この連休中でもっとも胸のすいたできごとと言えば、「超弦理論の台頭により、数十年を停滞する物理学」の実態について知ったことでしょう。アホの文系アタマにできる最大限の要約をすれば、原子以下のあまりに微細な事象を取り扱うために実地の検証がほぼ不可能であり、理論だけが先鋭化していって、現実に有効な予言が生まれないという批判です。予測されていた超対称性が粒子加速器の実験では確認できなかったのを、「単に精度の問題であり、ないはあるを否定しない」みたいな理屈でダチョウが砂地に首を埋めるようにふるまっているのが現状だとかなんだとか。高度に発達したケトゥ族の知的遊戯が、やがて数式による創世神話と化していき、いまや論理の正しさではなく多数決と政治力が研究予算に直結する世界になっていると聞きおよび、思わず頬がほころんでしまいました。なあんだ、やっぱり理系クンたちもそうなんじゃん。
本邦における超弦理論の研究者が、「理論をゼロから構築するのではなく、すでに存在する真理を発掘しているような手触り」と語っているのをどこかで読んだことがあり、用意された解答を探る快感に陶然となっているのが伝わってきて、まさに受験勉強を最大に延伸した究極の果てという印象を受けました。先日、国営放送で流された宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる騒動のドキュメンタリーも、正味の中身(踏韻)は「文系しぐさ」そのもので、「千人がひとつの物語を読むとき、そこには千通りの解釈がある。しかし、千人がひとつの公式を見るとき、そこにはひとつの意味しかない」との豪語は、いったい何だったのかという気にさせられます。同理論が高度な数学を用いながら、文学的世界解釈のファンタジーに過ぎないとするなら、日々をクソ文系仕事に従事する小人の溜飲も大いに下がろうというものです。
あと、連休中に快慶の仏像を見る機会があったんですけど、この仏師、グラップラー刃牙の強い影響下にありますねー(たぶん、逆)。
「数学に魅せられて、科学を見失う」読了。みずからを「何も生み出していない世代」と自虐する女性物理学者が、理論物理学の歴史を素人にもわかりやすく噛みくだいて俯瞰しながら、いかに自分がこの分野に失望しているかをグチグチグチグチ語ったり、各地の権威者を訪問してはネチネチネチネチとウザがらみしたり、端的に言って、ここ10年で読んだ中で最高のノンフィクションでした。サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」が大好きで、今でもときどき読み返すんですけど、本書は物理学にテーマを移したそのネガティブ版って感じですねー。まあ、あっちと違って証明も結論も無いので、尻切れトンボ感はすごいんですけどね!
しかしながら、「量子力学は醜く不快なもので、物理学者はみんな嫌っている」とか、自分が知らない専門分野に携わる人々の「感情」を読めるのは、本当にすばらしいことです。「1970年代から半世紀近く、私たちは何も発見しておらず、何ひとつ標準模型に付け加えられていない」という苦悩の独白には、本当にゾクゾクさせられます。そして、たぶん私は「文章の美しさに魅せられて、物語を見失った」人なので、筆者の感じていることはとてもよく理解できる気がするのです。文系人間なんて、自分の身体が物理(物理!)的に稼働する40年ほどをどうやり過ごすかくらいで日々を生きているのに、理系の選ばれた知的エリートにとって、自分が何の根拠もない研究分野に数十年を費やしたかもしれないことは、この上ない絶望なのでしょう。
あと本作には、女性だからこそ可能な男性社会への冷めた鳥瞰ーーマウンティングに知を使うか暴を使うかの違いーーという読み方もできるのではないでしょうか。それと、経済学者が使う数学を物理学者の視点からボロクソに言うのはフィジクス暗黒要塞(なんや、それ)って感じで、「争え…もっと争え…」と愉悦にひたりました。
迷いましたが、個人的な感情の忘備録としてシン・ウルトラマンの感想を残すことにします。同監督の作品で比較するならば、端的に表現すると「シン・エヴァンゲリオンほどつまらなくはないが、シン・ゴジラほど面白くはない」といったところです。ちなみに、私にとっての初代マンは「M78星雲の宇宙人?」「そうだ、ワッハッハッハ……」というやりとりから、テーマ曲のようなものが流れるレコード盤の記憶のみで、たぶん本編はほとんど見ていません。
本作の視聴中は、フィクションに触れたときに生じる心の熱量がほぼゼロで、プラスとマイナスが相殺しあった結果としてその地点に至ったのではなく、物語の開始から終盤まで感情の動きがほぼフラットだったという意味でのゼロでした。シン・ゴジラのときは、直近の作品(エヴァQ)がビックリするような駄作だったためか、期待値マイナスの状態からスタートしながらも、作品そのものの力強さに支えられて、マニア層から一般層へと燎原の火のように評価が広がっていくのを見ました。しかしながら、現段階で本作へと送られた賛辞は、特撮ファンおよびウルトラファンによる「自分たちにはすごく面白いので、一般層にも名作として受け入れられてほしい」という願望的なものが多く、今後シン・ゴジラと同じことが起きるような気はしていません。
