことが無いと、果たして言えるだろうか。科学的思考とは、人間の手から、それを高めることで生存の確率を同時に高める、あの生物としての技術を奪い、本来的に無価値な愚鈍を量産しながら、その”命令あるいは指導する権利があると信じている”愚鈍たちに根拠薄弱の支配的な優越感を代わりに与えるのだよ。自覚した時が、手遅れの時と同じなのは、阿片の類と同じさ。ただの無知よりも更に悪い、致命的な愚鈍が骨髄までをボロボロに蝕んでしまっているのを見つけ、見なかったふりをし、スゴスゴと元の心地よい穴ぐらに尻から這い戻る結果を迎えることになる。イヤイヤ、どれだけ首を振ってみせたって、ソモソモ君は汗と、肉が痛むことが不快なんだろう? 本当はそうじゃないんだよ、汗と肉の痛むことは不快じゃないのだよ、と拙が言うのを聞くと、懐疑的に眉根をひそめてみせることで、君の内側の衝撃をうち消してみせたじゃないか! オヤ、『科学的思考を捨てて、野に出よ』と言うつもりだったのが、『人間の精神は科学的思考に蹂躙され尽くしており、そこから離れてあることはできない』という結論に落ちてしまったぞ。つまり、人類種の劣化とは、科学的思考を発明した段階で、本質的に不可避であったということだね。では、俄然、懊悩(おおの)くんの発言が真実味を帯びてくるね。我々は、我々が堕落しきらない前に、自らの尊厳を守るために自死しなければならないということだ。この結論を拒否することは、つまり自身の愚鈍を認めることになるのだからね。」
 「――痙攣的に左手首を跳ね上げながら――単一の価値観を唯一選択的に残すためには、畢竟、自死では足りません。自死は自己への憎悪を基調としていますが、畢竟、憎悪を超克した理想をこそ、私たちの行動の基調としなくてはなりません。どの価値観を残すのかを注意深く選択した後は、畢竟、私たちはその実現のために自らを捧げなくてはなりません。私たちは理想に気づいていますが、理想郷に達するににはふさわしくないほど”穢れて”しまった、天国と地獄を見ながらどちらにもたどりつけずにさまよう、畢竟、リンボ界の幽霊のような存在なのです。畢竟、私たちはこの段階を迎えて、思弁ではなく、一人一人がどれだけ多くの選択的他者を道連れにできるかという方法論にこそ、最も執心しなくてはならないはずです。『理想郷は今そこに来る、ただし私たちはそこにはおられない』。私の言うことに間違いはありません、ナウシカでもそう言っていました、畢竟。」
 「――マスクの下から、神経そうに細い悲鳴のような空咳を繰り返しながら――僕の考えが正しいならば、僕の論は懊悩(おおの)氏と奈落豚(なふた)氏の論を補強できると思います。生物は種全体として、それぞれ単一の目的を持っています。それはつまり、情報を永続させるということです。その『情報』とは、僕たちは近視眼的にほとんど無条件に重要視してしまうような知性のことでは、断じてありません。知性は個の段階で、ほぼ消滅します。伝播力が非常に弱いのです。ドストエフスキーやマンが死んでしまったら、僕たちはまた振り出しから始めなくてはいけないでしょう? 情報の永続を目的とするなら、知性はあまりに弱すぎるとしか言えない。文学や芸術が、その非有効性を戦争やら飢餓やらに証明されて以降も未だに根強いのは、知性の伝播力の弱さ、自己消滅の容易さに対する抵抗を示してのことかもしれないですが、これは僕の論と少し外れます。生物がバトンしたい、つまり永続化を求める情報とは、何のことはない、遺伝情報に他なりません。人間の努力や知恵は遺伝子に刻まれてゆく、ですって? 馬鹿をおっしゃい。どこの歴史に二代目が先代よりも有能だった試しがありますか! 有効な知性があるとすればそれは、生物種が自身の情報の断絶を回避するためにときどき自らの系の内に作成する、天才という名前の奇形だけです。それすら、急流をゆくカヌーからぶつかりそうな岩へするオールでの一撃に過ぎません。話がそれましたが、言いたいのは、すべての”人間的”営為は、ほんのつけ足しに過ぎないということです。……なるほど、文明、文化ときましたか。個の知性を長く続けるための装置、文明と文化を人類は持っているではないか、それこそが知性の優越性に他ならぬ、とそう言いたいわけですね。人間の知性に対する、遺伝情報の優越性を証明するのには、一言で足ります。よろしいですか、『人類という種の履歴と同じだけの長さを長らえた文明・文化は存在しない』のですよ! ――下卑た含み笑いで――あるとすれば、それは性行為でしょうが、これはどちらかと言えば遺伝情報の伝播に属する”文化的”行動でしょうねえ。つまり、人間の知性を待つまでもなく『単一の価値観』はすでに存在し続けてきており、これからも存在し続けるのです。人類の中から選択する必要はない、人類を含めた知性を展開させる可能性のある種を皆殺しにすれば用は足りるのです。3人の見解を統合して、これを『ユートピア的ジェノサイド』と名付けましょう。蛇足ですが、反論を封じるために付け加えますと、進化という概念は自己存在の称揚を常に求める人間知性の産物です。進化という言葉の持つ高揚感を取り除いてより正確に現象を把握して言うなら、『周辺状況の変化に対する刹那的反応の永久的固着化』に過ぎません。生物とは、究極的に自己存在の止揚には、関心が無いのです……」
 「それは他人についてのことばかりでしょう――失礼ですけど――それとも他人についてばかりじゃないんですか。」
 部屋の隅の暗がりに坐っていた茶髪の女性が、大きく伸びをしてから両手をぶらぶらさせて口を挟むと、彼らは一様にぎくりとしてそちらを見た。彼らは彼らの会話に没入しているように見せかけながら、その女性のことをどの瞬間も常に意識していたのだった。
 「もうそれでおしまいですか、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん。」
 「いいえ。しかしもうなんにもいいません。」
 「ほんとにこれで充分ですわ。――返事を待っていらっしゃるの。」
 「返事があるんですか。」
 「あると思いますけど。――わたしよく伺っていましたの、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん、始めからおしまいまでね。それで今日いまそれぞれおっしゃったことの、どれにでも当てはまるような返事をしてあげたいの。それがまた、あなたたちをそんなにいらいらさせている問題の解決になるんですよ。さあいいましょう。解決というのはね、あなたたちはそこに坐っていらっしゃるままで、なんの事はない、一個のおたくだというんです。」
 「私が」「拙が」「僕が」と彼らはきき返して、少したじろいだ。
 「ほらね、ひどいことをいうとお思いになるでしょう。そりゃ無論、そうお思いになるはずですわ。ですからわたし、この判決をもう少し軽くしてあげましょう。わたしにはそれができるのですから。あなたたちは横道にそれたおたくなのよ、懊悩(おおの)さん、奈落豚(なふた)さん、背手淫・鰤犬(せてむ・ぶりーに)さん――踏み迷っているおたくね。」
 ――沈黙。やがて彼らは決然と立ち上がって、男子間の肛門性愛が記述された冊子とアニメ柄の抱き枕と股関節の穴までが忠実に再現された少女型ラバードールをそれぞれ手に取った。
 「ありがとう、滓蚊醜(かすかべ)さん。これで僕たちは安心して家に帰れます。しかし、これで”げんりけん”は解散にすることにしましょう。なぜって、僕たちはあなたの言葉に反論の余地無く、片付けられてしまったのですから。」

遊児 vs 酷男 ファイナルウォーズ

 土間から座敷へ上がる式の、和風居酒屋。額と頭頂部が一体化しつつある、薄く色の入った眼鏡をかけた男が背中を丸めて、周囲のざわめきに埋没するように食事をしている。大柄な白人女性と、その半分ほどの背丈の小男が店に入ってくる。少し遅れて、”腰を低くする”言葉どおり、ガウォーク状に腰を屈めた男が、作り笑顔と、指紋の消えた手でする蠅のごとき高速の揉み手で後に続く。揉み手からぶすぶすと立ち上る煙。
 小男、白人女性との会話――よく聞くと、数種類の四文字語をイントネーションを変えて話しているだけ――に没頭しているふりで通り過ぎるも、突然大仰に振り返る。
 「(プリマのような必死の背伸びで、白人女性の肩口から胸部へ手を回そうとしながら)おやおや、どなたかと思えば、これはホーリー先生じゃありませんか! 先生ともあろうお方が、こんな場末の居酒屋でひとりお食事とは、なんとまあ(額に手のひらを打ちつける)」
 「(薄くなった頭頂部から大雪山の角度でなでつけた前髪に、こめかみの青筋を隠しながら)贅沢というのは、やりすぎると慣れてしまいますもので。いまではこのくらいに落ち着いています。(白人女性と枯痔馬の頭頂部のそれぞれの位置の差を、首を上下にしながらためすがめつして)身の丈に合わないことをすると、『芸が逃げる』と言いますからな。(充分な間。首をかしげて)ところで、どちら様でしたかな?」
 「(つんざく怒号で)賢和ッ!」
 「(回転レシーブの要領で枯痔馬の前に飛び出す)はイィッ、監督ッ! なんでございましょうかァッ!」
 「ホーリー先生に名刺をお渡ししろ(立てた親指で指示する)」
 「了解しましたァッ!(回転レシーブの要領でホーリーの前に飛び出し、名刺を手渡す)」
 「(眼鏡を額に上げて、目を細める)なるほど、あなたがご高名な枯痔馬酷男さんでしたか。私は名刺を持ち歩かなければならないほど、人に知られていないという状況が少ないものでして……(片手で髪を掻き上げる)ホーリー、遊児、です」
 「(右頬にチック症状が現れる)一度、ホーリー先生とは個人的にお話をしてみたいと思っていました。(ホーリーの前の席に目線をやる)よろしいですか?」
 「(手に持った杯を一飲みに干して)なァに、そんなに恐縮することはありません。ときどき出すゲームをせいぜい400万本しか売り上げることができない、しがないゲーム作家の晩酌、どなたに同席されようとも、(鷹揚に缶入りの煙草を抜き出して、火を付ける)孤独を癒す喜びでこそあれ、(煙を枯痔馬に向けて吹きつける)邪魔だ、などということはあろうはずがないです」
 「(煙を左手で払いのけて)賢和ッ!」
 「(回転レシーブの要領で枯痔馬の前に飛び出す)はイィッ、監督ッ! なんでございましょうかァッ!」
 「(千円札のみで構成された札束を床に放り投げて)その、(口端から泡を吹く発声法で)ビィィィィッチに支払いを済ませておけ」
 「了解しましたァッ!(背筋をのけぞらせて軍隊式の敬礼をすると、困惑する白人女性の手首をつかんで店の外へ出てゆこうとする)」
 「(つんざく怒号で)賢和ッ!」
 「(白人女性を突き飛ばし、直立不動の姿勢をとる)はイィッ、監督ッ! なにか不備がございましたでしょうかァッ!」
 「(本人は決めポーズだと思っているのだろう、傍目には『屠殺場の直立できる家禽』としか形容しようのない有り様で上半身だけで振り返り、ウインクに失敗した片目だけの半目で)お釣りは全部、俺のものだぜ?」
 「了解しましたァッ!(背筋をのけぞらせて再度軍隊式の敬礼をすると、困惑する白人女性の手首をつかんで店の外へ出てゆく)」
 「(ゆっくりとホーリーの方へ向き直る。頬のチックは消えている)これで二人きりです、ホーリー先生」
 「(鷹揚に煙草をもみ消しながら)やれやれ、どうにもぞっとしませんな。そんな大きな声を出されたら、どんな偉大な人物がこの場末の酒場の一角を占めているのか、気づかれてしまう(懐から色紙と極太マッキーを取りだし、試し書きを始める)」
 「(カウンター席で銚子の山に埋もれていびきをかいていた男、女店員に揺り起こされて涎をふきながら)なんだ、女将。デュアルスクリーンが右の乳房と左の乳房でそれぞれ占拠されるという夢を見ていたのに……ヤヤ、もしかしてあそこにいる二人は……(突如垂直に1メートルほど跳び上がり、その跳躍の頂点で180度の角度になるまで前後へ開脚する)た、たいへんズラ! こんな場末のハッテン場で、ホーリー遊児と枯痔馬酷男が対談を繰り広げているズラ! とッ、特ダネだァ! 輪転機を止めろォい!(下駄を鳴らしながら店外へ駆けだしてゆく)」
 「(その後ろ姿を満足げに見やりながら)全く同感です。誰もがその言葉を”千金の千倍を積んでも”聞きたいと思うホーリー先生。そして、シアトル在住のおばが国際電話で『酷男ちゃん、ゲーム作ってるんだってねえ! 酷男ちゃんにハリウッドからオファーが来たりしたら、オバチャンのとこにもテレビカメラ来るのかしら。ねえ、カメラ来るの?』と、個人的感想を思わず赤裸々に語らざるを得なかったほど、全米を揺るがした最新作を上梓したばかりの私。この二人がここにいるんですから」
 「(試し書きの手を止めて、上目づかいにジロリと見て)枯痔馬さんは、思っていたよりもずっとお若いんですな」
 「(小鼻を膨らませて)不惑を目前にした12月24日、独身仲間との毎年恒例のサバゲーの最中に突然開花した、ボクの瑞々しい感性、青々と繁りゆく天賦の才能。ホーリー先生がそのことを意識なさっているのはよくわかります。なぜって、人生も半ばをとうに越えられた先生が、日々の衰えのうちに最も感じざるを得ないはずのものを、目の前のこの男は持っているんだから!(両手を広げて回転する)」
 「(卓に押しつけすぎて先端部の粉砕したマッキーを土間へ放り投げて)お若い、お若い。若いというのは恐れを知らないということですからな。(煙草に火をつける)しかし、お若いからなんでしょうかなあ……(煙を吹き上げて)枯痔馬さんの新作、拝見させて頂いたんですがね」
