猫を起こさないように
よい大人のnWo
全テキスト(1999年1月10日~現在)

全テキスト(1999年1月10日~現在)

雑文「SHINEVA, STARRAIL and FGO(近況報告2024.5.20)」

 Qアンノによる「エヴァの続編」発言が、弊タイムラインをゆるい便のごとく垂れ流れてくるのを目にし、ひさしぶりに心の底の底までがしんとする、あの冷たい怒りを思いだす。これは確認するまでもなく、会社経営だけを念頭においた初老男性によるマウス・サービスa.k.a.ブロウ・ジョブa.k.a.フェラーティオウであり、自らが殺めて山に埋めたキャラクターたちの遺体を、嬉々として掘りおこしにいくがごときサイコパスな言動は、目にするたびに背筋へゾッとしたものが走ります。アルコールへ肉抜きで耽溺し続けることに起因する前頭葉の萎縮および加齢による健忘の影響でしょうが、またぞろ「エヴァをガンダムのようなプロダクトに」へ類する妄言もとびだしているようで、手づから稀代のサイファイに凡庸な私小説を上書きして抹殺した現実は、先ほどすませたばかりの昼食を再び息子(非実在)の嫁にせがむ老父がごとく、まったく記憶からは消えてしまっているようです。2013年までに新劇を完結させ、2014年というエヴァにとってのアニバーサリー・イヤーで別監督によるGガンダム方向の完全新作を発表するーーそんな絵図も序破の段階では確実に存在したと思いますが、東日本大震災の影響でひりだした駄作をファッション鬱のせいにする、いつもの逃亡癖(例のセリフ)ですべて台無しのご破算にしたのは、他ならぬ監督ご自身じゃないですか! 新規プロジェクトを始めるにあたり、まったく同じ内容とクオリティを準備できたとして、「この瞬間しかない」という決定的なリリースの時宜があるのは、マネジメントのご同輩には痛いほどおわかりのことでしょう。いったんそれを逃してしまえば、どれほど手元にあるプランの質を高めようともいっさい無駄であり、のちにふり返るとすべてを捨てることがもっとも有効な損切りだったとわかるのです。「もしかすると、ワンチャン生きてるかも?」と、東日本大震災の犠牲になったキャラクターたちの埋葬塚を掘りかえしたときの遺骸は、どういう状態でしたか? グズグズに腐敗がすすんでいて、もはや原形すらとどめていなかったでしょうに! もうだれも、社長以外は時宜を逃したコンテンツにさわりたくないだろうし、会社の健全な成長を考えるなら、空白の14年(笑)とやらの映像をパチンコ新台の確定演出に細々と提供し続けるのが、現在のエヴァンゲリオンの”格”にもっともみあった展開だと、場末のコンサルから進言し申し上げておきます。

 さて、けったくそ悪い義務感からする感情労働はこのくらいにしておいて、口なおしに崩壊スターレイル第3章後編の話でもしましょうか。最近ではマトモな虚構を体験したければ、40代以降を対象とした低品質な続編とリメイクの跋扈する列島より、半島や大陸の新規IPをファースト・チョイスにするのが、テッパンで間違いのない世界線に我々は生きていますからね! 内容的には、「ライトノベル」とラベルが貼られる以前の古いジュブナイル小説の朗読を聞くような感覚であり、ゲームとして遊べる部分は極少で、昔の食玩についていたガムほどもありません。「ホタルよ…生きるために死ぬのだと」の場面に涙腺を刺激され、おんおん泣きながらストーリーを読み進めるのですが、カヲル君の声をした黒幕がその精神世界において「私が目指すのは、週休2日でも3日でもない……週休7日の世界だ!」と宣言するあたりから、だんだん雲ゆきがあやしくなってきます。ラストバトルでは、唐突にROUGH(ラフ)の大将軍が大艦隊を引きつれてやってきて、「しゃあっ! シンクン・ソード!」と必殺技をくりだしたのには、「いや、背後の軍艦やのうて、オマエが撃つんかい!」と思わずツッコんでしまいました。その後のエピローグでは、退場したはずのアベンチュリンが文脈ゼロでシレッと復活しており、ここまで影も形もなかったトパーズが「あのう、こんな状態ですが、カンパニーとピノコニーの調停って、できますか?」とおずおず申しでるのに、ROUGH(ラフ)の大将軍は「はい! 一生懸命お願いすれば、以前より関係を強くできますよ!」などとニコニコ笑いながら、無根拠に安請けあいする始末。きわめつけに白々しいスタッフロールが流れだし、思わず「なんじゃこりゃ? シンエヴァか?」と虚構に向ける最大限の侮蔑が口からほとばしりでたところで、「貴方はいつのまにか、都合のいい夢にすべり落ちてしまった……分岐点はいくつかあるけど、どこだと思う?」と驚愕の解決編が始まったのです! 読み手の思惑と感情を縦横にあやつるその手腕に、思わずコントローラーを額へと当てて謝罪しましたよ、「シンエヴァなんてひどいこと言って、ごめんなさい」って。まあ、花火たんの「相互破壊確証ボタン」とホタルたんの「3度目の死」が伏線として回収されていないような気はしますが、他ならぬホヨバのことですから、次の惑星(江戸星?)へワープする前の幕間でスッキリと解決されることでしょう(この信頼を抱けるかが、スタジオ・カラーとの大きな違いです)。

 あと、ひさしぶりにFGOへも言及しておきますと、「魔法使いの夜」のコラボイベントは、とてもよかったです。ミステリ要素のあるこのくらい規模の中編が、もしかするとファンガスにとってのホームグラウンドなのかもしれません。「売れなかったアイドルと、たったひとりのファン」という、文芸小説にでもなりそうなテーマを世界の破滅へまで持っていくのは、彼/彼女にしかできない剛腕だといつも感心させられてしまいます。物語フレームそのものはいわゆる「セカイ系」なのに、弱き者たちを描く解像度の高さとだれも裁かない慈愛のまなざしがあるために、よくよく考えればひどく荒唐無稽な内容にもかかわらず、大文字の文学として成立しているのが、他の追随をゆるさないファンガスのスペシャルな持ち味で、それは創作の最初期から数十年を通じて一貫しており、少しもブレていない。多くの者が長い歳月のうちに、思想信条など「生身からの浸潤」によって初期動機を変節していく中で、そのメトロノームのような「ブレなさ」は広く周囲を見回しても、小鳥猊下ぐらいしか他の実例が思いつきません。肝心かなめの第2部ストーリー本体は、引きのばしと設定の建て増しでひどい状態ですが、今回のように100%ファンガスの筆による上質な小品がときどきは読めるのなら、細々と追いかけていこうという気にさせられます(ガベッジしか排泄、いや排出されないガチャのひどさは、どこかで改善してほしいところですが……)。じつを言うと、PC版「魔法使いの夜」をプレイしたことがあり、内容自体はほとんど忘れてしまっている一方で、終盤の展開とビジュアルが完全にエヴァ序のフォロワーになっていて、微笑ましく感じたのだけはおぼえております。ファンガスからエヴァ破以降のクラップa.k.a.タワーリング・シットに言及があるのを見たことはありませんので、きっと私と同じ気持ちでいるのだろうと、一方的なシンパシーを抱いておる次第です。主人公格の拳児っぽい男子がミンチにされるスプラッタ描写を読んで、しばらくぶりに「もっともアナーキーだった頃のエロゲー」がまとっていた香気ーー鼻腔の奥からする鉄錆びのにおいーーをかぎ、ひどくなつかしい気分にさせられたことも、あわせてお伝えしておきます。

 しかしながら、2002年開設ーー忘備録として、nWoは1999年開設ーーというテキストサイト界の新参者であるバンブー・ブルーム・ダイアリーに、続編へ設定を先送りにすることをほのめかす記述を発見し、「おまえ、もしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と真顔になりました。前作が12年前であることを勘案すれば、あと2作ぐらいでファンガスの健康寿命は尽きる計算になりますが、長年の持ちネタであるところの「まだ何か重大な秘密や、明かされていない設定があることの”におわせ”」はそろそろやめて、ランス10のいさぎよさを見習って、カタツキ世界をたたみにかかる人生の季節じゃないですかね! 中年期は身体への負債をまとめて支払う時期で、若い頃の無茶がたたって突然に死んだとして、なんの不思議もありませんよ! 仮にそうなったとしても、銭ゲバどもは「故人の遺志を継ぐため……」とか神妙な顔でショウ・マスト・ゴー・オンするのでしょうが、私はアナタ以外の書いた続きなんて、ぜったいに読みませんからね!