アクションパートはエヴァのオマージュ元と聞いて期待していたカイジュウとの戦いが、エヴァほどの緊張感も迫力もなく拍子抜けで、ドラマパートもメフィラス星人のシーンだけが、役者の力によって劇空間としてかろうじて成立しているのみで、他はその水準に達しているようには感じられませんでした。早口の台詞も、言われるほど内容が難解なわけではなくて、書き言葉としてしか使わない漢語を多用するため、脳内変換に時間を食われて理解がいそがしいだけのことです。カトクタイの隊長とゾフィー?が、どっちも「残置」という希少度の高い単語を使っていたり、監督が単独で脚本を手がけるときに顕著な「すべての登場人物が同じ語彙プールから選択する」悪癖からは、本作もまた逃れられていません。
そして、シン・ゴジラではうまく作品テーマへと落としこめていた「宗主国と属国」「核使用の恐怖」というリフレインが、本作では完全に浮いてしまっています。この原因は、「体制への抵抗運動が頓挫した結果の左翼思想」が、監督にとって「昭和のフィクションで頻繁に提示されたカッコいい雰囲気の考え方」に過ぎないことが露呈したからでしょう。あれだけ政治家や官僚を登場させ、「官邸」というワードを連呼しながら、面白いことに作品のトーンはまったくのノンポリなのです。オリジナルがそれぞれ志向していた、「ゴジラ的なるもの」「ウルトラ的なるもの」という相容れない2つの要素を、「すべての映像を己のフィルモグラフィーとして統合したい」という欲求から、本作で無理やり1つに合流させた結果、水と油になってしまっているのを強く感じました。
余談ながら、セクハラ云々の指摘については昭和のオッサンなので、1ミリも気になりませんでした。この程度のことが気になってしょうがない「繊細な感覚」に、己をアップデートしたくはないものですね。
さて、ここまで指摘した内容は実のところ、個人的な最近の関心に比べては、些末事であるとさえ言えましょう。シン・ウルトラマンを視聴して私がもっとも気になったのは、理論物理学と素粒子物理学の停滞を打破するために捏造され続けたマセマティカル・フィクションが、皮肉にも半世紀にわたってサイエンス・フィクションへ元ネタを提供し続けてきたという共犯関係を、本作においては特撮作品の荒唐無稽な設定を無矛盾化するための方便として使っていることです。理系と文系の異なる分野において、不都合な断絶を乗り越えるために数学を用いたファブリケーション(作話)が行われているのは、非常に興味深いことです。
マーベル最新作の副題であり、本作でも連呼されるマルチバースやら11次元やらが、超弦理論の数学モデルを破綻させないためだけに導入された概念であることは、最近になって知りました。自然の中で観測されるいくつかの数値のうち、なぜ他の数値ではなくその数値なのかについて「ただ我々の世界ではそうなっている」という説明に満足できず、そこへ何らかの意味を見出そうとした結果、「同じ事象に異なる数値を持つ他の宇宙を仮構すると、数学的に派生を説明できるようになる」のが、多元宇宙を導入した最大の動機のようです。文系クソ人間にとって、数学という突き詰めればパターン認識に過ぎない学問ーー最高学府の学生が提供する、アホみたいな脳トレ問題ーーが最も洗練された知性とされるのには、ずっと納得がいきませんでした。数学や音楽の分野は、明示的に遺伝的影響が優位との調査を見たことがあり、特定の脳の器質がたどる発達の偏りがパターン認識に重要だとするならば、ダーレン・アロノフスキーの「パイ」に描かれた内容のアカデミア版が超弦理論の正味ではないかという気にさせられます。「パターンが整合することに意味があり、パターンが破れているのには理由がある」という思考で半世紀を追い求めた結果、いまや万単位の論文ごと研究分野そのものが完全に消滅する可能性に脅えているのを、観客席からビール片手に眺めるのは、文系人間にとってこの上ない愉悦と言えるでしょう。
いま流行りの「超弦しぐさ」は、検証不可能な高エネルギー領域(天の川銀河と同サイズの粒子加速器!)に「正解を隠すこと」だそうで、いやあ、センセたちの誠実な学問探求の姿勢にはドタマが下がりますわ! うち、アホやからようわからへんねんけど、それ、「1兆度の火球」となにがちがいますのん? あれやわ、これザビーネ・ホッセンフェルダー監修のシン・ウルトラマンやったら、ゼットンから発した1テラケルビンの高エネルギー下で超対称性を成立させる素粒子の不在が明らかとなり、超弦理論の予測した事象がその観測によってことごとく否定され、結果として余剰次元のプランクブレーンが科学者による虚妄であることが確定し、ゼットンをどこへも追放できないまま天の川銀河ごと地球が消滅して、ゾフィーが悲しそうに光の国へ飛び去るゆうエンディングになっとるで! せやけどな、こっちの展開のほうがよっぽど21世紀のフューチャー・サイエンスに忠実なんとちゃいまっか?