 「(小鼻を膨らませて)天下のホーリー先生にお見せするようなものではないのですが、先生から積極的にご覧になったというのなら、感想を聞かないわけには参りますまい」
 「そうですな、(真顔で)ゲーム進行中、場面の合間の実写活劇が省略されて話がつながらないことが頻繁にありましたが、あれは枯痔馬さん、どういう演出意図をもっておられたのです?」
 「(頬のチックが再開する)あれはッ! あれは、単純に製造工程上の問題で、私の手元を離れた後での、ボクは悪くないッ! きっと工場のブルーワーカーたちがボクの才能に嫉妬していらぬ細工を…クソッ(拳で卓を一撃する)」
 「(愉快そうに)では、あれはただの不具合だったんですな。ハハ、年を取ると気が長くなっていけない。十年前の私なら、そうとわかっていれば、ジグソー状にノミでもって丹念に粉砕した光学式円盤に、ナタで切断した雄鶏のとさかの部分を同封して、そちらの販売会社さんか、さもなくば枯痔馬さん宅かへ、直接郵送していましたものを(呵々と笑う)」
 「(1秒の10分の1に一回ほど発生する右頬のチックを顔の角度を傾けることで相手に見えないようにして)乱丁・落丁の取り替えを作家本人に請求する筋は聞いたことがありません。賢明なご判断でしょう」
 「(真顔で)冗談ですよ。お互い嘘を商売にするのに、枯痔馬さんは少し発想が真面目過ぎるんじゃないですか。私が深夜にバイク便へ電話するのを思いとどまりましたのは、その言動の一つ一つが肌に皮膚病の痒みを生じさせるよう緻密に計算された、前作の例の(悪意を込めて愉快そうに)イケメン君の大活躍が消しがたく念頭にありましたので。敵陣営の中核に当たる人物を確かに打倒したにも関わらず、実写活劇は挿入されず、他の登場人物の誰もその一件に触れない状況に遭遇したときなぞ、またぞろ前作の後半部のようにメタメタ(この場合、メタフィクション・メタフィクションの略)に展開してゆくための大胆な伏線に違いないと、いつ突然場面が転換して無線の”デンパ”が飛んでくるか冷や冷やしていました。(肩をすくめて半開きの両手を全面でゆらゆらさせながら焦点の合わない両目で、女性の声音で)『ピー。ガ・ガー。癩伝、あなたの倒したと思った敵は実在しないの。それは社会的偏見と呼ばれるもので、人々の頭の中や、あなたの頭の中にしか存在しない、決して打倒し得ないものなのよ!ピー。ガ・ガー』。(両眼球を連動しない動きで一回転させて焦点を戻す)いやあ、私の思いこみに気を取られていたもので、枯痔馬さんが意図なさっていたようには、楽しめていないのでしょう。いやはや、反則そのもののミスリードですな(言いながら、煙草の缶をのぞき込む)」
 「(店内へ息を切らせて駆け込んでくる)監督、例のビッチに支払いを済ま」
 「(おもむろに立ち上がると、脇腹を蹴りつけて)賢和ッ! ホーリー先生が煙草を切らしてらっしゃるじゃねえかッ!」
 「(蹴られた勢いで転倒するも、そのまま回転レシーブの要領で立ち上がり)了解しましたァッ!(店外へと走り出てゆく)」
 「(下卑た笑みで)ヘヘ、賢和ってんで、住み込みの弟子としてここ2年ほど飼ってんですが、どうにも気のきかない野郎で。ご指摘のリトルグレイ・インプラント編も、試しにあの馬鹿に書かせてみたんですが、案の定のできあがりってわけでして。抽象性を高めて高尚に見せようってのは、最低のハリボテですな。あっしの”人物眼が”間違ってたってことですかねえ」
 「ハハ、異なことをおっしゃる。(顔を上げる。照明が眼鏡に照り返し、表情が読めなくなる)枯痔馬さんはゲーム作家なんでしょう? ”人物”を見る目の無い者が、どうして人間を適切に描写できることがありましょうか」
 「(もはや顔面の右半分全体に伝播したチックを手のひらで押さえながら)は、話は変わりますが、ホーリー先生、『トラ喰え8』のことです。御作品、遊ばせていただきました。他の点に関しては右斜め45度に固定した頸椎でもってすべて判断を保留にするとしても、国籍不定の地名と悪役名を考えつく先生の御才能”だけ”は、未だこの業界で誰の追随をも許していないようで、安心しました。(上半身を乗り出す)しかし先生、お言葉ですが、件の”マペット放送局”(『トラ喰え8』の物語中盤に登場する、右手と左手にそれぞれ動物を模した指人形を装着した、数人の全身黒タイツ男性から構成される末期ガン専用ホスピス慰問団のこと)のくだりには、この枯痔馬酷男、しばらく大きく開いた顎の両端から唾液がとめどなく垂れ流れるのを止める術がありませんでした。ホーリー先生は昔から、『俺たちは死ぬまで同性愛だぜ!』とか、ぎょっとするような直接な表現やオマージュを好まれましたが、最近の漫談ブームに乗ってここまで露骨にやられるとは(わざとらしく手のひらで額を打つ)、この厚顔さが『トラ喰え』の現在までを形作ってきたのだと改めて気づかされ、不肖この枯痔馬、夜中に一人モニターの前で羞恥に悶絶しておりました(両腕を身体に巻きつけて悶えてみせる)」
 「(引き寄せようとしていたアルミ製の灰皿のへりの一部が、親指と同じ形に変形する)そうだ、枯痔馬さん。私はお礼を言わねばならないと思っていたのです。なんと言いましたかな、あの登場人物。枯痔馬さんの作品に登場した、射精の速度に苦悩する大学院生」
 「”THE・早漏(ざ・そうろう、と読む)”のことですか」
 「(わざとらしく大きくうなずく)そうそう、確かそんな名前でした。枯痔馬さんが、彼の人物設定を深めるために与えた、射精毎の口ぐせ、『哀しい…』は拙作のドリペニス(終末医療のための施設を占拠する犯人が、警察に送信した犯行声明のメールの送信者名欄に書かれていた名前。以後、”ドリペニス事件”と呼称され、社会的に定着する。犯人は小便の最中に施設へ突入した警官隊に射殺され、虎状のペニスを隆々と露出したまま、二重の意味で直立不動のまま、絶命する)の決め台詞『悲P…(かなぴー、と読む)』への巧妙なオマージュ、つまり『トラ喰え』へのレスペクトの顕れですね。ありがとうございます」
 「(両手を激しく振って)いや、いや、いや。ホーリー先生は勘違いなさっていらっしゃる。売れない漫才コンビによるショートショート百連発、あるいは単品ではさばけない品物を寄せ集めたデパートの福袋の如き、”ギリシャ悲劇小品集”とでも形容するしかない前作『トラ喰え7』への私の感想を、登場人物に仮託して思わず吐露してしまっただけのことですよ。お恥ずかしい」
 「(口へ持ち上げかけた猪口にヒビが入るのをそのまま卓へ戻して)いやいや、往年の名作『かぼちゃ状ボイン(かぼちゃ状のボインを有した婦女が蚤の如き小男に懸想する大正時代を舞台にした少女漫画。最終回で結ばれた二人は、朝鮮半島へと政治亡命する)』を否応なしに想起させるほど、登場人物名にことごとく”THE”をとりあえずあてがう、日の出の如き才能をお持ちの枯痔馬”監督”ですから、一般人のするような私の作品へのその手放しの賞賛には及びますまい。ゲーム作家に過ぎない自身を”監督”と敬称させてはばからない感性は驚愕に値しますが、先ほどご慧眼により看破なさった点、漫談ブームに関してのご指摘ですが、私は監督が漫談ブームへの造詣に関して人後に落ちることはあるまいと、半ば確信しております。枯痔馬”監督”の最新作に登場した”THE・醜女(ざ・ぶす、と読む。顔面の生まれながらの不出来に懊悩する中年OL)”役の斜陽中年女子声優へする、監督の演技指導ぶりといったら! 妙な裏声でもって、『間違いない』を決めフレーズとするあの漫談師と寸分狂わぬ抑揚を忠実に真似るそのアテレコぶりは、まさか漫談ブームを意識しなかったとは言わせません。加えてその発話内容の放つ政治臭ぶりは、学生自体にゲバ棒を握って機動隊の一員の脳頂を強打したことのない、膣内ではなく、ちり紙の上に放出した精液と同じ青臭さをふんぷんとまき散らしておられました。無論、『ゲームと現実の線引き』を常に遊戯者に意識化させる手法をお取りの”監督”のことですから、当然照れ隠しとしての結果、ひいきの斜陽中年女子声優にする体当たりの演技指導に熱が入りすぎてしまった結果のことだとは推察しますが! しかしこの業界に長くいる先達から忠告させて頂きますなら、『ゲームと現実』より、『ゲームと映画』の線引きを、まずご自身に対する周囲からの敬称から、改めていってはいかがかと存じますね(口端を歪める)」
 「(顔を真っ赤にして、異様な早口で)わ、私が推測するに、やつらは本当は、心の奥底ではゲームなんて全然プレイしたくないと思っているはずなんです。ゲームに対してあまりにも膨大な時間を費やしてきた結果、ゲームそのものには致命的に飽いてしまっているはずなのに、それが無い時間は不安でしょうがないから、ゲームをしている。ちょうど重度のアルコール依存者が、血中にアルコールの含まれていない状態に精神的な不安を生じるように、ゲームの存在しない日常に不安を生じるまでに依存してしまっているのです。ここで不幸なのは、他の依存症と同じく、周囲からはそれ無しではいられないかのように耽溺しているように見えるのに、当の本人は少しも状況に楽しんでいない、ゲームをすることを楽しんでいない、むしろ不愉快と苦痛を感じている場合がほとんどということなのです。私の意識する私のゲームの購買層は明確です。『20歳を越えてまだゲームをし、映画館に出かけて行く程度の能動性の無い成人男性』がターゲットです。ゲーム内にパロディ化された特定映画の一場面に、彼らが微苦笑を浮かべるのではなく、むしろ感涙を浮かべるとすれば、それは彼らの無知と精神性の低さを間接的に戯画化し、批判していることになる。私の手法とは、他の健全な人々が社会的居場所を築くために使っている膨大な時間をすべてゲームに費やしてきている彼らの無為を、彼ら自身にはそうと気づかせぬまま徹底的に愚弄することなのです。ネット上で彼らがゲームにする批評の舌鋒が時に気狂いじみているのは、つまらないゲームは自分たちの日常の、ひいては自分たち自身のつまらなさとオーバーラップするからです。自己存在の否定に対して、人間は最も強く抵抗を示します。彼らは無意識的に、自分たちの営為のつまらなさ、意味の無さを知っているのです。私は彼らの存在の位置を、私の作品を通じて社会の中にマッピングすることが目的なのです。消費するばかりで生産することを知らぬ彼らの平面的な実在の有り様を、立体化する作業なのです。だから、あんな同人誌みたいな二次創作ではないんですゥ! すべて意図を持った演出技法の一環なのですゥ!(両腕をぐるぐる回しながら、絶叫する)」
 「(飛び散る唾に対して左手を風防にして、煙草に火をつける)私の好きな言葉に、『人生について考えるのはいいが、人生の意味について考えてはいけない』というのがあります。人生の意味とは、すなわち死の意味ということで、他の事象とは違って死が個別的であるという点から、死の意味も決して一般化のできない個別的なものです。つまり、正解が無く、他者へ言葉を使ってその意味を疎通することもできません。思考が言葉によって定義されるというなら、言葉が他者への伝達を基とするというのなら、究極的には、言葉で死を考えることはできません(ゆっくりと煙を吐き出す)。君が愚弄するまでもなく、彼らはすでに社会的制裁を受けているじゃないですか。それこそ、暗黙のうちに。この社会での断罪とは、かつてのような石もて追われ罵られることではなく、完全にその存在を無いものとして扱うこと、無視と同義ですよ。愛と憎悪はベクトルを変えた同じ力です。君の絶叫はつまり、彼らを愛しているという絶叫とも考えられる。更に言えば、君は自分自身を社会へどう位置づけるかに未だ執着しているように見える。君が、無視された者たちに心ざわめかせるのは、自分の商売に必要な相手という以上に、かつて自分が彼らの一人だったことを知っているからじゃないですか? (顔面総チックとなった枯痔馬が言いつのろうとするのを手で制すと、眼鏡の位置を直す。眼鏡のガラスに照明が照り返し、表情が読めなくなる)君の作品から判断するに、君は童貞ですね。君に足りないのは、成功体験ならぬ、性交体験なのです。見かけのハードさによらず、君の銭入ゲーム(銭湯闖入ゲームの略)が子ども向きだと私がどうしても考えてしまうのは、君の提示しているものがセックス未満の世界理解、セックス未満のエロスに満ち満ちているからです。ひとつもっとも顕著な例を挙げるなら、乳の揺れです。君が知っているように『トラ喰え8』の乳は、ことごとく揺れます。対して、君の作品の乳はそのサイズの大小に関わらず、ことごとく揺れない。ぴっちりバイクスーツの隙間からのぞいていようとも、黒い下着に包まれていようとも、眼前で揺れない乳はどんなに巨大な乳であろうともグラビア写真に過ぎない。つまりせんずりネタに過ぎないということです。実際に眼前で自身の動きにあわせて揺れる乳を見たことがあるものは、あんなふうなリアリティの無さには陰茎を硬直させることはできません。逆に、自身の動きにあわせて眼前で揺れる乳を見たことがあるものは、その表面上の差異にとらわれず、『トラ喰え8』にこそ真のエロスを感じることができるのです。『トラ喰え8』は、セックスを終えた大人、あるいはセックスをする予定の子どもたちに捧げる人生賛歌なのです。君の好んで選ぶ題材であるところの政治にしても、あんなに青白い書生ふうな、個人的な神経さでは進んでいかないものです。比較の問題ですが、私にとっては下着を着用しない婦女が肉を熱い汁の中で弄ぶ類の接待を受ける官僚の方が、よっぽど人間的で好感が持てますね。私はもちろん、君の願望の投影として受け取っていますが! 君の作品の人物は、腺病質な内面は自身の投影としてリアルに、マッチョや奇形はアニメーションに影響を受けたのだろう、外挿的な”設定”が人物の本質に先行した戯画的な造形で作られている。