アニメ「ウマ娘プリティーダービー・新時代の扉」感想

 「当世イチのアニャたんファンとしては、フュリオサの予告トレーラーをスクリーンで見ておかなくちゃな……」というよこしまな欲望に駆動されて、外出中のスキマ時間で劇場版ウマ娘を見る(どんなチョイスやねん)。主役の”オレっ娘”が多彩な美少女たちと勝負にシノギをけずる、昭和の少年誌に掲載されていたかのような「熱血スポ根もの」という怪作にしあがっています。おもしろいかと問われれば、確かに平均以上にはおもしろいのですが、中盤で延々とくりひろげられるいわゆる「曇らせ」が間のびしているのと、いちばん盛りあがるはずのレースシーンがいずれも同じ一本調子のため、既視感によるダレはありました。本シリーズは、実在する競走馬のレース人生を「史実」に見立てて、「もし、彼/彼女がヒトと同じ内面を持っていたのなら、いったいなにを感じただろうか?」という問いかけに対するアンサーによってストーリーは進行していくのですが、もともと競馬に興味を持たず、スマホ版もリリース初年度の半年ほどで脱落した身からすると、アグネスタキオンというキャラの内面が大仰な描写のわりに意味不明で、視聴後にウィキペディアを調べて、ある程度の「答えあわせ」はできたものの、「立式の過程が解説されない」というモヤモヤは残りました。それもこれも、筋書きを史実に寄りかかりすぎているせいであり、テレビシリーズもそうでしたが、「栄光を挫折で”曇らせて”からの、大復活劇」なる物語の型にピッタリとハマる競走馬を探しだして主役にすえることが、悪い意味での枷になっている気はしました。本作をあしたのジョー(古ッ!)で例えるなら、ジャングルポケットが矢吹丈、アグネスタキオンが力石徹、フジキセキがカーロス・リベラ、テイエムオペラオーがホセ・メンドーサみたいな配置と役割になっており、「力石をリング上で撲殺してしまったため、顔面を打てなくなったジョーが、カーロスとの死闘でボクサーとして復活する」ところまでは、史実を利用した葛藤とその克服を演出することに、かろうじて成功していたとは思います。しかしながら、「フジハ、ポケットトハシルマエ二、コワサレテシマッテイタンダ……オペラオーノスエアシニヨッテネ」へ相当するラスボスとの因縁が作中でいっさい語られないため、最終レースの意味づけというか、作品中での意義が薄くなってしまい、ラストはいまひとつ盛りあがりに欠けました。

 「凄腕アニメーターたちがCGに頼らず、迫力のレースをペン1本でえがききる」という盤外のナラティブも目にしたものの、レース描写じたいがけっこうマンネリ化してきているとは思います。「美少女にさせるスレスレの変顔」「疲労や絶望を表すさいは多めのシワ」「スパートをかけるさいは地面を踏む足のスローモーション」「最高速に達したことを表す風防様のエフェクト」「限界を超えたことを表す劇画調の主線の乱れ」などの決まり芝居から、何より「史実による歴史修正力」で勝敗が決まるため、レースの展開がいささか説得力にとぼしく、結果に納得感が生まれてこない。なぜかシンカイ=サンが”いっちょかみ”で「レース後、唐突にライブが始まるのが異文化体験」みたいに語っているのを目にしましたが、そもそもライブの前提であるレースが筋書きありきのミュージカルになってしまってはいないでしょうか。これだけレースの過程や結果を「史実」に依存しているのだから、実在する競走馬の体格や筋肉の付き方、性格や走り方のクセについて、ケレン味を廃した確かな動きとしてアニメーションに落としこむ方法論もあったんじゃないですかね(宮﨑駿みたいなこと言ってる)。さらにうがった見方をすれば、本作のレースシーンは「クリエイターがクリエイターに向けて作る」の見本みたいな中身になっており、「いやー、ここの表現はグレンラガンのアレを参考にしてまして」みたいなニチャクチャとしたエクスキューズが終始、耳元でささやかれるかのようでした(幻聴です)。競走馬の名前もアニメーターの名前も知らない市井の一市民にとっては、そういったメタ要素から二重の意味でフィクションへの没入をさまたげられる感覚があり、マモルさんのよく言う「アニメーターは犬の集団と同じ。いちばん上手いヤツに、全員がゾロゾロついていく」との指摘が正しいとするならば、ガールズバンドクライみたいにレースの絵はぜんぶ3DCGで作って、脚本と構成に時間をかけたほうが、上手い犬に全体のトーンをひっぱられずにすむんじゃないですかね(頭頂部から雨様の黒いエフェクトを吹きだしながら)。

 「まだ上半期だけど、実写を含めた本年度のベストになるかもしれない」みたいなタガの外れた激賞も見かけましたが、ウマ娘は「美少女が制服や体操服やアイドル服を着て走ってるから、楽しく見ていられる」という、LGBTQF以外が抱く欲望を極大の前提としている事実に関して、どういった心の動きで意識の死角へと追いやることができるんでしょうか。これはステラーブレイドの大ヒットと同じ根を持っていて、アーマードコア6をその難易度から早々に投げた人物が、エロ装備を目的に数多の強ボスを撃破し、エロ装備を目的に全マップを隅々まで踏破し、エロ装備を目的に全クエストをクリアし、エロ装備を目的にドリンク缶をすべて収拾し、エロ装備を目的に2周目を始めるべきかをいま真剣になやんでいますが、この50時間をもってステラーブレイドは空前絶後の大傑作だなんて強弁するつもりは、サラサラーーロングポニーテールがラテックス臀部をなでる擬音ーーありませんからね! おのれの性欲を客体化できないのは昭和の太古より変わらぬ、オタクの持つ精神の陥穽だと言えますが、このたびの唐突な視聴には「ウマ娘初日の劇場がとんでもなく臭い」という直球ディスをひさしぶりにタイムラインで見かけてうれしくなってしまい、台風の日に川が氾濫する様子をうかがいに行くような野次馬的側面が、多分にあったことは伝えておきましょう。おとしめたい相手とケガレを紐づけるのは、人類史に変わらぬ差別の本質であり、オタクという概念が文字通り脱臭され、そのリプレイスとして「チー牛」なる単語が生まれたことには、ある種の感慨があります。長い苦闘の末に克服したと思った負の感情を、後の世代がガワだけ違えてくりかえすーーそれは、虚脱にも似た悲しみだと言えましょう。ともあれ、「差別の形は、人の心の形」との思いを再認識すると同時に、エスエヌエスへ垂れ流れる情報の胃ろう的な吸収は、知恵や知識とはほど遠い流動食にすぎないとの指摘を、自戒とともにここへ残しておきます。