え、途中から超弦理論ディスに話がすりかわってる上に、期待してたシンエヴァへの言及もないですよ、だって? うーん、本作を通じて初代マンのストーリーを把握して思ったのは、これを換骨奪胎した旧エヴァのほうがずっと洗練されてたなってことと、ゼットンに相当するのがゼルエルだったんだなってことです。もし人的にも時間的にも余力があったなら、テレビ版の第弐拾話以降は新マンのオマージュみたいな展開になっていたのかもしれません。だとすれば、すでにネットでリークされている「シン・帰ってきたウルトラマン」が、私にとって次の主戦場になる予感がしております。
*参考記事
雑文「SSとIUT、そしてGBK(近況報告2022.5.8)」
雑文「数学に魅せられて、科学を見失う」感想
シン・ウルトラマン追記。全編にわたって感情がフラットだったと書きましたが、冒頭の30秒だけは大興奮でした。ウルトラQのオマージュだなんて知らない私は、シン・ゴジラのタイトルがシン・ウルトラマンへとモーフィング?した瞬間、「やった、ツソ・ウノレトラマソだ! 他社IPを私小説でメタメタ(メタフィクション×2)にする気だ!」と心の中で喝采をあげましたからね! まあ、そのあとはずっとフツウに最後までウルトラマンだったわけですが……。
本作とシンエヴァとの共通点を挙げるとすれば、どこか息苦しい閉塞感みたいなものがあることでしょうか。ずっと監督の自意識の内側にいる感じで、しかもその場所は閉所恐怖症を誘発するぐらい狭く、エヴァ破までは確かに存在した外界への解放的な「抜け感」が消えて、破綻が無いことへ偏執的にこだわって編まれた球体の内側にいる感じなのです。ただ、本作にシンエヴァのような不快感が無いのは、あっちは毛糸じゃなくて髪の毛で編んであったからでしょうねー。それも手触りに違和感を覚えて、よく顔を近づけてみたら人毛だったみたいな恐怖体験です。
シンエヴァとの比較で、エヴァ旧劇があんなにも心の深い部分に刺さったのは、「圧倒的に嘘をついていない」印象が貫かれていたからだと思うようになりました。「他人だからどうだってのよ!」から始まるシンジへ向けたミサトの語りかけに、「他人を傷つけたほうが、自分がより深く傷つく。だから、あなたは自分が嫌いなので、他人を傷つけようとする」みたいな理路の話があり、ほとんどイジメっ子かサイコパスみたいな理屈で、劇場ではじめてそれを聞いたときから二十数年が経った現在に至るまで、まったく意味がわかりません。けれど、物語内の状況と声優の鬼気迫る演技に気おされて、毎回なぜか泣いてしまうのです。これこそが語り手のその時点の本当にすべてで、「まったく偽りが混入していない愚かなほどの純粋さ」を正面からぶつけられて、すっかり感情をやられるからでしょう。シンエヴァはこの真逆になっていて、表面上は整合しているように見せかけているのに、すべて嘘と偽りから成り立っており、そのごまかしが深甚な怒りを誘発する源になっているのだと考えるようになりました。
さて、シン・ウルトラマンへ話を戻しますと、最近シティーハンターの実写版を見たんですよ(またも戻ってない)。特にアニメ版への愛にあふれた作品で、かなり楽しんで視聴したんですけど、これ、オリジナルを熟知している人物からの情報補完が前提のストーリー理解になっている気がしたんです。原作を知らない方が見れば、おそらく「Mr.ビーン・カンヌで大迷惑」をさらに支離滅裂にしたような中身にしか映らないことでしょう。あれから、シン・ウルトラマンの感想をいくつも読んで、私が見た物語は昔からのファンが読み解いた物語とは、まったくの別物だったんだと気づきました。例えば、「そんなに人間が好きになったのか」という台詞は、ウルトラマンが戦う動機を指摘しているはずなのに、本作がほぼ初見の私にとって、かなり唐突な内容であり、無辜の地球人を殺してしまったことへの贖罪が理由としか読み取れなかった。おそらくテレビシリーズを前提として、「人間を好きになる」過程を外部からの情報として補完するからこそ、響いてくる台詞なのでしょう。
「人の心がよくわからない」からこそオタクにならざるをえなかった私たちは、それゆえウルトラマンやヴァイオレット・エヴァーガーデンのような「人の心を必死に理解しようとする」キャラクターの造詣に、無条件で強く共鳴してしまう。この皮肉屋にしたところで、一般社会で日々の生活を送り、ときに文章で秘めた感情を表現しながらも、それらが擬似的な人間のエミュレーションに過ぎないのではないかと、いつも疑っている。「人の心がよくわからない」ことは、我々の実人生において、怒らせたり、恥をかいたり、惨めだったり、少なくとも積極的には思い出したくない過去であるはずなのに、それらを美しく気高い試みだったとして、彼らの物語は語りなおしてくれる。どれだけ「人のまねごと」をしようとつきまとう、ある種の人々が持つ「本質的な疎外感」に寄り添ってくれるキャラクターたちに、私たちはどうしようもなくひかれてしまうのかもしれない。
小鳥猊下がテキストを公開するときの心象キャラ(なんや、それ)のひとりに、「あした天気になあれ」のラスボスがいます。だれもが名を知る大傑作なのに「あしたのジョー」ほどは最後まで読み通した方は案外、少ないんじゃないでしょうか。最終戦の対戦相手であるジョン・ニクラウスとの延々と続くプレーオフは、「そろそろ終わらせなきゃいけないんだけど、もっとこの世界でこのキャラたちと遊んでいたいな……」という作者の気持ちがじんわりと伝わってきて、なんとも言えない温かい読み味だったのを思い出します。帝王の異名を持つこの人物、プレーが進むにつれて闘争心が剥きだしとなり、「ドウダァーッ!!」とか「カカッテキナサーイ!!」などと、向太陽をアオりまくるのですが、私がツイートしたり記事を上げたりするときの気持ちがまさにそれです。しかし、ほとんどの場合、観客席から「帝王V! 帝王V!」とは返ってこず、熱の無い拍手がまばらに響くばかりで、心の帝王は「ソッカー、アカンカッタカー」とトタン屋根のバラックにもどり、欠けた茶碗に一升瓶から注いだどぶろくをグイとやって、そのまま気絶するように眠ってしまうのが常なのです。