 「君は私の地名や悪役名の名付け作法のことを指摘しましたが、現実に存在する固有名詞はすべて歴史的情報や歴史的記憶というものを蓄積しているという事実に意識を向けたことはあるでしょうか。つまり、すでに物語を含有している名詞を積み重ねて、俗に”リアリティ”と呼ばれるものを作り出すのは、実に簡単だという事実に気がついているのでしょうか。現実に存在するものの名前を物語の中へ取り込むのは、死ぬほどデリカシーのいる作業です。その選定を怠ったり、或いは全く無自覚だったりすれば、たちまち他人の蓄積してきた現実に君の物語は取り込まれ、圧倒されてしまうでしょう。私の観察を言わせてもらえば、物語作法の順序を違えたせいで、本来不可欠であるはずの自分の現実と他人の現実の境界を意識することのないまま、君は自己定義の袋小路に迷い込んでいます。微に入り細に入ったギミックを膨大に積み重ねることで外殻を作りあげると、その外殻を遠目から一見したものはそれが形を成しているので、そこに中身が存在するかのような錯覚を生じます。君たちの世代の物語作法とは、まさにこれです。世界観や思想とは、個人の傷や偏見と同義であるにも関わらず、それを徹底的に排除するように教育を施されてきた君たちの世代のする物語は、すべてこの方法でできています。(遊児、立ち上がる。ほんの一瞬、数倍にも膨れ上がったように見える)おまえの世代の歪み、同情には値するが、物語を愚弄することだけは許さねえ!(悪鬼の形相。気迫が突風となって吹き上がる)」
 「(頭を抱えて這いつくばって)ヒイィッ!」
 「(穏やかな表情で)ただ、THE・醜女の人物造形には感心した。美容整形に成功し、社会的に容認され、いまや周囲の誰からも求められる新しい自分を、自分自身が実は一番求めていないことに気がつくことを描写する下りは、私の見ている”現実”に肉薄していた。外挿的設定、外観的パーツへの偏執愛から人物造形する世代にはわからないかも知れないが、本来人物造形とは、キャラクター本人が自身の自我をどのレベルにまで深めて言語化できる知性を持っているか、によっている。若しくは、それを視聴するものが、キャラクター本人によって言語化されない自我の部分をどのレベルにまで言語化して補うことのできる知性を持っているか、によっている。意識してのことかどうかは知らないが、おまえの描いたTHE・醜女は、この両翼から、既存の人物造形のレベルを一段階押し上げていた。なぜならTHE・醜女の自我と知性は、本来中年OLのそれに過ぎなかったはずなのだから。彼女の持つ苦悩の深みは、そして彼女の愚かしさは、私を泣かせるに足る。その点に関しては、この通りシャッポを脱いで賞賛しようじゃないか(言いながら、頭頂のカツラを一瞬持ち上げて、また元のように下ろす)。
 「おまえはまだ人間を知らない、世界を知らない。おまえはまだ物語という広大な広がりの、端緒についたばかりだ。おまえが今まで俺の前へ提出したおまえ自身の物語は、THE・醜女の悲哀だけだ。これを殿軍に実作の世界から遁走し、無朽の位置に自分を押し込めようとする気じゃないだろうな。(親指で自分を指し)俺という、真実からの評価には目をそむけて。おまえはまだ、偉そうに誰かを指導できるほどの物語を物語ってはいない!(テーブルを一足飛びに乗り越えると、酷男の肩口を蹴りつける。たまらず土間に転がり落ちる酷男) もう一度地面に這いつくばれ! 人間という名前の巷間を、吐かれている反吐と同じ目線でいざってこい! (座敷から土間を見下ろして)そうして、ここまで登って来るんだ。俺を脅かすところまで(口の端で笑みを作り、人差し指で招いてみせる。ジャケットを羽織ると、息を切らせて店に駆け込んできた賢和の手から缶入りの煙草を取り上げて、出てゆく)」
 「(土間に寝そべり、呆然と天井を見上げる枯痔馬に気づいて)監督ッ!」
 「(ゆっくりと賢和を見る)賢和、か。悪いが、俺とお前の師弟関係は、今日この場で解消だ」
 「(うろたえて)な、何を言っているんですか。あんな才能の枯渇したとネットで評判のロートルに言われたことを、気にしてるわけじゃないでしょうね。(ノートパソコンを取りだして)ほら、監督の新作もネットでこんなに好評を博しているじゃないですか! ネット上での人気調査でも、『トラ喰え8』を押さえて監督の新作がトップですよ(前歯の抜けた口腔を見せながら笑顔を作る)」
 「(悲しそうに見返して)そうか、わからないんだな。あの遊児が、ホーリー遊児が、俺を敵として認めたんだ。あの膨大な力に対抗するのに、弱い者はいらない。足手まといはいらないんだ。俺はいま、一瞬の油断も許されない、戦いの密林へ踏み込んでしまった。俺はおまえの世代を導くほど、まだ自分の世代に責任を果たしちゃいなかった。(陶然と)いまになって気がつく。俺は、俺の浅薄な世界理解を、何の反論も許さないほどに粉々にうち砕いてくれる”シ”を求め続けていたのだと。家族、学校、会社、社会、みなが俺の価値を認めてきた、尊重してきた。その温情と愛情と平等の錯綜する地獄のような穏やかさの中で、俺は常に違和感を感じてきていた。俺はようやく、”シ”と呼べる人に出会った! そうだ、俺はずっと、俺よりも力強い誰かに、俺自身を強く否定されたかったんだ!」

パアマン(?)

 知らず折り曲げた指が地面を掻き、伸びた爪の間に侵入する砂の不快感が、私を覚醒させた。
 私は先づ自分の身体を見下ろし、其れから、周囲へと視線を向ける。
 其処は、莫大な伽藍だつた。否、正確には莫大な伽藍だつた物の廃墟と云ふべきか。
 振り返れど、其処には何も無ゐ。
 見回し、壁も天井も、踏み締める地面を除ひては、此の膨大な空間を限定する物は何も無かつた。
 立ち並ぶエンタシス式の柱が、辛うじて人の存在を許す回廊を、莫大な空間の中に切り取つてゐた。
 「やあ、ようやくこの場所へたどり着いたか。君も存外間抜けだな」
 莫大な空間を響き渡る風のうねりのやうな物が、鼓膜の上へ集約し、意味の有る音像を結ぶ。
 気が付ひて振り仰ぐと、遥か上方から、薄ゐ光が射してゐる。
 天井は、矢張り見えなゐ。
 差し込む微かな光に舞ふ塵埃は、嘗て其処に在つた物共への、栄耀の残滓を思はせた。
 「環境の起伏が人間の中へ価値判断の基準を生じる。起伏とはつまり、完全な平面状態からのいくつかの欠落を意味すのだけれど、ぼくたちが生まれたとき、ぼくたちを取り巻く環境にはその起伏がまったく無くなっていた。つまり、ぼくたちは何の欠落も無い状態で、完全に正しく育てられすぎてしまった。だから、ぼくたちの中には何の価値基準もない。そのかわりに、ぼくたちは他の世代すべての等しく持つ価値の歪みを客観的に察知でき、場合によっては適切な批判を加えることもできる。しかし、その客観性はあまりに客観的すぎるんだ。価値基準が世界と反応して生まれた違和感が個人に発信をさせるが、価値基準を持たないぼくたちには発信することができない。せいぜいがその永劫の客観性の中で、批判の言葉を加えるくらいだ」
 身を起こさうと前傾すると、頭の上に乗つてゐた帽子のやうな物が床に落ちて、渇ひた音を立てた。
 両目の為の覗き穴が刳り抜かれた、丁度青ひ洗面器のやうな其れは、私の感情に細波一つさへ、起こさなかつた。
 私は肩にへばりつく、ぼろゝの外套を剥ぎ取つた。
 何か鋭ひ爪のやうな物で裂かれた跡の在る其の外套は、不自然な程長く宙空に留まつた後、フワリと床へ落ちた。
 「その意味で、ぼくたちはつねに自分たちを例外的な存在としてきた。つまり、世界の埒外にいて、そこから世界を観察し、ときに批判する存在として存在してきた。ぼくたちは、永遠の聖なる傍観者なのだ。現実を、そこに汚れることを誰よりも強い焦燥感で熱望しながら、本当の意味では一生涯、そこにわずかでも触れることはかなわない、さまよう幽霊のような存在がぼくであり、そして君さ。この状況は極めて絶望的だが、絶望は現実に属するものなので、ぼくと君は本当の意味で絶望したことなど一度もない。ぼくも君も、そう、あの人が死んだときだって、実際少しも悲しくなかった。次の朝目が覚めたとき、昨日は確かにあった絶望のポーズのようなものはすべてきれいさっぱり消えていて、いつものような生きていないものの持つ気怠さだけが、唯一最も愛おしいものであるかのように身体の芯にあった。すべての現実に属する感情は、ぼくや君にとって一種の演技であり、ポーズなのさ」
 頭の底に軽ひ頭痛がある。
 声の内容は良く理解出来なかつた。
 だが、声の伝えやうとする気分は、恐らく殆ど完全に理解する事が出来た。
 「だからもう、このへんで終わりにしないか。世界はどこにも確定しないらしい。どれだけ言葉を積み上げても、世界は確定しない」
 突如、映像が脳裏にフラツシユバツクした。
 木漏れ日と、少女と、在り来たりな午後と。
 其の意味する処は解らなかつたが、其れは何故か私に力を与えた。
 私は屈み込むと、洗面器と外套を拾ゐ上げた。
 軽く砂を払ふと、再び其れらを身に纏ふ。
 「どれだけ繰り返したところで、それはきっと同じなんだ。同じ絶望に、何度も繰り返し気がつくだけなんだ」
 焦るやうな早口で、声が告げた。
 絶望は、無い筈では無かつたのか。
 其の裏腹さに、微かな愛おしさを覚えてゐる自分に気が付く。
 私は知らず真直ぐ上へ、微かに光の漏れる遙かな上へ、人差し指を掲げてゐた。
 其れは自分の為と云ふより、寧ろ声の主に感じた愛おしさの為だつた。
 完全な沈黙が降りた。
 確かめるやうに、床から僅かに浮揚する。巻き上がる砂埃が円を描くやうにして、周囲へと散る。
 瞬間、柱の間を吹く風が鳴り、私の鼓膜に声を結んだ。
 最後に聞ひた声は、酷く力無く、そして、酷く優しく響ゐたやうに思えた。
 「君は、本当に強情だな」
 私は、微かな光を目指して、上昇を始めた。
 この物語は私ひとりのものではなく、私ひとりが語るものでもない。しかし物語は一つである、そしてまた事実として語られる事柄が、語り手によって、違った響きをもつときは、貴方がもっとも好ましいと思われる事実を、事実として選べばよい。かといってそのいずれもが虚偽ではない、そしてすべては一つの物語なのだ。

(ル・グィン、『闇の左手』)

生きながら萌えゲーに葬られ(1)

 「そもそも、愛や夢や希望などというものを虚構の中に持ち込まないで頂きたい。
  現実に可能なものは、ただちに戸外で実行すればよろしい。
  愛や夢や希望が虚構の上に体現されているのを見るとき、私は君たちの
  埃の浮いたコーヒーマグや、四畳半の万年床や、
  アルバイト情報誌の隣に転がる酒瓶を否応なく連想させられてしまい、
  段ボールの底に横たわる皮膚病の赤犬とつい目が合ってしまったときのような、
  やるせない気持ちに陥るからである」
 「犯罪性向を抱えた優しい精神薄弱者たちが、人々にとって脅威となることを回避するために作り出されたはずの遊戯は、バネがたわめられた分だけ高く跳躍するように、当初は予想もされていなかった方法で社会へと反動しつつある。健常者たちに犯罪性向だけを植えつける装置として機能し始めているのだ」
 手のひらへわずかに暖かさを伝えるティッシュをもてあそびながら、そうつぶやいてみる。立ち位置を明確にしないがゆえに可能な新聞的高所からの批評を自慰の直後、わざわざ声にする癖がついてしまった。つまるところ、この行為がうしろめたいのだろう。
 眼前のモニターにはパステルカラーに彩色された少女が頬を染め、巨大な眼球を潤ませてこちらを見ている。途端、胸は締め付けられるような哀切に満たされ、一度は萎えたはずの男性が再び硬直してゆくのを、上田保春はまるで他人事のように眺めた。客観的な事実としてか弱い少女への嗜虐心とそれに起因する歪んだ喜びを観察するのはまったく不快な体験と言えたが、その感情は彼自身と無関係どころではなかった。人々から我々に向けられる嫌悪は、だとすれば至極当然のことだ。外耳全体を覆うヘッドフォンを取り外すと、目線の高さにまで積み上がった長方形の紙箱を青黒く隈の浮いた目で眺めながら、彼は深いため息をついた。少女たちの奔放な姿態が様々のデフォルメで各面に描かれているが、誰もが特定の年齢には到達していないという点で共通している。少女たちの頬は人類の血液ではありえない色調で紅潮し、湧き上がる衝動に耐えられないといったふうに例外なくその瞳を潤ませていた。「萌えゲー」の外装を見るときいつも、特定の感情を激しくゆさぶられずにはいられない。ある側面でそれは父性に似ていないこともないが、父性と定義してしまうにはあまりに反社会的な要素を含みすぎていた。
 上田保春の愛好する萌えゲーとは、アニメ風に描かれた少女と最終的に性交することを目的としたアダルトゲームの一種である。主にパソコン上で楽しむ、挿画の豊富な官能小説だと考えればわかりよいだろう。社会からなされる認知の温度は駅売りの官能小説と同程度に低く、全人格的な開き直りを伴わなければ、それへの愛好をわずかに表明することさえ難しい点で共通している。従来のアダルトゲームがアニメ風とは言え、成熟した女性を性の対象と考えてきたのに対して、萌えゲーは一定年齢以下の外観を持った少女をその対象としている。昨今の社会状況に鑑みて、一定年齢以下なのはあくまでも外観のみということになっている。萌えゲーをプレイすることの主な目的は性的昂揚の促進に加えて、少女たちが自己決定できないゆえに知らず発散してしまう依存や媚びを愛玩することである。手のひらで冷えてしまったティッシュをくずかごへ放り込みながら、人に言えぬこの趣味は健全に発散できない父性の代償行為なのだと、上田保春はいつもの強引な一般化を口にする。だが、下半身を丸出しにしてモニターに対峙するその姿は、誰を説得することもかなうまい。現代の反社会性の肖像は品格を喪失し、もはや堕落論的ですらないのだ。