 最後にウマ娘へ話をもどしますと、フジキセキのレース服が裸ジャケットで、申し訳にネクタイを谷間へ垂らしているのは、何か照応する「史実」があるんですかね? ちょっと走っただけで「まろびでそう」なのにハラハラさせられたので、せめて肌色のインナーとか着せてほしいなーと思いました。

映画「マッドマックス・フュリオサ」感想

 待望のマッドマックス・フュリオサを、オッピーから得た教訓を生かし、公開初週のIMAXシアターで見る。前作が映画のフレームごとふきとばす、激しい情動の物語だとすれば、本作はカチッと枠組みを作ってから中身をならべるような、非常に理性的な作品でした。フュリーロードは新奇の世界観を消化しきれないうちから足元の水位がどんどん上がりはじめ、気がつけば濁流に呑まれ溺れており、流れは泥から砂利に砂利から石に石から岩にとどんどん変化してゆき、最後は怒涛の土石流と化した奔流の中で「アカン、もうこれは死んだ」と観念したところで、気がつけば清浄な河口の岸辺に、五体満足の無傷で横たわっている自分を発見するような体験だったと表現できるでしょう。一方でフュリオサの急流は、船頭つきの保津川下りになっている感じで、単体としてはIMAXシアターで必ず見るべき90点越えの快作にしあがっていながら、映画史において燦然たる記念碑と化した前作と比較すると、端々に物足りなさが目立ってしまいます。比肩できるアクションシーンは連結トレーラーと飛行バイク部隊の戦いぐらいだし、構成にも「ゆきてかえりし、青い鳥の物語」という見事さに匹敵する驚きはありません。フュリーロードの関係者インタビューによるメイキング本に、「これまで存在しなかった種類の映画」を出資者に認めさせるため、編集権をめぐる監督と会社側との火を吹くような争いの記述があり、それが前作を1秒1カットの無駄も見つからないソリッドさに磨きあげたのだと思うのですが、本作ではおそらく監督の意志が100%通る状態ゆえに、余計なシーンや長すぎるカットが散見されます。クリエイターの意向を最大限に尊重するほうへ時代は動きつつありますが、観客動員数と興業収入を丸がかえにして、すべての責任を負ったプロデューサーとの火花散る激突という「金床」で鍛えられる作品が、どんどん減ってきているような気がします。反対に、創作者の「知恵と理性と良心」を信じすぎる態度に冗漫化して肥大化した、だらしのない作品が増えてきていることに、疑う余地はありません。

 本作で言えば、残念ながらアニャ・テイラー・ジョイにまつわる撮影がそれで、連結トレーラーから降ろされたあとの立ち姿を延々と写すシーンとか、悪夢にとび起きたフュリオサが再び横になって眠りにつくまでのシーンとか、「ああ、監督はアニャたんが大好きなんだろうな……」とは感じるものの、物語に対して何のプラスも与えていないのです。格子と爆炎を「炎の十字架」に見立てて背負わせるとか、ウジの洞窟を産道に見立てた生まれなおしとか、象徴的に読ませたいんだろうなという場面さえ、ストーリー中の正しい位置に挿入されていないような、チグハグした印象を受けます。美男美女というには、特徴的すぎる造作の俳優を愛しており、アダム・ドライバー(デイジー・リドリー、ざまあ! スターウォーズの呪い、すげえ!)と同じくらいアニャ・テイラー・ジョイのことを好いているのは、これまでにもお伝えしてきている通りですが、惜しいことにフュリオサという作品は、彼女の良さを生かしきれておらず、互いの長所どうしが水と油になってしまっています。乱暴な言い方をすれば、アニャ・テイラー・ジョイの魅力って、外形的にはマリリン・モンローなんですよ。それなのに、金髪を黒く染めあげ、顔には墨を塗りたくり、台詞も少なく満足に演技をさせないため、長所のほとんどを消されて、特徴的な目だけがギョロギョロとした「目ヂカラ・モンスター」みたいな存在にさせられてしまっている。さらに、エージェントからの要請もあるのか、本作では少女のフュリオサが「レイプされたか」「セックスしたか」を徹底的にボヤかして、いっさい語ろうとしない。他方で前作のヒロインたちは、「レイプされ、セックスしたが、それは彼女たちの純潔を汚すことかなわず、見よ、太陽の下で黄金に輝いている」という描き方になっていました。「黄金に輝くアニャ・テイラー・ジョイの本質が、いかにしてイモータン・ジョーにおとしめーー絶対に彼と性交しとかなきゃダメ! フュリオサの欠かざる属性は、”石女”なんですから!ーーられ、復讐に燃える隻腕の黒い戦士となるか?」を描かなければ、本作でも空々しく使われてしまった決め台詞「リメンバー・ミー?」へ、恩讐の彼方にある因縁の重さが乗ってきません。

 また、フュリオサが大隊長にまでのしあがった経緯についても、「身軽ではしこいメカニックが初陣で戦果をあげ、前隊長に”情婦として”見初められる」みたいな文脈になっちゃってませんか、これ。そもそもの身体つきが戦士のそれではなく、いつもの勝手な思いこみから、シャーリーズ・セロンとかクリスチャン・ベールとか実写版変態仮面の人みたいな肉体改造までする系統の俳優だと思っていたので、本作の役作りには少々ガッカリさせられました(ナイフをふりあげる腕の、まあ細いことったら!)。いちばん気になったのは、荒野の逃避行ーーこのロマンスに至る男性サイドの動機も「惚れたオンナのため」ぐらいのペラさしかないーーの果てに捕えられ、悪党の長広舌を聞く場面で、フュリオサがマックスもどきの肩にしなだれかかり、言葉を交わす様子が映るのですが、彼女のキャラ造形からすれば、この苦境からどう脱するのかをあきらめずに話しているのかと思うじゃないですか。それが、女は伏線回収のために切断予定の腕を吊られ、男は砂中ひきまわしの上で犬に食われ、先ほどのやりとりがただの「愛のむつみ」だったとすぐに判明するのです! アニャ・テイラー・ジョイと間男のする、解釈違いのアドリブ演技をそのままスルーして使ったのだとしたら、監督はあまりにも彼女に気をつかいすぎてはいないでしょうか。映画の結末にしても、5人のワイブズを映したところで終われば必要十分だったのに、フュリオサが彼女たちをトレーラーに乗せる場面から、スタッフロールにあわせて前作の映像を流したのは、本シリーズの格調ーーそう、マッドマックスは、エゲツない世界観にも関わらず、高い格調があるのですーーにあわない興ざめな下品さであり、さらに時系列的に本作と前作を「直つなぎ」にしたことはフュリオサとイモータン・ジョーとの因縁がまったく存在しなかったことを確定してしまっていて、きわめて悪手だったと思います。子役とアニャ・テイラー・ジョイの顔をAIモーフィングで融合していることが話題になりましたが、冒頭の「緑の地」やエンディング直前の「果樹と付随物」の描写もかなりVFXしていて、次作「ザ・ウエイストランド」に向けて不安は高まります(夢と現実が持つ質感の差異を表現していると思いたいです)。撮影地ではなく、舞台そのものがオーストラリアであることも映像で明示してしまったし、続編の制作はあれだけ広大だった世界をどんどん狭めていくだけではないかと、少し心配になってきました。