んで、何が言いたいかといえば、小鳥猊下のテキストはやおい女子と相性がいいのではないかということです(唐突な飛躍)。先日、私のnote記事を「スゴく良い感想文だった。」と引用したツイートを発見し、ひさしぶりに心の帝王が「ア、ヤッパリソウナノ?」とスゴく喜んで、当該記事を連続で5回ほど読み返したぐらいでした。私の文章が中期・栗本薫から甚大な影響を受けたがゆえに、魔的でエロティックなことは以前お話しましたが、語るべき物語が存在しないこと、そして何より、中期・栗本薫のやおい小説が、強烈な原型として心に焼きついてしまっていることで、次第に書けなくなったのも事実なのです。さらに告白すれば、まったく小説というものが読めなくなりました。中期・栗本薫のやおい作品に比べれば、現行するあらゆる小説は「あまりにも下手クソすぎる」からです。
だいぶそれた話を元へ戻せば、やおい小説の創生神に薫陶を受けた小鳥猊下のテキストは、その下流であるビー・エル含めて、やおい女子たち心の琴線をかきならすにちがいなく、この新たな客層にアピールできれば、nWo過去作の再発見からの捲土重来も夢ではないのではないかという野望を抱いた次第です。やおい女子たちはどんどん小鳥猊下をフォローし、積極的にその発言をリツイートしよう! あと、遺伝的類似を伴った存在を2つほど世間に放流し、そろそろ自分のことを新たに始める季節にさしかかったと感じつつも、やっちゃうよねー、ディアブロ2R(パッチ2.4で急浮上した召喚ドルイドーーめっちゃ弱いーーを育成しながら)。
シーズン5終了時
ベター・コール・ソウル、前作と同じくシーズン5が最終だと思ってて、「ハハッ、どうせキム死ぬんやろ?」くらいの感じで見てたら、すごいヒキから来年のシーズン6へ続くとなって、今は「うわー、キム殺さんとってー、おねがいー」みたいになってて、リアルタイムの重要性を再認識した次第である。このシリーズ、ブレイキング・バッドの前日譚で、スターウォーズの456に対する123、FF11の三国ミッションに対するアルタナミッションみたいに、本編のシナリオを補完しながら干渉していく仕掛けになっている。前者が本編の意味を完全に変じて一部のファンから大ブーイングを浴びたのに対して、後者はキャラクター造形を深ぼりし既存ストーリーの読解へさらなる深みを与えている。ベター・コール・ソウルはこれまでのところアルタナミッション的であり、最終シーズンでもこの方向性を堅持してくれることを願う。
シーズン6第7話視聴後
ベター・コール・ソウル、最終シーズンの7話を見終わった。これまた予想外のものすごいヒキに、思わず身を乗り出して大きな声を出してしまった。そして驚きから我に返って、この続きを見るのになんと一週間を待たなければならないことに気づいた。週刊少年ジャンプを毎週買っていた頃の感覚を思い出しながら、いまは名前を付けられない感情に身をもみしぼっておる次第である。本作はブレイキング・バッドの前日譚であり、ブレイキング・バッド本編に登場しない人物は、何らかの形でジミーの人生からいなくなったということが、あらかじめ視聴者にはわかっている。その「いなくなり方」をどう見せるかが本作のキモで、今回は6シーズン57話をかけて人間関係を丁寧に積み上げた末のまさかの展開で、制作者の感じているカタルシスーードヤ顔が目に浮かぶようだーーはいかばかりのものかと思う。リアルタイムでこれを体験できていることは、まさに僥倖という他はない。まったく先の見えない状況に置かれていることを嬉しく思うし、未見の君には昼夜を通じた前作からのマラソンでこの最先端へと追いつき、残すところ3話となった終わりゆく物語をともに伴走してくれることを願っている。
(満面の笑みで)よおし、話そ? ……え、8話の公開は7月なの!? オレはいま初めて、心の底からコロナウイルスのことを憎いと思ったぜ……!!
シーズン6第8話視聴後
ベター・コール・ソウル、シーズン6の8話を見る。これ、ドラクエ3で言うところのバラモス後のアレフガルドの話で、あの地には遺体が2つ眠っていることがわかりました。スター・ウォーズ3が4以降の解釈を永久に変えてしまったのと同じレベルで、本作はブレイキング・バッドを上書きしたのです。もう昨日までのようには、あのメス工場を見ることはできません。このエピソードが最終回でいいくらいの内容ですが、残り5話でキムの行く末はどう描かれることになるのでしょうか。
シーズン6第9話視聴後
ベター・コール・ソウルのシーズン6第9話を受けて、ブレイキング・バッドのシーズン4と5を見かえしている。やはりと言うべきか、初見のときに抱いていた印象が大きく変わると同時に、「あれだけの修羅場をくぐりぬけてきたヴィランたちが、こんなハゲの高校教師に皆殺しにされるんだ……」と少々せつない気分にさせられてしまった。それもこれも、ただの前日譚だったはずの本作が、各キャラの人生と生き様を深掘りする出色の仕上がりになっているせいだ。この9話では、スター・ウォーズで例えるならダース・ヴェイダーが手術台から起き上がるところまでが描かれ、時系列はソウルがウォルターと出会う直前まで一気に繰り上げられた。本作の目的が、単にブレイキング・バッドへ接続するだけでなく、ソウルにとってのエルカミーノを描くことによって、アルバカーキ・サーガとして全体を上書きしようとする試みであることが、いよいよ明らかになったと言える。
「ある人生の、どこを切り出してピリオドを打つかが、物語の性質を決める」とつねづね語ってきたが、自らの手で殺しすぎたウォルターのエンディングとして、ブレイキング・バッドは避けようもなくビターに閉じられた。その一方で、やり方こそ悪辣きわまるものの、自ら手を下したことのないジミーには、どんな結末が与えられるのだろうか。前作をも含めた物語のメッセージが、それによって永久に確定するのを、怖いような想いで待っている。「ネブラスカで再会したキムが、ブルーメス中毒になっている」というのが大方の予想だと思うし、「廃人となったキムの車椅子を押すジミー」などの場面が描かれて物語の幕が下りても、因果の応報として大いに納得するとは思う。けれど、14年にわたる悪徳と汚濁の果てに、最後の最後で「ほんの小さな、きれいなもの」を見せてくれるのではないかと、祈るような気持ちでいるのだ。
シーズン6第10話視聴前(BB感想)