 窓の外へ目をやれば、日はとうに落ちている。それは新たな日曜日がまた萌えゲーの消化だけに費やされたことを意味していた。人生の空費だとか若さの漏電だとか、その手のことはもはや誰かに言ってもらうまでもない。それらの言辞は上田保春に内在化し、常に同じトーンで頭蓋の内側へ再生され続けている。言葉で状況を了解してそれで止められるくらいなら、そもそも彼は萌えゲーおたくにはなっていないだろう。母親に構われすぎたゆえの現実への無気力と、その窒息するような愛情への逃避先として架設した、二次元を対象とする性愛と。ほら、説明はいくらでもつく。だがそんな言葉は、男性をむきだしにパステルカラーの少女を眺める自分とは、何の関係も無いのだ。理由の無い繰り返しこそが、彼の日常なのである。長く呼気を吐き出してから緩慢に立ち上がると、上田保春はガレー船の漕ぎ手が嵌める足枷のように足下で丸まっていたブリーフと有名量販店のジャージを腰まで引き上げる。ガレー船の認識は、彼にとって比喩のように響かない。上田保春がとらわれている現代の陥穽は、ガレー船の漕ぎ手の境遇と何ら変わりないからだ。
 インスタント食品がレンジで回る低い音を尻目に、テレビの周辺に山と詰まれたDVDからアニメ作品を取り出し、食事中のバックグラウンドビジュアルとして再生ボタンを押す。二次元の映像に耽溺しない時間にわきあがる正体不明の不安、それに名前をつけることができた試しはない。喫煙者がニコチンを血中に切らしたときの不安と同じ種類のものではないかとも想像する。上田保春に煙草をのむ習慣は無い。彼の本質は耽溺や中毒と遠いとは言えなかったが、収集したものがヤニで汚れることを嫌ったゆえの克己であり、後天的特性が本能を凌駕し得る近代人的自我の体現と言えた。
 上田保春はテレビ番組を見ない。独り身の夜には、テレビ画面に人が動いているという事実が救いになる瞬間もあるはずだが、彼は意識的にそう努めている。三十路を迎えた頃だろうか、社会の規定する理想的な人間像とははるか遠い場所にいる自分が強く意識され始めたからである。あらゆる番組が上田保春を視聴者として想定していないことが理解されると、ブラウン管を通じて提示されるすべてのメッセージは、彼の安住するささやかな生を否定しているように受け止められるようになったのだ。日曜の夜に放映される昭和を再生する大家族アニメなどは、人々の健全な生産性を管理する目的で国家全体の産業計画を黙々とスケジューリングしているようにさえ映り、社会主義の足音を間近に聞く錯覚すら覚える。また、ときどき画面へ現れる萌えゲー愛好の同類さえも戯画的に描かれた珍獣のような演出を必ず伴っていて、上田保春はそのあからさまな敵意を見るにつけ、背筋へ寒気を生じるのである。番組制作者は彼らの異常さを強調することで、階級制度が人間の精神にとって合理的であることを立証しようとしているのかも知れぬ。二十代前半のうちはテレビ番組が誘導する平均値的な生き方へ、自然と現在の誤差は修正されいずれ合流してゆくのだろうと無邪気に予想していたので、来るべき将来の姿として余裕を持って相対することができた。だが、テレビの提示する人生のイメージと自分の実際との距離が次第に離れてゆくことに、上田保春は気がついてしまった。アニメ作品がほとんどであるが、萌えゲーおたくとしてどうしても視聴を避けられない番組は、極力コマーシャル抜きで予約録画したものを見るようにしている。ほんの数十秒のコマーシャルですら、ときに上田保春の現実を真二つに切り裂くような苛烈さを呈することがあるからだ。萌えゲーおたくを続けていくのに、用心を重ねるに越したことはない。
 先ほどから連呼される「萌えゲーおたく」という言葉で連想される人物の外観として、いまあなたが頭の中へ瞬時に描いた図画が一般的に認知されているが、上田保春の容姿はそのすべてを裏切っていると考えてもらっていいだろう。少なくとも十人並み以上ではないかと食事の前、カーテンを引く際に夜のガラス窓へくっきりと映し出された自分の姿を見て自惚れではなく思う。だいたい世間から悪意的に揶揄されるような、一目見てそれとわかるおたくらしいおたくなんて、ほんの一握りでしかないのだ。だが、中国人は全員カンフーの達人であり、フランス人は全員ナポレオンであるといった度外れた類型化がなぜか萌えゲーおたくの上には平然と実行され、それを誰も疑わないのである。全体主義統制下のように、提供される彼我の情報量が圧倒的に違うからだ。そして、その誤った認識が覆されることも今後決してあるまい。上田保春が代表を務める側の萌えゲーおたくは世間の悪意を鋭敏に察知して、秘境の直立歩行獣のようにはあえて人前へ姿を現そうと思わないほど十分に賢明なのである。
 一つの製品が一万円を越えることも、こと萌えゲーに限ってまれではない。南北問題を体現する搾取構造のゆえに原価が低く抑えられた、俗に販促用の特典と呼ばれる粗悪な付属物が定価を上増しする要因として考えられる。そんなものは誰も必要としていないと思うのだが、同じく搾取の下部構造にいる上田保春に反駁の権利は与えられていない。自らの趣味嗜好が含む犯罪性に後ろめたさを感じているから、路地裏で売人の言い値に従う他はないのである。多い月には十万円を越える金額を諾々と支払うのだが、それは何ら特別な行為どころではなく、萌えゲーおたくを続けていくために必要な最低限のみかじめ料に過ぎない。この巨額の遊興費に破滅しないことが、彼に自身の社会性と正気を信じさせる理由の一つになっていることは皮肉である。
 萌えゲー愛好を言うことがいかに異様に響くか、上田保春は客観的に理解しているつもりである。「萌えゲー」という言葉を聞いたときに漏らされる失笑と侮蔑の鼻息だけで、この執着のすべてを否定するのに過不足無いこともわかっている。現代に生きる人々の中で自己の対象化を彼ほど進めているのは、他には哲学者か歴史学者くらいのものだろう。人類の歴史とその精神史上に占める自らの位置を相対的に把握できるからこそ、すべてを秘し隠して生きてゆくことを選ばざるを得ないのである。上田保春は、職場のデスクトップパソコンの壁紙に萌えゲーの少女を設定している知り合いを思い出して眉をしかめた。心の有毒物質を漏洩させぬため、週末に行う安全の指さし確認を妨害される気持ちになったからである。だが、その男の職種は某大学の入試業務全般を担当する事務方であり、彼のパソコンを見るのは閉じた事務室の同僚ぐらいしかない。同僚からの悪感情が表計算ソフトの数字や売り上げを乱すこともなかろう。これが一般企業の営業職についている人物ならどうか。社のデータを入力してあるノートパソコンの壁紙に萌えゲーの少女を設定することは、もう完全にあり得ない出来事だと言えるだろう。もし、他社の気むずかしげな役員たちを前にして、萌えゲーの少女を背景に得々とプレゼンテーションを行う誰かを現実に見ることができるのなら、上田保春は己の世界観の偏狭さと無知を打ちのめされることをむしろ喜び、涙さえ流すだろうが、待ち望んでいるその機会には未だ巡り会えたことがない。無論、萌えゲーそのものやそこから派生する経済圏に関わることで金銭を得ているのならば話は変わってくるのだろうが、それにしたって新興宗教の布教活動の如く見られるには違いない。新興宗教が新興で無くなるためには、数百年を長らえる強度が必要である。つまりキリストの死を目撃してしまった上田保春は、ただ誰にも知られないよう頭を低くしている他はない。
 同性愛をカミングアウトする人々の勇気に、上田保春は敬服する。同性愛者を積極的に許容しようとしない態度がどこに論拠を持つかと言えばおそらく、「次世代につながらない」という一点なのだろう。萌えゲーを愛好する上田保春は、自分の嗜癖が同じ根を持つことを自覚している。性愛の対象が現実には存在しないという意味で、同性愛者よりもさらにもう一階梯分、人々からの認知の可能性は低いと言える。もちろん、上田保春の悲観を慰める態度や同情的に擦りよってくれる素振りも無いことはない。世の中にはいろいろなものに熱中する態度があって、その意味では誰もがおたくと呼び得るという意見がその一つだが、上田保春の現実において全く有効ではない、ほとんど競技ディベートの反論ぐらいに過ぎないと思う。萌えゲーおたくが例えば鉄道おたくなどと決定的に違うのは、他のおたくたちがその趣味を人生の一部と肯定し、ときに公言さえはばからないのに対して、抱く愛着を誇ることが外的に封殺されている点にある。いわば異端の神への信仰、常にうしろめたさを抱えながら誰に対して懺悔することも改宗することも不可能なのだ。趣味という表現よりも、アルコールやニコチンや薬物への中毒と同じ種類のものと説明した方が実状に近いし、モニター上に映った少女の図画を見て興奮するような嗜癖を持たない善良な人々からの同情票も得やすいだろうというのが、インターネット上に頻繁な萌えゲー擁護の発言を見るときに抱く上田保春の感慨である。新聞投書と同じ、嫌悪のまなざしを実際に受けることのない場へ投函する類の意見表明に救済はない。萌えゲー愛好に誇りを持っているし、その嗜癖を衆目へ晒すことに何らためらいはないと発言するあなたが学生でもなく引きこもりでもないのだとすれば、ぜひ次のことを想像してみて欲しい。年末年始の親族との酒宴で――そんなものは体験したことがないほど都会の核家族に育ったというのなら、場面は社員食堂だって友人の結婚披露宴会場だって構わない――積極的に萌えゲーの話題を切り出し、その場の雰囲気を冷却してしまわないことができるかどうか。テレビに登場する同類たちの如く道化にだけ徹する気概を持てば、その後の人間関係のすべてを犠牲にして一時的な笑いはとれるかもしれない。
 つまり、愛しているものを誰にも誇れないことが、萌えゲーおたくの抱える根元的な問題の一つなのです。
 終日、部屋から一歩も出ずに萌えゲーに耽溺していた上田保春は、心のバランスを取るためだろう、インスタント食品にプラスチック製のフォークを幾度も突き刺しながら、頭の中に作り上げた架空の聴衆に向かって語りかけ始めた。王様の耳はロバの耳、真情を吐露することをほとんど物理的に禁じられた彼は、ときに演説のような形で思考する癖がある。
 時代にもてはやされるには、愛好している事実を誰かに言うことが個性を表現したり高めたりすることにつながらなければならないのだと、私は痛切に感じざるを得ません。人間には誰かとより深い共感を得たいという欲求があり、それが趣味嗜好を伝播したいという欲求へとつながっているのです。その本来を考えれば性的状況ではなく世界観の描写に力点を持つ萌えゲーが定期的に流行するのも、理の当然なのであります。つまりそれらは比較的、針で突いた先と鉛筆で突いた先ほどの違いですが、公表しやすい側面を持っているということです。萌えゲーおたくの萎縮は直接的な糾弾によるものではありません。我々はむしろ卑下で自尊心を萎縮させてしまうのです。ですから、愛好するカテゴリに収まりながら同時に自尊心を補償してくれるものに救済さえ感じ、脂肪の縞が浮いた腹を見せてたちまち無条件降伏してしまうのです。一流の芸術家が持つ自己顕示欲と凡人の才能に萌えゲーが加わったとき、個人の魂に発生する神学的抑圧はほとんど想像を絶します。ですから、我々がときに萌えゲーの本来であるところの少女の媚びというよりも、社会から漏らされる嘲弄の鼻息をわずかにも軽減してくれる作品をこそ積極的に求めてしまうのは無理からぬことなのです。
 上田保春は空想上の聴衆から寄せられる喝采に、はにかみつつ両手を挙げて見せる。
 皆様のご静聴、感謝致します。
 食事を終えて流し台という名前のゴミ捨て場にプラスチックの器を投げ入れる上田保春だが、その憤りと絶望が心の聴衆がする拍手を通じて軽減されるわけでは全くない。解消されない負の感情は延々と対象を変え続けるのみである。
 こんな麻薬よりも麻薬的なゲームを年齢制限くらいの、しかもほとんど有名無実な法規制でしか取り締まらないなんて、本当にこの社会はどうにかしているとしか言いようがない。現に上田保春は学生の頃からアダルトゲームを嗜んでいる。当時、萌えゲーという定義は存在しなかったが、呼び名はなくとも同種のものは存在した。最初はほんの軽い気持ちに過ぎなかった。それこそ煙草に興味を持った中学生が父親の背広の胸ポケットから一本拝借するくらいの、罪の意識はあるがほんの気軽な一歩に過ぎなかった。いや、過ぎないはずだった。いまや上田保春は、もう自分が萌えゲー無しでは生きてゆくことができないのを知っている。自己を対象化できるほどバランス感覚に富んだ上田保春は、我の陥っている状況がどれほど人類という大きな範疇から鳥瞰して、あるいは歴史という観点から俯瞰して、異様なものであるか知っている。だが、その観察に救いは無い。どんな重度の麻薬中毒患者であっても、自分の陥っている状況を客観的に理解できていない、後悔していないなどということはあり得ないのだ。上田保春の抱く絶望とは、過去に前例が存在しないということへの絶望である。性的に嗜虐を求めようと被虐を求めようと、それは全く問題がない。そして極端な若年層や生命を喪失した身体を愛好する態度であってさえ、過去に、つまり歴史に無数の倣うべき、もしくは反面教師とするべき前例が転がっているので、まだそれらの嗜癖の持ち主には人間的な理解と共感の道が残されている。救いがあるとすら言えるだろう。
