2日連続でスポーツの話題を提供すると陽キャだと思われてしまいそうだが、スラムダンクの映画を見てきた。ご多分にもれず、ハネッかえりの若手クリエイターとクソ声優おたくどもによるネガティブ・キャンペーンに、嫌気がさしてはいた。しかしながら、本誌で連載を追いかけていたリアルタイム世代であることと、初日を越えて「くそ……なぜオレはあんなムダな時間を……」の画像がタイムラインに流れてこなかったため、散髪ついでに見に行ったのだが、このテキストを書きかけて、散髪するのを忘れて帰ってきたことに気づいたほどである。内容的には原作との補完関係になっており、作者本人が脚本と監督を手がけていることもあって単体でもそれぞれ楽しめるが、どちらも知っているとなお面白いという仕上がりになっている。正直なところ、感動に目頭が熱くなったし、結末を知っているにも関わらず、今度こそ本当に負けるかと思った。
そして、この作品は井上雄彦という作家のフィルモグラフィー(この言葉の漫画版って何ですかね?)を読み解くにあたって、きわめて重要なピースである。スラムダンク連載終了後に始まったバガボンドとリアルがどちらも長く中断してしまっているのは、カラッとしたフィクションで現実を上書きしていく作風だったのが、依拠する現実の重たさにフィクションを浸蝕されるようになってしまったからだと指摘できるだろう。表面上だけは深刻なフリのシンカイ某みたいな脳天気パー子なら、他人の不幸を利用して創作を続けても罪悪感に自壊しないだろうが、彼は聾唖の天才剣士や筋ジスの車椅子バスケ選手を真摯に描こうとするうちに、自分が選んだテーマとその重さに耐えかねて、いつしか筆が止まってしまったのだと推測する。この意味において、本作は表現形式こそ漫画から映画へと移されたものの、創作者・井上雄彦の赤裸々な現在位置を示していると言えるのだ。
NBAにおけるマイケル・ジョーダンの大活躍に影響される形ではじまったスラムダンクの連載は、本邦でも一大バスケットボールブームを巻き起こした。そして、スーパースターの引退と連載の終了は、そのブームの終焉とリンクしていたように思う。この映画で、チビのポイントガードが主役として焦点を当てられているのは、亡くなった兄の名前をユータにまではしなかったものの、スラムダンクから影響を受けて日本人初のNBAプレイヤーになった、あの選手への目くばせだろう(蛇足ながら、スラムダンクに登場するフォワードたちのような活躍をする選手は、現実には現れなかったからでもある)。自らの描いた虚構が現実へ影響を与えた実例に心理的なサポートを得る形で、創作者としての再起動をはかろうとしたのが本作に隠された裏の意図だと考えるのは、きわめて自然なことのように思える。ともあれ、「THE FIRST」の冠がスラムダンク第2部ーー雑誌掲載時の最終話は「第1部完」だったーーへの布石であることを強く祈っている。
あと、同じハコから出てきたボンタン・ツーブロック・片耳ピアスの中高生ーーおそらく土建屋の父から見に行けと言われた、末は反社か鳶職かの一団ーーが、エスカレーターに座りこんでスラムダンクの話をしているのを見て、なんだかうれしくなってしまった。本邦の未来は、物心ともに君たちが作っていくのだ。タイムラインに生息するシングル・ルンペン・ブルジョワジーの戯言なんかに、耳を貸すんじゃあないぞ。アイツらは、自分の寿命が無いもののようにふるまえる一世代限りの徒花、学術名・デジタルキグルイだからな。
劇光仮面の2巻まで読む。前作がバチバチのキャラクター・オリエンティッドな作劇なのに、グラップラー刃牙で言うところの「全選手入場!」の段階で終わってしまったのは、記憶に新しいところです。作者本人が「キャラ中心の群像劇を描きあげる力量が無かった」みたいな弱音を吐露をしていましたが、30年選手のベテランがいまだに手クセや予定調和を退けて、ド正面から真剣に虚構へと向きあっていることは痛いほどに伝わってきました。手クセと予定調和まみれなどこぞのシンカイ某にも、この創作姿勢を見習ってほしいものです。その挫折を受けて始まった本作ですが、こちらは作者の来歴とアイデンティティに深く根ざしたストーリー・オリエンティッドな内容で、今度こそ中絶の心配は無いように思えます。