ブレイキング・バッド、シーズン5の後半を見てる。全体として、良くも悪くも少年漫画誌の週刊連載を思わせる展開であり、「打ち切り回避」への力点を感じる瞬間も少なくない。一方、前日譚であるベター・コール・ソウルは、偉大な本編の存在により最後まで語り切ることをあらかじめ約束された作品で、ストーリー展開から伏線の張り方まで、想定する物語の総体を俯瞰的に眺めながら精緻に組まれている印象だ。このファイナル・シーズン、面白いことは間違いないが、ベター・コール・ソウルを経てしまったせいだろう、どうしてもガスがいないことに「丞相亡き後の世の混迷」を感じるし、王の不在を嘆くマイクの退場が決定的となって、どうにも見るべき所在を失わせてしまう。ウォルターが新たな麻薬帝国を築く展開は、コズミック・ジャスティスの観点から周到に退けられ、小悪党による小悪党との小競り合いで悪事の報いを描き、引いていくカメラが天井の梁を逆さ十字のように映して、この結末がキリスト教的断罪であることを強調しながら、物語は幕を閉じる。このバッド(アンド・スモール)エンドの先を、ベター・コール・ソウルの残り4話が「トゥルー・エンド」として描いてくれることを、切に願っている。いまから見ます。
シーズン6第10話視聴後
ベター・コール・ソウル、シーズン6の10話を見る。シーズン1から5の1話冒頭にモノクロで挿入されてきた「ネブラスカ編」の完結回となっており、内容を忘れている向きは5分×5シーズン分を見直してから視聴することを強くおススメする。残りの話数から逆算した視聴側の想像を軽快に裏切る小品で、翻弄される我々の反応はさぞや制作側を楽しませているのだろうと思う。小悪党が小商いをするうち、最も重大な己の秘密と悔恨を、最も軽薄に赤の他人へとさらけ出す羽目になる滑稽さ。それはすべて、彼の生きざまが招いたものであり、「おもしろうて、やがて悲しき」を地で行く顛末だった。次週のサブタイトル”Breaking Bad”がタイムラインをザワつかせているが、今週の”Nippy”を振り返れば単に慣用句として用いているに過ぎないのやもしれず、もう余計な考察からは離れて、赤子のようにヴィンス・ギリガンへ身を預けたい気分になっている。
シーズン6第11話視聴後
ベター・コール・ソウル、最終シーズン11話を見る。ブレイキング・バッドの第2シーズン8話”Better Call Saul”の裏側が過去のソウル視点から挿入されながら、現在のジーンが”Breaking Bad”、道を踏み外していく様が描かれる。前後編の前編といった描写で、まだ何か取りかえしのつかない事態が生じたわけではないのに、ウォルターとジェシーの掘った荒野の墓穴がベッドに横たわるジーンにオーバーラップしたり、ウォルターに関わらないよう忠告を受けたにも関わらず彼の勤務する高校を訪ねるシーンの後に、睡眠薬が切れる頃だから止めたほうがいいと言われたにも関わらず証拠を残す形での不法侵入を行ったり、すべての演出はソウルが破滅へと突き進んでいることを執拗に暗示する。生きてキムと再会するフラグは今回の冒頭で無惨にもへし折られてしまったし、これまで安しと侮ってきた老人が彼の犯罪を立証する存在になりそうだったり、ソウルにジミーとして幸せになってほしいという私のささやかな願いは、やはりかなわないかもしれません。
最終話のタイトル”Saul Gone”の意味するところは、「ソウルというペルソナを捨て、ジミーに戻る」か、「ジミーに戻れず、ソウルのまま死ぬ」のどちらかでしょうが、ここまでのところ後者の可能性が8割くらいの印象です。でも、シーズン6の予告を見返していたら、マイクに「いずれにせよ、お前の思うような展開にはならない」と言われてしまったので、残り2話を心静かに待ちたいと思います。でもでも、次週のタイトル”Waterworks”だけど、ついに殺人を犯してしまったジーンが、ウォルターよろしく遺体を薬品で溶かして、上水道に流す展開を予告しているんじゃないかなー。
シーズン6第12話視聴後
ベター・コール・ソウル、シーズン6の12話を見る。キムがソウルの事務所を訪れていたり、キムとジェシーが出会っていたり、前作ファンに向けたサービスを織りまぜながらも、物語はいよいよ「贖罪」の段階へと進んだようです。ブレイキング・バッドの世界って、ピカレスク・ロマンの見かけを装いながら、キリスト教的な因果応報が極めて純粋に適用される世界なのね。中でも殺人が最大級の罪で、これを犯した者は必ず自らの死によって報いを受けることになってるの。今回はジーンにその危機が2度あって、ひとつ目は不法侵入した家宅で犬の骨壺を使って、家主の後頭部を殴打しようとしたところ。途中まで、ブレイキング・バッドのシーズン2でウォルターがジェーンの窒息死をあえて見過ごしたシーンが再演され、その対応によって2人の根本的な性質についての違いを示すのではないかと予想してました。ふたつ目はジーンが電話線を両手に巻きつけて老婆に迫る場面で、いよいよ一線を越えるのかと顔をおおった指の隙間から見てたんだけど、最後の最後で善人のジミーが顔を出して、決定的な事態は回避されました。キムがハワードの奥さんに真実を告白したこともそうですけど、「罪と罰」の最後の最後で描かれたような魂の救済が、アルバカーキ・サーガのエンディングとして用意されている気がしてなりません。ともあれ、次週最終話、あとはもう、祈るだけです。
シリーズ最終話視聴後
「君は、その頃から何も変わらないんだな」。最後までゲームを楽しむ気でいたのに、キムの告白を知ったことで、彼は等身大の自分をついに受け入れる。ソウルでもなく、ジーンでもなく、ジミーでもなく、ジェームズとして。
最終話の3分の2ほどを過ぎても、ソウルはソウルであることを止められないままで、展開は少しも予定調和のコースに入ろうとせず、制作者が物語をどこへ落とそうとしているか見せなかったのには、ほとんど窒息死するかと思いました。ラストカットへ至るギリギリまで抑制した演出には、「ここまでついてきてくれたのなら、きっと伝わるだろう」という、作り手と受け手の間へ横たわる共犯関係にも似た、深い信頼を感じることができました。
もしかすると、本当の自分を受け入れ、罪を認めることで訪れる救済は、14年にわたる一大ピカレスク・ロマンの結論として、凡庸きわまるものなのかもしれません。けれど、ブレイキング・バッドからの14年を振りかえりながら反芻してゆくと、登場人物たちが持つ人格への敬意を失わないのならば、これ以外の選択肢はないことが痛いほどにわかるのです。
そして、モノトーンの世界で煙草の先端にゆらめくオレンジの火は、この汚濁と悪徳に満ちた物語で最後の最後に訪れた、「ほんの小さな、きれいなもの」でした。
ジェームス・マッギルについて