 面相の醜悪さから萌えゲー愛好にたどり着いた者たち、これははるかに業が浅い。異性と懇意にする機会を持てないが故に、その代償行為として萌えゲーのキャラクターを利用しているに過ぎないからである。この手の連中は現実の女性と交際を始めた瞬間に、これまでの女性性なるものへの怨嗟と、二次元の少女に捧げた情念は何だったのかとあきれるほど簡単に足を洗って、この比喩が定型的過ぎるというならば男性をぬぐって、さっさとここから出ていってしまう。上田保春はいくつかの実例を見てきたが、止めることができる類の萌えゲー愛好はリストカットに酷似している。無条件に受け止めてくれる場所ができたとたんに解消してしまう類の、容易な精神的宿題なのである。愛情への希求を裏返した示威行為の一種なのだから、その淡泊極まる転向劇は至極当然のことだと言えるのかもしれない。もっとも手に負えず業が深いのは、自分のような人間なのだ――上田保春はそう考える。社会に居場所はある。一万円近くもする萌えゲーを月に十本前後購入しても生活に支障をきたさない程度にはある。女性と話すことも苦手ではないし、恋愛経験も人並みだと思う。当然、性交に特別な思い入れもない。性交が特別だったのは、童貞のときの妄想の中だけだった。これを言うと萌えゲー仲間でさえ引いてしまうので、知られないように細心の注意を払っているが、現実の女性と関係するよりも萌えゲーをプレイしながらの自慰行為の方が、肉体的にも精神的にもはるかに素晴らしいのである。人間の性的達成は精神的な部分が動物よりもはるかに大きいのだろう。お互いに幻想を保持した恋愛初期段階には一定の充足を得ることができるが、こちらの幻想を一方的に投影できないほど親しくなってしまうと、つまり相手の人間としての在り方を理解してしまうと、あとは肉体的な快楽を残すだけとなり、虚空を眺めての自慰に限りなく近づいてゆく。反対にこちらの精神的なわがままさ、妄想を一方的に注ぎこむことのできる萌えゲーの少女との架空のまぐわいは、もう筆舌に尽くしがたく素晴らしいのである。どうにも出口がなく、やめられない。上田保春にとって、萌えゲーは満たされない現実の補償として機能しているのではない。だから、その業はますます深いのだ。
 おそらく――上田保春は考えている。我々は二次元の少女に葬られる最初の世代だ。萌えゲー愛好をここまで重篤にこじらせてしまう前、興味の対象は主にSF作品にあったことが懐かしく思い出される。黎明期のSFマニアがその趣味を高じさせた果てにどう死ぬかは実例が見えてきた。学生運動に身を捧げ大酒を飲み、豪放に自虐しながらもSF愛好を公言することを止めず、最後には世間と和解して磊落に死んでゆくのである。それはしかし、上田保春にとって遥かに遠い世代のできごとでしかなく、我が身を処する上での実感にはつながってゆかないだろうと思っている。上田保春は切実なのである。例えば萌えゲー無しでは生きられない身体になってしまった自分が五十になり、六十になり、七十になり、やがて現在のような肉体的自立を失った先にどのように死んでいくのか、ただひたすらに不安なのである。まさか老人ホームで若い看護士に弛緩した股座を濡れタオルでぬぐわれながら、萌えゲーをプレイするのか。誰も萌えゲーおたくがどんなふうに死ぬのかを知らないのだ。「過去に前例が存在しない」からである。誰もこんなふうには感じないのだろうか。よもや卒業できるなどと夢にでも考えているわけはあるまい。上田保春も過去に何度か萌えゲーから足を洗おうと試みたことはある。しかし、そのすべてはことごとく失敗に終わった。ハードディスクをフォーマットしてグラビア付きの週刊誌を買いにコンビニへ出かけたところで、自慰行為の絶頂には検索エンジンで二次元の少女画像をサーチしているのに気がつくのである。インターネット上に羅列された萌えゲー愛好者たちのする軽繰的な言辞に、上田保春は疑いを禁じ得ない。彼らがこの不安を感じていないはずはない。祭りの終わりにある現実の到来を延着させるために、こんなにも明るく騒ぎ立てるのだろうか。萌えゲーへの狂騒の正体が祝祭的な熱狂であると知りながら、それを日常の連続へと着地させようとする自身の愚かさと、現実との齟齬を理解するからこそ彼は苦しむ。萌えゲーをプレイしている間だけ、真実の生に接続することができると上田保春は感じている。それ以外の時間はすべて不安な灰色の繰り言に満たされている。舞台を降りた歌手が現実のモノトーンに耐えられず麻薬やアルコールへと耽溺するように、最近ではときに日常がさしこみのように胸元にせり上がってきて、耐えられないと思う瞬間が頻繁に訪れるようになってきている。萌えゲーは上田保春の何かを刺激した。欲望をかきたてた。だが、彼の欲望の対象はどこにも存在しない。おそらく最後までその事実と折り合いがつけられないのではないかという漠然とした予感がある。
 上田保春の人生は――もう、萌えゲーの少女たちに葬られてしまっていた。

生きながら萌えゲーに葬られ(2)

 「萌えゲーおたくは清純な娼婦のようなものなので、猥褻な言葉の奔流の中に少しの美しさを忍ばせて提示するしか方法が無いのです。それ以外のやり方を採用するなら、我々の発言は何もかも嘘か作りごとになってしまうからです」
 上田保春の夢へ定期的に登場しては叫び声をあげさせる記憶が、地表を埋めてゆく無数の十字架というビジュアルイメージで脳を浸食してゆく。金縛りから逃れるために繰り返す般若心経の如く、猥褻な言辞を繰り返すことで意識を過去から離脱させると、背中にじっとりと湿気を感じた。目を開くと分厚いカーテンになお遮ることのかなわない朝の陽光が室内へ染み出してきている。上田保春がいるのは、蛍光色の頭髪を生やした少女の痴態が丹念に描写された、商業的な販売経路を持たない冊子を同級生に高々とつかみあげられて泣くあの放課後ではなく、自室の布団の上だった。
 枕元に目をやると同時に、秒針が垂直に真上を指す。五時五十九分零々秒。鎮座する目覚まし時計が鳴り出す一分前に上田保春は毎朝を起床する。萌えゲーの少女が盤面に印刷されたそれは正座をした彼によってうやうやしく掲げられ、宗教儀式にも似た厳粛さでスイッチをオフにされる。いったん鳴り出すとこの目覚まし時計は萌えゲーの声優が直接吹き込んだ声で、本当にいい声で鳴るはずなのだが、未だ彼はその哀切な快楽の悲鳴を聞いたことはない。薄い壁一枚隔てただけの隣人に、官能の極まったいい声で鳴っている目覚ましの音を聞かれたりしようものなら、それこそ我が身の破滅だからである。この目覚ましを枕元に置くようになってから、こと起床時間に関して上田保春の体内時計は完璧に調節されている。精神集中を高めた賭博師が指で繰った辞書のページ数を見ずに当てることができるように、秒単位の正確さで彼は毎朝を起床するのである。
 朝食を取らない態度には感心しないという態度にも感心しない、批判で身上を立てるうちに自身の信条さえ輪郭を喪失し曖昧化してゆく上田保春の朝食は、一本のバナナと一杯の牛乳だ。エネルギー効率とかそういった類の選択ではなく、世間という苛烈極まるあの場所に出ていく直前の時間を二次元に触れること以外に使いたくないがゆえである。玄関を出る前に一つか二つ空咳をして喉を通すことを、上田保春は忘れない。廊下で隣人とはちあわせた際に、くぐもっていない声で挨拶をするためである。挨拶をする声がくぐもっていないというのは、萌えゲーおたく同定を避ける重要なファクターであると彼は信じて疑わない。
 七時三十四分発の快速電車に乗り込むと、上田保春はいつもの位置に身体をねじこませた。吊革に体重を預けるとようやく一息つくことができる。満員電車ほど、痴漢・痴女の類を除くならば人々の関心が他者へ向かない場所も無いからである。無味無臭の一乗客として、上田保春は自己定義の隘路を迷走する日々の苦闘を一瞬だけ忘れることができる。弛緩した表情で車内を見回すと、全く思いもかけず見慣れた文字群が視界に飛び込んできた。
 曰く「少女」、曰く「萌えゲー」。
 上田保春の動悸は爆発的に高まり、身体がその非日常から身を離すようにのけぞってしまうのを押さえきれない。思いもかけぬ告発が、突然に自分を名指ししていると感じたからだ。隣に立っていた中年男性が不快げに押し返してくるのを感じ、上田保春は我に返る。平静にさえしておれば、誰も自分の内面の動揺を見透かしたりできるはずがない。彼は小兎のようにうろたえてしまった自分の小心を恥じた。そんな頼りなさでこの揚げ足取りの苛烈な現代社会を、萌えゲーおたくとして生きのびていけるはずがないではないか。一般人の群れの中で脳裏に浮かべることすらはばかられるその文字列への反応を政府直属の野鳥の会メンバーが線路脇から双眼鏡でチェックしており、後日萌えゲーおたく同定の葉書が役所から送付されるというファンタジックな妄想が瞬間脳裏をよぎり、上田保春は思わず苦笑を浮かべる。よく見ればそれらの単語は、車内の吊り広告に印刷されたものだった。「真昼の爆発事件――秋葉原、日本橋のアダルトゲームショップを襲った惨劇。犯人は『萌えゲー』愛好家?」との見出しに、どうやら同類がまた何かしでかしたようだと察知する。
 上田保春が新聞を読まなくなって久しい。なぜならテレビ番組と同様に、生まれたての子鹿のような彼の自意識を脅迫しない新聞記事など、この世のどこにも存在しないからである。上田保春は時事問題についての情報源をもっぱら電車内に掲示された女性週刊誌の吊り広告に依っている。世間があまり陰惨な事件に満ちていない場合、女性週刊誌は何ヶ月もの間、同じ内容をわずかにニュアンスを変えただけで掲載し続けるため、この吊り広告に示された記事がいつのものなのか見当もつかない。
 だいたい、おたくと言えば日本橋や秋葉原などというのは周回遅れの連想である。それらは巡礼者のための古びた聖地に過ぎないのであって、世間に揶揄されること頻繁な、そこをわざわざ詣でるような居直った連中はむしろ少数派である。ほとんどの萌えゲーおたくはより安全な、つまり積み上げた紙箱を抱えてレジへ向かうのを知人に見られたりする危険性の無いネット通販ですべてを済ませるはずなのだ。萌えゲー以外の住所を現実に持っているならば、その居留地を喪失して難民化する危険をわざわざ興味本位で冒したりはしないものである。吊り広告の「爆発事件」とやらに巻き込まれた人々の中に、ほんの興味で店をのぞいただけの一般人がいたとすれば同情に値するが、居合わせた同類たちには不注意と不用意への批判を向けざるを得ない。病院のベッドで包帯に巻かれながら、上司にどんな理由で長期欠勤の電話をするのかを想像するだけで胃が縮み、足のすくむ思いがする。
 それにしても――上田保春は慨嘆する。これでますます、自分のような萌えゲーおたくはカミングアウトが不可能になってゆくなあ。個人のホームページに萌えゲーのグッズを満載した部屋の写真を掲載し、「いまこの部屋に踏み込まれたら、ヤバいっすよ!(笑)」などとキャプションをつけているのを見たことがあるが、全く笑いごとどころではない。近頃は真剣に、冗談にまぎれさせてしまうのは危険すぎるほどに、「ヤバい」のである。あの手の日記を記述する連中はどの程度この身のすくむような社会的苛立ちの高まり、我々へ向けられた人外の畜生を見る如き嫌悪を感じているのだろうか。「自分は萌えゲー愛好家だが、犯罪性向などひとかけらも持ち合わせていないし、誰もが特異なものを持っている趣味の一貫なのだから、何ら恥じるところはない」と強い調子で、誰に向かってなのかわからない言辞を繰り返し発信するような人物は、自室に全くその傾向が無い人々を連れ込んだ場合、精神的動揺を感じない、感じさせない何らかの公算を持っているのだろうか。上田保春が自分に置き換えてその想像をめぐらすとき、「死にたい」とも違う、「消えて無くなりたい」、「この世に存在していたことすら、すべて水に流してしまいたい」という気持ちが、生まれてきたことへの後悔の念とともに膝頭から全身を駆け巡るのを押さえることができない。実際に罪を犯そうが犯すまいが世間の目からは、萌えゲーの少女を愛好する誰かは全く、一ミリのずれも伴わないほど犯罪者、特に性犯罪者と同義である。萌えゲーの大量保持者であることが発覚し、青少年への性的略取根絶をスローガンに掲げるNPO団体に市中を引き回され都心のスクランブル交差点に生首を晒されたとして、警察がただ死因を「萌えゲー愛好」とのみ断定して捜査本部を解散するような社会状況なのだということを同類たちは実感として理解できているのだろうか。
 しかし、そこまでの危機感を抱きながらどうしてなお萌えゲーおたくであることに執着し続けるのかと問われれば、上田保春は答えに窮してしまう。人生にこだわるものが他に無いからだとも回答できるし、質問者を怒らせることを考慮に入れないならば、萌えゲーをプレイしないのならこの世界は退屈で退屈でしようがないからとも返答できるだろう。不謹慎な話だが、例えば肉親が手術ミス等、国立病院の内部犯罪隠蔽により不倶にされたとしたら、その病院を相手取った訴訟団の代表にでもなり一歩も引かないだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば娘が無職の青年にいたずらされ、その青年の自室から大量の萌えゲーが発見されたとしたら、萌えゲーを地上から撲滅することに残りの人生すべてを投じるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。例えば近隣の半島から首都にミサイルが撃ち込まれ、政府は転覆、経済は崩壊、弾頭に含まれた成分の影響で大気には極端に発火しやすい物質が充満したとしたら、銃火器は使用できないので極限にまで肉体を鍛え上げ、レジスタンスのメンバーとして指先一つでダウンの必殺拳法を創出し、新しい秩序を確立しようと試みるだろうが、そんな現実は無いので、とりあえずいまのところは萌えゲーをしている。つまり、上田保春の中にある萌えゲーへの姿勢はすべて順接ではなく逆接でできているのである。