はじめて現実を舞台にした(だよね?)この物語には、おそらく「虚構が現実に敗北(あるいは勝利)」する結末が用意されているはずですが、強い思想性の持ち主であるにも関わらず、さらに激しいフェティッシュがそれをかき消すという作風が、今度こそ思想性にオーバーライドされてしまうのではないかとひそかに危惧しています。ぶっちゃけて言えば、私が在住する県で発生した大化の改新以来の歴史的事件を下敷きにした最終章へと突き進んで行きそうな気がしてならないのです。そうなれば、これまでの彼の全仕事が新たな視点で再解釈されることにもなりかねません。ともあれ、いま本邦でもっとも緊張感のあるフィクションのひとつであることを疑う余地はないでしょう。劇光仮面、大きな期待と不安の狭間にゆれ動きながらも、おススメです。
アバター2、見てきた。西洋人の大監督が撮る超大作に、アジア人の短躯広報がビビりまくってつけた副題「ウェイ・オブ・ウォーター」は、ファントム・メナス以来の盛大なる腰の引けっぷりだと言えましょう。そして、赤青メガネをつけた無責任な観客が「やっぱ3Dってゲテモノだよなー」などとヘラヘラ笑ってるのを見て、「映画芸術の新たな地平は、映像に1次元を加えることである」という強い信念に突き動かされて、専用カメラを開発してまで「やらなキャメロン!」と作りあげた前作はまさに映画革命でしたが、残念ながらここ10年余りで市場から3D映画そのものが駆逐されてしまいました。
前作の熱烈な信者である身としては、何を出されても「アバターもえくぼ」の心境でいようと臨んだのですが、まず率直なところから言いますと「13年もかけて、これ?」という感想でした。なぜか、映画版のファイナルファンタジーを彷彿とさせらましたねー。長すぎる制作期間で技術革新に追い抜かれたせいか、はたまたCPUとグラボのパワーが足りてないせいか、画質はフルハイビジョンと4Kと8Kを頻繁に行き来し、フレームレートは25fpsから120fpsのレンジを何度も上下する始末で、全体としての統一感がまったく取れていません。初代は名実ともにエポックメイキングな作品でしたが、ここ10年のマーベル台頭によって御見物の目が肥えたせいでしょうか、実写で撮影している部分とフルCG部分の見え方に乖離がすさまじく、売りであるはずのそのCGもプレステ4か5のムービーシーンぐらいにしか見えないのです。
さらに3時間12分もの長尺をとっておきながら、そのうち半分は技術自慢のアトラクションパートで、肝腎のストーリーパートも前作で語り終えた内容の蒸しかえしばかり、「ベトナム戦争」「アパッチ民族浄化」「捕鯨問題」「ガイア理論」をごった煮にしたあげく、世界の現状からどれをもテーマとして焦点化できなくなった結果、大声で「家族の結束」を叫びだすというグダグダさです。また、映画監督としての格は天と地ほども違いますが、その芳醇な才能をアバター世界の構築にのみ費やした十数年が別の作品に注がれたらとどこか惜しむ気持ちは、作家として最も円熟していたはずの十数年をエヴァンゲリオン世界のリブート失敗(大失敗)に空費した某監督の無様さを否応に連想させます。スターウォーズ6の感想でも指摘したことですが、つくづく考えさせられるのは、アメリカが建国の過程で負った原住民虐殺という国家的トラウマは、今日に至るまで子々孫々へいまだに宿業として受け継がれており、彼らは「世界最強の軍事力を有する我々を、インディアンたちが石槍と石弓でうち負かしてくれるという甘美な破滅」をどこかで待ち続けているのかもしれません。
最後に、念のための注意喚起として付け加えますが、本作を中学生以下のお子さんに見せるのは、危険な気がします。幻想のヰタ・セクスアリスとして、特殊な性癖をふかぶかと植えつけられそうな実在感だけは、全編にわたって横溢しているのですから! しかしながら、「ただの異星人だから」とロリペド方面の、「ただの身長差だから」とショタ方面の需要をただちに満たしてくるのは堂々たる大監督の威風であり、この点にだけは三千円弱をはらっても惜しくないと断言しておきましょう。