 なんだか全体的にディスってるばかり(いつもの)になりましたが、100点満点中200点を取った作品の続編が90点の採点だったゆえの無いものねだりであり、未見のみなさんはぜひ劇場に足を運んでくださいね! 「偏屈で狭量なファンの脳内では、この大傑作がそんなふうに見えているのか!」と驚かれること、必至でしょうから! 正直なところ、本作の主役はフュリオサというよりディメンタスであり、「戦乱の末法において、『狂気の王か、道化の王か』の選択肢をしか与えられない民衆」という図式は現代社会に対して充分に批評的ですし、「与党イモータン・ジョーの生んだ冨やインフラにフリーライドしながら、なにひとつ生産性のない挑発的なスピーチで存在感だけアピールする野党ディメンタス」という見方も、カントーのみなさんにはきっと楽しいですよ(低みの見物)! あと、40日戦争はドラマとかゲームとかでスピンオフ化する気マンマンなんだろうなーと思いました。

書籍「麻雀漫画50年史」感想

 麻雀漫画50年史をようやく読了。電子版が無いために読む場所が限られ、ずいぶん時間がかかってしまいました。え、通勤カバンに忍ばせていけばいいじゃないですかって? おお、とんでもない! 同僚や近隣の住人に、麻雀好きの博徒だなんて思われたら、社会生命が終わってしまうじゃないですか! それに、同じ車両へ居あわせた乗客を不必要に怖がらせたくもないですからね! 冗談(半ば本気)はこのくらいにして、本書の内容にふれていきますと、比較的まだ歴史の浅い、一般人よりは知識があると自負している分野で、こんなにも知らないことがあるのかと、まず驚かされました。小鳥猊下がモノを書くときの基本スタンスは「やがて一人になるだろう読者へ向けての、感情と記憶の記録」であり、事実の誤認や反社会的な感情さえ、その一人にとって「意味のある過誤」だとひらきなおっていますが、こういう「ちゃんと調べて、正しく書く」姿勢の方には、ずいぶんといい加減なテキストに見えるんだろうなと少し反省しました。本書を読みながら感じていたのは、「組織内にいる若い世代が、かつての自分より優秀だとわかったときの安堵」にも似た気分であり、よくぞ10年の長きを費やしてここまで調べ、よくぞ最後まで書ききったと、ブラヴォの拍手を送りたいです。

 著者が生まれる前の70年代については、事実のみをベースとした研究書を思わせる淡々とした語りだったのが、おそらく実体験の伴う80年代後半以降からは、書き手の主観の漏れだす瞬間がいくつかあり、たいへん微笑ましく読みました(以前も述べましたが、私がもっとも知りたいのは「同時代の作り手の感情」なのです)。「ナルミ」とか「麻雀放浪記classic」とか、長らく忘れていた漫画の絵柄を目にして、かつての記憶がよみがえるのも楽しい体験でした。「遊戯の代償行為としてスタートした麻雀漫画が、ネット麻雀の台頭にその快楽の唯一性を奪われ、衰退が始まる」という指摘はまさに慧眼であり、「セックスの代償行為として発展したエロゲー」に置換しても成立しそうな、ロングスパンでの鳥瞰が可能にした上質の社会分析だと言えるでしょう。しかしながら、本書に最大級の敬意を表して、筆者が麻雀漫画のベストだと推薦する「麻雀蜃気楼」と、もっとも紙幅が割かれた上、表紙にまでキャラを使っている「咲-saki-」を全巻購入して読み進めるうち、小鳥猊下の表情は穏やかな微笑から眉根を寄せたしかめツラへと、みるみる曇っていったのでした。あらかじめ断っておきますと、ここから記述する内容は本書の評価とはまったく関係のない、それぞれの作品へ向けた単独の感想となります。

 「麻雀蜃気楼」は、昭和のモーレツ社員を想起させる懐かしいサラリーマン描写が魅力で、麻雀打ちというより勤め人に向けた印象的な人生訓がいくつもとびだします。師匠とする雀荘の立ち退きをかけた勝負までは、ストーリーに一貫性があるのですが、最終巻になると、おそらく人気の低迷から打ち切りに至るまでの試行錯誤と言いますか、迷走感がただよっており、「麻雀とどう向きあうか?」という問いに主人公の出した答えが、保育園だか児童養護施設だかの運営だったのには、たいそうガッカリさせられました(子どもたちを守るため、悪の地上げ屋と麻雀勝負するってこと? もしかして、タイガーマスクの影響?)。余談ながら、これは絶賛放映中であるユーフォニアム3期で、あれだけ奮闘している主人公の行く末が、母校の教員ーーしかも、吹部の顧問ーーであることをwikiで知ってしまったときと、同じガッカリ感だと言えるでしょう(10年後の同窓会でプロの奏者となった友人と再会したとき、学生時代と同じ笑顔で男性顧問との不倫と金賞の話しかしない、タコツボ某みたいな未来を幻視したためです)。

 そして、いよいよ、多くに嫌われる覚悟を決めて、「咲-saki-」の話をしてゆきましょう。本作は「はじめて漫画を描くことになった、美少女ゲームのイラストレーターによる作品」であり、最近タイムラインで見かけた「凄腕アニメーターだからといって、漫画を上手く描けるわけではない」と同じ問題が、白日の下に提起されています。50年史では、いくつもの点から「画期的」であり、「00年代で最も重要な作品」とまで持ちあげられているのですが、「女子中高生にオッサンの趣味をさせる一般漫画の系譜から生まれた亜種であって、麻雀漫画の通史の延長線上にはいないのでは?」と考えてしまいました。人生でいちどは口に出したい台詞が「三カンツリンシャンカイホウ、マンガン」であり、麻雀漫画でもっとも好きな擬音がひらがな縦書きの「りんしゃん」である哭きの竜ファンにとって、主人公の能力である「嶺上開花で必ずツモる」はオマージュの範疇を越えたパクりのように感じるし、「海底で必ずアガる」という敵ーー国文学者の父を持つ幼女という設定で、漢語によるキャラ立てが痛々しいーーとの対局も麻雀というより、もはや異能力バトルになってしまっています。「どんな点棒状況からも、気迫と胆力でまさったほうが役満で勝つ」みたいな闘牌を、残念ながら面白いと感じることはできませんでした。

 この序盤のトンデモ決勝戦のあとは、美少女ゲームのキャラデザという作者の得意分野を生かし、全国大会に向けてこれでもかと美少女キャラが追加されていくのですが、「萌え」を引退してひさしい身には外見と個性ーーたい焼きの代わりにタコスを使うなどーーのリャンメンでまったく見分けがつきません。本作の本質は「汗か小水か愛汁か判断のつかない液体が付着した、パンツをはいてない股ぐらを写す不自然なカットの多い、ソフトレズ風味の美少女動物園」であり、麻雀要素を重視しなかったからこそ、LGBTQF以外の絶大な支持を得て大ヒットした作品だと思うのですが、これを麻雀漫画のカテゴリ内でほめあげるのは、ステラーブレイド(また!)を称揚するのにブレワイとかエルデンリングを持ちだすようなものでしょう。求められていたのは、「ポコチンを外して記述し、ポコチンを装着して読みなおす」というリビドー・フリーな態度だったと思います。オタクとは、すなわち「脳からポコチンを外せないホヤであり、性欲を客体化できない生物である」ことの傍証がまたそろってしまったなーというのが、本作へ向けた偽らざる感想です。もちろん、よく内容を確認もせずに「電書で既刊25巻を一括購入」してしまった憤りも、この筆の勢いを多分に手伝っているのは間違いありません。私からの「咲-saki-」に対する歴史評価は、「麻雀漫画50年史を書かせる強い動機のひとつとなった」という一点のみであることを、吐き捨てるようにお伝えしておきます。