 世間からされる萌えゲーおたく嘲笑の尻馬に乗り、あるいはその注目を利用し、萌えゲーを文化として冷静に分析しようとする視点も無いことはない。だが、全く中立な観点から語っているように見えたとしても商業的な旨みがあるからの売り出しでなければ、萌えゲーに感情的な罵倒ではない言及を試みようとする誰かは、間違いなく二次元の少女に肉体的・精神的興奮を覚える人間である。つまりどんなに冷静な分析的視点を開示しようとも、人々の日常には不可視であるとの立場を取らないならば、それは萌えゲーの実在に随喜のリキッドを垂れ流した、諸手をあげての万歳肯定なのである。人間精神の在り方を批判するためにいくら先鋭化してみせたところで、あるいは一般人が嚥下しやすいようどれだけ甘い糖衣にくるんだところで、例えば上田保春が職場へ萌えゲーの少女が描写された何かを伴って出勤できるような、萌えゲーおたくであることを広告して一切の不利益が業務に及ばないような社会情勢は決して訪れはしないのだということだけは確信できる。もし、萌えゲー肯定派の人々が真剣にその運動を推進し、萌えゲーを愛好することが正常位と後背位の違い程度のニュアンスで世間へ浸透するとしたら、それはそれでこの国はもう終わりだろうなと彼は思う。
 萌えゲーをはじめ、架空のキャラクターに性愛を伴って没入する類のおたくを世間が全く理屈無しに強く嫌うことについては多くの理論武装があるが、上田保春が思い出すのは一昔前のSF作品である。地球に降り立った超科学の宇宙人の容姿が中世より描かれ続けている悪魔に酷似しており、人々が悪魔を無条件に強く嫌う理由は、時間は始まりと終わりをその開始の時点でループ状に伴っていて、自分たちを未来に滅ぼすことになっている存在の外見を人類の集合無意識があらかじめ知っていたからだという筋立てだった。二次元のキャラクターを愛好する者へのほとんど無条件に思える嫌悪、あるいは冗談にまぎれさせた侮蔑についても、このSF作品と同じことが言えるのではないかと彼は考えている。つまり、我々の趣味嗜好が人類を未来に滅ぼしてしまうことを知っているから、その拒絶は常に自動的なのではないか。米帝のリベラルな思想だけを鼻薬に嗅がされた子どもたちに、その愚直な勤勉さを罵られながらもまっとうに働いて、脇目もふらずにおのれの信ずる人生を疾駆している人々は、子どもたちが何か伝染性の病原体に脳を侵されて、自分たちの知らない存在になってしまうことを無意識のうちに恐怖しているのではないか。発症してしまった子どもたちは、いつまで経とうと両親の元へ伴侶や孫を連れてくることもない。その一事を取ってみても、時代と社会への誠意に満ちた彼らの人生を侮辱しており、拒絶の理由としてはもう充分この上ないのではないか。萌えゲーを肯定させよう、そこまでは無理にしてもせめて中立の無味無臭くらいにはしようという言説は、子ども時代に体験した大人からの精神的・肉体的搾取行為をこちらが成人してから相手に認めさせようとする性質のもので、何か前向きな結果の到底得られそうにない、不毛なやりとりのように思える。
 そして、この手の議論でいつも片手落ちなのは、自分のような立ち位置にいる人間の声がどこにも反映されないところだと上田保春は感じている。萌えゲーを直接的に生業にしていたり、それを傍らから論ずることで間接的に飯を食っている人々は肯定すればするほど、ときに否定すればするほど飯の質が向上するわけだが、例えば一般企業に勤める一サラリーマンが萌えゲーを愛好することを肯定したとしてそれで飯が食える道理はないし、インターネット上の言辞そのままに職場で布教の演説や活動を始めようものならば、たちまち次の日から路頭に迷うことは必定であろう。上田保春は誰かを傷つけることを目的にして、こういった思考を弄んでいるわけではない。否定とは真逆の要素が彼の煩悶には含まれているのだ。現実の女性よりもはるかに素晴らしい萌えゲーの少女たちを捨てて、この退屈で退屈でしようのない世界に、生きていかれるわけはない。彼女たちがいなければ、もう犯罪に手を染めるか自殺するかしか選択肢は無いような気さえする。結局のところ萌えゲーおたくとは、100%の精神障害や、100%の犯罪性向、そして100%の自殺願望を二次元の少女たちの力を借りて、それぞれ30%くらいにようよう薄めて、あるいは押さえこんで、社会生活をかろうじて成立させている潜在的不適応者たちの別名なのだろう。
 萌えゲー愛好を積極的に肯定できないが、それをやめることもできない現実を上田保春は知っている。自分のような人間が一番苦しんでいるのだとつくづく感じる。ダチョウが砂地に頭を埋めるが如く何も見ないようにして盲目的に、圧倒的に没入できればと願う。しかし、そんなことは到底不可能である。彼が大半の時間を過ごすのは、萌えゲーとは何の関係も無い場所なのだ。新作の萌えゲーが発売されるとインターネット上で狂繰的に感想を交わすような人々は本当に心の底から、自身の有り様に疑問を感じることもないまま、己の性癖に没入できているのだろうか。だとすれば、それほどうらやましいことはない。社会を排除しての完全な没我がうらやましい。あるいは、萌えゲーで飯が食えることがうらやましい。萌えゲー以外の場所で生きていかねばならない自分のような人間はいったいどうすればいいのだろう。その回答が欲しい。切実に求めている。だが、萌えゲーについて語られる言葉には実地の検証が無い。上田保春が求めるのは生きるための処方と同義であるのだから、萌えゲーを愛好しない人々と対面した実験が必要なはずなのだ。本当の意味で社会と四つ相撲に組み合って苦闘する誰か――その誰かは萌えゲーの少女を真の意味で愛しておらねばならぬ――を彼は見たことがない。街頭で無作為に呼び止めた一般人に、最も人体からデフォルメの進んだ類の萌えゲーの少女を見せた後にその素晴らしさを説明し、心からの賛同を得るという現実の強度を、彼は萌えゲーを語る言説に求めてやまない。もしその実施検証を乗り越えてなお有効な、現実と虚構とを自在に横断する大統一理論が可能なのだとすれば喜んで過ちを認め、萌えゲーおたくであることの賛歌を職場で、街頭で、高らかに歌い上げるだろう。
 上田保春がいつも頭の中で巡らすのはそういった、すべての齟齬や不利益をたちまち超越するミュージカル的妄想なのだが、それを形にしてどこかへ残すことはあまりに危険なので、つまり萌えゲーおたくとして最も恐れる意図しないカミングアウトの可能性を残してしまうので、自分や同類たちの言葉が発信される場所としては犯罪後の法廷ぐらいしか思いつかないなあと、満員電車に揺られながら前後左右のサラリーマンから胃を圧迫されて、げっぷともため息ともつかない音を漏らすしかないのである。

生きながら萌えゲーに葬られ(3)

 タイムカードを押して、向かいから歩いてきた女子社員と微笑して会釈を交わす。この際コンマ数秒の注視によって相手の視線をこちらに向けさせてから微笑することが大切である。
 上田保春は会社の女子社員に人気があった。どういう種類のものであれ、暴力の匂いをさせず、性へのあからさまな衝動を感じさせることのない清潔な男子は、その交流や感心が表面上の段階へ留まるのなら、女子に人気があるものだ。上田保春の暴力――軽く頬を張られた少女が困った顔をするのを見たい――や、性へのあからさまな衝動――初めての愛撫に恥じらう少女を乱暴に押し開きたい――は、すべて萌えゲーが引き受けてくれていたので、会社での彼の行動は女性に好意を抱かれるのに十分な範疇へぴったり収まっていた。
 萌えゲーおたくを続けることで細分化された上田保春の自意識は、彼の中の反社会性に気づいた相手がそのことを意識にのぼせるよりも速く察知して、矢継ぎ早にそれを否定する情報を投げかけるという防衛において発展していったのだが、怪我の功名というべきか意図しない副産物というべきか、女性の感情の機微を繊細な柔らかさで捉えることができた。テレビを見ず新聞を読まない上田保春が深く話せる話題はあの二次元空間のこと以外に無かったので、女性と話をするときの彼の行動は自然、相づちや相手の意見を別の言葉で言い換えての支持、踏み込ませないためにする見せかけの感心の断続的表明に終始した。それはほとんどカウンセラーのやり口に似ており、休憩時間中、上田保春の元へ悩みの相談に訪れる女子社員は、口コミで部署を越え結構な数になっていた。女性には誰かに話をすることで論理的に自分の考えを整理したいだとか、相手の話を注意深く聞くことで相互の理解を深めたいだとか、そういった欲求は極めて薄いというのが上田保春の理解である。表面上の臭みを消すことにさえ注意を怠らなければ、女性との交流の中で萌えゲー愛好を悟られてしまう危険は皆無だった。彼が相談を受けたほとんどすべての女性の欲求は「私だけのために時間を割いてもらう」「私の現在を肯定してもらう」という段階に留まっているのであって、それを理解してさえいれば話を聞くという一点だけでたいていの悩みは雨散霧消し、結果として相手の好意は深まるのだった。萌えゲーには登場人物やシナリオに設定された条件のリストが存在し、各項目をどれだけ満たしたかによって主人公への好悪や話の筋そのものが変化する。一定の変化に至る最後の条件を満たしたことを俗に「flagが立つ」と表現するのだが、その複雑極まるflagの管理に周到な上田保春にとって現実の女性は萌えゲーの少女よりもはるかにエキセントリックとは言えず、彼女たちとの交流に心をすり減らす心配は絶無だった。無論、これを口にしたときに女性が感じるだろう激怒も容易に想像できるので、相談相手を前にした彼が浮かべる微笑はますますその悩ましい陰影を深めていくのだった。
 また上田保春は、同僚との私的交流を極力避けるように努めている。飲み会やコンパなどへの出席は、不自然に思われない回数にとどめた。体育会系の男性社員がアルコールにまかせてする個人の性格的特徴への放言は、ときに驚くほど真実に肉迫してしまうことがあるからだ。そして何より彼はアルコールに強くないため、最初の席取りに失敗して無理やり飲まされてしまうような状況での超自我からの失言を恐れた。なぜなら萌えゲーおたくの持つ深層意識においての自暴自棄は、常にすべてご破算にしたいという願望を爆発させる機会をうかがっているからである。
 ともあれ上田保春は、総じてうまくやっていたのだ。うまくやりすぎるくらいに。しかし、三十代も半ばを迎えようとする彼のモラトリアムは終わろうとしていた。女子社員が給湯室で立ち話をしている内容を偶然に耳にしてしまったことがある。職場にいる年配の独身男性に対する発言だったのだが、それを聞いたとき上田保春は心底から社会のする残酷に慄然としたものだった。その男性社員が未だに独身でいるのは性的に×××だからではないか――×××の部分を具体的に記述するのに、上田保春の自意識は繊細すぎる――、とその女子社員らは発言したのである。本人たちには無邪気な子猫の甘噛み、ぼんやりとした午後にスパイスをきかせる悪意に過ぎなかったのだろうが、上田保春は不意にこみ上げてきた嗚咽をこらえるため必死で口元を押さえなければならなかった。涙ぐんでさえいる自分を自覚したのである。上田保春の微温的な平穏が喉元にせり上がってくる水位のように塗りつぶされ、ついには彼を溺死させてしまう未来が確実な現在の延長線上に見えてしまったからだった。平穏な日常というささやかな夢も希望も、萌えゲーおたくであるという事実だけで無惨に蹂躙され、黒く塗りつぶされていく。しかしそれを塗り返すのは、萌えゲーにより排出された体液の黄ばんだ白でしかない。確実な破滅が眼前に迫っているのに、逃れるすべはどこにも存在しないのだ。それはまるで、意識のあるまま殺人鬼に解体されてゆくような絶望だった。
 「もし江戸時代だったなら、自分は目覚めないままで一生を終えることができたと思う」と、性犯罪で服役する幼児性愛者が語るのをネットサーフィン中、目にしたことがある。上田保春はその発言に同情と共感を禁じ得なかった。自分が同じ立場にあってもおかしくなかったろうということと、対象の違いこそあれ彼がいまいる境遇をこの上も無いほど的確に言い表していたからだ。幼児性愛者と萌えゲーおたくはその性嗜好において極めて似通ったものを持っていると上田保春は思う。つまり、直接的な肉欲を精神的な投影が凌駕してしまう点において共通なのである。江戸時代ならば人々からの非難や制裁は社会からの根本的抹殺というレベルではありえず、現代のように徹底的に人格の根源までを破壊されつくして追いつめられることも無かっただろう。もちろん、犯罪の肯定と受け止められかねないこんな感慨をどこかへ漏らすわけにはいかないから、彼にできるのはただマウスのボタンをいつもより強く圧迫することだけである。