FGO第7章前半クリア。前後編へと分割した理由がボリュームでなかったことは残念でしたが、内容的にはさすがファンガスの筆であり、他の書き手を寄せつけぬ頭3つほど抜けたクオリティに達しています。ただ、第6章と比べると物語の展開が幾分リニアーで、語り口もわずかに雑だと感じざるをえません。さらに、サッカーW杯ネタを仕込んでくる節操のなさやパロディの多用、リアリティラインをギャグ方向に下げて危機を回避する手法など、全体としてのフィクション然とした雰囲気は少し気になりました。しかしながら、これは各界のスーパースターたちが様々な記録や偉業をうち立てたあと、あらゆるライバルが背景へと消え去り、やがて己の過去と己自身だけを行為の基準とする境地に、ファンガスが突入したからだとも言えます。
そして古くからの型月ファンたちは、20年以上前の設定集から引っぱりだされたORTなる「ボクの考えた最強生物」に大興奮の様子ですが、FGOからの新参者にしてみれば、体内で核融合反応を行うというくだりはあからさまに例の怪獣を連想しましたし、冒頭に登場した光の巨人とU-オルガマリーがアーツカードを使うときの「デュワッ!」というかけ声は、M78星雲の宇宙人へのあきらかな目配せを感じました。おそらく第7章後半で、「ゴジラ対ウルトラマン」をやりたいんだろうなーと推測するときの気分が冷めているのは、版権が存在しない偉人や英雄には女体化を筆頭とした好き勝手の狼藉を働きながら、版権の切れていない既存IPには気づかれぬようおそるおそるアプローチするその手つきが、結局はどちらも同質の根を持つとわかるからで、同人活動に出自を持つ会社の「育ちの悪さ」をいまさらながら見せつけられた気分でいます。
FGO第2部における世界の危機が、既存作品のパロディへのオーバーラップによって解消するのだとしたら、それは昔からの同社ファンを大いに喜ばせこそすれ、新しいファンたちを白けさせるものでしかないと、老婆心から忠告しておきましょう。かすかに匂ってきたメタの香りに不安を覚えつつも、第7章後半とそれに続くだろう終章を、いまは心静かに待つつもりです。前半で描かれた「ウルトラマンが人類を好きになる過程」は充分に感動的だったので、ここからは既存IPのオマージュから離れ、ひとりで高く飛翔することを願っています。
昨年末の私的な大事件として、この2年間というもの、あらゆる抽選から外れてまくってきたプレステ5が今さら当選し、なぜかクリスマス当日に配送されるというミラクルの発生をまっさきに挙げたい。手に入った途端、それまで抑圧されてきた欲望が聖夜のINKEI(UNKEI・KAIKEIの弟子)の如くムクムクとエレクチオンしてきて、「まあ、専売ゲームもあるっちゃあるけど、基本はsteamのPC版で充分だよなー」といった態度が、「ブドウすっぱい」に過ぎなかったことを思い知らされたのである。もはや中身はパソコンと同じと分かっていながらも、やはりファミコン世代にとってのコンシューマー機は、いつまでも心の中で特別な場所を占め続けていることを、あらためて自覚させられたのだった。さっそく「ゴースト・オブ・ツシマ」と「ゴッド・オブ・ウォー:ラグナロク」をプレイして、この13年間でアバター2が技術的な最先端から追いやられてしまった場所の、相対的な位置を知ることができた。
さて、プレステ5には「アストロズ・プレイルーム」という「同機でできること」を集約したショウケースのようなゲームがプリインストールされている。真のクリエイティブを地で行く宝石箱のような内容であり、これはこれですばらしいのだが、個人的にはPSVR専用の前作を思い出さずにはいられなかった。「次世代機」と呼ばれるコンシューマー機が次々と発売された90年代以降で、前世代の模倣ではない真性の革命となったゲームを3つ挙げるとするなら、1993年の「バーチャファイター」、1996年の「スーパーマリオ64」、そして2018年の「アストロボット:レスキューミッション」である。「ポリゴンによるキャラクターの3Ⅾ化」「カメラ導入による3Ⅾ世界の自由移動」「3Ⅾ世界におけるカメラ操作からの解放」が、それぞれを挙げた理由である。どうもPSVR2には後方互換が無いようで、他2作ほどには多くに知られないまま、この記念碑的な作品が埋もれてしまうことを口惜しく思っている。アストロボットのためだけにPSVRを購入してもまったく損は無いと断言しておこう。この作品はゲーム文化の成熟に伴って出現した大きな革命、まさに文化大革命なのだから!