ベター・コール・ソウル、最終話追記。この観点で書かれた感想をほとんど見かけないので……。物語の終盤、裁判官にグッドマンさんと呼びかけられ、「マッギルです。ジェームズ・マッギルです」と応答する場面があります。ご存じの通り、ジミーというのはジェームズの愛称であり、目上の者から庇護する対象に向かって投げられる呼びかけです。ジミーとしての彼はずっと、「叱ってもらうために悪戯を続ける子ども」であり、父から、母から、兄のチャックから、そしてもしかするとキムから、「許してもらう」ために生きてきた。「許される」ことでしか、「愛されている」ことを実感できなかった。弁護士の道を選んだのも、外部に法という「許し」を仮構するためだったのかもしれません。しかし、自らをジェームズと呼んだとき、彼は法律や家族や恋人に「許し」を求めることを止め、自らのふるまいの責任を、自らの魂に照らして負うことに決めた。もっとベタな言い方をするならば、はじめて庇護される立ち場から離れ、本当の意味での「大人」になった。ソウル・グッドマンという名前は、他者からの揶揄を先回りして織り込んだ、石ころを黄金と呼ぶような一種の韜晦であり、心理的防壁でした。それを捨ててジェームズ・マッギルを名乗ることで、彼はついに「魂の善良な人間」という本質を手に入れることができたのです。
”And I’ll live with that”.
オークション入札について
暑さで気がくるって、ベター・コール・ソウルのオークションに1万ドルぐらいビットしている。おそらく終了間際10分の勝負になると思うが、何かひとつでも手に入れたい。フィクションにまつわるグッズについて、こんな気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。
質問:S1から見直してみると、確かになぜその選択肢を取ったか分からなかった所を許しを求めてると見ると腑に落ちる部分ありますね。デイビス&メイン事務所で許可を取らずに勝手にプロモーションビデオ作る所などはなるほどとなります
回答:ジミーの改悛については、それこそ人生の数ほど解釈があると思いますが、私にとって「許し」というのは有効な補助線でした。そんなことより、ベター・コール・ソウル最後のお祭に参加しようぜ! オレぁもう、1万ドルも溶かしちまったよ(まだ溶けてない)!
https://propstoreauction.com/auctions/info/id/342
オークション結果について
うん? ベター・コール・ソウルのオークションどうなりましたか、だって? イヤミか貴様ッッ!! いちばん欲しかったのは、キムと煙草を吸うラストシーンの囚人服だったんだけど、早々に5,000ドルを越えてきてて、最大の激戦区になることが予想されたため、あえて候補から外しました。最終的に、「ギリガン・グールド・オデンカークのサイン入り名刺」「ジーン収監時の囚人服」「チャック回想時のスーツ」「凶器になりそこねた犬の骨壷」の4アイテムにビッドをしぼったのです。オークション終了時刻が日本時間の深夜で、「社畜に徹夜は難しい」ため、だいたいの予想で順に3,500ドル、2,000ドル、2,500ドル、2,000ドルと、現状のラインから1,000ドルほど積み増しをして、就寝しました。
それでは、(突如、声を張って)結果はっぴょーう! 4アイテムの落札価格は……(ドラムロール)順に、5,500ドル、4,500ドル、5,500ドル、3,000ドル(涙目)! ちなみに、ビッドを見送ったラストシーンの囚人服は、9,000ドルと意外に伸びず、ここに1点集中しておけばと、いまは激しく後悔しております。落札価格を眺めていると800ドルくらいのものもあり、アイテム選択の段階で完全に戦略ミスをおかしていたわけです。今後は、イーベイで安価なベタコTシャツとかを落札して、この傷を癒すことにしたいと思います……失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した(以下、無限ループ)
そうそう、みなさんが話題にしている例のブログを読みました。独特な読点の使い方と言語センスに富んだ、じつに読ませる文章で、感情はもはや遠く断絶しているのに、才能はいまだ密接に継続しており、ある種、人生というものの不条理を感じました。二十年ほど前、親御さんのそこそこ熱心なファンであり、地方出身の美大生がギャンブルをネタに才能を開花させてゆくのを、まぶしく眺めていたものです。博報堂の社員をバンコクの通りになぞらえて、「パッポン堂」とあだ名をつけたのには死ぬほど笑いましたし、グルメ紹介の逆を行く、有名料理店を訪問してディスりまくるシリーズも大好きでした。ただ、ご結婚されて家族を漫画のネタにするようになってから、離れてしまった読者でもあります。
「別人格である子どもを、どこまで人生のオーナメントとしてネタにできるか?」というのは、昨今のSNSを見るにつけ、非常に考えさせられる問題です。たしか、女の子の育て方みたいな教育本も出されていて、こんな形で答え合わせをされて、これまでのすべてが別の視点から語りなおされてしまうのは、子育ての辛いところだなと少しだけ同情しました。そして、この同情も、もしかすると親御さんの後悔も、子どもの苦しみにはまったく関係が無いのです。長じた娘と母親の関係は究極のところ「親友か、女同士」でしかなく、ブログの端々に壊れてしまった娘との関係性を修復しようとする親御さんの姿が見え隠れして、苦しくなりました。「毒親に育てられた者が自分の思い通りになる存在を得たとき、そこに己の抱えている負の感情をぶつけずにいられるのか?」というのはnWoの追求していたテーマのひとつでもあり、この実現は「個人にできる最も偉大な達成である」とかつて書きましたが、今でもその気持ちはまったく変わらずあります。ただ、「子が親を許す必要はない」という持論が、元ファンとして少々ゆらいでしまったのは認めざるをえません。
今回の顛末をたどって、個人的には美味しんぼのある回を思い出しました。山岡士郎が結婚した後、子どもをどうするかという議論になって、「父親と母親の悪い関係を見続けてきた自分が、まともな親になれるはずがない」と吐露する場面があるんですね。それを聞いた子どものいない熟年夫婦が「私たちは望んだけれど子を授からなかった。負の連鎖は断ち切れる。そんな理由で子をもうけないのは、私たちには罪悪だと感じる」みたいな説得をしていて、かなり心に響いたのを思い出しました。美味しんぼは結局、子どもが自我を持つまでは描かれませんでしたが、ある段階までは本当にすごい漫画でした。彼女が救われるには、まだ十年、二十年という時間が必要だと思いますが、いつかそれがかなえられることを願っています。