 上田保春の心に澱のように溜まっていく何かは、ますます彼の本質を自閉的なものにしていく。その記事を目にして以来、ときどき萌えゲー愛好に目覚めなかった自分を想像してみることがある。その想像は例外なく、自殺か発狂か独房へとつながった。だとすれば、萌えゲーの実在を全く非難する筋合いはない。むしろ自分は救済さえされているのだ。しかし、その思考が気分を晴れさせることはない。なぜなら目覚める必要の無い人間たちのことを同時に、否応に考えざるを得ないからである。消極的な抑止ではなく、人格の上へ新たな犯罪的性嗜好を追加するくらいのニュアンスしか伴わないのならば、萌えゲーは社会的脅威を増大させる以外の効果を生まないことになる。そこに上田保春の得たような、潜在的犯罪者への負の救済はない。萌えゲーをプレイしない日常を想像するとき、そのモノトーンに自殺を考えないならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。もし萌えゲー以外の何かで健康な性的満足を得ることができるのならば、ただちに萌えゲーをやめたほうがいい。自分に機会が与えられるのなら、そうやって彼らに忠告してやりたいのだ。しかし、萌えゲーに耽溺する者たちが集まるワークショップなどありそうにない。ニコチンやアルコールを断つための相互互助の集まりは存在するのに、萌えゲーに対するそれは世間には見られない。萌えゲー愛好者の集まりは、例えば「実践的殺人愛好倶楽部」と同じような意味合いを含んでしまうからだろうと上田保春は推測する。どこにも表明できず誰にも届かない以上、彼の抱く苦悩はどこまでいっても人類の枠の外を旋回しているに過ぎない。上田保春の実感は永遠の村八分、流浪するオランダ人なのである。一昔前ならば最終的な受け皿の無い人間は野垂れ死にをし、社会は自然に脅威を回避していたはずなのだ。しかし、現代においてはインターネットがあまねくすべての人間の受け皿となり、すでに究極の平等を実現してしまっている。お互いに交流することのなかった社会の範疇外の異常と異常を出会わせ、その異常性を増大させる役目を果たしてさえいる。本来ならばすべての埒外で無視のうちに殺されていた自分と自分の同朋たちが、新しい脅威として人々の生活の中へと侵入していっているのだ。上田保春はそこまで考えると、頭の中で猥褻な単語を連呼することで無理に思考を中断した。自殺しないためである。
 所属する部署の机に座って、周囲を見回す。清潔なオフィスの朝だ。職場のデスクトップパソコンの壁紙を萌えゲーの画像に設定し、机上に少女をかたどったプラスチック人形を並べていると公言する知人の大学職員のことを思い出し、上田保春は嫌な気分になった。だいたい、誰もが人に言えないような趣味を一つくらい持っているものだ。目の前に座っているこの一見真面目そうな眼鏡の同僚だって、家では新妻を相手にSM趣味を展開しているかもしれないではないか。だが、職場まで昨夜妻に使っていたピンク色の巨大ディルドーを持ってきて自慢げに見せびらかしたり、デスク上に陳列したり、それを使うとき妻がどんなふうだったのかを延々と説明したりはしない。一方で萌えゲーおたくはときに、社会からの絶え間ない抑圧のせいに違いない、ほとんどそれに類するネジの外れた行動に抑えがきかなくなることがある。開き直りが、理性を凌駕してしまうのだ。上田保春は実のところ、その大学職員に少しの劣等感を抱いていた。趣味嗜好を完遂できる蛮勇をうらやみ、反して己の中途半端な生き様へ自己嫌悪に近いものを抱いていたのだ。しかし、いまこの職場の清浄な空間、抑制された始業前のさざめきに身を寄せて、彼は自分の感覚の方が正しいことを巨大ディルドーの例えから確信することができた。
 そうだ、同僚にピンク色の極太巨大ディルドーを強要できるような職場状況が容認されていること自体がそもそも異常なのだ。そう考えながら、上田保春は巨大ディルドーに口づけしながらこちらへウインクする経理課の田尻仁美を思い浮かべた。彼女はその面相こそ十人並みなのだが、本人が自覚しているかどうか知らない、ひどいアニメ声なので、経理課に電話する機会の多い上田保春のお気に入りとなっていた。上下がぴったりとは合わないよじれた形をした彼女の唇は一種淫猥な雰囲気を作り出しており、萌えゲーのキャラクターを見慣れた上田保春にとって新鮮に映った。唇の形状でキャラクターの容姿を書き分けする萌えゲーが存在しないことは、極めて暗示的だ。萌えゲーにおいて唇はふつう、わずかにグラデーションが加わることもあるが、一本線の長さと湾曲でのみ表現されることがほとんどである。唇に特徴を与えるということは厚みや色合いを与えることであり、それは女性の肉体的・精神的成熟と萌えゲー愛好家を直面させる結果を生んでしまう。唇とは心理学や吸茎の例を持ち出すいとまもあらばこそ、女性器の明確すぎる暗喩だからである。萌えゲーにおける愛玩の対象が二次元の少女であることを考えれば、唇への力点が周到に回避される裏には全く首肯できる道理が存在するのがわかるだろう。途中で話がそれたがつまり、萌えゲー愛好とは巨大ディルドーと同義なのだ。巨大ディルドーを繰り返し使用して婦女子の皆様方には大変申し訳がたたないが、萌えゲー愛好を開示できる場所は巨大ディルドーを取り出すことのできる場所なのだと、上田保春は自分の在り方を肯定するための思考に意気を強める。
 萌えゲーや二次元に対する性愛へ向ける一般人の嫌悪はほとんど自動的なのは、教育的・教養的過程を踏んでいないからだ。つまりそこに至る論理や歴史の一切を前提としないので、彼らを説得したり懐柔したりするのは不可能なのである。上田保春は自身の経験からそれを知っている。高校生のとき、田舎から泊まりに来た祖母が彼の自室にあったアダルトゲームの紙箱――青い着物の袖を噛んで何かに耐える表情の少女がこちらを見て涙を浮かべており、販促用の帯には『今夜も不義密通』と記載されていた――を見たときの表情と、その後の反応を彼は一生涯忘れないだろう。
 当時の祖母は八十五歳、その年齢に至るまで腰も曲がらずかくしゃくとし、毎朝四時に起床しての畑仕事を半世紀以上現役で続けてきた彼女が触れるメディアといえばかろうじて宗教系の新聞くらいのもので、アニメはおろか老大家による新聞四コマ以外の漫画すら見たことのない昔人であった。つまり、現在で言うところの萌えゲー的なものどもに対する教育・教養は一切無かったのだ。その反応は当然、上田保春が体験したものよりもっと中立的でしかるべきだったはずだ。しかし、祖母の反応は全く公平ではなかった。孫にこづかいをやるつもりで入ってきたのだろう、笑顔の皺に顔のパーツをすべて埋没させた祖母はパソコン机の上に置いてあったアダルトゲームのパッケージを目にした途端、たちまち表情を失って皺の底から恐ろしいほど大きく目を見開いた。それはまるでハリウッド製の特殊メイク技術を早回しで逆に見ているような劇的変化だった。祖母は怪鳥のような悲鳴を上げ、大声で上田保春を下の名前で呼ばわった。ベッドに横たわって雑誌を読んでいた彼は驚愕のあまり床へ転がり落ちた。そのあまりの大音声に、台所で炊事をしていた母親が洗剤の泡を手につけたまま飛んできたほどである。母親というものはすべからく息子の性癖を知っているものであるから、無論息子の二次元性愛傾向には気づいていたはずだ。しかし、面と向かって何か具体的なコメントを加えたことは無かった。だから自分の性癖の持つアブノーマルさについて、上田保春は思うよりも油断があった。友人の多くが週間漫画誌のグラビアを自慰の素材に使っているのを横目にしていたのだから、もちろん全く自覚が無かったわけではない。しかし、せいぜいが文化的な差異、肉食と菜食の違いくらいの気軽さで考えていたのだ――祖母に大音声で罵倒される、この瞬間までは。祖母は彼を正座させ、手にした杖でゲームのパッケージを幾度も打擲しながら実に三時間、彼を罵り続けた。昔人の語彙の中には上田保春には意味のわからないものも多くあったが、彼の理解した部分を要約すれば社会的、倫理的、道徳的、果ては神学的――お天道様、という言葉を祖母は繰り返した――におまえのやっていることは下劣極まりない、という内容だった。おまえは鬼の子である、とも言われた。そのあまりの剣幕に取りなそうとしていた母親が泣き出し、つられて意味もわからず小学生の弟が泣き出し、母親と弟を軽い気持ちの二次元性愛で泣かせた情けなさに上田保春自身が泣き出し、祖母は泣くくらいなら最初からするなといった内容を昔人の語彙でおしかぶせ、いったいその大混乱がどうやって収拾したのか思い出せないほど、それはもう大変な有り様だった。萌えゲーへの嫌悪はIt’s automatic、「どうしようもなくそうなってしまう」もので説得や弁明の余地がないと考えるのは、この体験が元になっている。
 百歳を越えて祖母は未だ存命中なのだが、いまやあの頃の硬骨の人から恍惚の人へと変化してしまった。成人してからも会う機会は何度となくあったのだから、あのとき何故あそこまで激烈な反応を見せたのか一度でも聞いてみれば良かったと上田保春は後悔している。子どもの頃に通い馴染んだ商店街が大手資本の巨大スーパーにとって変わられるとき、あの町並みは確かに眼前に存在しているのに、それはもはや自身の脳裏にしか無いのだということを信じられない瞬間がある。祖母の脳細胞は着実に破壊され、萌えゲーおたくと一般人との間にある避けがたい不協和音の実在を上田保春に刷り込んだあの事件の真相も、もはや子どもの目線の高さで聞く商店街のさざめきと同じ手の届かない遠いところにあった。二次元の少女を見たとき、祖母の心の中に沸き上がった感情は、祖母を強くゆさぶった倫理観は、いったいどのようなものだったのだろう。それがわかりさえすれば、自分は世界と和解できるのではないかと思う。しかし、それがわからない以上、齟齬を齟齬のまま生きていく他はない。

生きながら萌えゲーに葬られ(4)

 扉を開いた途端、開栓後に放置しすぎてビネガーと化したワインのような、何かを拭いた後に洗浄されずに醗酵した雑巾の湿気のような、上田保春に括約筋を思わず引き締めさせるあの臭気が鼻腔を刺激した。それはしかし、彼に不快だけをもたらすわけではなかった。上田保春は萌えゲーおたく的ではないふるまいを自身に強いているとは言いながら、その魂の所在は一般人の暮らす住所からははるかに遠い。その臭いを嗅いだ瞬間の彼の感情を表現するとすれば、「暗雲の下、銃弾の雨の中を駆けに駆け、塹壕に転がり落ちたときの安堵」とでもなるだろうか。
 週末の夜、彼は萌えゲーを愛好する仲間たちとマンションの一室で集まりを持つ。上田保春は多い月には十本程度の萌えゲーを購入するのだが、そのくらいの数では実際のところこの流れの速い場所で単純に現状へ追いつき続けることすら難しい。萌えゲーおたくのする創作物への態度をその傾向が無い者たちに説明するのが難しいと感じたなら、「それはまるで増えすぎたイナゴが穀類に群がるあの映像に酷似している」と答えればよろしい。一つの対象を偏執的な執拗さでもって原型を止めぬまでに噛んで噛んで噛み尽くして、その対象が自分たちの重みを支えきれないほど弱ってしまったなら、次の餌場を求めて集団で移動を開始する、あらゆる有機物を殲滅させずにはおかぬ、あのイナゴのやり方そのものである。つまり、この場所の流れを異様に速いものにしているのは彼ら自身の態度に他ならないのだが、そんな説明で恥じ入るほど彼らの抱える餓えは生やさしいものではない。萌えゲーを摂取し続けることができなければもぐらのように、誇張ではなく彼らの精神は死ぬのである。
 萌えゲーはおたく文化の中では傍流的な位置にあるためか、ときにアニメなど他のおたく文化の流行を色濃く反映する傾向がある。つまりパロディやオマージュの様相を呈することが頻繁なので、他の傍流ではない場所からの尽きぬインプットが、真の意味で、あるいはイナゴのように、萌えゲーを楽しむには不可欠であった。また、パロディやオマージュという方法論で形成されたはずの作品のさらにパロディとオマージュから成る商業目的ではない冊子の実在なども考慮に入れると、もはや個人のみで萌えゲーおたくを続けていくことは物理的に不可能であるとさえ言えた。例の大学職員はこの集まりを「受動おたくにならないための勉強会」と称したが、どうにもそれは「挿入しないための童貞堅持会」のように聞こえてしようがない。その集まりの中で上田保春はしばしば、受動おたくの典型例として揶揄された。その最たる理由としていつも指摘を受けるのは、商業目的ではない冊子だけを展示・販売する会合が年に何回か全国局地で開催されるのだが、それらへ参加するために仕事を休む勇気を彼が持たないことだった。大学職員は萌えゲーのために仕事を休むことを一線にしているし、上田保春は萌えゲーのために仕事を休まないことを一線にしているのだから、この話はどこまで突き詰めても平行線をたどるに違いなく、しかし会合から持ち帰られた冊子を彼は切実に必要としているので、この話題を持ち出される際はいつも視線を伏せてもごもごと自己卑下の言葉を繰り返すしかなかった。自分を下げてみせさえすれば、たいていの場は嘲弄ぐらいの恥辱で穏便に収束する。すでに人生の半分以上を二次元性愛に捧げる上田保春が獲得した、いじましい処世術であった。
 「要は、人類が成人しても無毛な、幼形成熟の生物だということを考慮すべきなんだと思います。幼形であればあるほどぼくたちが欲情を感じるのは、何も全く異常なことではなくて、神の本道を外れたことではなくて、生物学的視座から本能の裏打ちを、つまり神のお墨付きをもらっているとも言えるのではないでしょうか。自然の摂理と反した文化行動がその不自然さにも関わらず何かのはずみに定着してしまうことは、民族学からの実例を引くまでもなく明々白々としていて、いま現在あるような幼形を愛することを自身の確かな一部として表明してしまうことへの忌避は、そういった不自然、本来は採択されるべきではなかった文化行動の生きた実例なのではないでしょうか」