……あれ、オレまたなんかやっちゃいました?
正月休みのヒマにあかせて、長く積んであったリメイク版のウエスト・サイド・ストーリーを見る。いちばん驚いたのは、ミュージカル映画の金字塔であるオリジナル版を、短くはない人生のどこかで見たものと思いこんでいたのがそうではなく、度肝を抜く後半の展開をまったく知らなかったことでしょう。ニューヨークを舞台にしたロミオとジュリエットをキリスト教の因果応報で描いたら、もうこの結末にしかならないと冷静に考えればわかりますが、視聴中はかなりビックリし続けていました。ロミオ役のショーヘイ・オオタニにはあまり感心しませんでしたけれど、目と目の間が大きく開いた一見ファニーフェイスのジュリエット役が、演技と歌唱によってたちまち美少女へと化けるのは、まさに助演女優賞の面目躍如といった感じです。
撮影についても、画角と構図と陰影があらゆる場面でビシッと決まっていて、ひさしぶりに「映画は光と影の芸術」という言葉を思い出させてくれました。じっさい、実在のヒトとモノをライティングによって立体的に撮る技術は、CGまみれの現代作品群において逆に新鮮なものとして映りますね。つくづく考えさせられるのは、スピルバーグとキャメロン、全盛期を大ヒットの連発で駆け抜けた名監督たちが、そのキャリアの最晩年に「実と虚」の真逆にそれぞれたどりついたことであり、アバター2をまったく評価できない私にとって、ひどく皮肉な結果のように思えます。これを撮ったスピルバーグが「マーベルは、百歩ゆずって娯楽かもしれないが、映画芸術ではありえない」と発言したとしても、強く首肯させられてしまうだろうオーラは感じました。
あと、「なぜいま、このリメイクなのか?」と問われれば、黒塗りの白人が有色人種を演じるというオリジナルが、昨今の過剰なポリコレによって公開禁止の道をたどった場合に、適切なバックアップを用意したかったというのが本当のところではないでしょうか。だとすれば、アマビエ8世だかがヒステリックに児童虐待を叫んでいる半世紀前のロミジュリも、のちのち裁判を起こさない十代半ばの新キャストで、ただちに再撮影しておくべきです(きれいな目で)。それと、国を離れて親もいない者たちが頼るのは同じ人種の仲間で、やがて「メンツを潰されたら殺す」という武士の本懐みたいな愚連隊と化していくのは、時と場所を越えて普遍的な人の本質なのかもしれません。仲間の大切さを訴える海賊漫画(なんじゃ、そりゃ)が本邦で流行っているのも、国と親を信用できない貧困層が、その薄っぺらな行き止まりの思想に同調しているゆえではないでしょうか、知らんけど。
原神の育成素材を集める傍らで、大怪獣のあとしまつをながら見する。タイムラインにボロックソの悪評しか流れてこないため、ハードルを地面から1センチも上げずに視聴したのですが、全体的にカネがかかっていて撮影も特に悪くなく、映画としてはフツーに成立しているレベルだと思います。
ただ、予期せぬシン・ゴジラの大ヒットに対する逆張りで作られていることは確かで、陽キャの電通マンが体育会系ノリでゲラゲラ笑いながら、特撮を含めた「オタク君の好きなもの」を徹底的に茶化す意図で企画しているのは、ビンビンに伝わってきました。本作へ向けたみなさんの気持ちをより正確に表す言葉は、「つまらない」や「笑えない」というより「なんか、すげえイラつく」に近いのではないかと思います。
40代も半ばを迎えて業界で企画の実権を握った、大学時代はヤリサー所属の人物が、オタクを当然に蔑視していたかつての感覚を捨てきれないまま、無理やり時代に迎合する中身へと作品を寄せようとした結果、オタクを下に見る気持ちを隠しきれなかったというのが、正確なところではないでしょうか。
作品の完成度さえ度外視して届くオタクからの不評って、なんかどっかで経験したことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、バブルだった。