「救われないこと」を、アイデンティティにしてはいけないよ。
質問:お久しぶりです。ウルトラマン観てきました。(略)残念な感じでした…。ちょっと誰かわかる人に聞いてほしくてDMしてしまいました…子供向けコンテンツを「大人でも楽しめる」って言って提供する仕草本当に嫌いで、隣の席に座っていた多分ウルトラマン好きの子供が、微妙な顔をして最後劇場から出て行ったのが印象的でした
回答:原典の信奉者ほど内容に納得できないのが、直近の「シン・シリーズ」2作だったかと思います。初代マンの熱烈なファンほど、廃れたIPの復活を願うからこそ、盛り上がりに少しでも水をかけないように、太ももへアイスピックを突き立てるようにしながら不満を圧し殺して、「1兆点」みたいなツイートをしぼりだしている感じは伝わってきました。そして、話題作に乗っかって感想をバズらせたい非ファン層(オマエが言うな)がコア層のそういったふるまいに「褒めてよし」の許可を得たとカン違いして、とたんにペロペロと好意的にしゃべりだす感じ。最近のネットは特にこの傾向が強く、たとえば私はヨネヅ某の主題歌にまったく感心しなかったのですが、「古参の俺よりウルトラマンを理解している歌詞に嫉妬」みたいなひとつのツイートから伝播して、視聴した者たちの総体が歌の激賞へと雪崩れていく様子も、なんだか薄気味悪かったです。エンディングは「赤背景の黒シルエットでオリジナル主題歌」の方が、はるかに印象的な余韻となったことでしょう(この点は樋口監督によるマーケティング優先のジャッジだったと思ってます)。
シンエヴァでも感じたことですが、ヒーロー物に重要な「後から来るだれかに預けるための未来を守る」という視点にとぼしく、それはやはり本作にも雰囲気として引き継がれています。「人間を好きになる」過程についてベタでも構わないので、それこそ「寿命に由来する大人から子どもへの継承」を不老不死の者から驚きをもって眺めるような挿話があれば、ゾフィーの台詞もちゃんと響いたと思うんですよね(もしくは冒頭付近の自己犠牲をもっと詳しく、異星人に理解不能な「聖なるもの」として描写するか)。庵野監督は人間のドラマに興味がなくーーないというより、「わからない」が正確な気もしますーー、政治的にも哲学的にも思想性は絶無であり、造形の表象とカメラアングルにのみ作家性を有する極めて特異な人物です。シン・ウルトラマンでは、まさにこの特性の悪い部分がすべて出ていたように感じました。
こういった特質を理解して撮影する作品や題材をコントロールできる、ジブリの鈴木某のような敏腕プロデューサーがいないことは彼自身にとっても、彼がシンの名でマーキングしにかかっている作品群のファンにとっても、大変に不幸なことだと言えるでしょう。この裏には、もしかするとエヴァQの制作で大好きなヤマトのリブートに関われなかったショックがあり、その恨みが庵野監督の現在の行動を規定している気がするのです。「自分だったら、ヤマトのオープニングは1カットも変更しない。オリジナルのタイミングを完全にコピーする」との発言からもわかるように、原典が持つ「テーマ以外」への偏愛が強すぎるため、過去作を現代にリブートすることの意義、つまりテーマやメッセージを更新することへの意志が希薄なことこそが問題の本質なのでしょう。シンが新、Qが旧の言葉遊びだとするなら、本作のタイトルは「Q・ウルトラマン」こそがふさわしいと感じました。すなわち、大人の、大人による、大人のための、退行したウルトラマンです。
ノーマーク爆牌党、紙の本も持ってるんですけど、密林焚書で全巻をあらためて購入しました。まず5巻から最終巻までを読み直して、やはり他の漫画では味わえない面白さであることを再確認できました。むこうぶちが「麻雀という賭博をめぐる人間ドラマ」とするなら、ノーマーク爆牌党は「麻雀というゲームをめぐる競技ミステリー」とでも言えるでしょうか。前者が麻雀を知らなくても人間ドラマのみで楽しめるのに対して、後者は少なくとも「麻雀のルールを知っている」、願わくば「麻雀を狂ったように打っていた時期がある」ことが、ストーリーを楽しむための最低条件となっており、少々ハードルは高めです。本作の後半においては、主人公が前半と別の人物にスイッチされて、メジャー大会を9連覇する天才をいかに打倒するかが描かれていくのですが、麻雀における「不敗性」って、もし充分な説得力を持たせられれば、最高の面白さへと昇華するネタなんですよねー。
将棋やチェスなら、プロが「ルールを知ってるだけの素人」に負けることは、まずもって120%ありえません。そのありえないことが、麻雀ではまま起こりうるからです。しかし、この事実をもってして、ゲームとしての完成度の低さを指摘するのは、間違っています。麻雀というゲームの本質は、「運のパラメータの可視化」にこそあると言えるでしょう。日々「ただ死なない」という事実にさえ薄く消費されていく個人の持ち運の総体を、暗闇でフラッシュを焚くように、一瞬だけ目に見えるものにしてくれる装置なのです。個人的なことを言えば、何か大きな決断を伴う行動があるときなど、ネット麻雀の東風戦を1回だけ打ち、その時点の運の状態を確かめて、指針にすることがあります。オカルトめいた話に聞こえるでしょうが、存外これが馬鹿にならない精度で結果に影響するのです。
ノーマーク爆牌党に話を戻しますと、なんど手に取ったかわからない最終巻を再び通読して、「人智のみでゲームを支配してきた者が、ゲームの本質を理解した者に敗れる」という展開ーー流れはキミに47ピンをつかませるーーに、かつては気づかなかった深い人生訓を感じました。そして、その余韻を駆って1巻を読みだしたところ、麻雀をディスる残念な容姿に描かれたワンレン・ボディコン女性の顔面を、走ってきた主人公が勢いよくグーで殴るーー殴られた女性は道路を転がっていき、街路樹に激突するーーという見開きのシーンから始まっており、「いやー、忘れてたけど、カタチン作品はこれがあるからなー、一見さんにはハードル高いよなー」と思わずひとりこぼしてしまいました。ちなみに、2話の冒頭はゲーセンでの脱衣麻雀から始まることをお伝えしておきます。いや、本当に面白い作品なんですよ?