 誰かが部屋の中で話をしている。その声音は、未だ他人に届こうとする意志を含んでいたので、萌えゲーおたくがするように自閉的には響いていなかった。上田保春が声の主を確認しようと室内へ歩みを進めると、鯨飲馬食の四字熟語が全く比喩的に響かないほどの勢いで、太った大男がビールを飲み干しているのが目に入った。フローリングの床にはすでに十数本の空き缶が転がっている。
 彼――太田総司はこの3LDKのマンションの住人であり、所有者である。上田保春と同年代のはずなのだが、働いてはいない。親元から月に数十万円の仕送りを得て、それで暮らしている。太田総司の実家は東北地方にある素封家らしいが、ふんだんな仕送りと萌えゲーとコンビニとインターネットのおかげで、このマンションの一室はどうやら彼の両親にとって息子を世間から閉じこめておく呈の良い座敷牢と化しているようであった。太田総司の社会的身分は本人の言を信じるならば大学生とのことだったが、どこの大学であるかや何を専攻しているかの話題になると彼は突然聴覚障害に陥るので、あきらめというよりも優しさからその質問を投げかけるのをいつか止めてしまった。首筋と下腹へ衣服に隠しきれず寄った脂肪の重なりから、彼の容姿は一見まるでアザラシのように見えた。その原因が飲酒と宅配ピザと大量の萌えゲーであることは明らかだった。上田保春は太田総司が酩酊状態以外にあるのを見たことがない。彼を見るとき、何かに気づかないために生きるというのはいったいどれほどの苦しみなのだろうと想像する。それを滑稽だと笑う権利は誰にもあるまい。夜を迎えるために萌えゲーをし、朝を待つために酩酊する。人生とは、すべからくそういうものなのかも知れないのだから。
 どうやら手持ちを飲み尽くしたらしい太田総司は、いま現実に戻ってきたかのようにゆっくりと左右へ首を振り、どんよりとした目で上田保春を見た。そして、コンビニの袋に下げてきたビールを手渡す隙もあればこそ、ほとんど横殴りにひったくって、全く冷えていないのにも頓着せずにごくごくと飲み干し始めた。その有り様は会社帰りでスーツに身を包んでいる上田保春の、萌えゲーおたくへ向けて補正されきっていない感覚から見て全く尋常のようには映らず、何かしら前世の因業という言葉さえ想起させるような、文字通りの醜態であった。太田総司の体表からはとめどなく汗が吹きだしては伝い流れており、彼の座っている床の周辺には誇張表現ではない水たまりが薄く広がっているほどだった。冷蔵庫と床の隙間からゴキブリがかさかさと走って来、その水たまりの岸辺で停止すると触覚を上下に激しく動かした。やがて触覚の先端はうなだれるように水たまりに浸かり、ゴキブリは動かなくなった。太田総司の表皮を流れる汗はわずかに透明ではなく、伝い流れるその速度も粘度を伴っているかのようにじりじりとしており、ウェットティッシュで吊革やドアノブを拭くことを習慣にしている眼鏡の同僚が見たりすれば、即座に悲鳴をあげて玄関から飛び出ていくだろうことは必定だった。それはまるで理科の実験で行う濾過装置の逆転版のようなもので、荒い砂利からきめ細かい砂へのグラデーションが泥水を真水へと濾過する過程を遡行し、きれいな物質が太田総司の体内を経ると全く汚染された何かになって出てきてしまうのだった。上田保春だって汗はかく。排尿も排便もする。射精についてはすでに述べた。それらは人間であることの避けられない崇高な摂理であるとは思うが、この太田総司の場合、すべての行為が肯定不可能なものとして、完膚なきまでに戯画化されてしまうのである。
 このプロセスこそが、萌えゲーおたくの本質なのではないか。誰もが当たり前にする人間的営為の持つ聖性をまるで悪魔が神を穢すためにしてみせる演技の如く、目を背けたいものとして貶めるのである。萌えゲーおたくであることの異様さは何も特殊な行動によるものではないと、太田総司に会う度に上田保春は身の引き締まる思いで自戒する。つまり表層を忠実にトレースするだけでは、全く足りないということだ。一般人がする行動の質を貶めることなく繰り返さなければ、萌えゲーおたく同定を避けることはできないのである。会合の場所として太田総司のマンションを彼が指定するのも、職場からほどよく遠いという理由だけではなく、その自戒を再確認し続けるという目的もある。悟りとは一瞬で別の次元にステージを移すことを意味しない。繰り返さなければそれは当たり前の日常へといとも簡単に変質してしまうことを上田保春と同じ実感で理解しているのは、現代において仏教の高僧くらいであろう。
 そんな物思いを知らぬふうで、部屋の奥から言葉は続いている。それは関心のためか、あるいは自負のためか。
 「しかし、これだけではまだ説明がつきません。だって、ぼくたちが現実の幼形よりも二次元の図画として描かれた幼形の方に、より強く心引かれることの説明がついていません。ですが、人間の心の構造の基を考えれば、即座に首肯できる理由があるのです。人間は本能を失ってしまっているとよく言われますが、本能的な精神の動きは確かにまだ残存しているのです。それは意味を付加するという作業であり、あまりにも積極的、いや、自動的に行われているので、私たち自身さえ気づかないほどなのです。その傾向が鰯の頭を神にする。ぼくが今朝蹴飛ばした猫が夕方ぼくに自転車事故をもたらしたように、客観的・科学的例証に個人の意味づけは常に優先するのです。この話でぼくは何を証明したのでしょう。本来は曲線と直線の集合に過ぎない、意味の無いパーツのつらなりである二次元上の図画の方が、個人の意味づけによって組み立てられているゆえに、科学的にはより強い、疑いようのない実在であるはずの現実の少女よりも、萌えゲーに登場する少女の方がはるかにぼくたちにとって魅力的に映ってしまうということを証明したのです!」
 学校の屋上で煙草を吸ったりする程度で解決できるなら、授業をボイコットし、煙草を吸った方がいい。それはいずれ、社会という名前の大きなテーゼに巻き込まれてゆくことへのアンチとしての示威行為に過ぎず、押し返したとして、押し返されたとして、それらは依然お互いが同じ軸線上にあることを自覚したじゃれあいに過ぎない。萌えゲーおたくである上田保春が学生時代に体験したのは、全く意図せぬジンテーゼの恐怖であった。一度たりともそれを望んだことは無かったというのに、従来の軸線上で押した押さぬの小競り合いを繰り返す人々からは、彼の立ち位置はまるで不可視だったのだ。この発言の主はそれがわかっているのだろうか。あるいは上田保春が感じた意図せぬジンテーゼとは全く別の思想をこの声の主は確立しているのか。
 それにしても――萌えゲーおたくの性向を推理小説のように推理してみせたところで全く意味が無いのになあ。上田保春は自身の繰り言を轟音とともに棚上げして、昏い感慨を抱く。推理小説の犯罪をそのまま現実に移し替えた事件が待てど暮らせど発生しないのは、それが現実を忠実に描くことや人間存在に真摯であることを目的としていないからである。発言の主が自説の中で展開しているような、不注意や不運による事故の原因を四足獣の呪いに求めるような、自然界の中では人間だけのする、自身を納得させる以外の効果は無い意味づけ作業に過ぎない。しかし、わかっていてもやめられないから、人はそれを物語に仮託するのだろうと上田保春は思う。本質的に、即ち科学的には無意味な虚構を量産することが、逆説的に人間の証明になるのである。
 上田保春の信念をゆらがせるほど確信的かつ露悪的な萌えゲーおたく、件の大学職員、有島浩二は、彼が室内に入ってきたことへ気づいているだろうにも関わらず、一瞥すら寄越さずにアニメに登場するロボット群をコマとして戦わせる軍人将棋式テレビゲームに没入し続けていた。もしくは、没入するふりの演技を続けていたのか。上田保春が声をかけるべきかどうか逡巡していると突如、有島浩二は何の予備動作も無しにぐるりと顔だけをこちらへ向けて、表情筋を痙攣させるような素振りを見せる。微笑んでいるつもりなのだ。しかし、薄暗い室内でモニターからの光源に照らされたその表情は、相手の気を安らわせるどころではない、ホラー映画の一場面を視聴する効果をしか生み出さなかった。まだ完全におたくの領域へと感覚を適応させきれていなかったスーツ姿の上田保春は、同朋のするその異様な仕草にほとんど足下を失うような目眩を感じた。
 おたくと呼ばれる人々の多くが予備動作の無い動きをすることや異様な早口だったりすることは、よく一般人の側から指摘を受けるところだが、彼には最近その理由がわかってきたように思う。動作や発話に前駆する空間的・時間的「間」は、相手に配慮する目的でなされているのだ。文化的躊躇とも言うべき、他人の実在を認めるがゆえの意識的空白なのである。一歳前後の赤ん坊には予備動作がほとんど無く、大人は気づかぬうちに眼鏡を奪われたり、頬を張られたりしてしまう。赤ん坊は相手に対する意識も自分に対する意識も未だ確立の途上にあるので、文化的躊躇、他人への配慮の「間」が無いせいで、大人は赤ん坊の行動を受け入れるための情報をあらかじめ与えられない。人の発するものはすべて他者へ届こうとする意志を伴っている。だが、有島浩二にはまるで赤ん坊のようにそれが無い。彼の早口と予備動作を伴わないマリオネットのような動きは、赤ん坊の配慮の無さと同義なのである。
 有島浩二はコントローラーから手を離さないまま部屋の隅に向かって顎をしゃくり、「その鞄の中に入っているから、拾っていくといいよ。犬のようにね」と一般人ならばリスニングの極めて困難だろう早口で言った後、何が可笑しかったのだろう、映画「アマデウス」のモーツァルトの笑いにおたく色を濃く反映したような笑いを短く神経に笑った。上田保春は軽く頭を下げると、手垢でさらになめされてしまったように赤黒い光沢を放つ革鞄から、無地のメディアに直接極太マッキーで萌えゲーのタイトルが書かれたDVDや、彼のよく知っている萌えゲーの少女がその本来のデザイナーではない人物の手によって描かれている冊子を、のろのろと自分の鞄へと移し替え始めた。期待に胸と男性が膨らんでいくのを押さえきれない上田保春が自己嫌悪を越えた背徳的悦楽の微笑を口元に浮かべると同時に、有島浩二が予備動作を伴わない動きで再び彼の方を向き、「そうそう紹介するのを忘れていたが」と異様な早口で告げた。それはあまりに伝達の意思を放棄した早口だったので、「蕭々蒋介石尾張tiger」のように聞こえた。
 有島浩二が顎をしゃくった先には驚いたことに、一人の少年が膝を抱えて座っていたのである。すわ、略取監禁、などという単語が脳裏をよぎるのは萌えゲーおたく的小心の極みである。聞けば少年は十四歳、インターネット上の掲示板で知り合いになったのだという。「なかなか見どころのあるやつなんだ」と有島浩二が異様な早口で言い、それは「中出し水戸黄門R膣難産」のように聞こえ、少年がその言葉にもじもじと身をよじるのを見て、上田保春は高まった気持ちが急速に萎えていくのを押さえることができなかった。インターネットの功罪が叫ばれる中、上田保春に言わせればそれは明々白々としており、たった一つしかない。これまでの人類の歴史の中ではありえなかったような出会いを誘発し、それによって一種異様な人間関係の化学反応が発生してしまうことである。個人が自室に引きこもってできることはたかが知れているが、もし引きこもりの個人が複数集まってしまったりしたら、それが集団自殺のような積極性を持ったとして何の不思議もない。萌えゲーおたくであることを恥じた三十代も半ばを迎えようとしている会社員と、萌えゲーおたくであることを絶望や恐怖ではなく自負として捉えている十四歳の少年。本来なら出会うはずのない二人が出会い、何かお互いにとって有益な結果を期待できるほど、上田保春は人生の生み出す善の効果に希望を失ってしまっている。
 有島浩二がまるで何事も無かったかのようにゲーム画面へと向き直り、太田総司が座ったままの姿勢でうとうとと居眠りを始め、上田保春が何やら昏い目をして黙りこんでしまったのを見て、少年は自責を感じたのか空間を音声で満たせば気まずさを調伏できると信じるように、萌えゲーおたくの萌芽を予感させる痛ましい軽繰的な様子で話を続けた。
 「最近は友だちから薦められてハマってるジャニス・ジョプリンをiPodで聞きながら、萌えゲーをするのが最高に気分いいんです。生きながらブルースに葬られ――ぼくが思うのはジャニスがブルースに選ばれて、そうして選ばれた代償としてブルースを歌っている以外はクスリ漬けの廃人だったみたいにぼくも萌えゲーに選ばれて、萌えゲー葬られているんじゃないかって感じることがあるんです。学校も、両親も、友人も、誰も、萌えゲーほどぼくの命を充実させてくれるものは無いんですから!」
 少年らしい強い思いこみに頬を紅潮させるその様子と、その甘い自負とははるかに遠い現実そのものの感覚だったにはせよ、何とはなしに感じていた違和感を言葉にして提出されてしまったことに上田保春はかすかな感動を覚え――そして、憐れみを禁じ得なかった。このまま聞いてないふりで黙ってさえいれば、少年は再びこの陰鬱な会合を訪れようとは考えないだろう。それがこの場でできる、少年に対する本当の優しさだったはずだ。しかし、フローリングの床に散乱した銘柄の違う無数のビールの空き缶と、薄暗い室内でおたく仲間の肩越しに明滅を繰り返すモニターとが、彼の中にあるsentimentalismを刺激したのかもしれなかった。うたた寝から目を覚ました太田総司が、新たなビールのプルトップを引く音が背後で聞こえた。その濡れた音に促されるように上田保春は、やめておけ、やめておけ、と内側から囁きかける理性の声を聞こえないふりで、少年に対して諭すように話しかけ始めた……