 最後に公平を期すため、小鳥猊下のオススメ麻雀漫画6選を挙げておきますと、「哭きの竜」「ショーイチ」「トーキョーゲーム」「根こそぎフランケン」「ノーマーク爆牌党」「むこうぶち」です。

雑文「中年が終わって、パーティが始まる」

 パーリィズ・オーバー・ゼン・ミドルエイジ・ビギンズを読了。現実との間に薄皮が一枚あるように生きているとか、きっと「人生ってウソみたいだ」と思いながら死ぬだろうとか、かなり近い生活実感を持っている人物で、もしかすると世代という言葉でまとめられるのかもしれませんが、「逆だったかもしれねェ…」という感慨はあります。結局のところ、すべてのパーソナリティは幼少期の体験を色濃く反映するものであり、筆者が徹底して言及を避けている家族との関係のほうを読ませてくれないかなーと思いました。天性の露出癖から、聞かれてもいないのに自身のことを申せば、いまチーズを好物としているのは、粉ミルクでの子育てに対する罪悪感からか、母親が離乳食でチーズを与えまくった(支離滅裂な行動)からだし、タオル地の感触に安心を覚えるのは、夜泣きに疲れはてた母親がベビーベッドへぎゅうぎゅうにバスタオルを詰めて己が抱擁の代わりとしたからです。弊害として極度の閉所恐怖症となり、小学生の時分に体育マットでス巻きにされたことが人生でもっとも発狂に近い瞬間であり、いまだに思いだすと手のひらへ汗をかきます。現実との間に薄膜があるのも、やわらかい時期の精神に向けられた、たび重なるダイレクト・アタックを少しでも弱めるための防衛規制の名残りでしょうし、残念ながら幼少期の体験から逆算するだけで、だいたいの個人的な性質には説明がついてしまいます。その「個性の凡庸さ」に、早い段階で気づいておかなければ、弱い風邪にすぎないものをこじらせる結果となります。ようやく中年が終わって、パーティを始めつつある「暴れ大納言」からは、「早めに夏休みの宿題を終わらせておかないと、バケーションの予後は悪くなる」という話をしておきましょう。近年では「末代の大騒ぎ」にかき消されがちな、当然の前提をだれかが残しておかないと、じきにキャンセルやカウンターが機能しなくなりますからね!

 じっさい、それは宿題と表現するような大げさなものではなくて、平均寿命から逆算しても生命の時間を4分の1ほど使うだけの作業ですし、貴君の人格や生き方に深刻な影響を与えるほどのものではありません。未経験者は「先天2割、後天8割」と考えがちですが、じっさいは「先天8割、後天2割」ですので、まったく気負う必要はないでしょう(さっきと違うこと言ってる)。いま7月を生きていて未着手のみなさんには、早めに宿題へ取りかかることをおススメしておきます。個人的な観察の範囲だけでも、8月の中盤へ差しかかるほどに、識字と発話に問題の生じるケースが有意に増え、4分の1が1になるリスクを高めるようですから。また、推測するしかありませんが、この宿題は8月の終盤へ進めば進むほど重さを増すようで、「やらないこと」へのアナーキーかつ優越的な高楊枝が、次第に背中の冷や汗へと変じてゆき、聞いてもいない過剰な言い訳を、周囲へまきちらかすようになります。自分を作った者たちの衰弱による完全な自己消滅への自覚と、社会の豊かさへ何も加えずフリーライドしている事実への後ろめたさが、彼らの内面でジリジリとまさってゆくからかもしれません。「世界に恩恵を受けた2が、世界に2をお返しする」という公式の、なにを足し引きする必要もないエレガントさに対して、そうではない別解を証明しようとする試みのほうが、大きな物量をともなってしまうーーそもそも”not even wrong”だからーーのは避けがたいことながら、いま7月を生きているみなさんは、そういった「非証明ノイズ」に惑わされずに、実証されたシンプルな完全解を生きてください。

 最後に、正直なところを述べておきますと、筆者の言う「インターネットが叡智の集積となる未来」を夢見た時期があり、「テキストはすべて全世界に公開」を基本とし、書いたものに値段をつけるなら「100億円、さもなくば無料」を信条とする身にとっては、このぐらいの内容で「1500円(!)を払わないと読めない」という事実が、本書における最大の皮肉だなーとは思いました。カネがあることで避けられる8月後半のミゼラブルは少なくなく、みなさんは7月を生きるうちに、先人の知恵を骨身のものとして体得しましょう。ともあれ、(浅い塹壕から上半身をのぞかせながら)ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド、虚構日記でした。

アニメ「ルックバック」感想

 アニメ版ルックバックを劇場で見る。発表時、意味深な公開日とあいまってタイムラインを沸騰させた原作には、主人公の名前のモジりとか、11巻で休載するシャークキックとか、藤本タツキの自伝的な物語として読ませようとする誘導を強く感じたものである。「喪失を乗り越えて、描き続ける」というテーマは、創作を生業とする人々に深くささるものだったろうと推測するのだが、作者の半生を仮託していると考えた場合、「身近な現実として、その喪失を経験したのか?」は、作品の評価にかなり影響を与える問いのように思う(劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの行き過ぎた死の描写をしぶしぶ許容できるのも、このラインが判定基準にある)。原作ルックバックは、「作者の”実体験ではない”京アニ事件への哀悼と、クリエイターたちに向けた連帯のメッセージ」をオーバーラップして読ませようとした可能性が大いにあり、仮にそうだとするならば、東日本大震災を無邪気にエンタメ化した「すずめの戸締まり」と同じーー無神経にエンタメ化したエヴァQよりはマシーーカテゴリに属しているとも言えるだろう。何度でも繰り返すが、この世には軽々と第三者が触れてはならない痛みが存在しており、エス・エヌ・エスのかかえる最大の罪禍とは、どこからでも何にでも極小の労力で言及できるという性質から、その垣根を不可視化してしまったことにある。

 話がそれたが、原作ルックバックの問題点は、京アニ事件の発生した日付にわざわざ近接させて、あらゆる人間が閲覧可能なインターネットという媒体に公開されたことだ。本来ならば、一部のマニアしか目にしないマイナーなサブカル紙へひそやかに表明されるべき中身だったのが、文字通り全世界へと配信されてしまったことで、語りの質を決定的に変じてしまったのである。おそらくはフィクサー気どりの編集者が、おのれの手柄として盤外から意味をさらに付加しようと試みたせいだろうが、本来まとうべきではなかった情報までをも、読み手に受けとらせることとなってしまった。非クリエイター職の人間に言わせれば、それは梅雨の時期に食卓へ一日おいた煮物へ鼻をひくつかせるどころではない、口腔に広がり嚥下をさまたげるまでのふんぷんたる自意識の悪臭に他ならない。眉をひそめた百姓や商人の「芸ぐらいのことで命までとられて、哀れなもんやな」という軽侮のささやきの裏で、同胞の遺骸をかきいだいて河原へ落涙する本来的な絶望が、現代においては当事者にさえ遠いものとなっているのだ。