原神がそろそろスタミナ消費ゲーになってきたので、余った時間でゴースト・オブ・ツシマを進めている。いまちょうど金田城を攻略して叔父上を救出したあたりですが、これまで発売されたオープンワールドの諸要素を集積したようなプレイフィールで、使われているギミックについては正直なところ、このゲームならではの新しい要素はほぼありません。自由度も特に高いとは言えず、同じ局面を同じ条件で何度もリトライさせるのには、アクション下手の酔っぱらいをゲンナリさせる瞬間が何度もありました。
ただ、和を基調としたグラフィックと世界観は圧倒的なオリジナリティであり、未熟な若武者としてツシマに降り立ったプレイヤーが操作技術の理解と練達にともなって、蒙古を震えあがらせる鬼の武士へと変化していくのを己の分身として実感できるのは、なかなかに得難い体験だと言えるでしょう。戦いの誉れと卑劣の間に感情の天秤が揺れ動くストーリーは、ゲーム内でのプレイヤーの行動へ影響を与えるレベルに達していますし、厚ぼったい一重まぶたに牛を思わせる中肉中背のむくつけき主人公を、感情移入で次第にカッコイイと思えるようになっていくのも、じつに不思議なことです。「ゆなが美女に見えてくる」という人には眼科か精神科の受診をすすめますが、かつてショー・コスギが海外で忍者ブームを巻き起こしたときのように、東洋人が正面から歩いてくるだけで西洋人が恐怖に道をゆずるような状況が、このゲームと続く映画化で再び生まれれば面白いのになあと妄想しています。
原神のときにも少し触れましたけど、じつに口惜しいのは本来であれば日本のスタジオから世界に問われるべき作品を、本邦へのより深い理解と愛情で海外に先取りされてしまったことでしょう……などとゲーム業界の未来を憂いているそぶりの裏で、もっとも強く願うのは何かと言えば、一刻も早いPC版ゴースト・オブ・ツシマのリリースであり、海外のHENTAIどもの仕業で百花繚乱に咲き乱れるだろうエロMODを導入しまくって、「免許皆伝の美少女中学生剣士」となった半裸の酒井仁子で、「どうしよう、どうしよう」と逃げまどう蒙古どもをなます切りに殺戮するという、甘やかな夢想なのです(身体のある部位をいきり立たせながら)。
神々の山嶺、アニメ版を見る。漫画版ーー小説は未読ーーは「山男の生き様」「魅力的な絵柄」、そして「山における食事」の3要素が渾然一体となった奇跡の名作なわけですが、このフランス映画は最初の1要素しか満たしていません。演出も含めて充分にいい作品だとは感じながら、残りの2要素に重きを置いている方には、大いに不満を残すだろうとも思います。じつは、「運命を分けたザイル」とか「エベレスト(エヴェレストじゃない方)」とか、山を題材にした映画がけっこう好きでして、冬場に暖房をきかせたシアタールームでぬくぬくとアルコールを入れながら見る極地での苦闘は、鉄骨渡りの馬主にも似た生の愉悦を最高度に味あわせてくれるからです。
しかしながら、こういったドキュメンタリー調で極限を描く作品への没入を邪魔するのは、「はたして、このカメラはだれが回しているんだろう?」という疑問です。なんぴとをも寄せつけない過酷な環境にひとり挑む男の周囲に、カメラクルーたちが取り巻いているのを俯瞰で想像するとき、他の題材には抱かない「強いフィクション感」を覚えてしまうのです。神々の山嶺、漫画版にはない映画版の弱点を挙げるとすれば、まさにこの感覚ですかね。「オイオイ、雪の中に突っ伏して死にゆく主人公を、キメキメの画角で撮影する余裕のあるオマエが助けてやれよ!」とか脳内の関西人がどうしてもツッコんじゃう。
あと、本作の大オチである「マロリーのフィルム現像結果」を曖昧にして終わらせたのは、ストーリーの背骨でもある登山界最大のミステリーについて解決篇をスッとばしたようなもので、漫画版からは爽快感を大幅に減じています。それもこれも、了見の狭いカエル喰い(仏)が意地の悪いウスターソース野郎(英)のエベレスト初登頂を認めるような絵を、死んでも描きたくなかったゆえじゃないかと邪推しちゃうなー。まあ、私に言わせれば登山家なんてのは、国籍に関わらず「俺たちゃ町には住めないからに」という選民思想の持ち主であり、彼らの驕りに対しては「じゃあ、もう二度と山から下りてくんなよ!」という陰キャ的な反発をしか感じません(栗本薫からの悪い影響)。