トップガン・マーヴェリック見てきた。前作の高解像度リマスター版かと錯覚するような完コピのオープニングから例のテーマソングが流れたかと思うと、そこからは脳に電極が刺さって逐次思考が読み取られているのかと深刻に疑うほどに、こちらが「こうなってほしい」と想像する通りの展開が、こちらの想像をはるかに超える映像で次から次へと描かれていく。前作の無印トップガンは1980年代後半、当時の中高生男子全員が低い鼻にあのサングラスをかけ、サモハン・キンポーの体型をあの皮ジャンで包み、ウォークマンでデンジャー・ゾーンを聴きながらママチャリで無目的に近所を爆走し、学校では若い女教師にイキッて声をかけるみたいな流行り方をしていたのに、映画の内容自体はなんだかボンヤリとしたものなんですよ。海軍士官学校の勧誘ビデオみたいな前半と、「さぶ」い長回しのビーチバレーから脈絡なく相棒が死んで、そのトラウマの克服とロシア戦闘機の撃墜が重なり、みんなで甲板で騒いでたらエンドロールが流れ出して、「えっ、これで終わり?」みたいな芒洋さです。
本作はその、大流行したわりに映画として完成度が高かったわけでもない前作を、30年以上が経過してから裏地を補強しつつ完璧に語り直して、さも元から名作だったかのような場所へとアウフヘーベンしてみせたのです。その見事な手腕には、もはやブラヴォの拍手しかありません。リアリティラインの扱いに怯えきった、昨今の神経症的な作品群とは異なり、少々の破綻は豪放に気にせず、観客が見たがっているものを前世紀かつ全盛期のハリウッド映画レシピで磊落に再現したのが、本作だと言えるでしょう。原子力プラント破壊のミッションはデス・スターの攻略シークエンスーー3メートルの標的にミサイルを放りこむとか、直前で機械による誘導が効かなくなって手動で命中させるとかーーをなぞっているし、敵地を脱出したところで最新鋭戦闘機がヌッと背後に現れたのには、レイダースの終盤で潜水艦が浮上する場面ーー当時のストーリーテリングにおける最先端でしたーーを彷彿とさせられました。
そして、この映画は自信と才能にあふれた熱い「男」と「女」たちの物語であり、LGBTQやナードどもに弱々しく媚びへつらった揉み手が微塵も存在せず、世界が今よりもずっと単純だったあの頃の空気をビンビンに伝えてくるのです。ただ、旧世代の人間と旧世代の戦闘機がギリギリ達成できるよう絶妙に調整された敵国ーーパイロットにフルフェイスをかぶせてまで、どこの国なのなは徹底的に伏せられるーーとミッションであることを頭の片隅には感じているし、キャリアの後半戦に差しかかり、若い世代の台頭と己のスペック不足を実感しながらも、経験だけは売るほどある40代後半以降のロートルだけをまさにピンポイントで慰撫する、中高年向けの泣かせ映画なのではないかという不安もある。さらに、eスポーツの大会で米国海軍にスカウトされて、プレステ5のコントローラとUIでステルス機やドローンを操作し、エンダーのゲームが如くリモートで他国民を殺戮しまくっている10代、20代の兵士にとっては、本作はもはや噴飯もののファンタジーなのかもしれないとも思う。
でも最後には、そんな小賢しい先回りの心配は「疾走する映画バカ」ことトム・クルーズの発する熱気とエネルギーを前にふきとんで、「次世代のために、己の手の届く範囲でいいから、世界をより良い場所へ変えていこう」と思わされ、小さな不整合を気にしない前向きなバカを伝染させられてしまうのです。はやばやと老けこんで達観してみせて、60歳のバカができるバカを、より若くてより頭の悪いおまえにできないわけがないだろう、ええ? ドント・シンク、ジャスト・ドゥ! 後詰めで1%に満たない失敗の可能性を100通り考える参謀よりも、無策の空手のまま最前線に現れて兵士たちを存在で鼓舞するリーダーたれ!
あと映画が始まる直前、字幕翻訳にナツコ・トダの名前を発見したときは、「現時刻をもって字幕はすべて破棄、以後はリスニングのみを理解のよすがとする。これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない……」と別の意味でゾクゾクするようなスペクタキュラーを感じました。まさに、トップガン・マーヴェリック視聴の「棺桶ポイント」(なんじゃ、そりゃ)だったと言えましょう。