 このたび劇場公開されたアニメ版について言えば、チェンソーマンの映像化が監督の個性を前面に出しすぎて炎上した反省を踏まえ、「原作を一言一句、一場面も変更せず、藤本タツキの描線をそのままに動かす」という手法で作られており、皮肉なことにそれがわずかの改変をむしろ浮かびあがらせてしまった。すなわち、「漫画メディアは音声を欠落している」という当然の空隙に、監督の主観が「荘厳なる音楽」という夾雑物として混入したのである。人並み以上には映像作品を見てきた経験のある身なれど、かように作品の解釈を外挿的に強いる、むしろ邪魔だとまで感じさせるような劇伴は、二重の意味でこれまで聞いたことがない。エンドロールで流れる聖歌隊の斉唱へもっとも顕著にあらわれているように、原作では「河原者の慨嘆」として静かにひそやかに描かれていた諦念と隣接する覚悟を、近年の若いクリエイターたちに顕著であるところの、例えば「一次産業へ従事する者を下に見る」ような傲慢さによって、無限のグラデーションをともなっていたはずの機微の上から、「殉教者の高潔」という名の原色ペンキで一様に塗りつぶしてしまった。これは、高度の都市インフラが個人に「無限のヒマつぶし」時間を与えた結果、虚構が生命維持に不可欠であるかのような錯覚が横行し、「ただちに地上から消滅したとして、人類の運行に何の影響も与えない、無用物である本質への絶望」が、いつか極限にまで薄められてしまったゆえの喜劇と言えるだろう。

 原作におけるラストシーンの背中は、「最愛の人を亡くした後でさえ、”つながる”ために、ペンを動かすことをしか知らない者の悲しみ」まで伝えていたのに、アニメ版のそれは大仰な劇伴のせいで、「創作活動とは、この世のすべてにまさる崇高な営為だ」という、多くの生活者の神経を逆なでする余計なメッセージーーおそらくは監督と音響担当の気分ーーを付与してしまっている。円盤リリースの際には、一次産業や二次産業で口を糊する原作ファンのためにも、劇伴だけを抜いた「無音バージョン」の収録を、ここへ切にお願いするものである。あのさあ、監督チャン、タツキ作品にキミの余計な解釈や自己陶酔は必要ないねん! 昭和の地方在住オタクから、いらん忠告をしとくけど、「都の大通りの遠く、洛外に住む不倶」という自覚から創作活動をスタートせんから、こないなハメになってまうんやで! エロゲーを出自に持つ商業作家の深海魚のような慎重さに、少しは学んだらどないでっか!

 最後に、「原作との差違」という点で気になった場面をひとつあげておきますと、あの象徴的な雨中でのダンスは、「選ばれてあることの恍惚」を胸中にとどめおけず、魂の昂揚で肉体がつき動かされたルックバックの白眉ですが、漫画における表現のほうが圧倒的にすばらしく、よくできているのだろうアニメーションをながめながら、心の中では「解釈違いのクネクネ踊りで、名場面を台無しにすんなよなー」とずっと毒づいていました。

ゲーム「エルデンリングDLC:シャドウ・オブ・ザ・エルドツリー」感想

 ゲーム「エルデンリング」感想

 エルデンリングDLC「シャドウ・オブ・ザ・エルドツリー」をようやくクリア。常のごとく、最初に水をBUKKAKEておきますと、2とは言わないまでも外伝などの位置づけで、アイテム持ちこみなしのレベル1から遊びたかったというのが、いつわらざるファースト・インプレッションでした。本DLCは、あらゆるレベル帯のプレイヤーを一堂に会させるためのバランス調整として、特定のアイテムを集めるほど、与ダメが上昇して被ダメが下がるという仕組みを導入しています。これはキャラクターレベルの影響を少なくし、フィールドの探索に意味を持たせる「冴えたやり方」だとは思うのですが、当該のアイテムに関する物語的な説明は薄く、各地の篝火で味気なくメニューから強化をするにとどまり、専用のモニュメントなども存在しないため、非常にゲーム的な調整だと感じさせてしまっている点は、神話的世界観をウリにするエルデンリングにとって、いささか雑な処理になっている気はしました。また、ジャンプでボスの範囲攻撃をかわすことを強制したり、しゃがみ状態でほんの一部の草むらをステルス移動させたり、ほぼ死んでいる「アイテム製作」コマンドのためにウィッカーマン?討伐用のツボを作らせたり、既存のアクションとギミックをなんとか流用してオープンワールドへ適応させようとする努力は伝わるのですが、デモンズソウルから15年と6作を経た現在、そろそろ完全新規のシステムによるダークファンタジーの制作を模索してもいい時期ではないかと思います。

 「ゲームは1日1(or2)時間!」を座右の銘とする社畜にとって、時間あたりの発見がプラトー状態となったあとは、例によって「ゲームは1日22時間!」な先人の攻略過程a.k.a.粘液トラックをなぞるだけの「瀕死の奴隷」と化してしまったものの、いっさいの情報を遮断した初見の探索は、キングズフィールド2より連綿と続く、これぞフロム・ソフトウェアといった破格の面白さで、ひさしぶりの充実したゲーム体験であったことを、ここまでさんざん腐しておきながら、本作の名誉のためにお伝えさせていただきます。特に、発売初週の日曜日にいどむこととなったレラーナ戦は、ボスたちが弱体化される前の「触られたら、即時蒸発」という地獄・鬼ゴッコ状態で、影の地への迂回路なんて知りもしないものですから、軽く数十戦のリトライを強いられることとなりました。本DLCでは、レラーナをはじめとして、体力ゲージが50%を切ると行動パターンの大きく変容するボスがおり、新たな動きを見極めて対応を習熟させたくとも、ゲージ半分への到達さえヒイヒイ言っているミドルエイジの反射神経では、賽の河原の石積みのほうがまだ進捗があるような状態に陥ってしまいます。人生に少年漫画的な覚醒が無いことを痛いほど知るマネジメント層は、協力プレイとは名ばかりの丸投げで、レラーナ打倒を下請けに外注しようと考えはじめるわけです。そうして、他世界のプレイヤーを召喚すべく、下卑た表情で鉤指を使った瞬間、かつての蓮コラのごとく床一面にビッシリと金文字が現れ、思わず「ヒッ」と殺される前の悪役じみた声がほとばしったのも、終わってしまえば楽しい思い出だと言えるでしょう。呼ぶ褪せ人、呼ぶ褪せ人、ほぼ全員と表現しても過言ではないほど、「左手に大盾、右手に長槍」というエルデンリング的には「誉れを捨てた」よそおいだったという事実をお伝えすれば、攻略情報の薄い時期にだけに訪れる、あの阿鼻叫喚の空気を感じていただけると確信しております。

 ファーストパッチ以前は、どのボスからの被ダメもあまりに大きすぎ、旧エヴァで例えるならば「ビームのタメ時間がゼロかつ動きの俊敏なラミエル」みたいな相手ばかりであり、「触られたら即死だが、盾の上からなら無傷」という一種異様な状況が、大盾マンを増殖させていったのだと分析できるでしょう。この重装備優勢の環境が、ゆるやかに「股間にシャブリリのブドウを2つ装備しただけの、レベル1短剣装備な”避け上手の若君(全裸)”」へ収束していくまでが、ソウルシリーズの変わらぬ伝統だと言えるかもしれません。動画配信でゲームを擬似体験する層にとっては、ローリングとパリィだけでボスを封殺する様子などを見ると、「なーんだ、エルデンリングって、簡単そうじゃん」などとナメた感想をいだくのかもしれませんが、じっさいにコクピットへ腰をすえ、操縦桿をにぎらされれば、たちまち音速のGで首ごと持っていかれ、なにもできないまま一瞬でブラックアウトする結果に終わることでしょう。本DLCのボスたちは、スキマ風のびょうびょう吹くパンスケのCHITSUにINKEIをエクストラポレートするような気軽さで、まばたきひとつのうちに2コマ漫画でゼロ距離へと接近し、コブシの根本までをキツキツのみぞおちに埋めてくる、高速のステゴロ番長ばかりなのDEATHから! 「シューティングゲームに搭載されていたらゲームバランスが崩壊するだろう、敵の弾の異常なホーミング性能」や「最新の人工知能も真ッ青な、プレイヤーの動きではなくボタン入力を検知した敵の回避行動」などは無印からいまだ健在で、影樹の地での冒険において再び、幾度かキャラクターではなくプレイヤーのステータスが「発狂」となりかけました。ロックオン状態からは、どれだけローリングしてもかわせない、大質量カバのゴキブリダッシューー満タンの体力が噛みつき3回でゼロになるーーに、褪せ人のマナコはスカーレットロットもかくやというほど、マネジメントの不可能なアンガーで真ッ赤に染まりましたからね(すぐに修正されたようです)!

 「妹による近親姦を目的に、兄の魂を移植した他人の遺体」という最高に気のくるったラスボスを、他世界のプレイヤーに外注してブッたおしてもらったいまは、情報なしの初回プレイでは決して回収できないNPCイベントーーすべての褪せ人が「撃たれる前に殺す」をモットーとする例の虫の死にかけを視界に入れた瞬間、反射的にたたきつぶしてしまい、バキボキにフラグをへし折るなどーーをイチから追いかけるべく、2周目の準備にとりくんでいるところです。装備や魔術や戦技や遺灰のリストを調べていくと、本編もふくめて信じられないほど膨大な取りこぼしをしていることがわかり、あらためてエルデンリングというゲームの規格外の規模を実感させられて、クラクラと目眩がしております。しかしながら、1日22時間プレイヤーが1週間で8周してゲームに熱力学的な死を与えるのに対して、1日1(or2)時間プレイヤーは極限にまでプレイタイムを縮小することで、有限なはずのゲーム体験から無限の主観時間を取りだせるのは、まさにフリーマン・ダイソン言うところの「永遠の知性」の定義そのものであり、エリート(ノット・ソー)サラリーマンの持つ特権だと言えますね!

雑文「FUNGUS, HOYOBA and FGO(近況報告2024.7.25)」

 ホヨバ幹部とファンガスの対談記事を読む。崩壊サード(未プレイ)ローンチ時の反省をふまえて、ブレワイの影響下と揶揄されがちな原神に、英雄伝説のフォロワーと言われやすいスターレイルと、じっくりていねいに新規IPを育ててゆき、それらの世界市場におけるプレゼンスが充分に先人たちの実績を凌駕したことを何度も指さし確認してから、かつて好きだった作品や作家へ最大級のレスペクトをもって、コラボやイベントへの登壇(田中芳樹!)をおずおずと依頼するーーこの態度は、以前にも「本邦のエンタメ業界にとって、真の脅威である」と指摘した「謙虚で内省的な、かしこい中華人民」そのものだと言えるでしょう。本対談におけるファンガスのホヨバ作品へ向けた分析には、さすがにするどいものがありましたが、「ライターたちへ、もう心やすまる日々は訪れないとお伝えください」など、ウエメセの先輩風を接待ーーくれぐれもハニトラには注意して! ファンガスの性癖である「昼は聖女で、夜は娼婦」を体現する美人コスプレイヤーを当てがわれますよ!ーーで気持ちよく言わせてもらっている、小鼻の広がってる感がただよっており、完全に他業種の他人事ながら、エロゲー時代からのいちオタクとしてはどうにも忸怩たるものがありました。

 ここ10年近く、FGOからの課金でホヨバ以上の収益を得ていた時期がありながら、古くさい前時代のアプリを1ミリも刷新せず、新聞広告やリアルイベントに加えて、昔からのファンしかプレイしないような低クオリティの派生作品やリメイクの乱発に稼ぎを浪費しつづけ、たった5年ほどで作品クオリティと収益の両面において、完全にホヨバへ追いぬかれてしまった。本家の屋敷を粛々と増改築することに専念すべきだったのに、門外に安普請のバラックを何棟も立て続けたあげく、そのほとんどがすでに住む人もなく倒壊している事実を見れば、学生あがりの同人サークルからアップデートされていない組織風土と、ほとばしる情熱と分析的な視点をかねそなえた企業体との違いを、痛いほどに実感せざるをえません。学生ノリとは、この祭りは必ずいつか「終わる」ことを無意識のうちに内在化した、都の大路で銭をまきながらねり歩くような、瞬間のハレに特化した狂熱に他なりません。一方でホヨバの姿勢は、いつまでも祭りを「終わらせない」ために、神輿のメンテナンスや担ぎ手の健康管理という圧倒的なケを粛々と引き受けつづける、「祭りの外から祭りを見つめる者」であることを徹底しています。

 ファンガスのふるまいはその好対照になっていて、彼/彼女は神輿の上から民衆の狂乱をあおりたてる半裸の巫女であり、その死が祭りの終わりとわかちがたくイコールになってしまっている(もしかするとこれは、本邦のフィクション全般に当てはまるのかもしれません)。FGOがホヨバの作品群にかろうじて対抗できる要素は「巫女の託宣」、すなわちファンガスの筆のみであり、第2部終章へと向けた年単位の牛歩戦術がくりひろげられている現在、それすらもあやしいものとなってきています。原神やスターレイルのクオリティでFGOのキャラが実装されていく世界線も、我々がもっともふんだんに課金をしていた時期に有能なフィクサーがいれば、充分にありえたことを過去の後悔としていだくのと同じ強さで、めずらしく純粋に国籍と人種の観点から、ファンガス個人を応援したい気分もあります。彼/彼女がこの対談で高らかにうたいあげた「美しいものを書きたい」という宣言は、他のすべてのひねくれた見方をふきとばして、強く心に響きました。なんとなれば、小鳥猊下はnWo開設から25年を経てなお、この場末のテキスト墓場で、「美しいものを書きたい」という気持ちを失ってはいないからです。

 そして、ここからが重要なのですが、ファンガスの幽閉先である「さいはての塔」で行われたホヨバ幹部との交流を、「国家間の機密」とまで表現したことからわかるように、いよいよFGOは第3部からホヨバ謹製の原神規模アプリとして新生することが、確定的に明らかになったと言えるでしょう。サーバントの引き継ぎに関してはオレも動く。抗議デモだよ。はっきり言ってオレが声をかければ、元テキストサイト運営者の半数以上は動くだろう。皇帝、四天王、10傑(オレ含む)、3本柱などの超一流だ。なによりも強いのは、全員ツイッターでのデモをブッとおしで何日も可能なことだ。リアルでの予定が……なんてヤツは一人もいない。サーバント引き継ぎなしとかふざけんなよ。馬鹿ばかなの? 死ぬの? そもそも大量に課金しないと強くなれない仕様にしたのは型月だろう? 型月にはサーバント引き継ぎをする社会的責任があるはず。なんだよ星5キャラ1枚の天井が6万円で5枚引きの宝具最強を強要って、しまいにはコンテンツ参加にはクラス縛り。普通の企業なら優良な客には特典つけるのが常識(iTunesカードとか最たる例)。ちょっと顔なじみのエロゲー作家に話つけてくるわ。

漫画「ハイキュー!!」感想

 インターネットの無い時代に受けたハードコア平和学習ーー何の事前ノーティスもなく、小学生に突然ケロイドの写真を見せるなどーーの影響から、「平和への希求」というより「盛夏の滅び」を心に植えつけられてしまっているため、毎年この時期になるとひどく気持ちが落ちこみます。それに加えて、艦これのイベント海域がはじまってしまったものだから、「ただただ気分のアガるフィクションが読みたい!」と考え、ハイキュー!!の電子版を全巻一括購入しました(時節柄、エヌ・エイチュ・ケーからのサブリミナルな影響を排除できませんが……)。「本邦の男子バレーボール人口を有意に増やした、平成後期のスラムダンクに相当する作品」以外の情報をいっさい持たないまま、艦これのウィンドウにキンドルのそれをかぶせるようにしながら、読み進めていきます。最初の20巻ぐらいまでは、まさにジャンプ漫画の王道といった展開で、弱小チームが格上の強豪へいどむ試合は手に汗にぎり、地方予選の1回戦で敗退する「部活としてバレーボールを経験した者」へ向ける優しいまなざしに落涙し、何よりも作者の真摯な熱量に圧倒されて、「ああ、十代の頃にこの作品にふれたら、バレーボールはじめるわなあ」とひどく納得させられる感じがありました。

 20巻以降は、「これまで見たこともないバレーボール表現」の斬新さに慣れてしまったせいもあり、「ワンチ」「シンクロ攻撃」「ナイスキー」を対戦相手の過去でサンドイッチする繰り返しにあきてきて、どこかダレる感じもあったのですが、毎話の最終ページにおける”ヒキ”が強烈で、ページを繰る手を止められないのは、さすが少年誌の頂点であるところのジャンプ連載作品だと素直に感心しました。我々スラムダンク世代は、「1つ前の試合を超える試合が見たい!」と作者をアオリたて、それにこたえる形で内容をエスカレートさせていった結果、全国大会の1回戦でそのドラマツルギーは臨界に達して、「2回戦でウソのようにボロ負け」となり、作品そのものが中絶させられたトラウマを、いまだ心のどこかに抱えたまま生きております。なので、ハイキュー!!がそのラインを超えてくるかどうかは、私にとって非常に大きな関心事でした。全国大会1回戦の相手が雑魚っぽいことに安心し、2回戦におけるジャイアントキリングを経て、ついに3回戦へと突入したときには、スラムダンクのトラウマをようやく克服できたように思いました。

 ただ、連載の初期からライバル校として登場し続け、苦しい時期を支えてくれて、作者の思い入れも強いだろうネコマ高校が、この段階をむかえて相対的にまったく魅力を失っていることは、どうにも否定できませんでした。「オレたちは血液」ではじまる例のルーチンも、リアルとフィクションのどちらへより大きく振るかが決まっていなかった時期の「キャラ立てフレーバー」に過ぎず、数々の強豪を打倒してきたいまとなっては、共感性羞恥をまねく中2病的フレーズとして浮いてしまっています。ネコマ高校を見て思いだしたのは、名門!第三野球部で主人公チームを倒すことになる、主人公チームよりも低いスペックと厳しい環境を、努力と団結力と「けっぱれ」で乗りこえる東北の弱小高校でした。少年漫画の楽しさの基盤って、「最弱の主人公が強くなる過程で引き起こす、奇跡的なジャイキリの連続」だと思うんですよ。ネコマ高校との試合がハイキュー!!のベストバウト?に選ばれてるのは、その意味でたいへん納得が行かないし、腐女子による「ケンマ×ヒナタ」のBL組織票を疑っております。

 そして、地味な3回戦を終えて、作品テーマである「小さな巨人」を描く準々決勝がはじまり、もうこれでスラムダンクの呪縛は完全に解かれたのだとホッと胸をなでおろしたところに突然、なんの前ぶれもなくそれはやってきました。ハンターハンターのゴンさんを彷彿とさせる怪物性が開花して、3セット目の大詰め最高潮のいよいよこれからというところで、主人公はケガですらない、体調不良による発熱で試合を途中離脱してしまうのです! 当然のごとくチームはやぶれ、「まあ、1年目で全国制覇はムシがよすぎるか」と気をとりなおし、キャプテンかプレイボールばりの2年生編がはじまるのを、当時の99パーセントの読者と同様に期待したわけです。にもかかわらず、高校の残り2年間をナレーションでスッとばして、ブラジルでのビーチバレー編がはじまったのには、冗談ではなく椅子から転げ落ちました。あとづけの推察ながら、35巻ぐらいから表紙の折り返しにある作者コメントから熱量が薄まっていくのは気になっていましたし、「じっさいに試合をすればいいだけなのに、なんでオレはわざわざこれを紙に描いてるんだ?」との慨嘆にいたっては、描きたいテーマ・場面・セリフを出しつくして、なお人気が下がらず、連載をやめたいと泣きついても編集部と、おそらくバレーボール協会から、「せめて、東京オリンピックまでは続けてくれ」と引き止められ、もうバレーボールの試合を描きたくない作者の気持ちとカネ勘定の得意な大人たちの思惑の落としどころが、南米への取材旅行の許可とビーチバレー編だったと想像すると、なんだか胸が苦しくなってきます。

 そうしてついには、ありえたはずの「2年生編」「3年生編」「ユース編」「大学編」「Vリーグ編」「オリンピック編」「ワールドカップ編」を大急ぎの駆け足でぜんぶ塗りつぶして、続編の制作が不可能な地点にまで時間軸を早送りして、ハイキュー!!世界に完全なるトドメをさしてしまいました。これは、「もうだれがなんと言おうとバレーボール普及の神輿には乗らないし、バレーボール漫画だけは今後の人生でぜったいに描かない」という、作者の悲鳴に近い宣言のようにも聞こえるのです。この結末には、シンエヴァを見たときと同じ感覚がよみがえって、当初のつもりであったのとは逆に、「盛夏の滅び」による気持ちの落ちこみは、よりいっそう加速していきました。私がハイキュー!!という作品を通じて知りたかったのは、あの小柄な16歳の少年の歓喜と成長であって、40がらみのオッサンが吐露する創作の苦しみでは断じてありません。「スラムダンクの呪縛」は1回戦から準々決勝へとコマを進めた状態で「ハイキュー!!の呪縛」によって、新たに上書きされる結果で終わり、「少年漫画の連載は5年以内、30巻未満で終了」せねばならぬとの思いをあらたにした次第です。

 あのね、艦これで例えるなら、ビーチバレー編は「連合艦隊12隻大破進軍」ですよ。最近の人気作になぞらえるなら、ビーチバレー編は「死にたがりの鬱君」ですよ。シンエヴァにせよ、正しい方向性を直言できる「良い大人」不在のまま、作者がいっときの自暴自棄で壊してしまった作品を見ると、どうにも自殺の名所で死者の手まねきに引きこまれるような気分にさせられます。20歳を越えた大人の話なんて、なにがあったって自分ひとりでやっていくしかないんだから、もうどうだっていいじゃないですか。少年漫画には、どこどこまでも思春期の葛藤へ寄りそって、少年が少年のまま世界の不条理を超克して、フィクションにのみ可能な栄光の輝きを見せてくれることを望みます。